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江戸大坂主要株仲間

2017-06-30 | 生物暗記法

広くし大西 疾く江戸に。

 1694年 大阪 二十四組問屋 十組問屋 江戸



江戸十組(とくみ)問屋)(大坂二十四組問屋(にじゅうし(よ)くみといや))



[ポイント]

1.大坂に荷積みの二十四組問屋江戸には荷受けの十組問屋があった。

[解説]

1.全国市場が確立し、17世紀後半江戸十組問屋(とくみといや)や大坂二十四組問屋(にじゅうしくみといや)は、江戸・大坂間の荷物運送の安全、海損の共同保障、流通の独占をめざして、多様な職種からなる問屋仲間の連合組織がつくられた

2.積み荷が横領されるなどの不正行為が頻発したため、これを防ぎ荷主の立場を強化するため、江戸問屋商人が結集して、まず十組問屋という問屋仲間を結成。荷積み側大坂でも、江戸の動きに呼応して、二十四組問屋を結成。私的な問屋仲間としてはじまるが、後には排他的な組織、株仲間となる。江戸で不足する品物を大坂に発注。大坂では、十組問屋の注文を受けて商品を買い集め、菱垣廻船で送る。十組問屋と二十四組問屋の連携により、横領・盗難などの積荷に関するもめ事は激減し、江戸中期には隆盛をきわめた。


2013早大・文化構想:「

問7 下線f江戸時代になると太平洋・日本海にも広く廻船による海運が発達するに関連する説明として、正しいものはどれか。1つ選べ。

 ア 蝦夷地・東北の物資を、松前・日本海沿岸・下関を経由して上方に運ぶ松前船が盛んに往来した。

 イ 江戸時代初期に堺商人によって樽廻船が創始され、上方と江戸の間を回漕した。
 ウ 樽廻船は十組問屋と提携しに酒荷を上方から江戸へ輸送して菱垣廻船を圧倒した。
 エ 江戸の商人河村瑞賢は、諸藩による海運整備の動きの高まるなか、東廻り・西廻り両航路を改良・整備した。
 オ 南海道を通じて上方から江戸にもたらされる物資は「下り物」とも呼ばれた。

(答:エ ※ア松前船→北前船、イ×江戸時代初期→中期、オ×南海道→南海路)〉

1730(享保15)年 樽廻船 1694年元禄7年)に不正や海難事故防止のために大坂で二十四組問屋、江戸で十組問屋がそれぞれ結成され、菱垣廻船は両問屋に所属することが義務付けられた。菱垣廻船において酒樽は下積荷物であったが、海難の際に破棄される上積荷物に対する補償は、問屋が共同で負う義務があった。また、腐敗しやすい酒は輸送時間の短縮が重要だったが、多様な荷を乗せる菱垣廻船は出帆するまでに長い日数を必要とした。これらに不満を持つ酒問屋は1730年享保15年)に脱退し、酒専用の樽廻船問屋を結成し、独自の運営をはじめた。

避難されたる 酒の樽。

1730       酒専用 樽廻船


2012同社大・文系全学部:「
【設問k】このうち、海難事故における不正等から白分たちの権益を守るために、元禄7年(1694)に成立した江戸の問屋仲間の連合組織の名称を漢字で記せ。」

(答:十組問屋)〉


2012関西学院大・済国際総合:「

7.下線部g十組問屋や二十四組問屋に関する説明として、誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しい場合は「エ」をマークしなさい。

 ア.十組問屋は江戸に、二十四組問屋は大坂に成立した。

 イ.江戸・大坂間の安全な荷物運送と取引の円滑化をめざして結成された。
 ウ.十組問屋と二十四組問屋は、いずれも18世紀の半ばに結成された。

(答:ウ× ※17世紀後半に結成)〉

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第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展 2節 東ヨーロッパ世界の成立

2017-06-30 | ベック式!世界史用語集

ア.ビザンツ帝国の繁栄と衰亡

■ポイント ローマ帝国を継承しながら、独自の発展を遂げたビザンツ帝国のあゆみを理解する。
ビザンツ帝国  394年 ローマ帝国の東西分裂 → 東ローマ帝国の形成。

解説

ビザンツ帝国の始まりは、330年のコンスタンティノープルの建設、395年のローマ帝国の東西分裂による東ローマ帝国の分離、さらに西ローマ帝国が滅亡して東ローマが唯一の「ローマ帝国」となった476年などに求めることが出来るが、定説はない。いずれにせよローマ帝国を継承した国家であり、首都コンスタンティノープルは第二のローマと言われたのであるが、その地域性から次第にギリシア的性格が強くなり、西方教会(ローマ教会)と分離した結果、7世紀頃からコンスタンティノープルの古称であるビザンティウムに由来する「ビザンツ帝国」と言われるようになった。
  • ゲルマン人の侵入をあまり受けず、ローマの伝統を維持。
     → 商業とa 貨幣経済  ( ノミスマ金貨 を発行)の繁栄が続く。
  • 都b コンスタンティノープル  (旧名c ビザンティウム )の繁栄。
  • 政治体制:d ローマ帝国以来の官僚制を継承し、その頂点の皇帝は専制君主として権力を維持した。   
  • 特徴:皇帝は教会の首長を兼ねるe 皇帝教皇主義  にたち、f ギリシア正教会 を直接支配。
     →  西ローマ帝国滅亡後、地中海世界の統一の再現を目指す。
ユスティニアヌス帝  在位527~565年 ビザンツ帝国の最盛期となる。
ユスティニアヌス帝
B ユスティニアヌス帝 

Text p.133

  • ヴァンダル王国  、b 東ゴート王国 を征服。
     → 地中海の旧ローマ帝国領を回復。
  • 東方ではc ササン朝ペルシア のホスロー1世と対抗。
     → 交易ルートがメソポタミアや・紅海からアラビア半島内陸部に移る。
  •  「ローマ法大全」 を集成。トリボニアヌスらに命じ、534年完成。
  •  バギア=ソフィア聖堂 を建設。ビザンツ様式の代表的建造物。(後出)
  • 中国からf 養蚕技術 を学び、絹織物業を起こす。
6世紀 次第にギリシア化が進む。

地図 ビザンツ帝国とその周辺(6世紀)

6世紀のビザンツ帝国全盛期
・征服されたゲルマン諸国  a 東ゴート王国   b ヴァンダル王国 
・周辺諸国  c フランク王国   d 西ゴート王国   e ササン朝ペルシア 
・主要都市 1 コンスタンティノープル   2 テッサロニケ   3 ラヴェンナ   4 ローマ 
      5 ミラノ   6 コルドバ   7 カルタゴ   8 アレクサンドリア 
      9 イェルサレム   10 ダマスクス   11 アンティオキア   12 クテシフォン 
C 領土の縮小
  • イタリアの大半をa ランゴバルド王国  、b フランク王国 に奪われる。
  • 7世紀 ▲c ヘラクレイオス1世   ササン朝、アヴァール人の侵入を防ぎ中央集権体制を強化。
     → アラブ人のd イスラーム勢力 の侵入が始まる。

