こんどの台風はずいぶん足早に去りました。
予報、警報は、やや大げさに言っておくと、みなさんに用心をさせる効果があります。
15年ぶりに強そうな台風だと報じられたのに、雨も風も大したことがなくても、それをやかましく言う人はほとんどいません。
予報、警報を出す仕事を持った人が「言う」ことで役目を果たしてくれているからです。
「言う」仕事でも、予報、警報には文字だけでない違いがあります。
予報は出すだけですが、警報は解除しなければ仕事が終わりません。
「言う」仕事には、言ったあと、次にしなければならないことが控えている場合が通常で、言いっぱなし、出しっぱなしでよい仕事はまれなのです。
どこかの国では、レストランのホールスタッフが、漢字の職名どおり、配膳しかしないそうです。
そこでは、食べ終わった客が帰っても、テーブルの上には食べ散らかした食器が当分置かれたままになります。
待っていた次の客は、自分で、目の前の空間確保作業をしなければなりません。
配膳は「出す」だけ、片づけは別の仕事になっているようです。
寄付は「出す」ことで、仕事ではありませんが、寄付集めは仕事になります。
呼びかけも寄付集めの仕事のうちに入ります。
実際の寄付と、呼びかけの効果を狙った寄付予告とはまったく違います。
「言う」だけでも呼びかけの効果があるから、「私も寄付する」と言っておけばよいというのは手前勝手な考えでしょう。
「私も寄付する」の金額が並外れて多ければ、人々は「しようと思っている」のか、「するつもりはある」のか、実際に「した」のか、判別しようがありませんから、社会が寄付を受けたような錯覚を起こします。ときにはそのスピーカーに敬意を払うかもしれません。
「そのうちにメシでも」という営業せりふと同じような気分でそれを言ったのでは、もうSじるしに近くなります。
見返りを求めればそれは寄付ではありません。お礼のつもり、それも寄付ではありません。
寄付を仕事と混同しない、Sマークをつけないためには、黙ってする、これがいちばんです。