ベルリン・フリー旅行 その5 ポツダム/サン・スーシ-宮殿/フリードリヒ2世
2015-5-28
ベルリン2日目(2015-5-9)はベルリンからSバーンで40分南に下ったポツダムを訪ねます。
ベルリンからポツダムはいってみれば、東京から鎌倉に行くという感じですか。
ホテル最寄のSバーン駅周辺で聞くと、ストライキでSバーンは動いてないと言われて、絶望的になります。それでもフリー旅の鉄則、何人にも聞けということで、インフォメーションセンターがあるであろう大きめの駅Bf Zoologisher GartenまでUバーンでいって、情報を得ました。要するに市内のSバーンは止まっているけれど、郊外へのSバーンは20分おきに動いている、その接点のRathaus SteglitzまでUバーンで行ってからSバーンにのりかえれば行けることがわかりました。これで1時間は無駄にしました。やっとこポツダムにたどり着き、有名なサン・スーシ-宮殿に向かいます。
当方はここをベルリン旅行の3つのポイント、①ヒットラーのユダヤ人虐殺、②東西ドイツとベルリンの壁崩壊、③プロイセン王国のフリードリッヒ大王の尊敬すべき統治能力というポイントの一つと位置付けていました。
<フリードリヒ2世(Friedrich II., 1712年1月24日 - 1786年8月17日)は、第3代プロイセン王。優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる。また、フルート演奏をはじめとする芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、自ら書を著し哲人王とも呼ばれ、功績を称えてフリードリヒ大王(Friedrich der Große)と尊称されている。ドイツにジャガイモ栽培を広めたことでも知られる。>
フリードリヒ2世に関するネット情報はみな興味あるものですが、長くなるので
サンスーシ宮殿に関する情報と新宮殿に関する情報だけ書きます。
<「サンスーシ(Sans Souci)」とは、もともとフランス語で「憂いなし」を意味し、1990年に、宮殿の建物および庭園は「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の1つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。>
<フリードリヒ2世の言葉として有名なのが「朕は国家第一の僕(しもべ)である」です。フリードリヒ2世は二度の戦争でプロイセンをヨーロッパの一流国に押し上げることに成功しました。フリードリヒ2世ははじめから戦争が好きだったのではなく、徹底した戦争バカの父フリードリヒ1世と馬が合わずに、家出をしたり、むしろ芸術へのめり込んでいったのです。しかし、即位してからは、プロイセンの発展に大いに寄与しました。その一つがオーストリア継承戦争(1740~48)です。フリードリッヒ2世はオーストリアで女性、マリア・テレジアが即位しようとしたことにケチをつけて、オーストリアに戦争を吹っかけました。ところが、オーストリアのハプスブルク家、マリア・テレジアは有能な人物で、即位したばかりなのに多民族国家のオーストリアをよくまとめて戦いました。最終的にはシュレジエン地方をプロイセンに割譲というということで決着しましたが、フリードリッヒ2世とマリア・テレジアは犬猿の仲としてずっといがみ合うことになるのです。シュレジエン地方は当時、工業の発達した地域で、人口も100万人いました。それまでのプロイセンの人口が200万をこえる程度ですから、プロイセンの国力は一気に1.5倍になったわけで、大儲けだったのです。当然気に入らない、マリア=テレジアはフランスとロシアと同盟をむすんで、シュレジエン地方奪回にのりだし、再び七年戦争がはじまります。マリア・テレジアの連合軍にプロイセンは大苦戦。ロシア軍がベルリン近くまで攻め込んで、プロイセン絶体絶命となった時に、ロシア皇帝エリザヴェータが突然死んだのです。あとを継いで即位したピョートル3世はプロイセンと争う気は全くなく、ロシア軍を撤退させてしまいました。この偶然で、プロイセンは逆転勝ちとなり、シュレジエン地方はプロイセンの領土として確定し、プロイセンの発展に大いに寄与するのです。>
サンスーシ宮殿はシュレジエン地方取り合いの戦争中に作られ、フリードリヒ2世の「夏の離宮」として建てられましたが、フリードリヒ2世はサンスーシ宮殿に入り浸ることになります。フリードリヒ2世自ら設計に口出しをおおいにやったようで、ロココ調ではあるが、ずんぐりとこじんまりした外見と異様に立派な音楽演奏室とかいろいろアンバランスではありますが、観光地としては絶大な人気を保っています。シュレジエン地方を手に入れ、富がコンスタントに流入するようになって、フリードリッヒ2世はメイン宮殿として新宮殿を建てます。いろいろな一流の職人を集め、その人たちの街まで作って、新宮殿プロジェクトを立ち上げるのです。その目的は、この国家プロジェクトを土台として、色々な産業を興そうとしたのです。自分は結局この新宮殿に住まわずに、サンスーシ宮殿に引き込もって、フルートを吹いたり、芸術家や哲学者をあつめて、この宮殿内では、政治をわすれて<憂いなし>の生活を送ったのです。その芸術を愛しながら、一方で戦い抜き、産業も発展させる、人間味あるふれる人柄が今も人気No1の王様としてあがめられているのです。ヒットラーもフリードリヒ2世を尊敬し、自分の執務室にフリードリヒ2世の肖像画をかかげて、七年戦争の奇跡をもう一度、と願っていたそうです。実際にアメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトが死ぬのですが、ヒトラーには残念ながら、ドイツは負けてヒトラーは自殺することになりました。
さて、この辺で、サンスーシ宮殿にむかいましょう。
ネットで見るサンスーシ宮殿の全景
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
途中にあった、藤に囲まれた館で撮影。
Sony alpha7S + coBORG
Sony alpha7S + coBORG
Sony alpha7S + coBORG
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
対面にサンスーシ宮殿が見えます。
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
サンスーシ宮殿の前の段々は葡萄棚になっています。
Sony alpha7S + coBORG
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
こちらでは民族衣装を着ることは、日本の着物姿と同じようで、平気でやる人がいるようです。皆が撮影するものですから、この方は手をふって、大いに満足な様子でした。変身好きな家内もきっとやりたがっているにちがいありません。この後のベルリン・ドイツ・オペラでもいい歳のオバサンが、派手な民族衣装でオペラ会場に現れていました。
Canon IXY
日本人観光客集団に囲まれた当方。内観は時間当たりの人数制限があるので、旅行社ツアーではサンスーシ宮殿の内部に入ることはまずありません。
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
Sony alpha7S + coBORG
もはや、キティーちゃんは世界的キャラクターのようです。
前もって予約して、指定された時間に内部にはいります。ここも内部撮影許可に3ユーロ、450円くらいはらいます。
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
天井を撮るのは飽きたので、置いてある調度品を撮ります、そのデザインを参考にしようという魂胆です。
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
これはフリードリッヒ2世のフルート。ちなみに、当方もフルートを吹きます。べつにフリードリッヒ2世を真似しているわけでは全くありません。ここ一年、フルートは御無沙汰ですが、また再開しようと思っています。<バッハの無伴奏フルートソナタが吹けるようになったら、お墓に入いります>とブログのどこかで書いた記憶があるのですが、このままではお墓に入ることができないので、再開です。
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
この辺で、サンスーシ宮殿を出て、近くのオレランジェリー城を経て、新宮殿に向かいます。
また明日
2015-5-28
ベルリン2日目(2015-5-9)はベルリンからSバーンで40分南に下ったポツダムを訪ねます。
ベルリンからポツダムはいってみれば、東京から鎌倉に行くという感じですか。
ホテル最寄のSバーン駅周辺で聞くと、ストライキでSバーンは動いてないと言われて、絶望的になります。それでもフリー旅の鉄則、何人にも聞けということで、インフォメーションセンターがあるであろう大きめの駅Bf Zoologisher GartenまでUバーンでいって、情報を得ました。要するに市内のSバーンは止まっているけれど、郊外へのSバーンは20分おきに動いている、その接点のRathaus SteglitzまでUバーンで行ってからSバーンにのりかえれば行けることがわかりました。これで1時間は無駄にしました。やっとこポツダムにたどり着き、有名なサン・スーシ-宮殿に向かいます。
当方はここをベルリン旅行の3つのポイント、①ヒットラーのユダヤ人虐殺、②東西ドイツとベルリンの壁崩壊、③プロイセン王国のフリードリッヒ大王の尊敬すべき統治能力というポイントの一つと位置付けていました。
<フリードリヒ2世(Friedrich II., 1712年1月24日 - 1786年8月17日)は、第3代プロイセン王。優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる。また、フルート演奏をはじめとする芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、自ら書を著し哲人王とも呼ばれ、功績を称えてフリードリヒ大王(Friedrich der Große)と尊称されている。ドイツにジャガイモ栽培を広めたことでも知られる。>
フリードリヒ2世に関するネット情報はみな興味あるものですが、長くなるので
サンスーシ宮殿に関する情報と新宮殿に関する情報だけ書きます。
<「サンスーシ(Sans Souci)」とは、もともとフランス語で「憂いなし」を意味し、1990年に、宮殿の建物および庭園は「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の1つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。>
