礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

修学旅行先で急性盲腸炎となった事例(1937年3月)

2018-12-26 06:05:43 | コラムと名言

◎修学旅行先で急性盲腸炎となった事例(1937年3月)

 これも、修学旅行がらみの話である。以前、入手した『一般取扱実話(方面委員取扱)』という冊子に、修学旅行先で急性盲腸炎を発症した高等小学校の女子生徒に対し、現地の方面委員があたたかく世話した事例が紹介されていた。
 この冊子は、全日本方面委員連盟の編輯・発行にかかるもので、「方面叢書第十輯」と銘打たれている。一九三八年(昭和一三)三月一〇日の発行で、収録されている事例は、その前年の五月の研究部会で発表されたものである。
 なお、「方面委員」というのは、今日の「民生委員」に相当する役職である。

   一〇 修学旅行先の突発事件   ―京都府
 
 私は京都左京区の錦林〈キンリン〉学区の方面委員でございます。私の方には二十六人の方面委員が居ります。此二十六人の方面委員の中に学務委員をやつて居る一人でありまして、此方面委員と云ふものの力を常に我が学区の方面委員会に於きまして、お互に方面委員は私慾に流れず菩薩の業を積まなければならぬ。菩薩の業は濫救〈ランキュウ〉なきやうにする、又或者を憎悪の念に依つて取扱ふと云ふことは非常に悪いことである。物質よりも精神的に救つてやると云ふことか方面委員の本旨であると云ふことを普段委員会でも話して居ります。其一端の発露が茲で申上げます或る方面委員がやって呉れた事柄であります。
 時は三月二日のことでありましたが、栃木県壬生町〈ミブマチ〉の高等小学校の生徒が関西旅行に来られたのであるが、伊勢に詣で奈良に一泊されて、京都の桃山御陵に参拝に向ふ途中、一女生徒が俄かに腹痛を催し倒れたので学校長と附添の看護婦は桃山御陵で下車せずに京都駅に直行し、京都駅にて附近の医師を迎へて診察を受けたのであります。医師の診断は急性盲腸炎であつて到底是は手術しなければならぬと云ふ見立てであつた為に、校長も大変心配して直ちに京大病院に入院させられたのであります。さうして手術を受けた、大体盲腸炎と云ふものは手術すれば案外早く癒るものですが、此生徒は栄養不良の為に二三日経つても中々重態なので、校長は早速国元に報告色々と手段を尽したが、学年末のことでもあり経費も莫大に掛ることでもあるので非常に困られた、併し子供の家庭の余り裕かでないことを考へると如何にも気の毒で、日夜自ら居残つて親戚、家庭、村役場其他栃木県の方面委員の方にも通知せられたり八方手を尽して居られた。所が先年山国勤王隊が壬生町で戦死した遺跡を御調査に見えた河原林檉一郎〈カワラバヤシ・テイイチロウ〉氏の事を思ひ出しまして、早速諸所紹介の結果、直ぐ近くの岡崎円頓美町〈エントミチョウ〉に居られたので直ぐ御訪問の上、良智を藉りることが出来ましたのは方面委員の御紹介でありました。それから私共方面委員は河原林氏宅に於て校長と三月九日の夕刻初めで面接致しまして事件を取扱ふことになりました。既に其時は手術料六十余円、入室料其他合計百余円の請求を受けて居られた。早速私共方面委員は事務所と連絡を取り、料金の減免方に奔走致しました結果、京大病院に於ても考慮を約されましたが、本人の家庭の証明がないので、そんな手続に又日を要することになりましたが、幸にも其翌日の三月十日に母親が国元から見えました。而も国の方では壬生町の方面委員の家庭証明やカード状況等は言ふまでもなく、附近から見舞金まで集めて母親を寄越し〈ヨコシ〉て呉れたのである。壬生町の方面委員さんの中々行届いたのには感服の外なかつたのであります。早速河原林氏、方面書記、私共一諸に病院に出頭、京大病院の理解ある御同情に縋り〈スガリ〉今日迄の経費を三分の一にして戴き、十一日、十二日は静養室にて、十三日以後は遂に無料の御取計ひを受けまして、校長も安心して帰国することになつたのであります。さうして遂に五月四日母親の慈悲と親切とに依つて芽出たく〈メデタク〉六十四日目に退院の通知を受けたのであります。石田委員は一晩自分の所へ泊めて京見物をさして、幾分かのお土産を持たせて五月五日に国元へ帰したやうな次第であります。手術した当時には到底難かしいと病院から見られて居たのでありますが、親の慈悲や方面委員の温かい心に依つて救ふことが出来た、病院でも洵に〈マコトニ〉不思議であると言つて居りました。私は栃木県の壬生町の方面委員の手廻しの良い洵に行届いたことを此処に感謝すると共に、又常に私共が菩薩の業を積んで貰ひたいと云ふ其発露を石田君がして呉れたことを感謝する次第であります。又一面考へさせられることは、全国学校長会等の際に、突発事件に関する事後処置の考慮を要することを痛感する次第であります。仮令〈タトイ〉貧困でなくても急救方策を講ずる必要があると思ふのであります。(藤田三左衛門氏扱)

