冤罪は、人間の使う道具のうちで最も卑劣なものの一つである。
道具は、存在することに意味を持ったとき、使われることを超えた価値が、見る人に感銘を与える。
冤罪には、使われること以外に意味を持つ機会はない。道具のカスである。
冤罪の使い道はどこにあるのか。
一つは、何がしかの役柄を持つ人が、その役を超えた地位を得るために励む舞台づくりである。
役と欲で作られた舞台に、「裁く」者が出てきたとき幕が開く。
もう一つは、巧妙かつ陰湿な筋立ての悲劇に、人々の興味をかき集めるための宣伝材料である。
冤罪劇はどのようにして出来上がるのか。
悲劇の構成には、常人にはまさかと思う技法が用いられる。
罪を犯したというひと言さえ得られれば、時も場所も方法も、練達の文筆によって、論理矛盾には目もくれずに脚本は仕上がる。
手出し無用であるはずの立法の役目を持った人が、戯曲編成に参加することもある。
冤罪は使われることにしか意味を持たないから、自然発生ということはありえない。
使う人の制作でしか生まれ得ない。
制作の動機は役と欲の共振である。
欲をもたず、単に役に忠実である人は冤罪などつくろうとはしない。
また、役を持たない人が、鬱憤晴らしや面白半分にひとを陥れる行為に及んだとしても、それだけでは冤罪は生まれない。
役を超えるためであるから、「役」を持たない人には役立たないのである。