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蜘蛛の館




わたしは爬虫類は平気だが、虫、特に甲虫は苦手だ(あまり遭遇する機会もない)。


家の裏が運河なので、夏場は弱々しい蚊や蝿が飛んでくる。庭は鳥のえさ場になっていて、ミミズがたくさん住んでいる。いずれも困らされるほどではない。


一方、むやみに繁殖力がいいのは蜘蛛である。

たとえば近年、多湿がすぎて使えなくなっている地下セラーは蜘蛛の館だ。
キッチンやリビングの高すぎて掃除の行き届かない天井の隅にも必ずいる。
うっかりすると普段使わない階段の踏みづらにも。


コントや映画等で、長年放置された館や呪われた屋敷を現わす記号として、綿あめのように縦横無尽にかかった「蜘蛛の巣」が多用されるじゃないですか。
あまりにもおおげさな演出は白けると思っていたが、この家に住んでから、あれは決して単なる記号でも誇張ではなく、わが愛するフロベール並のリアリズムだということがよくわかった。

神戸の実家では綿あめ状の蜘蛛の巣は見たことがない...山荘ではそういえば...空気が乾燥していることが形状形成の条件なのか?

わたしは懸命に空気の乾燥のせいにしようとしている。



こんなことを書いているのは、そう!ぼちぼち大掃除を始めたからです!
どこから手をつけたらいいのか、全く作業は進みません!
Macは閉じた方がいいのかもしれません!


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バイリンガル教育




子どもに複数の言葉を同時に教える...


日本の親戚や知り合いも子どもを英会話教室に送り込んで、彼らを「英語漬け」にしていると聞く。
わたしは「お嬢さんにもっともっと日本語で話しかけて下さい。」と言われる。

つまりお母さんが赤ちゃんに話かけるように何度も何度も話しかけたら、子どもは言葉を習得する...という方針にのっとっているわけですよね?


わたしはもちろん幼児教育や言語の専門家ではないが、わたし自身が外国語を習得した過程と、娘を育てる過程で気がついたポイントが「ひたすら話しかける/話しかけられる」方法以外にあり、今日はそれが言いたくてたまらない(笑)。


「言語は『会話』を聞いて学ぶ」

ということである。



娘が誕生する前、おそらく暇だったせいで、バイリンガル教育の本を主に米国からいろいろ取り寄せた。
二カ国語ならば、心構えの必要性など思いもしなかったろうが、われわれの場合は三カ国語環境ゆえ、母親としては何らかの指針が必要ではないかと思ったのだ。ええ、マニュアル本世代です(笑)。


結局、三カ国語教育指針は書籍資料の中には見当たらず、ネットで経験者と意見交換ができたにとどまった。そこで学んだのは主に「コンクリートな方法論はないし、追跡調査もされたことはない」ということだった。


つまり子どもを「意図的に」三か国語で育てるケースは少ないということだ。
むろん、自然に三か国、四カ国語の中で育ち、あっという間に五カ国語話者になりました、という人はベルギーにも多い。ブルージュでは最低三カ国語話せなければ、バイトの代名詞、ウエイトレスさんにもなれないのである。


妊婦だった情緒不安定のわたしは不安を消すため、ラカンを読んではどうだろうか(こういうところで最も高尚で難解な本をもってきたがるのがわたくしのわたくしたるゆえんである。寄らば大樹の陰、である)、などという気分になった。
が、ぐうたらしているうちに、あれよあれよと月日は過ぎ行き、結局わが家では母親/日本語、父親/オランダ語、母父の会話/英語、とだけ決め、決して言語を混ぜないという方法をとることにした。
そして何年も過ぎ...



