礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

井上馨「山県はあゝ云ふ一徹者だから」

2019-04-15 00:31:33 | コラムと名言

◎井上馨「山県はあゝ云ふ一徹者だから」

 国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介している。本日は、その五回目で、「六、伊藤公の洋行」、「七、断乎として野に下る」、および「八、慶喜公の身の上」を紹介する。

  六、伊藤公の洋行
 それで早速其の相談をした所が、誰れ彼れと云ふよりは、伊藤〔博文〕公が一番適任だ、公を派遣するのが最も適任だと云ふ事になつて、随員として芳川顕正、福地源一郎〔桜痴〕の両人をつけ、別に実務方面を担当させる為めに吉田二郎が加つて、大蔵省としての活動の基礎案を作る為めに渡欧の途に上りました。これが明治三年〔一九七〇〕冬の事でありました。
 貨幣を作る方法も解らぬし、補助貨とは一体どうするものかと云ふ事すら判然しなかつたのですから、一行が欧羅巴に着いて、制度上の調査報告をして来ると、それについて改正掛ではいつも大議論が湧き立つたものでありました。其の内には赤松則良も居れば、前島密も居り、駅逓とか、鉄道とか、軍艦について、叱られたり、争つたりしたものでありました。首脳者は云ふ迄もなく、大隈〔重信〕侯で、私共は其の下に小さくなつて居た訳であります。
 四年〔一九七一〕四月頃一行が帰朝すると、早速国立銀行制度を立てる事になつた。元来この制度は千八百六十年〔明治三〕の制度であるのが伊藤公の原案で、外国の制度をその侭福地に翻訳させて、出来上つたのが五年〔一九七二〕十月頃の事でありました。そこで直ちに之を公布すると云ふ事になりました。

  七、断乎として野に下る
 私はもう好い時機であるから、身を政府から引いて、予て〈カネテ〉の素懐である官民調和の事業に投じ、民間資力の発達に力を注ぎたいと考へました。その内に私が最も親密にして居た井上〔馨〕侯が政府要路の人々と衝突して辞職する事になつた。当時最も直接に井上侯の仕事にお手助して居たのは私だつたから、これを好機会として、私も辞職を申出で〈モウシイデ〉ました、ところが井上さんから色々お話があつて、今やめられては困るから、是非留任しろと云ふので、私は予てからの私の考へを詳しく述べて、政治上には全く何の野望もない、私は一身を擲つて〈ナゲウッテ〉民間の事業の発達に努力したいから、何と仰せられても辞職させて呉れと云つて聞かなかつた。その頃伊藤公は大蔵省から離れて居ましたから、別に相談も交渉もしませんでした。それに四年の冬、岩倉〔具視〕大使一行が欧米に行き、公も副使の一人だつたので、帰朝してからも其の方の仕事が忙しかつたので、私が辞職する時には、少しも関係されませんでした。
 其の後は私は民間に下り、公はいつも政府の要路に立たれたので、直接に接して事を論ずると云ふ事はありませんでしたが、銀行家として、国家が国難に直面した場合などは色々御相談も受け、お話もしました。此の方面の事で直接に援助せられたのは井上侯でしたが、伊藤公も最も古い、且つ私と云ふものを能く御理解下さつた友人として、彼是〈カレコレ〉力を添へて下さいました。

  八、慶喜公の身の上
 殊に私の忘れる事の出来ぬのは、旧主人たる〔徳川〕慶喜公の身の上の事を色々とお願ひした事であります。私も不肖ながら心配をしまして、家計上には何うにか困らぬ様に致しましたが、維新以来ずつと静岡に蟄居せられて、三十年間も世間に顔出しをせられぬ有様を見ては、私としては何としても坐視する事が出来ませんでした。それで懇意づくで、伊藤公にお目にかゝると、いつも私は愚痴を云つて、あゝして置かれるのは余りにひどい、何とか取針つて頂きたいと申しました。この事では伊藤公は特に心配をして下さいました。いつの事でしたか、私は大磯の旅宿で偶然山県〔有朋〕公に面会したので、其の話をすると、公は非常に立腹不機嫌で、それこそ剣もホロロの話でした。それから私は井上侯に其の話をすると、侯は笑つて、山県はあゝ云ふ一徹者だからと云ひながら、吾々も心配して居るから悪い様にはせぬ、併し此の事は余り人には云はぬが好い、唯伊藤にだけは耳に人れた方が宜からうと云ふ話でありました。
 それで伊藤公にお話すると、大変に同情されて、暫く時機を待つが宜い、それに慶喜公も今日の様に静岡にばかり引込んで居ないで、時々は東京の実家などにも顔を出される様にしては何うか、と云ふ様な話もありました。そのうちに多分公が御心配下さつたものでせう、突然慶喜公は麝香間伺候を仰付られ、三十五年〔一九〇二〕には故南洲翁〔西郷隆盛〕の遺族と共に、公爵家として御取立てになりました。当時私は米国に居りましたが、三十五年六月二日、シカゴの旅館で此の電報を受取つた時は、多年の心願が叶つて自ら嬉し涙を禁じ得なかつた程であります。

