雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 1月5日(木) マスコミの大馬鹿、潜伏場所が問題なの?

2012年01月06日 05時33分58秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 1月5日(木) マスコミの大馬鹿、潜伏場所が問題なの?

 オウム真理教団の事件は、もう解明済みなのでしょうか。

 「A3」で書いたことを参照。

 12月31日に自首した平田さんが、17年間、どこでどう潜伏していたかが最大問題になっているマスコミは、かなり恥ずかしいです。なんじゃ、これ?!

 それに、政府機関のなかで、警察だけが、きちんと「記者会見」を開いて公式発表をしないで、マスコミの取材だけで「リーク」しているのは、政府機関としてはおかしいです。

 もちろん、事実と細部は大事ですよ。

 むかし、1960年代のベトナム戦争で、朝日新聞記者・本多勝一さんが南ベトナムに取材して、「ヌクマム」とか日常生活の細々を書いた記事を思い出します。

 ただし、同じ細部を描くのに、その方向と、その意味が違いますね。

 ごめんなさい、この項目は中途半端で、あとで、どこかで展開します。

  ☆

 明日は6日で、浜松市原水協の広島の日行動の日です。

 則子さんが「私、原案を書くから、智彦くん、明日のマイク原稿を作ってね」というので、「はい」と、則子さんの手書き原稿をパソコンに向かって打って、修正し、不要と思う箇所を削除して、必要な追加をしました。

 いちばん大事なのは、核兵器もなくす、原発もなくす、その二つの関係を、マイクの声で聞いた市民が胸に落ちる原稿でした。

 書いて、プリンターで印刷した原稿を、則子さんに渡したら、二人の夫婦生活の歴史上では珍しく、ぼくの原稿への則子さんの赤ペンでの手直しは、今回はありませんでした。

 すこし余裕ができた証拠でしょうか。


 

雨宮日記 1月4日(水) 「個人ー集団(組織)-社会の系」のなかで 

2012年01月06日 05時09分51秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 1月4日(水) 「個人ー集団(組織)-社会の系」のなかで

 則子さんの持っていた全障研の資料に「個人ー集団(組織)-社会の系」と言う箇所があって、あっ!と思いました。

 1984年に、自分が属していた社会運動のなかで、ある大きな事件がおきて(新聞でもいろいろ書きたてられました)、初めて、そういう運動とはなにか、運動のなかで自分がどんな役割を果たすのか、役割を果たすにはどうすればいいのか、悩みました。

 則子さんと結婚して数年の時期でしたが、あの頃のことについて、則子さんは「あなたは、あの頃、松城町の家の2階で、動物園の熊さんみたいに部屋の中をあっちからこっちへ歩いていた」と言っています。

 熊みたいだった記憶はないのですが、社会運動について悩んでいろいろ考えていたのは確かです。

 もともと日本史が専攻でしたが、その時に思ったのは、社会全体の分析だけでは不十分で、人間集団や人間個人の分析がなくては、ほんとうの社会変革はできない、というのが結論というか、到達点でした。

 その到達点に達するのに、今は覚えの無いのですが、滋賀県や伊豆の障害児施設で働いていて、全障研のことも知っていた則子さんが、大きな貢献をしてくれたことは間違い有りません。

 どうして、そのことを忘れて、自分一人の思考で、そこまで到達したように錯覚したんでしょうか。

  ☆

 「個人ー集団(組織)-社会」の系で、個人が集団から、集団が社会から自由に自立して存在する、それがいちばん大事なことのように思います。

 集団に癒着して固定化した個人、社会に癒着して固定化した集団、それがいちばん典型的に減少したのが、あの「原子力村」では、ないでしょうか。

 「原子力村」の村民は、お金と肩書きなどで癒着していて、自分の意見は許されず、まるで蟻や蜂の「社会」のように、個体の自立性を失っていました。

 輝く個人を失い、輝く集団を失った、その果てに、あの「福島第1原発破局事故」がありました。

 原発事故と放射能汚染を償うだけは、足りません。それは失われた過去を取り戻すだけです。

 ほんとうの未来をつかむためには、失われた自立した個人を取り戻し、個人と個人の絆を取り戻し、失われた自立した集団を取り戻し、集団と集団の絆を取り戻さないと、と思います。

 それは、電力会社や保守党や政府官僚を非難・批判するだけではできない・完結しない仕事で、自分たちの不十分さをリアルに見つめないと、いけない、つらい仕事です。

 でも、ボクは今年は、則子さんといっしょに、そういうつらい作業をしたいな、と思います。