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Brugge Style
グローバリズムは成熟度を計れるか
週刊ポストの記事(見つけたのは某掲示板)にマジでつっこむのは自分でもどうかと思うが書く。
「現在フランスに留学中の仁美さん(仮名・24歳)が一番驚いたのは、フランス男性と日本男性の違いだった。
『フランス人は成熟している相手じゃないとダメなんです。対等に尊敬し合えるような関係を望んでいる。東洋人は子供に見えるらしく、恋愛対象に見られないんです』
処女幻想がいまだ色濃く残り、シワやシミを欠点と捉える日本とは正反対といえるが、女性が見た目をいつまでも気にするという意味では、日本の比ではない。幾つになっても鏡で入念に体のラインをチェックする。帝王切開をする時は、年齢にかかわらずビキニを着た時に跡が隠れるように横切りにする。中高年になっても大きく胸元のあいた洋服を着る。もしブラジャーが見えてしまったら? もっと切り込みの深いブラジャーをつけるか、ノーブラでいいと考える。セックスアピールを誇示することに迷いがないのだ。
フランスでは早くから女性が労働者として市民権を得ていた。乳母制度が発達し、夫婦の時間を作るため子供を預けることに何ら罪悪感はない。社会に出て他者の目にさらされている女性は美しい。フランス人女性が年齢を重ねても美しくいられるのは当然で、最も魅力があるとされるのは、なんと40歳を過ぎてから。男が未成熟な女の子に目をやる必要もないのだ。
さらに、経済的に自立しているということはまた、男性と対等の立場にあることも意味する。お互いに性的な魅力がないと捨てられるという緊張感が持続する──女性の自由が尊重されている社会は、女性が魅力的な社会でもあるのだ。
ちなみに、フランス男性は妻に家計管理を任せたりはしない。夫婦ともに自分の口座を持ち、家計のためにもう一つ共通の口座を持つことが通常だという。(週刊ポスト 6/3号の記事)」
同工異曲の話をよく見かけないだろうか。わたしはうんざりだ。
話はある程度一般化しないとできないが、一般化しすぎると空々しく虚しい。
フランス最高
パリ最高
フランスでは~
パリジェンヌは~
一方日本は~
だから日本はダメなんだ
日本もフランスを見習おう
単純化するとこういう定形である。
日本人とフランス人(他にも日本人と○○人、バリエーションは雑多)をこのように比較し、日本人を叱りつけ、本を売ってきた日本人も多い。
名指さないけど(笑)。あくどいと思う。
外国で日本人が日本人の悪口を言うのは、言っている人が惨めなだけなので止めた方がいいと思う。
ところでまず、仁美さん(仮名)に言いたい。
あなたがフランス人男性に相手にされないのは『東洋人は子供に見えるらしく恋愛対象に見られない』からではない。
あなたのハナシの伝で言うと、あなたの「内面」が成熟していないからである。
ここを混同してはいけない。外見が子供っぽく、若く見えても、内面が成熟している人はいくらでもいる。
逆も真で、大人に見える東洋人でも未熟な人はたくさんいる*。例えばわたし。
特に都会を中心に、自立し成熟した女性が魅力的でモテるというケースは事実だろう。
だが、『社会に出て他者の目にさらされて』『経済的に自立している』『40歳をすぎ』ていることと、人間的成熟度や魅力度に相関性はない。
この記事を書いている記者が相関していると思いたいだけである。
これも混同されることが多い。
女性の(男性も、もちろん)人間的成熟度や魅力は、職種や年齢や収入の多寡や『社会に出て他者の目にさらされ』る時間の長短によって決まるのではない。
もし、もしも、フランス人男性が、単に「経済的に自立した女性」「40歳以上」を好むのだとしたら、それはずばり責任がより少なく、面倒が少ないからだ。
あるいはフランス人男性が本当に「経済的に自立した女」「40歳以上」イコール「成熟した魅力的な女」だと思っているならば、うん、フランス人と恋愛をするのはつまらないね...と言うしかない。
でも、ハナシはそんなに簡単じゃないはずだ。
以下、この記事の内容とは少々ズレることを断って話を続けたい。
グローバリズムとは「世界中、どこでも誰でも分かるモノサシ」を手に、ものを計量することである。
グローバリズムができる計量は、収入や年齢などの数値化できるものに限られる。
ある女性に年収が3千万円あるとする。計量できるものの数値が高い、すなわち優れている、ゆえに成熟した女性である。
一方、専業主婦の別の女性にはグリーバリズムの計量器にひっかっかるものがない。ひっかからないということはゼロである。すなわち劣っている、ゆえに未熟な女性である。
簡単に言うとこういうことだ。
でもわたしたちは「計れないものは存在しないと同じ」では決してないことを経験から知っている。
人間の、例えば成熟度は、グローバリズムが計量器で取りこぼしてしまうもののうちにある。
ということは、計量器が取りこぼしてしまう数値化できないものを元に、「彼女は成熟した素晴らしい女性である」と判断できる男性をこそ、「女性を見る目がある素晴らしい男性」と呼ぶのではないのか。女性もそういう男性をこそ『尊敬し合』う『対等』なパートナーにしたいと思うのではないのか?
