◎井上馨「山県はあゝ云ふ一徹者だから」
国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介している。本日は、その五回目で、「六、伊藤公の洋行」、「七、断乎として野に下る」、および「八、慶喜公の身の上」を紹介する。
六、伊藤公の洋行
それで早速其の相談をした所が、誰れ彼れと云ふよりは、伊藤〔博文〕公が一番適任だ、公を派遣するのが最も適任だと云ふ事になつて、随員として芳川顕正、福地源一郎〔桜痴〕の両人をつけ、別に実務方面を担当させる為めに吉田二郎が加つて、大蔵省としての活動の基礎案を作る為めに渡欧の途に上りました。これが明治三年〔一九七〇〕冬の事でありました。
貨幣を作る方法も解らぬし、補助貨とは一体どうするものかと云ふ事すら判然しなかつたのですから、一行が欧羅巴に着いて、制度上の調査報告をして来ると、それについて改正掛ではいつも大議論が湧き立つたものでありました。其の内には赤松則良も居れば、前島密も居り、駅逓とか、鉄道とか、軍艦について、叱られたり、争つたりしたものでありました。首脳者は云ふ迄もなく、大隈〔重信〕侯で、私共は其の下に小さくなつて居た訳であります。
四年〔一九七一〕四月頃一行が帰朝すると、早速国立銀行制度を立てる事になつた。元来この制度は千八百六十年〔明治三〕の制度であるのが伊藤公の原案で、外国の制度をその侭福地に翻訳させて、出来上つたのが五年〔一九七二〕十月頃の事でありました。そこで直ちに之を公布すると云ふ事になりました。
七、断乎として野に下る
私はもう好い時機であるから、身を政府から引いて、予て〈カネテ〉の素懐である官民調和の事業に投じ、民間資力の発達に力を注ぎたいと考へました。その内に私が最も親密にして居た井上〔馨〕侯が政府要路の人々と衝突して辞職する事になつた。当時最も直接に井上侯の仕事にお手助して居たのは私だつたから、これを好機会として、私も辞職を申出で〈モウシイデ〉ました、ところが井上さんから色々お話があつて、今やめられては困るから、是非留任しろと云ふので、私は予てからの私の考へを詳しく述べて、政治上には全く何の野望もない、私は一身を擲つて〈ナゲウッテ〉民間の事業の発達に努力したいから、何と仰せられても辞職させて呉れと云つて聞かなかつた。その頃伊藤公は大蔵省から離れて居ましたから、別に相談も交渉もしませんでした。それに四年の冬、岩倉〔具視〕大使一行が欧米に行き、公も副使の一人だつたので、帰朝してからも其の方の仕事が忙しかつたので、私が辞職する時には、少しも関係されませんでした。
其の後は私は民間に下り、公はいつも政府の要路に立たれたので、直接に接して事を論ずると云ふ事はありませんでしたが、銀行家として、国家が国難に直面した場合などは色々御相談も受け、お話もしました。此の方面の事で直接に援助せられたのは井上侯でしたが、伊藤公も最も古い、且つ私と云ふものを能く御理解下さつた友人として、彼是〈カレコレ〉力を添へて下さいました。
八、慶喜公の身の上
殊に私の忘れる事の出来ぬのは、旧主人たる〔徳川〕慶喜公の身の上の事を色々とお願ひした事であります。私も不肖ながら心配をしまして、家計上には何うにか困らぬ様に致しましたが、維新以来ずつと静岡に蟄居せられて、三十年間も世間に顔出しをせられぬ有様を見ては、私としては何としても坐視する事が出来ませんでした。それで懇意づくで、伊藤公にお目にかゝると、いつも私は愚痴を云つて、あゝして置かれるのは余りにひどい、何とか取針つて頂きたいと申しました。この事では伊藤公は特に心配をして下さいました。いつの事でしたか、私は大磯の旅宿で偶然山県〔有朋〕公に面会したので、其の話をすると、公は非常に立腹不機嫌で、それこそ剣もホロロの話でした。それから私は井上侯に其の話をすると、侯は笑つて、山県はあゝ云ふ一徹者だからと云ひながら、吾々も心配して居るから悪い様にはせぬ、併し此の事は余り人には云はぬが好い、唯伊藤にだけは耳に人れた方が宜からうと云ふ話でありました。
それで伊藤公にお話すると、大変に同情されて、暫く時機を待つが宜い、それに慶喜公も今日の様に静岡にばかり引込んで居ないで、時々は東京の実家などにも顔を出される様にしては何うか、と云ふ様な話もありました。そのうちに多分公が御心配下さつたものでせう、突然慶喜公は麝香間伺候を仰付られ、三十五年〔一九〇二〕には故南洲翁〔西郷隆盛〕の遺族と共に、公爵家として御取立てになりました。当時私は米国に居りましたが、三十五年六月二日、シカゴの旅館で此の電報を受取つた時は、多年の心願が叶つて自ら嬉し涙を禁じ得なかつた程であります。
文中、「麝香間伺候」は、原文のまま。正しくは、「麝香間祗候」。読みは「じゃこうのましこう」。明治維新の功労者を遇するため、明治初期に置かれた資格である。