毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

雨でも鳥は      2011年6月6日(月) No.144

2011-06-06 12:47:35 | 中国事情
 南昌は雨期に入ったようだ。関西の梅雨に似て、ここ数日雨が降ったり止んだりが続いている。買い物に行こうかと思っているうちにザアッと激しく降ってきたので、直ちに予定変更。明日買っても良い物ばかりだ。

 以前にも書いたが3月の震災後、ベランダ前にパンくずやご飯粒を毎朝撒くようにしている。もう二ヶ月半経つが、鳥たちは相変わらず、物音や気配に敏感で、私が窓越しに様子を見ようと近付いただけでパーッと飛び立つ。今朝は、いつもの雀や名前が分からないやや大きめの鳥の中に初めて鳩が一羽混じっていた。体の大きさが権力の強さだ。雀は、鳩が飛んでくるとサッと近くの木々に待避する。
 他の変化は、朝遅めにパンくずを撒くと、(遅かったね。待っていたんだよ~。)と言うように私がまだパンをちぎっていても、近くの木々に集合してくるようになったことだ。こういうのは信頼されたようで嬉しい。しかし、夏休みの間この習慣が途切れると、また元の黙阿弥になるのだろう。とにかく、ここの鳥たちは慎重だ。椋鳩十の「大造じいさんと雁」を思いだす。

 急なにわか雨が、やや小降りになると雀たちがベランダ前の桜の木に戻ってきた。ベランダの手すり上にわざと少し置いておいたパンくずを小さい嘴でせっせとつついている。遠くで時折ひっそりとこちらを窺う猫もいる。
“そ~らを飛ぶ~ 鳥の~ように 自由に生きる~”とお嬢さんの頃の森山良子は歌ったが、“自由っていうのは 何もないことなんだ”と同世代の高石友也が続ける。その観点からすると、時には“この世に住む家とてない”(高田渡)のも自由の一種なのだな。
しかし“歩き疲れては 夜空と陸とのすき間に 潜り込んで、草に埋もれては 寝たのです ところ構わず寝たのです”(高田渡『生活の柄』)を『野を彷徨する自由人の歌』と言うのは、オシャレな人工香水っぽい表現でイヤだ。世間で言う「自由への憧れ」という言葉は、本当は今の生活を変えようともしない、都会の飼い慣らされた口先人間の匂いがする。オーストラリアの「Waltzing Matilda」も高田渡の「生活の柄」も、「生きてお前らには、捕まらねえよ!」という自由なんだ。
 さらに言えば、ここ南昌の鳥たちには、自由もヘチマもない。ただ死ぬまで生きるだけだ。

 昨日は、近所の学校の日本語教師の二人と我が家で慰労会をした。今週で授業が終わる。次第に気分も夏休みモードになってきたので、とりとめない思考がムクムクと頭をもたげてくる。 
コメント
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