県民大会決議/差別と犠牲の連鎖断とう 沖縄の正当性は自明だ
続々と会場に向かう人の波を見て、沖縄の人々の良識を思った。オスプレイ配備に反対する宜野湾市での県民大会に10万1千人(主催者発表)が参加した。一文の得にもならないけれど、貴重な時間を投じ、公のために動く人々がこれほど大勢いる。われわれはそれを誇りに思っていい。
それに引き替え、「配備は米政府の方針で、日本がどうしろこうしろという話ではない」(野田佳彦首相)という国家トップの発言の、何と軽いことか。住民の命を守る責任も、国の主権も放棄するこの政府にもはや当事者能力はない。沖縄が主体的に解決したい。
生けにえのごとく
それにしても、「差別」や「犠牲」を強要されているという認識が、これほど繰り返された大会はかつてなかった。
大会で共同代表の平良菊・県婦人連合会会長は「沖縄の心を、子どもを犠牲にして、日本の平和が成り立つのか」と問い掛けた。翁長雄志那覇市長は「沖縄は戦前、戦中、戦後、十分すぎるほど国に尽くしてきた。もう勘弁してほしい」と述べた。
日本が米国の歓心を買うために、生けにえのごとく県民が差し出される構造は、もうたくさんだ。あいさつにはそんな思いがにじみ出ていた。今やこれは県民の共通認識と言っていい。
過去、沖縄への基地集中は「地理的優位性」などという論理で正当化されてきた。だが、軍事合理性に照らしても配備の集中はむしろ非合理的だというのは、軍事専門家も指摘することだ。
国土の0・6%の沖縄に米軍専用基地の74%があることの不条理は繰り返し指摘されてきたが、政府に、県外移設でそれを改善する意思はない。基地の集中は単に本土が嫌がった結果だというのは、もはや隠しようもない事実だ。
非民主主義的差別性は米国にも共通する。ハワイでは環境影響評価によって訓練計画を撤回した。ニューメキシコ州では住民の要求で訓練を延期した。だが沖縄では全く聞く耳を持たず、米国内なら厳格に守る設置基準も沖縄ならば無視する。まさに二重基準、差別にほかならない。
差別は「足して二で割る」手法では解決できない。「差別が半分だから許す」という人はいないからだ。ひとたび差別的扱いを自覚すれば、それを解消するまで引き下がれない。その意味で県民の認識は分水嶺(れい)を越えているのだ。
こうした認識は必然的に、本来あるべき状態の模索に行き着く。犠牲を強要される身分を脱し、尊厳ある取り扱いを求める。県民大会はその表れにほかならない。
分断統治
大学生の加治工綾美さんが話す「この青い空はアメリカのものでも日本政府のものでもなく、県民のもの」という言葉は、胸を打った。われわれは誰かの犠牲になるために生まれてきたのではない。その思いは県民共通だろう。
近現代史に連綿と続く差別と犠牲の連鎖を断とう。大会の成功を、そのための出発点にしたい。
ここで大切なのは、県民が結束を維持することではないか。植民地統治の要諦は「分断統治(divide and rule)」という。植民地の住民が仲間割れしていれば、宗主国はさも善意の第三者であるかのように装って君臨できる。米国にも日本政府にも、そのような顔をさせないことが肝要だ。
大会決議はオスプレイ配備を「断じて容認できない」と強調した。つい3日前にも安全飛行できず緊急着陸したばかりの欠陥機を、住民がひしめく沖縄に配備する危険性は誰の目にも明らかだ。
日米両政府は撤回の意思をまだ示さないが、理は沖縄にある。二重基準がまかり通る今の日米の姿を、100年後の世界ならどう見るか。決議は「沖縄はこれ以上の基地負担を断固拒否する」と述べたが、沖縄の要求には世界史的正当性がある。丹念に国際世論に訴え、揺るがぬ決意を示したい。(以上、琉球新報9月10日付社説)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-196700-storytopic-11.html
上記は沖縄の地元紙・琉球新報の社説ですが、わざわざ長々と全文を引用したのも、「配備は米政府の方針で、日本がどうしろこうしろという話ではない」という野田首相はじめ政府首脳の本音を、つぶさに知って貰いたかったからです。
今日も尖閣諸島周辺の領海に中国の監視船が侵入したという事で、尖閣・竹島問題が俄然世間の注目を引いていますが、そんなに尖閣や竹島が大事なら、日本政府や民主党・自民党は何故ここまで福島や沖縄を散々見殺しにしてきたのか。それこそが「分断統治」じゃないか。
