ベック式!難単語暗記法ブログ

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一遍

2018-07-30 | Weblog

一時に踊り。

一遍(いっぺん))(時宗(じしゅう))(念仏(おどりねんぶつ))



[ポイント]

1.一遍浄土教の一派で踊念仏(おどりねんぶつ)による往生を説く時宗を開いた。

[解説]

1.法然親鸞という同じ浄土教の流れのなかから、やや遅れて出たのが一遍(1239~89)である。一遍は、善人・悪人や信心(しんじん)の有無を問うことなく、すべての人が救われるという念仏の教えを説き、念仏札を配り、踊念仏(おどりねんぶつ)によって多くの民衆に教えを広めながら各地を布教して歩いた。この教えは時宗とよばれる。

2.一遍は、各地で布教し地方の武士や農民に広く受け入れられ、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と呼ばれた。

〈2015関西大・文商法など

 鎌倉時代に地方を行脚した一遍の生涯を描いた『一遍上人絵伝』には、東西を貫く2{(ア)山陽道(イ)南海道(ウ)東海道}に近い吉井川の河原に形成された備前国福岡の市が描かれている。道を挟んで建てられた小屋には、米・鳥・布・履物などの品物が並べられ、往来する人々の間に裸足の一遍の姿がある。」

(答:2ア)〉

〈2013早大・国際教養

問10 下線部gについて、中国に渡航した経験のない僧侶は誰か。1つ選べ。

 ア重源 イ栄西 ウ道元
 エ一遍 オ俊芿

(答:エ ※俊芿 1183年寿永3年)18歳の時に出家剃髪し、翌1184年元暦元年)大宰府観世音寺で具足戒を受けた。戒律の重要性を痛感し1199年正治元年)中国()に渡った。径山の蒙庵元総に禅を、四明山の如庵了宏を、北峰宗印に天台教学を学んで、12年後の1211年建暦元年)日本に帰国して北京律(ほっきょうりつ)をおこした。俊芿に帰依した宇都宮信房に仙遊寺を寄進され、寺号を泉涌寺と改めて再興するための勧進を行った。後鳥羽上皇をはじめ天皇・公家武家など多くの信者を得て、そこから喜捨を集め、堂舎を整備して御願寺となり、以後、泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学の道場として栄えることとなった。


親鸞(浄土真宗)

2018-07-29 | 入試問題+ゴロ合わせ

協業知らんジョーシンで。

親鸞)(浄土宗)(教行信証(きょうぎょうしんしょう))


[ポイント]

1.浄土真宗の祖、親鸞の主著は『教行信証』である。

[解説]
1.親鸞(1173~1262)は、浄土真宗の祖。師法然に連座し越後に流され、その地で妻帯を断行、その結果、今日までその血縁が続くことになる(8代目が中興の祖蓮如)。

2.親鸞は、師法然の教えをさらに深めた。従来の仏門に入り精進するような自力作善(自力で善行を積む)の行動は無意味である。ひたすら阿弥陀仏を信じて念仏南無阿弥陀仏)を唱える(他力本願(たりきほんがん))の方が極楽浄土に往生できると説いた。

3.また、阿弥陀仏本願(庶民を救う誓い)はもともと悪人(煩悩の深い人、つまり殺生をしなければ生きて行けない庶民)を救うこと(悪人正機)であるから、阿弥陀仏の力にすがること(他力)こそ極楽往生の近道である、と説いた。(他力本願にもとずく悪人正機説)。

4.親鸞の主著は『教行信証』。『歎異抄(たんにしょう)』は弟子の唯円(ゆいえん)が書いた親鸞の言行録。親鸞の死後、親鸞の教えが正しく理解されず乱れていく状況を歎いて、親鸞の言行を書きしるしたもの。

〈2005上智大・法外総合人間

「ここをもて ア興福寺の学徒、太上天皇(イ後鳥羽の院と号す、諱(いみな)尊成)、今上(土御門の院と号す、諱為仁)、聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
 ウ主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、エ真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、損りがはしく死罪に坐す。あるひは オ僧儀を改めて姓名を賜ふて カ遠流に処す。キはその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもて姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。
                      (『教行信証』後序)

問1 下線部アについて、興福寺奏状を起草した人は誰か。1つ選びなさい。


 1覚円 2貞慶 3円盛
 4尊円 5高弁 6慈円

問2 下線部イについて、「後鳥羽の院」の説明として正しくないものを1つ選びなさい。

 1 承久の乱の結果、隠岐に配流となり、そこで生涯を終えた

 2 若くして長男の土御門天皇に譲位して上皇となった
 3 北条義時追討の宣旨を発して挙兵したが、幕府軍の前に完敗した
 4 藤原定家・家隆らに命じて『新古今和歌集』の編纂にあたった
 5 政治的手腕にすぐれ、「日本国第一の大天狗」と評された
 6 あらたに西面の武士をおき、軍事力の増強をはかり、院政を強化した

問3 下線部ウには、ある出米事に対する著者の厳しい批判と抗議が見られる。その出来事とは何か、1つ選びなさい。

 1 和田合戦以降、執権が北条氏一族のあいだで世襲されるようになったこと

 2 悪人正機説が、朝幕間で正反対に解釈され、政治的に利用されたこと
 3 源実朝が鶴岡八幡宮で公暁に暗殺された事件
 4 本願寺が東西に二分されるに至った政治的紛争
 5 畿内・西国を中心とした養和の大飢饉の際の朝廷の無策ぶり
 6 法然を師とする専修念仏教団への弾圧

問4 下線部(エ)と(キ)について、「真宗興隆の大祖源空法師」および「予」はそれぞれ誰を指しているか。正しい組み合わせを1つ選びなさい。

 1源信-法然 2法然-親鸞 3法然-唯円

 4親鸞-蓮如 5親鸞-善鸞 6親鸞-唯円

問5 下線部(エ)に関して、「源空法師」の思想に深く影響を受けた人物で、政治的な後援者でもあったのは誰か。1つ選びなさい。

 1源頼家 2北条義時 3九条兼実

 4源通親 5平清盛  6藤原通憲

問6 下線部(オ)について、「僧儀を改めて」とあるが、ここでの意味は何か、1つ選びなさい。
 1改宗する
 2僧籍を剥奪される
 3独身生活をやめ、妻帯する
 4顕密仏教(南都北嶺)のしきたりに従う
 5別の師のもとで学ぶ
 6都での伝道活動を自粛する

問7 下線部(カ)と(キ)について、「遠流に処す」とあるが「予」はどこに流罪となったか、1つ選びなさい。

 1安房 2土佐 3讃岐

 4佐渡 5伊豆 6越後

(答:問1→2※ジョウ、問2→5×後白河上皇の誤り、問3→6、問4→2、問5→3、問6→2、問7→6)〉 


法然

2018-07-28 | Weblog

選択法然浄土宗。

選択本願(せんじゃくほんがん)念仏宗 法然念仏 浄土

[ポイント]
1.法然は浄土宗をひらき、『選択本願念仏集』を著した。

[解説]
1.法然は、ひたすら念仏南無阿弥陀仏)を唱えれば(専修念仏(せんじゅねんぶつ))、極楽往生できると説いた。

2.主著は九条兼実による求めに応じた『選択本願念仏集』。

〈2013大学入試センター試験

問1 下線部a法然・親鸞・日蓮らの活動に関連して、彼らの宗教活動と政治権力とのかかわりに関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組合せとして正しいものを、下の1~4のうちから一つ選べ。

