ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

ハンザ同盟

2018-04-30 | 世界史地図
商業の発展
■ポイント 11~12世紀に商業が復活した理由、商業圏の地域的違いを理解し主要都市の位置を確認する。
商業の復活  背景 11~12世紀 封建社会の安定・農業技術の進歩により農業生産力の増大。
  • 余剰生産物の交換が盛んになる。ローマ時代の地中海域でのa 都市と商業  が復活。
  • ムスリム商人・ノルマン人(ヴァイキング)の商業活動 → b 貨幣経済  の広がりをもたらす。
  • 十字軍の影響による交通の発達 → c 遠隔地貿易  の発達。
    → これらの商業の復活の動きをd 商業ルネサンス  ともいう。
地中海商業圏  十字軍輸送を契機として、a 北イタリア  の港市が繁栄した。

Text p.140

    •  ヴェネツィア  ・c ジェノヴァ  ・d ピサ  など。
    •  東方貿易(レヴァント貿易) によりf 香辛料 ・ 絹織物   など奢侈品が輸入される。
    •  次いで内陸のg
 ミラノ  
      ・h
 フィレンツェ 
      などがi
 毛織物業 ・ 金融業 
    で栄える。
北ヨーロッパ商業圏  北海・バルト海沿岸のa 北ドイツ  の諸都市が新たに繁栄。
  •  ハンブルク  ・c リューベック  ・d ブレーメン  など。
  •  海産物 ・ 木材 ・ 穀物   などの生活必需品を取引。
  •  フランドル地方  :g ガン(ヘント)  ・h ブリュージュ  などi 毛織物産業  で繁栄。
  • イギリスのj ロンドン  :北海貿易の中心地。フランドルにk 羊毛  を輸出。
D 内陸通商路上の都市の発達
  • フランスのa シャンパーニュ  地方:地中海と北ヨーロッパをむすぶルートにb 定期市  が発達。
  • ドイツ内陸の商業都市:c ニュルンベルク  、d アウクスブルク  などが発展。
  • そのほか、バルト海沿岸と黒海方面を結ぶルートで、e ノヴゴロド  やf キエフ  が繁栄した。

 

ウ.中世都市の成立
■ポイント 中世の自治都市はどのように成立し、なぜ都市同盟を結成したかについて理解する。
中世都市  の発展。
  • ローマ帝国末期からヨーロッパの都市はa 司教座都市  として成立。
    = ローマ=カトリック教会の高位聖職者である司教の管轄する教会が置かれた都市。
  • その他の都市も封建領主の支配受けていたが、b 商工業の発達に伴い、都市の自治を要求し始めた。  
    背景:貨幣経済の進展に対応するため都市への課税を強化した封建領主に対して都市の抵抗が強まった。
自治都市  11~12世紀 ヨーロッパ各地の都市がコミューン運動(自治権の獲得運動)を展開する。
    • 自治の内容 a 市民が独自の政府、法律、裁判所を持ち、徴税権などを持つこと。  

Text p.141

  • 自治権の地域による強弱
     北イタリア  の諸都市:領主である司教から自立して自治都市(c コムーネ )となり、
     さらに周辺の農村を併合してd 都市国家   (共和国)となる。
     ドイツ  の諸都市:諸侯の力を押さえようとする皇帝からf 特許状  を得て自治権を獲得、
     皇帝直属の自由都市(g 帝国都市  )となる。 → 諸侯と同じ地位に立つ。
     他の都市は依然として封建領主の保護を受けて、納税の義務を負っていた。
    イギリス・フランスの諸都市:国王との結びつきが強く、自治都市は発達しなかった。
都市同盟  の形成
    • 12~16世紀  有力な都市が皇帝・国王・封建諸侯と対抗するために結成した。
    • 北イタリア:a ロンバルディア同盟   ミラノ中心に、ドイツ皇帝に対抗した。
       → ▲1176年 レニャーノの戦いで同盟軍が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世軍を破る。