グローバリズムの手法は、企業が人間を大量に採用したり、レストランを格付けする際に、候補を一列にべったり並べて優劣を付ける時にはとても便利だ。
様々な人種、様々な価値観を持つ人間が集まるアメリカにおいてそれが発達したのには理由があったと思う。
だが、パートナーを選ぶ時にそんなモノサシで選ぶのか?
日本人よりもフランス人の方がどうだとかこうだとかいう比較は無意味だと思う。
専業主婦、若い女、学生、経済的に自立した女性、40歳以上、のうち誰が一番魅力的かという比較も無意味だと思う。
パリの高級フレンチと、東京の高級寿司屋を比較するのに意味がないのと同じことだ。
独身女性はこういう記事を真に受けて、「やっぱパリサイコー!」と勇み足で渡仏したりしないように。
「パリ症候群」に陥るのは時間の問題である。
*映画や小説から知る「フランス人」は、こういうひとりの人間の中に宿る大きなギャップ、みたいなものがそれこそお好きなんだなあ、と思うけど。認識が浅すぎるだろうか。
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「あなたは誰?」 ソフィの世界

ノルウェーの高校の哲学教師ヨースタイン・ゴルデルによって1991年に出版されたファンタジー小説(ウィキペディアによる)だ。
少年少女向きに哲学への興味を喚起し、注意をそらさないよう計算されて書かれている。日本で翻訳が出た1995年当時は大人の間でもベストセラーになったので読まれた方も多いのではないだろうか。わたしも一読した後、大学の友人間で回しているうちに返って来なくなった。
今日はある方へのメールの返信をかね、15年前に「ソフィの世界」をお読みになった方にもその内容を思い出してもらおうと思う。
小学校六年生の娘のクラス用にわたしが書いたブックレビューを全文引用(日本語で書いたものを英語にし、夫がオランダ語に訳した。カッコ内ページ数はオランダ語版による)。
「あなたは誰?」
ある日、もうすぐ15歳になるソフィーという女の子の元に手紙が届きます。
あなたは「わたしは誰」なのか考えたことがありますか?
