・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

異常の報は信心から

2014年10月16日 | つぶやきの壺焼

超大型らしいと、はるか南方海上にあったときから予報された台風も、拍子抜けのするほどあっけなく通り過ぎ、そして消え去りました。

TVトークで異常気象を唱える、折角のタネの一つが、吹かれて飛んでしまいました。

ものすごい台風が来れば異常気象と言い、ドカ雨が降れば異常気象と言う、少しふれ幅が大きかったり偏りが目立ったとき、それをなぜ異常と言うのでしょうか。
それもこれも含めてが全体の現象であることを、ことさらに異常と呼ぶのは、多分何かが異常と指摘されることを、待ち望んでいる人が多いからでしょう。
報道機関は、人々が待ち望んでいることを伝えるのが、信用の要諦だと思っていますから、みなが異常と言ってほしければ異常と報道します。
そのためには、大ウソを承知で記事にもします。何十年も知らん顔、実はこうだった、ごめんなさいとも言いません。

みなが異常と思いたいことを、平常だ、なんでもないとは言わなくても、異常と言わないだけで新聞の買い手は減るでしょう。
しかし、じわじわ押し寄せてきている人の心の本当の異常は、人々が異常とは思いたくありませんから、それを異常と報じれば嫌われます。

母親が自分の産んだ子を餓死させる、それを異常と思いたくない人が増えれば、そういう異常も一つの小さな事件として淡々と報じられ、すぐに忘れ去られます。
人間がすることにこそ、異常なことが多いのに、それを異常と思いたくない人の心が、本当は異常なのですが、それを異常とは思いたくない、そうしておいて、変なことを信じもします。実にややこしい話です。

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だじゃれ多発は脳の疲れか~あまり確かでない話:3

2014年10月15日 | つぶやきの壺焼

だじゃれに走るのは脳の疲労現象だと言う先生がいらっしゃいます。

ヒノーショー、疲脳象という病名とも状態名ともつかない言葉を思いつくのも、脳が疲れているからでしょうか。

ものごとをひとことで言い表そうとするには、だじゃれの助けを借りないとうまくいきません。
考えることに助けが必要になる、それが脳が疲れている証拠なのでしょう。

だじゃれと一切無縁で短縮語をつくるのは、なかなかむずかしいものです。
だじゃれなしの短縮語造成は、それこそ脳が疲れます。
嫌とは言いませんが、大変面倒です。

面倒なことは嫌がっておきながら、役にも立たない短縮語を考える、ほら、それが脳の疲れのあらわれなのよと、先生に言われそうです。

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七面倒な自由をなぜ望むのか~あまり確かでない話:2

2014年10月14日 | つぶやきの壺焼

自由XXと呼ぶものを、ほとんどの人は喜び迎え入れようとします。

自由と名のつくものは、そんなによいものなのでしょうか。

近ごろ首をかしげるようになったのは、自由に添付されてくるのものには、やたら七面倒で、むやみに窮屈なことがありはしないかとの疑いからです。
その添付品は、多分引換券のようなかたちでやってくるでしょう。

たとえば、クスリの輸入制限がバッとはずされて、どこからでも自由に買えるようになったとします。
いっぺんに種類が増えると、選ぶほうは大変です。
クスリのようなものは、見ただけではわかりませんから、効きめや副作用のことなど、面倒な情報集めをしなければなりません。
保険で買えるものが減って、そうでないものが増えると、財布はたちまち窮屈になります。

引換券でもらったものは、自由や安心とは、まったく逆の困りものばかりということになりかねません。

自由貿易はなぜよいのか、ますますわからなくなってきます。

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自由貿易はなぜよいのか~あまり確かでない話:1

2014年10月13日 | つぶやきの壺焼

多くの人がそれを望むと、いやその前に、望んでいると言われてしまうと、それがいちばんよいことのように、みなが思うようになります。

そのとき、なぜかという問いはタブーになります。
「自明の理」という便利な言葉がありますが、賢人も解き明かせない厄介ごとは、だいたいそう名付けられます。
「そんなの、あたりまえだろ」と言うか「神様が決めたこと」と言われれば終わりです。
それ以上「なぜ」を続ければ、白い目で見られるか、座が白けるか、だんだん色のない霧の中に押しやられます。
「五里霧中」と「自明の理」は、背中合わせでいながら、どうやら遠い親戚のようにもみえます。
わけがわからなくてもそうなっているのだから、これはいちばん強力な存在理由です。