    解説

    ギリシアの火674~678年にはイスラーム海軍がコンスタンティノープルを包囲し、陥落寸前までいったが、ビザンツは秘密兵器「ギリシアの火」を繰り出して撃退した。左は14世紀に描かれた、「ギリシアの火」の図。さらに717~718年にもコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオン3世が指揮するビザンツ軍が防衛に成功した。この時期はイスラームの正統カリフ時代からウマイヤ朝の時期にあたるが、750年にアッバース朝に替わりイスラーム世界の中心が東方のバグダードに移されると、ビザンツもその脅威を直接受けることは少なくなる。 
     → e シリア・エジプト  を失う。
  • バルカン北部にf スラヴ人  が大量に移住。
  • さらに北方にはg トルコ系  のh ブルガール人  がi ブルガリア帝国  を建設。
東西キリスト教世界の分離  8世紀 フランク王国と結んだローマ=カトリック教会と対立。
  • 726年 ビザンツ皇帝レオン3世、a 聖像禁止令  を出す。(前出)
  • 800年 フランク王国d カール大帝  、ローマ皇帝の戴冠。 → ビザンツ皇帝との対立強まる。
      → 後にビザンツ帝国でもb 聖像画(イコン) を作成するようになる。(後出)
  • 1054年、ローマ教皇がコンスタンティノープル総主教を破門、最終的に分裂。
E ▲マケドニア朝の繁栄 867年 a バシレイオス1世   世襲王朝を開く。

解説

ビザンツ帝国では7世紀以降に皇帝の世襲が一般化したが、クーデタによる皇帝位の廃位などがたびたび起こり、王朝が交替した。その変遷をまとめると次のようになる。
 ヘラクレイオス朝(610~711)→マケドニア朝(867~1056)→コムネノス朝(1081~1185)→アンゲロス朝(1185~1204)→ラテン帝国の支配(1204~1261)→パライオロゴス朝(1261~1453)
 この間は、「中世ローマ帝国」とも言われる。ヘラクレイオス朝・マケドニア朝時代は独自の国家体制をとって繁栄したが、コムネノス朝からは衰退期に入った。それでもなお400年の命脈を保ち、1453年オスマン帝国によって滅ぼされるまで存続する。
  • 10~11世紀 一時勢力を盛り返す。b 軍管区制  、c 屯田兵制  を充実させる。(後出)
      → キエフ公国と結ぶ。キエフ公国のウラディミル1世、ギリシア正教に改宗(後出)。
  • 1018年 バシレイオス2世、d ブルガリア帝国  を破り、併合する。
ビザンツ帝国の衰退  11世紀末  貴族の大土地所有が復活。
    • 1071年 a セルジューク朝 が小アジア侵入。b マンジケルトの戦い で敗れる。
       コムネノス朝アレクシオス1世、ローマ教皇に援助要請。→ 西ヨーロッパ諸国、c 十字軍運動  の開始。
    • 1204年 ヴェネツィアなどを中心としたd 第4回十字軍 がe コンスタンティノープル を占領。
       → f ラテン帝国 を建国。

解説

ラテン帝国はフランドル伯ボードワンを皇帝としていたが、第4回十字軍の主体はヴェネツィア共和国であったので、実質はヴェネティアの植民地であった。これによってビザンツ帝国は一時コンスタンティノープルから追い出され、滅亡の危機に陥った。ビザンツ帝国の遺臣は、その周辺に亡命政権を建て、コンスタンティノープル奪回をねらった。その中では小アジア西部のニケーア帝国、東北部のトレビゾンド、西ギリシアのエピロスなどがあった。ラテン帝国は約半世紀間、コンスタンティノープルを支配し、ギリシア正教を否定してローマ教会の信仰を強要しようとした。しかし、1261年、ニケーア帝国のミハエル8世によって倒され、ビザンツ帝国が復活し、以後パライオロゴス朝が存続する。ただし、その後のビザンツ帝国はかつての栄光とはほど遠く、その支配はコンスタンティノープルの周辺とギリシアの一部にとどまっていた。
  • 1260年 ビザンツ帝国は復活したが、その支配領域は首都の周辺に限られた。
ビザンツ帝国の滅亡  14世紀、トルコ人のa オスマン帝国  が小アジアに興こる。(後出)
  • 1453 年 b コンスタンティノープルの陥落     ビザンツ帝国滅亡 。
先頭へ

Text p.134

 

用語リストへイ.ビザンツ帝国の社会と文化
■ポイント ビザンツ帝国の特色ある社会のしくみと、文化のありかたを理解する。
1.ビザンツ帝国の社会
軍管区制(テマ制) 
    • 初期ビザンツ帝国 ローマ帝国以来のコロヌス制による大土地所有制度が支配的であった。
    • 7世紀以降、異民族の侵攻が激しくなる。 → 軍政と行政を統合した制度が採用される。
    • A 軍管区制(テマ制)   = 帝国をいくつかの軍管区に分け、その軍司令官に軍事権と行政権を与える。
    •  屯田兵制   = 軍管区司令官が部下の兵士に土地を分与し、代わりに世襲の兵役義務を負わせる。
       → 小土地所有の自由農民が増加。 → 10世紀頃完成。

解説

軍管区制とは、ビザンツ帝国中期(7~11世紀)の軍事的な地方制度で、帝国の各地に軍管区(テマ)を置き、指揮官にその地方の軍事権と当時に行政、司法の権限も与えその地方を掌握する方式である。軍隊の兵士には農地が与えられ、平時には農耕に従事し、租税を負担するとともに、戦時には装備を自弁して戦闘に参加する屯田兵制と組み合わされていた。ユスティニアヌス帝時代にはローマ帝国の制度を継承し、辺境には属州総督が置かれていたが、7世紀頃から北方からのスラヴ人、東方からのアラブ人の侵攻が激しくなったことに対応し、ヘラクレイオス朝で原型ができた。しばしばテマの反乱も起こったが、10世紀には軍管区制が完成し、ビザンツ帝国はこの制度を通じて中央集権的な国家体制を維持できた。しかし、11世紀になると軍管区制は崩れ、貴族による大土地所有が広がり、プロノイア制に切り替えられていく。
  • 東ヨーロッパ社会の特徴 b 軍管区制・屯田兵制のもとで、封建社会の形成は遅れた。  
プロノイア制  = 貴族に国有地を貸与して軍役を奉仕させ、土地管理を委ねる制度。
  • 11世紀以降は貴族が封建領主化し、農奴制による大土地所有制がひろがった。
2.ビザンツ文化
    • 特徴 a 古代ギリシア文化とギリシア正教を融合させた文化である。  
       → 西欧の、ラテン語とローマカトリック的文化とは明確に異なる独自の文化を発展させた。
    •  ギリシア語  を公用語とする。 → ギリシアの古典研究を受け継ぐ。

Text p.135

    •  ギリシア正教  のキリスト教神学が学問の中心となる。 → ローマ教会とのd 聖像崇拝論争  
    • 美術・建築 d ビザンツ様式 の成立。
      特徴は、e ドーム  とf モザイク壁画  
       g ハギア=ソフィア聖堂  (コンスタンティノープル)

