新幹線途中下車の旅 瀬戸 その6 <瀬戸の歴史>
瀬戸焼の説明をネットで探すが、歴史学者の書く物は自然科学者の書く物と極めて違う。なんとも書き方がグチャグチャでなにをいっているかよくわからない。歴史というのは実験で証明出来ないから、当然書き方が違ってくるのだろう。 行間を読んで、ズバッと書いてみよう。これを書くのに数時間かかっているのです。 長くて、面倒でしょうが、数分で瀬戸焼がわかりますよ。ネットの説明を読んだって、主観的又は部分的な話ばかりで、全体像はつかめません。ちょっと長く書くと、みんな読んでくれません。まあ、自分の勉強のために書いているのですから読んでくれなくてもいいのですが。
100円ショップの中国産セトモノしか使わない人とか、ウエッジウッドやマイセンのセトモノしか興味ない人も、瀬戸物(セトモノ)という言葉がどうして生まれたかはちゃんと理解してください。
瀬戸の焼物の歴史は大きく分けて3つの時代がある。
瀬戸1300年の歴史というように、縄文時代に焼物は始まり、瀬戸地域でも縄文早期の焼物が見つかっている。この土器の時代から、古墳時代(三世紀中~7世紀、朝鮮では高句麗、百済、新羅、日本ではヤマト王朝が始まり、朝鮮との行き来も活発であり、渡来人の活躍の時代である) に須恵器(すえき)と呼ばれる新たなやきものが渡来人によってもたらされます。須恵器はこれまでの土器とは異なりロクロによって仕上げられた硬質のやきもので、「窖窯(あながま)」という丘陵斜面に構築された燃焼室・焼成室・煙道部(えんどうぶ)からなる窯炉(ようろ)によって焼成されています。瀬戸地域では猿投窯(さなげよう)において5世紀の中頃に生産が確立した。このころの須恵器生産の中心は瀬戸ではなく、大阪府南部の丘陵地帯(堺市、和泉市、岸和田市、大阪狭山市)に多数の窯があり、陶邑窯(すえむらよう)と言われていた。ヤマト王朝と連動していたらしい。仁徳天皇稜がある、当方が以前、会社から派遣されて研究生活をしていた所である。そのころは焼物などちっとも興味なかった。平安時代になって焼物の中心は京都周辺に移動してゆく。この間に瀬戸地域の猿投窯はシコシコと独自の製法を作りだした。と言っても大陸から見れば1500年くらい遅れている(ただし、焼物の歴史として日本は世界最古と思われる焼物が見つかっていることはお忘れなく、なにも中国、朝鮮伝来がすべてではない)。
さて、どうも、猿投窯で次第に形成された、灰釉陶器の確立が瀬戸焼物の盛隆の原点らしい。 灰釉陶器というのは、窯を焚く時の生まれる灰が釉薬の代わりになることを作陶家が気づいて、灰がかかるように工夫し、さらに積極的に植物灰を釉薬として使うようになったである。 中世(平安・鎌倉・室町時代)には東北から九州まで50ヵ所におよぶ地方窯があったそうですが、良質の器が焼けない窯や、歩どまりの悪い窯は次第に淘汰され、良品を焼くことができた窯が選ばれました。こうして生き残ったのが「六古窯」(瀬戸、常滑、備前、丹波、信楽、越前)だったというわけだ。 ずいぶんと名古屋周辺に集まっている。 でもずっと、盛隆を極めていたわけではない。栄枯盛衰が激しいのが焼物のせかいである。
中世(12~16世紀)に入り、13世紀前半に加藤四郎左衛門景正(かげまさ)という伝説の陶祖が猿投窯(さなげよう)の基盤をもとに俗に古瀬戸(こせと)と呼ばれる室町時代末までの瀬戸の隆盛第一期の始まりを見るのである。鎌倉時代には猿投窯以来の築窯技術と施釉(せゆう、釉薬をかけること)法を用いて施釉陶を焼く唯一の窯として発展し、とくに中国から輸入された宋・元代の青磁・白磁・黄釉陶を倣製して日本の焼物の中心となる。製品はおもに飲食器、貯蔵用器、宗教用具などであった。14世紀初頭になると、茶の風習に従って人気を集めた茶具を写し、それまでの灰釉に加えて鉄呈色(積極的に金属を含む素材を使った釉薬、その日本での始まりは奈良時代に唐三彩が入ってきた)加わりその作域は一挙に拡大した。安土桃山時代(16世紀後半)に入り茶の湯の流行に相応して、日本のやきものは黄金期を迎える。この時代のもので現在まで残っている名品のほとんどが織部、志野、黄瀬戸、唐津などの茶器である。しかし、瀬戸にとって安土桃山時代は衰退の始まりであった。室町後期にはそれまでの窖窯(あながま)にかわる大窯が登場し、中国明代の陶器を倣製したが、この新形式の窯はむしろ美濃焼を活性化させる結果を生み、本家の瀬戸焼は衰微して俗に瀬戸山離散とよばれる衰退期を迎えるのである。このころ灰釉(かいゆう)から黄瀬戸釉が、また飴(あめ)釉から茶褐色の古瀬戸釉が生まれ、唐物(からもの)茶入れを写した瀬戸茶入れも現れるなど、実際には茶壺(ちゃつぼ)や茶入れを中心にした伝統的製陶の権威が守られ、この状態が17世紀まで貫かれたとの見方もできる。鎌倉・室町時代の古瀬戸の陶技が「本業」とよばれるのに対し、江戸後期(19世紀)迎えて復活した磁器づくりを「新製」という。