木の根は、どうだこんなに張っているぞと見せつけられなければ、見てはならないものになっています。
どうしても見ようとすっかり掘り返せば、掘られた木は立っていられません。
根拠を探ろうとすれば、木が倒れるか枯れるか、それでもよいかと脅されます。

困った木が一本見つかりました。
自由貿易は、なぜよいのでしょうか。
誰のためになるのでしょうか。

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コピーとは大量豊富の言い換えだった

2014年10月12日 | つぶやきの壺焼

広告文をなぜコピーと言うのか、その意味はなかなかつかめませんでした。
広告の目的、たとえば商品の特徴を「しらせる」ということと、コピーという言葉を結びつけようとしても、どうにもつながりません。
広告文のしゃれた呼び方がコピーだと言われても、にわかには受け入れにくいことだったのです。

広告文には、聞いたふうな、陳腐な言葉がよく出てきます。
そういう広告文には、あまり購買意欲もわきません。
よくあることわざの類を持ってきて使う、だからコピーと呼ぶと言ってしまっては、その迷解によって、広告文の値打ちを下げることになります。
ここで気づきました。「持ってきて使う」のは方法であって、目的とは無関係だったのです。
コピーとは、目的ではなく、方法でありました。

コピーのもとの意味は、ラテン語で、どんどんたくさん、大量豊富、でした。
またか 今日もか ここでもかと、嫌気がさすほどばら撒かれる、この方法がコピーだったようです。
大量にというなら、同じもの同じことでなくても、コピーという名でとおります。

むしろ同じもの同じことでなく、まったく新しい言葉が、コピーにかすかな輝きを与えることもあります。
しかし、だれもが知っている、これは何だと訊く必要のない言葉が組み立てられ、人々の心をとらえる文ができたとき、それは最上のコピーになります。

これがコピー、という名文があります。
「何も足さない 何も引かない」 開高健

これをどこかのXX酒の広告文に使えば、それはコピーとは呼べません。
では何というのか、その呼び名は、彼の国お得意の「パクリ」です。

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黄色い朝顔

2014年10月11日 | つぶやきの壺焼

酒の銘柄にもなっている黄桜は、文字どおり黄色い花の咲く桜です。
実際に咲いているところも見ました。
緑地保全重点地区になっているところなので、いまも春が来るたびに花を咲かせていることでしょう。

岡崎の自然科学研究機構基礎生物学研究所が、黄色い朝顔を咲かせたと報じられています。
写真では、あの黄桜と同じ系統の色合いに見え、テキサスの黄色いバラや、オランダのチューリップのような鮮やかな黄色とは少し違います。

どこか奥ゆかしさの感じられる、静かな黄色です。

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危ない抱き方

2014年10月10日 | つぶやきの壺焼

おんぶに抱っこという言葉がありますが、近ごろ赤ちゃんをおんぶしている人は見かけなくなりました。
抱っこのほうが、赤ちゃんの顔や姿勢を目の前に見られるので安心なのはわかります。

ところが、抱っこひもに赤ちゃんを引っ懸けて、スマホに夢中のお母さんを、電車の中で見かけることがあります。
赤ちゃんは両足の膝を折りたたまれ、それがぶら下げフックになって、抱っこひもに引っ懸かっているのです。
膝から上が下向きに垂れさがった赤ちゃんは眠っています。
頭はもちろん上下転倒、両手は電車の床に向かってバンザイ状態です。
もし次の駅でもそのままだったらひと声と思っていましたが、そこで降りていきました。
降りるときは、さすがにスマホを見つめながらではなく、何ごともなかったかのように赤ちゃんを抱えあげて立ち上がり、歩いていきました。

抱っこひもは通販でもあちこちで売られています。
どこかの国で作られたいい加減なものを買おうものなら、赤ちゃんがずり落ちて頭から墜落というようなことにもなりかねません。

しっかりしたものを買って、しっかり抱きかかえるように、お母さん、気をつけましょう。

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夢と貝

2014年10月09日 | つぶやきの壺焼

私は貝になりたいというTVドラマがありました。
ホタテの貝殻、あるいは固く閉じたシオフキ貝、共通点はないのにそれを思い出させる名優の演じた第一作が、やはり名作でした。

美男に近づけばはまり役からは遠のくという、主演選びの厄介なドラマもあるものです。
貝~浜辺~ドラマ~夢~海の底~貝と、連想はぐるぐる回ります。


夢には、実際に見て忘れてしまう夢と、望みのようなことを見続ける夢のふたとおりがあります。
あとのほうは、ありえないことを「夢」と言わせ思わせて、鼻先にんじんの効果を狙う人使い手法にもなります。
「ありえない」が「夢ではない」と言い換えられると、反語の魔力に、ついその気にさせられてしまうのです。

夢を持ちなさいと言っておいて、精一杯仕事をさせ、待遇はほどほどにしておく、その相互連関がうまく働けば、仕事をする気のある人が成長していきます。
それを「やりがい搾取型」と呼ぶ人もいますが、搾取と言ってしまったのでは直接の当事者に気の毒です。
実際に行われている搾取は、そんなちまちました牧場の乳しぼりのようなことではないのですから。


貝に戻りましょう。
「ヒオウギ貝」という、食べたあとは色と、二度の楽しみを味わせてくれる貝があるそうです。
こんな貝になって見たい、そう思う人がいるかもしれません。

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言うだけの仕事もありました

2014年10月08日 | つぶやきの壺焼

こんどの台風はずいぶん足早に去りました。
予報、警報は、やや大げさに言っておくと、みなさんに用心をさせる効果があります。
15年ぶりに強そうな台風だと報じられたのに、雨も風も大したことがなくても、それをやかましく言う人はほとんどいません。
予報、警報を出す仕事を持った人が「言う」ことで役目を果たしてくれているからです。

「言う」仕事でも、予報、警報には文字だけでない違いがあります。
予報は出すだけですが、警報は解除しなければ仕事が終わりません。
「言う」仕事には、言ったあと、次にしなければならないことが控えている場合が通常で、言いっぱなし、出しっぱなしでよい仕事はまれなのです。

どこかの国では、レストランのホールスタッフが、漢字の職名どおり、配膳しかしないそうです。
そこでは、食べ終わった客が帰っても、テーブルの上には食べ散らかした食器が当分置かれたままになります。
待っていた次の客は、自分で、目の前の空間確保作業をしなければなりません。
配膳は「出す」だけ、片づけは別の仕事になっているようです。


寄付は「出す」ことで、仕事ではありませんが、寄付集めは仕事になります。
呼びかけも寄付集めの仕事のうちに入ります。
実際の寄付と、呼びかけの効果を狙った寄付予告とはまったく違います。
「言う」だけでも呼びかけの効果があるから、「私も寄付する」と言っておけばよいというのは手前勝手な考えでしょう。
「私も寄付する」の金額が並外れて多ければ、人々は「しようと思っている」のか、「するつもりはある」のか、実際に「した」のか、判別しようがありませんから、社会が寄付を受けたような錯覚を起こします。ときにはそのスピーカーに敬意を払うかもしれません。
「そのうちにメシでも」という営業せりふと同じような気分でそれを言ったのでは、もうSじるしに近くなります。

見返りを求めればそれは寄付ではありません。お礼のつもり、それも寄付ではありません。
寄付を仕事と混同しない、Sマークをつけないためには、黙ってする、これがいちばんです。

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えのぐののの字は書かないの

2014年10月07日 | つぶやきの壺焼

いろはのいのじは・・・・・という唄がありました。
うしろが5文字の唄と、7文字の唄があります。
始まりは偶数音でも、終いは奇数音でないとうまく締まらないようです。

人の名も、物の呼び名も、3音がおさまりよく聞こえます。
2音の名にも「お」をつけて3音で呼ぶと、親しげに、あるいは丁寧に聞こえます。
おしげ、おつる、おまさは時代劇によく出てきます。
芋よりお芋、味噌よりお味噌、挙げればきりがありませんが、2音では他のことを連想してしまいます。

あたまに「お」をつけずに中に「の」をはさんだ呼び名もあります。
はさむのは音だけで、字には入れません。
「お」は書かなければ読めませんが、「の」は書かなくても音を入れることができます。
「えのぐ」は絵具、この2文字の間に「の」を入れて絵の具と書くと、なぜか幼稚園児のお絵かき道具の感じがします。

天の川、酢の物、二の次、二の舞は、「の」を抜くと他の読み方になってしまいますが、絵具は、よほどかたくなな人でなければ、これを「えぐ」とは読まないでしょう。
「えぐ」は、セリのまたの名「恵具」か、正月七日の節会に供えられた「会供」で、いまではそんな呼び名もあるのかと思うくらいのものです。

他にはないかと「えぐ」でググってみたら、真っ先に出てきたのはエグザイルでした。

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ゴロで覚える数字

2014年10月06日 | つぶやきの壺焼

数字はごろ合わせで覚えておくと、忘れかけたときに思い出しやすいのものです。
たとえば、4192番地を「ヨイクニ」と覚えておけば、ど忘れして、4192だったか、4291だったか、怪しくなったときには助かります。

ゴロ合わせ、それには4桁が向いているようです。
円周率も3.14サンテンイチヨンなら4桁と同じリズムになりますから忘れないでしょう。
それをわざわざ3だけにしたらなどと、バカなことを考えた人もいましたが、桁を減らせば間違いが少なくなるというのはウソです。
3.14の下1桁を違えても、影響はわずかですが、3だけにしておいて1桁違ったら大違いということになります。
1桁だけにすれば脳の負担が減るとでも思ったのでしょうか。
1桁数値だけしか記憶しない練習を重ねれば、頭はだんだん弱くなっていきます。

もうひとつたとえば、500億円国の支出は、国民1人当たりいくらぐらいになるでしょうか。
日本の人口は1.28億人より少なめですが、麻雀をやった人なら忘れないこの数字、いまのところこれを使えそうです。
それで割った結果を多めに丸めれば、およその答えが出ます。
500億円/1.28億=390円
この数字も覚えやすいでしょう。

丸暗記というのは、丸ごとのほうがバラバラよりも覚えやすいことを言ったのではないかと、いま気付きました。
電話番号の末尾の3桁を、急に聞かれるとまごつく理由も、これでわかりました。

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だいさんしゃいいんかいとはどういうものか

2014年10月05日 | つぶやきの壺焼

N町の集会所には、おらが村のみんなの考えを袋詰にして、いつも持っているかのような顔をした、おじさん、おばさんが集まっています。
何か面倒なことを決めなければならないとなると、意見はなかなかまとまりません。
それもそのはず、ものごとの意見は、人数が増えただけ食い違いの度合いも増えますから。

集まった皆が問題を理解したうえで考え抜いて、まあまあそこそこの結論を出していければよいのですが、問題の核心が時間軸に引っ掛かってしまうと、話はまとまりません。
意見がまとまらない、よい考えが出てこない、それは集まった人の頭が悪いからではなく、過去にあったことをどういう未来につなげていくかという時間軸のとらえ方が、皆それぞれに違うからです。

おらが村へのお土産や、いまいる部屋を出てから先の身の置きどころや、できるだけ永くこの部屋に居とどまる方法などを真っ先に考える人が大勢を占めれば、時間軸が多少違っても、先の結果は手の届く範囲にしかずれません。
お土産を待っている村びとたちの顔、安心ほかほかの生活を喜んでいる家族の顔、それがいつも目の先に現れる人たちに、時間軸に沿ったずっと先のこと、半世紀先、次の世紀のことを考えさせるのは無理な話なのです。
話のまとまりがつかないのは当たりまえです。

そこで頭のよい方がたは、時間軸の整理の仕方を考えます。
集会所以外のところから、時間軸が都合よくそろいそうな頭脳明晰な人を、だいさんしゃと呼んで集まってもらうことにします。
話のまとまりに具合がよさそうな人数だけ集めて、だいさんしゃいいんかいと名づけます。
いいんかいは委員会と想像がつきやすいのですが、だいさんしゃは、第三者なのか代参者なのか、漢字にしてみてもよくわかりません。
第三者と呼ぶからには、第一者、第二者がいるはずなのですが、それは誰と誰を指すのでしょうか。
代参者の場合は、誰の代わりにどこにお参りするのでしょうか。

だいさんしゃいいんかいという呼び名は、装いも新たに問題の審議に取り組むぞという飾り言葉のようにさえ見えてきます。
公平の装いです。生成が装いであれば、判定も装いで終わるかもしれません。

代参者には、いいんかいの部分はかな書きのままのほうが似合いそうです。
代参者いいんかい、代参者でいいんかい。

余計なことを思い出しました。
「石松代参」というあの浪曲です。
♪ XXは死ななきゃぁ・・・・・ 治らなぁいぃ・・・・


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ご読みは誤読ではなかった

2014年10月04日 | つぶやきの壺焼

漢字の「音(おん)」には、「呉音」と「漢音」があります。
まだほかにもありますが、主な「音」はこの二種類です。
日本語でいま使っている漢字の音読みは「漢音」のほうなのですが、その例外をこれまであまり気にしていませんでした。
最近、あるところで呉音を指して間違いだとする説に出会ったので、忘れないうちに書いておくことにしました。

捏造という、近ごろよく見かけることではあっても、あまりたちのよくない言葉があります。
捏ねて造る、土や粉を捏ねて何かを作ることなのですが、この過程を経ると、思ってもいない形のものが出来上がります。

この「捏」の字の音は「デツ」で、「ねつぞう」は誤読だという説を聞いておやと思いました。
これは間違って読んでいたのかというと、そうではなく呉音が「ネツ」だったのです。

「でつぞう」ではどうも感じが出ません。
「ねつぞう」と言うと、なにかねちねちと捏ねて造る感じが出ているように聞こえます。

捏造とは、元に何もない、まったくゼロの話を作り上げることではなさそうで、話を捏ねあげて、似ても似つかぬことにしてしまう、そういうやりかたを言うのでしょうか。
犯罪の証拠品に似せたものを、手軽にぽいと作って間に合わせるのは、捏造とは言いにくいのですが、報道がそれを捏造と呼ぶのは、偽造と言ったのでは、いかにもウソくさく気の毒だからでしょうか。

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認知症いろいろ

2014年10月03日 | つぶやきの壺焼

なにかと心配りの深い人をうるさがるとき、心配症候群と悪態をつかれることがありますが、過認知症というやまいもありそうな気がします。
ありもしないことを確かにあると思い込んでしまう現代病です。

過敏症とはまた違って、感じるのではなく信じる病気ですから、それを治すには大変です。
切り傷でも、鋭利な刃物の傷はすぐ治りますが、鈍器でついた深い傷は、目立たない状態に皮膚が戻って完治するまでには何十年もかかります。

鈍でありながら深すぎる認知は、心の傷どころではなく、重い重い荷物を背負って歩き続けるのに似て、まことに辛いものです。

何かの拍子に心が動いて、自分の眼で確かめたのでもない、戯れ言であったかも知れない書きものなどを、歴史上の事実のように思いこみ、そのことについて具体実権を委任されてもいない人が、国を代表するかのように振舞って、海の外の相手に気に入られるような言葉を散らして回る行為は、まことに罪深いものです。
それが、相手の心をいやすどころか、時間が経つにつれ、鈍器で殴りつけられたような痛みを甦らせ、集団の過認知症を引き起こさせるに至っては、国益がどうのこうのという問題ではなくなってしまいます。

目先の経済問題ばかりに気を取られていると、いつの間にか、自国他国の区別なく多くの人が過認知症に罹り、世紀をまたいで苦悩を背負い続けなければならない困ったことになりそうです。

グローバリズム信仰も、過認知症の症例であると思うのですが、いかがでしょうか。

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カタのつけ方いろいろ

2014年10月02日 | つぶやきの壺焼

新しいグラブは、手になじんで具合よく使えるまでに時間がかかります。
時が経てば熟成していくものではありませんから、過ぎてゆく時間だけではなく、手を入れてボールが当たってだんだん形ができていく過程が必要です。
この、手を入れるということには、中に手を差し込むことと、やわらかくなってほしいところにあぶらを滲みこませるなど、なじみやすくしていくことの両方の意味があります。
企業で新人を育てていく過程に、どこか似たところがあります。

新しいグラブの使いにくさが、使う人に癖をつけてしまうこともあるでしょう。
その癖が、理にかなった癖ならよいのですが、身体のどこかに無理のかかる癖の場合には、技の伸び方や健康状態にも良くない影響を与えます。

それならば、グラブが新しいうちに使い込んだかのようなカタをつけてしまおうと、湯揉み型付けやオイル加工が施されます。
新入社員の集中研修のような、即戦力の付加策です。

ものごとのカタのつけ方には、こういう作り上げるための型つけと、散らかっていたもの引きずっていたものを、整理したり廃棄したりする片付けとがあります。
そのほかにまだ、恰好をつけるだけのカタつけもあります。

呼び方に恰好だけ整えて、もう一つの片付けをやってしまうマジックのような急場しのぎもあります。
「構造改革型リストラ」と呼ぶ、採算の合わない部門や働き具合の気に入らない社員を削り落としていく戦略がその一例です。
将来のためにと言葉は添えられていても、3年5年ぐらい先しか見ていない将来では、時間の向こう側というだけのことです。
リストラクチャは、構造改革という大仕事の一手段であるのに、構造改革を型名に仕立てて鼻先にくっつけた「構造改革型リストラ」は、自己矛盾の看板文句でしかありません。
部署を削り、人を追い出して、その分の仕事を押し付けられたのでは、見こまれて残った人はたまったものではありません。
これはいい手だと、つい誘いに乗ってしまえば、おそらく少し長めの将来には、必ず破綻があらわれ、どこかに吸収されるカタなし企業になってしまうことでしょう。

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