X 法然の弟子で、『選択本願念仏集』を著した親鸞は、朝廷により配流された。
Y 南無阿弥陀仏の題目を唱えれば救われると説いた日蓮は、鎌倉幕府により追害された。

1X正 Y正  2X正 Y誤
3X誤 Y正  4X誤 Y誤

(答:4 ※X『選択本願念仏集』ではなく『教行信証』が正しい、Y日蓮が主張した題目とは「南無妙法蓮華経」のこと。「南無阿弥陀仏」は念仏。日蓮ははじめ伊豆、のち佐渡に流された。)〉


鎌倉新仏教の開祖(活躍順)

2018-07-27 | Weblog

法栄親日一遍。

蓮宗・土宗・宗)(済宗・洞宗・


[ポイント]

1.鎌倉新仏教には日蓮宗浄土宗時宗済宗・洞宗・宗の6宗がある。
2.開いたのはそれぞれ、日蓮法然一遍栄西道元親鸞である。

〈2014明大・国際日本(国際日本)

 文章は鎌倉時代の新仏教運動について述べたものである。(中略)
 12世紀頃、京末の都の話である。[ A ]を開祖とする天台宗の総本山がある[ B ]から続々と僧侶が下山し、仏法を民衆の間に広めた。これがいわゆる「鎌倉新仏教」の発端である。やや時代が下ると幾多の新しい仏教教団が形成される。代表的な教団をあげるならば、浄土宗、浄土真宗(一向宗)、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗(法華宗)、時宗(時衆)などがそうである。浄土宗の開祖は法然、浄土真宗(一向宗)の開祖は[ C ]、臨済宗は[ D ]、曹洞宗は[ E ]、時宗(時衆)は一遍、日蓮宗(法華宗)はその名の通り日蓮である。

 なかでも、浄土教と[ F ]から伝来した禅宗が群を抜いていた。日本の浄土教の起源は平安時代にさかのぼり、鎌倉時代になるとその勢いが増した。念仏行者・遊行者として知られている[ G ](図1略)は平安末期における浄土信仰の代表的な布教者であった。

 浄土教は難行を斥け、[ H ]と称えれば、死にゆく者が救済され、臨終の際、悪人でさえ極楽往生することができると説く。図2(略)のようにこの臨終往生の場面を描いた絵を[ I ]と呼ぶ。

 一方、禅宗は自力、つまり修行の必要性を説き、坐禅などの実践法を重視した。鎌倉の武家に支持された臨済宗は「己事究明」(自分自身そのものを明らかすること)のための修行を重んずる一方で、大陸の最先端の文化も積極的に伝えた。一例を挙げれば、臨済宗の開祖である[ D ]ははじめて日本に[ J ]をもたらしたといわれる。「只管打坐」(ひたすら坐ること)をその教趣とし、同じ禅宗の系譜に属する曹洞宗はより隠遁的であり、おもに北陸を拠点とした。今日でも多くの修学旅行が訪れる福井県の[ K ]は曹洞宗の大本山の一つである。なお、曹洞宗の開祖である[ E ]が著した[ L ]は、いまなお日本の宗教史、思想史上の古典として高く評価されている。

 日蓮宗(法華宗)と時宗(時衆)の場合は、いずれも浄土宗と浄土真宗(一向宗)と同様、男女老若を問わない民衆への布教によって繁栄を迎えた。浄土教の念仏と同様に、[ M ]の著者日蓮の教えは、いわゆる[ N ]を唱えることを信仰の軸とした。時宗(時衆)の開祖である一遍は[ O ]念仏を普及させたため世に知られるようになった。
 このような新しい宗教運動の出現により、日本の仏教の様相はこの時代にすこぶる変遷したと結論できる。

(答:A最澄、B比叡山、C親鸞、D栄西、E道元、F宋、G空也、H南無阿弥陀仏、I来迎図、J茶、K永平寺、L正法眼蔵、M立正安国論、N題目、O踊)〉


下地中分

2018-07-27 | Weblog

放棄統合(ほうき)/の下地十分

東郷荘(とうごうしょう)・伯耆(ほうき))(下地中分


[句意]登校放棄する下地は十分あった、という句。普段の行き渋る様子からも十分窺(うかが)えたということ。


[ポイント]

1.下地中分の例としては伯耆国東郷荘が著名。

[解説]
1.東郷荘は、伯耆国(鳥取県)にあった京都松尾神社(領家)の荘園。1258年に作成された領家地頭との和与による下地中分の絵図が残っている。

2.下地中分は地頭の荘園侵略に対して、領主は下地(収益権のある田畑・山林などの土地)を2分して一方を地頭に与え、残りの支配権を保持すること。幕府による強制的中分と当事者が話合いによって和解・妥協(和与)に達する和与中分とがあった。

〈2014早大・教育:「荘園のd下地中分に際して作成された図3では、中分が行われた境界の左右にこの決定を承認した[ B ]と[ C ]の花押が記されている。

「伯耆国東郷荘」の画像検索結果

図3
問4 下線部dについて、この場合の正しいものをすべて選びなさい。


 ア.この絵図には領家分と預所分の記載がある。

 イ.この荘園の領家は松尾社である。
 ウ.この絵図は伯耆国東郷荘を描いたものである。
 エ.中分は守護と地頭の間で行われた。
 オ.領家は地頭に一定額の年貢の納入を請け負わせた。

問5 空欄[ B ][ C ]に入る語の組み合わせとして正しいものはどれか。


 ア.B:守護 C:地頭    
 イ.B:執権 C:連署

 ウ.B:執権 C:六波羅探題
 エ.B:預所 C:地頭

 オ.B:守護 C:預所
 
(答:問4イ・ウ ※ア預所分→地頭分、エ守護→領家、オこれは地頭請の説明。問5イ ※執権北条長時と連署北条政村)」〉


教派神道3教

2018-07-25 | 入試問題+ゴロ合わせ

天中紺か 黒ずんだ。

理教・山みき)(光教(こん5こう9きょう)・川手文治郎(かわてぶんじろう))(黒住教(くろずみきょう)・黒住宗忠(くろずみむねただ))



[point]

1.おもな教派神道には天理教中山みき)・金光教川手文治郎)・黒住教黒住宗忠)がある。

[解説]

1.教派神道は、本来は幕末から明治初期に創始され、それぞれ教祖・教典を持ち、行を重んじ、信者のために病気平癒(へいゆ)など現世利益(げんぜりやく)の祈祷(きとう)をおこなう神道系教団で、それぞれ独立していた。

2.明治政府が上記教団群の中から、出口王仁三郎大本教など反権力的な教団をはずして13教派を公認し、一括(ひとくく)りに教派神道とよぶ。

3.明治政府が、伊勢神宮を頂点とする天皇が祭神国家神道神社神道)を頂上におき、13教派をその下位に従属させ、神道の階層秩序を創ったもの。

4.その見返りに、特権的地位をあたえ保護した。一方、反権力的な出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)の大本教(おおもときょう)は弾圧された。

2017早大・教育

 史料2は、備中国浅口郡の百姓によって1859年に開かれた、[ B ]教の教義書である。ここでは、『古事記』『日本書紀』に登場する神々も、それに連なる天皇も、百姓もみな同じ人間であるとされ、すべての人々は平等に尊重されるべきであることが説かれている。

(史料2)

伊邪那伎(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の命も人間、天照大神も人間なら、そのつづきの天子様も人間じやろうがの。[ C ]の神も同じ事じや。神とは云ふけれども、皆、天地の神から人体を受けて居られるのじや。天地の調(ととの)へた五穀を頂かれねば、命(いのち)がもつまいがな。して見れば、矢張り皆、天が父、地が母じやろうが。

 

