なにかと心配りの深い人をうるさがるとき、心配症候群と悪態をつかれることがありますが、過認知症というやまいもありそうな気がします。
ありもしないことを確かにあると思い込んでしまう現代病です。
過敏症とはまた違って、感じるのではなく信じる病気ですから、それを治すには大変です。
切り傷でも、鋭利な刃物の傷はすぐ治りますが、鈍器でついた深い傷は、目立たない状態に皮膚が戻って完治するまでには何十年もかかります。
鈍でありながら深すぎる認知は、心の傷どころではなく、重い重い荷物を背負って歩き続けるのに似て、まことに辛いものです。
何かの拍子に心が動いて、自分の眼で確かめたのでもない、戯れ言であったかも知れない書きものなどを、歴史上の事実のように思いこみ、そのことについて具体実権を委任されてもいない人が、国を代表するかのように振舞って、海の外の相手に気に入られるような言葉を散らして回る行為は、まことに罪深いものです。
それが、相手の心をいやすどころか、時間が経つにつれ、鈍器で殴りつけられたような痛みを甦らせ、集団の過認知症を引き起こさせるに至っては、国益がどうのこうのという問題ではなくなってしまいます。
目先の経済問題ばかりに気を取られていると、いつの間にか、自国他国の区別なく多くの人が過認知症に罹り、世紀をまたいで苦悩を背負い続けなければならない困ったことになりそうです。
グローバリズム信仰も、過認知症の症例であると思うのですが、いかがでしょうか。