 この事例は、なかなか興味深いものがある。当時の修学旅行の様子、それに参加している生徒の健康状態、その家庭の経済状態、当時の方面委員の動き、京都大学の手術料などが読みとれるからである。
 この突発事件より先、山国隊(やまぐにたい)の戦死者の史跡を調査するために、壬生町を訪れた河原林檉一郎という人物があって、校長が、その人物のことを思い出して、知恵を借りたなどという逸話も興味をそそる。河原林檉一郎について、詳しいことはわからないが、インターネットで検索すると、『コントラバンド論』(一八九九、田中唯一郎)という著書がヒットする(国立国会図書館蔵)。その本を刊行した時点における河原林の住所は、「京都府北桑田郡山国村」。

*このブログの人気記事 2018・12・26(10位に珍しいものが入っています)

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寝仏と朝日観音の由来(『南都石仏巡礼』より)

2018-12-25 05:55:53 | コラムと名言

◎寝仏と朝日観音の由来(『南都石仏巡礼』より)

 今年の夏、神田神保町の澤口書店で、西村貞(てい)の『南都石仏巡礼』(成光館書店、一九三三)という本を買い求めた。図版が豊富で、記述も周到だという印象を持ったからである。いま、これを取り出してみると、巻頭の「図版第二十六」に「瀧坂寝仏」があり、「図版第二十八」に「瀧坂朝日観音石仏」がある。昔から、よく知られた石仏だったのであろう。
 これらについては、もちろん、本文でも解説されている。「奈良市内及び近郊」の部の「瀧坂附近の石仏」の節、および、それに続く「瀧坂の朝日観音」の節である。本日は、この二節を、まとめて紹介してみたいと思う(六六~六九ページ)。

  瀧坂附近の石仏

 新薬師寺から、ふたたびもとの瀧坂街道に出で、さらに東へとすすむと右に高円山、左に春日山の翠巒〈スイラン〉をうけて、その間を渓流がながれ、風気そぞろに身にせまるあたりに出る。渓流に沿うて更らに数丁を登ると、道は石畳の坂道となるが、このあたりは瀧坂と呼ばれて紅葉の名所として名高い。
 この瀧坂街道の路傍に、約四尺角ぐらゐの自然石で、岩の背面に大日如来〈ダイニチニョライ〉を陽刻した巌石〈ガンセキ〉のころがつて居るのに出くはす。俗に「寝仏」と云つてゐるのがそれである。一見、臥像〈ガゾウ〉を刻んだかのやうな具合になつて居るところから寝仏と云ふのであらうが、これはもと左手の山腹にあつたものが、崩落したものである。岩に刻まれた大日尊は金剛界の大日尊で智拳印〈チケンイン〉を結んでゐる。多分足利期のものであらう。
 左手の山腹には、また仏像を切付けた岩石が多数にあつて、そのうち「仏像巌」と呼ばれて数体の仏像を陽刻した岩石は、その彫刻の様風から察すると、寝仏とはほぼ同期のものとおもはれる。仏像巌よりやや上手へと登ると、また来迎弥陀〈ライゴウミダ〉の摩崖仏がある。巨大な岩石の表面をうすく壷形光背に彫りしづめて、そのなかに半肉で来迎相〈ライゴウソウ〉の阿弥陀如来〈アミダニョライ〉の立像を陽刻したものである。彫刻の手法様式とも、「朝日観音」とはまつたく同様であるから、その造立〈ゾウリュウ〉は鎌倉期のもので、作者もおそらくは同一人であらうかと想像される。此の石仏は高さ約六尺あまりで、相貌のどこかに微笑を隠してゐる。秀れた石仏である。

  瀧坂の朝日観音

 寝仏より数丁ひがし、渓流を距てて、対岸なる断崖に三体の仏像を切り付けた石仏巌〈セキブツイワ〉がある。
 俗に「朝日観音」と呼んでゐるが、これは、早朝、朝日が東の山端にさしのぼると、先づこの巌崖〈ガンガイ〉を照映するところから起つた名で、「観音」ではなく、中尊は如来〈ニョライ〉形で、左右の脇仏は声聞〈ショウモン〉形である。以前は中尊は阿弥陀仏、脇立〈ワキダチ〉は地蔵菩薩であると信ぜられて居つたが、これはむしろ中尊を釈迦如来、脇侍〈ワキジ〉を二仏弟子と見る可きもののやうである。巌石は高さ一丈五尺余、巾一丈五尺ほどもある大石で、仏像は殆んどその岩面一杯に刻まれ、中尊釈迦仏の高さ約七尺七寸、左右の二仏弟子像は約五尺ほどである。向つて右脇侍の背光だけが舟型になつてゐるが、他はすべて壷形である。彫刻の出来栄えも雄麗で堂々としてゐる。殊に中尊は最もすぐれて居り、細部も手堅く刻まれ、衣皺〈イシュウ〉も流暢で像全体に渋硬のあとがない。面相もやや微笑を帯びてしかも荘重である。
 一体、瀧坂のこのあたりは、古くから霊地として知られたところで、諸書にも春日山を霊鷲山〈リョウジュセン〉に擬して種々の物語を述べたのが散見されるが、この「朝日観音」は大方は釈迦説法の故事を彫刻したものであらう。はじめ各躯には年紀と施主の名が陰刻してあったやうであるが、今は中尊にある彫銘だけが稍々明瞭である。刻銘は次ぎのやうである。
 「于時文永弐年十二月日大施主□□□」
 文永二年は今を去る六百六十余年前で、多武峰〈トウノミネ〉談山神社〈タンザンジンジャ〉西門の所謂「高麗伝来」の弥勒〈ミロク〉石像と同期の造立である。
 文治から建久へかけての東大寺大仏殿再興にあたつて、諸堂の石垣廻廊の石材は、悉く地獄谷の山中から得たので、璋円僧都〈ショウエン・ソウズ〉の本願に依つて特に路傍大小の石に諸仏を刻んで衆人に結縁せしめたといふのは、これらの瀧坂附近の諸石仏を指すのであらう。璋円僧都は『春日御流記』の一伝によると解脱上人の法弟である。来迎弥陀の石仏といひ、この朝日観音といひ、これらの摩崖仏は、ことによると、かの般若寺〈ハンニャジ〉笠卒塔婆の作者の宋人伊行吉〈イノユキヨシ〉の一派の手に成るものかも知れない。

 引用の最後のほうにある「摩崖仏」は、原文のまま。一般には、「磨崖仏」と表記される。
 それにしても、この『南都石仏巡礼』という本は、なかなか良い本である。現地まで足を運んで書いおり、考証もゆきとどいている。明日は話題を変える。

*このブログの人気記事 2018・12・25(9位に年末らしいものが浮上)