問3 空欄[ B ]に入る語を漢字で答えなさい。

問9 空欄[ C ]は、[ B ]教とは別の民衆宗教を開教した教祖の名前が入る。この空欄[ C ]に入る人名はどれか。

 ア 宗忠 イ なお ウ 惣五郎
 エ 篤胤 オ 梅岩」


(答:B金光、Cア)〉


2016立教大・文

 さくがわずか21歳で死去した後の西谷家では、その母へいが「家」を支えたが、へいは宗教に救いを求めることがあった。この時期にはいくつもの民衆宗教が起こり、人々の心をとらえたが、その1つに( ハ )の創始した天理教がある。1867年には、御蔭参りで知られる( ニ )神宮のお札が降ったということで、翌年にかけて民衆の「ええじゃないか」の乱舞が起こった。へいの書き残したものによれば、この時西谷家にもお札が降ったとされている。」

(答:ハ中山みき、ニ伊勢)〉


2016早大・教育:「

問6 下線部Cの民衆宗教のうち、幕末に成立したものを3つ選べ。

 ア 大本教 イ 黒住教
 ウ 金光教 エ 天理教
 オ ひとのみち」


(答:イ・ウ・エ)〉


2016慶大・文

Ⅲ 次の文章の空欄(E~H)に該当する適当な語句を記入しなさい。
 政府の強引な神道国教化は一方で反発を招き、挫折を余儀なくされる。周防国の専照寺出身の真宗僧である( E )のように、ヨーロッパの視察を踏まえて信教の自由の観点から神道国教化を批判する者も現れた。

 その後、政府は信教の自由を一応認めたが、神道は宗教でないとして保護を与えた。こうして保護下に置かれた神社神道とは異なり、宗教として公認された( F )神道も存在する。この中には、幕末維新期に勢力を拡大した黒住宗忠の黒住教や中山みきの( G )教、川手文治郎の( H )教などが含まれた。」


(答:E島地黙雷、F教派、G天理、H金光)〉


2013立大・文:「

 下線部の(幕末におこった)民衆宗教について、このうちに川手文治郎(赤沢文治)を教祖とする民間宗教名を答えよ。」

(答:金光教)

 


紀伊国阿氐(あて)河(がわの)荘百姓等の訴状

2018-07-25 | Weblog

1275(文永12)年 〈紀伊国阿氐(あて)河(がわの)荘百姓等の訴状

悲痛(ひつう)な声が 聞こゆ朝。

1275年       紀伊国阿氐河荘民の訴状 高野山に伝えられた 湯浅氏



[ポイント]

1.地頭の荘園侵略の例として紀伊国の阿氐河荘が著名。

[解説]

1.紀伊国阿氐河荘民は、1275年、13箇条にわたる愁状で、湯浅宗親の非法を、京都の荘園領主寂楽寺へ訴えた(高野山金剛峰寺蔵)。

〈2014立大・現代心理コミュ福祉経営

 鎌倉時代から室町時代にかけて農業技術が発達し、地顔や荘民を中心にして積極的な耕地開発が行われたため、農業生産力が向上した。そのため、これに伴う富を誰が手に入れるかを、荘園領主や地頭、荘民が争ったのである。13世紀になると、荘民は土地との結びつきを強め、地域的なまとまりである村落に関連して地域社会の主体的な勢力となった。1275年に紀伊国( ヌ )荘の荘民が、地頭である湯浅宗親の非法を、片仮名書きの訴状で13カ条にわたって荘園領主に訴え出たことも、その一例である。

(答:阿氐河)〉

〈2013早大・文化構想

 このような意見や議論は、次第に地域社会へと広がっていった。たとえば、国司の暴政が著しくなり、その圧政をc尾張国郡司百姓らが訴えた愁状が知られている。さらに、荘園制の展開のもとで、d阿氐河荘の上村百姓等が13箇条にわたって地頭湯浅氏の暴虐を訴えたとされる例もある。一方、京都では、後醍醐天皇の御所に近い[ B ]条河原において、[ C ]の新政を批判し、社会を風刺する内容の落書が登場してくるようになる。

問5 下線dの所在する国名は何か。記述解答用紙の解答欄に漢字で記入しなさい。


問6 下線dの百姓らが訴えた文書に関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。


 ア この文書は、1375年に作成された。

 イ 耳を切り、鼻を削ぐ、という暴虐行為が記されている。
 ウ 材木に関することが述べられている。
 エ 基本的には仮名で書かれた文書である。
 オ この文書は、高野山に伝えられた。

問7 空欄Bにあてはまる漢数字は何か。記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。


問8 空欄Cにあてはまる語句は何をさしているか。1つ選べ。

 ア法令の名称 イ国名 ウ職名
 エ制度の呼称 オ年号

(答:問5紀伊国、問6ア(正しくは1275年)、問7二、問8オ(建武))〉


借上・問丸

2018-07-23 | Weblog

鎌倉問〇菓子あげ。

鎌倉時代)(問丸(といまる))(借上(かしあげ))


[ポイント]

1.鎌倉時代の高利貸しを借上、運送業者を問丸という。

[解説]

1.鎌倉時代に、遠隔地との商業取引も盛行し、交通の要地には、商品の中継と委託販売や運送を業とする問丸(問)が発達した。

2.遠隔地間の取引には、金銭の輸送を手形で代用する為替(かわせ)が使われ、金融機関としては高利貸業者の借上も多くあらわれた。

3.室町時代ではしだいに借上は土倉(どそう)、問丸は問屋(といや)と呼ばれるようになった。

〈2013成城大・経済

 鎌倉時代に荘園・国衙領の中心地や交通の要地、寺社の門前などに、月の一定の日になると定期市が開かれ、産物が売買された。[ 1 ]と呼ばれる月に三回開かれる定期市も珍しくなかった。また、定期市のほかに、常設の小売店である[ 2 ]もみられるようになった。遠隔地を結ぶ商業活勤も活発化し、港湾や大河川沿いの交通要地には産物の輸送や保管、委託販売を業務とする[ 3 ]が発達した。
 鎌倉時代末期から室町時代にかけて、農業と共に商業も大きく発達した。貨幣の流通が著しく増え。貨幣経済が進展するなかで、[ 3 ]から発展した卸売業者である[ 4 ]や酒屋など富裕な商工業者は、土倉と呼ばれる高利貸業を兼ねるようになっていた。」

(答:1三斎市、2見世棚、3問丸(問)、4問屋)〉

〈2013早大・文化構想

 鎌倉末から室町初期にかけて、[ A ]と呼ばれる金融業者が活勤した。
問2 空欄Aに該当する語句を漢字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。

(答:借上)

〈2013学習院大・経済

 年貢・公事は室町時代になると、荘園こよっては銭で納めるようになり、為替でこれを送るところも出てくる。しかし、原則は荘民が自身で運搬しなければならなかった。(7)〔イ)連雀商人 ロ)頼母子 ハ)四府駕輿丁座 ニ)借上 ホ)問(問丸)〕が、荘園から徴収した年貢や商品の保管・輸送にあたった。

(答:ホ)

〈2012大学入試センター試験・日本史B

問3 下線部b鎌倉時代の後半に関連して、このころの人々の活動について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1.幕府や荘園領主の支配に抵抗する者が、悪党とよばれた。

 2.足軽が鉄砲隊に組織され活躍した。
 3.都市鎌倉では、大原女などの女性商人が活躍した。
 4.交通の要所では、商品の中継ぎや運送を行う借上が現れた。」

(答:1 ※2足軽の活躍は室町時代以降。鉄砲の伝来は1543年、3大原女は京都の大原から出て京都市内で薪などを売り歩いた女性商人、4借上は鎌倉時代の高利貸業者。ここは問丸が正しい)〉

