国営ひたち海浜公園でネモフィラのを見てから坂東三十三観音の札所巡りの途中で立ち寄った西山荘です。
私はお邪魔するまで知りませんでしたが、茨城方面の方には有名な所かと思います。
何しろ徳川光圀(水戸光圀)公の隠居処ですからして。
アップするほどの知識を持ち合わせておりませんので、入園の時に頂いたコピーのまたコピーされた読みにくい公益財団法人徳川ミュージアムからのチラシから引用させて頂きます。
因みに帰る時に入口のチェケット売り場でこちらか尋ねて頂いたものです。
「西山荘 西山御殿のこと
幕府より隠居を許された二代藩主光圀公は兄の子、綱枝公を三代藩主とし、自ら水戸城の北に位置する佐竹家ゆかりの常陸太田を隠居の地に定めます。光圀公が元禄四年(1691)五月九日から元禄十三年(1700)十二月六日に亡くなるまでの十年間を過ごされた隠居所・西山荘は「西山御殿」と呼ばれました。
華美を嫌った光圀公は、隠居の際に諸方から贈られた調度を一切西山荘に持ち込まず、わずかな身の回りの品と修史編纂事業(その書名は、光圀公の没後、綱枝公により『大日本史』と命名されました。)に必要な沢山の書物を運ばせたと伝えられています。領民たちと自ら親しく交流しながら、修史編纂事業に情熱を注ぎ、元禄13年(1700)七十三歳で亡くなりました。
西山御殿は光圀公の無くなった後も歴代藩主によって大切に保存され、宝永二年(1705)には西山の長屋(御殿に仕えた人々の住居)は江戸の水戸藩駒込別邸に移築されました。しかし文化十四年(1817)野火により西山御殿は焼失します。現在の建物は文政二年(1819)八代藩主により規模を縮小して再建されたものです。現存する御殿の広さは、約百三十九㎡(約四十二坪)ですが、創建当時は現存部分の約三倍の規模でした。
再建された西山荘には「西山守護」と呼ばれる武士も置かれ、御殿裏に建てられた別棟「守護宅」に居住しました。
十三代当主圀順公は昭和四十二年(1967)西山荘の建物と土地等を寄附し、公益財団法人徳川ミュージアム(旧・財団法人水府明徳会)を設立されました。周辺の山林を含む約十八万七千㎡(五万七千坪)と保存公開しています。さらに昭和四十九年(1974)、西山荘は茨城県指定史跡となりました。指定面積は約十四万一千(約四万三千坪)です。平成二十年(2008)には徳川ミュージアム(旧・彰考館徳川博物館)の分館として博物館法の登録博物館になりました。
ここから先は有料の徳川ミュージアムが管理する地域になります。
因みに、入園料は一人千円でした。
入園していたのは我が家の二人のみでした。
少し高いと感じましたが、何度も来る所でもないと思い入りました。
01

櫟門です。
02

簡素ですが光圀公が通られた表道です。
03

瓢箪の形をした紅蓮池には赤い蓮の花が咲くとの事。
04

こちらでもシャガが咲いていました。
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自然が作った造形の木材は非常に強度が強いと聞いたことがあります。
木の生長の過程で曲がった所を生かして作られた梁。
記憶違いでなければここからの画像は守護宅です。
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守護宅の中のみ入る事が許されたいて、パネルで説明がされていました。
09