      解説

      ハギア=ソフィア聖堂(聖ソフィア寺院)は6世紀の柚須ティナヌス帝の時に再建された。ビザンツ様式のドームはその時のものである。後にコンスタンティノープルがオスマン帝国軍によって陥落し、外側に4本の尖塔(ミナレット)が新たに建設されて、イスラーム教のモスクとされた。下の左は画像からミナレットを除去し、モスク以前の姿を再現してみた。右は現状。
      本来の聖ソフィア寺院イスラーム寺院となった聖ソフィア寺院
        → コンスタンティノープルがオスマン帝国に征服されてから、モスクに改装された。
       h サン=ヴィターレ聖堂  (イタリアのラヴェンナ)
       i イコン(聖像画)  の制作 ギリシア正教の信仰の対象となる。

解説

イコンイコンはギリシア正教会の教会で用いられた聖人を描いた聖画像のことで、ギリシア語で「イメージ」の意味。イエス、マリア、聖人の画像を崇拝すること通して信仰を深める、重要なものとされ、印刷術が普及するまでは、聖書の教えは、イコンを媒介として伝えられていた。
 7世紀になってイスラーム教の攻勢が東方から激しくなると、小アジアの住民から、厳格な偶像崇拝の禁止を求める声が起こり、それを受けて726年にビザンツ皇帝レオン3世が聖像禁止令を出すとローマ教会との間に聖像崇拝論争が起こった。ビザンツ領内では聖像破壊運動が盛んになって多くのイコンが破壊された。しかし、特にスラヴ人の中にはイコンの復活を求める要求が強く、843年に禁止令は解除され、その後、ビザンツ世界=ギリシア正教では「イコン」の制作が復活、ロシアなどでは信仰の様々な場面で現在も使われている。 
  • ビザンツ文化の世界史的意義
     古代ギリシアの文化遺産を継承し、後のイタリア=ルネサンスに大きな影響を与えた。  
      スラブ人をその文化圏に取り込んだ。   
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用語リストへウ.スラヴ人と周辺諸民族の自立
■ポイント 東ヨーロッパのスラヴ系とその他の諸民族が受容した宗教の違いを明確にする。
・aスラヴ人  インド=ヨーロッパ語族に属し、6世紀以降、東ヨーロッパに広がる。
 b 東スラヴ人  (ロシア人、ウクライナ人)
 c 南スラヴ人  (セルビア人、クロアティア人、スロヴェニア人)
 d 西スラヴ人  (ポーランド人・チェック人・スロヴァキア人)
1.東スラヴ人 ドニェプル川中流域に展開
ノヴゴロド国 
  • 862年 a ノルマン人(ルーシ)  がリューリクに率いられ建国。
     → 先住民のスラヴ人と同化。これがb ロシア国家 の起源とされる。(前出)
キエフ公国  ※a キエフ  は現在のウクライナの首都。
  • 882年 ノヴゴロドからドニェプル川中流のa キエフ  に移動。次第にスラヴ化する。
  • 10世紀初め キエフ大公イーゴリ ビザンツ帝国領などへの領土拡張を図る。
  • 10世紀末 b ウラディミル1世 の時、領土を周辺に拡大し最盛期となる。
    988年 ビザンツ帝国皇帝(バシレイオス2世)の妹と結婚しc ギリシア正教 に改宗。
     = ビザンツ風の専制君主政を模倣する。
  • 11世紀 大土地所有が進展し、封建諸侯が分立、農民の農奴化進む。
「タタールのきびき」  の時代 ※ロシアではモンゴルなどアジア系民族をa タタール  と言った。
    • 1237~1240年 モンゴルのb バトゥ の侵入。 → ロシアの大半がモンゴル人に征服される。
       → 1241年 ポーランド・ドイツ連合軍、モンゴル軍に敗れる( ワールシュタットの戦い )。(後出)
    • 1243年 c キプチャク=ハン国 のロシア支配始まる。ハンは南ロシアのサライに居住。
       → 支配が約240年続く。実態は間接統治で、ロシア諸侯が徴税し、ハンに上納する。

解説

モンゴル帝国のバトゥの西方遠征によって、1240年にキエフ公国が滅ぼされてから、1480年にモスクワ公国が独立するまでの約240年続いた、ロシアがモンゴル人の支配を受けていた時代を「タタールのくびき」という。「くびき(軛)」とは牛や馬を御する時にその首に付ける道具。つまりロシアがモンゴルに押さえつけられていた時代、という意味となる。タタールとはモンゴル人を指しているが、現在のヴォルガ下流に住むタタール共和国のタタール人はトルコ系なので注意を要する。また、ロシア諸侯はキプチャク=ハン国に対して貢納するという形で服属を続けたが、直接統治されたわけではなく、その支配は間接的であった。
  • ▲ノヴゴロドの アレクサンドル=ネフスキー、1240年 スウェーデン軍をネヴァ川の戦いで撃退、
    1242年 ドイツ騎士団を氷上の戦いで撃退。c キプチャク=ハン国  には臣従し、貢納する。
モスクワ大公国 
    • 15世紀 商業都市a モスクワ  を中心として発展。
    • 1480年 b イヴァン3世  、東北ロシアを統一し、モンゴルから自立。
       → c ビザンツ帝国  滅亡(1453年)後、皇帝の姪ソフィアと結婚し、その後継者を自認する。
    •  ツァーリ を初めて称す。 意味= カエサルのロシア語形。皇帝を意味した。

      解説

      ローマ帝国のカエサルに由来し、カエサル→チェーザリ→ツァーリとロシア語に転化した。なおドイツ語では皇帝を「カイザー」という。15世紀後半のモスクワ大公国のイヴァン3世が、ビザンツ帝国の滅亡を受けて自らローマ皇帝位を継承するとして使用したのに始まり、16世紀のイヴァン4世が初めて全ロシアの支配者の意味でツァーリといわれ、正式称号となった。その後も特に18世紀のピョートル大帝以降の皇帝による専制支配体制をツァーリズムという。
       → イヴァン4世の時、正式なロシア皇帝の称号となる。▲モスクワはe 第三のローマ  といわれる。