〈2012法政大学・文経営人間環境

問5 下線部e南宋からの輸入品は日本の社会に大きな影響を及ぼしたについて、南宋からの輸入品が日本の社会に及ぼした影響のうちもっとも重要なことがらを80字以内で説明せよ。句読点も1字に数える。算用数字は1マスに2字記入してもよい。

〔解答例〕

大量輸入された宋銭が流通し、日本の貨幣経済の発達をうながした。年貢の銭納が始まり、遠隔地間取引に為替が用いられ、高利金融業の借上も出現した。(70字)〉


元寇

2018-07-23 | Weblog

原稿高三異国分 何ぞ弘安下つチン。 

元寇)(麗服属・別抄・国警固番役の初め・永の役)(南宋滅亡・安の役・霜月騒動・西探設置)

[ポイント]
1.元寇前後は、高麗服属(1259)→三別抄の乱(1270)→異国警固番役のはじめ(1271)→文永の役(1274)→南宋滅亡(1279)→弘安の役(1281)→霜月騒動(1285)→鎮西探題設置(1293)と推移。

[解説]
1.(1271~1368)のフビライ=ハン(位1260~94)は、高麗を服属させ、日本に対してもたびたび朝貢を強要してきた。

2.しかし、執権北条時宗(1251~84)がこれを拒否したので、元・高麗の連合軍約3万の兵で、1274(文永11)年、対馬・壱岐を侵略し、九州北部の博多湾に上陸した。幕府は、九州地方に所領を持つ御家人を動員して、これを迎え撃ち、苦戦の末、元軍を退却に追い込んだ(文永の役)。


3.幕府は再度の襲来に備えて、博多湾岸など九州北部の要地を御家人に警備させる異国警固番役を強化するとともに、博多湾沿いに石造の防塁(石築地)を構築させた。


4.元は南宋を滅ぼした後、ふたたび日本の征服をめざし、1281(弘安4)年、約14万の大軍をもって九州北部にせまった。しかし博多湾岸への上陸をはばまれているあいだに暴風雨がおこって、ふたたび敗退した(弘安の役)。この2回にわたる元軍の襲来を蒙古襲来(元寇)という。


5.高麗は服属後も、三別抄の乱などさまざまな形で抵抗を続けた。フビライは日本との交渉や、日本の攻撃に高麗を利用したが、高麗の元に対する抵抗の継続は、日本遠征の障害となった。

〈2014同志社大・文

( i )では、(元の襲来に対し)3隊に組織された特別編成の部隊が、済州島を本拠として頑強に抵抗したが、1273年に平定された。この部隊は何とよばれたか。その名称を漢字で記せ。」

(答:i高麗、k三別抄)〉

〈2013早大・法

 中国大陸の支配のためにaフビライは南宋の支配を目指しつつ、未征服国である日本も支配下に置こうとする動きをはじめた。
 フビライは、b1268年以後、数次にわたって日本に朝貢を求める国書を送ってきた。しかし、この間、高麗ではモンゴル支配に抵抗する[ A ]の乱がおき、その影響で日本への攻撃は遅れることになった。[ A ]の乱の平定後、cと高麗の兵からなる大軍が来襲してきた。d日本は苦戦したが、暴風雨もあって、元軍は退却した。この元による侵寇を文永の役と呼ぶ。
 文永の役の後も、フビライは、1275年に杜世忠を[ B ]に派遣するなど、日本征服を断念していなかった。元は、e1279年に南宋を滅ぼし、その後、弘安の役と呼ばれる2度目の日本遠征を行った。しかし、このときも暴風雨により敗退することになった。
 2度にわたる蒙古襲来に際しては、f得宗の北条時宗を中心に鎌倉幕府の意思決定が行われた。これ以降、得宗の勢力が強大になるとともに、得宗家の被官である御内人とその代表である[ C ]が幕府で権力を握るようになるなど、幕府の合議制は形骸化した。gこの蒙古襲来は、日本の政治や社会のあり方に様々な影響を及ぼすことになったのである

問1 下線部aについて。フビライに謁見したことがあり、「黄金の国ジパング」として日本を紹介した人物の名を記述解答欄に記入しなさい。

問2 下線部b(1268年以後、数次にわたって日本に朝貢を求める国書を送ってきた)について。1268年の国書送付から文永の役に関連する出来事として正しいものを1つ選べ。
 1 1268年に最初の国書が送られた時、北条時宗はまだ執権になっていなかった。
 2 鎌倉幕府は、フビライの要求を拒否しつつも、国書に対する返書は送った。
 3 モンゴルによる南宋への攻撃が計画、着手されていた当時、日宋貿易はすでに行われなくなっていた。
 4 文永の役後に、九州北部に異国警固番役が編成された。
 5 竹崎季長は蒙古襲来絵巻を文永の役の戦勝祈願のために奉納した。

問3 空欄Aに入る語を記述解答欄紙に漢字3字で記入しなさい。

問4 下線部cについて。1268年の国書送付から文永の役までの間に、フビライは国号を元と定めた。国号を元と定めた年として正しいものを1つ選べ。
 あ1269年 い1270年 う1271年
 え1272年 お1273年

問5 下線部dについて。日本軍の苦戦の原因の1つとなった元軍の火器の名を、記述解答欄紙に平仮名4字で記入しなさい。

問6 空欄Bには地名が入る。1275年にこの地の防衛のため異国警固番役が編成されたが、その地名として正しいものを1つ選べ。
 あ越前 い能登 う美作
 え長門 お播磨

問7 下線部eについて。南宋滅亡後の1279年に北条時宗に招かれ、円覚寺を開山した僧の名前として正しいものを1つ選べ。
 あ蘭渓道隆 い無学祖元 う兀庵普寧
 え東巌慧安 お一山一寧」

問8 下線部fについて。得宗の名の由来になった法名をもつ執権の名前として正しいものを1つ選べ。
 あ北条時政 い北条義時 う北条泰時
 え北条時頼  お北条長時

問9 空欄Cに入る語を記述解答欄に漢字3字で記入しなさい。

問10 下線部gについて。蒙古襲来前後の日本の状況として正しいものを2つ選べ。

 1 得宗専制政治の下でも、諸国の守護職の過半数は有力御家人が任命された。

 2 御家人は貨幣経済に対応できずに窮乏していたが、荘園の年貢の銭納はまだ行われていなかった。
 3 朝廷は、蒙古襲来に際して、敵国降伏の祈願を行ったが、暴風雨による元軍の敗退を受けて神国思想が広がることになった。
 4 3度目の襲来に備え、鎌倉幕府は異国警固番役を継続するとともに、鎮西奉行の権限強化をはかった。
 5 蒙古襲来後も日本と元との間の緊張関係が続いたが、経済関係はさらに深まった。」

(答:問1マルコ=ポーロ、問2→1 ※2返書していない、3行われていた、4文永の役の前から始まった、5執権貞時のときの1293年に奉納、問3三別抄、問4う(1271)、問5てつはう、問6え(長門)、問7い(無学祖元)※難読僧名は読みだけ示しておく。う兀庵普寧(ごつたんふねい)、え東巌慧安(とうがんえあん)、お一山一寧(いつさんいちねい)、問8い(義時)、問9内管領、

問10→3・5 ※1過半数が北条氏一門へ、2荘園の一部では年貢の銭納もおこってきた、4鎮西奉行(1185~)は鎮西探題(1293~)の設置で実質的機能は失われた)〉

〈2013早大・国際教養:「下線部f元寇に関連して述べた文として誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 元軍の兵士のなかには、高麗の人々も多く含まれていた

