礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

私利と公益とは決して別なものではない(渋沢栄一)

2019-04-20 02:20:51 | コラムと名言

◎私利と公益とは決して別なものではない(渋沢栄一)

 土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の二「日本資本主義の父渋沢栄一の政治経済思想」を紹介している。本日は、その三回目。「(二)国家と人民――公利と私利」の前半部分を紹介する。『 』内は、渋沢栄一の文章である。

    (二) 国家と人民――公利と私利
 国家と人民に関する思想も「政治と経済」に関する彼の見解から当然導かれねばならない。三二年〔一八九九〕五月朝鮮視察より帰朝して大阪経済会の歓迎会席上に於て、京城の道路が国王の道たる東西南等の大門に通ずる分の実に完全壮大、我が東京にも稀に見る所なるに反し、其他人民の道は狭隘【けふあい】不潔殆んど見るに堪へざりしことに言及して、
『国家思想の幼稚にして一般人民の微力なる思ひ見るべし。‥‥要するに韓国の実状は国王官吏等のみ至上の権力ありて専横至らざるなく、人民は只々【たゞたゞ】其酷待に甘んじて何の為す所を知らず。国民無気力の甚しきは寧ろ憫【あはれ】むべきものあり。』
 と語ったことによつて想見されよう。又三十三年〔一九〇〇〕第二次韓国視察を終へて帰途、広島商工会議所に於て、韓国にあつては私有財産の安固なく、国王は国民を宛【あだか】も祖税を搾り出す機械の如く遇する様を述べて『宛も暗黒の世界』と述べた。
 三十年〔一八九七〕七月「商工業者の志操」と題する演説の中で『一体国家と云ふものは何から成り立つてゐるか』と自問し、国家と個人との関係を次の如く論じてゐる。
『一体国家と云ふものは何から成立つてゐるかと云つたら、即ち個人が多数集つて国家を成すのぢやありませぬか。』
 国家と人民をかく理解したからこそ、私利即ち公利として両者を同一視することが出来たのである。そしてそれは我々をして英国正統派を直ちに連想せしめる。
『各自が利益を営むと云ふ其私利と公益と云ふものとは、私は決して別なものではないと思ふ。動【やゝ】もすると国家の為に云々、君恩を報ずる為にどうすると云うて、まるで之を他の人事の為にするが如くに論じて、商売人が事業を営むことを、ほんの唯々【たゞたゞ】自分の栄誉栄華【えいよえいぐわ】をしたいが為め、若くは自分の妻子に幸福を与へたいと云ふ私慾に係るが如く看做すと云ふ弊があるです。‥‥或る事業を行つて得た私の利益と云ふものは即ち公けの利益にもなり、公けに利益な事を行へば又それが一家の利益にもなり、子孫の計を為す訳にもなる。』【以下、次回】

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商工業が国家の基礎である(渋沢栄一)

2019-04-19 01:40:27 | コラムと名言

◎商工業が国家の基礎である(渋沢栄一)

 土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の二「日本資本主義の父渋沢栄一の政治経済思想」を紹介している。本日は、その二回目。前回、紹介した部分のあと、次のように続く。『 』内は、渋沢栄一の文章である。

