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ブランドの倫理と資本主義の精神




ウェーバーのパクリのものすごいタイトルですが、見かけ倒しです。内容はないです。そうです、多くのブランドと同じです(笑)。



クルーズラインのカタログの配達が終わったと思ったら、今度はクリスマスカタログの配達が始まった。

グッチのクリスマスカタログをぱらぱらっとめくると、ヴェルサーチの世界に迷い込んだかのようだった。最近のグッチに多い金色のエンブレムみたいなやつ、ヴェルサーチの金色メドゥーサにそっくりなのだもの。
...グッチはバンブーあたりでいいのに、いつからこんなに商品展開が広がったのだったっけ?広がったのはいいけれど、ブランドが飛ばし始めたトム・フォードの時の方が洗練されてたような...気がするだけか?

あからさまになった。
生き残りをかけて時代に合ったデザインと販売戦略で日進月歩、というところか。
グッチグループのメインプレイヤーだもんねえ。



高級服飾雑貨品を扱う欧米のブランド。
ぱっと考えて、有名ブランドの大きな柱はカバン類と既製服だろう。

そのような有名ブランド、今のところ独立を保っているのはエルメスとシャネルだけというのは周知の事実で、その他はヴィトンもプラダもわたしの好きなボッティガ・ベネタも、その他いくらでも出てくるけど、どこもグループ傘下に入っている。

正確にいつ頃からかは知らないが、昨今ではブランドが有名になり、ある程度安定すると、経営のプロのビジネスマンが介入するようになったようだ。この場合、巨大傘下に入ることだ。
原材料や販売路や後継者の確保や、生産管理や資金繰り、あるいは名誉欲や金銭欲など、傘下に入る理由はさまざまなのだろう。

傘下に入るとブランドのスタンスは素人から見てもはっきり変わる。

まず、取り扱い商品の種類が倍々で増え、広告がド派手になり、都心に店舗が増えたかと思えば、ずっとあった店が消えたりする。
効率化。

すべての装置は売り上げをあげるために。


経営者は消費者には分からないと思っているのかもしれないけれど、例えば外国資本傘下に入ったベルギーのショコラティエ2店は、ある日を境にその味も店の雰囲気も明らかに変わった。同じように某ブランドのカバンはわたしの母が持っていた頃や、わたしが若かった頃とは全く質も雰囲気も違う。

どこが変わった?と聞かれても、まさに「ライセンスものちっくな大量生産/工場生産の香りがする」としか言えない「なんとなくさ」なのだが、強いて言い替えれば、モノから「身体感」がなくなった、という感じ。
回転寿司を食べているような味気ない感じ。

「身体感」...どこかで誰か生身の人間がその人の時間を使って作っている、というはっきりした手応えのようなもの。ブランドものの記号性を実体化する、地に足着いた専門家の仕事。
それがブランドのブランドたるゆえんなのに、大量生産ものからは「身体感」が消えていると思う
(断っておくけれど、わたしは「人間味」や「手作り」万歳派ではない)。

その点、同じブランドでも既製服はまだアルティザンの香りがする。素人でも服をひっくり返してみたら一目瞭然だ。
このことから、わたしは、ブランドはその収益の大部分をカバン類であげていると見ている。...まあ、そんなことに気がついてもしょうがないけど。


...流行の分析をし、流行をしかけ、広告に超有名女優を起用し、消費者にはコストを抑えた大量生産ものをできるだけ多く売る(余談。某ブランドのバッグにはフランス製とかイタリア製と記載してあるが、実は完成までのほとんどの行程が某国で制作されている)、などという「バタバタ忙しい」こととは超越したところ、つまりいささか時代遅れであるが、時代の波に洗われても古びないようなところに超有名ブランドの立ち位置があったのではないのか...と、消費者としては思うのである。でもまあ売れなきゃ元も子もないのか。そういうことか。

かなり単純化した図式だが、デザイナーと職人が自分の技術と才能を世間に示すような形で(外化とか対象化)モノが作られていた時代から、流行のサイクルができるだけ早いものをできるだけ利益が上がるように生産し販売するという時代への移行は完了したようだ。
もちろん後期資本主義社会においてこのベクトルの向きは資本主義的には完璧に正しいわけだが、今後はどうなるのだろう。


経済ドン詰まりのこの時代、ブランドものを作る大会社は昔の頑固一徹スタンスにちょっとだけ回帰してもいいんじゃないか、と思ったりする。



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