これは、名前が何なのか、何歳なのか、好きな食べ物は何なのか、趣味は何なのか、などという質問ではありません。
「わたしは誰でどこから来たのか、わたしたちはなぜ生きているのか、世界はどのように存在するのか」という意味の質問です。
こういう「普通みんなが当たり前だと思っているので真剣に考えたりしないこと」についてあらためて考えることを「哲学」と言います。
ソフィはこの手紙を受けとったことによって
「友達はたぶん選べるのに、自分自身を選ぶことはできない。人間になることも自分で選んだことではない。人間って何?ソフィは鏡に映った女の子を見(p.12)」て考え始めます。
これがソフィーの冒険の始まりです。
ソフィーはアルベルトという愉快な哲学の先生から、ギリシャ時代に始まった哲学について話を聞きます。偉大な哲学者のものの「考え方」について学ぶのです。
物語の最後の方でソフィーは自分がいったい誰なのかに気づきます。本の中で彼女に割り当てられた役です。
それはちょっと悲しく受け入れがたい現実です。
そこでサルトルがこう言ったことを思い出しました。
「(サルトルは)生には意味がないわけにはいかない、と考えた。これは避けれられないことだ。しかも、わたしたち自身がわたしたちの生の意味をつくらなくてはならない。実存するというのは、自分の存在を自分で創造するということだ(p.490)」と。
つまり、わたしが誰であり、なんのために生きているのかは、元々わたしに(属性として)備わっているのではなく、自分自身が世界との関係の中でその都度つくるものなのです。
世界もそうです。世界もわたしとの関係として存在するのです。
例えばアメリカのオバマ大統領は、「バラクオバマ」として元々から存在しているのではありません(そういう風に存在できるのは「神」だけです)。
誰かにとっては優しいパパであり、
誰かにとっては米国初のアフリカン・アメリカン系の大統領であり、ヒーローであり
誰かにとっては価値を脅かす悪魔であり、
もし彼が世界がよりよくなれ、と行動するならば、それが彼自身が創造する世界の意味、なのです。
ソフィは受け入れがたい役割を乗り越え、自分の存在を自分自身で創造するためにある行動をとります。
さあソフィーは自分が誰だと気がついたのでしょうか。
自分の存在を自分で創造するために何をしたのでしょうか。
三千年を解くすべをもたない者は
闇のなか
未熟なままに
その日その日を生きる (ゲーテ)
という言葉が巻頭に載せられています。
哲学の質問にたったひとつの解答はありません。
いくつも答えがあって、そのどれもが正解であるようなものなのです。
ソフィーの冒険に興味がある人はぜひこの本を読んでみて下さい。
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ceci n'est pas une pipe

娘の部屋に行くと、鳥かごの中に "a bird" (鳥)という本が入っていた。
うむ、マグリットだろうか。「これはパイプではない」(この場合は「これは鳥ではない」)。
あるいはシニフィアンとしての鳥?
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et dieu... crea la femme
うちから徒歩2分くらいの位置に、ルブタンを扱っているセレクトショップがあり、石畳の街には合わないからかほとんど売れず(店員さん談)、常にサイズ37半はわたしが独占選び放題というハーレム状態だった。
まあそんな幸福な蜜月環境が長く続くはずがなく、先日、その店はひっそり潰れしまった。
それでというわけでもないが、今回初めてサントーニの靴を買った。
サントーニの靴は紳士物で有名だ。
わたしのすぐ下の妹は、中学生時代からアニエスbなどの紳士物をかわいく着るのが上手かった。また彼女は紳士物ブランドが作る女性の服も好む。彼女の影響なのだろうか、わたしもそういうブランドが作るものは意外性があって素敵だと思う。
婦人物のジャケットに内ポケットがついていたり
本切羽になっていたり
女性が祖父から譲られた紳士物の大きい時計をしているとか
彼のシャツを借りて着ている女の子とか
そういうイメージ。
不二子ちゃんの扱うマシンガンとか(笑)。
サントーニのハイヒール、何がわたしをいちばん「うお」と思わせたかと言うと、足に馴染む素材と造形だけでなく、中敷に手書きのナンバリングが入っているバージョンなことだ。240/300とか。300足作られたうちの240番目。リトグラフみたいじゃないか。うむ、これが見えないところにこだわる「男のおしゃれ」というものなのだろうか。

ハイヒールは美しい。文句なしに。
サントーニのナンバリング写真は一度履いたら中敷きが汚いような気がして自粛。
これらはまだ下ろしていない ジョゼッペ・ザノッティ 。
両方同じ木型でヒール高12センチ。クッションがいいので歩きやすい。
ええ、毎度のことながらハナシがずれてきていますね...
Et Dieu ...そして神はハイヒールをつくりたもうた。
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