『維新後商工業界の気運一転し、経済社会百般の事業共に勃興したりと雖【いへど】も、是とて商工業者の自動によりて起れるにあらず。全く政治の力に誘導せられて他動的に興起したりしに過ぎず。即ち交通機関の如き、商工業組織の如き凡【すべ】て政治の力によりて欧米より移入せられしが、欧米諸国に在りては夙【つと】に商工業の国家の基礎となすの旨義【しぎ】を取り居れるが故に、此の商工国本〔商工業が国の基礎〕の旨義も移入せられて漸次大成の素を成したるものの如し。』
『抑【そもそ】も我国実業家の位置卑く其の勢力の微弱なるは予の平素最も遺憾とする所にして実業家の位置を高め、其勢力を伸張するの必要に就ては毎【つね】に咽喉【のど】を枯らし舌頭【ぜつとう】を爛【ただ】らすを知らずして世人の注意を喚起したり。何となれば我国に於ける実業と政治との関係は実に前述する所の如くにして、斯【かゝ】る状態に安んずるは国家の実益を進むる所以にあらざればなり。斯く言へばとて予は政治と実業とを全く隔絶せよと希望する者にあらず。実業の発達にも政治の保護を必要とするは勿論なり。唯々【たゞ】実業家の位置勢力能く政治家を動すに至るに非ざれば発達は期すべからざる物にして希望する所は此の点にあり。』
『武官並びに外交官の御方々は畢竟【ひつきやう】するに我々実業者の先鋒にあらずして、実に我々の為には後背に在りて援護の労を採らるゝに過ぎざるものなり。而るに却て武官や外交官が主となり、我々実業家は後方より附託して漸く自家頭上の経営を為すが如きは我も人も甚だ遺憾の極ならずや。』
 政治と経済の関係に於いてかゝる認識に達してゐたが故に、日清戦後に於て(日露戦後に於ても同様であつたことは我々の既に見た所である。)次の如く述べて軍備の縮少、商工業の負担軽減、財政経済の均衡を主張したのであつた。
『国として真に隆盛の運に達すると云ふのは大【おほい】に商工業が拡張したる有様を言ふのである。故に政治は常に其商工業の拡張を助くるが要旨ではあるまいか。‥‥商工業者があつてそれを保護する為に政事家も軍人も要ると云ひたい。』
 そして三十二年【一八九九】鉄道国有調査会設置に当つて国有反対を叫んだのも全く同じ根拠に基いたのである。
『国の進歩発達に大関係【だいくわんけい】ある運輸交通の機関は軍隊の輸送を目的とすべきか、将【は】た商工業の平時輸送を目的とすべきかと云ふことである。』【以下、次回】

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渋沢栄一の政治経済思想(土屋喬雄『渋沢栄一伝』より)

2019-04-18 05:13:47 | コラムと名言

◎渋沢栄一の政治経済思想(土屋喬雄『渋沢栄一伝』より)

 渋沢栄一の話が続くが、本日以降、土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)を紹介してみたい。
 本日は、同書から、別篇の二「日本資本主義の父渋沢栄一の政治経済思想」を紹介する。『 』内は、渋沢栄一の文章である。

    日本資本主義の父渋沢栄一の政治経済思想
 封建社会の胎内から躍り出でた若き日本資本主義を指導育成し、確乎たる資本主義制度に成人せしむることこそ、渋沢栄一に課せられた歴史的役割であつた。この役割を果すべく彼は全努力を注ぎ、全精力を傾け尽した。彼の全事業はかゝる役割の遂行に外ならなかつた。そして彼の全思想も亦かゝる歴史的役割から理解されなければならない。
    (一) 官尊民卑打破と商工主義
 世末だ封建の夢醒めやらず、政治万能の思想が人々の頭脳を支配し、官尊民卑の風なほ世を覆つてゐた時、渋沢栄一は早くも国家富強の基礎は商工業にあることを認識してゐた。
『明治の時代になりまして‥‥も因襲の久しき前官尊民卑の風は遽【には】かに消除することは出来ませぬ。加之【しかのみならず】維新の革命は諸藩士の力に依りしものと云ふべき程でありましたから、天下の人士は皆強く政治思想に傾きまして、有為の人物は勿論一芸一能ある人までも悉く官途を企望するの有様にして、我日本の商工業の衰退を憂ひて之を隆興せんと企図せしものは実に落々晨星【らくらくしんせい】の姿でありました。』
『先づ私【わたし】がその時(明治六年〔一八七三〕株式会社創立の頃)に考へますには、此の日本を欧米各国と肩を列【なら】べると云ふ迄には行【ゆ】かいでも、東洋の固陋【ころう】に安んぜしめないやうにするには、唯【たゞ】政治的理想の観念ばかりで進めて行つてはならぬ。是非経済的即ち商工業と云ふものを進めて、国の実力が盛んにならなければ将来国家の富強と云ふことは迚【とて】も期し難いといふことを厚く信じたのである。』
 既に経済の優位を認めたのである。さればこそ、我国経済の発展が常に政治上の保護助長――かゝる明治政府の資本主義化政策は政府自身の存立発展のための不可避的な途【みち】であつたのである――によつて行はれたことを遺憾とし、商工業の独立的発展の必要を高唱したのである。【以下、次回】

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これを我輩に一万両で譲つてくれぬか(伊藤博文)

2019-04-17 02:49:53 | コラムと名言

◎これを我輩に一万両で譲つてくれぬか(伊藤博文)

 国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介している。本日は、その七回目(最後)で、「十一、公と私との大衝突」と「十二、回顧四十年の夢」を紹介する。