 イ 恩賞の不足から、御家人は鎌食幕府への不満を募らせた
 ウ 元からの使者を鎌倉で斬り殺した
 エ 文永の役の後、御家人を異国警固番役に動員するようになった
 オ 高麗では、三別抄が元に対して抵抗を続けた」

(答:エ ※文永の役の前に始まる)〉


北条時頼

2018-07-22 | Weblog

時おり群れた蚊引き。
時頼)(宗尊(むねたか)親王・三浦氏滅す)(1249年)(引付衆(ひきつけしゅう))

[句意](わたしは)時により群れた蚊を恨み彼らを引きつけ(キンチョールを)シュッとすることがある、という句。「恨み」は「三浦」を倒置している。


[ポイント]

1.北条時頼は、引付衆を設け(1249年)、三浦泰村(みうらやすむら)を滅ぼし、宗尊親王(むねたかしんのう)を擁立した。

[解説]
1.合議制の採用や式目の制定など、執権政治の隆盛をもたらした泰時の政策は、孫の5代目執権北条時頼(1227~63)に受け継がれた。時頼は、1247(宝治元)年には、当時最大の力を持っていた御家人三浦泰村一族を滅ぼして(宝治(ほうじ)合戦)、北条氏の地位を不動のものとした。

2.また時頼は、前将軍の藤原頼経を京都におくり返して子の将軍頼嗣の力を弱め、1246年、頼経および泰時の甥に当たる名越光時(なごえみつとき)らの倒幕計画を抑えた。

3.時頼は、評定衆の会議である評定のもとに新たに引付をおいて引付衆を任命し(1249年)、御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ、敏速で公正な裁判の確立につとめた。

4.やがて幕府は、1252年、藤原将軍の頼嗣にかえて後嵯峨上皇の皇子で10歳の宗尊(むねたか)親王を将軍とした。この皇族将軍は以後4代続くが、いずれも実権はなく名目だけの将軍にすぎなかった。こうして執権政治は時頼のもとでさらに強化されたが、同時に北条氏独裁の傾向をつよめていった。

5.また、朝廷に政治の刷新と制度の改革を求め、これを受けて後嵯峨上皇院に評定衆をおき、幕府は朝廷の内部に深く影響力を持つようになった。

6.時頼は、から来日した蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)を招き、建長寺を建立した。晩年、鎌倉に最明寺を建て出家し、最明寺殿(さいみょうじどの)と呼ばれた。

〈2014立大・経済(経済・会計ファイ)・コミュ福祉(スポーツウェルネス)・観光(観光)

 この人物北条時頼に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。」

 a.元から再三にわたって恭順を求められてきたが、これを拒否した

 b.評定衆の裁判実務を助けるために、その下に新たに引付衆を置いた
 c.源頼家を幽閉し、源実朝を次の将軍にすえた
 d.和田義盛を滅ぼし、侍所別当を兼務した。

(答:b ※a×時頼は1263年死去、元使の初来日は1268年、c×時政の治世のとき、d×義時の治世のとき)〉

〈2013慶大・法 

 合議制の採用や武家法の制定、公平な裁判など、執権政治の隆盛をもたらした泰時の政治は、孫の執権時頼に受け継がれた。1249年、時頼は、敏速で公正な裁判の確立のために訴訟制度の改革を行い。評定衆の会議である評定の下に訴訟機関連して[   ]を新設した。訴訟審理には「三問三答」の原則が適用された。訴人と論人による書面での主張の交換が三往復したのちに、両当事者の出頭が求められ「対決」あるいは「問答」という手続に移り、審理の結果の原案が、[   ]から評定に上程され、評定で出された結論が幕府の裁許として、勝訴者に下知状が渡された.

[   ]における裁判は、当初は、御家人の所領に関する訴訟を対象としていた。しかし、13世紀末頃には、訴訟の内容を基準とする裁判管轄に再編され、御家人訴訟以外も対象とされるようになった。いわゆる民事訴訟は、所領の知行経営(所務)に関する訴訟である所務沙汰と、所務以外の私人間の紛争にかかわる雑務沙汰があり。また、刑事訴訟である検断沙汰を含めた3つの訴訟類型について、それぞれ裁判機関が決められた。

(答:引付衆)〉


北条義時

2018-07-21 | 入試問題+ゴロ合わせ

止しときな和田!」 

和田(わだ)を滅す)(侍所別当(さむらいどころべっとう))(承久(じようきゆう)の)(義時(よしとき))


[ポイント]
1.北条義時は、和田氏を滅し侍所別当に就任、承久の乱に勝利した。

[解説]
1.北条義時(1163~1224)は父時政(ときまさ)を退け、1205年、政所別当となる。

2.和田義盛(よしもり)を滅ぼし(1213年)侍所別当を兼ね、執権(しっけん)の地位を確立した。

3.承久の乱(1221年)では、御家人の力を結集して勝利し、後鳥羽上皇側(西面の武士など)を破り、3上皇を後鳥羽隠岐)・土御門(土佐)・順徳(佐渡)と配流し、仲恭天皇を廃し後堀河天皇を擁立した。

4.六波羅探題を設置し、没収した西国の所領に、地頭職を任命して全国的な支配権を握った。

5.これによって畿内・西国の荘園・公領にも幕府の力が広くおよぶようになった。朝廷では以後も引き続き院政がおこなわれたが、この乱によって、朝廷と幕府との二元的支配の状況は大きく変わり、幕府が優位に立って、皇位の継承や朝廷の政治にも干渉するようになった。

6.なお北条義時は実朝の死後、皇族を将軍に招く交渉をしたが、上皇が拒否して交渉は不調に終った。そこで幕府は、頼朝の遠縁にあたる摂関家出身の幼い藤原頼経を将軍にむかえた。以後2代続いた摂関家出身の将軍を、藤原将軍または摂家将軍とよぶ。

7.9代執権貞時以後に展開するする北条氏独裁は得宗専制と呼ばれるが、得宗とは北条氏嫡流の当主のことで、義時が徳宗と号したことに由来するといわれる。

〈2014明大・農(食料環境政策)

1 1219(承久元)年、将軍の(ア)源実朝が頼家の子公暁によって暗殺され、公暁も殺されると、源氏の血筋が絶え、北条義時は後鳥羽上皇に皇子の将軍職就任を要請した。しかし、あらたに院警護のために[ 1 ]をおいて兵力を増強し、幕府打倒を目指していた後鳥羽上皇はこの要請を拒むとともに、自分に関係する荘園の地頭職の停止を要求するなど、鎌倉幕府との対立を深めた。

 そして1221(承久3)年、後烏羽上皇は、[ 1 ]や畿内近国の武士らに対して義時追討の宣旨を出したが、多くの武士は、頼朝以来の御恩にこたえよという北条政子の呼びかけに応じて幕府に結集した。義時の弟の時房と子の泰時に率いられた幕府軍は、東海・東山・北陸の三道に分かれて京都を攻め、わずか1か月で反乱を鎮圧した。
 この乱後、幕府は(イ)三上皇の配流などの処分を強行し、仲恭天皇に代えて、後堀河天皇を立てた。また、上皇方の責族・武士の西国を中心とする所領3000か所あまりを没収し、戦功のあった東国の武士たちを(ウ)あらたに御恩として地頭に任命した。時房と泰時は乱後も京都にとどまり、[ 2 ]をもうけて、朝廷の監視や京都の警備、尾張(のちの三河)以西の国々の御家人の統括にあたった。こうした乱後の政策によって、幕府の西国支配は飛躍的にすすみ、朝廷の権威がおとろえる一方で、幕府の全国支配がいっそう強化されることになった。