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朝日観音から柳生街道を経て奈良市内へ

2018-12-24 01:36:14 | コラムと名言

◎朝日観音から柳生街道を経て奈良市内へ

 昨日の続きである。一九六六年(昭和四一)八月末、修学旅行の下見に奈良まで赴いたA・T教諭とF・K教諭は、たぶん、国鉄桜井線で京終(きょうばて)駅まで行き、そこから、徒歩で、「寝仏」を目指したのだと思う。途中、白毫寺(びゃくごうじ)にも立ち寄ったはずである。この真言律宗の古刹は、京終駅の東方、高円山(たかまどやま)の山麓にある。
 白毫寺をあとにした両教諭は、「大杉教会の前を通ってやっと街道らしい道にさしかかる」。この「大杉教会」というのは、「御嶽教大杉大教会本部」のことであろう(当時の呼称は不明)。御嶽教(おんたけきょう)というのは、奈良市大渕町に本部を置く、いわゆる教派神道である。
 両教諭は、この付近から「旧柳生街道」に入る。今日では、旧柳生街道は、「滝坂の道」と呼ばれているらしい。インターネットで、このあたりの地図を確認すると、「滝坂の道入口」という表示が見える。
 私がその地図を見たのは、「奈良まちあるき風景紀行」というホームページである。詳しく言えば、「【寝仏】滝坂の道沿いにある巨石の裏側には大日如来像が描かれる」という記事で見たのである。この記事は、すでにタイトルで、「巨石の裏側」と教えてくれている。親切なことである。ホームページ主宰者は、ここまでやってきたのに、寝仏を見つけられない観光客が多いことを知っておられるのだろう。
 記事を少し引用させていただく。

「寝仏」は、奈良市街地から「柳生の里」方面へと伸びる「滝坂の道」沿いに複数ある石仏のうちの一つであり、新薬師寺などのある高畑〈タカバタケ〉界隈から山道に入ってからの区間ではじめに出会う石仏となっています。
 道沿いに無造作に置かれたように見える「寝仏」が描かれた巨石には、ふつうに歩いているだけでは特に何も彫り込まれているような様子は確かめられませんが、少し立ち止まってこの巨石の裏手に回り込むようにして確かめると、風化でかなりわかりにくくはなっているものの、確かに寝転んだ姿勢を取っておられる仏さまのような模様をわずかに確かめることが出来るようになっています。
 描かれている仏さまは室町時代頃に彫られた大日如来様とされており、当初は付近の高台に設けられた普通の磨崖仏〈マガイブツ〉であったものが、落石により横倒しになった結果、寝転んだように見えるようになったとされており、当初から寝転んだ仏さまが描かれたという訳ではないとも考えられています。

 ところで、昨日、紹介した『旅のしおり』には、「日程一覧表」なるものが折り込まれている。それによると、一九六七年(昭和四二)四月一日のコースに、「柳生街道から市内へ」を選んだ生徒たちは、午前八時零分に奈良市内の「魚佐ホテル」を出発、八時三〇分に「朝日観音」に至る予定になっている。この間の交通手段は、たぶん貸切のバスだったのであろう。これを書いているうちに、少しずつ思い出してきたが、たしかに自分は、この「柳生街道から市内へ」のコースに加わっていたと思う。他の生徒たちと一緒に、一台のバスに乗りこみ、辺鄙なところで降ろされた記憶がある。
 おそらく、その降ろされた場所が、「朝日観音」の近傍だったのであろう。「日程一覧表」によれば、そのあとの行動は、朝日観音―夕日観音―寝仏―新薬師寺と歩き、あとは自由行動になっている。つまり、旧柳生街道(滝坂の道)をくだってゆく形で、奈良市内に至るというコースである。情けないことだが、朝日観音、夕日観音、寝仏、新薬師寺、いずれも全く記憶がない。ただ、そのあとの自由行動で「白毫寺」を訪れたことだけは、かすかに覚えている。【この話、さらに続く】

*このブログの人気記事 2018・12・24(9位に珍しいものが入っています)

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風化した仏様が石の裏側に寝てござる

2018-12-23 00:01:08 | コラムと名言

◎風化した仏様が石の裏側に寝てござる

 書棚を整理していたら、珍しいものが出てきた。半世紀ほど前、自分が、まだ高校生だったころの「修学旅行のしおり」である。『旅のしおり』というタイトルで、一九六七年(昭和四六)二月六日、東京都立□□高校修学旅行委員会発行(非売品)。B6判、タイプ印刷で、本文一七二ページ。
 巻頭に、苅田あさのさんの「阿修羅」という詩が置かれている。この「苅田あさの」というのは、たぶん、婦人運動家の苅田アサノ(一九〇五~一九七三)のことだろう。もちろん、当時は、そんなことは知らない。
 それに続いて、A・T教諭の「寝仏様」と題するエッセイが置かれている。これを読んでゆくうちに、半世紀前の記憶が徐々によみがえってきた。と言っても、半世紀前の修学旅行の記憶がよみがえったわけではない。半世紀前に、この「しおり」を手に取り、このエッセイを読んだ記憶が、とりあえず、よみがえってきたのである。エッセイの全文を引いてみよう。