Text p.136

  • 農奴制を強化し、専制君主制の基礎を固める。首都 モスクワ の繁栄。
  • 16世紀 f イヴァン4世  (雷帝) 中央集権体制を固め、東ヨーロッパの大勢力となる。(後出)
2.南スラヴ人
セルビア人 
  • 6世紀 a バルカン半島 南西部に移動、ビザンツ帝国に服属し、b ギリシア正教 に改宗。
      12世紀に独立、14世紀前半に、a バルカン半島  北部を支配し、強大となる。
  • 1389年 オスマン帝国の侵入 ▲c コソヴォの戦い で敗れ、バルカンのイスラーム化始まる。
クロアティア人  フランク王国に服属し、a ローマ=カトリック を受容。
  • 10世紀に独立、最盛期となる。 → 11世紀末、b ハンガリー王国  の支配下に入る。
      14世紀以降、イスラーム教国のc オスマン帝国 の侵攻を受け、16世紀にその支配下に入る。
スロヴェニア人  フランク王国に服属し、a ローマ=カトリック を受容。
  • 10世紀 b 神聖ローマ帝国  に組み込まれる。 → イタリアに隣接し、その影響を強く受ける。
3.西スラヴ人
ポーランド人  a ローマ=カトリック  を受容。
  • 10世紀にb ポーランド王国  (下の地図の①)を建国(ピアスト朝)。
     12世紀末から、ドイツ人のc 東方植民 が進み、バルト海沿岸を奪われる。
  • モンゴルの侵入 1241年 d ワールシュタットの戦い   ドイツと連合してあたるも敗北。(後出)
  • 14世紀前半 e カジミェシュ3世  (大王)のもとで繁栄。法典整備や通貨の発行。
     → 1364年 都クラクフに大学を設立。
リトアニア=ポーランド王国  a リトアニア人 はインド=ヨーロッパ語族系のバルト語族。
  • 13世紀 b ドイツ騎士団  の進出(東方植民)に抵抗しながらc リトアニア大公国  (地図②)を建国。
  • 1386年 リトアニア大公がポーランド王国女王と結婚、B リトアニア=ポーランド王国  (同君連合)成立。
     = d ヤゲウォ(ヤゲロー)朝  の成立。 理由:e ドイツ騎士団の進出に対抗するため。  
  • 15世紀 最も強大となり、現在のウクライナなどをふくむ広大な領土を支配した。16世紀に正式に合体。 
チェック人  現在のチェコの西部をベーメン(ボヘミア)、東部をモラヴィアという。
  • 7世紀 ▲a モラヴィア王国  建設 → 9世紀、マジャール人(ハンガリー)に征服される。
  • 10世紀 b ベーメン(ボヘミア)王国  を建設。いずれもc ローマ=カトリック  を受容。
     → 隣接するドイツ人の移住も多く、プラハを中心に、キリスト教文化が栄える。
  • 11世紀、d 神聖ローマ帝国  に編入される(地図③)。 14世紀 プラハ大学創設(後出)
スロヴァキア人  11世紀以来、ハンガリーの支配下に入る。a ローマ=カトリック  を受容。
4.東ヨーロッパの非スラヴ系民族
ブルガール人  a トルコ系  民族。バルカン半島に移動。
    • 7世紀 b 第1次ブルガリア帝国   建設、スラヴ人と同化し、c ギリシア正教  に改宗。
    • 9世紀 ▲聖職者キュリロスによってd キリル文字  が作られる。 → 後にロシアに広がる。

解説

キリル文字は、9世紀にスラヴ人のへのギリシア正教会の布教に活躍したギリシア人宣教師キュリロスが考案した文字。キュリロスは兄のメトディオスとともに文字をもたないスラヴ人への布教を進めるため、ギリシア文字をもとにしてスラヴ語をあらわす文字を考案した。これをキリル文字といい、現在のロシアで使われているロシア文字の原型となった。ただし、最近の研究ではキュリロスの作ったのはグラゴール文字といい、キリル文字はそれを改良したもとされている。ロシア人だけでなく、ブルガリアやセルビアなどスラヴ系諸民族でも用いられている。
  • 1018年 e ビザンツ帝国  に併合される。
  • 12世紀 f 第2次ブルガリア帝国   を建設。 → 14世紀 オスマン帝国に併合される。
マジャール人  ウラル語族の遊牧民であった。先に西進したアヴァール人などを同化。
  • 9世紀末、a パンノニア  に移動後、定住。
  • 955年 東フランクb オットー1世  に敗れる。
  • 10世紀 c ハンガリー王国  (地図④)を建国。 → d ローマ=カトリック  を受容。
     → クロアティアなどを支配し、15世紀に繁栄。
  • 16世紀 e オスマン帝国  の侵入はじまる。 → 領土の大半を征服され支配下にはいる。
ルーマニア人  ドナウ川北岸がローマ帝国の属州a ダキア  となり、ラテン系が移住。
  • スラヴ人・ゲルマン人・マジャール人が侵入。
  • 13~14世紀 C ルーマニア人 として自立。
  • ドナウ川北岸にはb ワラキア公国  、カルパチア山脈東部にc モルダヴィア公国  が成立。 
    (14世紀末 ポーランド王国の宗主権を認める)
  • 15世紀 ともにd オスマン帝国  に征服される。

地図 1400年頃の東ヨーロッパ世界

6世紀のビザンツ帝国全盛期
 ① ポーランド王国 
 ② リトアニア大公国 
 ③ ベーメン 
 ④ ハンガリー王国 
・赤点線枠内が
  リトアニア=ポーランド王国  
 
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蔵物蔵米商人

2017-06-29 | 生物暗記法

普段旅籠で 蔵も藩。

差(ふださし))(蔵元(くらもと))


[ポイント]

1.各藩の年貢米を蔵元が売買、その代金を掛屋が出納、一方旗本・御家人の給米を札差が売買換金した。

[解説]

1.大坂は「天下の台所」といわれ、西日本や全国の物資の集散地としてさかえた大商業都市であった。西日本や日本海側の諸藩を中心に蔵屋敷を大坂において、領内の年貢米や特産物である蔵物蔵元掛屋と呼ばれる商人を通じて販売し、貨幣の獲得につとめた。

2.蔵屋敷は大坂のほか、江戸・長崎・大津など幕府の直轄都市におかれた。蔵屋敷において、蔵物の取引にたずさわるものを蔵元、代金などの出納にあたるものを掛屋と呼んだ。同じ商人が両者を兼ねることも多かった。


3.幕臣である旗本御家人の俸禄(蔵米)の受取・売却・金融をおこなう商人を札差という。

2016立教大・文:「
問2.江戸時代のこれ(米)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.大坂では堂島で米市場が発展した

 b.蔵元は年貢米の保管・管理をおこなったが、販売はおこなわなかった
 c.脱穀は踏車を使っておこなわれるようになった
 d.水呑百姓はその所持する石高の40~50%を米穀などで領主におさめた

(答:a ※b×販売をおこなう、c×踏車は揚水用具、d水呑百姓は自分の農地を持ってない)


2016早大・人間科学:「

問5 下線部c(18世紀後半の農村)の村内の階層分化に関連する記述として、正しいものはどれか、1つ選べ。

 ア 困窮した百姓に金を貸し、質にとった土地を集めた町人は蔵元と呼ばれ、商品作物の生産流通の中心を担った。

 イ 自分の土地や家を失った百姓は、小作人になるか、年季奉公・日傭稼ぎのために村を離れていった。
 ウ 18世紀後半、幕府は質流れのかたちで田畑が売買されるのを禁じたため、各地で質地騒動が起こった。
 エ 天災や飢饉で疲弊した農村の立て直しを図るため、松江藩の佐竹義和は徹底した勧農抑商策をとった。
 オ 享保の改革では、江戸に流入していた没落農民の帰村・帰農を奨励する旧里帰農令が出された。」

(答:イ ※ア×蔵元→質地地主、ウ×「田畑の質入れは認めるが質流れは認めない」という趣旨の質流地禁止令を農民が質地取り返しができる徳政令と解釈したためおきた騒動、エ佐竹義和は秋田藩主、オ×旧里帰農令は寛政の改革)〉