江戸時代になると肥前の有田を中心にはじまった伊万里焼と総称される磁器により次第に市場を奪われ、衰退する。日本での磁器の登場は、秀吉の朝鮮出兵、いわゆる「やきもの戦争」を契機として陶工が朝鮮半島から招聘され、日本での磁器が登場する。渡来人の李参平らが有田に白磁鉱石を見つけて日本で初めて磁器を焼き、これが染付を中心とする初期伊万里が誕生する。磁器の登場とともに、茶陶の世界でも染付や色絵への関心が高まる中で、美濃や伊賀など、徹底した「個性の主張」で桃山陶をリードした茶陶窯は、時代の流れについて行けず、あっという間に衰退してしまいます。この経緯は、なにか手に取るように解りますね。新技術はあっというまに、それまでの頂点のビジネスを奈落の底に落とし込むのです。これは現代でも同じ。
さて、没落の瀬戸、美濃地域の、起死回生の一打となったのは磁祖とされる加藤民吉(1772―1824)が磁器の製法を九州肥前(ひぜん)の諸窯で学び、帰郷して新生染付磁器製法をもたらしたことである。加えて藩の保護を得た瀬戸焼は急速に蘇生し、染付が瀬戸の主流となって川本治兵衛(じひようえ)(ソ仙堂(そせんどう))、加藤春岱(しゆんたい)(1802―77)らの名工を生んだ。以降、瀬戸の焼物は、旧来の陶器を「本業焼」、磁器を「新製焼」と呼び、区別するようになります。「新製焼」は時代の潮流をうまく捉え、生産を拡大させていきます。これが瀬戸繁栄の第二期。以後、明治維新による藩の庇護により喪失の混乱を乗り切った瀬戸窯は、1872年(明治5)のウィーン万国博覧会への出品を機に海外市場を開拓し、石炭窯や倒炎式丸窯などを開発して機械化を図り、量産体制を確立して、いわゆる「せともの」の語源となるほど、名実ともに製陶業の中心地となって現在に至っている。昭和に入り、大戦後、日本経済の復興とともに瀬戸の陶磁器も立ち直り国内外で隆盛を迎えます。しかし、高度経済成長が終わり、バブルがはじけ、中国など海外の安い製品が出回るようになると、量産日用食器の産地である瀬戸は大きなダメージを受けました。大量生産に偏った瀬戸の行き方を変えようとする瀬戸作陶会の話は前述のとおりです。現在では、組合に登録している窯元も最盛期の1/4ほどとも言われるほど厳しい状況です。これは多治見(美濃)も同じこと。以前の多治見のブログをご参照ください。
いやいや、美をもとめる心と現実の厳しさの狭間に揺れ動く焼物の栄枯盛衰の物語は心に響きます。しかし、また瀬戸、美濃は立ち上がるのでしょう。
これだけ調べて、瀬戸がわからず、モヤモヤしていたのが、やっとこ吹っ切れた感じです。
註:窯の説明(ネット情報より)
昇炎式・横炎式・倒炎式に分かれます。下から炎が立ち上る形式、炎が横に流れる形式、炎がぐるっとまわって上からかぶさってくる形式の3つに大別されます。
古代の窯は、窯の概念がなく、野焼きというもっとも原始的な方法で焼かれていましたが、これでは温度もあがらず、炎も一定しないため、安定した焼成を望むのが困難でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/c8/8331e174fc30532a5cce32aeb92071b3.jpg)
古代昇炎式の窯 穴窯(横炎式) 登り窯(倒炎・横炎式)
