南昌は今日も雨。気温28℃湿度90%。欧米圏の人たちは雨降りでも傘をささない人が多いという印象がある。
やはり今朝、雨がジャンジャン降っている中、傘も差さずにスーツケースを引きずったタンクトップ姿の白人女性が向かいのC棟に入っていくのを見た。間もなく同じ棟から、アイダホ出身のアメリカ人教師リャンがいつもの布製ハットを被っただけの格好で出てきた。
なぜ隣人の様子をそのように逐一チェックしているのか疑問に思うかもかもしれないが、チェックしているわけではない。パソコンが置いてある書斎の窓から、C棟は真ん前に見えるし、わが部屋は一階なので、窓のそばの通路を通る人は、カーテンを閉めない限り嫌でも目に入ってくるのだ。これをキーボードで打っている今も、我が二階のメルダッドさんが蛍光灯みたいな長い棒を持って通り過ぎて行くのが視界に入った。
雨が平気なのは欧米系だけではない。地元南昌の雀たちも、少々の雨にはへこたれず、餌を求めて飛び回っている。しかし、今日はいつも鳥とシェアしている食パンがない。昨夜、私がミミも端も全部食べてしまったからだ。雨が止んだら、また全家百貨に買い物に行かなきゃ・・・。三階に引っ越したらどうやってパンくずをあげたらいいんだろう。三階ベランダから下に振り撒いたら、下の階の人たちは嫌がるだろうな。ま、引っ越してから考えよう。
毎日どうしても原発関係の記事に目が行く。
今朝まず見たのは、海江田経済産業相(ウミエダ?カイエダ?)が原発再稼働を関係各道府県に要請したが、各知事は猛反発しているというもの。「安全性が確認された」というが、その根拠が明確でなく時期尚早であるといった批判だと理解した。各知事の反発は当然だと思う。私は最近神経が弱ってきているのか、海江田さんの「原発の安全性が確認された」という言葉だけで、もうグサグサ心臓に負担がかかる。厚顔無恥な発言を聞くたびに、私のデリケートな心はサンドペーパーで擦られるのだ。さらに、(最終的に安全が確認される日なんか来るわけないのに、「時期尚早」という意味も誤魔化しだ)と感じる。
厚顔無知といえば、石原伸晃「反原発は集団ヒステリー」発言は、さすがにお父さんの教育がこの子を育てたのかと納得するものの、人を人とも認知できない石原親子をはじめとする「見くだしピープル」を、ありがたく押戴く日本の軽信層が情けなくてたまらない。
一方で、今、戦後の時代を検証する視点が多く非常に興味深いし、これからのビジョンを描くために肝心なことだと思う。今朝、短い記事だが福島県石川町の元学校の校長だった有賀究さん(80歳)の話が目に留まった。
有賀さんは第二次世界大戦末期、中学生だったが、1945年4月、地元福島でクラスメートとともにウラン鉱採掘の作業に駆り出された。それは原子爆弾を開発する目的で第8陸軍技術研究所が民間の理化学研究所に委託したものだそうだ。当時の現役軍人の「これで爆弾を作ればニューヨークもぶっ飛ぶ。」という言葉を今でもはっきり覚えているという。採掘されたウラン鉱は非常に微量で爆弾づくりは諦めたそうだが、その数か月後に、アメリカの原子爆弾が広島と長崎の町を廃墟にした。
「『絶対勝てる』と言われ続けたあの戦争と、『絶対安全』と言われ続けた原子力発電が重なる。」
と言うこの人生の先輩の言葉を、後輩の我々はもう少し、心に深く受け止めることはできないものか。
「原発なしにどうやって都市生活が回っていくんだ。」
「反原発を唱える者たちは非国民だ。」
といった、深く考えない、目先の利益にとらわれた、軽々しい発想をもうそろそろ止められないものだろうか。
「反原発とか脱原発を言う者は、電気使うな!」
という人たちに、そして(電力といえば原子力しかない)と思い込んでいる人たちに、一つ例を挙げたい。私の父がしたことだ。