  寝 仏 様      A・T

 八月末の暑い日に、白毫寺〈ビャクゴウジ〉の土塀を後にしてカンカン照りの道を旧柳生街道を探して歩く青年と白髪まじりの男の二人連れがある。それが誰であるかは諸君の想像にまかせる。大杉教会の前を通ってやっと街道らしい道にさしかかる。漸く両側は木立に囲まれて道幅もせまくなり、所々に石畳もあらわれてくる。クマゼミがシャーシャーと鳴き汗は眼の中まで入ってくる。この二人連は何を探して行くのか。青年が一目見たいと思う寝仏である。白髪男は唯それについて歩くだけである。道はますます細く、登りはきつくなる。仏はまだ見えない。二人は少しずつあせりだす。もう半〈なかば〉あきらめた頃寝仏〈ネボトケ〉と書いた棒杭が道端に見つかる。たしかに寝仏と書いてある。だが仏らしいものはどこにもない。青年は繁みをかきわけて崖を登る。やゝあって首を横に振りながらおりてくる。反対側の流れの方に下りて見る。何もない。えいままよと彼は靴をぬぎ流れに足をひたす。白髮男は側の石に腰をおりす。やり切れない失望感。二人はあきらめて帰り支度をする。白髪男が何の気なしに今一度、棒杭のわきにころがる石の裏を見る。あった、あった、小さな仏様が、それももう消えそうな位風化した仏様が石の裏側に寝てござる。青年を呼ぶ。彼は瑞喜の涙を流して見る。男もながめる程に満更でもなさそうだ。
 帰路の下りは早い。青年は勿論深い満足感を発散しながら足取りは軽い。白髪男もこんな所までお供をさせられた不平はとうの昔に忘れている。今は道端の消えかけた仏様の姿が昔の庶民の信仰のにおいとまじって、男の心の中に新しいものをつくりはじめている。具体的に何とは云えない。たゞ権力を持った者が作った奈良の大仏や平等院の阿弥陀様に比べると何となく有難味のあるものである。

 ここで、「青年と白髪まじりの男の二人連れ」というのは、この修学旅行の下見のために現地に赴いた二名の教諭のことである。「白髪まじりの男」というのは、このエッセイを書いたA・T教諭自身であり、「青年」というのは、同僚で、修学旅行担当だったF・K教諭である。
 当時、この文章を一読し、その巧みな文章に感心させられた覚えがあるが、半世紀たった今、読みなおしても、やはり名文だと思う。A・T先生の白髪まじりの風貌は、今でもハッキリと目に浮かぶ。そして、今日の自分が、その当時のA・T先生に比べても、十歳以上は年長になっているだろうことに気づいて、愕然とする。
 なお、そういう年齢になったので言わせてもらうが、このエッセイの最初のほう、「それが誰であるかは諸君の想像にまかせる。」の二〇字は、削ったほうがよかったと思う。また、末尾の部分は、「男の心の中に新しいものをつくりはじめている。」でとどめたほうが、余韻があったのではないか。
 ところで、この「しおり」によれば、一九六七年四月一日の見学コースのひとつに、「柳生街道から市内へ」というものがある。このコースを選択した者は、徒歩で「寝仏」の脇を通過することになっている。かすかな記憶をたどると、自分も(あるいは自分のクラスも)、このコースを選んだように思うが、「寝仏」を見た記憶が全くない。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2018・12・23(9位の木村政彦は久しぶり)