次に昇炎式の窯が登場することによって、初めて、窯という形式が認められるようになりました。この形式では、炉内ガスや炎の調節をする事が困難でした。これが、次の穴窯に進化すると、煙道のダンパーによる炉圧調整が可能になり、焼成温度の上昇によって、従来より高温での焼成が可能になり、同時に傾斜地に作られた事によって、天然の煙突効果を持ち合わせ、窯としての機能を複合的に発揮出来るようになったわけです。そして、それがさらに機能的進化を遂げたのが登り窯です。ここでは予熱という考え方が登場します。そして倒炎式の炎は、炉内の雰囲気をより安定させ、熱効率を高めています。登り窯は各個室で倒炎式、全体で横炎式という、両方の特徴を兼ね備えています。倒炎式の顕著な例としては他に下図の角窯(和窯)があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/01/65cf1c7bf3f6cf55549e25e6e57f4e7c.jpg)
現代の窯も、炎の形式は大体この3方式に分類が出来ます。(電気炉除く)大きく違うのは、さまざまな熱エネルギーを得たこと、炉圧調整(ダンパー)や燃料・空気量の調整によって、細かな設定が出来るようになった事です。最近ではコンピューター電子計測機器の導入によって、一定の雰囲気になるようにコントロールされています。連続式焼成(例えばホフマン型リングキルン)の様に、大量生産型の窯も近代になって登場し、単独炉(シャトル)・連続炉と区別をされています
大まかに現在の燃料を検証しますと、
固体 石炭・コークス・木材(薪)・木炭
液体 ガソリン・灯油・軽油・重油・アルコール・クレオソート
気体 石炭ガス・水素・天然ガス・プロパンガス・ブタン
その他 電気
燃焼形式をどれにするかというのは重要なポイントになるでしょう。特に、燃料の違いによる、燃焼時の現象・特色をつかんでおきませんと、目的によっては障害になる場合もあります。固体燃料より、液体燃料の方が燃焼効率が良く、燃焼温度・熱効率の点でも勝っています。気体燃料はさらに熱効率が良く、燃焼空気との混合が楽だが、多少理論火炎温度が低い。
電気炉は炉の雰囲気という点では、もっとも安定していますが、例えば、陶芸のように炎が生み出す独特の味という楽しみ方は出来ません。
きれいな完全燃焼の状態を酸化、燃焼に必要な空気量が不足気味で、ややくすぶって燃焼している状態を還元と呼びます。つまり逆に言えば、燃焼に必要な空気量が足りている状態が酸化、不足状態が還元となります。この焼き方の違いで製品の全く様子が異なるからです。日本が世界に誇る磁器は、その生地の白さ・美しさにあるといえますが、これは生地の中に含まれる酸化物が還元状態で白く焼成する為で、還元雰囲気の焼成が不可欠なのです。
ここからは、陶磁器の歴史をつづった、展示場です。説明は面倒なのでやめときます。 前述の瀬戸焼の歴史をじっくり読めば、この後の写真の意味がわかるでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/d4/3d4d40de60dbb09dad0a969bbcb616ba.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/6a/c08ad4510982885a77cc29ec56d8200b.jpg)
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これが、さっき言った丹波焼です。素朴で、力強い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/07/a2ae3ca5cef360df608c412df63223d6.jpg)
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<黄瀬戸>
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呉須染付 瀬戸の得意とする焼き物です。呉須(ゴス)とは磁器の染付に用いる鉱物質の顔料。酸化コバルトを主成分として、鉄、マンガン、ニッケルなどを含み、還元炎により藍青色ないし紫青色に発色する。天然にとれた中国の地名から生まれた日本名。瀬戸でも呉須が産したので、呉須染付 瀬戸の得意となったのです。 現在は合成品の呉須が使われるそうです。 まずは、この呉須と染付が磁器の中心にあるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/5c/4e7366a40f2e836475eb9a1bef167bf3.jpg)