<フリードリヒ2世の言葉として有名なのが「朕は国家第一の僕(しもべ)である」です。フリードリヒ2世は二度の戦争でプロイセンをヨーロッパの一流国に押し上げることに成功しました。フリードリヒ2世ははじめから戦争が好きだったのではなく、徹底した戦争バカの父フリードリヒ1世と馬が合わずに、家出をしたり、むしろ芸術へのめり込んでいったのです。しかし、即位してからは、プロイセンの発展に大いに寄与しました。その一つがオーストリア継承戦争(1740~48)です。フリードリッヒ2世はオーストリアで女性、マリア・テレジアが即位しようとしたことにケチをつけて、オーストリアに戦争を吹っかけました。ところが、オーストリアのハプスブルク家、マリア・テレジアは有能な人物で、即位したばかりなのに多民族国家のオーストリアをよくまとめて戦いました。最終的にはシュレジエン地方をプロイセンに割譲というということで決着しましたが、フリードリッヒ2世とマリア・テレジアは犬猿の仲としてずっといがみ合うことになるのです。シュレジエン地方は当時、工業の発達した地域で、人口も100万人いました。それまでのプロイセンの人口が200万をこえる程度ですから、プロイセンの国力は一気に1.5倍になったわけで、大儲けだったのです。当然気に入らない、マリア=テレジアはフランスとロシアと同盟をむすんで、シュレジエン地方奪回にのりだし、再び七年戦争がはじまります。マリア・テレジアの連合軍にプロイセンは大苦戦。ロシア軍がベルリン近くまで攻め込んで、プロイセン絶体絶命となった時に、ロシア皇帝エリザヴェータが突然死んだのです。あとを継いで即位したピョートル3世はプロイセンと争う気は全くなく、ロシア軍を撤退させてしまいました。この偶然で、プロイセンは逆転勝ちとなり、シュレジエン地方はプロイセンの領土として確定し、プロイセンの発展に大いに寄与するのです。>
サンスーシ宮殿はシュレジエン地方取り合いの戦争中に作られ、フリードリヒ2世の「夏の離宮」として建てられましたが、フリードリヒ2世はサンスーシ宮殿に入り浸ることになります。フリードリヒ2世自ら設計に口出しをおおいにやったようで、ロココ調ではあるが、ずんぐりとこじんまりした外見と異様に立派な音楽演奏室とかいろいろアンバランスではありますが、観光地としては絶大な人気を保っています。シュレジエン地方を手に入れ、富がコンスタントに流入するようになって、フリードリッヒ2世はメイン宮殿として新宮殿を建てます。いろいろな一流の職人を集め、その人たちの街まで作って、新宮殿プロジェクトを立ち上げるのです。その目的は、この国家プロジェクトを土台として、色々な産業を興そうとしたのです。自分は結局この新宮殿に住まわずに、サンスーシ宮殿に引き込もって、フルートを吹いたり、芸術家や哲学者をあつめて、この宮殿内では、政治をわすれて<憂いなし>の生活を送ったのです。その芸術を愛しながら、一方で戦い抜き、産業も発展させる、人間味あるふれる人柄が今も人気No1の王様としてあがめられているのです。ヒットラーもフリードリヒ2世を尊敬し、自分の執務室にフリードリヒ2世の肖像画をかかげて、七年戦争の奇跡をもう一度、と願っていたそうです。実際にアメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトが死ぬのですが、ヒトラーには残念ながら、ドイツは負けてヒトラーは自殺することになりました。
さて、この辺で、サンスーシ宮殿にむかいましょう。
ネットで見るサンスーシ宮殿の全景
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
途中にあった、藤に囲まれた館で撮影。
Sony alpha7S + coBORG
Sony alpha7S + coBORG
Sony alpha7S + coBORG
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
対面にサンスーシ宮殿が見えます。
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
サンスーシ宮殿の前の段々は葡萄棚になっています。
Sony alpha7S + coBORG
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
こちらでは民族衣装を着ることは、日本の着物姿と同じようで、平気でやる人がいるようです。皆が撮影するものですから、この方は手をふって、大いに満足な様子でした。変身好きな家内もきっとやりたがっているにちがいありません。この後のベルリン・ドイツ・オペラでもいい歳のオバサンが、派手な民族衣装でオペラ会場に現れていました。
Canon IXY
日本人観光客集団に囲まれた当方。内観は時間当たりの人数制限があるので、旅行社ツアーではサンスーシ宮殿の内部に入ることはまずありません。
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
Sony alpha7S + coBORG
もはや、キティーちゃんは世界的キャラクターのようです。
前もって予約して、指定された時間に内部にはいります。ここも内部撮影許可に3ユーロ、450円くらいはらいます。
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
Sony alpha7R + Sony/Zeiss 16-35mm
天井を撮るのは飽きたので、置いてある調度品を撮ります、そのデザインを参考にしようという魂胆です。
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
これはフリードリッヒ2世のフルート。ちなみに、当方もフルートを吹きます。べつにフリードリッヒ2世を真似しているわけでは全くありません。ここ一年、フルートは御無沙汰ですが、また再開しようと思っています。<バッハの無伴奏フルートソナタが吹けるようになったら、お墓に入いります>とブログのどこかで書いた記憶があるのですが、このままではお墓に入ることができないので、再開です。
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
Sony alpha7S + フォクトレンダーVintage line 50mm F1.5 Aspherical VM
この辺で、サンスーシ宮殿を出て、近くのオレランジェリー城を経て、新宮殿に向かいます。
また明日