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桑原武夫蔵書問題と「つぶし」の問題

2018-12-22 01:44:08 | コラムと名言

◎桑原武夫蔵書問題と「つぶし」の問題

 パンプレット『〔講演〕桑原蔵書問題★古本屋はこう考える』について、少し、補足しておきたい。このパンフレットの主旨は、もちろん「桑原蔵書問題」であるが、講演者の島元建作さんは、このほかにも、ふたつ、興味深いことを述べられている。
 そのひとつは、著名な学者・文学者などが残した蔵書の「ゆくえ」についての話である。ここでは、加藤周一、丸山眞男、司馬遼太郎という故人、故人ではないが、瀬戸内寂聴さんの例が紹介されている。ご関心の向きは、パンフレットを参照していただきたい。
 もうひとつ、古書の業界における「つぶし」についての話である。島元さんは、「桑原蔵書問題」という本題に入る前に、「つぶし」の話をしている。実は、これには意味がある。島元さんは、本題に入る前に、あえて、「つぶし」の話をされているのである。そして、この問題については、島元さんの文章を引用させていただくしかない。以下に、「目録本からつぶしまで」の項の全文(三~四ページ)を引用する。

★目録本からつぶしまで
 すると、ある本が目録に載るまでにどんな選別を経ることになるでしょうか。
 まず、確保するべき欲しい本、目録本があります。次に、目録には載せないけれど店頭で商品として通用する一群の本もあります。これが二番目。三番目に、目録にも店頭にも入れないけれど、即売会のようなところで売れるのでは、という本もあります。それから、これは自分のところでは不要だが、欲しい店(同業者)があるはずだというケースもあります。そういう本は市に出せば換金できて、本としても有用です。つまり、業者同士が自分の不要なものを交換しあうわけで、市のことを「交換会」とも呼んでいます。これが四番目です。
 それから、以上のどれにも該当しないが、なにか使い道があるのはないか、という五番目もあります。たとえば、背に腹は代えれなくてうちでは今年〔二〇一七〕から「百円均一」コーナーを店先に設けたところ、馬鹿にならないというか、百円均一に特化するお客さんもいるらしくて、これで晩の飲み代ぐらいは稼げることが判りました。うちが二階で営業していることを知らず、百均コーナーで初めて店の存在を認知してくれたご近所さんもいました。
 しかし結局どれにも使えない、箸にも棒にもかからない本が出てきます。かつてのように本がよく売れた時代と売れない現代とでは差があって、いまでは圧倒的にそれが出てきます。このどうにもならない本のことを、業界用語で「つぶし」と言います。「つぶし」に回すこと、すなわち「本を潰す」ということです。
 そこで、ある一冊の本を目録に載せるためにどれだけの本からそれを抽出しているか、またどれぐらいの本を「つぶし」に回しているかを計算してみます。目録に載せるのはだいたい五十冊に一冊の割合です。すると、一回の目録に載せる本が三千冊なら、十五万冊は仕入れてきて、さっきの五段階のふるいにかけているわけです。「つぶし」の本は、うちでは毎週火曜日に来る古紙回収業者にひきとってもらいます。このほか、「宅買い」の段階ですでに「つぶし」と判断するしかない本も大量に出ます。なんだかんだでうちでは年間に一万冊は「つぶし」に回している状態です。
 もったいないと思われるかもしれませんが、そうしていかないと商売が成り立たない。これを文化破壊という人があるなら、そんなキレイ事を言ってたら商売なんかできないよ、というのが偽らざる現実です。一万冊潰すといいましたが、それがどれぐらいのものか図書館勤務の方はお判りでしょう。東大阪に「司馬遼太郎記念館」がありまして、蔵書はじつに壮観です。あれが二万冊。だからその半分ぐらいはうちで年間に潰しているわけです。いまではそうしないと本来の店の機能がパンクしてしまって、古本屋も市もやっていけません。
 で、ここから本題の「桑原武夫蔵書問題」に入っていきます。

 引用は以上である。炯眼の読者諸氏は、島元建作さんが、「桑原武夫蔵書問題」に入る前に、なぜ、古書業界の「つぶし」の話をされたのか、お察しになられたことだろう。そう、図書館の業界においても、蔵書を処分してゆかなければ機能がパンクしてしまうという現実がある。そのことを言う伏線として、島元さんは、この「つぶし」の話を持ち出されたのである。明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2018・12・22(8位に珍しいものが入っています)

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