萎み行く赤い身に、ストックとフローの関係を見た。
地球上の大気圏を駆け巡る風のように、生まれては消えることによって、経済も成り立っているのであろう。
経済的である。という意味合いは、無駄を廃することで、より有意義ななにものかに転換し、循環を促す行為に違いないと思う。
経済の性質を経済性というならば、経済性を産まないような活動をゲーム性経済とよんでも差し支えないだろう。
人生をバブルで終わらせてはいけないのだ。
自然界にある経済性も人間の行う経済性も同質のものであるという前提に身をおく立場である。
経済性の無い行動の結末は、淘汰圧に屈して、絶滅というより大きな経済性に組み込まれるだけであろう。
フローでの貢献を忘れて、ストックだけに走るということでの、経済的効果は、自らを退場に追い込むことで得るしかないような気がしてならない。
自然も人生もゲームではない。その存在は、その経済性の中でどのような役割を果すのかということで、より大きな経済性の庇護の下に存在理由を与えられるものでもあろう。
名も知らぬ小川の、古びた鉄橋の、コンクリートの護岸の、荒れたままの雑木の、絡み合った茎枝の、そのすきまの、陽も届かない、小さな空間にある、赤い実。
金銀や銭金の収奪と配分にばかり眼をやられると、赤い実の存在は眼に入らなくなるだろう。
赤い実は、エゴの実となる。
もはやエコノミーではなく、エゴノミーなのだ。
帰結。生身の個人にとっての経済性はおいてけぼりを食わされる。
誰にでも与えられているがごく限られた生涯は、最も経済的で効果的な方法に投入しなければならない。