・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

賞味期限

2012年04月14日 | つぶやきの壺焼

台所の戸棚から4年前に漬けた梅酒が出てきた。
ビンを包んだ袋に、「08XXX」と、使った焼酎の銘柄まで書いてある。

4年も経てば、味も落ち着いて飲みやすい。
引き揚げた梅は、煮て種を取り除き、ジャムにした。

前回砂糖を買ったスーパーに行ってみたらシャッターが閉まっている。
本日休店の貼り紙もない。
この間も通りかかったとき開いていなかった。
とうとうおしまいなのか。
ふと、賞味期限という言葉が頭に浮かぶ。

腐ってもいない、味の変わるものでなくても賞味期限の表示をさせるのはなぜか。
あれは、古いものは悪い、新しいものは良いという、怪しげな共通認識を利用した、高度成長期に編み出され、まだそれを引きずっている商品販売促進手段に過ぎなかったのではないか。


いないいないかー

2012年04月13日 | つぶやきの壺焼

散歩でうろうろしていると、神主のいないやしろ、僧侶のいない寺、巡査のいない交番はよく見かける。
そのとき、そこにその職の人がいなくても、居るべきときには居るだろうと思うから、さほど気にかけない。

昨年3月11日に被災地を見た山折哲雄氏は、「仏の気配のない地獄をみた」と語っていた。
姿は見えなくても、気配が感じられればよいが、仏の気配のない地獄はさぞ恐ろしい光景であっただろう。

ところで、永田町のあの大きな建物は、いまどうなのだろう。
おのれの仕事が国の政治であることを忘れて、ただただ座る場所から名札をなくしたくない、そのためには信義も規律も、問いただせばそんなものがいまごろあるのかと、こだまが返ってきそうな、大きなほら穴になりかけていないだろうか。
政治家の気配のない議会は、などと思い始めると、まだまだ夏は遠いのに、怪談の予告編を見せられるようで、背筋が寒くなるばかりである。


TVもたまには

2012年04月12日 | つぶやきの壺焼

TVの音に耳を澄ますということはめったにない。
昨夜は違った。
千住さんが弾いて聴かせた二つのヴァイオリン。
ひとつは苦心の末に手に入れたあのストラディバリウス。
もうひとつは、国際ヴァイオリン製作コンクールで二冠を得て、三冠にまで手を伸ばそうかという菊田浩さん
( http://matome.naver.jp/odai/2133415137048219201 )
の作ったもの。

菊田浩さんは、自分が作ったヴァイオリンが、何百年か後にどういう音を奏でるか聴いてみたいと言っていたが、その意味をはっきり示すような一曲二回の弾き比べ、聴き比べだった。

普段はおふざけ満タンで、がなりあう声だけがやかましいTVも、たまにはよいことを伝えてくれる。
つまりかけた耳に、また風穴が開いた気がしている。


引きずり

2012年04月11日 | つぶやきの壺焼

庭の鶯は日に日に巧く鳴くようになってくる。
ホーのところが、だんだん長く続くようになる。

鳥の鳴き声は長く引っ張ると巧いという気がするが、ブレーキの鳴き音の長いのはよくない。
キーキー、キーキー、乗っていて気にならないのだろうかと思う。

ブレーキは、燃費に影響があるそうだ。
それはそうだろう、こすれたところは発熱し、熱と音のエネルギーになって四方へ散らばるのだから。

ブレーキの問題は、当てと引きずりにあるという。
ブレーキの踏み始めでは、ディスクにあまり強く当てないのがよい。
がくんときくのは大型乱暴運転で、いざというときがいつ起きるかわからないから、バスは止まってから座席を立ってくれとしきりに言う。
あれは乗客の安全よりも、乱暴運転となじられるのが嫌が半分ではないのか。

いざに備えて、車のブレーキは、いつも軽く触れた状態にしてあるらしい。
ずっとこすっていて、いざというときの状態が最良であり続けるとも思えないが。

まあ、素人の与太ばなしだから、当てにはならないけれど。


走りたい人と歩きたい人

2012年04月10日 | つぶやきの壺焼

車は、馬力を抑えれば低燃費になる。
それでは車を作っている気になれないという人もいる。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20111207/224939/?mlt


