礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

百万部の返品で破綻したアカギ叢書

2014-05-15 04:34:19 | 日記

◎百万部の返品で破綻したアカギ叢書

 昨年の一〇月、このコラムで、赤城書店の「アカギ叢書」(一九〇四~一九〇五)について書いたことがあった。その後、小川菊松の『出版興亡五十年史』(誠文堂新光社、一九五三)を読み直していたところ、「アカギ叢書」について触れているところがあった。それによれば、「アカギ叢書」が短命に終わったのは、返品が殺到したためであるという。この点は、補足しておかねばならない。

 大正の初頭に、赤城書店から「アカギ叢書」を発行した。前記の「名著文庫」〔冨山房「袖珍名著文庫」〕と同型で、紙数も百頁内外、粗末な紙表紙で定価は一部十銭だつたから「十銭文庫」といわれていた。編纂者は人情本研究で有名な村上静人氏であつたが、内容には翻訳ものも沢山あつた。これは十銭本というので大した評判となり、矢継早に百巻以上も出川版したが、やゝ飽和気味となつて落潮に向うや、小売店から一挙に百万部近い返品がきて、業態悪化し、折角の繁栄も一炊の夢と化して再起不能となり、つゞいて赤城〔正蔵〕君も早逝したのは気の毒である。
 それにしても、百万部近い返品がナゼ来たのか。これが文庫本発行者の研究すべき問題であろう。つまりそれは、定価が僅か十銭で、本の嵩〈カサ〉も小さい。二、三十冊位は掌中に一つかみで、しかも後から後からと盛んに出版され、活溌に売れもするので、店先の邪魔にならぬだけに、いつの間にか小売店も知らず知らずの中〈ウチ〉に大量に仕入れてしまう。早くいえば、アカギ叢書は実需以上に全国の小売店を華客として大量生産をしたようなものである。【以下は、次回】

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『急流の如く―岩波新書の三十年―』における見解

2014-05-14 05:40:21 | 日記

◎『急流の如く―岩波新書の三十年―』における見解

 昨日のコラム「岩波茂雄は、なぜ編集部に相談しなかったのか」で、岩波茂雄が、戦前の岩波新書(旧赤版)に付されていた刊行の辞「岩波新書を刊行するに際して」(一九三八年一〇月)を草するにあたって、なぜ、編集部に相談しなかったのかについて、考えるところを述べてみた。
 もちろん、そこで述べたことは勝手な臆測なのであって、岩波書店の見解とはたぶん異なるものだろう。では、このことに関する岩波書店の公式見解というものがあるのか。「公式見解」というわけではないのだろうが、それに近いのではないかと思われる解説を、『急流の如く―岩波新書の三十年―』(一九六七、岩波書店、非売品)で読むことができる。
 この冊子は、『激動の中で―岩波新書の25年―』の四年後に出たものである。署名はないが、たぶん筆者は、吉野源三郎であろう。
 この冊子では、「岩波新書を刊行するに際して」の全文が引用され、そのあと、この宣言についての解説がある。その解説の部分を引用してみよう。