解説

レニャーノの戦いは教科書、用語集では扱われないが、ロンバルディア同盟軍がローマ皇帝軍を破った戦いとして重要。都市同盟軍はローマ教皇の支援を受け、イタリア政策を展開するローマ教皇フリードリヒ1世(赤髯王)の派遣した軍を破り、都市の自治を認めさせた。
  • 北ドイツ :b ハンザ同盟   c リューベック  を盟主とし最盛期には約70市が参加した。
    その機能 d 独自の法律・軍隊(陸海軍)を持ち、共同の利益を守った。   
     → 14世紀に全盛期となり、北ヨーロッパ商業圏を支配、大きな政治勢力となった。
     → 都市同盟は、16世紀の大航海時代まで存続し、主権国家体制の成立(後出)に伴い消滅する。

地図 主なハンザ同盟加盟都市  ●は主要都市  ●は加盟都市  ■は四大在外商館

ハンザ同盟
(点線は現在の国境)
●主要加盟都市
 ⓐ リューベック  
 ⓑ ハンブルク   
 ⓒ ブレーメン   
 ⓓ ケルン     
 ⓔ ダンツィヒ   
 ⓕ リガ      
■四大在外商館
 ① ロンドン    
 ② ブリュージュ  
 ③ ベルゲン  
 ④ ノヴゴロド        
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魏晋南北朝時代  

2017-05-25 | 世界史地図

魏晋南北朝時代

 

  北方民族の動向  

 

五胡…1世紀半ばの南北分裂以後内地への移住が増えた南匈奴やその別種の羯(けつ)、東北方面の鮮卑、チベット方面の氐(てい)羌(きょう)らは、当初は傭兵として中国の王朝下で活躍していたが、4世紀前半の中国内地の政治的混乱に乗じ大挙して華北に進出した。

これらの非漢民族を総称して五胡という。

三国時代  ○が三国、□が五胡

三国時代 a 魏    b 呉  
 c 蜀  

 d 鮮卑   e 匈奴 
 f 羯    g 羌  
 h 氐  

 i 洛陽   j 建業 
 k 成都   l 楽浪 
 m 帯方   n 高句麗 
 o 倭    p 赤壁 
 q 五丈原  







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375年 〈ゲルマン人の大移動〉★

2017-05-23 | 世界史地図

 ●ヨーロッパ(古代ヨーロッパ) 

Germanic race expands.

みな来(こ)い逃げろ 西へゴー。

375年            ゲルマン人の大移動 西ゴート族  

 

アジア系のフン人《後漢の攻撃をうけて西方に逃れた北匈奴といわれる。ヨーロッパから見れば〈来た匈奴〉なわけだ!》が西進して、ゲルマン人の一派である東ゴート人の大半を征服。これに恐怖した西ゴート人が375年に南下をはじめ、翌年大挙してローマ帝国内に移住した。これをきっかけにゲルマン人の大移動が始まった。

 

◎地図 内陸アジアの民族移動

内陸アジアの民族移動

A-1 匈奴   A-2 東匈奴   A-3 西匈奴   A-4 北匈奴   A-5 南匈奴  
 烏孫    C-1 月氏   C-2 大月氏    D 鮮卑    E フン  

 

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前612年〈アッシリア帝国滅亡〉★★

2017-05-14 | 世界史地図

 ●オリエント(アッシリア)

  Fall of the Assyrian Empire: An alliance besiege and conquer Nineveh at the Battle of Nineveh.

