自動ブレーキがCMによく顔を出す。
とっさの場合に救われる、ありがたい装置だが、それに慣れっこになりブレーキは自然に効くものと思ってしまうと危ない。
自動制御依存は一種の文化病で、人間の自律性を徐々に弱体化させていく。
ものが汎用化されれば、設計に手抜かりが出たり、形だけそっくりのいかさま商品が出たりする。
動かして使うものにはなくてはならないのがブレーキ装置で、その設計、製作がいい加減では危なくて使いものにならない。
法律も、施行されれば運用の過程でブレーキが必要になることが必ずある。
法律を作るのは人間だから、ある場面では自分も縛られることが出てくる。
それでも、自分にとって都合がよくなる望みが優れば、その法律が必要である、あるいはあったほうがよいという考えが固まって、法案が作られていく。
なくても済んでいたものを、あったほうがよいと考えることが改善であると思い始めると、必要性だけにとらわれて、既に制定された法律の中にも、全く合理性を欠いたものがあることには目もくれなくなる。
間違って作ってしまった、あるいは現代では意味のなくなった、ザル法やカス法の親戚がまた増えていく。
法律は、何かを動かすことよりも制限を加える必要に迫られて作るものであって、その制限の加え方に悪用や行き過ぎのないよう、備えなければならないのがブレーキ装置なのである。
運用するのは優れた人々であるからと、ブレーキ装置に配慮が行き届かなかったり、ブレーキ装置の全くないひどいものが作られたりすれば、社会の安全を保つための法律が、危険物になるかもしれない。
本体がブレーキの性格を元来持っている法律に、さらにブレーキ装置を備えようというのだから、設計もついおろそかになるだろうが、そこで手を抜かれては困る。
ブレーキという共同社会にとって極めてだいじなことを、自動ブレーキ装置に任せきりにする傾向には、どこかでブレーキをかけなければならないだろう。