2016立教大・法済異文:「

問2.これ(札差)に対して旗本・御家人への貸金を放棄させた、寛政の改革における法令の名をしるせ。

(答:棄捐令)〉


2016法大・済(国ビジ)社(政策メディ)現福:「

問14 下線部l天保の改革とよばれる一連の改革の説明として誤っているものを下記のア~オから二つ選べ。

 ア 川越・庄内・長岡3藩の領知をたがいに入れ換えることを命じたが、領民の反対もあって撤回された。

 イ 物価の引き下げを期待し札差の解散を命じたが、江戸への商品輸送量が減り、逆効果となった。
 ウ 江戸に流入した貧民の帰郷を強制する人返しの法を発し、荒廃した農村の再建をはかろうとした。
 エ 関東の農村で治安の乱れが生じたため、関東取締出役を設けて、犯罪者の取り締まりにあたらせた。
 オ 倹約令を出して、ぜいたく品や華美な衣服を禁じ、庶民の風俗もきびしく取り締まった。」
(答:イ×札差→株仲間、エ×関東取締出役は大御所時代)

2013同志社大学・法グロコミュ:「

問コ.以下にあげる史料は1789年に札差に債権の全部または一部を放棄させる目的で幕府が発布した法令である。(   )の中に入る言葉を漢字2字で記せ。
 
旧来之借金は勿論、六ヶ年以前辰年までに借り詰け候金子は、古借・新借之差別無く、(   )之積り相心得べき事。」


(答:棄捐)〉


2014文教大学・全学部:「

問6 下線部(e)金融業に関連して、江戸時代、幕府の年貢米の売却を扱い、旗本・御家人への金融を行った商人の名称として最も適切なものはどれか。次の中から一つ選べ。」

 1蔵元 2掛屋 3札差 4問丸」


(答:3)〉

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第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展

2017-06-29 | 生物暗記法

第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展

3節 西ヨーロッパ中世世界の変容(前)

用語リストへア.十字軍とその影響
■ポイント 十字軍はなぜ起こされたか、またどう変質し、どんな影響を与えたか理解する。
農業技術の進歩  11~13世紀 気候の温暖化に伴い、農業技術の変化・進化が起こった。
  •  三圃制 の普及( 5章1節参照)。
    =b 耕地を春耕地・秋耕地・休耕地に三分して作物を輪作し、地味の低下を防ぐ農法。  
  •  重量有輪犂 の普及:耕地を深く耕すことを可能にし、また細長い条地にわける開放耕地となった。
  • その他 d 水車 の改良など。
  • 農村の変化:耕地の共同耕作や共同牧場での作業を通じ、e 村落共同体 が形成された。
    影響 f 生産力を向上させ、人口増加をもたらし、西ヨーロッパ・キリスト教世界の膨張運動が起こった。  
西ヨーロッパ世界の膨張 
  • 耕地の拡大:a 修道院による開墾運動  。(4節参照) ・b オランダの 干拓  の拡大。
  •  ドイツ人の東方植民   :エルベ以東のd スラヴ人  地域への侵出。(後出)
  •  イベリア半島での国土回復運動 :イスラーム教に対するキリスト教の攻勢。(後出)
  • 聖地f イェルサレム  へのg 巡礼  の流行など。
      → ▲ローマやサンチャゴ=デ=コンポステラ(スペインの西北端)もその目的地とされた。
C十字軍運動の開始 
    • 11世紀 イスラーム教勢力のa セルジューク朝  が小アジア・パレスティナに進出。
       イェルサレムを支配 →  ビザンツ皇帝 がローマ教皇b ウルバヌス2世  に救援を要請。

Text p.138

  • 1095年 教皇b ウルバヌス2世  、c クレルモン宗教会議  を開催。
     ヨーロッパ諸国の君主・諸侯にd 聖地回復をめざす聖戦(十字軍の派遣)  を提唱。
     教皇のねらい:e 叙任権闘争での教皇権の優位  の確立と、f 東西教会の統合  をはかること。

解説

クレルモン宗教会議はカトリック教会の歴史上は正式な「公会議」とはされていない。もともと┼字軍派遣のために招集されたわけではなく、聖職売買の禁止や聖職者妻帯の禁止、聖職叙任権の奪回などの教会改革についての宗教会議であったが、その最後にウルバヌス2世が、聖地回復を呼びかけた。その時教皇は、パレスチナを「乳と蜜の流れる国」と呼び、キリスト教徒の移住を勧めたのだった。
十字軍運動の展開  11世紀末~13世紀の約200年にわたって展開された(回数には諸説あり)。
    • 第一回  a 1096 年に出発し、1099年に聖地を回復、略奪。b イェルサレム王国  を建設。
        → イスラーム世界はまとまりを欠いていたが、まもなく勢力を回復し激しい抗争が続く。

解説

1099年に十字軍がイェルサレムを占領したとき、十字軍兵士によってイスラーム教徒やユダヤ教徒の7万人が虐殺され、「岩のドーム」などの財宝が略奪された。この時成立したイェルサレム王国の国王となったロレーヌ侯ゴドフロワは「聖墳墓の守護者」を名乗ったが、実態は世俗的国家で、十字軍の諸侯に土地を分け与えた。
  • 第二回  1147~49年 独王(コンラート3世)・仏王(ルイ7世)が参加 両者反目し失敗。
      1187年 c サラディン(サラーフ=アッディーン)  率いるアイユーブ朝軍がイェルサレムを占領。
  • 第三回  1189~92年 独王d フリードリヒ1世 ・仏王e フィリップ2世  英王f リチャード1世  
         が参加し最大の規模となる。しかし独王が途中で溺死、仏王が英王と対立し帰国。
       → 英王f リチャード1世  がc サラディン と単独講和に成功するも、聖地奪回出来ず。

解説

サラディンに占領されたイェルサレムを奪回するために起こされた第三回十字軍は、イギリス・フランス・ドイツ三国の国王が参加するという最大規模のものであったが、途中ドイツ王は小アジアで事故死しったためドイツ軍は引き返し、英仏両軍は本国で対立していたので共同作戦はうまくいかなかった。ようやくアッコンを奪回したところでフランス王は帰国、残ったイギリス王リチャード1世がサラディンとの間で休戦協定を結んで帰国した。聖地奪回はできなかったが巡礼の安全を確保することができた。
E十字軍運動の変質  ▲背景 13世紀初頭の世界情勢 a モンゴル帝国  の成立(1206年)。
    • 第四回  1202~04年 b ヴェネツィア  商人の要求でc コンスタンティノープル  を攻撃。
    • その地にd ラテン帝国  を立てる(前出)。ビザンツ帝国は一時消滅し、亡命政権をつくる。

解説

第4回十字軍 ローマ教皇インノケンティウス3世が提唱し、フランス諸侯がそれに応じて参加したが、その輸送を請け負ったヴェネツィア商人がコンスタンティノープルを占領することを提案して途中で方向が転換された。ヴェネツィアは東地中海の貿易でコンスタンティノープル商人と激しく競争していたのだった。聖地回復をほったらかしたことに対してインノケンティウス3世は第4回十字軍を破門にしたが、後に東方教会を統合する機会であると考えてそれを許した。
ラテン帝国 フランドル伯ボードワンを皇帝としたが実権はヴェネツィア商人が握っていた。それ以外にもいくつかのキリスト教徒諸侯を君主とする国が造られている。コンスタンティノープルを中心に東方との交易権を拡大しようとしたが、北方のブルガリアや、小アジアのビザンツ帝国の亡命政権であるニケーア帝国に攻撃され、ふるわず、1261年にニケーア帝国によって倒された。ニケーア帝国のミカエル8世はビザンツ皇帝となり、新たなパレイロゴス朝を始めるが、それがビザンツ帝国最後の王朝となる。
  •  宗教騎士団  の活動 f ドイツ騎士団   、 テンプル騎士団 、 ヨハネ騎士団 など。
       = 巡礼路・聖地の治安維持を目的とした騎士修道団。次第に秘密結社化する。
十字軍運動の終結  1212年 a 少年十字軍  の失敗。
  • 第五回  1228~29年 ▲皇帝b フリードリヒ2世   話し合いで聖地一時回復。
  • 第六回  1248~54年 仏王c ルイ9世  が主導。エジプト攻撃に失敗。
  • 第七回  1270年 仏王c ルイ9世  が主導。海路チュニスへの遠征失敗。王も病没。
・1291年 十字軍最後の拠点d アッコン  が陥落しe イェルサレム王国  滅亡、十字軍時代終わる。

