米と水を入れてもご飯を炊けない炊飯器があると聞いたら、なにそれ、と思うでしょう。
電気の届かないところではそうなります。
決めてはあっても取り締まりのできない法律も、電気の使えないところに置いた炊飯器に似ています。
外国人土地法という法律があります。
第四條 國防上必要ナル地区ニ於テハ勅令ヲ以テ外國人又ハ外國法人ノ土地ニ関スル権利ノ取得ニ付禁止ヲ為シ又ハ条件若ハ制限ヲ附スルコトヲ得
前項ノ地区ハ勅令ヲ以テ之ヲ指定ス
現代文に直せばこうなります。
第4条 国防上必要な地区においては、政令によって外国人または外国法人の土地に関する権利の取得を、禁止、条件づけまたは制限をすることができる
国防上必要な地区は政令によって指定する
基地の周辺でも、そこが国防上必要な地区と指定されてなければ、怪しげな外国人が土地を買っても、それを取り締まることができません。
こんな状態で「この国を、守り抜く。」ことができるのでしょうか。
スマホにガラスコートをすると、傷がつきにくくなる、割れにくくなる、ついていた傷も目立たなくなる、汚れがサッと取れる、指触りが滑らかになるなどいろいろ効用があるようです。
指触りが滑らかということは、滑りやすく落としやすいということです。
ときどきツルリ、カチャンとやっているうちに、格安のガラスコートはやがてヒビだらけ、もう駄目、買い換えようということになるでしょう。
落としやすければ、落ちない工夫をすればよいのですが、そちらには改良の手は伸ばしません。
なぜでしょうか、たぶん、作って売る人は、早く壊れて買い替えの回転率が上がってほしいと願うからでしょう。
世の中に落ち着きがなくなったのは、直幹真柏のようにづしっと構えた人が現れにくくなったからでしょう。
上に伸びて枝を広げても、根元はひょろひょろの植物のような人をよく見かけます。
元のほうからねじれた木の幹は、まっすぐに直すことはできません。
幼年教育のころからねじれて一方に傾いた精神を、ごくふつうの心に戻すのもなかなかむずかしいことです。
下のほうはまっすぐなのに、上に行くとねじれはじめ、さらに上に行くほどねじれがはげしくなる、おかしなねじれ方もあります。
独裁国家によく見られる畸形です。
途中からねじれたものなら、そこからばっさり切り落とせば、まっすぐな形に生き返らせることもできるでしょう。
ねじれ部分を中途半端に残したのでは、畸形の名残がはっきり現れます。
根元からねじれたものは、さて、どうすればよいのでしょうか。
競うということには対象になるものが必要です。
問題は、競う対象をどうするかにあるようです。
競う対象を見いだせないと、無理やりに"かたき役"を作ることになります。
かたき役には、力をもったものが適役です。
競う相手はすべて敵としか教えられずに育った人びとには、終身敵愾という呪縛から逃れられない不幸が続きます。
個人の場合は「お気の毒に」で済みますが、学校教育の方針が"かたき役"づくりでは、国全体が不幸の塊のようになります。
どこかの国がそうであった場合、外交での対話など効き目はありません。
相手にしないわけにもいかず、スポーツでさえ"かたき"にされ、芸能交流だけではどうにもなりません。
曲がってしまった国家感情に、曲がり方に沿うような付き合い方は無為無策、まったくの無駄ごとでしかありません。
ヘナヘナ人の増加の原因は何だろう、競うことの学び方が間違っていたのではないかという気がして、それに合ったイラストをまず探しておこうと「きそう」と打ち込んだら、もとの仮名も含めて九つの変換候補が出てきました。
生活環境が複雑になって、あちらからもこちらからも呼びかけがあると、心も落ち着きません。
パラッと出てくる I MEの変換候補には、思考回路を八方に拡散させるような何かが潜んでいるような感じがします。
変換候補から当てはまる文字列を選ぶとき、それを素早く行う要領は、他の候補には目もくれないということでしょう。
その場で無関係なことには素知らぬ顔、「そんなの関係ない」が習慣になれば、競うことがだんだん下手になっていくのだろうと思います。
発言は磨けば光ります。
磨き方にもいろいろあって、その言葉の本質がよく見えるようになる磨き方もあれば、見かけをよくするように表面をつくろう方法もあります。
表面に艶は出ても、そぎ落とされたり変質したりで、本質が失われることもあります。
リンゴやミカンのつや出しのように、味が落ちても表づらをよく見せようという磨き方です。
発言の磨き方しだいで、発言者がどういう人物か、見せ方を変えることができます。
現代のもっとも悪質な犯罪は"報道機能犯罪"だと前にも書きましたが、その基本型のひとつは"ことば磨き"の利用です。
磨いているかのように見せて本質をそぎ落としたものを、「ああ言った」「こうも言った」と、大量印刷物や電波に載せます。
言葉の端くれをつかまえて、その人が何を考えているのか、探り出そうと試みるのは自由です。
しかし、その"ことば磨き"の結果を見せて、それが全人格であるかのように公言するのは許されません。
報道機能を使って拡散されたとき、もしそれが国の威信を損ねることになれば、その行為は確かな"報道機能犯罪"ということになります。
ニュースの放送が片手落ちである、もう見ないから受信料を払いたくないという評をたびたび聞きます。
放送の内容は、放送局が切ったり繋いだりして、視聴者に受け取らせたい筋書きを作り上げることができます。
それをどういうものにするかは、放送法にそれらしいことは定められていても、だれにもわかる共通の目標が示されていませんから、放送局の勝手気ままということになっているようにも見えます。
放送法
(目的)
《第1条》
この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。
冒頭の(目的)という条文を見ても、この法律が目指していることを示したものか、放送が目指すものを示しているこのかをはっきりさせずに、読み方次第でどちらにでも取れるようになっています。
公共の福祉に適合とか、健全な発達を図るとか、どんなところにも顔を出すような言葉が書かれていますが、放送事業者が、視聴者が喜んで受け入れる内容こそが公共の福祉に適合するものだと言ってしまえばそれまでということです。
たとえ事実でないことでも、これが真実だと何度も言って聞かせれば、なかったこともあったように聞こえ、あったこともなかったように受け取られます。
ここでひとまず、ごく善良な視聴者になったつもりになってみると、こんなこともあるのかという考えが首をもたげてきました。
中継放送などにはマニュアルがあるのではないかということです。
たとえば、信用できない人の話ほど、しっかり聞いてもらうために、一言一句漏らさず、しかも繰り返し何度も放送するよう、時間の割り振りを調整して編集することになっているのです。
そうなれば、確かな話のほうはごく短く切り詰められ、発言の断片しか放送されません。
放送の聞き分け方を発見、長い話や同じことの繰り返しは嘘交じりと見ればよいのでした。
人間は自分だけでは生きられないということに、まともに反対できる人は一人もいません。
いや、どこかの山奥に一人や二人いないはずはないと、考える人もいるでしょう。
ところが、反対という行為は対人関係がなければ成り立ちませんから、それはすでに自分だけのことではなくなっているのです。
こういう話の運びには、屁理屈という名が付いています。
ことばの部分をとらえてやり取りを楽しむ無駄話です。
無駄話は、それを楽しみにしているうちは、お互いに幸せです。
しかし、ほかのだいじな話を逸らすためのお変わりに使われると、無駄に無駄が重なり、それが常道のようになってしまえば、だいじな話の機会はいつになってもやって来ません。
そうなれば、だいじな話をしてもらいたくない人達の思う壺ということになります。
日本の国会議員は世界最高の待遇を受けていると聞きました。
外国人まで、なぜ日本の国会議員になりたがるのか、理由はそこにもありそうです。
議員バッジを胸につけてしまえば、議会開催期間中は議席に座して無為怠惰の時間を過ごしても、選挙区にまめに顔を出し愛嬌をふりまいておきさえすれば、地位の安泰を保つことができます。
日本の国会議員が、自分自身のためにではなく、日本のために仕事をする、それは当然の義務です。
国力の衰退を招く行為をあえてする自由は、国会議員に与えられていません。
論議の価値もない嘘話を議場に持ち込み、質問時間の割当消化に使うことは許されません。
議員には議会活動の評定が必要です。
国益に反する行為に対し、議員個人には歳費、所属政党には助成金の削減制度を設けましょう。
この法案をつくる気もないのであれば、それは議員のうしろ暗さの証明ということになります。
空港や空軍基地の近くにあるゴルフ場では、プレイの集中をさまたげられることがあります。
ここぞというその瞬間に"ゴゥーン"あるいは"ボラ・ボレ・ボラ・ボレ"と頭の上でやられたのではたまりません。
要人をゴルフ場で迎えているときに、こんな邪魔が入れば、プレイの集中をさまたげること以外に、もっと重要な支障が起きます。
お互いのやり取りの会話のひと言も、聞き洩らしたり、聞き違えたり、伝えそこなったりしたら、それが国運を左右することにもなりかねません。
報道機能犯罪団のヘリなどは、もちろん追い返されると思いますが、護衛のヘリも近づきすぎて誤衛になっては困ります。
抜かりはないと思いますが、どうぞゴルフは静かにさせてあげてください。
猟奇事件が身近に起きました。
こういう事件の犯人は、心の病を抱えているので、悪質という表現は当てはまりません。
現代のもっとも悪質な犯罪は"報道機能犯罪"です。
報道機能犯罪とは、報道という社会機能を使った犯罪の仮称です。
報道という名で呼ばれることも、多くの人に伝え知らせるというその機能が犯罪に使われれば、それが報道と呼ばれる資格はなくなります。
報道を使った犯罪に、"報道犯罪"という四文字の呼び方は適切ではありません。
報道の仕事をしていない人が、報道に似たことを真似て楽しんだり学んだりすることはあるでしょう。
公序良俗に反しなければそれは許されます。
しかし、報道の仕事をしている人間が、報道に値しないことを、発信し増殖拡散させる行為は報道機能犯罪で、影響の大きさからして、もっとも悪質な犯罪です。
報道に値しないこととは、放送法または新聞倫理綱領に違反する偽似報道です。
罰則の有無などは論外で、罰則がなければ違反も自由という欺瞞は、文化国の社会には通用しません。
現代社会を動かすもっとも強力な組織は報道機関です。
もっとも強力な組織が、もっとも悪質な犯罪を続けていれば、その国はほどなく滅亡します。
自ら国壊議員と名乗るような不埒な人間に、報道機関の力をもてあそばれることのないよう、自衛力を育てなければなりません。
報道機関の組織の中にいる人は、目をつぶり首をすくめていてはいけないのです。
"無償"でどうかと言われると、それはありがたいとだれもが思うでしょう。
ところが、無償といっても、それが天から降ってくるものはありません。
太陽光や天水はおおむね純粋に無償ですが、それは無償とは呼ばれず、天の恵みと言われます。
無償は、受け取る人にはタダでも、差し出す人はその対価を支払っています。
国が無償で何かをしてくれる場合には、国税の納税者がその対価を支払っているのです。
地方の役所が何かをしてくれる場合には、地方税の納税者がその対価を支払っているのです。
国であれ、地方であれ、無償という名目をつけて、受け取る必要のない人、資格のない人や外国人に、何かを差し出しているとしたら、ずいぶん奇妙な行為としか言えません。
日本の国は、国防に必要な予算も、普通の国の半分程度しか割り当てられない状態です。
外国人に無償という名で何かを差し出せるほど豊かではありません。
無償とは、国や地方の支出がそれだけ増えるということ、そして国民総負担あるいは地方ごとの住民総負担であることを見逃してはなりません。
頭にゴミが固まると、どうなるかという見本の動画があります。
頭のゴミ.3 ▼実人物見本
沖縄にある新聞社の役付記者による取材場面の実況動画です。
ちょっと時間がかかりますが、撮影の経緯もこちらの10/31(火)版でわかるようになっています。
公私の別がうやむやになると、世のなか全体にしまりがなくなります。
お互いにあまりうるさく言わない、けれども付けなければいけないところのけじめはしっかり付いている、という状態が望ましいものと思っていますが、放っておけばずるずるになるというのは、熱力学の第二法則どおりです。
公私の別は、"行い"だけではなく、"話すこと"にもわきまえが求められます。
言葉のわきまえにしくじった結果は、よくある失言という形で責めの材料にされます。
管理用語に近いのであまり使いたくない公私混同という言葉がありますが、本来の意味らしい"行い"のだらしなさのほかに、言葉の問題にもそれがありそうに思います。
始末の悪いのは、私ごとの話であったものを、公の発言とごちゃまぜにしてしまうことです。
発言データの、拡張子の変更です。
酒席の話題ならその混同も面白そうですが、公の場にそれを持ち出して人を責める材料にする、その民族の醜さを宣伝しているようなことが最近目立ちます。
言論の自由、報道の自由、ありのままがよいなどと言って、言論とも報道とも言えない与太話を大声で喚き散らす人もいれば、それをまた切り刻んでうまくつなげていくことが、うまみのある仕事と思いこんでいる人もいます。
これでは、よく働くアリさんに失礼ではないでしょうか。