走り回るための車と、用を足すための車は、作り方が違う。
どちらか一方にしてしまえば売れ行きが悪くなる。

走りたい人と歩きたい人もあれば、走りたいときと歩きたいときもある。

人それぞれ、場合もそれぞれ、山麓の駐車場で、ランボルギーニ・レヴェントンから取り出したスカルパの靴に履き替えて歩き出す人の姿を笑うわけにはいかないだろう。


原発全停止で倒産か

2012年04月09日 | つぶやきの壺焼

そのとき限りの気ままな号令で、動いている発電所まで止めっぱなしにしておいて、今頃になってサイカドーと慌てふためいている。

再稼動とは、将来廃止あるいは大改造の見込みがあって休止している設備を、またもとの設備のままで動かすこと、普通の言葉遣いならそうなるのだが。

定期検査が終わってさあ運転を始めようというなら通常の運転開始ではないか。
それを再稼動などと騒ぎたてれば、嫌だいやだがますます増えてくる。
かねてから原発反対を唱えてきた人たちは、わが人生に春が来たかのように、ただちに原発ゼロでも電力はまかなえるという数字を、これも勝手気ままに出してくる。
原油価格高騰のなかで経済性とは無関係に、発電可能電力だけを見た数字ならどうにでもなる。
各企業で省エネ機器を導入し、電力消費の大きい機器を排除すればなどと言いたてる人もいる。そういうものが握り飯でもつくって配るようにはいかないことがわかっていても。

電力会社がだめだからPPSで行こうという動きも、会社は50社あっても、その事業を実際に行っているのは26社と報じられている。
運営を税金でまかなう自治体ですら、入札応募がなかったり、予定価格を上回ってどうにもならなかったりで、なかなかうまくいかない。

止まっていれば安心というわけでもなく、かえって緊急の際の人間の対応力が運転中よりも落ちる原発を、絶対に嫌だと言い張って猛暑を過ごそうとするならば、どこに行くにも扇子持参で、大汗をかきながら我慢する覚悟がなければならないだろう。
原発も暑いのも嫌と言っていると、そのおかげで生産に電気がまわらず、必要なことにも使えず料金だけは上がるのに耐えかねて、倒産の憂き目にあう会社が増えてくるのではないか。
そんな情けない世の中のほうがよほど嫌だと思うのだが、いかがだろうか。


暗黒物質の正体

2012年04月08日 | つぶやきの壺焼

ある観測によると、銀河の中心と外側は回転速度が同じだという。
回転のエネルギーの元が重力であるとすれば、銀河の中心と外側というとんでもない距離にあるものが同じような回転をするにはどこかにまだ見つけてない物質があって、その重力が働いているのだと考えられた。
それを暗黒物質と呼んでいるそうである。

銀河はいくつもある。
その集まりに「銀河団」という凄味のある名前がついた。
銀河団のぶつかり合いの様子は詳しく観測され、それによって暗黒物質の存在が間接的にわかったらしい。

人間が目で見ることのできる物質は、わずか4%しかないという説もある。
凡人には、それがどういう計算をしたのかはわからない。
あるだろうというのが96%、見てわかっているのが4%という勘定になる。
それでは、ほとんど何もわかっていないのと同じではないか。
http://mxt.nikkei.com/?4_1436_45327_11
宇宙旅行など暢気なことの前に、よく調べておかなければならないことが9割以上。

見てわかったというのは、衝突したり反応したりするからで、それがなければ「ある」ということすら確かめられない。
暗黒物質は、人間にぶつかってくるでもなく、観測機器のどこにも引っかからない。
身の回りにうようよしているのかもしれない。

酒場に限らず人の集まるところが騒がしいのは、お互いに存在と正体を確かめ合っているからだったのか。
それぞれが無反応で行き交うだけでは、それこそ暗黒街、薄気味悪くて足を踏み入れるのはご免こうむりたいということになる。


