礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

敗戦の前年に出た前田勇の『児戯叢考』

2014-05-10 04:33:17 | 日記

◎敗戦の前年に出た前田勇の『児戯叢考』

 前田勇の『児戯叢考』は、敗戦の前年に出ている。正確に言えば、一九四四年(昭和一九)五月一五日に発行されている。戦中に、こうした研究の出版が実現したのは、ある意味では奇跡的なことであろう。
 参考のため、本日は、同書の「序」を紹介しておくことにしたい。

  
 児戯といふ語は、普通、価値なきしわざの意に用ひられてゐる。ところが安ぞ〈イズクンゾ〉知らん児戯こそ全く伝統そのものであつた。山東京伝は骨董集の中で繰返し繰返しはかなき児戯の思ひもよらず源遠きに驚いてゐる。しかし私の驚きが、どうしてそれに劣らう。私は、実際、かつば驚きかつは呆れつゝ夢中でこれを書上げた。これに研究などと銘打つのは、大それたことであるかも知れない。しかし他日私がこれを研究にまで高め得たとしても、恐らく私はたゞこの驚異を深めるだけであらう。これは一知半解の書であるかも知れない。しかも仮令〈タトイ〉私が洽聞〈コウブン〉強記、博引旁証にこれ努め得たとしても、この詠歎はますます深まつて行くだけであらう。
 埒〈ラチ〉もなきしわざのかへ名に呼ばれつゝ、此の世に誰か一人でも児戯に慰められず、児戯に育てられなかつた者があらうか。しかも自分を育てゝ呉れ慰めて呉れたその児戯は、自分の父母をも、父母の父母をも、何代か前の幾世か昔の父母をも慰め育てたものではなかつたか。この児戯一つに同胞の、祖先の、血が貫流してゐる。古い書物の序文などには、よく、おのれひとりの心遣りぐさなれば他人に見すべきものでないとか、かいやり〔払いのけ〕捨つべきものであるとか書いてある。私もおのれひとりの心遣りぐさで書いたのである。しかし私にはかいやり捨つべき気持はない。もつともつとしらべて見たいと思ふばかりである。もつともつとしらべて、この胸一つに包み切れない驚異と詠歎をうたひ上げ、価値なきしわざどころか児戯こそ価値そのものなる事を、人々に訴へたいと思ふばかりである。
 これを世に出すのは聊か〈イササカ〉時機尚早の感がある。もつと綿密に手文庫の書抜き照らし合はせて見たい。しかしさうして見たとて、白いを黒いと書改めねばならぬ程の資料も出て来さうにはない。この辺で博雅の叱正を乞ふのも私としてはよい勉強である。
 時局艱難の折柄、かうした貧しい著作の出版を言下にひきうけて下さつた湯川弘文社主湯川松次郎氏の御厚意に、感謝し切れないものを感ずる。
昭和十九年新春大詔奉戴日  前田 勇

 出色の名文だと思う。また、この文章には、ほとんど戦時色というものがない。あえて挙げれば、「時局艱難の折柄」と「大詔奉戴日」〈タイショウホウタイビ〉の二箇所か。なお当時、「大詔奉戴日」という行事が、毎月八日に設定されていた。したがって、この「序」が草されたのは、昭和一九年一月八日である。

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前田勇、『蜻蛉日記』の歌について自説を披露

2014-05-09 16:01:34 | 日記

◎前田勇、『蜻蛉日記』の歌について自説を披露

 昨日の続きである。前田勇『児戯叢考』(湯川弘文社、一九四四)の「禽虫篇」の冒頭の「蛙」から、「二、蛙の弔ひ」を紹介している。本日は、その四回目(最終回)。昨日、紹介した部分に、改行しない形で、以下の文章が続く。ここは、前田勇が自説を披露している部分である。【 】内は、原ルビを示す。

 乍併〈シカシナガラ〉、与清や信節が典拠とした『蜻蛉日記』のこゝの文は、著者が今風に雨女子【あめをなご】とでも云ふか、雨蛙といふ緯名をつけられたのを言訳がましく歌つたのであつて、車前草が死蛙を蘇らせる事とは何の関係もあるものではない。殊に右の歌の初句「おほはこ」は一本には「おほはら」とあり、何れにしても意通じ難く、或は「おほそら」しの誤写ではないかと云はれてゐる所なのである。
 大体車前草の葉が民間薬としていろいろに用ひられるのは、決して近い世に始つた事ではないのである。藤原定家卿の『名月記』安貞元年(一八八七)四月十七日の条にも、
《右足指此四五日有リ如キ水袋ノ物、(中略)可怖癢、而出ヅルハ者不可怖、以テ針刀ヲ刺之出、付車前草》
とあつて吸出膏薬がはりにその葉を用ひてゐる。又、血止めとしても用ひられ、例へば四壁庵茂蔦が、
《小石川中の橋を通りしが、数日天気好、砂のたまりたるに踏かけてすべり、其砂のために膝のさらをすりむき、血のすこし出でたるを、紙もて拭ぐはんと袂〈タモト〉へ手を入るれど、をりふし紙のあらざれば、そこらに散りてあらんかと尋ぬれどあることなし、強く痛むとにはあらねど、赤肌のまゝにては着物に摺れて歩行【あるき】がたく、いかゞはせんと思ふをりしも其辺に車前子の繁く生ひ出でたるあり、能毒は知らざれど、詮方〈センカタ〉なく其葉をとり、よく揉みて付けたれば、膏薬のごとく能く付き、血もとまり痛みも頓に〈トミニ〉去りけり、一夜を経て愈(癒)えたり、此草に斯の如き能あるを知らざりし、医に問ひて質さん〈タダサン〉とおもひしが、事に紛れて止みぬ。(文政七年『わすれのこり』下巻・車前子の葉)》
と云つたのは、彼が其の方面の知識を欠いてゐたゞけの事だが、それでも例証にはならう。かう云ふ外科用の薬草であつたばかりでなく、此の草を煎薬として服用する事はもつともつと古くから行はれてゐたのである。
 思ふに童等が死蛙を蘇らせるとて車前草の葉を用ひたのは、その草が蛙飛ぶ候、路傍の随処に叢生し、『俳諧東日記』(延宝九年刊)春之部の蛙の発句に、
 いでや車前【をばこ】手負蛙の戸板草 露宿
とあるのが蛙合戦を踏まへてゐるのをさて置いても、その青々とした車前草の広葉の広きが故に手負ひ蛙の戸板とも、また死せる蛙の覆ひ物とも、極めて手近で極めて恰好の物であり、況んやこれが外科内科両用の薬草なのであつて見れば、誠に自然な試みであつたと云はねばならない。
 蟇殿【ひきどの】の葬礼はやせほとゝぎす 一茶(句帖)

 前田勇は、『蜻蛉日記』のある「おほばこの神」の歌は、「車前草が死蛙を蘇らせる事とは何の関係もあるものではない」と言って、先学を批判している。
 四月一六、一七日の当コラムでも紹介したように、言語学者の橘正一の説(一九三四)は、「おほばこの神」の歌は、車前草が死んだ蛙をよみがえらせるこちと関係しているとするものであった。ことによると、前田は、この橘論文を読んでおり、こういう形で、橘を批判したのかもしれない。ちなみに、橘は、前田の本が出るよりも前に、この世を去っている。
 引用文中、「安貞元年(一八八七)」とあるのは、皇紀だと思うが、それにしても年代があわない。『名月記』の関係箇所は未確認。また、「四壁庵茂蔦」の読みも未確認。

 

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『蜻蛉日記』と「おほばこの神」

2014-05-08 04:07:51 | 日記

◎『蜻蛉日記』と「おほばこの神」

 昨日の続きである。前田勇『児戯叢考』(湯川弘文社、一九四四)の「禽虫篇」の冒頭の「蛙」から、「二、蛙の弔ひ」を紹介している。本日は、その三回目。昨日、紹介した部分に、改行して、以下の文章が続く。