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こういう大きな焼き物は瀬戸の重要な輸出品となっていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/5e/92d00b45a01ae2a14a22f304c97e37d7.jpg)
<瀬戸の歴史>を読んでいただいて、ご苦労さまでした。
さて、瀬戸蔵ミューアムを出て、すこし焼物のお店を訪ねます。
瀬戸焼の説明をネットで探すが、歴史学者の書く物は自然科学者の書く物と極めて違う。なんとも書き方がグチャグチャでなにをいっているかよくわからない。歴史というのは実験で証明出来ないから、当然書き方が違ってくるのだろう。 行間を読んで、ズバッと書いてみよう。これを書くのに数時間かかっているのです。 長くて、面倒でしょうが、数分で瀬戸焼がわかりますよ。ネットの説明を読んだって、主観的又は部分的な話ばかりで、全体像はつかめません。ちょっと長く書くと、みんな読んでくれません。まあ、自分の勉強のために書いているのですから読んでくれなくてもいいのですが。
100円ショップの中国産セトモノしか使わない人とか、ウエッジウッドやマイセンのセトモノしか興味ない人も、瀬戸物(セトモノ)という言葉がどうして生まれたかはちゃんと理解してください。
瀬戸の焼物の歴史は大きく分けて3つの時代がある。
瀬戸1300年の歴史というように、縄文時代に焼物は始まり、瀬戸地域でも縄文早期の焼物が見つかっている。この土器の時代から、古墳時代(三世紀中~7世紀、朝鮮では高句麗、百済、新羅、日本ではヤマト王朝が始まり、朝鮮との行き来も活発であり、渡来人の活躍の時代である) に須恵器(すえき)と呼ばれる新たなやきものが渡来人によってもたらされます。須恵器はこれまでの土器とは異なりロクロによって仕上げられた硬質のやきもので、「窖窯(あながま)」という丘陵斜面に構築された燃焼室・焼成室・煙道部(えんどうぶ)からなる窯炉(ようろ)によって焼成されています。瀬戸地域では猿投窯(さなげよう)において5世紀の中頃に生産が確立した。このころの須恵器生産の中心は瀬戸ではなく、大阪府南部の丘陵地帯(堺市、和泉市、岸和田市、大阪狭山市)に多数の窯があり、陶邑窯(すえむらよう)と言われていた。ヤマト王朝と連動していたらしい。仁徳天皇稜がある、当方が以前、会社から派遣されて研究生活をしていた所である。そのころは焼物などちっとも興味なかった。平安時代になって焼物の中心は京都周辺に移動してゆく。この間に瀬戸地域の猿投窯はシコシコと独自の製法を作りだした。と言っても大陸から見れば1500年くらい遅れている(ただし、焼物の歴史として日本は世界最古と思われる焼物が見つかっていることはお忘れなく、なにも中国、朝鮮伝来がすべてではない)。
さて、どうも、猿投窯で次第に形成された、灰釉陶器の確立が瀬戸焼物の盛隆の原点らしい。 灰釉陶器というのは、窯を焚く時の生まれる灰が釉薬の代わりになることを作陶家が気づいて、灰がかかるように工夫し、さらに積極的に植物灰を釉薬として使うようになったである。 中世(平安・鎌倉・室町時代)には東北から九州まで50ヵ所におよぶ地方窯があったそうですが、良質の器が焼けない窯や、歩どまりの悪い窯は次第に淘汰され、良品を焼くことができた窯が選ばれました。こうして生き残ったのが「六古窯」(瀬戸、常滑、備前、丹波、信楽、越前)だったというわけだ。 ずいぶんと名古屋周辺に集まっている。 でもずっと、盛隆を極めていたわけではない。栄枯盛衰が激しいのが焼物のせかいである。
中世(12~16世紀)に入り、13世紀前半に加藤四郎左衛門景正(かげまさ)という伝説の陶祖が猿投窯(さなげよう)の基盤をもとに俗に古瀬戸(こせと)と呼ばれる室町時代末までの瀬戸の隆盛第一期の始まりを見るのである。鎌倉時代には猿投窯以来の築窯技術と施釉(せゆう、釉薬をかけること)法を用いて施釉陶を焼く唯一の窯として発展し、とくに中国から輸入された宋・元代の青磁・白磁・黄釉陶を倣製して日本の焼物の中心となる。製品はおもに飲食器、貯蔵用器、宗教用具などであった。14世紀初頭になると、茶の風習に従って人気を集めた茶具を写し、それまでの灰釉に加えて鉄呈色(積極的に金属を含む素材を使った釉薬、その日本での始まりは奈良時代に唐三彩が入ってきた)加わりその作域は一挙に拡大した。