内弁天、外つぎはぎ

2012年04月06日 | つぶやきの壺焼

「内弁慶の外すぼみ」
子供のころ、家の中で元気なところを見せると、そう言われてよくからかわれた。

バスには、乗客が退屈しないように、窓にいろいろ貼り紙がしてある。
前に座っている人の顔を順番に眺めるのも失礼だから、乗る距離が長いと目のやり場に困る。
そういうときに貼り紙は有効である。
バスの内側から見ると、貼ってあることがそれほど気にはならないが、外から見ると、何とも芸がない。

バス会社のえらいさんは、たまには自分の会社のバスを、外から、それも少し遠方から眺めてみてはいかがだろうか。


広報

2012年04月05日 | つぶやきの壺焼

訪問先の駅に、その区の広報が置いてあった。

催しものの案内ばかりかと思いながらページをめくっていくと、後ろのほうは市の広報に入れ替わっている。
よく見ると、はじめは区の広報で、途中のページから市の広報に版を分けあっていて、境目にそのことわり書きがあった。
別々に印刷して重ね合わせたのでなく、一緒に印刷して一緒に配るようにしているらしい。

市と区が連携して総合効率を上げてく。
片方をなくしてしまえなどという、どこかで騒いでいるような勇ましさはないが、とかく先例にしがみついて離さないことの多いなかで、こうして着実に効果のあることを進めていくことこそ行政刷新なのだと、あらためて思った。


放置趣

2012年04月03日 | つぶやきの壺焼

きっちり置かれたものより、放り出されているかのような置き方が、趣をもつこともある。

もう住まなくなった家の玄関先。
盛り上げた土に囲いがあって、アロエとススキがきちんと植えられていたら、なんだこれはと思うだろう。
自転車の雨よけにはさほど役に立っていない破れたビニール波板も、気は心とはこのことと、ひと役買う。

いろいろな事情が詰まっていそうな空家、木製の扉とひさしから、何十年か前に大工さんが精魂込めて造りつけていた様子が伺われる。

当時は育ち盛りの子供がいて、この家の中もずいぶんにぎやかだったのではないか、そんなことを思いながら立ち止まったのだった。


歩道にごみはいらない

2012年04月02日 | つぶやきの壺焼

散歩の朝の歩道には、昨夜の風で小さな木の葉はわずかに吹きだまっていたが、目に付くほどでもなく、吸殻も紙切れも落ちていなかった。

子供の頃は、道にごみは落ちていなかった。馬の通った後に盛りあがる黄土色の団子も、すぐに片付けられていた。

道に吸殻や紙くずが散らばり出したのは、米兵が街に出てくるようになってからだ。
吸殻を自分たちが踏みつけないように、指ではじいて捨てる。若い男がその格好を真似て捨てる。
ガムの包み紙を風に乗せてと飛ばす。若い女がその格好を真似て捨てる。
噛みタバコのかすを、歩きながらすぼめた口からピュッと飛ばして吐き出す。それを真似て、たんやつばを吐き出す。
汚しまわり、大声で騒ぎまわるのが進んだアメリカの文化なのだと思いはしないが、毎日見せられればそれが普通と思うようになっていく。
こうして、日本人の行儀は見事にミンシュテキ改革を遂げた。

ディズニーランドに初めて行ったとき、いちばん記憶に残ったのは、箒と塵取りを持ちっぱなしで一日中掃除をしているお兄さんの姿だった。
誰かがぽいとごみを捨てると、さっと行ってごみを掃きとる。
決してノソノソとは歩かない。ごみを掃くのが楽しそうにさえ見える足取り、手つき、リズムを持った身のこなしである。
掃く仕事をなくさないようにと、変な理屈をこねながら吸殻をわざと捨てる人もいた。
動物園のサルに餌をやる情景とどこか似ているようで、嫌な気分になった。
サルまねをまねザルが見ているところを、遠くからわざわざ見に行く気はしないから、誘われてもごめんこうむることにしている。
ほんとうは行列が嫌いなだけなのだが。