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Brugge Style
オデット/オディールは何者か
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/c3/048bd1a8f3d11936a517fc578d6aad26.jpg)
わたしはバレエは、話のツジツマが合うか、役柄が分かりやすいかではなく、音楽と踊りと演出装置の表現性全体を楽しむものだと思うので、筋が不可解で意味がはっきりしなくても全く問題ないと思っている。
あるいはこう言うこともできる。人生は非意味(無意味とは違う)であり、不幸や災害は意味なく人生を襲う。恋に落ちるのにも全く理由などない。矛盾があってもそれはそれで自然である、と。
だから以下は無粋は百も承知、シロウトの知識の範囲での民話の類型的な分析ごっこと断っておく。
ただ長いので、ポイントだけを1から9の太文字にしてみた。
1 「白鳥の湖」は通過儀礼の失敗談ではないか。
ドイツの物語「奪われたベール」やワーグナーの「ローエングリン」を下敷きにしてあるらしいのは承知しているが、それらの物語にも物語の先祖から踏襲している核がある。
人間の歴史を通して子供に繰り返し聞かせたお話には、娯楽性の中にも「子供を大人にするための心の準備をうながす」機能があるのだ。
これはわたしの思いつきではなく、ジョーゼフ・キャンベルやウラジミール・プロップなどで知ったことである。
まずここでは
ロットバルトは部族の守護神、あるいは先祖神(つまり冥界の王)
オデットはその妃
ジークフリード王子は成人を迎える青年
と、仮定して話を始めたい。
2 大人になる時期を迎えたジークフリート王子は、花嫁を選ぶ前夜、通過儀礼を受けるために冥界に迷い込む。
儀礼を受ける現場はこの世ではなく、必ず別世界で、なんですな。彼が迷い込む「森」は、あの世の象徴だ。
別世界での通過儀礼に合格した者だけが、晴れて成人として社会共同体に迎え入れられるのである。
3 ジークフリード王子が冥界で出会うのがロットバルトとオデットだ。
オデットも、彼女の白鳥侍女たちも当然この世のものではない。
ヤマトタケルが死後白鳥になったように、白鳥を死後の世界と結びつける文化は少なくないのではないか。
彼が通過儀礼で受ける試練は、「一人の女に永遠の愛を誓う」ことである。
うむ、一人の女を永遠に愛するには強い意志と絶え間ない努力が必要なのだ。彼女を守るために「悪」と戦う必要もある。いずれは王になる男にとって、精神的な強さは絶対不可欠な資質。
4 試練を受けて立つことを誓った王子は現実世界に一旦戻ってくるが、まだ覚醒しつつある状態だ。
通過儀礼は物語の中では常に「眠り」の状態に象徴され、完全に目覚めた後(成人後)は、眠りにつく前(通過儀礼前の少年時代)のことはすっかり忘れてしまうことになっている。
通過儀礼とは、人がいよいよ子供時代に決別して、大人としての別の人生を歩み始めるきっかけのための儀式だ。
「大人」には、共同体に対する責任と義務が伴う。反対に「子供」というのは年齢が若いという意味ではなく、共同体に何の責任も義務も追わない人のことだ。王位を継ぐ男にはぜひとも大人になってもらわねば困る。
ついに花嫁を決める舞踏会の日が来た。
5 ジークフリード王子が王の地位にふさわしい男かどうか試験を受ける場だ。
6 目の前にオディールという最っ高に魅力的な女が現れる。もちろん彼をテストするために。
オディールはもちろんオデットのもう一つの姿だ。彼女らは確実に同一人物だ。
王子は眠りの状態で経験した、オデットとの出会い、オデットへの誓い、自分が試されていることを忘れかけている。
彼はオディールと嬉しそうに踊りながらも「えっと、何か大切なことを忘れているような気がする」と何度も立ち止まるのだが、圧倒的なオディールの魅力には抗えず彼女を選んでしまう。まあ、覚醒しかけている途中なんだから仕方がない。
もしも「白鳥の湖」を単に悲恋のお話とするなら、王子の誓いと裏切りは過ちというよりも自己中心的な醜悪さで、どっちにしろこんな男とは付き合わない方がマシということになってしまう。
7 王子はオディールを選んで、永遠の愛を誓う。
8 ロットバルトの高笑いとともに眠りの状態で経験したことを思い出した彼は、自分が通過儀礼に失敗したのを知るのである。
9 彼はオデットの元に駆けつけるが時すでに遅し、通過儀礼に失敗した男は死ぬしかない。
歴史の長い間、人間の社会では大人になれなかった男を養うだけの余力はなかったのだ。ましてやそれが王子、いずれは王になる者だとしたら。
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ロイヤルバレエの前バージョンでは、オデットとジークフリード二人とも死んであの世で幸せになった。わたしはそれをオデットが王子に最後に見せた甘い夢だと思った。
一方、例えばマリインスキーのバージョンでは、最後に愛が勝ち、ロットバルトが滅び、二人は現実世界で結ばれる。思いつくところでは他にアメリカン・バレエ・シアターもその筋を採用している。
しかし現実世界で彼らが結ばれては単なるありきたりの恋愛賛歌になってしまう。
愛がどんな困難や宿命を乗り越えても勝つというのは人々に受け入れられやすく、喜ばれるだろう。
しかし、人間が歴史の中で、なぜ「白鳥の湖」系の同工異曲(例えばバレエ「眠りの森の美女」も全く同じ筋だ)を脈々と語り継いできたかを考えたら、「子供の状態に留まらず、大人になって社会の存続に貢献せよ」という使命があったからとしか考えられない(例えばベルリン国立バレエの「白鳥の湖」の筋は興味深い)
子供達を常に魅了する「指輪物語」系の話も、スターウォーズも、コンピューターのロール・プレイング・ゲームも、常に子供を自立と冒険にうながし、心地よい故郷を離れ、困難を経てシンボリックな土地にたどり着き、その成果を故郷に持ち帰る。
このお約束通りの筋が語り継がれ愛されるのは、子供を大人になるのが人間と社会の存続にとって必要不可欠だからだ。
現代でこそ先進国では、人は一生「大人」にならなくても生きて行ける。恋や惰性に溺れて仕事をほったらかしにしても死にはしない。一部の大人が社会を運営するのに任せておけばどうにかなる。しかし部族社会ではそんな甘いことは言っていられなかったに違いない。
愛によって結ばれる関係こそが尊く、愛はすべてに勝つというイデオロギーは近代の産物にすぎない。
近代になってこういうお話の中の美しい姫と愛の物語がクローズアップされて、ロマンティックに語られるようになってしまったが、昔は王子の試練物語に重きが置かれていたのではないかと思う。
(写真はすべてThe Telegraphから ALASTAIR MUIR)
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