聞きたくなる、聞いてみる、違うだろうと思う、この繰り返しで脳は活性化されます。
聞きたくなる、聞いてみる、わかった気になる、この繰り返しで脳は沈静化されます。
ぎもん、しつもん、はんもんには、こんな変換候補も出てきました。
偽悶、 疾悶、 煩悶
見せかけの悩み、病気としての悩み、ああめんどくさ。
聞きたくなる、聞いてみる、違うだろうと思う、この繰り返しで脳は活性化されます。
聞きたくなる、聞いてみる、わかった気になる、この繰り返しで脳は沈静化されます。
ぎもん、しつもん、はんもんには、こんな変換候補も出てきました。
偽悶、 疾悶、 煩悶
見せかけの悩み、病気としての悩み、ああめんどくさ。
皆さんは次の文章を理解できるでしょうか。
本当に考えた後、彼は何かが間違っていないことを発見することができるようになります、現実的ではありません、欠陥がある;しかし、なぜ前方に置くことができなく、実現可能な、または欠陥根拠はなく、上司や他の人の疑問を要求します。だけでは決してこの引数、単純な応答」を理解していません」。
これは、次の原文を、むりやり機械翻訳したものです。
確實思考後,他必能發現有些地方是不對的,是不可行的,是有瑕疵的;而能提出為何不對、不可行、或有瑕疵的理由,並請求主管或旁人解惑。絶對不會單以「不理解」這個説法,簡單回應。
原文と訳文の両方を何度も見ていると、言いたいことは何となくモヤモヤっと想像はできますが、日本語で育った頭で、この文章の真意と裏の意の双方を理解することは至難の業です。
有能な通訳か翻訳者の手にかかれば、聞いても読んでもスッと頭に入ってくる日本語にはなりますが、それが原意を正確に変換されたものかどうか、誰でもが確かめられることではないでしょう。
おっとっとというスナック菓子があります。
普通の味では飽き足らず、スーパーという特別名をかぶせたのもあります。
菓子とは無関係で、つい失敗したときに発するオットットという言葉もあります。
あれは掛け声でもなく、つぶやきでもなく、なんというのでしょうか。
ものごとに失敗したとき、その直後の対処の仕方にオットットが使われることがあります。
照れ隠しと、恬然たる態度の表明をかねながらの、愛嬌のあるくだけた表現様式です。
オットットの代わりにアラコンニチハと言った人もいました。
失敗への対処、後始末は、人柄の印象となって、人びとの記憶に残ります。
失敗したことに気付かないのでは、話にもなりませんが。
ラ行の和式スキャットは、三味線によく合うようです。
まだカラオケのなかった時代には、三味線よりも、実際には手拍子のほうが多く使われていました。
キツネ、タヌキがあらわれ、洗濯がどうこうと、わけのわからない文句の歌が、酔いのまわりの悪い人を乗せる道具になっていました。
あのツーレロ節は、合いの手の始まりでなく、終わりに使われていた文句から、シャンラン節とも名づけられ、それが本名だったようです。
みなシャンシャンシャンと歌っていたのに、なぜシャンランなのかと、よく聞いてみると、レコードに吹き込まれているのはラ行が入った文句でした。
こういう言葉は頭の文字によって感じが大きく変わります。
頭にグを持ってきてみると、次の音にルレロの入った言葉ができあがります。
グルメ グレメ グロメ
並べてみれば、これも3段階にみえてきます。
それは、ひまつぶしの3段階、ルレロの順に性向の品位が落ちてくるようです。
鐘は打ち方次第で音を変えられます。
鐘の音は、早鐘、警鐘、梵鐘と、目的次第で変えることができます。
急を知らせる、注意を促す、時を告げると、何にでも使えそうです。
ところが、それぞれ鐘の据わり場所におさまれば、そこの目的以外の使いかたはほとんどされません。
融通のきかないところは、同じ発音のカタカナでも書かれるものとは大違いです。
鐘の音を耳にしたとき、気をつけてじっくり考えながら聴いてほしいのはKの鐘ですが、聞いてもらわなければならない多くの人びとの耳に届きにくいのもKです。
警鐘だぞと念を押せば、なおさら「うるせぇ」と耳をそむけられるのもKです。
素直に聴いてもらえるKの音、そういうものを考える音楽家は、いらっしゃらないでしょうか。
自他の関係で、損なわれることを嫌い、保ちたくなることにも段階があります。
尊厳、面子、体面の三段階ということになりそうですが、お国柄で、実用上は下二段活用で十分としているところもあるようです。
しばしば言行不一致であるかのように見えることも、当事者はそうは思わず、自分の行いをすべて正当なものと受けとられるよう、言を駆使して面子を保つ、それに終始する慣習が身についているのでしょう。
思考様式の全く違う人たちを相手に、国際ルールがどうこうなどと言ってみても、そしり合いがいつまでも続くだけではないかと思うのですが。
人が口を開くところ、失言や言い損ないは必ず出ます。
表彰式で違う人の名前を呼んでしまうこともあるくらいです。
失言の前、その瞬間、言ってしまった後の3段階のうち、後始末で、その人や関係者の格が見えかくれします。
よほどたちの悪い人でなければ、前もって失言してやろうとは考えません。
もし準備してあればそれは失言とは言えないでしょう。
失言の瞬間には気がつかない場合が多いので、後が肝心ということになります。
指摘されてからの言い繕いは、だいたいうまくいかず、失言を上塗りすることになるのが相場です。
失言を待ち構えていて、あわて様をあざけり、聞いても意味のない説明を求めて楽しんだり、取消を迫ってみたりなどということが、N町あたりでもときどきあるようです。
そのたびに、そんな子供じみたことでだいじな時間をつぶしてもらいたくないと思うのですが、いかがでしょうか。
生物の多くは群れをなします。
生存本能がそうさせるのでしょう。
群れは、意識されてもされなくてもできあがります。
意識されてできた群れの個体どうしの関係が「つながり」と呼ばれます。
「コミュニケーションをとる」という、わざとらしく意味の通じにくい言い方をされることもあります。
相互に意識されない群れの場合は、つながりではなく近くにいるというだけのようにみえます。
「つながり」にも段階がありそうです。
拡大 相手構わず
選択 信頼見極め
親密 心情繋がり
五文字にこだわって、「心情」に続く文字を探していましたが、とうとう見つからず、やむをえず押し込んだのが「繋がり」の三文字でした。
こんな場合にも、つながりで救われることがあったのです。
久しぶりに東京に出てみました。
浜松町から増上寺付近一帯では、噂に聞く雑旅集団に遇わずに済みました。
旅行者のお行儀にも上中下の3階層があるようです。
1~2人が上、旅行者の不行状は危険を招くことを承知しているなら、当然でしょう。
小グループが中、崩れ役とたしなめ役の力のバランスが、少人数のうちであればどうやら保たれます。
手をつけられないのが団体旅行者、これが最低でしょう。
これにはお行儀の「お」の字も付けられません。
日常の生活圏では、人数が増すほど締め付けが厳しくなるので、非日常の旅先ではその逆になり、気分が解放されるというより、放埓の状態になることは想像できます。
空港に舞い降りた瞬間、そこには内外の境目も、束縛と自由の境界も消えてなくなります。
自分と仲間との関係だけがかろうじて保たれていて、それ以外は人も物も持っているカネも、いっさいがバラバラ、エントロピーは無限に増大していきます。
生まれ育った環境がもたらす、自然の成り行きなのでしょう。
短時日の旅行者がそういうありさまなら、移民と名乗る難民が無数に押し寄せたときに、海に囲まれたこの国で何が起きるか、想像するのも嫌になります、くわばらくわばら。
ジンドーのひとことで簡単に片づけるわけにはいかないのです。
何かを教えられて、わかったときは、うれしいものです。
うれしいことは、また次にそうすることが楽しくなります。
教えられるT、わかるU、楽しめるEの3段階を考えてみたとき、TとEは、当人がそれを望んでいてもいなくても、そうなることに気付きます。
しかし、真ん中のUは、当人の意思がない限り、どうにもなりません。
わからないことを、種々体験をさせてわかった気にさせてしまうこともあります。
それは宗教か魔術か、それによく似たある種の主義か、どれかの世界でのことです。
通常の生活の中では、当人にわかろうという意思がない限り、Uの状態を得ることはできません。
わかることによって、当人が何のメリットを自覚できなくても、わかってもらわないと困るのは、義務教育と、業務遂行上必要なことがらです。
義務教育のほうは、対象の心も頭も柔軟な間に行うことですから、苦難の道ではあっても方法はあります。
しかし、業務遂行上必要なことのほうは、別の条件を整えない限り、わからせようという努力はほとんど無駄に終わるでしょう。
別の条件とは、わからなくてもできてしまうようにすることです。
これが積み重なっていくと、人間はUなしでただEを得ることに抵抗を感じなくなりますから、知能、感性ともに水準が次第に低下していきます。
人間が、何千年もかかって、「そんなばかな」ということをくりかえしながら、その上塗りを続けているのは、TとEの間にある、始末のしにくいUに目が向けられなくなってしまっているからでしょうか。
電池には、放電するだけで充電できないものを一次電池、それ以外を二次電池という類別があります。
一次電池は、使い捨てなので取り換えが容易にできるよう規格が決められています。
写真は、同じメーカーが作った持ちはこびできる同じ種類の器具に使われている充電できる電池を重ねてみたものです。
使われている器具が同種でも、こんなふうに自由に作られています。
使い捨てではないといっても、ある時期がくれば寿命が尽きます。
そのときに電池だけを買おうとすると、なぜそんな値段なのかと思うほどの代金を支払わなければなりません。
一次電池と違い、大量生産の対象にならないからといっても、これはユーザー泣かせです。
電池不要がいちばんよいのですが、そうしてみようという意欲は、この器具メーカーたちには起きないようです。
ところが、ライトに電池不要というものが現れました。
体温を感じて点灯すると言いますから、人間が電池の代わりをしているのでしょうか。
これは電池の階級からいえば特別階級といってよいかもしれません。
人間と人工知能A I とのかかわりの3段階では、登りつめると恐ろしい山頂が待っています。
これまでは、人間の思ったことを命じておけば、そのとおりに働いてくれるA I が研究され、製作されてきました。
これからしばらくは、人間の思いをわざわざ伝えなくても、それを察知して、思ったとおりりに働いてくれるA I が作られていくでしょう。
そのあとが恐ろしいのです。
そこには、人間にとって、こんなはずではなかったと思えるような、さまざまなA I が誕生してしまっています。
たとえば、人間の思いとは逆の働きをはじめたり、それどころか、人間の思いを変えさせてしまう働きをしたり、A I たちの思いどおりに人間を動かしたりということになるでしょう。
それでもA I ビジネスを続けますか。
自分の命のある間だけよければ、それが生きがいになるのですか。
エリートにも、比べてみると3段階がありそうです。
品位、品格、品性の表面張力を弱めてしまう魔の機会の訪れに、感覚が鋭敏であるかどうか、そんなことも段階の形成要因になります。
ついうっかりではなく、人の好さがそうさせてしまうこともあるでしょう。
目の前の相手をだいじにするあまりのことが、後の成り行きに、己が身のことだけでなく、その身を置く組織の働きに影響を与えることに、そのときは気づいていません。
ある水準をじっと保ち続けることは、生物にはできません。
繰り返しくりかえし、それが一定であるかのように見え、また力を生み出すことがあります。
それは電気です。
EaEbEcと書いてみたとき、ふと思い出したのはそんなことでした。