礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

廃棄されたあとに非難するのは欺瞞的

2018-12-21 04:33:43 | コラムと名言

◎廃棄されたあとに非難するのは欺瞞的

 昨日の続きである。京都の古書店「書砦・梁山泊」が発行しているパンプレット『〔講演〕桑原蔵書問題★古本屋はこう考える』を紹介している。
 桑原武夫蔵書問題について、「書砦・梁山泊」の店主である島元建作さんは、廃棄を決断した副館長に「同情する」と述べられている。島元さんが、そう述べられる理由については、パンフレットを買って読んでいただくべきであって、ここで安易な引用をおこなうことは避けなくてはならない。しかし、これを入手するのが難しいという方も多いと思うので、ポイントだけを示しておこう。

1 桑原武夫の蔵書は、その仕事ぶりから見て、「雑本」が多かったと推測される。
2 桑原蔵書のうち貴重なものは、京都大学人文研究所によって、最初から抜かれていた。
3 桑原蔵書は、桑原武夫が亡くなってから二十七年間も、段ボールに入れられたまま、京都市内の図書館の間で、たらいまわしされていた。
4 この間、桑原蔵書の活用を呼びかけるような動きは、一切、起きていない。
5 蔵書が古本屋の手に渡れば、再活用もありえたが、京都市には、蔵書を廃棄する権限はあっても、蔵書を古本屋に売る権限はなかった。

 要するに、島元さんは、廃棄されたあとになって、副館長や京都市を非難するのは「欺瞞的」だと言われているわけである。
 なお、島元さんは、次のような指摘もされている。ここは、引用させていただきたいと思う。

 今回の問題で京大人文研の人が(新聞取材に)、「先生の学問が失われた」などと嘆いていますが、もし桑原蔵書に価値があるとすれば、桑原さんの書斎ではどんな本がどんな配列で並べられていたか、どんなところにどんな本が混じっていたか、といった書斎全体の在り方だったのではないでしようか。それは僕らも覗いてみたいですし、そこに学問的な意味もあるはずです。また、それなら詳細に写真を撮っておけばよかったでしよう。ですから、けっして例々の本それ自体に価値があるという問題ではないと思います

 桑原蔵書が、まだ書斎にあった段階で、写真をとっておくべきだったという指摘である。このことは、たとえ、桑原蔵書が適切に管理されることになった場合でも、必要なことである。鋭い指摘だと思った。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2018・12・21

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桑原武夫蔵書問題と古書店主・島元建作さんの見解

2018-12-20 03:04:43 | コラムと名言

◎桑原武夫蔵書問題と古書店主・島元建作さんの見解

 先月、所用で京都を訪れた折、寺町にある古書店「書砦・梁山泊」(しょさい・りょうざんはく)に立ち寄った。何冊か珍しい古書を購入したが、そのほかに、『〔講演〕桑原蔵書問題★古本屋はこう考える』というパンフレットも買い求めた。結果的には、このパンフレットを入手できたことが、この日の最大の収穫だった。
 このパンフレットは、「書砦・梁山泊」から、二〇一七年七月二五日に発行されたもので、「女性副館長に同情する。書物文化の持続とは?」というサブタイトルがついている。「書砦・梁山泊」の店主・島元建作さんが、第九八回古典籍研究会(同年六月二四日)でおこなった講演の内容を記録したものである。
「桑原蔵書問題」というのは、「桑原武夫旧蔵図書廃棄事件」とも言う。京都市が寄贈を受け、京都市内の図書館に保管されていた桑原武夫(一九〇四~一九八八)の旧蔵図書約一万冊を、京都市が、遺族の了解なしに廃棄したという事件である。廃棄は二〇一五年のことで、廃棄が明らかになったのは、二〇一七年四月二七日のことだったという。
 この事件では、廃棄を決断した右京中央図書館の副館長が非難され(最終責任者は京都市教育委員会施設運営課長)、京都市教育委員会は、同年四月、副館長だった女性職員を、減給一〇分の一(六カ月)の懲戒処分に付したという。
 このニュースを聞いたとき、私も驚きと憤りを感じたものだ。ところが、このパンフレットを読んでみて、事件に対する見方が一変した。講演をおこなった島元建作さんの見解は、あくまでも「女性副館長に同情する」というものである。パンフレットを読んだ私は、島元さんの意見に説得力を感じ、これを支持すべきだと考えた。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2018・12・20(9位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イギリス映画『侵入者を追って』(1953)を観る