 路頭(ろとう)に迷う あっしらは。

   前612年 ニネヴェ陥落   アッシリア

セム系のアッシリアは鉄製武器や戦車により大帝国を建設し、前7世紀前半に全オリエントを統一したが、過酷な支配は被征服民の抵抗を招いた。最大版図を誇ったアッシュール=バニパル王死後の前612年、メディア新バビロニア連合軍に首都ニネヴェを占領され、帝国も崩壊した。その後、新バビロニア・エジプト・リディア・メディアの4国並立時代に入る。

 オリエント地域図 
 1 メソポタミア    2 バビロニア     3 アッシリア     4 シリア 
 5 パレスティナ    6 アナトリア     7 小アジア      8 エジプト 
 9 イラン高原     a ティグリス川    b ユーフラテス川   c ナイル川 
 濃い色の部分  肥沃な三日月地帯 

 

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392年 〈キリスト教の国教化〉★★

2016-05-19 | 世界史地図

 

 

 

 

 

  • ローマ(帝政)  

  Theodosius I issues an edict reinforcing the prohibition of prayers or sacrifices at non-Christian temples.

さぁ国(くに)のもの 手をどうぞ。

                392年 国教化          テオドシウス帝

 

コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した後の4世紀後半、ユリアヌス帝は古典文化の復興を行い、ミトラ教に心酔してキリスト教を捨てたため、「背教者」とよばれた《「背教者」の「背」の「」の左に〈〉、「」の両側は〈〉、「」の左に〈〉、右に〈〉がある!》。

392年、テオドシウス帝キリスト教を国教化し、他のすべての宗教を禁止。ローマ帝国の分裂に歯止めをかけようとしたが、395年にローマ帝国は東西に分裂した。

 

 《ローマ帝国の分裂》  

395年、ローマ帝国の分裂を避けることができないことを悟ったテオドシウス帝は、死に際して帝国を2分して2子に残した。ここにローマ帝国は東西に分裂し、子のアルカディウスとホノリウスがそれぞれ東・西のローマ皇帝となった。

裂(さ)くことにして ローマ分け。

395年     テオドシウス帝 ローマ帝国分裂

 

 

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地図問題 ムガル帝国の領域の拡大

2015-09-19 | 世界史地図

  1. バーブル の時の領土

  2. アクバル の時の領土

  3. アウラングゼーブ の時の領土
 重要地名
  a. カーブル 
  b. デリー 
  c. アグラ 
  d. ボンベイ(ムンバイ) 
  e. ゴア 
  f. カリカット 
  g. ポンディシェリ 
  h. マドラス(チェンナイ) 
  i. カルカッタ(コルカタ) 
  j. シャンデルナゴル 
 主な反ムガル勢力
  A. シク教徒 
  B. ラージプート諸侯 
  C. マラーター王国 

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地図問題 ティムール帝国とその周辺

2015-09-11 | 世界史地図

 

 

 A ティムール  B オスマン帝国  C マムルーク朝  D デリー=スルタン朝(トゥグルク朝) 
 a サマルカンド  b ヘラート  c イスファハーン  d タブリーズ  e バグダード  f ダマスクス 
 g カイロ  h アンカラの戦い  i コンスタンティノープル  j サライ  k デリー 

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431年 〈エフェソス公会議〉★★

2015-08-21 | 世界史地図

 ▲7~8世紀頃の中国でのネストリウス派の祭礼(聖枝祭を描いたもの)

●教会(古代キリスト教会)

 

Council of Ephesus: Nestorianism is rejected, the Nicene creed is declared to be complete.

 司祭(しさい)えてね 景気よく。

  431年        エフェソス公会議

                  テオドシウス2世

                      ネストリウス派 景教

431年、東ローマ帝国のテオドシウス2は、小アジアのエフェソスに公会議を召集。

イエスの神性と人性を分離する二性説を唱えるネストリウス派を異端と決定した。追放されたネストリウス派は、ササン朝を経て東方に伝わり、唐代の中国では景教とよばれた。

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317年 〈東晋の建国〉★

2015-06-10 | 世界史地図

 ▲司馬叡

●中国(東晋)

 

  The survivors of the Western Jin re-establishes themselves further south, and the prime minister, Sima Rui succeeds to the throne of the Eastern Jin.