地図 主な十字軍の経路

十字軍
 イスラーム勢力圏
 a 第1回十字軍  
 b 第3回十字軍  
 c 第4回十字軍  
 d 第6回十字軍  
 e 第7回十字軍  
 f 東方植民    
 g レコンキスタ  
 h ラテン帝国   

まとめ:運動への参加意図 聖地回復という宗教的情熱と共に、参加者の意図には次のようなものがあった。
     
  • ローマ教皇:a 教皇権を確立すると共に、東西教会の統一を目指した。  
  •  
  • 諸侯・騎士:b 従軍することによって、新たな領地と戦利品を求めた。  
  •  
  • 都市の商人:c 東方との遠隔地取引による商業的利益の拡大を求めた。  
  •  
  • ▲農民:十字軍に参加することでd 負債の帳消し、農奴身分からの解放を求めた。  
十字軍運動の結果:a 聖地回復には失敗    、その後の西ヨーロッパ世界に大きな影響を与えた。
影響
     
  1. 結果的に聖地回復ができなかったことによって、b  教皇の権威の動揺がはじまった。  
  2.  
  3. 遠征軍を指揮したc 国王の権威は高まった。  
  4.  
  5. 長期の遠征によりd 諸侯・騎士の没落が始まった。  
  6.  
  7. 十字軍の出港地となったe イタリア諸都市の繁栄がはじまった。  
  8.  
  9. 地中海貿易によるf 東方との貿易が再び活発になりヨーロッパの商業が復興した。  
  10. 先進文化圏であるg ビザンツ帝国、イスラーム圏の文化が流入することとなった。  

Text p.139

 → 十字軍は、中世の西ヨーロッパの国家、社会、文化を大きく転換させる契機となった。  
先頭へ

用語リストへイ.商業の発展
■ポイント 11~12世紀に商業が復活した理由、商業圏の地域的違いを理解し主要都市の位置を確認する。
 
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農具の改良

2017-06-28 | 生物暗記法

府民ビッグな当選ばどう。

踏車(ふみぐるま))((びっちゅうぐわ) )(唐箕(とうみ) )(千歯扱(せんばこき))(千石簁(せんごくどおし))


[ポイント]

1.おもな改良農具は踏車千歯扱備中鍬唐箕千石簁

[解説]

1.踏車は、足踏み式の小型の水車を漕いで回して、田畑より低い位置にある農業用水を田畑の高さまで汲み上げる揚水道具。

2.千歯扱は、従来の脱穀は、扱箸で少量の茎束ごとに挟んでしごき取っていたが、その扱箸を多数、櫛の歯状に並べ能率を上げた道具。労力の大幅な軽減ができたことから、農繁期の手伝いで収入を得ていた寡婦の働く機会をうばうもの、という意味で「後家倒し」の異名がついた。


3.備中鍬は、従来の平鍬と異なり、鍬の刃部分を3~5本の櫛の歯状に分岐させた鍬。刃に土がつきにくく、長くて重量があり、深く耕すことができため、可耕地が広がり、生産力が上がった。


4.唐箕は、上から落とした穀物に、手回しの風車で強く風を吹き付け、ゴミやもみ殻などを吹き飛ばして除く道具。


5.「簁」は訓読みすれば「ふるい」。千石簁は、穀物を中にセットされている「ふるい」を通し、網の目より小さい米粒を下に落とし選別する道具。


2016法大・済(済)社(社)スポーツ:「

 a教授:君が何に興味を持てるのかが一番大事だね。日本と鉄の関わりの歴史はとっても長いんだ。江戸から明治にかけての鉄の利用や鉄づくりの近代化などもダイナミックで面白いよ。江戸時代には鉄の道具が進化して暮らしや農業の発展に大きく貢献したんだ。幕末には雄藩が西洋式製鉄所の建設に努力しているし、明洽期には国や民間で努力が重ねられた。去年、ユネスコの世界遺産登録に関連して、幕末から明治にかけての近代製鉄関連施設が改めて注目されたよ。

問3 教授の下線部(a)の発言に関し、17世紀から18世紀ごろにかけての鉄に関する次の文を読み、正しければア、誤っていればイを解答欄にマークせよ。


 1 砂鉄を原料としたたたら製鉄が盛んとなり、そこでつくられた良質な鋼が商品として全国に普及して多様な鉄の道具に加工された。

 2 佐渡鉱山の金と鉄の産出量増大が東北の製鉄業の発展を促し、他の地域の製鉄業を圧倒するようになった。
 3 鉱山業で培われた鉄の道具や技術の転用で多くの土地が耕作可能になり、農業の発展に大きく寄与した。
 4 鉄製農具の備中鍬が広く普及し、耕作地を深く耕せるようになった。これにより農業生産が向上した。
 5 薩摩藩で熱のはね返りを集中させて温度を高める製鉄法が開発され、その原理を用いた製鉄所が築造された。」

(答:1ア、2イ×そのような事実なし、3ア、4ア、5イ×※19世紀中頃)〉


2016立教大・文:「

問2.江戸時代のこれ(米)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.大坂では堂島で米市場が発展した

 b.蔵元は年貢米の保管・管理をおこなったが、販売はおこなわなかった
 c.脱穀は踏車を使っておこなわれるようになった
 d.水呑百姓はその所持する石高の40~50%を米穀などで領主におさめた」

(答:a ※b×大名の領地米を委託販売する業者、c×踏車は揚水道具、d×水呑百姓は農地をもっていない)〉

2013早大・政経:「
[v]下線部4)の元禄年中頃に考案されたと推定される、「後家倒し」の異名をもつ農具を何というか。
 
 a備中鍬 b千歯扱
 c唐箕  d千石どおし
 e唐竿」


(答:b)〉


2013愛知教育大・前期:「

  また農村では,1農業生産の技術革新が行われ,特産物の開発など,商品経済が活況を呈してくると,商品作物の出荷や契約に読み・書き・算用が求められるとともに,宮崎安貞の『農業全書』のような農書も広く読まれるようになった。
問2 下線部1について、新しく考案された農具を2つ答えよ。
(答:千歯扱き・備中鍬・唐箕・千石簁など)〉


2012早大・文学部:「
 江戸時代の農民は小家族経営が主であった。幕藩領主はこうした小農民をb本百姓と位置づけ、年貢の負担者とした。幕府は本百姓の没落を防ぐために田畑永代売買の禁を発し、さらに[ B ]令を出した。「たわけ」という言葉はこれに由来するといわれる。少ない労働力で農作業を行うために、人力で深く耕すための[ C ]鍬や、こき箸に代わって能率よく脱穀できる千歯扱などの農具が普及した。」