2018-12-19 01:31:22 | コラムと名言

◎イギリス映画『侵入者を追って』(1953)を観る

 先日、神田神保町の新刊書店で、『栄光の軍旗』(コスミック出版、二〇一八)というDVDボックスを買った。一〇枚入りで一八〇〇円(外税)は安い。
 そのボックスの中に、『侵入者を追って』という映画があった。監督は、ガイ・ハミルトン(Guy Hamilton)、原題は“The Intruder”(侵入者)。原作は、 Robin Maughamの“The Line on Ginger”という小説(一九四九)だという(ウィキペディア英語版“The Intruder”の項による)。まったく聞いたことない映画だったが、これが、なかなか良かった。
 元軍人で、今は株の仲買人をしているウォルフ・マートン(ジャック・ホーキンス)が、ある日の夕、家に戻ると、家の中が荒らされており、ピストルで武装した侵入者が潜んでいた。マートンは、その侵入者に見覚えがあった。ジンジャー・エドワーズ(マイケル・メドウィン)である。彼は、第二次世界大戦中、戦車連隊で、マートン大佐の下で戦った勇敢な兵士だった。マートンはジンジャーに、なぜ、こうした犯罪に手を染めたのか問いかけたが、ジンジャーは、ガラス戸を破って逃走してしまった。マートンは、この事件を警察には届けず、独自にジンジャーの行方を追いはじめた。すでに民間人になっている部下たちを訪ね、ジンジャーに関する情報を集める。コヴェントガーデンの市場に勤めるジョン・サマーズ(ジョージ・コール)に会うと、最近、ジンジャーには会っていないと言う。しかし、これは嘘で、マートンがやってきた直前に、ジンジャーは、サマーズを訪ねていたのだった。次にマートンは、会社を経営しているピリー(デニス・プライス)を訪ねる。ピリーは、ジンジャーについて心当たりはないが、その盗難事件は、警察に届けるべきだと強く忠告する。最後にマートンは、農場を経営しているコープ(ダンカン・ラモン)を訪ねた。そして、ここで初めてマートンは、復員後のジンジャーに襲いかかった不幸な事件について知らされたのだった。
 この映画では、マートンが復員した部下たちを訪ねるたびごとに、フラッシュバックの形で、その部下に関わる激戦のシーン、あるいは兵舎におけるエピソードなどが挿入される。非常に凝った脚本だが、テンポがよいので、観ていて違和感はない。また、この映画は、戦中のシーンも、「現在」のシーンも、妙にリアルで、いかにも手間ヒマをかけて作られている印象がある。カメラ(Edward Scaife)も良い。
 何よりも、人物の描きわけが巧みである。それらしい役者が、いかにもそれらしく演じているのに感心させられた。クレジットによれば、この映画の主演は、ジャック・ホーキンス(Jack Hawkins)、ジョージ・コール(George Cole)、デニス・プライス(Dennis Price)、マイケル・メドウィン(Michael Medwin)の四人ということになっている。しかし、実質的には、主演がジャック・ホーキンス、助演がマイケル・メドウィンといったところであろう。
 上では省いたが、マートンのかつての部下で、今は中学校の校長をしているベルトラム・スライク(リチャード・ワッティス)という人物が登場する場面がある。このスライクの兵舎生活におけるエピソードが、何とも楽しい。また、スライクを演じているリチャード・ワッティス(Richard Wattis)の演技が秀逸である。
 最初に述べたように、この映画の監督はガイ・ハミルトンである。ハミルトン監督の映画は、「007シリーズ」、『空軍大戦略』(一九六九)など、若いときから何本も観てきた。どれもこれも、そこそこ楽しめる映画ではあったが、「名作」、「傑作」というレベルには至っていない印象があった。ところが、この『侵入者を追って』は、まちがいなく「傑作」である。個人的には、ガイ・ハミルトン監督のナンバーワンに位置づけるべき「名作」だと思う。

*このブログの人気記事 2018・12・19(8位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉良義央、吉良の仁吉、作家の尾崎士郎

2018-12-18 06:40:46 | コラムと名言

◎吉良義央、吉良の仁吉、作家の尾崎士郎
 
 朝日新聞中部支社報道部編『夏草の跡――愛知県郷土史話』(朝日新聞中部支社、一九五四)から、「吉良上野介義央」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)で、「吉良の仁吉」という文章を紹介する。

  吉 良 の 仁 吉
  (西暦一八三九~一八六六年)

