毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

ナメクジ部屋  2011年6月29日(水) No.162

2011-06-29 21:52:22 | 中国事情
 麦路(マイルー)キャンパスにある外国語学院(日本語で言うと外国語学部)の建物の一階端に日本語学科の資料室があり、そこが私にあてがわれた「職員室」だ。他の先生は遠慮しているのか、私に用事があるときしか来ない。
 朱老師と新平老師は、日本語学科の主任・副主任であり、二人で二階の一部屋をシェアしている。あと二人、熊老師、高老師には決まった部屋は与えられていない。教室があるビルの各階には教師用の小さい休憩室があり、先生なら誰でも使える。しかし、いつも決まった人が休憩していて、ニューフェースが入り込む余地はない。熊先生や高先生は授業以外の時間どうしているかというと、学校にはいない。授業が終わり次第、脱兎のごとく家に帰っていくからだ。
 熊先生は三十代後半。結婚していて2歳の赤ちゃんがいる。家を購入したことを昨年九月、赴任したての歓迎昼食会で嬉しそうに語り、あとは黙々と食べたり飲んだりしていた。学生から「マイホームパパ」と言われている。
 高先生は、独身。本部北部キャンパスの職員寮に一人で住んでいる。よくスクールバスの中で会う。一度は家にお招きしたいものだが、電話番号、E-メールアドレスの両方知らない。九月以降の課題だ。

 私の前任者のk先生もまた、脱兎派だったそうだが、私は職場で長時間過ごすのは慣れているというか、仕事を家に持って帰りたくない。特に学生のノートは重くて、はじめは旅行用キャリーバッグに入れて引きずって歩いていたが、資料室に落ち着くと、ノートチェックはそこで片づけることができるので、本当に楽になった。

 その部屋には、前々任者の大竹先生が日本から運んだたくさんの書物がある。(わずか二年の間にどうやってこれだけの本を運んだのだろう)と思っていたら、新平老師が先日、
「大竹先生が本を運ぶために、奥さんまで一緒に南昌まで荷物運びに駆り出されていました。」
と教えてくれ、さもあらん…と納得した。時間があるとき、その書庫から適当に取り出して読む。日本語の本を選んで読めるのは思いがけない喜びだった。及ばずながら、私も少しずつ蔵書を増やすように心がけている。日本語学科の学生たちは、2年生ぐらいからそこの本を借りて読んでいる。「世界の中心で愛をさけぶ」「1リットルの涙」など、ドラマ化されたものの原作や、日本現代文学の作品、中学の教科書や参考書などが好んで読まれているようだ。DVDやCDもいくつかある。

 落ちこぼれ学生の補習もここでした。昨秋9月から11月まで4年生の二人が「みんなの日本語Ⅰ」「みんなの日本語Ⅱ」標準問題集を毎週一回3~4時間、ぶっ通しで答え合わせと解説をしたが、11月に入ると、床から寒さがシンシンと上り、椅子に正座したり、お湯を入れたポットで手を温めたりして頑張った。それでもしまいに寒くて勉強できなくなったので、我が宿舎に移動したものだった。
 冬はとても寒かった。新平老師がどこからか中古の電気ストーブを持ってきてくれたのは助かった。しかし部屋の温度はそんなものでは全く変化しない。その電気ストーブは直方体で側面が4つと上面1つに熱線が通っていたが、上面は既に壊れ、側面も3面が使えるだけだった。まもなく次々と別の側面も壊れていき、春になるまでには全ての面が使えなくなり、ただの直方体の物体になった。今は蚊取り線香置きとして役立っている。
 4月からは湿気だ。夜のうちにジットリと濡れた床と壁を、翌朝、ため息とともに確認しつつ入室する。窓を開けても湿度は変わらず(というか、もっとひどくなるので閉めきる)、箒で掃くと、シミ、ムカデ、蟻など多種の虫たちが採集される。な、なんとナメクジの子どもまで這いまわっているではないか。私は汗疹からアトピーを再発した。

 こういうわけで、私は資料室にエアコンを買うことを決意したのである。
その旨を告げ、3年の数人と市内に買いに行く手筈を整えた今日、新平老師から電話があった。エアコンを外国語学院で買ってくれるよう交渉したら、電気屋さんや学院の院長が資料室を見に来て、
「こんな部屋ではエアコンの効き目は期待できない。」という結論に達したとのこと。(どういうこと~?)と思ったら、
つまり、資料室を二階か三階の空き部屋に引っ越すことにしようと話がまとまったという。ああ、夢かしら!二階や三階なら、ジットリ床から解放される。エアコン設置はひとまず頓挫したが、部屋を変わる方がダントツ良いに決まっている。言ってみるものだなあ。9月からはあのナメクジ部屋から解放だ~い!

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする