何かを教えられて、わかったときは、うれしいものです。
うれしいことは、また次にそうすることが楽しくなります。
教えられるT、わかるU、楽しめるEの3段階を考えてみたとき、TとEは、当人がそれを望んでいてもいなくても、そうなることに気付きます。
しかし、真ん中のUは、当人の意思がない限り、どうにもなりません。
わからないことを、種々体験をさせてわかった気にさせてしまうこともあります。
それは宗教か魔術か、それによく似たある種の主義か、どれかの世界でのことです。
通常の生活の中では、当人にわかろうという意思がない限り、Uの状態を得ることはできません。
わかることによって、当人が何のメリットを自覚できなくても、わかってもらわないと困るのは、義務教育と、業務遂行上必要なことがらです。
義務教育のほうは、対象の心も頭も柔軟な間に行うことですから、苦難の道ではあっても方法はあります。
しかし、業務遂行上必要なことのほうは、別の条件を整えない限り、わからせようという努力はほとんど無駄に終わるでしょう。
別の条件とは、わからなくてもできてしまうようにすることです。
これが積み重なっていくと、人間はUなしでただEを得ることに抵抗を感じなくなりますから、知能、感性ともに水準が次第に低下していきます。
人間が、何千年もかかって、「そんなばかな」ということをくりかえしながら、その上塗りを続けているのは、TとEの間にある、始末のしにくいUに目が向けられなくなってしまっているからでしょうか。