 荒神山の血けむりに、慶応二年(西暦一八六六年)四月八日、あたら廿八歳の男ざかりを花と散った男だて吉良の仁吉〈キラノニキチ〉は幡豆郡横須賀村に生まれた。伊勢の神戸(カンべ)の長吉への義理にからんで、桑名の阿濃徳〈アノウトク〉一家を敵に回し、恋女房を離縁して、清水一家の大政、小政らと伊勢に乗り込む仁吉の仁キョウ伝は多分に講談や浪花節の脚色が加えられているようだ。
 仁吉は横須賀村上横須賀字栄町の百姓善兵衛の子で、後に二足のワラジといわれる十手を預り、太田仁吉と名乗つた。子供のころから相当な乱暴者で、十二歳のころから綿の実を買つて歩くうち、いまの西尾市でケン力の相手を天ビン棒で殴り殺し故郷の横須賀を飛び出したが、まだなんといっても子供のこと、大浜の渡し場まで来て心細さにションボリしていたのをたまたま通りかかった寺津(いま西尾市内)の親分間之助(マノスケ)が見かけて寺津につれて帰った。そのころ若き清水次郎長もここに身を寄せていたので、二人は兄弟分として成長する。
 次郎長の方が仁吉よりも十二、三も年上であったが、ケンカとなれば乱暴者の仁吉がはるかにうわ手だったので、飲みわけの兄弟分として、お互いに相手を呼ぶにも「ニキドン」「ジロドン」と呼びあい、決して呼び捨てにするょうなことはなかったという(横須賀郵便局長手嶋復松氏談)。ここで剣術も修行して、どうやら一本立ちになった仁吉は二十一歳のとき故郷の吉良に帰り、一家をたてて若い親分として売り出すが、次郎長も同じころ幡豆郡一色(イシキ)町のウドン屋の娘お蝶とともに清水に帰って一家をたてた。

写真【略】 吉良の仁吉の墓(幡豆郡横須賀村源徳寺)

 世上伝えられる仁吉は色白の好男子で、若いに似合わずもののわかった人物で、人望もあつめていたということになっているが、土地の古老の話だと、仁吉は六尺近い大男、アバタ面で、ドモリで腕が立つため、いまでいえば暴力団のボスのように恐れられていたという。大正の末ごろ仁吉の家に近い古川の堤防改修工事が行われたとき、仁吉の家の裏から人骨がたくさん出て人々を驚かせたということだが、それはともかく、二十八歳で死ぬまでの数年間に五、六十人の子分を持ち、吉良地方一帯に勢力をふるった仁吉は、ヤクザの世界では相当な男ではあったらしい。そして義理人情を生命とするこの世界で、神戸の長吉への義理を守って若くして死んだということだけは事実で、そのため後世おとこ気の人としてもてはやされるようにもなったのだろう。
 荒神山――実は庚申ゲ原へ乗りこんだとき仁吉が持っていったという短銃がいま上横須賀に住む仁吉のメイに当る蜂須賀たけさん(八五)のところに保存されている。庚申ゲ原で仁吉は樹上にかくれていた阿濃徳の子分に鉄砲でねらい撃ちされて殺されたとも伝えられているが、実は阿濃徳側の浪人角井森之助(通称門之助)という剣客にきられたものらしい。この門之助は以前仁吉のところへ五十両の金を無心に来たが、いつもとちがってそのとき仁吉はおとなしく金を渡して帰らせた。これをみた子分二人が門之助の後を追って殺そうとしたが、手出しも出来ずに逃げ帰って来た。なんでも門之助が仁吉に無心をふっかけたとき、目にもとまらぬ居合抜きの早業でそばにあった行灯〈アンドン〉をきって見せたので、さすがの仁吉もこれはとても敵わぬと例になく、おとなしく金を出したのだが、余りの早業だったため子分らにはそれが分らなかったのだという。そんなことがあったので仁吉は庚申ゲ原に向うとき門之助に備えて、ふところに短銃をひそませていったが、渡し場で舟から下りるとき、短銃がふところからころげ落ち火ナワがしめっていたのに気づかず門之助と対決して、タマの出ない短銃に頼りすぎてきり倒されたのだという。(手嶋復松氏談)
 また仁吉は結婚したばかりの恋女房のお菊が阿濃徳の妹だったため義理にはさまれ、涙の離縁をして庚申ゲ原へかけつけたというのもどうやら後に脚色されたものらしい。上横須資の源徳寺住職藤原宝英師の話ではお菊は知立か宮の宿の飯盛女だったのを、仁吉が阿濃徳と恋のサヤ当して女房に迎えたというが、お菊のその後は全然分らない。仁吉の死後子分が跡目をついで太田勘蔵と名乗ったが、上横須賀の農業板倉清一さんが仁吉の子孫といい、その位ハイを守っている。
 また源徳寺に仁吉の死んだ翌年子分らが建てたという立派な墓があり、今から四年ほど前から仁吉後援会も出来て、毎年四月八日には相撲大会などにぎやかなお祭り行事も行われている。また仁吉は横笛の名手で、仁吉から笛の吹き方を習い伝えたという人たちが毎年村のお祭りのハヤシをにぎわすということである。
 また知多郡内海町の海岸に近いところ「唐人お吉出生地」の碑のすぐ東北に、「昔良の仁吉清めの井戸」がある。庚申ゲ原で死んだ仁吉の死体を大政、小政らが船でこの地に運び、当時この付近にただ一つしかなかったこの井戸で仁吉の死体を清め、ここから河和に運び、河和からまた船で三河横須賀の郷里吉良へ運び帰ったといわれている。