  十一、公と私との大衝突
 或る日の事でしたが、公の霊南坂邸から電話があつて、私に一寸来て呉れぬかと云ふので、お訪ねすると、間もなく晩餐になり、卓を共にして色々話して居る内に、又しても話は政党組織の事に落ちました。その内に公はいきなり筆を執つて巻紙にすらすらと何か書いて、君の意見はこれに相違あるまいと云はれました。此の書は遺墨展覧会にも出品せられ程ですから、諸君も定めし御覧になられた事と存じます。
 あの書を書かれて、これに相違なければ署名せよと云はれたので、私は直ぐ署名しました。すると愈々起つて立憲政友会を組織する事になり、私にも入党せよと云はれたから、私は賛成はするが入党は出来ぬとお断りした。公は大変な立腹で、渋沢と云ふ男はひどい男だ、自分に政党組織を勧めて置きながらいざとなると逃げを打つなんて余りに友情がない、かう云つて大変に立腹された、それで私は去る明治五年〔一八七二〕に意を決して政治界を離れた時からの覚悟を詳しく述べて、私は決して逃げ口上を云ふのではない、同意と仲間とは別問題だ、私には是非ともせねばならぬ実際問題がある。私不肖なりと雖も、政党に入る以上は、屑々〈セツセツ〉たる一陣笠にはなりたくない、さすれば何かの機会には、当然の結果として政治の当面に立たねばならぬ事が生じて来るに相違ない、恁うなると私が幾十年の決心も覚悟も皆覆されて了ふ、のみならず私が銀行業を始めたに就ては、株主に誓つた言葉もあるから、自分の一存でこれを反故〈ホゴ〉にする事は男として出来ぬ。かう云つてお断りしたが公の立腹は容易に解けませんでした。それで私は井上〔馨〕侯に詳しく事情を訴へると、侯は私の立場を能く了解されて、其の後伊藤公にも話されたものでせう、私と公との間は矢張り昔の通りの親密に返りました。

  十二、回顧四十年の夢
 公は至つて負け嫌ひの人で、岩倉〔具視〕大使一行と共に米国から帰られた頃、一寸大久保〔利通〕公から睨まれた事がありました。その頃井上侯は大久保の下に大輔で、私はその下に居りましたが、公は大阪に転任を命ぜられたのです。廃藩置県の当時で、政府は大多忙の時でしたが、公は大阪から私に書面を送られて、君等〈キミラ〉は大そう忙しさうに得々然として居て、僕の境遇に同情せず、慰めても呉れぬのはヒドイと愚痴をこぼされた事がありました。後年この書面を公にお目に掛けると、流石に撫然として今昔の感に堪へぬと云ふ御様子でしたが、これを我輩に譲つてくれぬか、一万両出すと云はれました。いや十万が百万でもお譲りは出来ぬと笑ひましたが、此の書面も大震災の為め焼失して了ひました。
 私が渡米実業団と共に渡米して、ウースター〔Worcester〕に到着した日に、公がハルビン駅頭で遭難されたと云ふ電報に接しましたが、他郷の客舎に此の報を得て、過ぎ去つた四十年に亘る交誼の跡をそれからそれと思ひ起し、実に何とも云へぬ悲痛の感を抱いて一夜を明かしました様な次第であります。段々お話すると際限もありませんからこの辺で終りと致します。

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渋沢栄一、伊藤博文に政党組織を勧告

2019-04-16 03:51:57 | コラムと名言

◎渋沢栄一、伊藤博文に政党組織を勧告

 国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介している。本日は、その六回目で、「九、伊藤公と慶喜公」と「十、政党組織の勧告」を紹介する。
 このうち、「九、伊藤公と慶喜公」は、一度、このブログで紹介したことがある(「伊藤博文、徳川慶喜に大政奉還の際の心中を問う」二〇一四・六・一五)。