 ところが高田与清〈タカダ・トモキヨ〉はその著『擁書漫筆』(文化十四年刊)巻第二の中で鈴木煥卿の説を委しからず〈クワシカラズ〉と評した後で、「今の世児童がたわぶれに、蛙を打ころし、車前草の葉をおほうて、おんばこどのゝおんとぶらひと、呼はやしつゝ、もてきようずるに、見るまざかりに蛙いきかへりて、とびゆく事あり。」と云ひ、その末に『蜻蛉日記』〈カゲロウニッキ〉(右大将道綱の母〈ウダイショウミチツナノハハ〉の著。村上天皇の天暦八年から廿一年間にわたる日記)中之下の終〈オワリ〉に近い所に、
《山ごもりの後は、あまがへるといふ名をつけられたりければ、かくものしけり、「こなたざまならでは方も」などなげかしくて、
 おほばこの神のたすけやなかりけんちぎりしことをおもひかへるは》
とあるのを引いて、「解環抄中の十二巻に、大原の神の誤とせしはひがごとなり。萩原宗固〈ハギワラ・ソウコ〉が首書に、おほばこば車前草か、和名於保波古、今も童の蛙を殺して、其の上に此草の葉おほひておけば、蛙のいきかへる戯事をするにや。其の事の神〈シン〉〔不思議〕なるによりて、おほばこの神〈カミ〉ともいへる歟〈カ〉、おもひかへるに、蛙をそへたる成べし、といへるがよろし。」と云つてゐる。
 然るに喜多村信節〈キタムラ・ノブヨ〉また煥卿・与清の両説をあつめ取つたとおぼしき説をなし、殊に与清が「さておほばこの神は、(中略)蛙に用て〈モチイテ〉神妙の効験〈コウゲン〉ある葉なれば、神とはいへるなるべし。」と推量形で云つたのを断定にまで進めて、
《おほばこの神は、かへるに奇功のあるをいふなり、時珍(註 本草綱目の著者李時珍〈リ・ジチン〉)はかゝる事をしらざるにや、蝦蟇喜蔵于下、故江東称為蝦蟇衣とのみいへり。―嬉遊笑覧巻十二・禽獣―》
と云つてゐる。【以下、次回】

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房州では、オオバコを「ほほづきば」と呼ぶ

2014-05-07 07:48:56 | 日記

◎房州では、オオバコを「ほほづきば」と呼ぶ

 昨日の続きである。前田勇『児戯叢考』(湯川弘文社、一九四四)の「禽虫篇」の冒頭の「蛙」から、「二、蛙の弔ひ」を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分に、改行しない形で、以下の文章が続く。■は、クサカンムリに不という字である。

 信州のガイロツパ、、仙台のゲエルツパ、何れもカヘ(イ)ルバの訛〈ナマリ〉なる事は云ふ迄もない。金井紫雲氏の『草と芸術』に依れば、
《房州から上総下総では、『ほほづきば』といふ、これば此の葉をよく揉み、柔かくして、葉柄の方から吹くと、風船のやうにふくらむ、それから来た名であるし、関東地方から東北へかけて、『かへるつぱ』と呼ぶ処があるが、これはそのふくらせた形が、蛙の腹に似てゐるからといふ意味である。》
と云ふ。ホホヅキバの説は如何にもさうであらう。しかしカヘルツパの説は果してどうであらうか。尚、一茶が本草綱目に車前草の異名を蝦蟇衣と呼んでゐるのは和漢心を同じくしたのだと云つた事について一言して置く。これは上に引いた鈴木煥卿を始め其の後の諸家も注意した事柄であるが、支那で蝦蟇衣と呼んだのは蛙が好んで車前草繁れるあたりに棲む意であつて、我がカヘルバが児戯に基いて生れたのと訳がちがふのである。先学の説は速断が多い。
 さて『倭訓栞』〈ワクンノシオリ〉には、「児戯に、蛙を殺し、■苡を覆ひ、其の穂をもて微にうちて蘇へる事あり。」(後編・おほばこ)とあるが、かう云ふ風にしたのであらうが、しかし葉を被せて〈カブセテ〉咒ふ〈マジナウ〉にせよ穂で微に打つにせよ、一旦なぶり殺しにしたものが如何に霊験あらたかな車前草の葉つぱであるにしてからが、どうなるものかであるけれど、先達達は大真面目でこれを信じてゐた。たゞ一茶だけは「生ながら土に埋めて」と云つてゐる。生きながら土に埋めたのなら、それは勿論「須臾ニシテ蹶然跳躍ス」ることもあらう。あるのが当然である。【以下、次回】