問1 空欄(1)に入る適切な用語を、解答用紙裏面の解答欄に漢字で記入せよ。

問2 空欄(2)に入る適切な用語を、解答用紙裏面の解答欄に漢字で記入せよ。

問3 下線部(ア)源実朝に関連して、源実朝は万葉調の和歌を詠み、歌壇に新風を送ったといわれているが、彼の和歌が残されている歌集は何か。下記から最も適切なものを一つ選べ。
 A金槐和歌集 B金葉和歌集 C山家集
 D新葉和歌集 E万葉集註釈

問4 下線部(イ)三上皇の配流に関連して、三上皇の配流先の組み合わせとして正しいのはどれか。下記から最も適切なものを一つ選べ。
 A 後鳥羽上皇-隠岐、土御門上皇-佐渡、順徳上皇-土佐
 B 後鳥羽上皇-隠岐、土御門上皇-土佐、順徳上皇-佐渡
 C 後鳥羽上皇-佐渡、土御門上皇-隠岐、順徳上皇-土佐
 D 後鳥羽上皇-佐渡、土御門上皇-土佐、順徳上皇-隠岐
 E 後鳥羽上皇-土佐、土御門上皇-隠岐、順徳上皇-佐渡
 F 後鳥羽上皇-土佐、土御門上皇-佐渡、順徳上皇-隠岐

問5 下線部(ウ)あらたに御恩として地頭に任命したに関連して新補地頭に関する記述として誤っているものを、下記から一つ選べ。

 A 承久の乱後に新たに置かれた地頭の得分は、すべて新補率法が適用された。

 B 新補率法が適用された地頭を新補地頭と呼んだ。
 C 新補地頭以外の地頭を本補地頭ともいう。
 D 新補率法は、1)11町につき1町の給田、2)1反あたり5升の加徴米、3)山野河海からの収益の半分を与えるという基準であった。
 E 新補地頭のなかには、現地の荘官・農民や荘園領主との間に新たな紛争を生じさせたものもいた。

(答:問1西面の武士、問2六波羅探題、問3A(金槐和歌集)、問4B、問5A)〉

〈2014文教大学・全学部:「
各問のA、Bの文章を読んで、下の指示にしたがって答えなさい。
A、Bが両方正しい場合は、1をマークしなさい。
Aが正しく、Bが誤っている場合は、2をマークしなさい。
Aが誤っていて、Bが正しい場合は、3をマークしなさい。
A、Bがいずれも誤っている場合は、4をマークしなさい。

問4 
A 平安時代後期、宮中を警備する役目は西面の武士に新たに与えられ、これをきっかけにして、武士の中央進出が始まった。
B 後鳥羽上皇は、院御所を警備する役目を奉公衆に一任し、この武力を用いて北条義時追討を計画した。

(答:A×9世紀末に宇多天皇によって置かれたのは滝口の武士、B×後鳥羽上皇が置いたのは西面の武士)〉

〈2013早大・文:「
 下線c承久の乱について。次の文章のうち、正しいものを2つ選べ。

 ア 後鳥羽上皇が執権北条泰時を打倒するために起こした兵乱である。
 イ この兵乱の前に、後鳥羽上皇は藤原定家等に命じて、『新古今和歌集』を編纂させた。
 ウ 承久の乱において幕府軍が勝利した背景には北条政子の存在があった。
 エ 承久の乱の後、土御門上皇が政務を執るようになった。
 オ 新補率法では免田と加徴米の規定が設けられたが、山川の収益については規定がなかった。

(答:イ〇1205年ころの編纂、ウ〇『吾妻鏡』にみえる尼将軍政子がおこなった幕府草創時のことを振り返る演説が、士気を高めた ※ア×義時の誤り、エ×幕府は仲恭天皇を廃し、後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇を土佐(のちに阿波)に、順徳上皇を佐渡に流した。オ×(1)田畑11町ごとに1町の土地、(2)田地1段につき5升の米(加徴米)、(3)山や川からの収益の半分、をそれぞれ地頭にあたえるものであった。)〉

〈2013上智大・法総合人間科神外国語:「
G(承久の乱)近會(ちかごろ)( ア )の成敗と称し、天下の政務を乱る。纔(わずか)に将軍の名を帯ぶると雖も、猶以て(c)幼稚の齢(よわい)に在り。然る間、彼の( え )朝臣、偏(ひと)へに言詞を教命に仮り、恣(ほしいまま)に裁断を都鄙に致す。剰へ己が威を耀かし、皇憲を忘れたるが如し。これを政道に論ずるに、( お )と謂ふべし。早く五畿七道の諸国に下知し、彼の朝臣の身を追討せしめよ。兼て又諸国・庄園の( ウ )人・( キ )等、言上を経べきの旨あらば、各(おのおの)(d)院庁に参り、宜しく上奏を経べし。

問1 上記の史料Gにもっとも関係の深い事柄を、次から1つ選びなさい。
 1徳政一揆 2下地中分  3源平の争乱 4守護請  5貞永式目
 6土一揆  7建武の新政 8新補率法  9戦国家法 10半済令
 11国一揆  12悪党   13建武式目  14徳政令  15承久の乱

問2 前掲の史料Gの空欄(ア・ウ・キ)に当てはまるもっとも適切な語句を、次から1つずつ選びなさい。

 1国司 2凡下  3惣領  4式目  5畠山
 6官物 7名主  8国人  9加地子 10近江
 11地頭 12知行国  13加徴米  14山城  15細川 
 16守護 17年貢   18大和   19家臣  20関東

問3 前掲の史料Gの下線部c~dの人物について、次の問いの答えとしてもっとも適切なものを、以下の語群より1つずつ選びなさい。

 cこの人物は誰を指しているか。
 dこの時期の院(治天の君)は誰か。

〔語群〕
 1宗尊親王  2後宇多天皇 3北条貞時 4亀山天皇
 5後鳥羽上皇 6北条高時  7久明親王 8北条守時
 9白河上皇  10守邦親王  11藤原頼嗣 12光厳天皇
 13藤原頼経  14後醍醐天皇 15北条時宗 16後白河上皇

問4 前掲の史料Gの空欄(え)~(お)に当てはまる人物または事柄について、もっとも関係深くかつ正しい説明を、次から1つずつ選びなさい。
 1宝治合戦で三浦泰村を討った。
 2皇室・寺社に対して敬意を失する罪。
 3中世武士の同族結合のこと。
 4所領を売却した元の所有者のこと。
 5段別5升の兵粮米を徴収する権限が認められた。
 6評定衆を設置した。
 7歴史を貫く普遍的な公正観のこと。
 8律令格式に系譜を引く朝廷の法。
 9皇居を破壊しようと謀る罪。
 10有力名主から武家の被官となる者もあった。
 11所領を譲与した被相続人のこと。
 12八虐の一。律で定められた最も重い国家反逆罪で斬刑にあたる。
 13六波羅探題を設置した。
 14所領を現実に関連している者のこと。
 15武士社会の慣習・道徳に基づくもので公平と認められたこと。

(答:問1G15(承久の乱)、問2ア20(関東)、ウ16(守護)、キ11(地頭)、問3c13(藤原頼経)、d5(後鳥羽上皇)、問4え13(北条義時)、お12(謀反(むへん)))〉

〈2013早大・法:「8 得宗の名の由来になった法名をもつ執権の名前として正しいものを1つ選べ。

 あ 北条時政 い北条義時 う北条泰時
 え北条時頼   お北条長時

(答:い)〉

〈2012立教大・全学部:「
8.この年(1221)についての説明として正しくないのはどれか。

a.将軍職に、摂家将軍である九条頼経が就いていた
b.北条政子は朝廷側に対する御家人の結束を説いた
c.北条義時が政所・侍所別当として実権を握っていた
d.北条義時の弟である北条時房も京都に赴いた