  九、伊藤公と慶喜公
 伊藤公が〔徳川〕慶喜公に対面されたのは、多分私の宅でが最初であつたと際しますが、両公について面白い話があります。いつ頃の事か一寸〈チョット〉失念しましたが、私が所用あつて横浜に参らうとすると、汽車中で偶然伊藤公に逢ひました。する公が、渋沢君、君に是非話さねばならぬことがあると云つて話されたのは斯う〈コウ〉云ふ事でした。実は昨夜有栖川宮〈アリスガワノミヤ〉殿下が、来朝された西班牙〈スペイン〉皇族を晩餐にお招きになつて、両公が相客として同じく御招待を受けたのであります。その夜晩餐が済んで、相客の両公が対座された時に、伊藤公が突然慶喜公に向つて、甚だ卒爾〈ソツジ〉な質問をして失礼であるが、これは拙者が永年の疑問として胸底に残されてゐる事で、いつかお目にかふる機会を得たら、お訊ねしたいと思つて居た。それは外でもないがあの政権奉還の際、公が一身を投げ出して、朝命に唯これ従ふと云ふ恭順の態度に出られたのは、全体どう云ふお考へからなされたのか、人に依つては、卑屈とも、賢明とも、表裏両様の解釈が出来るので、甚だ立入つた事であるが、当時の御心中を伺ひたいと云ひ出した。すると慶喜公は言下に答へて、それは甚だ改まつた御質問であるが、実は何もお話する程の良い思慮があつてやつたものではありませぬ。私はあの場合に、予て〈カネテ〉から申含められた親の遺命を思ひ出しました、それで私はその遺命を傍目〈ワキメ〉もふらず奉じた迄の事であります。と云ふ意外千万〈センバン〉なお答でした。それから伊藤公が其の理由をとお尋ねすると、慶喜公は如何にも謙遜な態度で、御尋ねに接して汗顔の次第に堪へませぬ、今更らお話する程の事でもありませぬが、私の生家たる水戸家の勤王は遠く義公〔徳川光圀〕以来の事であります。父の烈公〔徳川斉昭〕は殊に勤王の念の深かつた人で、私が一橋家に入つた時など非常に心配して懇々〈コンコン〉訓諭されました。私が二十歳に達した時などは、改めて小石川の邸に招かれて、これからの邦家は却々〈ナカナカ〉面倒になるが、幼少の折から教へて置いた水戸家の遺訓を忘れてはならぬ、今日は汝が成人の日であるから、特に申付けるとの事でありました。私は父の此の言葉は深く胆〈キモ〉に銘じて、忘れた時はありませぬ、然るに後年四囲の情勢は御承知の如き有様となりましたから、あの場合私としては、此の遺命を奉ずるの外はないと考へたのであります、たゞそれだけの事で、誠に智慧のない遣り方で汗顔の外はありませぬとの返辞でありました。これを聞いて伊藤公が私に云はれるには、実は君から慶喜公の人と為りを屡々聞かされたが、それ程偉い人とは思つて居なかつた。併し昨夜の対談で全く感服して了つた、実に偉い人だ、あれが吾々ならば、自分と云ふものを云ひ立てゝ、後からの理屈を色々つける所だが、慶喜公には微塵〈ミジン〉もそんな気色なく、如何にも率直に云はれたのには実に敬服した、と云ふ様なお話がありました。

  十、政党組織の勧告
 この後も井上〔馨〕侯邸などで折々伊藤公にはお目にかゝりましたが、公はいつも温情を以て、何彼と古い友人の私どもの為めに心配して下さいました。明治三十一年〔一八九八〕頃の事だつたと記臆しますが、私は公にお目にかゝる毎に、いつも公に政党組織の事をお勧めしました。私は政治家ではないから、面倒な議論は知りませんが、私どもの見るところでは、どうも超然内閣なんてものは余りに卑怯です。寧ろ進んで堂々と政党を組織し、どこまでも憲政有終の美を済す〈ナス〉事に努められたい、私はかう云ふ意見で、その事を井上侯にも話したが、伊藤公にお勧めしました。大隈〔重信〕公が改進党を率ゐて居られた時ですから、それに対抗して、伊藤公が一大政党を組織せられたら、こゝに政界の分野も自ら〈オノズカラ〉判然して、立派な政治が出来るに相違ない。ちやうど英国でジスレリーとグラツドストンの二大政治家がしのぎを削つたやうに、伊藤大隈の二大人物が相〈アイ〉対立すると、そこに初めて二大政党が出来ると思つたのです。伊藤公が政友会を組織せられたのは、色々深い慮り〈オモンバカリ〉があつたでせうが、私として見れば、私が口癖のやうにお勧めした意見も、多少は公のお心を励かしたものがあつたと信じて居ます。

「九、伊藤公と慶喜公」に、「有栖川宮殿下」とあるが、第八代の幟仁(たかひと)親王、第九代の熾仁(たるひと)親王、第十代の威仁(たけひと)親王のうち、いずれを指すか、これだけではハッキリしない。しかし、たぶん、威仁親王であろう。なぜかというと、徳川慶喜は、維新以来、三〇年間、静岡に蟄居していたという。一方、第九代の有栖川宮熾仁親王は、一八九五年(明治二八)に亡くなっているからである。

*このブログの人気記事 2019・4・16(家永三郎が人気です)

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