 文中、「麝香間伺候」は、原文のまま。正しくは、「麝香間祗候」。読みは「じゃこうのましこう」。明治維新の功労者を遇するため、明治初期に置かれた資格である。

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激しい議論家で相手を説破せねば止まぬ

2019-04-14 00:53:31 | コラムと名言

◎激しい議論家で相手を説破せねば止まぬ

 国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介している。本日は、その四回目で、「五、伊藤公との初対面」を紹介する。

  五、伊藤公との初対面
 その頃大蔵省は伊達〔宗城〕大蔵卿の下に、大隈〔重信〕侯が大輔で、伊藤公が少輔でした。伊達さんは素〈モト〉より看板で、実権は此の二人にありましたが、私が第一に逢つたのは大隈侯でした。これが旧幕府の時代でありますと、新参者が上役に逢ふ時なんてものはそれこそ大変でしたが、さて逢つて見ると案に相違の書生肌で、その間に少しの隔り〈ヘダタリ〉もない。君も僕も勉強中の書生なのだから、堅苦しい事は一切やめて、愉快な書生づき合ひで仕事を遣らうぢやないかと云ふ話なのです。私は驚きもしたし、又非常な愉快を感じたのでした。私は其の時私の考へを遂一述べて、恁う〈コウ〉云ふ次第であるから静岡に帰つて、やりかけた仕事を続けたいと申しますと、大隈侯が仔細に聞き終つて、それは甚だ宜い考への様だが、一を知つて二を知らぬと云ふものだ。君が静岡で会社をやるにした所が、肝腎な政府の財政基礎が纏らなければ根本が出来ぬと云ふものでは無いか、静岡だけでどんなエラい事をやつても、結局それが何れだけの国家を益する事になる。かう云はれましたので、私はお役を頂くのは結構だが、私は何も知りませぬと云ふと、知らぬのはお互だ、私だつて実は何も知らぬ、知らぬから皆なで勉強して、何も彼も新しく作り直さうと云ふのでは無いか、同僚には伊藤と云ふ男も居るから、逢つて置いた方が宜い、此の男は却々理窟も言ふし学問もあるから、何でもお互に胸襟を開いて相談するが宜い、何事も旧幕式では不可ん〈イカン〉と云ふ調子で、旧幕時代の有様とはまるで違ふのに驚きました。其の時私は懐中にお断りの書面を持つて居たので、それを出すと侯は頭から受付けないで、まあ吾々の仲間になつて、見極めのつくまで遣れと云ふので、私も其の時は多少不満でしたが、一面には非常に愉快にも感じましたので、其の侭役人になつて了つた様な次第であります。
 さて其の翌日か翌々日かに伊藤公に逢ひました、これが実に伊藤公と私との四十年に亘つた御交誼の最初だつたのであります。どうも激しい議論家で、どこまでも論じて、相手を説破せねば止まぬと云ふ風の人でありました。無論一見旧知の如く、凡てが書生づき合ひで、旧幕時代のやうな上下の懸隔は露〈ツユ〉程もありません。こゝに至つて私の辞退の念もほんとうに動き出して、かう云ふ具合ならば、何か私にも出来ると云ふ決心がつきました。それで一生懸命に政府と云ふ大本の財政基礎を築かねばならぬと決心した訳であります。
 それからは寄ると触ると大議論で、随分激しかつた事もありましたが、段々相談の結果、大蔵省と云ふ名前は、大宝令のその侭で面白くないが、そんな事はどうでも宜い、当時の大蔵省としては第一の職務が政府の収入たる租税の事ばかりで、他には何もない。これではならぬ、大蔵省の本務は未だ沢山ある筈だから、それから定めて行く必要がある。私はかう感じたので、此の意見を大隈、伊藤の両君に持出しました。それは尤もだと云ふので早速省内に改正掛を置く事になり、巴里から帰つたばかりの新参者の私に其の掛長を仰付けられました。さあ何をして宜いか薩張り〈サッパリ〉解らぬ、何も彼も漠然たるものばかりで手のつけ様がない。それで伊藤公が、こんな具合では真の会計事務はとても出来ぬ。いつまで議論をしても、結局空論に終るだけの事であるから、これは誰かを外国に派遣して、彼地の実際の情況を視察し、制度を研究して来る外無い。欧羅巴には銀行と云ふ便利なものがあるさうだが、それが日本に採用出来るかどうか、太政官制で、兌換〈ダカン〉制度をせねばならぬが、一体その制度はどう云ふ具合に立てたものであるか、誰れ一人として解つて居る者がない、これは誰かを派遣して充分に取調べて貰ふの外はないと云ふ事になりました。