 ここにあるように、幕末の侠客として知られる吉良の仁吉は、愛知県幡豆郡横須賀村の出身であった。現在の西尾市吉良町にあたる。
 ちなみに、ウィキペディア「吉良の仁吉」の項によれば、今日、西尾市吉良町には、「吉良三人衆」という言葉があるという。吉良義央、吉良の仁吉、そして、幡豆郡横須賀村生まれの作家・尾崎士郎(一八九八~一九六四)である。

*このブログの人気記事 2018・12・18(8位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忠臣蔵の芝居をすると火事が起るという言い伝え

2018-12-17 06:04:51 | コラムと名言

◎忠臣蔵の芝居をすると火事が起るという言い伝え
 
 朝日新聞中部支社報道部編『夏草の跡――愛知県郷土史話』(朝日新聞中部支社、一九五四)から、「吉良上野介義央」という文章を紹介している。本日は、その後半を紹介する。

 義央の陣屋は〔愛知県幡豆郡横須賀村〕大字岡山の殿町(トノマチ)にあり、いまもその跡に「陣屋の椿」が記念碑とともに残っているが、ここから西へ 一、二丁いったところに吉良家のボダイ寺華蔵寺(ケゾウジ)がある。この寺には池大雅の描いた見事なフスマ絵三十六面があって、さきに紹介した額田郡岩津町大樹寺の冷泉(また岡田)為恭の絵とともに名高い。ここには義央の木像が先祖の義安、義定の像と一緒にまつられ、また義央が寄進した鉄眼(テツゲン)の一切経を納めた経堂や義央遺愛の茶器などがあるが、代々の立派な墓がならぶなかに、義央とその子義周(ヨシカネ)の墓だけはいかにもみすぼらしい。

写真【略】 吉良義央の「陣屋の椿」(横須賀村大字岡山字殿町)

 元禄十五年(西暦一七〇二年)一二月十四日、義央が赤穂浪士の襲撃に討たれて、吉良家は断絶、義周は後に上諏訪に流され客死した。その後華蔵寺では義央父子の分骨を請い受けて墓を建てたが、この墓石の大きさが名門吉良家の盛衰をはっきり物語り、義央の不運な最期をしのばせている。
  盛衰を墓石に秘めて義央忌     ―蓬丘
  ゆく春やにくまれながら三百年   ―鬼城
 その後、世の忠臣蔵全盛に吉良上野介義央はずっと白眼視されてきたが、この村の義央に対する敬愛の気持は年々強くなり、昭和六年〔一九三一〕、二百三十年祭が行われたときには、村を二つに割るような政争の真最中だったのに、この企てに村民が一致して手をにぎり、また大正十四年〔一九二五〕から始まった村の耕地整理にも起工、完工の式はいずれも義央墓前で行われた。またこの村でば忠臣蔵の芝居をすると火事が起るといいつたえ、明治ごろまでは絶対に行われなかった。もっとも昭和になってからは時々は行われるようになったが、芝居の前には必ず義央の墓にお参りするという。華蔵寺では毎年新暦十二月十四日の夜、義央忌の句会と法要が営まれ、旧の十二月十四日は横須賀村の「吉良公史蹟保存会」が追弔会を行うほか、十年、二十年目ごとに盛大な法要が営まれる。
  松風や恩讐もなく義央忌      ―野蒜
 赤穂義士討入りのとき、きり死にした清水一学(俗にいう一角)は横須賀村宮迫(ミヤバサマ)の生まれ、元禄五年(西暦一六九二)義央が十五歳の少年藤作を認めて江戸につれ帰り、一学と名のらせた。その墓が宮迫の茶臼山のふもとにあるが、華蔵寺住職黒柳禅英師の話だと、その子孫がこの村に残っているということだ。また尾張藩士で京都三十三間堂の通し矢に名をあげた星野助左衛門(西暦一六四二~一六九六年)も同じ宮迫の出身である。
 ところで義央の相手の浅野内匠頭長矩(タクミノカミナガノリ)の先祖は一宮市浅野の出身、秀吉の正室寧々(ネネ)の妹婿浅野長政で、長政の第三子長重が父の隠居料五万五千石を継ぎ、その子長直のとき常陸から播州赤穂に移った。その孫が長矩で、本家の浅野氏は当時芸州広島四十二万六千石の城主であった。それはともかく、興行界ではいつも景気直しといわれた忠臣蔵熱に、世の冷い憎悪を一身に受けてわずかに旧領地にいれられた義央の不運は思えば哀れなものがあろう。かつてこの華蔵寺を訪れた歌人土屋文明氏も「雲母(キラ)寺に古しへの話聞きをれば、人の世はいまもいつはり多し」とよんでいる。

*このブログの人気記事 2018・12・17(8位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする