・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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コピーとは大量豊富の言い換えだった

2014年10月12日 | つぶやきの壺焼

広告文をなぜコピーと言うのか、その意味はなかなかつかめませんでした。
広告の目的、たとえば商品の特徴を「しらせる」ということと、コピーという言葉を結びつけようとしても、どうにもつながりません。
広告文のしゃれた呼び方がコピーだと言われても、にわかには受け入れにくいことだったのです。

広告文には、聞いたふうな、陳腐な言葉がよく出てきます。
そういう広告文には、あまり購買意欲もわきません。
よくあることわざの類を持ってきて使う、だからコピーと呼ぶと言ってしまっては、その迷解によって、広告文の値打ちを下げることになります。
ここで気づきました。「持ってきて使う」のは方法であって、目的とは無関係だったのです。
コピーとは、目的ではなく、方法でありました。

コピーのもとの意味は、ラテン語で、どんどんたくさん、大量豊富、でした。
またか 今日もか ここでもかと、嫌気がさすほどばら撒かれる、この方法がコピーだったようです。
大量にというなら、同じもの同じことでなくても、コピーという名でとおります。

むしろ同じもの同じことでなく、まったく新しい言葉が、コピーにかすかな輝きを与えることもあります。
しかし、だれもが知っている、これは何だと訊く必要のない言葉が組み立てられ、人々の心をとらえる文ができたとき、それは最上のコピーになります。

これがコピー、という名文があります。
「何も足さない 何も引かない」 開高健

これをどこかのXX酒の広告文に使えば、それはコピーとは呼べません。
では何というのか、その呼び名は、彼の国お得意の「パクリ」です。

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