問3 下線bについての記述として誤っているものを2つ選べ。

 ア 名請人である。
 イ 地券を所持する。
 ウ 村政に参図する。
 エ 被官と呼ばれる。
 オ 五人組を組織する。

問4 空欄Bに入る語句を、漢字4字で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。


問5 空欄Cに入る語句を、漢字2字で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。」


(答:問3イ・エ、問4B分地制限、問5C備中)〉


2012早大・文化構想

問11 下線部鎌倉期から室町期にかけては農業技術の進歩により、生産力も向上したについて。この時期の事柄として正しいものはどれか。2つ選び、マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。

 ア 干鰯などの肥料が大量に出回り、農業生産が向上した。

 イ 西日本では麦の裏作が普及し、米との二毛作が可能となった。
 ウ 名主が農書を参照して二期作を行うようになった。
 エ 刈敷や草木灰、さらには下肥が広く使われるようになった。
 オ 踏車が普及し、灌漑の効率化が図られた。」

(答:イ・エ ※ア・ウ・オ×江戸時代)〉

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第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展

2017-06-28 | 生物暗記法


3節 西ヨーロッパ中世世界の変容(後)

イギリスとフランス
  • 13~14世紀 西ヨーロッパ諸国で国王によるa 身分制議会 の招集が始まる。
     =b 国王が課税などを要請するため、貴族・聖職者・都市の身分別代表を召集した会議。  
     → 国王がc 封建領主・教会・都市  と妥協を図りながら、国王の権力強化、統一的支配をめざした。
  • イギリスの模範議会、フランスの三部会がその例。他にドイツの帝国議会、スペインのコルテスなどが該当する。
  • 意義と限界 d 議会制度の源流であるが、国王の諮問機関にすぎず、議員も国民が選出したものではない。  
(1)イギリス
ノルマン朝  1066年 ウィリアム1世のa ノルマン=コンクェスト で成立。(前出)
  • 王権の特長 他のヨーロッパ諸国に比べb 征服王朝であったので、はじめから王権が強かった。  
     イギリス領では国王だが、フランス領ではフランス王の臣下であった。1154年 断絶。
プランタジネット朝  1154~1399年
  • フランスの有力諸侯a アンジュー伯  (プランタジネット家)のb ヘンリ2世  が王位継承。
     = フランス国内のノルマンディー、ギエンヌ地方などに領地をもつ。
     → c イギリス王でありながら、フランス領についてはフランス王の臣下である  という状態が続いた。
  • リチャード1世(獅子心王) フランス王と対立。第3回十字軍を主導。サラディンと講和(前出)。
大憲章(マグナ=カルタ) 
  •  ジョン王  、フランス王b フィリップ2世  と争い、ギエンヌ地方を除くフランスの領土を失う。
  •  カンタベリー大司教  の任命をめぐり教皇d インノケンティウス3世  と争い、破門される。
     → 王が財政難から貴族に対し重税を課したため、貴族が一致して反抗。
  • 1215年  国王、C 大憲章(マグナ=カルタ)  を発布。
  • 内容=e 国王の徴税権の制限、教会の自由、都市の自由、不当な逮捕の禁止など  を国王が認めた。
     → 貴族の従来の特権を王が認め、王権が制限されることとなった。
  • 意義 f 国王といえども法に服するという原則ができる。    
     → イギリスのg 立憲政治  の出発点とされ、現在もh イギリスの憲法の一部  となっている。

解説

資料 マグナカルタの主要な内容
  • 第1条〔教会の自由〕 まず第一に、イングランドの教会が自由であり、その諸権利はこれを完全に保持し、その自由は侵されることがない旨を、朕は、朕および朕の相続人のために、永久に神に許容し、かつこの朕の特許状をもって確認する。
  • 第12条〔国王の課税権の制限、課税同意の原則〕 いかなる軍役代納金(注1)も援助金(注2)も、わが王国の共同の助言(注3)によるのでなければ、わが王国では課せられてはならない。ただし、わが身代金払うため、わが長男を騎士とするため、およびわが長女をいつか嫁がせるための援助金は、この限りではない。
  • 第13条〔都市の自由〕 ロンドン市は、そのすべての古来の自由と、陸路によると海路によるとを問わず自由な関税とを保有する。このほかなお、他のすべての都市、市邑、町、および港が、そのすべての自由と自由な関税とを保有すべきことを、朕は欲し許容する。
  • 第14条〔課税同意の手続き〕 (軍役免除金、援助金の賦課に関して)王国の一般評議会を開催するためには、朕は、大僧正、僧正、僧院長、伯、および権勢のあるバロン達には、朕の書状に捺印して召集されるように手配する。・・・召集は一定の日に、すなわち少なくとも40日の期間をおき、一定の場所において行われるものとする。
  • 第39条〔自由人の権利、適法手続きの原則〕 いかなる自由人も彼の同輩の法に適った判決か国法によるのでなければ、逮捕あるいは投獄され、または所持物を奪われ、または追放され、または何らかの方法で侵害されてはならない。
  • 第40条〔裁判の尊重〕 朕は何びとに対しても正義と司法を売らず、何びとに対しても正義と司法を拒否または遅延せしめない。

注1 軍役代納金:中世封建制では家臣は年間40日の費用自弁の軍役の義務があったが、12世紀にはそれが貨幣で代納されるようになった。それが軍役代納金(楯金または軍役免除金ともいう)で、王や諸侯はその代納金で傭兵を雇うようになっていた。  注2 家臣の王、主君に対する義務の一つとしての献金。  注3 第14条に述べられている「王国の一般評議会」(全体の協議会)のこと。

模範議会  の成立。
  • 次の国王a ヘンリ3世  は大憲章を無視。 → 貴族の反抗強まる。
  • 1265年 b シモン=ド=モンフォール   貴族を率いて国王軍を破る。
     同年、議会を招集。このc モンフォール議会  がイギリス議会の起源とされる。
     = すでにあった貴族、聖職者の会議に、d 各州代表の騎士と都市の代表  を加えた会議。
  • 1295年 e エドワード1世  がD 模範議会  を召集。
     f 高位聖職者・大貴族の他に各州2名の騎士と、各都市2名の市民代表 が出席。   
     = イギリスにおけるg 身分制議会  の成立。
二院制  の成立。
  • 14世紀 エドワード3世のときに始まる。利害の対立する身分の代表がお互いを牽制し合う。
     a 上院  :貴族、聖職者の代表で構成。
     b 下院  :各州と都市の代表で構成。
  • その地にd ラテン帝国  を立てる(前出)。ビザンツ帝国は一時消滅し、亡命政権をつくる。
  • 権限のちがい :c 法律の制定・新税の課税については下院の承認が必要とされた。  
・d ジェントリー(郷紳) の成長:かつての騎士階級が土着し、小地主として州の代表となる。

 