父は1917年北海道の地の果てに生まれた。学歴は尋常小学校卒だ。畑仕事が忙しくてたぶん4年生ぐらいまでしか学校に行っていない。彼の両親はともに本州からの流れ者の中でも、チャラチャラした人たちで、子供ばかりたくさんできたが、食べるものもないのに、呑気に博打をしたり、お歯黒をしたりして遊んでいたと父が後年語っていた。そのような状態なので、親に頼れない子供たちは、小作地でジャガイモを作ったりして飢えを凌いでいたそうだ。成長した父は、戦争で兵隊に駆り出され、中国山東省渭県ボウシ(当時の地名)というところに約4年いた。
1946年、敗戦後引揚者として北海道に戻り、斜里郡小清水町字水上513に開拓民として入った。「大草原の小さな家」みたいなものといえば想像し易いだろうか。結婚した母とともに山を開き、家を作り、そして電気も自分で発電した。家の側を流れる小さい川から水を引いて、ミニ水力発電所を作ったのだ。
雨が多い日は、家中煌々と明るく、日照り続きで川の水量が減ると、裸電球が心細げにショボショボ暗くなっていたのを覚えている。しかし、家の暮らしはその電気でたいへん潤った気がする。近所の開拓民の人で同じことをしていた人はいなかったので、
「ここの家は、まるで都会のようだね。」
と言われ、(『都会』って何のことだろう。電気が明るいということかなあ)と、まだ小学校に上がっていなかった私は、幼心に想像したものだった。
回顧談ではない。父のした自家発電のことを言いたいのだ。繰り返すが、父は尋常小学校しか出ていない。水力発電は、その無学な父があれこれ本を読んだり、人から聞いたりしながら自分で設計し、近所の人の助けを借りて作業を進め、完成させたものだ。私は自然に包まれつつ、川遊びをしながら、夜になったら家がどれくらいの明るさになるかを川の水量で想像していたものだ。あの当時の暮らしが、それ以降の自分の人生をどれほど支えてくれたか。知恵の出し方、工夫の仕方、物事を観察する方法、e.t.c.・・・。現在、中国江西省で暮らしているが、あの幼少期の体験は、ここでの生活でも絶大な助けになっている。
この夏休み、だれか、自分で発電する本を読んでやってみてください。「それ、難しそうでいや~。」という人は、何か別の方法を一つは考えてみて!
自家発電は誰でもできる!
やはり今朝、雨がジャンジャン降っている中、傘も差さずにスーツケースを引きずったタンクトップ姿の白人女性が向かいのC棟に入っていくのを見た。間もなく同じ棟から、アイダホ出身のアメリカ人教師リャンがいつもの布製ハットを被っただけの格好で出てきた。
なぜ隣人の様子をそのように逐一チェックしているのか疑問に思うかもかもしれないが、チェックしているわけではない。パソコンが置いてある書斎の窓から、C棟は真ん前に見えるし、わが部屋は一階なので、窓のそばの通路を通る人は、カーテンを閉めない限り嫌でも目に入ってくるのだ。これをキーボードで打っている今も、我が二階のメルダッドさんが蛍光灯みたいな長い棒を持って通り過ぎて行くのが視界に入った。
雨が平気なのは欧米系だけではない。地元南昌の雀たちも、少々の雨にはへこたれず、餌を求めて飛び回っている。しかし、今日はいつも鳥とシェアしている食パンがない。昨夜、私がミミも端も全部食べてしまったからだ。雨が止んだら、また全家百貨に買い物に行かなきゃ・・・。三階に引っ越したらどうやってパンくずをあげたらいいんだろう。三階ベランダから下に振り撒いたら、下の階の人たちは嫌がるだろうな。ま、引っ越してから考えよう。
毎日どうしても原発関係の記事に目が行く。
今朝まず見たのは、海江田経済産業相(ウミエダ?カイエダ?)が原発再稼働を関係各道府県に要請したが、各知事は猛反発しているというもの。「安全性が確認された」というが、その根拠が明確でなく時期尚早であるといった批判だと理解した。各知事の反発は当然だと思う。私は最近神経が弱ってきているのか、海江田さんの「原発の安全性が確認された」という言葉だけで、もうグサグサ心臓に負担がかかる。厚顔無恥な発言を聞くたびに、私のデリケートな心はサンドペーパーで擦られるのだ。さらに、(最終的に安全が確認される日なんか来るわけないのに、「時期尚早」という意味も誤魔化しだ)と感じる。