その守護宅の外観です。
10

多分、御文庫かと。
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丸窓のある書斎です。
12

正面から左の部屋が書斎で正面が御寝室です。
御文庫を除き屋根は総て茅で葺かれた茅葺屋根です。
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頂いたチラシによると:「屋根は総て茅葺で、棟上に「いちはつ」(別名しばきり)が植えられました。「いちはつ」が植えられたのは、根張りによって屋根の崩れを防ぎ、葉の萎れによって乾燥を測り、注水などにして火災を予防したのだと伝えられています。」
私自身は、全く反対の事を世界遺産になる前の白川郷に宿泊した時聴きました。
それは「茅葺屋根の維持管理の為に、囲炉裏を焚くのだと。」茅を囲炉裏で炊いた木の煙で燻してコーティングする事によって、雑草など草木が生えずに茅の屋根が長持ちするのだと。
その為に、茅葺屋根の維持の為には欠かせない存在だと。
火災の怖さはわかりますが、考え方により180度も対応が異なるのに驚きを感じた。
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日本の茅葺屋根の造りの素晴らしさ、イギリスの藁葺き屋根とは大違いでした。
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玄関です。
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私はお邪魔するまで知りませんでしたが、茨城方面の方には有名な所かと思います。
何しろ徳川光圀(水戸光圀)公の隠居処ですからして。
アップするほどの知識を持ち合わせておりませんので、入園の時に頂いたコピーのまたコピーされた読みにくい公益財団法人徳川ミュージアムからのチラシから引用させて頂きます。
因みに帰る時に入口のチェケット売り場でこちらか尋ねて頂いたものです。
「西山荘 西山御殿のこと
幕府より隠居を許された二代藩主光圀公は兄の子、綱枝公を三代藩主とし、自ら水戸城の北に位置する佐竹家ゆかりの常陸太田を隠居の地に定めます。光圀公が元禄四年(1691)五月九日から元禄十三年(1700)十二月六日に亡くなるまでの十年間を過ごされた隠居所・西山荘は「西山御殿」と呼ばれました。
華美を嫌った光圀公は、隠居の際に諸方から贈られた調度を一切西山荘に持ち込まず、わずかな身の回りの品と修史編纂事業(その書名は、光圀公の没後、綱枝公により『大日本史』と命名されました。)に必要な沢山の書物を運ばせたと伝えられています。領民たちと自ら親しく交流しながら、修史編纂事業に情熱を注ぎ、元禄13年(1700)七十三歳で亡くなりました。
西山御殿は光圀公の無くなった後も歴代藩主によって大切に保存され、宝永二年(1705)には西山の長屋(御殿に仕えた人々の住居)は江戸の水戸藩駒込別邸に移築されました。しかし文化十四年(1817)野火により西山御殿は焼失します。現在の建物は文政二年(1819)八代藩主により規模を縮小して再建されたものです。現存する御殿の広さは、約百三十九㎡(約四十二坪)ですが、創建当時は現存部分の約三倍の規模でした。
再建された西山荘には「西山守護」と呼ばれる武士も置かれ、御殿裏に建てられた別棟「守護宅」に居住しました。
十三代当主圀順公は昭和四十二年(1967)西山荘の建物と土地等を寄附し、公益財団法人徳川ミュージアム(旧・財団法人水府明徳会)を設立されました。周辺の山林を含む約十八万七千㎡(五万七千坪)と保存公開しています。さらに昭和四十九年(1974)、西山荘は茨城県指定史跡となりました。指定面積は約十四万一千(約四万三千坪)です。平成二十年(2008)には徳川ミュージアム(旧・彰考館徳川博物館)の分館として博物館法の登録博物館になりました。
ここから先は有料の徳川ミュージアムが管理する地域になります。
因みに、入園料は一人千円でした。
入園していたのは我が家の二人のみでした。
少し高いと感じましたが、何度も来る所でもないと思い入りました。
01

櫟門です。
02

簡素ですが光圀公が通られた表道です。
03

瓢箪の形をした紅蓮池には赤い蓮の花が咲くとの事。
04

こちらでもシャガが咲いていました。
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自然が作った造形の木材は非常に強度が強いと聞いたことがあります。
木の生長の過程で曲がった所を生かして作られた梁。
記憶違いでなければここからの画像は守護宅です。
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守護宅の中のみ入る事が許されたいて、パネルで説明がされていました。
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その守護宅の外観です。
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多分、御文庫かと。
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丸窓のある書斎です。
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正面から左の部屋が書斎で正面が御寝室です。
御文庫を除き屋根は総て茅で葺かれた茅葺屋根です。
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頂いたチラシによると:「屋根は総て茅葺で、棟上に「いちはつ」(別名しばきり)が植えられました。「いちはつ」が植えられたのは、根張りによって屋根の崩れを防ぎ、葉の萎れによって乾燥を測り、注水などにして火災を予防したのだと伝えられています。」
私自身は、全く反対の事を世界遺産になる前の白川郷に宿泊した時聴きました。
それは「茅葺屋根の維持管理の為に、囲炉裏を焚くのだと。」茅を囲炉裏で炊いた木の煙で燻してコーティングする事によって、雑草など草木が生えずに茅の屋根が長持ちするのだと。
その為に、茅葺屋根の維持の為には欠かせない存在だと。
火災の怖さはわかりますが、考え方により180度も対応が異なるのに驚きを感じた。
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日本の茅葺屋根の造りの素晴らしさ、イギリスの藁葺き屋根とは大違いでした。
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玄関です。
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