 この刊行の辞は、或は今の若い人々には、何故岩波〔茂雄〕がこのように力んでいるか、理解しがたいものがあるかもしれない。一九四五年以前には、日本には、出版法というものがあって、すべての出版物は内務省警保局で、厳重な検閲がされていた。平和な時代がなくなってからは、検閲は一層きびしくなり、「反国家的」という名のもとに、批判的な言論はすべて弾圧されていた。ことに日中事変がおきてからは、内務省だけでなく、陸海軍の情報部が検閲をはじめた。
 これはもちろん法律にない行為であったが、その方が暴力的に言論を弾圧したのであった。右翼の勢力、それに巣くっている学者が虎の威を借りて、理由にならないような論理をふり廻していたのである。そういう時勢に「岩波新書」が発刊され、その刊行の辞を岩波茂雄が書いたことを考えてもらえば、少々むずかしい文章ではあるが、読むことを読者もいとわないであろう。私たちはこの文章は歴史的な意味のあるものだと考えている。
「天地の義を輔相し」という句は、易経の泰卦の中にあるものだ。補相はたすけ匡す〈タダス〉という意味をもっている。岩波は多分この言葉を幸田露伴から聞いていたのであろう。今度刊行の辞を書くときに、もう一度たしかめるために、編集部の者を露伴のところへやった。また、つぎに続く「王道楽土」という言葉は満洲国を作って以来、日本の支配者たちが使った言葉である。はじめ岩波は「現下の政党は健在でない」「官僚は独善である」「財界は奉公の精神に欠けている」「武人に高邁なる卓見と一糸乱れざる統制がない」というように、断定的に書いた。社の者には見せなかったが、二、三の友人にはこの草稿を見せたという。そしてその友人の一人が、ここに示すように「……なりや」というように疑問形にするように注意したということである。五ケ条の御誓文を引用したのも岩波がこれを大変尊重していると同時に、ここではやはり防禦のためであったと思う。
 日附を靖国神社大祭の日、と書いたのも、逆手をとるような意味があったのだ。

 これを読むと、岩波茂雄が時局迎合的な言葉を使ったことについての岩波書店関係者の見解が、防御説、逆手説であることがわかる。しかし、この解説は、なぜ岩波茂雄が、編集部に相談せず、ひとりで「刊行の辞」を書いたのかという疑問を解消してくれるものではない。昨日の臆測は、一応、そのままにしておくことにする。
 ところで、この「刊行の辞」の原文二行目に、「白人の跳梁に委す」という言葉が出てくる。この「委す」の読みは難しい。最初、「まかす」と読むのかと思っていたが、『急流の如く』が引いているものには、ルビがあって、「たくす」と読ませている。委託という言葉があるので、「委す」を「たくす」と読む場合もあるのかと思ったが、やはり納得できない。悩んだ末、これは、「いす」と読むのではないかという結論に達し、今月一二日のコラムにおける引用では、〈イス〉としておいた。

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岩波茂雄は、なぜ編集部に相談しなかったのか

2014-05-13 07:05:37 | 日記

◎岩波茂雄は、なぜ編集部に相談しなかったのか

 昨日のコラムで、戦前の岩波新書(旧赤版)に付されていた刊行の辞「岩波新書を刊行するに際して」(一九三八年一〇月)を紹介した。
 吉野源三郎の回想するところによれば、これは、店主の岩波茂雄が、「ひそかに独りで執筆」したもので、「全く編集部の目を通さず印刷に回した」ものだったという(「赤版時代―編集者の思い出―」一九六三、一昨日のコラム参照)。
 吉野ら編集部員の感想は、「この宣言には少々困りました」というものだったという。なぜ困ったのか。吉野の回想文を読むと、その困った理由は、宣言のなかに、「現下政党は健在なりや、官僚は独善の傾きなきか、財界は奉公の精神に欠くるところなきか、また頼みとする武人に高邁なる卓見と一糸乱れざる統制ありや」など、右翼を刺激する言葉が含まれていることにあったかのようである。しかし、実際はどうだったのか。
 一方で吉野は、「私たちとしては、威勢のいい宣言などは避けて、内容において必要なことをやろうと考えていました」とも述べている。つまり、吉野ら編集部員の間には、時局的発言そのものを避けようとしていたことがわかる。
 ここからは臆測がはいるが、この吉野が「威勢のいい」という言葉で表現しているのは、同宣言のうち、右翼を刺激しそうな部分を指すのではなく、むしろ、冒頭の時局迎合的な発言、「天地の義を輔相して人類に平和を与へ王道楽土を建設することは東洋精神の真髄にして、東亜民族の指導者を以て任ずる日本に課せられたる世界的義務である」などを指しているのではないか。おそらく岩波茂雄は、宣言が、こうした時局迎合的な言葉ではじまっている以上、「なまじ編集部の意見を徴したら」、宣言の表現がチェックされるばかりでなく、宣言そのものの撤回を求められる可能性があると考えたのであろう。だからこそ、「ひそかに独りで執筆」し、「全く編集部の目を通さず印刷に回した」のではなかったのか。【この話、続く】