娘の誕生以来、わたしは一所懸命日本語で娘に話しかけ続けた。
一方、わたしと他の誰かが日本語で会話のやりとりをする場面に娘が遭遇することは極端に少なかった。
そのために娘は日本語が出てくるのが一番遅かったのだ、と気づいたのはある夏、日本の友人家族がわが家に長期滞在にしたことがきっかけだった。


逆に娘は、オランダ語と英語の会話のキャッチボールを常に聞いて育ったので、Aという発言にはBとCとD...という返答の可能性があり、相手はそれを聞いてEと言うこともあればFと言うこともある...(以下永遠に続く)という、「場」を支配するコミュニケーションのルール(法則)とマナー(方法)とそこからの逸脱を身につけることができたように思う。

ルールとマナーはモノローグから学べるかもしれないが、逸脱は学べない。そしてこの逸脱こそが、コミュニケーションを発展させる機動力になっているのである。


とにかく話しかける、という健気な働きかけももちろん無駄ではないが、会話を聞くことができた子どもは吸収上達がめまぐるしい、ということをおばあちゃんの知恵袋的なスタンスから、ここに特筆しておこう。



つまりあなたがお子さんに英会話を身につけて欲しいなら、

「○○ちゃん、これは象さんでちゅよ~。お鼻が長いのね~。大きいね~。哺乳綱ゾウ目。陸棲哺乳類では最大ですよ~。はい、ほ に ゅ う る い って言ってみて!」(笑)などと一方的に話しかけるのではなく、


「象、気の毒やな」
「ホンマやな、こんな狭いとこで...アフリカの空が見たいやろな...」
「ちょっと、これアフリカ象ちゃうで。インド象!インド象は耳が小さいの!」
「え、ホンマ?ほんならタイで乗った象は?あれは何象?耳大きかったで?!」
「うそやん。地理的にインド象やろ」
「あっりんご食べた!」
「器用に食べはるねんな...」

...などという、空疎ではあっても会話を聞かせる方が効果的です(笑)。


これは大人が語学習得に励むときにも効果的だと思います!!


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紙魚




わたしは紙が好きだ。
手触り、匂い、音、脆さ、強さ...
前世は紙魚だったのかもしれない。


もしこの人生で店を出すチャンスがあるとしたら、絶対paper sourceのような、紙のおもちゃばこをひっくり返したようなお店をするのだ、と心に誓っている。
あるいはもっとシックな商品だけに絞った取り揃えで、店舗自体は最近のミニマリズムを全面に押し出したショコラティエみたいな感じにして...とか。
うわ~やりたいわ~。
妄想がある限り、わたしは紙魚にも、紙屋の店主にも、七つの海を旅する大富豪未亡人にもなれるのである。幸せ。



ところで今年のクリスマスカード。
少し前、Macのオンラインで注文したアルバムのクオリティが優れていたので、iphotoもバージョンアップしたことだし、クリスマスカードも注文してみようと思いついた。

さすがにカードのデザインで気に入るものは少なかったが、気持ちがもはや「Macで注文」モードに突入していたため、今更街へ行ってカードを探したり、写真を別途焼き増ししたりする気になれず、一番ましだと思ったデザインのカードで頼んだ。
Mac画面で見る限り、紙のざらっとした感じもよさそうで、結局は悪くないかも、と思ったのだ。


数日後。注文の品が届いた。が...

カード自体が写真だったのである。

説明する。

ここに一枚の手透きのカードがある。
色は生成りで畝が浮き出た素敵な紙だ。
模様にはエンボス加工が施してある。

これを高感度な技術で写真に撮るか、スキャンするかして、つるつる紙に印刷して大量生産したところを想像してくれたまえ。

ええ。Macのカード、そういうカードだったんですよ。

内側に入れた家族写真の質はやはりいいのですけどね...
雑誌の表紙?みたいな味気ない紙質ですよ...


以前、エルメスの革かばんの写真をプリントした布かばん(で遠目には革かばんに見えたりする・笑)があったが、味気なさはあれと同程度だと思う。しかし、あれはまだ洒落にはなっていたな...ビニールにクロコ型押しのかばんの寂しいズルさに似ている、と言った方がふさわしいかな...

とにかく!

