人間は自分だけでは生きられないということに、まともに反対できる人は一人もいません。
いや、どこかの山奥に一人や二人いないはずはないと、考える人もいるでしょう。
ところが、反対という行為は対人関係がなければ成り立ちませんから、それはすでに自分だけのことではなくなっているのです。
こういう話の運びには、屁理屈という名が付いています。
ことばの部分をとらえてやり取りを楽しむ無駄話です。
無駄話は、それを楽しみにしているうちは、お互いに幸せです。
しかし、ほかのだいじな話を逸らすためのお変わりに使われると、無駄に無駄が重なり、それが常道のようになってしまえば、だいじな話の機会はいつになってもやって来ません。
そうなれば、だいじな話をしてもらいたくない人達の思う壺ということになります。