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Brugge Style
役に立つお稽古
娘と同じバレエ教室に通うお友達のお母様が「バレエのお稽古は止めさせようと思っている」と話しかけてきた。
「ダンスの才能があるとは思えないし、バレエでは食べて行けないでしょう?もっと将来役に立つものを習わせたいの。例えばテニスだったらプロになれなくても社交には役立つでしょ?」
そう、テニスなら役に立つかもね、と大人の返事をした。
おそらくこれが彼女が聞きたかった他人からのコメントだ。
親が、子の将来が安泰であれと願うのは当然のことである。それは切ないほど理解できる。
それで思うのだが、役に立つか立たないかを判断のモノサシにする、これは世界共通の最近主流の考え方なのだろうか?あるいは最近ではなく、お稽古にはつねにこういう考え方がつきまとってきたのだろうか?
将来役に立つ、立たない。
お金になる、ならない。
わたしは「何かをお稽古する」というのは技術を学ぶ以前に、先生との関係や学び方の方法や、そのお稽古を通して世界とのかかわり合いを学ぶものだと思う。
だから「とにかくいろいろ習わせて何に適性があるか見る」というやり方も、わたしはしない。
娘は、先日、彼女の祖父とのやり取りの中で、
祖父「どうして人間は生きるのかな?」
娘「さあ、神様にしか分からないから(人間は生きるの)でしょうよ」と言ったらしい。
おお、子どもの直観というのはすごいな。
わたしにとってお稽古はこの「なぜ生きるか」のカテゴリーに入る。
もし、もし、娘が「どうしてバレエを習うの?」と聞いてきたら「さあ。それが分からないから習うんでしょうよ。」と言うだろう。
価値を数値化できること以外の「役にたたない」ことからこそ、生きていてよかったとか、人間ってすばらしい、などという喜びを学べるのではないだろうか。
...潤沢なお金がありさえすれば、生きててよかった、人間ってすばらしい、と思える、と考える人もいるかもしれないが(笑)。
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