先の野田首相の弁明が、その全てを物語っています。今まで散々、そうやって「沖縄の米軍基地化」や「原発推進・核配備」も「米国が決める事で日本は何も言えない」で済ましてきたから、中国も日本の足元を見透かして強気に出てきているのじゃありませんか。「米国の後ろ盾がなければ何も出来ない国だ」と。
だって実際その通りじゃないですか。現民主党政権だけでなく前与党の自民党時代も含め、歴代政府はことごとく、国の主人公たる国民の生命や暮らしよりも米国の意向や大企業の金儲けを図る事ばかりに汲々としてきたのですから。だからハワイやニューメキシコでは実現した配備計画の見直しも日本では出来ないのです。
そうやって、沖縄や福島を初めとする地方の人々や非正規労働者に、今まで散々犠牲を押し付け差別して切り捨ててきた売国政府が、今もそれらの人々を切り捨てながら、竹島や尖閣諸島を幾ら守ると声高に叫んでも、誰がそんな政府を支える気になりますか。
これは何も政府や政治家だけに限った問題ではありません。そんな政府や政治家を支持してきた有権者にも言える事です。ネトウヨ(ネット右翼)なんてその典型でしょう。彼の人たちは、口を開けば「何事もお国の為だ、その為にたとえ国民の一部が犠牲になっても、それは仕方ない事で甘受しなければならない」と訳知り顔に言います。しかし、当の彼の人たちはというと、自分たちだけ安全地帯に身を置いて、常に自分より立場の弱い者に責任を転嫁してきただけじゃないですか。
このオスプレイ配備の問題にしても然りです。実際にオスプレイが飛ぶのは本土も同じなのに、「あれは沖縄の問題だ、辺地の沖縄が犠牲になれば良いのだ、それをゴネルのは沖縄人のエゴだ」と喚く。
しかし、そもそも「国」って一体何の為にあるのですか。国民の生命や暮らし、権利を守る為にこそあるのでしょう。それを最初から一部の人間を切り捨て、「自分たちだけ助かれば良い」とするような国ならば、それは本当の国ではありません。「国を装った利権集団」に過ぎません。そんな私利私欲の利権集団なら、一層の事滅んでしまった方が寧ろ国民の為になります。国は一旦滅んでもその気になればまた再興出来ますが、民が滅んでしまったら、もはや国もへったくれもありませんから。
「沖縄は中国からの防衛の要だからオスプレイ配備も止む無し」なのか。いいえそうではないでしょう。その証拠に、かつては北海道が旧ソ連からの防衛の要で、自衛隊も沖縄よりも北海道を重視していました。沖縄に米軍基地が集中しているのは、戦時中から戦後にかけて、銃剣とブルドーザーで県民の土地を強奪した米軍が、朝鮮戦争・ベトナム戦争・イラク戦争等の米国の世界戦略の為に、沖縄を好き勝手に使えたからです。ただそれだけです。
それを、米軍が力づくで沖縄県民を追い出して基地を作ったのに、「基地周辺に勝手に住む県民が悪い」と言ってみたり。県議会や県下全市町村議会が何度も配備反対決議を上げ、保守派も含め多くの県民が本島だけでなく宮古・石垣などの離島も含めて島ぐるみの反対運動をしてきたのに、「反対運動の主流は県外からの外人部隊だ」と勝手に貶めて。
「旧型機よりもオスプレイの方が安全だ」というお為ごかしの議論も、実際は下記リンクにもあるように日米両政府が示し合わせて嘘をついているだけなのですが、「ではその旧型機による墜落の危険を放置し、それを沖縄だけに押し付けてきた自分自身の責任はどうなのか」と問われたら、もう何も言い返せないでしょうが。
・オスプレイ事故 10万時間当たり3.99件 海兵隊平均上回る(琉球新報)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-187317.html
・オスプレイ審査書概要、空軍仕様機含めず 事故率低く見せる(同上)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-192603-storytopic-252.html
そもそも、原発にしてもオスプレイにしても、そんなに安全で重要なものなら、何故地方にばかり置いて東京に置かないのか。都心に膨大な遊休地を抱える皇居なんて、永田町や霞が関の守りとしても最適なのに。天皇一族は京都御所にでも移転すれば良い。今まで散々沖縄に犠牲を押し付け、そのお蔭で米国から戦後も天皇制存続のお目こぼしをして貰って来たのですから、今度は天皇が沖縄に罪滅ぼしをする番です。それでこそ初めて「平和天皇」「国民の象徴」としての値打ちもあろうかと言うもの。
そんな事を言えば、ネトウヨや右翼・保守派はカンカンに怒るでしょうが、私はそんな事で怒る事こそが、沖縄やその他の国民に対する差別以外の何物でもないと思いますね。戦後60年以上も経ち、もうとっくに21世紀になろうというのに、未だにそんな封建的差別意識から抜け出せない日本の、一体どこが民主国家なのか。
確かに、今の天皇には政治的権限はありませんが、精神的にはまだまだ国民を奴隷根性に繋ぎとめる反動的役割を果たしているのではないでしょうか。自分より弱い立場の生活保護受給者等をごくつぶし扱いしながら、最大の「ごくつぶし」たる高級官僚や強欲経営者、天皇みたいな「エライ人」には何も言えない、「スネ夫」的な遅れた国民性にも支えられて。
もとより私自身は天皇個人には何の恨みつらみもありません。でも敢えてここまで「過激」な論を展開するのも、そこまで言わなければ分からない国民が余りにも多すぎるからです。
(注)記事冒頭の写真は9月9日付琉球新報号外、末尾の写真は9月7日付東京新聞に掲載の意見広告。
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それは、何故欧米各国が、従軍慰安婦の問題などで、日本よりも寧ろ中国の肩を持つかを考えればよく分かる。幾ら日本が中国の覇権主義や軍拡を批判した所で、当の日本が自国の天皇制や軍国主義を肯定している限り、せいぜい目くそ鼻くその批判にしかならないからだ。
中国や北朝鮮を本当に批判するには、国家主義ではなく民主主義の立場から批判しなくては、何ら説得力ある批判にはならない。その為には、従軍慰安婦や日韓併合、満州事変などの過去の侵略政策の非はきちんと認めた上で、返す刀で中国や北朝鮮の覇権主義・軍拡や人権抑圧を批判しなければならない。
そうしてこそ初めて、「北朝鮮の個人崇拝も昔の日本の天皇神格化と同じではないか」「中国のチベット・ウイグル弾圧も過去に日本が中国にした事と同じではないか」と批判できるのだ。
オスプレイ配備の問題にしてもそうだろう。米国の覇権主義・帝国主義は容認しながら中国の軍拡ばかり批判しても全然説得力を有しない。本土の沖縄差別を容認しながら中国の少数民族弾圧を批判しても二枚舌の謗りを免れない。そうではなく、民主主義や人権の観点に立ち、どんな国であろうとも軍拡や差別を一切容認しない者だけが、中国や北朝鮮に対しても堂々と批判できるのだ。
でも、このマスコミ大騒ぎに吊られる「幼稚な大人」が大半をしめるこの国では悪い方向に進んでいくんですよね~はあ~(ため息が…)
領土問題で他国を罵倒する人ほど、原発問題などには無関心なんですよね…
その最たる人物が石原慎太郎ですね。こやつは、尖閣諸島買取り発言で中国の覇権主義を裏から煽った張本人でもありますが、このこやつが9月6日に福井の高速増殖炉「もんじゅ」を視察し、廃炉に断固反対したとの事。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120907-00000302-fukui-l18
こやつは極右の原発推進論者として余りにも有名ですが、こやつの頭の中には、原発技術を核開発に利用し、国威発揚の下で己の利権を肥やす事しかありません。その下で、どれだけの下請け原発作業員が被曝させられ使い捨てにされているかという事も、都知事なら当然知っている筈。知っていて「国の為に犠牲になるのは当然」と見殺しにしているのですから、単なる無知よりも更に悪辣です。
日本で労働者搾取の上に胡坐をかいている石原のような輩が、中国で「共産主義」を詐称しながら労働者や少数民族を搾取している彼の国の政府と、表向きは互いに罵倒し合いながら、実際は持ちつ持たれつで自国の覇権拡張と自分たちの私腹肥やしに利用し合っているのです。
民衆の犠牲の上に己たちの私腹肥やしの事しか念頭にないこいつら自称「愛国者」こそが、実際は「売国奴」であり、それに反対して各国人民に人権擁護・搾取廃絶への連帯を訴える人たちこそが、真の共産主義者であり愛国者なのです。
そういう立場から、次の記事では中国の反日デモについて書く予定です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/5135/1341723555/192