チョイさんの沖縄日記

辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録
 

またオスプレイが墜落、怒りの声あふれる沖縄

2012年06月15日 | 沖縄 オスプレイ

                (6月15日(金)の沖縄タイムス、琉球新報朝刊)

 12日(火)から、所要で京都に行っていた。住民訴訟の判決は延期となったが、フィリピン・サマールに来てくれている学生たちとのミーティングや、大飯原発再稼働反対集会などに顔を出した。現在、関西では反原発一色。私も、何人もの友人たちから、週末、福井に行こうと誘われた。

 そんなときに、14日(木)、アメリカで、またオスプレイが落ちたというニュースが飛び込んできた。4月にモロッコで墜落して4人が死傷したばかりなのに、わずか2ケ月で再度の墜落事故を起こしたのだ。ちょうど前日に、防衛省がアメリカが行った環境審査の結果を、県に、「いかなる重大な環境問題も生じないことを確認した」と報告したばかりだった。「安全だ、安全だ」といいながら、事故が相次いでいる。ところが、事故が判明した14日の午後になっても、沖縄防衛局は県内の基地所在市町村を訪ね、環境審査の結果を説明してオスプレイの「安全性」を強調したというから呆れる。

 沖縄では、普天間基地のゲート前で、普天間爆音訴訟団の座り込み行動も始まっている。17日には、宜野湾市の市民大会も予定されている。那覇市長は保守系だが、「県民大会を開催しよう!」と提案している。沖縄中が、怒りで煮えたぎっているようだ。早く帰らねばと、予定を少し早めて、15日(金)早朝のフライトで沖縄に戻った。

 自宅に荷物を置き、大急ぎで普天間基地の座り込み現場に向かう。

 

  (ゲート前で始まったオスプレイ配備反対の座り込みテント)

 大山のゲート前には、テントが張られ、30名ほどが座り込んでいた。普天間爆音訴訟団、嘉手納爆音訴訟団の挨拶に続いて、昔、伊江島で阿波根さんたちと一緒に米軍の土地取り上げ反対闘争に参加したというお年寄りが、「沖縄の現実は何も変わっていない」と、家に火をつけられたという当時の話を生々しく語られた。「銃剣とブルドーザー」に抗した伊江島の闘いは、1950年代のことだから、もう、60年近くも昔のことだ。それから60年が経っても、なおも米軍基地との闘いを続けなければならないのだから、沖縄の人々の怒り、悲しみの深さは尋常ではない。

 小さな赤ん坊を抱いた若い女性もマイクを握った。「なかなか基地の問題に対して、若い人は参加してこない。しかし、オスプレイが来るというので、もう黙ってはおられない。私が、子どもを連れて座り込んでいることで、通りすぎる若い人たちも参加しやすいような雰囲気ができればいいと思って参加しました。」

 短い集会を終え、皆で普天間基地のゲートに向かった。

 ガードマンや米兵たちがあわてて飛び出してきた。皆で、「オスプレイ反対!」と、英語のシュプレヒコールを続ける。

 排除されるのかと思ったら、米兵たちは、逆に基地の門を閉鎖してしまった。ここは普天間のメインゲートだから、 交通量も多く、すぐにYナンバーの車が数珠つなぎとなってしまった。車の中から米兵たちが何事かと我々を注視している。沖縄県民の怒りを少しでも感じてくれればいいのだが。

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