◎修学旅行先で急性盲腸炎となった事例(1937年3月)
これも、修学旅行がらみの話である。以前、入手した『一般取扱実話(方面委員取扱)』という冊子に、修学旅行先で急性盲腸炎を発症した高等小学校の女子生徒に対し、現地の方面委員があたたかく世話した事例が紹介されていた。
この冊子は、全日本方面委員連盟の編輯・発行にかかるもので、「方面叢書第十輯」と銘打たれている。一九三八年(昭和一三)三月一〇日の発行で、収録されている事例は、その前年の五月の研究部会で発表されたものである。
なお、「方面委員」というのは、今日の「民生委員」に相当する役職である。
一〇 修学旅行先の突発事件 ―京都府―
私は京都左京区の錦林〈キンリン〉学区の方面委員でございます。私の方には二十六人の方面委員が居ります。此二十六人の方面委員の中に学務委員をやつて居る一人でありまして、此方面委員と云ふものの力を常に我が学区の方面委員会に於きまして、お互に方面委員は私慾に流れず菩薩の業を積まなければならぬ。菩薩の業は濫救〈ランキュウ〉なきやうにする、又或者を憎悪の念に依つて取扱ふと云ふことは非常に悪いことである。物質よりも精神的に救つてやると云ふことか方面委員の本旨であると云ふことを普段委員会でも話して居ります。其一端の発露が茲で申上げます或る方面委員がやって呉れた事柄であります。
時は三月二日のことでありましたが、栃木県壬生町〈ミブマチ〉の高等小学校の生徒が関西旅行に来られたのであるが、伊勢に詣で奈良に一泊されて、京都の桃山御陵に参拝に向ふ途中、一女生徒が俄かに腹痛を催し倒れたので学校長と附添の看護婦は桃山御陵で下車せずに京都駅に直行し、京都駅にて附近の医師を迎へて診察を受けたのであります。医師の診断は急性盲腸炎であつて到底是は手術しなければならぬと云ふ見立てであつた為に、校長も大変心配して直ちに京大病院に入院させられたのであります。さうして手術を受けた、大体盲腸炎と云ふものは手術すれば案外早く癒るものですが、此生徒は栄養不良の為に二三日経つても中々重態なので、校長は早速国元に報告色々と手段を尽したが、学年末のことでもあり経費も莫大に掛ることでもあるので非常に困られた、併し子供の家庭の余り裕かでないことを考へると如何にも気の毒で、日夜自ら居残つて親戚、家庭、村役場其他栃木県の方面委員の方にも通知せられたり八方手を尽して居られた。所が先年山国勤王隊が壬生町で戦死した遺跡を御調査に見えた河原林檉一郎〈カワラバヤシ・テイイチロウ〉氏の事を思ひ出しまして、早速諸所紹介の結果、直ぐ近くの岡崎円頓美町〈エントミチョウ〉に居られたので直ぐ御訪問の上、良智を藉りることが出来ましたのは方面委員の御紹介でありました。それから私共方面委員は河原林氏宅に於て校長と三月九日の夕刻初めで面接致しまして事件を取扱ふことになりました。既に其時は手術料六十余円、入室料其他合計百余円の請求を受けて居られた。早速私共方面委員は事務所と連絡を取り、料金の減免方に奔走致しました結果、京大病院に於ても考慮を約されましたが、本人の家庭の証明がないので、そんな手続に又日を要することになりましたが、幸にも其翌日の三月十日に母親が国元から見えました。而も国の方では壬生町の方面委員の家庭証明やカード状況等は言ふまでもなく、附近から見舞金まで集めて母親を寄越し〈ヨコシ〉て呉れたのである。壬生町の方面委員さんの中々行届いたのには感服の外なかつたのであります。早速河原林氏、方面書記、私共一諸に病院に出頭、京大病院の理解ある御同情に縋り〈スガリ〉今日迄の経費を三分の一にして戴き、十一日、十二日は静養室にて、十三日以後は遂に無料の御取計ひを受けまして、校長も安心して帰国することになつたのであります。さうして遂に五月四日母親の慈悲と親切とに依つて芽出たく〈メデタク〉六十四日目に退院の通知を受けたのであります。石田委員は一晩自分の所へ泊めて京見物をさして、幾分かのお土産を持たせて五月五日に国元へ帰したやうな次第であります。手術した当時には到底難かしいと病院から見られて居たのでありますが、親の慈悲や方面委員の温かい心に依つて救ふことが出来た、病院でも洵に〈マコトニ〉不思議であると言つて居りました。私は栃木県の壬生町の方面委員の手廻しの良い洵に行届いたことを此処に感謝すると共に、又常に私共が菩薩の業を積んで貰ひたいと云ふ其発露を石田君がして呉れたことを感謝する次第であります。又一面考へさせられることは、全国学校長会等の際に、突発事件に関する事後処置の考慮を要することを痛感する次第であります。仮令〈タトイ〉貧困でなくても急救方策を講ずる必要があると思ふのであります。(藤田三左衛門氏扱)
この事例は、なかなか興味深いものがある。当時の修学旅行の様子、それに参加している生徒の健康状態、その家庭の経済状態、当時の方面委員の動き、京都大学の手術料などが読みとれるからである。
この突発事件より先、山国隊(やまぐにたい)の戦死者の史跡を調査するために、壬生町を訪れた河原林檉一郎という人物があって、校長が、その人物のことを思い出して、知恵を借りたなどという逸話も興味をそそる。河原林檉一郎について、詳しいことはわからないが、インターネットで検索すると、『コントラバンド論』(一八九九、田中唯一郎)という著書がヒットする(国立国会図書館蔵)。その本を刊行した時点における河原林の住所は、「京都府北桑田郡山国村」。