災難(さいなん)逃げん 東晋へ。

317年      建康     東晋  司馬睿

 

316年に匈奴に滅ぼされたの一族で、江南へ逃れていた司馬睿(えい)は翌317年に建康(現在の南京)で即位して晋を復興。これを東晋(317~420)という。東晋では君主権が弱く、政争が続いた。江南の開発が進む中で貴族文化が栄え清談が流行したが、宋の劉裕に滅ぼされた。

 建業と建康  現在の南京は三国の呉以来、建業と称されたが、西晋の愍帝の諱(いみな)を避けて東晋以降建康と呼ばれるようになった。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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入試 一橋大学 2012 第1問

2014-12-16 | 世界史地図

第1問

 1598年のナントの勅令(王令)の公布は、16世紀後半のフランスで30年間以上にわたって続いていた長い戦乱を終結させた出来事として有名である。

では、この勅令(王令)に至るまでの経緯はどのようなものであったのか、またその目的は何であったのかを、当時の政治状況および宗教問題に焦点を当てながら説明しなさい。(400字以内) 

第1問

[解答]
フランスでは民衆の間でカルヴァン派が広まっていたが、王家はカトリックであり、ユグノー戦争に発展、カトリーヌ=ド=メディシスはサンバルテルミの虐殺を行った。

王位継承についても新教のアンリ4世と旧教のギーズ公が対立した。

アンリ4世はギーズ公を暗殺し、自身はカトリックに改宗して1598年にナント勅令を発布した。

これは宗教対立を妥協させ、国内の統一を優先することを目的としたものであった。

この背景には、イタリア戦争でのカール5世との対立以降ハプスブルク家との争いが続き、大量の兵、資金が必要になり、国内を統一して徴兵、徴税の制度を確立する必要性が出たこと、ボーダンらがこの優先を主張したことがある。

 

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一橋 2012年 世界史 第3問

2014-12-12 | 世界史地図

 次の文章は1820年代初頭に植民地官僚ラッフルズが彼の母国イギリスとアジアとの交易について述べたものである。これを読んで、問1、問2に答えなさい。


 私がイギリス国旗をかかげたとき、その人口は二百人にも達しないほどでした。

三ヶ月のうちに、その数は三千人に及び、現在は一万人を越えております。

主としてシナ人であります。最後の二ヶ月のあいだに主として原住民の色々な種類の船が百七十三隻も到着したり、出帆したりしました。

それはすでに重要な商港となったのです。
 (中略)


 それは積極的にはオランダから何も奪いませんが、しかも、私たちにとってはすべてであります。

それは、私たちにシャム・カムボヂャ・コーチシナその他とともにシナおよび日本に対する支配をあたえます。

……この港を通じてシナへイギリスの綿製品を導入することに関して観察なさっていることは、一つの非常に重要な問題であります。

……インドが充分廉価に製造することができなくても、イギリスはそうすることができます。

……私はシナの大部分がイギリスの綿製品をつけないという理由を見い出すことはできません。

……イギリスにおける東インド会社とシナにおける行(ホン)商人の独占は、私たちの船舶や広東港における公正な競争といったようなものの観念を排除しております。

……(A.  )においてすべての目的は達せられるでしょう。

……シナ人自身が(A.  )にやってきて購買します。

彼らは行(ホン)商人の制限や着服なしに広東の色々な港に輸入する手段をもっております。

シナの多くの総督は自分で秘密に外国貿易に従事しており、(A.  )は、自由港として、かようにしてヨーロッパ・アジアおよびシナの間を結ぶ環となり、偉大な集積港となるのです。

事実、そうなってきています。
  (信夫清三郎著『ラッフルズ伝』より引用、一部改変した。)

問1 文中の(A.  )に入る地名を答えなさい。

ところで、ラッフルズは(A.  )における交易の自由がアジアの物流を一変させると考えていますが、この思想との対比において、イギリスの東南アジアにおけるその後の政治的経済的活動の展開を述べなさい(200字以内)

問2 この時期の、ヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制について説明したうえで、その後の同国の交易体制の変化について述べなさい。
(200字以内)