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岩波新書を刊行するに際して(1938)

2014-05-12 06:11:37 | 日記

◎岩波新書を刊行するに際して(1938)

 戦前の岩波新書(旧赤版)に付されていた刊行の辞「岩波新書を刊行するに際して」(一九三八年一〇月)を紹介する。これは、岩波新書43、小泉丹〈マコト〉『野口英世』の初版(一九三九年七月)の巻末(奥付の裏)に載っていたものである。

 岩波新書を刊行するに際して   岩波茂雄
 天地の義を輔相〈ホショウ〉して人類に平和を与へ王道楽土を建設することは東洋精神の真髄にして、東亜民族の指導者を以て任ずる日本に課せられたる世界的義務である。日支事変の目標も亦茲に〈マタ・ココニ〉あらねばならぬ。世界は白人の跳梁に委す〈イス〉べく神によつて造られたるにあらざると共に、日本の行動も亦飽くまで公明正大、東洋道義の精神に則らざるべからず。東洋の君子国は白人に道義の尊き〈タットキ〉を誨ふ〈オシウ〉べきで、断じて彼等が世界を蹂躙せし暴虐なる跡を学ぶべきでない。
 今や世界混乱、列強競争の中に立つて日本国民は果して此の大任を完う〈マットウ〉する用意ありや。吾人は社会の実情を審か〈ツマビラカ〉にせざるも現下政党は健在なりや、官僚は独善の傾きなきか、財界は奉公の精神に欠くるところなきか、また頼みとする武人に高邁なる卓見と一糸乱れざる統制ありや。思想に生きて社会の先覚たるべき学徒が真理を慕うこと果して鹿の渓水を慕うが如きものありや。吾人は非常時における挙国一致国民総動員の現状に少からぬ不安を抱く者である。
 明治維新五ケ条の御誓文は啻に〈タダニ〉開国の指標たるに止らず、興隆日本の国是〈コクゼ〉として永遠に輝く理念である。之を遵奉〈ジュンポウ〉してこそ国体の明徴も八紘一宇の理想も完きを得るのである。然るに現今の情勢は如何〈イカン〉。批判的精神と良心的行動に乏しく、やゝともすれば世に阿り〈オモネリ〉権勢に媚びる〈コビル〉風なきか。偏狭なる思想を以て進歩的なる忠誠の士を排し、国策の線に沿はざるとなして言論の統制に民意の暢達〈チョウタツ〉を妨ぐる嫌ひなきか。これ実に我国文化の昂揚に徴力を尽さんとする吾人の窃に〈ヒソカニ〉憂ふる所である。吾人は欧米功利の風潮を排して東洋道義の精神を高調する点に於て決して人後に落つる者でないが、驕慢〈キョウマン〉なる態度を以て徒らに欧米の文物を排撃して忠君愛国となす者の如き徒に与する〈クミスル〉ことは出来ない。近代文化の欧米に学ぶべきものは寸尺と雖も謙虚なる態度を以て之を学び、皇国の発展に資する心こそ大和魂の本質であり、日本精神の骨髄であると信ずる者である。
 吾人は明治に生れ、明治に育ち来れる者である。今、空前の事変に際会し、世の風潮を顧み、新たに明治時代を追慕し、維新の志士の風格を回想するの情切なるものがある。皇軍が今日威武を四海に輝かすことかくの如くなるを見るにつけても、武力日本と相並んで文化日本を世界に躍進せしむべく努力せねばならぬことを痛感する。これ文化に関与する者の銃後の責務であり、戦線に身命を曝す〈サラス〉精兵の志に報ゆる所以でもある。吾人市井の一町人に過ぎずと雖も、文化建設の一兵卒として涓滴〈ケンテキ〉の誠を致して君恩の万一〈マンイツ〉に報いんことを念願とする。
 曩に〈サキニ〉学術振興のため岩波講座岩波全書を企図したるが、今茲に現代人の現代的教養を目的として岩波新書を刊行せんとする。これ一に〈イツニ〉御誓文の遺訓を体して、島国的根性より我が同胞を解放し、優秀なる我が民族性にあらゆる発展の機会を与へ、躍進日本の要求する新知識を提供し、岩波文庫の古典的知識と相侯つて〈アイマッテ〉大国民としての教養に遺憾なきを期せんとするに外ならない。古今を貫く原理と東西に通ずる道念によつてのみ東洋民族の先覚者としての大使命は果されるであらう。岩波新書を刊行するに際し茲に所懐の一端を述ぶ。  昭和十三年十月靖国神社大祭の日

