第9番 都幾山慈光寺のお詣りと済ませて、次に向かったのは巌殿観音こと巌殿山正法寺です。
こちらは坂東三十三観音の第10番札所です。
慈光寺からナビに誘導されて県道212号を走って来ると、目的地まで数キロを残して道の右手に正法寺の駐車場があった。
それでも、あてにならないナビに従い走って来ると、212号を分かれて正法寺の参道を走り駐車場に到着した。
大東文化大をぐるっと迂回して回り込んでの到着でした。
宗派は真言宗智山派で本尊は千手観世音菩薩です。
開祖は逸海上人で創立は養老二年(718)です。
現存している今の巌殿山正法寺も立派な仏閣ですが、以前はそれはそれは立派だったそうです。
なので、車でめぐる 坂東三十三観音から引用させて頂きます。
『田村麻呂への霊験 寺のあるもの物見山は標高135m。5月には「つつじ」、11月は「もみじ」が全山をおおう。近傍きっての展望台ともなっており、つくば・三国山・秩父の山、武蔵野の平野が眺望できる。昔、比企山中に悪龍が住んでいた頃を奥州征伐に向かう坂上田村麻呂の一行が通りかかり、時ならぬ大雪で悪龍を発見し退治した。田村麻呂への霊験が聞こえ延暦15年(796)堂宇が整った。それ以前は、沙門逸海が巌殿山の山腹の崖を削り、千手観音像を納めたのが草創で、修験の霊場でもあった。
正面の石段を上ると、仁王門、右手の鐘楼には元亨2年(1322)在銘の梵鐘がある。昔は66ヵ坊を擁する、関東に並びなき大伽藍を構えていたという。寛永年間及び明治10年に失火。現在の堂は明治12年高麗村から移築したもの。本尊は千手の坐像で、相好端正な姿は鎌倉初期の作風を伝えている。』以上、引用です。
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茅で葺かれた鐘楼です。
調べてみないと確かな事は言えませんが、珍しい感じがします。
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四国八十八ヶ所石仏と日本百観音石仏です。
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階段を下り山門を潜り駐車場へ
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立派な家内の納経帳です。
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私の納経です。
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坂東三十三観音第10番巌殿山正法寺のご詠歌です。
『後の世の 道を比企見の 観世音
この世を共に 助け給へや』
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こちらは坂東三十三観音の第10番札所です。
慈光寺からナビに誘導されて県道212号を走って来ると、目的地まで数キロを残して道の右手に正法寺の駐車場があった。
それでも、あてにならないナビに従い走って来ると、212号を分かれて正法寺の参道を走り駐車場に到着した。
大東文化大をぐるっと迂回して回り込んでの到着でした。
宗派は真言宗智山派で本尊は千手観世音菩薩です。
開祖は逸海上人で創立は養老二年(718)です。
現存している今の巌殿山正法寺も立派な仏閣ですが、以前はそれはそれは立派だったそうです。
なので、車でめぐる 坂東三十三観音から引用させて頂きます。
『田村麻呂への霊験 寺のあるもの物見山は標高135m。5月には「つつじ」、11月は「もみじ」が全山をおおう。近傍きっての展望台ともなっており、つくば・三国山・秩父の山、武蔵野の平野が眺望できる。昔、比企山中に悪龍が住んでいた頃を奥州征伐に向かう坂上田村麻呂の一行が通りかかり、時ならぬ大雪で悪龍を発見し退治した。田村麻呂への霊験が聞こえ延暦15年(796)堂宇が整った。それ以前は、沙門逸海が巌殿山の山腹の崖を削り、千手観音像を納めたのが草創で、修験の霊場でもあった。
正面の石段を上ると、仁王門、右手の鐘楼には元亨2年(1322)在銘の梵鐘がある。昔は66ヵ坊を擁する、関東に並びなき大伽藍を構えていたという。寛永年間及び明治10年に失火。現在の堂は明治12年高麗村から移築したもの。本尊は千手の坐像で、相好端正な姿は鎌倉初期の作風を伝えている。』以上、引用です。
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茅で葺かれた鐘楼です。
調べてみないと確かな事は言えませんが、珍しい感じがします。
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四国八十八ヶ所石仏と日本百観音石仏です。
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階段を下り山門を潜り駐車場へ
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立派な家内の納経帳です。
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私の納経です。
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坂東三十三観音第10番巌殿山正法寺のご詠歌です。
『後の世の 道を比企見の 観世音
この世を共に 助け給へや』
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