第3問


問1 
 この点でもスミスの思想的弟子であるラッフルズに合わないことでした。軍事力と産業技術でパクス=ブリタニカを形成しようとするイギリス国家の勢いに対してラッフルズは抵抗しようもなかったのです。自由貿易の行き着く先は、スミスもラッフルズも予想しなかった帝国主義的収奪でした。スミスもラッフルズも甘かった。

問2 課題は「清朝の交易体制……その後の同国の交易体制の変化」でした。「1820年代」の時期の貿易体制は開国前の体制です。乾隆帝が決めたかたち、貿易は広東一港に限定、公行が貿易を独占、関税自主権をもっていた、という体制です。それが二度の敗戦によって破られ、五港から 11港の開港、公行廃止、関税自主権喪失と変化します。
 アヘンが公認され銀流出はますます増え、国内関税である釐金(りきん)税(地方通過税)は外国商人は1回2.5%で済み、中国人は省を越えるごとに払わなくてはならない。この税は太平天国を鎮圧するための臨時課税だったのが恒久化したもので、西欧の国々に対しては、天津条約(1858)では輸出入正税(従価5%)以外に2.5%の子口税を納めれば釐金を免除することが定められ、西欧に有利なものでした。
 この問題は過去問(1983-3)の「1858年と1860年に調印された二つの条件が、中国民族産業の発達の障害になっていたからである。その条約のいかなる内容がこのような事態を招いたのか」という問題の類題でした。 
 1843年の虎門寨追加条約以来、イギリスの税関吏(海関の総税務司)が清朝の財政を滅亡まで牛耳っていました。中でも名高いのはロバート=ハートというひとで、このひとは1908年に交代で帰国するまで1863年からこの職にありました。清朝の貿易の利益を吸い上げ、使い道をアドバイスしていたのはイギリス人でした。またハートは事実上の清朝の政治顧問でもありました。

 [解答]

Aは広州である。イギリスはコンバウン朝を滅ぼし、マレーシアを占領した。

これらの地域ではスズ鉱山やプランテーションでインド人や中国人の労働者を酷使し、生産物を徴収した。

この展開は、武力を使わずに経済的に東南アジア諸国を従属させ、金銭的利益を得ることができるという予想に反するものであった。

このころ清は貿易港を広州一港に限定し、公行に管理させていた。

関税をかけて、国内の製品を保護したためヨーロッパからの綿製品の輸入は少なかった。

以降は次第にアヘンの密輸が始まった。南京条約では上海やアモイ等5港、北京条約では天津等11港が開港させられた。

南京条約で公行を廃止させられ、関税自主権も失ったためヨーロッパ製の安価な綿製品が大量に流入した。

後にアヘンの輸入も合法化された。

1767年 〈コンバウン朝、アユタヤ朝を滅ぼす〉★

1819年、〈ラッフルズ、シンガポールを建設〉★★


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320年 〈グプタ朝の成立〉★

2014-11-26 | 世界史地図

 

 

 

 

 

●インド(グプタ朝)

 

  Chandragupta I founds the Gupta dynasty in northern India.

身(み)に負うインド ちゃんとグー!

320年         インド    チャンドラグプタ1世 グプタ朝  

 

チャンドラグプタ1クシャーナ朝滅亡後の320年に北インド・ガンジス川中流域のマガダ地方にグプタ朝を開き、パータリプトラを都に定めた。グプタ朝は4~5世紀のチャンドラグプタ2のときに最大領域を誇り、南西部を除く全インドを支配したが、その後エフタルとの抗争に苦しみ、滅亡した《〈フタ〉つながりで、「グプタ朝」が「エフタル」に滅ぼされたことも覚えよう!》。

 

 

 

 

 

 《法顕》  チャンドラグプタ2のもとでグプタ朝は最盛期を迎え、中国東晋の僧法顕がインドを旅行したのはこの時代のことである。

 

 

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実存主義哲学 〈ハイデッガーとサルトル〉★

2014-11-23 | 世界史地図

 