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前田勇『児戯叢考』に見る「蛙の弔い」

2014-05-06 07:17:13 | 日記

◎前田勇『児戯叢考』に見る「蛙の弔い」

 前田勇の『児戯叢考』(湯川弘文社、一九四四)は名著だと思う。復刻版も出ているようだが、こういう本は、やはり、岩波文庫、講談社学術文庫、平凡社ライブラリーあたりに入れてほしいものだ。
 同書は、「草木篇」、「禽虫篇」、「生活篇」、「躰技篇」に分かれている。その「禽虫篇」の最初に「蛙」があり、これがさらに、「一、蛙釣り」、「二、蛙の弔ひ」、「三、蛙が鳴くからかーへろ」に分かれている。
 本日は、「二、蛙の弔ひ」を紹介してみよう。冒頭に、『撈海一得』からの引用があるが、この文章は、左右に振り仮名が振られた難文である。【 】内に示したのは、原則として、左側の振り仮名である。返り点は省いた。■の字は、プレビューで表記できなかったが、クサカンムリに不という字である。

 二、蛙の弔ひ
 食へもせぬ餌なら吐出す事も出来ようが、引つ掴んで大地に叩きけられて何条たまらうや。蛙の受難の極まる所、あはれと云ふもおろかである。
《今児戯ニ、蝦蟇〈がま〉ヲ促テ〈とらえて〉嬲〈なぶり〉殺シ、地ニ小坎【アナ】ヲナシ、車前草ヲ襯キ〈しき〉、死蝦墓〈しにがま〉ヲ安頓シ【オキ】、上ニ又車前草ヲ被ヒ、畢ツテ〈おわって〉小児囲繞〈いじょう〉環列シテ祝テ曰〈いわく〉、かいるどのゝおしにやつたおんばくどののおとむらひト、斉シ声ヲ〈こえをひとしくし〉撃壌ヲテ〈ちをうちて〉是ヲ咒ス〈じゅす〉【マジナフ】。須臾〈しゅゆ〉ニシテ【シバラク】死蝦墓蹶然〈けつぜん〉トシテ跳躍ス【オドル】。 ―撈海一得・巻上・蛙のおんばこ―》
 これは鈴木煥卿〈スズキ・カンケイ〉が明和の頃の江戸の悪たれ共の様を書いたのである。これはずつと後までも行はれた事であるが、江戸ばかりでなく処々方々〈ショショホウボウ〉でも行はれた。小林一茶の『おらが春』の中にも「蛙の野送」と云ふ一節がある。
《蛙の野送
爰ら〈ココ〉の子どもの戯〈タワムレ〉に蛙を生〈イキ〉ながら土に埋めて諷ふ〈ウタウ〉ていはく、ひきどのゝお死〈オシニ〉なつた、おんばくもつてとぶらひに/\/\と、口々にはやして■苡〈オンバク〉の葉を、彼うづめたる上に打かぶせて帰りぬ、しかるに本草綱目、車前草の異名を蝦蟇衣といふ、此国の俗がいろつ葉〈ガイロッパ〉とよぶ、おのづからに和漢心をおなじくすといふべし、むかしはかばかりのざれごとさへいはれあるにや。
  卯の花もほろりほろりや蟇〈ヒキ〉の塚 一茶》
 これで見ると信州ではオホバコを「がいろつ葉」と云つてゐたらしいが、これより先越谷吾山〈コシガヤ・ゴザン〉の『物類称呼』にも「野州及奥州にて、かへるばといふ」とあるから、この草をカヘルバと異名する地方も相当広かつた事が分る。さうしてその異名こそ全く子供達の残忍な戯れの紀念塔でもあつたのである。【以下、次回】

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