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岩波新書旧赤版「刊行の辞」について

2014-05-11 09:18:28 | 日記

◎岩波新書旧赤版「刊行の辞」について

 今月一日のコラムで、「岩波新書の再出発に際して」(一九四九年三月)という文章を紹介した。そのあとついでに、岩波新書旧赤版に付されていた刊行の辞「岩波新書を刊行するに際して」(一九三八年一〇月)を紹介してもよかったのだが、ペンディングにした。というのは、旧赤版に、「刊行の辞」が載ることになったいきさつを書いた文章を読んだ記憶があるものの、それが、どこに載っていたか思い出せなかったからである。
 たまたま昨日、『激動の中で―岩波新書の25年―』(一九六三、岩波書店、非売品)という冊子を手にして、前に読んだのは、この冊子に収録されている「赤版時代―編集者の思い出―」(吉野源三郎執筆)という文章であったことを思い出した。
 少し、引いてみよう。

 初めのころの旧赤版をおもちの方は、たぶん記憶しておられると思いますが、当時の新書の終りに岩波茂雄の署名入りの刊行の辞がついています。その中で岩波は、「吾人は社会の実情を審か〈ツマビラカ〉にせざるも現下政党は健在なりや、官僚は独善の傾きなきか、財界は奉公の精神に欠くるところなきか、また頼みとする武人に高邁なる卓見と一糸乱れざる統制ありや。思想に生きて社会の先覚たるべき学徒が真理を慕うこと果して鹿の渓水を慕うが如きものありや。吾人は非常時における挙国一致国民総動員の現状に少からぬ不安を抱く者である」と言っています。私たちの新しい双書の提案に対して、「よし、やろう」と決断した岩波の心事が、この慨世の言葉によく窺われます。岩波は自分の書いたものを発表する場合には、ほとんど例外なしに、予め誰かに読んでもらってその意見を聞く習いでしたが、このときばかりは、ひそかに独りで執筆し、親しい友人の助言を乞うただけで、全く編集部の目を通さず印刷に回したのでした。なまじ編集部の意見を徴したら、もう少し筆をやわらげろといわれるにきまっているし、この際これだけのことはなんとしてもいっておきたい、と岩波は考えたのだろうと思います。私たちとしては、威勢のいい宣言などは避けて、内容において必要なことをやろうと考えていましたから、この宣言には少々困りましたが、しかし、あの狂暴な言論弾圧の嵐の中で、その激しい風当りを恐れずにこれだけの発言をしたことは、出版者として並々ならぬ勇気と見識がなくてはできることではありません。そして、岩波茂雄にこの勇気と識見とがなかったら、私たちの構想も単なる青写真で終って、岩波新書というものも生まれずにしまったに違いないのです。この岩波茂雄の刊行の辞は、発刊後すぐ右翼の着目するところとなって、彼らの機関紙には激しい攻撃がしきりに掲載されました。

 次回は、「岩波新書を刊行するに際して」の全文を紹介したい。

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