(答:a※九条頼経が摂家将軍に就任したのは1226年)〉


北条時政の失脚

2018-07-20 | Weblog

る時政 まっぴらと

1205年・政 平賀朝雅 牧の方の女婿(じよせい))(の方)

[ポイント]

1.北条時政1205年牧の方女婿を将軍に擁立しようとして失脚した。

 1205.7 有力御家人の畠山重忠を謀殺する。
    .9 後妻牧の方の娘婿平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍に擁立せんとして失敗失脚。

 [解説]
6.畠山重忠は、1205年、時政に滅ぼされた。台頭してきた牧氏(牧の方は時政の後妻)と対立。さらに時政が、畠山氏の所領武蔵国を奪わんとしたことが、衝突の原因である。

 7.時政牧氏の勢力が、1205年に実朝を殺害して牧の方の娘婿である平賀朝雅を将軍に立てようとする陰謀事件がおこった。時政の前妻の産んだ子である北条政子および北条義時がこれを阻止、時政は引退させられて伊豆に隠棲した。

 2015早大・文

3 下線b.鎌倉時代は政争が多いねに関連して、鎌倉時代の政争や事件の説明として正しいものを1つ選べ。

 ア 源頼家は比企能員の乱で殺された。

 イ 北条時政は平賀朝雅の将軍擁立に失敗して引退した。
 ウ 政所別当和田義盛は挙兵して討たれた。
 エ 源実朝が公焼に殺されたため、皇族将軍が迎えられた。
 オ 名越光時は宝治合戦で一族とともに滅亡した。

(答:イ ※ア北条氏の討手により修禅寺にて謀殺、ウ和田義盛は侍所別当、エ迎えられたのは摂家将軍頼経、オ名越光時は摂家将軍頼経を支持する反北条得宗家の中心御家人で、頼経京都送還失脚、配流された)〉


北条時政の覇権

2018-07-20 | 入試問題+ゴロ合わせ

 

●鎌倉時代(土御門天皇 北条時政)

 1203(建仁3 〈北条時政、執権就任〉

Hōjyō Tokimasa assumes the office of shogunal regent.

人に推される 時政ね。

 1203年  比企能員      北条時政 源実朝

 

源頼朝の死後、その子頼家が家督を継いだが統率力に欠け、妻の実家の比企氏を重んじた。1203年、頼朝の妻政子の父北条時政比企能員と頼家の子一幡を討ち(比企氏の乱)、頼家を幽閉して新たに実朝を将軍に立てた。そして自らは政所の長官となり、執権として幕府の実権を握った。

 

 

 

 


[ポイント]

1.北条時政は、源頼家梶原氏比企氏を滅し源実朝を擁立した。

1199.1 頼朝死去。源頼家、家督を継ぎ2代将軍となる。
     .4 北条政子・時政が源頼家の権力を制限し、13名の有力御家人による合議制を布く。
1200.1 梶原景時(かじわらかげとき)(頼朝の側近で有力御家人)追討
1203.9 比企能員(ひきよしかず)(頼家の義父)の乱。
      
時政、頼家を伊豆の修禅寺に幽閉。
            実朝を3代将軍に擁立。
            時政、政所別当(初代執権)となる。

1204.7 頼家、修禅寺で謀殺される。

[解説]
1.北条時政(1138~1215)は、初代執権。頼朝の死後、1199年、娘政子とともに、2代将軍頼家が自ら訴訟を裁くことを禁じ、大江広元・三善康信らの貴族出身の頼朝側近と、北条時政・梶原景時・三浦義澄・比企能員・和田義盛ら有力御家人からなる13人の合議制をしいた。

2.頼朝在世中、側近として辣腕を振るっていた侍所別当・梶原景時が、下総の有力御家人結城朝光を頼家に告げ口したとして、有力御家人が連署して糾弾する事態となった。時政らは、1200年、景時を失脚させ滅ぼした(梶原景時の変)

3.時政は、1203年、頼家が重病に冒されると、後継将軍の選定をめぐって、頼家の妻の父である比企能員と対立し、能員をおびき出して殺害し、その一族を頼家の長男一幡ともども滅してしまった。

4.時政は、後継将軍を頼家の弟で12歳の実朝とし、頼家は廃され時政の本拠地である伊豆に幽閉されて、1204年、殺害された。

5.時政は、大江広元に並んで政所別当になり、さらに時政の署名で将軍の命令を伝達する「下知状」という新しい形式の命令書を作り出して幕府政治を動かすようになった。これをもって時政を初代執権とみる。

〈2013青山学院大・文教育経済法経営など

A.源平の争乱を制し、鎌倉幕府を開いた源頼朝は1199年の正月に亡くなる。前年に相模川の橋の完成式に参加した帰途、落馬したことによるといわれている。頼朝の死後、頼家が将軍を継ぐと母の北条政子と祖父の[ ア ]は頼家の独裁をおさえ、有力御家人による[ イ ]人の合議制による政治を行おうとして頼家と対立することになる。それとともに有力な御家人の間でも幕府の主導権をめぐる争いが続き、多くの御家人が滅んで行った。頼家の後見人武蔵の豪族[ ウ ]もその1人であった。
 1203年、将軍頼家を廃した[ ア ]は弟の実朝を第3代将軍とし、将軍補佐を名目として、幕府の実権を握ることになる。この[ ア ]の地位は[ エ ]とよばれ、子の義時に継承される。

問1.空欄[ ア ]に当てはまる人名を、次の1~4の中から一つ選べ。

 1.北条時頼 2.北条時政
 3.北条義時 4.北条時宗


問2.空欄[ イ ]に当てはまる数字を、次の1~4の中から一つ選べ。


 1.9 2.11 3.13 4.15


問3.空欄[ ウ ]に当てはまる人名を、次の1~4の中から一つ選べ。

 1.和田義盛 2.三浦泰村
 3.八田知家 4.比企能員


問4.空欄[ エ ]に当てはまる語句を、次の1~4の中から一つ選べ。


 1.別当 2.連署 3.管領 4.執権」

(答:問1→2(時政)、問2→3(13)、問3→4(比企)、問4→4(執権))〉


第2次近衛文麿内閣

2018-07-19 | 入試問題+ゴロ合わせ

不意三国体制報告中立交渉独走。

(北部仏印進駐)(日独伊三国同盟・大政翼賛会(たいせいよくさんかい))(大日本産業報国会)(日ソ中立条約・日米交渉開始・独ソ戦争開始)


[point]

1.第2次近衛内閣は、北部仏印進駐日独伊三国同盟締結→大政翼賛会結成→大日本産業報国会結成→日ソ中立条約締結→日米交渉を開始、と政策を進めた。

[解説]

1.第2次近衛内閣(1940.7/22~1941.7/18)は、成立後、組閣に先立って近衛と陸・海・外相予定者との会談で、欧州大戦不介入方針からの転換、ドイツ・イタリア・ソ連との提携強化、積極的な南方への進出(南進)の方針が定まった。南進政策には、ドイツに降伏したヨーロッパ諸国の植民地(フランス領インドシナ・オランダ領東インド)を影響下におくことのほか、援蔣ルートを遮断して停滞した戦局を打開するねらいもあった。こうして9月、日本軍は北部仏印に進駐(1940.9/23)した。

2.ほぼ同時に日独伊三国同盟(1940.9/27)を締結した。三国は、ヨーロッパとアジアの「新秩序」における指導的地位を相互に認め、第三国からの攻撃に対しては、たがいに援助しあうことを約した。ソ連に対しては除外規定があり、アメリカを仮想敵国とする軍事同盟で、結果的にはアメリカの強い反発を招いた。


3.三国同盟の提携強化のためにドイツ・イタリアを訪問していた松岡洋右外相は、帰途モスクワで日ソ中立条約を結んだ(1941.4/13)。これは南進政策を進めるためには、北方での平和を確保するばかりでなく、悪化しつつあったアメリカとの関係を日ソ提携の力で調整しようとするねらいもあった。


4.第1次近衛内閣の時から進められた新体制運動は、大政翼賛会として結実(1940.10/12)した。しかし、大政翼賛会は当初めざした政党組織ではなく、総裁を総理大臣、支部長を道府県知事とし、部落会・町内会・隣組を下部組織とする官製の上意下達機関となった。

5.第1次近衛内閣の時から、国家主義・軍国主義を鼓吹し、節約・貯蓄など国民の戦争協力をうながすため、国民精神総動員運動を展開してきた。総力戦の遂行に向けて労働者を全面的に動員するため、労資一体で国策に協力する産業報国会の結成も進められた。1938(昭和13)年、資本家団体や労働組合幹部を集めて産業報国連盟が結成される一方、警察の指導で各職場ごとに労資一体の産業報国会を組織し、既存の労働組合も一部これに改組させた。連盟が全国組織の大日本産業報国会(1940.11/23)となり、すべての労働組合が解散させられた時には、その単位会数は7万、組織人員は418万人であった。

6.三国同盟の締結は、アメリカの対日姿勢をいっそう硬化させることになった。第2次近衛内閣では、日米衝突を回避するため日米交渉を開始(1941.4/16~11)した。前年末の日米民間人同士の交渉が、駐米大使野村吉三郎ハル国務長官とのあいだの政府間交渉に発展したものである。

7.1941年6月、ドイツが突如(同盟国である日本に通告なく)ソ連に侵攻して独ソ戦争がはじまった。これに対応するためにひらかれた7月2日の御前会議は、軍部の強い主張によって、対米英戦覚悟の南方進出と、情勢有利の場合の対ソ戦(北進)とを決定した。第2次近衛内閣は日米交渉の継続をはかり、対米強硬論をとる松岡外相を除くためいったん総辞職した。

2017南山大・外(英米)総合

問29 下線部d1941年、日米交渉がおこなわれたについて述べた文として、誤っているものを、下記のア~エから選びなさい。

 ア 日米の衝突を避けるため、第2次近衛文麿内閣の時に、政府間交渉が始まった。

 イ 日本軍の南部仏印進駐を受け、アメリカは在米日本資産を凍結し、対日石油輸出を禁止した。
 ウ 独ソ開戦を受け、近衛内閣は、対米強硬論を主張する閣僚を除くため、いったん内閣総辞職をおこなった。
 エ 中国・仏印からの全面的無条件撤兵等を要求するハル=ノートが提示されると、第3次近衛内閣は、対米開戦を決定した。」

(答:エ× ※開戦決定は東条英機内閣)〉


2017慶大・文

 次の文章を読んで、空欄(A~O)に該当する適当な語句をそれぞれの語群の中から選べ。語群の中に適当な語句がない場合は0を記入しなさい。

 1937年、( K )をきっかけに、宣戦布告のないまま日中戦争がはじまると、戦時体制の強化をはかった( L )内閣は、国民精神総動員運動を主導し思想統一をはかり、1938年には( M )を制定して物資や労働力編制を行った。1939年には軍需産業への労働力動員のため( N )が定められた。また、労使協調・国策協力のため、各職場に( O )がつくられるなど、総力戦体制が目指された。


 1柳条湖事件 2西安事件

 3近衛文麿 4平沼騏一郎
 5東条英機 6国家総動員法
 7国民徴用令 8隣組
 9大政翼賛会」

(答:K0(盧溝橋事件)、L3,M6、N7、O0(産業報国会))


2017関西学院大・全学部

問9  次のa・bの正誤を判断せよ。

 a.ドイツがソ連に侵攻を開始すると、日本は日ソ中立条約を締結する一方、資源確保のために北部仏印進駐を実行した。


 b.日本の南部仏印進駐以降さらに悪化した対米関係について、期限を切って交渉が成功しない場合は開戦に踏み切るという、帝国国策遂行要領が御前会議で決定された。


(答:a×北部仏印進駐(1940.9)と日ソ中立条約(1941.4)は、独ソ戦(1941.6)の前、b〇)〉


2017早大・国際教養

問1  下線部1Matsuoka Yosukeの人物に関する記述として、間違っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 日独伊三国同盟の締結に関与した。

 イ 日本の国際連盟からの脱退を宣言した。
 ウ 第二次近衛内閣の外相を務めた。
 エ 日ソ中立条約の締結に関与した。
 オ 第二次大戦後は、A級戦犯としては訴追されなかった。」

(答:オ× ※ただし判決前に結核で病死)〉


2013法政大・法国際文化キャリアデザイン

問8 下線部(8)北部仏印(フランス領インドシナ)への進駐に関係する説明として正しいものをつぎのア~エのなかから一つ選べ。

 ア アメリカ合衆国はこれを非難して石油の対日輸出禁止に踏み切った。

 イ 日本はベトナムの独立と親日政権の樹立を目的としていた。
 ウ 日本はこれに先だって南部仏印進駐を行っていた。
 エ この直後、日独伊三国同盟が結ばれた。」

(答:エ〇 ※ア×石油の対日輸出禁輸は南部仏印進駐(1941年7月)直後の8月、イ×主に資源の確保、ウ×日本に近い北部が先)〉


五摂家

2018-07-17 | Weblog

憎いタコ。   

(五摂家(ごせつけ)・鷹司(たかつかさ))(条(くじょう)・衛(このえ))(二条(にじょう)・条)

[ポイント]
1.五摂家とは近衛九条鷹司二条一条の五家のことである。

[ポイント]
1.五摂家とは藤原北家の5つの家柄。この5家が順次に摂政・関白をつとめた。

2.頼朝の奏請で九条兼実が摂政になったのを契機に近衛九条にわかれた。          

3.鎌倉中期に近衛から鷹司が、九条から二条一条がわかれ(頭が数字の三家が同系)、計5家となった。      

4.華族制度の制定の際、五摂家公爵御三家は格下の伯爵とされた。             

〈2014慶大・法

 首相候補にあげられた[ a ]は、兵器の近代化を含む軍縮を行った経歴を持つため、陸軍の反発を受け政権樹立には至らず、陸軍出身の人物に白羽の矢が立ち、この人物が政権を樹立した。第[ b ]回総選挙は、少数の与党勢力しか持たないこの内閣が、予算成立直後、解散に打って出て実施されることになった。政党政治の下で実施された選挙は腐敗していたとの反省に立ち、清潔公正な選挙を目指す選挙粛正運動下で実施されたため、第[ b ]回総選挙は、前回の総選挙とともに「粛正選挙」とも呼称される。「粛正選挙」は、事実上、政府による候補者推薦制が導入された次の総選挙の前段としても位置づけられている。第[ b ]回総選挙で、政権は、与党多数を目指したが、その目的を達することが出来ず4ヶ月で崩壊し、[ c ]にまで遡ることができる人物に引き継がれた。その家は、天皇家と結びつきを強め権勢を振るった[ c ]から分かれた五家の中の筆頭であった。」

(答:a宇垣一成、b20、c藤原北家 ※原問題には94の選択肢がある。また「20回」は付表から読み取れる〉      

〈2014明大・法(法律)

 五摂家とは、[ ア ]・九条・二条・一条・鷹司の五家をいうが、空欄(ア)に該当する家名を記しなさい。」

(答:近衛)〉