その小説のテーマは嫉妬。
嫉妬やねたみを感じない人は一見幸せなようだが、
それは、愛されなかったがゆえに愛することを知らないからだ、という古典的な命題。
その中でのある登場人物が言うには、
嫉妬というのは、現状に関係なく発生するものなんだそうです。
恵まれているとか恵まれていないといった条件に関係なく生じるんだとか。
成績が悪かったり見た目がパッとしなくても、
だからと言って嫉妬の感情を抱くわけではない・・・
それは頷ける気がします。
僕自身さえない人間だけど、
不公平だと腹立たしく思ったり、ひいきだとやっかんだりすることは少ないから。
だけど、この小説に拠れば、そういう人は
愛されなかったし、愛することもできない可能性があるんだとか
(嫉妬しない ←愛せない ←愛されなかった という理論で)
この例を挙げるのは不適当な気もするけれど、
虐待を受けた子供が親になったとき、子を虐待してしまうケースも現実にあります。
愛されなかった、だから愛せない、の負の連鎖が現実に存在するのは確か。
(ただし、虐待を受けた人が
必ず子を虐待するわけでないことには留意しなければなりません。
割合にすればむしろ少ないのに、偏見をもって見られることも少なくないのだとか)
では僕が嫉妬の感情を感じない(人を愛せない)のは、親に愛されなかったからか?
「親からの愛情」なんて形而上のものをどう判定して良いものやら分かりませんが、
人並みの愛情は受けて育ったと思います。
少なくとも愛されなかったとは感じていません。
これは性格に起因する面が大きいんでしょうかね。
恋人がいるから嫉妬を覚えるっていうのは分かりやすいけれど、
能力の高い人や外見の優れた人に対するやっかみも同じように考えられるんでしょうか。
この小説では一律に「嫉妬」として扱われています。
ということは、どういうこと・・・?
能力を擬人化してみたら、一応説明がつくかもしれません。
「能力」に愛されなかった人は、やはりその「能力」に愛着が持てない。
よってその「能力」により愛された人を見ても、嫉妬の感情は湧かない・・・ってところか。
容姿端麗、成績優秀な人が嫉妬に苦しむ話なので、そう考えると筋が通っています。
恵まれている恵まれていないは関係ないとその人は言っていたけれど、
むしろ恵まれている人ほど嫉妬に苦しむことになりますね。
だから、愛されすぎるのも問題なんです。
十分すぎるほどの愛情を注がれると、
自分も強く愛さないといけなくなり、副作用に苦しむ羽目になるから。
嫉妬の感情を覚えない主人公、みずき(注:女性)は
その事実を突きつけられたとき、強いショックを受けます。
自分は愛されてこなかったし、夫や子を「本当に」愛することは出来ないと―。
だけど、それでも幸せな毎日を送っていたはずなんです。
だったら、それでもいいじゃないか・・・って思いませんか?
わざわざ嫉妬に苦しみながら愛情にあふれた毎日を送る必要なんてどこに・・・?
愛の量だけで幸せが規定されるとは思えません。
「みずき」はそんなことに気づく必要は無かったんです。
不可能ではないにしても克服するのはあまりに難しいから・・・。
僕も別に―・・・
・・・と冷めたことを考えてしまいました。
ネタにしたのは「東京奇譚集」より「品川猿」。
短編1つでこれだけ考える材料になるので、
そういう意味で村上春樹は読みごたえがあります。
なんかテストが近くなると無意味な長文を書いてしまいます(笑
嫉妬やねたみを感じない人は一見幸せなようだが、
それは、愛されなかったがゆえに愛することを知らないからだ、という古典的な命題。
その中でのある登場人物が言うには、
嫉妬というのは、現状に関係なく発生するものなんだそうです。
恵まれているとか恵まれていないといった条件に関係なく生じるんだとか。
成績が悪かったり見た目がパッとしなくても、
だからと言って嫉妬の感情を抱くわけではない・・・
それは頷ける気がします。
僕自身さえない人間だけど、
不公平だと腹立たしく思ったり、ひいきだとやっかんだりすることは少ないから。
だけど、この小説に拠れば、そういう人は
愛されなかったし、愛することもできない可能性があるんだとか
(嫉妬しない ←愛せない ←愛されなかった という理論で)
この例を挙げるのは不適当な気もするけれど、
虐待を受けた子供が親になったとき、子を虐待してしまうケースも現実にあります。
愛されなかった、だから愛せない、の負の連鎖が現実に存在するのは確か。
(ただし、虐待を受けた人が
必ず子を虐待するわけでないことには留意しなければなりません。
割合にすればむしろ少ないのに、偏見をもって見られることも少なくないのだとか)
では僕が嫉妬の感情を感じない(人を愛せない)のは、親に愛されなかったからか?
「親からの愛情」なんて形而上のものをどう判定して良いものやら分かりませんが、
人並みの愛情は受けて育ったと思います。
少なくとも愛されなかったとは感じていません。
これは性格に起因する面が大きいんでしょうかね。
恋人がいるから嫉妬を覚えるっていうのは分かりやすいけれど、
能力の高い人や外見の優れた人に対するやっかみも同じように考えられるんでしょうか。
この小説では一律に「嫉妬」として扱われています。
ということは、どういうこと・・・?
能力を擬人化してみたら、一応説明がつくかもしれません。
「能力」に愛されなかった人は、やはりその「能力」に愛着が持てない。
よってその「能力」により愛された人を見ても、嫉妬の感情は湧かない・・・ってところか。
容姿端麗、成績優秀な人が嫉妬に苦しむ話なので、そう考えると筋が通っています。
恵まれている恵まれていないは関係ないとその人は言っていたけれど、
むしろ恵まれている人ほど嫉妬に苦しむことになりますね。
だから、愛されすぎるのも問題なんです。
十分すぎるほどの愛情を注がれると、
自分も強く愛さないといけなくなり、副作用に苦しむ羽目になるから。
嫉妬の感情を覚えない主人公、みずき(注:女性)は
その事実を突きつけられたとき、強いショックを受けます。
自分は愛されてこなかったし、夫や子を「本当に」愛することは出来ないと―。
だけど、それでも幸せな毎日を送っていたはずなんです。
だったら、それでもいいじゃないか・・・って思いませんか?
わざわざ嫉妬に苦しみながら愛情にあふれた毎日を送る必要なんてどこに・・・?
愛の量だけで幸せが規定されるとは思えません。
「みずき」はそんなことに気づく必要は無かったんです。
不可能ではないにしても克服するのはあまりに難しいから・・・。
僕も別に―・・・
・・・と冷めたことを考えてしまいました。
ネタにしたのは「東京奇譚集」より「品川猿」。
短編1つでこれだけ考える材料になるので、
そういう意味で村上春樹は読みごたえがあります。
なんかテストが近くなると無意味な長文を書いてしまいます(笑