広くし大西 疾く江戸に。
1694年 大阪 二十四組問屋 十組問屋 江戸
(江戸・十組(とくみ)問屋)(大坂・二十四組問屋(にじゅうし(よ)くみといや))
[ポイント]
1.大坂に荷積みの二十四組問屋、江戸には荷受けの十組問屋があった。
[解説]
1.全国市場が確立し、17世紀後半、江戸の十組問屋(とくみといや)や大坂の二十四組問屋(にじゅうしくみといや)は、江戸・大坂間の荷物運送の安全、海損の共同保障、流通の独占をめざして、多様な職種からなる問屋仲間の連合組織がつくられた
2.積み荷が横領されるなどの不正行為が頻発したため、これを防ぎ荷主の立場を強化するため、江戸の問屋商人が結集して、まず十組問屋という問屋仲間を結成。荷積み側の大坂でも、江戸の動きに呼応して、二十四組問屋を結成。私的な問屋仲間としてはじまるが、後には排他的な組織、株仲間となる。江戸で不足する品物を大坂に発注。大坂では、十組問屋の注文を受けて商品を買い集め、菱垣廻船で送る。十組問屋と二十四組問屋の連携により、横領・盗難などの積荷に関するもめ事は激減し、江戸中期には隆盛をきわめた。
〈2013早大・文化構想:「
問7 下線f江戸時代になると太平洋・日本海にも広く廻船による海運が発達するに関連する説明として、正しいものはどれか。1つ選べ。
ア 蝦夷地・東北の物資を、松前・日本海沿岸・下関を経由して上方に運ぶ松前船が盛んに往来した。
イ 江戸時代初期に堺商人によって樽廻船が創始され、上方と江戸の間を回漕した。
ウ 樽廻船は十組問屋と提携しに酒荷を上方から江戸へ輸送して菱垣廻船を圧倒した。
エ 江戸の商人河村瑞賢は、諸藩による海運整備の動きの高まるなか、東廻り・西廻り両航路を改良・整備した。
オ 南海道を通じて上方から江戸にもたらされる物資は「下り物」とも呼ばれた。
(答:エ ※ア松前船→北前船、イ×江戸時代初期→中期、オ×南海道→南海路)〉
1730(享保15)年 樽廻船 1694年(元禄7年)に不正や海難事故防止のために大坂で二十四組問屋、江戸で十組問屋がそれぞれ結成され、菱垣廻船は両問屋に所属することが義務付けられた。菱垣廻船において酒樽は下積荷物であったが、海難の際に破棄される上積荷物に対する補償は、問屋が共同で負う義務があった。また、腐敗しやすい酒は輸送時間の短縮が重要だったが、多様な荷を乗せる菱垣廻船は出帆するまでに長い日数を必要とした。これらに不満を持つ酒問屋は1730年(享保15年)に脱退し、酒専用の樽廻船問屋を結成し、独自の運営をはじめた。
避難されたる 酒の樽。
1730 酒専用 樽廻船
〈2012同社大・文系全学部:「
【設問k】このうち、海難事故における不正等から白分たちの権益を守るために、元禄7年(1694)に成立した江戸の問屋仲間の連合組織の名称を漢字で記せ。」
(答:十組問屋)〉
〈2012関西学院大・済国際総合:「
7.下線部g十組問屋や二十四組問屋に関する説明として、誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しい場合は「エ」をマークしなさい。
ア.十組問屋は江戸に、二十四組問屋は大坂に成立した。
イ.江戸・大坂間の安全な荷物運送と取引の円滑化をめざして結成された。
ウ.十組問屋と二十四組問屋は、いずれも18世紀の半ばに結成された。
(答:ウ× ※17世紀後半に結成)〉