思想・哲学

 

〇19世紀末の“厭世哲学”や“生の哲学”を経て、20世紀にはドイツのハイデッガー(『存在と時間』)やフランスのサルトル(『存在と無』)に代表される実存(主義)哲学が大きな流れとなった。

 

実(じつ)は存在 ハイな猿。

         実存主義哲学        ハイデッガー サルトル


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弥生時代

2014-11-22 | 世界史地図

 

 前進よいと 稲作さ。

  前4世紀 弥生時代 

         吉野ヶ里遺跡 石包丁 

            登呂遺跡 稲作 ~3世紀

 

紀元前4世紀ころ西日本から水稲耕作と金属器の使用を特色とする弥生時代が始まった。静岡県の登呂遺跡と佐賀県の吉野ケ里遺跡はこの時代の代表的な遺跡である。

 

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入試 一橋大学 2012年 世界史 第2問

2014-11-14 | 世界史地図

第2問
 次の宣言は、1943年10月に出されたものである。これを読んで以下の問に答えなさい。

 アメリカ合衆国、連合王国、ソヴィエト連邦および中国の政府は、各国が1942年1月の連合国による宣言、およびその後の諸宣言に従って、四カ国がそれぞれ交戦状態にある枢軸諸国に対する戦争を、枢軸諸国が無条件降伏を基礎として降伏するまで継続するという決意ににおいて結束し、四カ国自身及び四カ国と同盟を結ぶ人々を侵略の脅威から解放することを保障する義務を自覚し、戦争から平和への迅速で秩序ある移行を確保し、且つ、世界の人的及び経済的資源が兵器のために流用されることを最小限にしながら国際的な平和と安全を確立・維持する必要を認め、以下のように共同で宣言する:

 1. 各国の敵国に対する戦争遂行のために誓約された四カ国の共同行動は、平和と安全を組織化し維持するために継続される。
 2. 四カ国のうち共通の敵と交戦状態にある国は、その敵国の降伏及び武装解除に関する全ての事項について共同で行動する。
 3. 四カ国は、敵国に課される条件の違反に対して、必要と認める全ての処置をとる。
 4. 四カ国は、全ての平和愛好国の主権平等の原則に基づき、且つ、そのような大国小国の全てが参加し得る、国際的な平和と安全維持のための一般的国際機構を、実現可能な限り早期に設置する必要性を認める。
 (以下略)

問い この宣言の名称を答えなさい。ところで20世紀には、この宣言で打ち出された目的を実現するための国際機構を作る試みが二度行われている。

どのような国際機構が設立されたのか、またそれらはどのような問題に直面したのか、20世紀の国際関係を踏まえながら論じなさい。その際、次の語句を必ず用い、用いた語句に下線を引きなさい(400字以内)

  総力戦 安全保障理事会 イタリア 冷戦 PKO*
                     *PKO=平和維持活動

 

[解答]
これはモスクワ宣言である。

国際連盟は第一次世界大戦後にウィルソンの提唱で組織され、戦争の講和や経済制裁、文化の交流を目的とした。

総力戦で消耗し、秘密外交により信頼を失った英、仏が中心であり、債務国から債権国に転じたアメリカ、社会主義革命に成功したソ連が含まれなかったため、指導力を欠いた。

武力制裁権を持たなかったため、ドイツ、日本、イタリアのファシズムに対応できなかった。

国際連合は第二次世界大戦後に大西洋憲章を基礎として組織された。総会では全加盟国が一票を持ち、ユニセフやユネスコ等の機関を持った。大国は安全保障理事会で議論し、米、英、仏、ソ、中は常任理事国となり、拒否権を持った。冷戦中は米、ソが何度も拒否権を行使したため機能不全に陥った。武力制裁権を持ったが、冷戦以降はアメリカが主導権を握り、湾岸戦争のようなアメリカが当事者となる戦争では抑止力を発揮できなかった。 


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