安土桃山時代(16世紀後半)に入り茶の湯の流行に相応して、日本のやきものは黄金期を迎える。この時代のもので現在まで残っている名品のほとんどが織部、志野、黄瀬戸、唐津などの茶器である。しかし、瀬戸にとって安土桃山時代は衰退の始まりであった。室町後期にはそれまでの窖窯(あながま)にかわる大窯が登場し、中国明代の陶器を倣製したが、この新形式の窯はむしろ美濃焼を活性化させる結果を生み、本家の瀬戸焼は衰微して俗に瀬戸山離散とよばれる衰退期を迎えるのである。このころ灰釉(かいゆう)から黄瀬戸釉が、また飴(あめ)釉から茶褐色の古瀬戸釉が生まれ、唐物(からもの)茶入れを写した瀬戸茶入れも現れるなど、実際には茶壺(ちゃつぼ)や茶入れを中心にした伝統的製陶の権威が守られ、この状態が17世紀まで貫かれたとの見方もできる。鎌倉・室町時代の古瀬戸の陶技が「本業」とよばれるのに対し、江戸後期(19世紀)迎えて復活した磁器づくりを「新製」という。
江戸時代になると肥前の有田を中心にはじまった伊万里焼と総称される磁器により次第に市場を奪われ、衰退する。日本での磁器の登場は、秀吉の朝鮮出兵、いわゆる「やきもの戦争」を契機として陶工が朝鮮半島から招聘され、日本での磁器が登場する。渡来人の李参平らが有田に白磁鉱石を見つけて日本で初めて磁器を焼き、これが染付を中心とする初期伊万里が誕生する。磁器の登場とともに、茶陶の世界でも染付や色絵への関心が高まる中で、美濃や伊賀など、徹底した「個性の主張」で桃山陶をリードした茶陶窯は、時代の流れについて行けず、あっという間に衰退してしまいます。この経緯は、なにか手に取るように解りますね。新技術はあっというまに、それまでの頂点のビジネスを奈落の底に落とし込むのです。これは現代でも同じ。
さて、没落の瀬戸、美濃地域の、起死回生の一打となったのは磁祖とされる加藤民吉(1772―1824)が磁器の製法を九州肥前(ひぜん)の諸窯で学び、帰郷して新生染付磁器製法をもたらしたことである。加えて藩の保護を得た瀬戸焼は急速に蘇生し、染付が瀬戸の主流となって川本治兵衛(じひようえ)(ソ仙堂(そせんどう))、加藤春岱(しゆんたい)(1802―77)らの名工を生んだ。以降、瀬戸の焼物は、旧来の陶器を「本業焼」、磁器を「新製焼」と呼び、区別するようになります。「新製焼」は時代の潮流をうまく捉え、生産を拡大させていきます。これが瀬戸繁栄の第二期。以後、明治維新による藩の庇護により喪失の混乱を乗り切った瀬戸窯は、1872年(明治5)のウィーン万国博覧会への出品を機に海外市場を開拓し、石炭窯や倒炎式丸窯などを開発して機械化を図り、量産体制を確立して、いわゆる「せともの」の語源となるほど、名実ともに製陶業の中心地となって現在に至っている。昭和に入り、大戦後、日本経済の復興とともに瀬戸の陶磁器も立ち直り国内外で隆盛を迎えます。しかし、高度経済成長が終わり、バブルがはじけ、中国など海外の安い製品が出回るようになると、量産日用食器の産地である瀬戸は大きなダメージを受けました。大量生産に偏った瀬戸の行き方を変えようとする瀬戸作陶会の話は前述のとおりです。現在では、組合に登録している窯元も最盛期の1/4ほどとも言われるほど厳しい状況です。これは多治見(美濃)も同じこと。以前の多治見のブログをご参照ください。
いやいや、美をもとめる心と現実の厳しさの狭間に揺れ動く焼物の栄枯盛衰の物語は心に響きます。しかし、また瀬戸、美濃は立ち上がるのでしょう。
これだけ調べて、瀬戸がわからず、モヤモヤしていたのが、やっとこ吹っ切れた感じです。
註:窯の説明(ネット情報より)
昇炎式・横炎式・倒炎式に分かれます。下から炎が立ち上る形式、炎が横に流れる形式、炎がぐるっとまわって上からかぶさってくる形式の3つに大別されます。
古代の窯は、窯の概念がなく、野焼きというもっとも原始的な方法で焼かれていましたが、これでは温度もあがらず、炎も一定しないため、安定した焼成を望むのが困難でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/c8/8331e174fc30532a5cce32aeb92071b3.jpg)
古代昇炎式の窯 穴窯(横炎式) 登り窯(倒炎・横炎式)
