◎北一輝は「決起」には全く関係がなかった(石橋恒喜)
『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)から、石橋恒喜執筆「二・二六事件秘話」を紹介している。本日は、その三回目。
暴発決定は十八日夜
このような混乱のうちにあって、それでも「暴発阻止」の珍案、名案か関係者によって次から次へとすすめられていた。エチオピア救援義勇軍派遣計画もその中の一つであったが実現しなかった。
反乱軍が暴発の決意を固めたのは大体昭和十一年〔一九三六〕二月十八日の夜であった。この夜駒場の栗原安秀宅に集まったのは村中、磯部、河野〔寿〕、安藤等で、同夜大体の骨組みをきめたうえさらに同二十二日と二十四日の夜、歩兵一連隊や洋食店竜土軒で会合、最後の部署担当を決めている。そしてこの「決起」には純粋無雑という見地からいっさい外部の参与を排撃して、同志の青年将校、下士官、兵だけで「革新」の捨て石となることを誓っている。そのため決起の本筋については先輩の山口一太郎や理論指導者だった西田税にも打ちあけてはいない。いわんや北一輝にいたっては全く関係がなかったといってもよく、反軍将校の大部分は一面識もなかったのが事実である。だが北は単に一部将校のバイブル「日本改造法案」の著者として、西田はその宣伝普及にあたった職業革命ブローカーだったがために死刑となった。「死刑」にしたわけはなにも彼ら二人が首謀者でも指導者でもあったためではない。要は「統制派陸軍」が二・二六の暴発をもって一種の「赤色革命」のあらわれであるかのように国民に宣伝するため、その犠牲とされたのが真相だ。「右翼の仮面をかぶった共産主義者北一輝と西田税」という陸軍当局の発表は、是が非でも両名を「首謀者」に押したてて銃殺せんがための陰謀であったにすぎない。事実、暴発の前夜 (二月二十五日)西田とわたくしとが亀川哲也の宅で会ったときにも「若い連中はいくらわしがとめてもいうことをきかない。もうこうなったら、やらせる以外に処置なしですわ」と苦しい胸のうち を、豪快に笑いにまぎらしていたほどである。【以下、次回】
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