紙フェチのわたしとしてはこのカードは破棄して、クレインか、ロイヤルミルか、パピエ・プリュスに走ろうかと思ったほどがっかりしたのである。しかし大量にできて来たカードをなかったことにするのは犯罪めいているから、中身には少々細工をして、つるつるを多少ごまかした(つもり)。

やっぱり紙は手触りと匂いと音と脆さと強さ!!





メールのクリスマスカードもいいものだ。例えば住所を知らない人にも気軽にカードが出せるし...でもわたしは断然手書きのカード万歳派である。一年に一度、一人一人のお顔とお声を思い出しながら、落ち着いて手書きする時間を取ることこそ、人生の幸せだと思うのだ。
わたしにメルアドしか教えていないお友達は、絶対に住所を教えてくれるべきですよ(笑)。



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クラース来りて笛を吹く




昨夜、聖クラースの訪問があったようだ。


これで娘はこの1年いい子であったとお墨付きを頂いたことになる(笑)。
母親としては釈然としないでもないが、まあ伝統は伝統、儀式は儀式、わたしの思惑など超越したところにあるのだ。

儀式とは、ある時ある場所で強烈なカリスマ性を持った人物が行った行為を模倣することである、と読んだことがある...



夜中の二時頃、表通りでハーモニカ(!)を吹いている人がいたので腹を立て、こんな悪さをするのはお供の”真っ黒ピット”に違いない、と自分に言い聞かせながらまた眠りに落ちて行った。
その後もどこかでかすかな音がするたびにはっと目が覚める妙な夜であった。式神のようなものが跋扈しているような気がしたんですよ...文化背景的に無茶苦茶な取り合わせだが。イメージ。



ところで10歳にもなっておもちゃの電車を欲しがるって...女の子はおませだと言われる年齢ではないのか?


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語りえないことについては沈黙せねばならない












ブルージュ、groene rei。義理の父撮影。

彼の現在の一番の趣味は写真とフォトショップ。
今年はフォトショップのウァークショップに参加するため、2度渡米したほどの熱の入れようだ。

また、チェスと、P.ツェランの詩と、ヴィトゲンシュタインと、実験的な現代音楽と、孫娘を愛し、デイトレで遊ぶなかなかステキな男である。



さて、写真が完成したら見せたくなる。感想、主に賛辞が聞きたくなる。もっともだ。
それで美しい革のアルバムに収められた数々の作品を見せられ、コメントを求められるわけだが、わたしは語彙が豊かな方ではないので、いつもありふれたことしか言ってあげられず(何かに本当に感動させられたら、腹の底から出す、うぉー!とかいう音しか出てこない)、申し訳ないと思っている。





ある日、現代美術館のミュージアムショップ(<大好き!!)で見つけた虎の巻...
Harold Pepperell 著,Art Criticism 101 - You too can be an art critic-

ようは日めくりカレンダー式に、できるだけabsurd!なアート批評のフレーズが101個掲載されているのである。そしてご丁寧なことにギャラリーにおけるこれらのフレーズの発し方(多くを語らず...とか・笑)まで綴られている。

例えば5番。
"Seeks nothing less than the intuitive revelation of universal truth."

13番。
"While this work presents itself as an abstraction,
yet when its conceptual underpinning are exposed,
it ooze with human qualities."


モンティパイソンのシリーズの中で、哲学者が「牛の糞アーティスト」と揶揄されていたのを味わい深く思い出してしまう(笑)。
訂正いたします...後日、夫から「あれはモンティパイソンではなくて、メルブルックスのヒストリーオブザワールドですよ」と指摘された。


当然こういうナンセンスは何にでもあてはまるバーナム効果のようなもので、悪い冗談ではある。しかし実際こういう賛辞をこそ喜ぶアーティストもいるわけだ。
いや、わたしはこういう遊びは非常に好きですね。詭弁。潤滑油。ヴィトゲンシュタイン的、沈黙を超えた体験の真摯な告白(と思う人はさすがにいないだろうけど)。



あ、義理父の作品に対してはこの本を使用したことはありません,,,(笑)。


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