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無下に断ってつまらぬ誤解を受けてもならぬ

2019-04-13 02:16:44 | コラムと名言

◎無下に断ってつまらぬ誤解を受けてもならぬ

 国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介している。本日は、その三回目で、「四、余が大蔵省出仕」を紹介する。

  四、余が大蔵省出仕
 私はこの有様を目撃して、非常に感心したものですから、計らずも主家の非連に際会して、忽ち浪人の身の上となり、何をしやうにも好い考へが浮ばず、最早木から落ちた猿のやうな落魄の身分で、政治をやる見込も立たず、と云つて学問で身を立てる成算もなし、日夜懊悩しながら日本に帰つたと云ふのが明治元年〔一八六八〕の私の身の上でした。と云つて正かに〈マサカニ〉坊主や百姓になる気にもなれませんし、何とか目的を立てる必要があると考へました。此の時に計らず念頭に浮んだのが、即ち仏国に於ける私の見聞だつたのです。
 どうか官民の接触を円滑にして、民間の事業を出来るだけ発展せしめたいと思ふ私の考へに取つては、この仏国に於ける見聞は実際的の教訓となつたのであります。それで私は一切の野望妄想を皆な拾てゝ、これを一生涯の仕事として造つて見やうと覚悟しました。従つて明治政府に出仕しやうと云ふ様な考へは夢にも無かつたのであります。
 自惚れ〈ウヌボレ〉かも知れませぬが、当時の私の心は、何とかして君公の為めに尽したい、世の中の為めに尽したいと云ふ念で一杯でした。それで先づ静岡で何かやる事にしましたが、何事も独りでは出来ませぬので、旧幕臣の大久保一翁とか、平岡準蔵とか云ふ人々と相談して、先づ官民合同法の唯今で申せば合資会社ですが、銀行業もやれば倉庫業もやる、趣々雑多の仕事をする会社のやうなものを作りました。幸に各方面の人々が信用して呉れたし、旧藩からも出資して呉れたので、仕事は順調に進んで略々〈ホボ〉十ケ月余りも事業に従事したのであります。
 すると其の年の冬に、突然大蔵省から招かれたのであります。私は折角仕事を初めた時だからと云ふので、お断りをして頂きたいと申しましたが、兄から色々に諭されて、お前は目下浪人の身柄だし、弱年者であるが、何かお役に立つ事が出来たのであらう、折角招いて呉れるのを無下〈ムゲ〉に断つて、つまらぬ誤解を受けてもならぬから、どんな職務を与へられるのか、兎も角〈トモカク〉出かけて見た方が宜いと懇々論されました、それで愈々出京したのは、忘れもせぬ明治二年〔一八六九〕十一月で、私は直ぐ租税頭を仰付けられました。何も知らぬので、随分面喰つた次第であります。

 文中、「兄」とあるのは、義兄の尾高惇忠(おだか・あつただ)のことであろう。尾高惇忠は、渋沢栄一の従兄にあたり(父の姉の子)、また渋沢栄一の最初の妻・千代は、尾高惇忠の妹であった。つまり、渋沢栄一にとって、尾高惇忠は、従兄であり、かつ義兄であったことになる。ちなみに、渋沢栄一は長男だったので、実兄はいない。

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どんな馬鹿でも役人でさえあれば無暗に威張る

2019-04-12 05:14:26 | コラムと名言

◎どんな馬鹿でも役人でさえあれば無暗に威張る

 国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介している。本日は、その二回目で、「二、慶喜公の政権奉還」と、「三、官民調和の決心」を紹介する。
 
  二、慶喜公の政権奉還
 愈々民部大輔〔徳川昭武〕の一行が内地を出発したのは慶応三年一月十三日か其の翌日かでした。乗船はカサジリ・アンぺリアル丸で、馴れぬ長途の船旅で随分困難もしましたが、どうやら無事に仏国に着くことが出来ました。ところが其の頃我国の内地では到る所大変な騷ぎで、御承知の通り慶応三年十月十四日に慶喜公が政権を返上し、翌年正月三日にば伏見鳥羽の衝突がありました。此の時の慶喜公の立場は何とも申されぬ苦しいものがあつたと察しますが、併しながら公が早くも邦家の前途百年の後を慮られて、仮令〈タトイ〉如何なる理由あるにもせよ、苟も〈イヤシクモ〉臣子の分として錦旗に刃向ふ事は絶対に出来ぬ。要するに自分の不運不徳から茲に至つたのであるから、今は断乎として覚悟せねばならぬ秋〈トキ〉である。かう考へられて直ぐに政権返上を断行せられたのであります。若し此の時に、慶喜公に一家を顧みて邦国を念ふの心なく、己れを捨てゝ国に殉ずるの覚悟が無かつたならば、王政復古はあれ程すらすらと穏便には出来なかつたであらうと思ひます。公が是非善悪の一切を度外視して、全く世人の意表外に出た思ひ切つた態度は、実に立派なものでありました。後年福沢諭吉翁までが、「瘦我慢の説」と云ふ論を書いて、公の態度を批難した程ですから、一般世人が如何に意想外であつたかは察せられるのであります。

  三、官民調和の決心
 内地がかうした混乱に陥つたのと、一方には民部大輔が水戸を相続せねばならぬ事となりましたので、残念ながら勉強を打切つて、一行は急いで帰朝する事となりました。それはちようど明治元年〔一八六八〕の冬でしたが、帰つて見ると日本の状態はもうすつかり変つてゐる。私なども維新の運動には万更〈マンザラ〉関係が無かつた訳でもありませぬが、主人と仰いだ将軍は静岡に隠遁して、全く世捨人になつて了ひましたし、私としても勉強の中途で帰つた身柄ですから、誰を頼る道もありませぬ、初めは政治界に身を投じやうと云ふ念も無論あつたのですが、環境がかうなつては何うする事も出來ぬ。一先づ静岡に往つて、さて是れから何をしやうかと、色々自問自答した結果、一層田舎に引込んで百姓でもしやうかと迄思つた程でした。
 併し能く能く考へて見ると、それも余りに意気地が無い、何か世の中の為めに尽す事は無いか、自分の力で出来さうな事は無いか、斯様〈カヨウ〉に色々考へて見た結果、私が思ひついたのは、官民の調和と云ふ事でありました。その頃の世相は、唯今から見れば全く想像もつかぬ様な事ばかりでしたが、殊にひどかつたのは官民の懸隔でありました。どんな馬鹿でも低能でも、役人でさへあれば無暗に威張る、そして百姓町人は頭から奴隸扱ひにされたものです、自然言葉遣ひなども違つてゐたし、是非善悪を問はず、たゞ圧迫されたもので、実にひどいものでした。
 ところが欧羅巴では決してそんな事がない。民部大輔が仏国に滞在して居られた当時、奈翁三世から特に選んで附けられた教育監督のコロネル級の軍人でも、また一切の俗事方面を担当したコンソル、ゼネラルでも、実に能く調和して最善の取計らひをしたものでした。私も段々言葉を覚えて来て両人の応待内容も少しは解るやうになりましたから、俗事方面の事は大抵私が引受けて各方面の人々にも接触しましたが、どこに対しても皆な平等でした。この外国人の監督同志でも時に議論をする事がある。私が傍〈ハタ〉で見てゐると、多くの場合民間出の人の方が理屈が宜しいので、始めは色々議論をするが、理屈がわかると直ぐ解決して、民間出の人の方が勝つ、かうした点は私が日本で見て来た所とは大変な違ひのものでありました。

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渋沢栄一、伊藤博文との交遊40年を語る

2019-04-11 00:19:20 | コラムと名言

◎渋沢栄一、伊藤博文との交遊40年を語る

 次期一万円札の肖像は、渋沢栄一になるという。この報道を聞いて、五年ほど前に、このブログで、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章に一部を紹介したことを思い出した(「伊藤博文、徳川慶喜に大政奉還の際の心中を問う」二〇一四・六・一五)。
 この文章は、国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)という冊子の末尾に置かれている。
 同冊子は、一九二九年(昭和四)一〇月二六日夜に、東京市公会堂で開催された「伊藤博文公遭難二十周年」を記念する講演会(主催・国民新聞社)の記録である。
 渋沢栄一は、実は、この講演会には参加していない。参加して講演する予定だったが、病気のために断念したという。渋沢は、講演会の翌日、国民新聞記者を招いて、講演の内容を口述したという。そういう経緯から、同冊子の末尾には、渋沢栄一の「講演」が載っているが、厳密に言えば、「講演」記録というより、記者に対する「口述」の記録といったところだろう。
 ともかく、本日以降、何回かに分けて、この「辱知四十年の回顧」という文章を紹介してみたい。

 辱 知 四 十 年 の 回 顧      子爵 渋 沢 栄 一

 編者曰く、講演会当日、老子爵は微恙を冒して熱心に出席講演を主張されたが、家人並に医師の切なる勧告があつた為め、遂に出演を思ひ留まられた、こゝに掲げたのは講演会の翌日、特に記者を招いて当日の講演要領を口述せられたものである。(文責在記者)

 諸君伊藤公と私との関係は、公が政党を組織せられてから、稍々親みが薄らぎましたが、併し間もなく両者間の意思も疏通して、晩年には矢張り昔の親密に立帰つたのであります。回顧して四十年間に亘つた綿々尽きせぬ好意の跡を尋ねると、実に公と私との間は、世に云ふ奇縁とも申す程に、公も感じられたと思ひますし、私も今以てさう感じてゐる。私は何も進んで世に蝶々する訳では無いが、折から公の薨去二十年祭が挙げられ、其の功勲を記念する為めに講演会が開かれる一方に、遺墨展覧会も催されて、此の偉大なる国家の功臣に対する国民的尊敬が払はるゝ時に際して、親しく高誼を承けた一人として、一場の追憶談を試みるのも、決して徒爾〈トジ〉ではないと信ずるのであります。
 諸君、私が初めて大蔵省に出仕したのは、明治二年〔一九六九〕十一月初旬の事であつたと記臆して居ります。
 私は初め〔一八六七〕徳川民部大輔(昭武)に随つて仏国に往きました。これは慶喜公が将軍になられると、公は色々未来の事に深き考慮を払はれて、恰も〈アタカモ〉巴里に大博覧会が開催せられたのを機会に、表面は特派使節の名義として、実は親しく海外の事情、文物制度を硏究調査せしむるのが目的だつたのであります。仏コ久普ツ佛国政府から招かれて巴里に出掛けたのは、多くは其の国の元首でありましたが、我国からは慶喜公自身の旅行は凡ての事情から出来やう筈がない、そこで云はゞ名代として実弟の民部大輔を派遣したのであります。

  一、余が最初の洋行
 民部大輔の一行は一通り博覧会の実視が済むと、皇帝奈翁〔ナポレオン〕三世に頼んで、五年間ばかり勉強してから帰朝すると云ふ予定でありました。此の行に加つた人で、民部大輔の御附人としては七人もあつたが、何れも水戸藩の人々でありましたから、少し気慨のある者は必ず攘夷家と定まつてゐました。理屈も何も無しに外国人は排斥する、外人とさへ見れば直ぐ手を挙げると云ふやうな危険極まる人々であつた。その頃私はまだ十四歳の小僧でしたが、攘夷党の一人であつた事は申す迄もない。けれども私は幼少から支那文学などを少々研究したし、他少世間馴れしても居ましたから、他の人と比べると、同じ攘夷仲間でも、幾らか角〈カド〉が折れて居たと云ふ訳でした。
 当時幕府の外交上の仕事を担任して居たのは向山隼人正〈ムコウヤマ・ハヤトノショウ〉(黄村)でしたが、民部大輔を巴里へ特派するに就ては、特に此の人の尽力が厚かつたのであります。また慶喜公が将軍になつた時に、特に御目附役を仰付られた水戸藩士で、藤田東湖先生の高弟の原一之進〈ハラ・イチノシン〉と云ふ人がありましたが、此の人が却々〈ナカナカ〉よい人で、民部大輔を留学させるには第一番に骨を折つた人でした。これからの日本はどうなるか解らぬ、本来ならば将軍が親しく海外の事情を研究せねばならぬのであるが、今日の場合それは出来ぬから、親身の実弟を派遣して、五年か十年充分に勉強させたい、と云ふ慶甚公の意見を体して、当時一般では、民部大輔は外国へ人質に取られるのだと云ふ様な流言さへあつたにも拘らず、断乎として派遣する事になり、それには誰ぞ頼みになる者を附けて遣りたいと云ふので、将軍から原に御相談があつた。その時原が、御附人として行く者が攘夷家ばかりでは困る、それには渋沢徳太郎(私の前名です)は弱年ではあるが、角も折れて居るし、将来に見込のある男であるから、彼れを御附けになつたが宜しいと云ふお話があつた。私が身分もない一少年であつたに拘らず、特に随行の内命を受けたのは恁う〈コウ〉した関係からでありましたが、何分身分の低い者ですから、直接の御側仕へなどは出来る筈もなかつたのであります。

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