次に昇炎式の窯が登場することによって、初めて、窯という形式が認められるようになりました。この形式では、炉内ガスや炎の調節をする事が困難でした。これが、次の穴窯に進化すると、煙道のダンパーによる炉圧調整が可能になり、焼成温度の上昇によって、従来より高温での焼成が可能になり、同時に傾斜地に作られた事によって、天然の煙突効果を持ち合わせ、窯としての機能を複合的に発揮出来るようになったわけです。そして、それがさらに機能的進化を遂げたのが登り窯です。ここでは予熱という考え方が登場します。そして倒炎式の炎は、炉内の雰囲気をより安定させ、熱効率を高めています。登り窯は各個室で倒炎式、全体で横炎式という、両方の特徴を兼ね備えています。倒炎式の顕著な例としては他に下図の角窯(和窯)があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/01/65cf1c7bf3f6cf55549e25e6e57f4e7c.jpg)
現代の窯も、炎の形式は大体この3方式に分類が出来ます。(電気炉除く)大きく違うのは、さまざまな熱エネルギーを得たこと、炉圧調整(ダンパー)や燃料・空気量の調整によって、細かな設定が出来るようになった事です。最近ではコンピューター電子計測機器の導入によって、一定の雰囲気になるようにコントロールされています。連続式焼成(例えばホフマン型リングキルン)の様に、大量生産型の窯も近代になって登場し、単独炉(シャトル)・連続炉と区別をされています
大まかに現在の燃料を検証しますと、
固体 石炭・コークス・木材(薪)・木炭
液体 ガソリン・灯油・軽油・重油・アルコール・クレオソート
気体 石炭ガス・水素・天然ガス・プロパンガス・ブタン
その他 電気
燃焼形式をどれにするかというのは重要なポイントになるでしょう。特に、燃料の違いによる、燃焼時の現象・特色をつかんでおきませんと、目的によっては障害になる場合もあります。固体燃料より、液体燃料の方が燃焼効率が良く、燃焼温度・熱効率の点でも勝っています。気体燃料はさらに熱効率が良く、燃焼空気との混合が楽だが、多少理論火炎温度が低い。
電気炉は炉の雰囲気という点では、もっとも安定していますが、例えば、陶芸のように炎が生み出す独特の味という楽しみ方は出来ません。
きれいな完全燃焼の状態を酸化、燃焼に必要な空気量が不足気味で、ややくすぶって燃焼している状態を還元と呼びます。つまり逆に言えば、燃焼に必要な空気量が足りている状態が酸化、不足状態が還元となります。この焼き方の違いで製品の全く様子が異なるからです。日本が世界に誇る磁器は、その生地の白さ・美しさにあるといえますが、これは生地の中に含まれる酸化物が還元状態で白く焼成する為で、還元雰囲気の焼成が不可欠なのです。
ここからは、陶磁器の歴史をつづった、展示場です。説明は面倒なのでやめときます。 前述の瀬戸焼の歴史をじっくり読めば、この後の写真の意味がわかるでしょう。
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これが、さっき言った丹波焼です。素朴で、力強い。
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<黄瀬戸>
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呉須染付 瀬戸の得意とする焼き物です。呉須(ゴス)とは磁器の染付に用いる鉱物質の顔料。酸化コバルトを主成分として、鉄、マンガン、ニッケルなどを含み、還元炎により藍青色ないし紫青色に発色する。天然にとれた中国の地名から生まれた日本名。瀬戸でも呉須が産したので、呉須染付 瀬戸の得意となったのです。 現在は合成品の呉須が使われるそうです。 まずは、この呉須と染付が磁器の中心にあるのです。
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こういう大きな焼き物は瀬戸の重要な輸出品となっていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/5e/92d00b45a01ae2a14a22f304c97e37d7.jpg)
<瀬戸の歴史>を読んでいただいて、ご苦労さまでした。
さて、瀬戸蔵ミューアムを出て、すこし焼物のお店を訪ねます。