厚顔無知といえば、石原伸晃「反原発は集団ヒステリー」発言は、さすがにお父さんの教育がこの子を育てたのかと納得するものの、人を人とも認知できない石原親子をはじめとする「見くだしピープル」を、ありがたく押戴く日本の軽信層が情けなくてたまらない。
一方で、今、戦後の時代を検証する視点が多く非常に興味深いし、これからのビジョンを描くために肝心なことだと思う。今朝、短い記事だが福島県石川町の元学校の校長だった有賀究さん(80歳)の話が目に留まった。
有賀さんは第二次世界大戦末期、中学生だったが、1945年4月、地元福島でクラスメートとともにウラン鉱採掘の作業に駆り出された。それは原子爆弾を開発する目的で第8陸軍技術研究所が民間の理化学研究所に委託したものだそうだ。当時の現役軍人の「これで爆弾を作ればニューヨークもぶっ飛ぶ。」という言葉を今でもはっきり覚えているという。採掘されたウラン鉱は非常に微量で爆弾づくりは諦めたそうだが、その数か月後に、アメリカの原子爆弾が広島と長崎の町を廃墟にした。
「『絶対勝てる』と言われ続けたあの戦争と、『絶対安全』と言われ続けた原子力発電が重なる。」
と言うこの人生の先輩の言葉を、後輩の我々はもう少し、心に深く受け止めることはできないものか。
「原発なしにどうやって都市生活が回っていくんだ。」
「反原発を唱える者たちは非国民だ。」
といった、深く考えない、目先の利益にとらわれた、軽々しい発想をもうそろそろ止められないものだろうか。
「反原発とか脱原発を言う者は、電気使うな!」
という人たちに、そして(電力といえば原子力しかない)と思い込んでいる人たちに、一つ例を挙げたい。私の父がしたことだ。
父は1917年北海道の地の果てに生まれた。学歴は尋常小学校卒だ。畑仕事が忙しくてたぶん4年生ぐらいまでしか学校に行っていない。彼の両親はともに本州からの流れ者の中でも、チャラチャラした人たちで、子供ばかりたくさんできたが、食べるものもないのに、呑気に博打をしたり、お歯黒をしたりして遊んでいたと父が後年語っていた。そのような状態なので、親に頼れない子供たちは、小作地でジャガイモを作ったりして飢えを凌いでいたそうだ。成長した父は、戦争で兵隊に駆り出され、中国山東省渭県ボウシ(当時の地名)というところに約4年いた。
1946年、敗戦後引揚者として北海道に戻り、斜里郡小清水町字水上513に開拓民として入った。「大草原の小さな家」みたいなものといえば想像し易いだろうか。結婚した母とともに山を開き、家を作り、そして電気も自分で発電した。家の側を流れる小さい川から水を引いて、ミニ水力発電所を作ったのだ。
雨が多い日は、家中煌々と明るく、日照り続きで川の水量が減ると、裸電球が心細げにショボショボ暗くなっていたのを覚えている。しかし、家の暮らしはその電気でたいへん潤った気がする。近所の開拓民の人で同じことをしていた人はいなかったので、
「ここの家は、まるで都会のようだね。」
と言われ、(『都会』って何のことだろう。電気が明るいということかなあ)と、まだ小学校に上がっていなかった私は、幼心に想像したものだった。
回顧談ではない。父のした自家発電のことを言いたいのだ。繰り返すが、父は尋常小学校しか出ていない。水力発電は、その無学な父があれこれ本を読んだり、人から聞いたりしながら自分で設計し、近所の人の助けを借りて作業を進め、完成させたものだ。私は自然に包まれつつ、川遊びをしながら、夜になったら家がどれくらいの明るさになるかを川の水量で想像していたものだ。あの当時の暮らしが、それ以降の自分の人生をどれほど支えてくれたか。知恵の出し方、工夫の仕方、物事を観察する方法、e.t.c.・・・。現在、中国江西省で暮らしているが、あの幼少期の体験は、ここでの生活でも絶大な助けになっている。
この夏休み、だれか、自分で発電する本を読んでやってみてください。「それ、難しそうでいや~。」という人は、何か別の方法を一つは考えてみて!
自家発電は誰でもできる!