・▲イギリス独自の文化の形成(例 英語の公用語化)。

Text p.146

(2)フランス
・Aカペー朝  987年 パリ伯ユーグ=カペーに始まる。 ~1328年
 国王は北フランスの一部を領有するだけで、a 王権は弱く、各地に大諸侯が分立していた。  
フィリップ2世  (尊厳王) 12~13世紀初め 都市と結び諸侯を押え、王権を次第に伸張させる。
  • イギリス王c ジョン王  と争いギエンヌ地方を除くイギリス領を奪う。(前出)
  • ▲1214年  ブーヴィーヌの戦い で、神聖ローマ帝国・イギリス王国などの連合軍を破る。
     → フランス王権確立の第一歩となる。
ルイ9世  (聖王) 13世紀 a 第6、第7回十字軍  を起こすも失敗。(前出)
  • 異端の弾圧 南フランスのb アルビジョワ派(カタリ派) に対する遠征を終わる。
     → フランスの王権、南フランスに及び、国内の統一が進んだ。
フィリップ4世  (端麗王) 14世紀初め、フランスの国家統一を達成、絶対王政を準備。
  • 教会への課税を巡り、ローマ教皇a ボニファティウス8世  と対立。
  • 1302年 b 三部会  召集:c 聖職者、貴族、都市の商人  の各身分代表を集め、
      国王の課税権を承認させる。 = フランスにおけるd 身分制議会 の始まり。
  • 1303年 e アナーニ事件 起きる(前出)。1309年には、f 教皇のバビロン捕囚  を実行。
  • 1312年 ▲g テンプル騎士団 (巨大な財産を有していた)を解散させ財産を没収。
・13~14世紀 イギリスとフランスでともに王権強化が進み、互いに対立するようになる。

 

用語リストへク.百年戦争とバラ戦争
 
英仏の対立  イギリス・フランス両国には以下のような対立点があった。
  • 領土問題 = フランス、毛織物工業のa フランドル地方  の支配をねらう。
     → イギリス 自国の羊毛の輸出先であるので、阻止を図る。
     他にぶどう酒の産地b ギエンヌ地方  をめぐっても両国は対立。
  •  王位継承  問題 = 仏のカペー朝断絶、フィリップ6世がd ヴァロワ朝  を創始。
     → イギリスのe エドワード3世  、母がフィリップ4世の娘。フランスの王位継承権を主張。

 

百年戦争  a 1339 年に開戦、b 1453 年まで断続的に継続。
百年戦争
クレシーの戦い 右がイギリス長弓隊
  • 1346年 クレシーの戦い イギリスの長弓隊、フランス軍を破る。
  • 1356年 英c エドワード黒太子  、ポワティエの戦いで勝利。
     → フランスは北西部を奪われ、国土の荒廃すすむ。
農民一揆の発生 1847年からa 黒死病  が流行する。
  • 貨幣経済の荘園への浸透 → 領主の農奴に対する課税強化(封建反動)。
  • 仏では、1358年にb ジャックリーの乱   が起こる。(前出)
  • 英では、1381年にc ワット=タイラーの乱   が起こる。(前出)
D 戦争の長期化
  • イギリスの王朝交替 1399年  a ランカスター朝  が成立。
  • フランスの内乱  b ブルゴーニュ公   がイギリスと結び、
    オルレアン=アルマニャック派と対立。
     → 内乱に乗じてイギリスのヘンリ5世が侵入、
       アジャンクールの戦いで大勝。

Text p.147

E 戦局の転換 皇太子シャルル、a オルレアン  でイギリス軍に包囲される。
  • 1428年 b ジャンヌ=ダルク  が登場、a オルレアン の包囲を解きシャルルを救う。
     → 1429年 c シャルル7世  、ランス大聖堂で戴冠式を行う。
  • 1430年、イギリス軍によってd 魔女裁判  にかけられ、ルーアンで火刑となる。
F 百年戦争の終結
  • 1453年  戦争終結。イギリス、フランス内の領地を a カレー   を除き失う。
  • 影響:戦争の長期化 → フランスでb 諸侯・騎士(貴族)の没落    
     → c シャルル7世 の中央集権体制が強まる。税制の改訂、常備軍の創設が進む。

補足

<補足>百年戦争期間のヨーロッパの重要事項
  1. イタリアでの動き:14世紀 イタリアでルネサンスが始まる。
  2. ドイツでの動き:金印勅書と、領邦化の進行。
  3. カトリック教会の動き:大シスマと、教会批判の始まり(ウィクリフ、フス)。
  4. 東ヨーロッパの動き:ビザンツ帝国の衰退と滅亡(1453年)。
  5. イベリア半島の動き:レコンキスタの進行とポルトガルの海外進出の開始。
バラ戦争  1455~85年 百年戦争に続いて起こったイギリス王位継承をめぐる内戦。
  •  ランカスター家  :赤バラ b ヨーク家  :白バラ をそれぞれ紋章とする。
  • 1455年 ランカスター朝の不当性を主張するヨーク家のエドワードが挙兵。1461年に即位式を強行。
      = ヨーク家の リチャード3世 が王位を奪うなど混乱が続く。
  • 1485年 c ヘンリ7世  が即位して終結。d テューダー朝  を開く。
     e 星室庁裁判所  を設置。ウェストミンスター宮殿「星の間」に置く。国王直属の特別裁判所。
・諸侯・騎士の没落が進み 、f 絶対王政  の基礎できる。
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用語リストへケ.スペインとポルトガル

Text p.148

■ポイント イベリア半島におけるレコンキスタの経過とその意味を押さえる。
  • イベリア半島 8世紀にイスラーム教徒が西ゴート王国を滅ぼしa 後ウマイヤ朝  を建てる。
レコンキスタ  = a キリスト教徒によるイスラーム教勢力からの国土回復を目指す運動。 
  • ▲718年 北西部にアストゥリアス王国成立 → 11世紀 b カスティリャ王国  に発展。
     9世紀 北東部にナバラ王国成立 → 11世紀 c アラゴン  成立
  • 1031年 d 後ウマイヤ朝  滅亡。イスラーム勢力、小国に分裂。
  • 1085年 b カスティリャ王国  、e トレド  を奪回。
イスラーム勢力の反撃 
  • 1086年 北アフリカからa ムラービト朝  が半島に侵攻。(前出)
  • 12世紀 北アフリカからb ムワッヒド朝  が侵攻。
レコンキスタの展開 
  • 1143年 a カスティリャ王国  から b ポルトガル王国  が分離。
    ▲1212年 a カスティリャ ・b ポルトガル ・c アラゴン の三国連合軍がイスラーム軍を破る。
  • 1236年 d コルドバ を奪回、1248年 e セビリャ を奪回。
     → 1269年 ムワッヒド朝滅亡、イスラーム勢力分裂。
  • 12~13世紀、カスティリャのf トレド でイスラーム文献のラテン語訳が行われる。(前出)
スペイン(イスパニア)王国  の成立

解説

イザベラとフェルディナンドは「同権の国王」として共同統治を行ったが、カスティリャはアラゴンの6倍の国土を持っていたので、実質的にはアラゴンは併合されたと同じであった。二人は、カトリック信仰を共通の価値基準としていたので、「カトリック両王」と言われた。
  • 1469年 カスティリャの王女a イサベル とアラゴンの王子b フェルナンド  が結婚。
  • 1479年 両国が合同しD スペイン(イスパニア)王国  が成立。二人は共同統治に当たる。
    → 都市と結んで封建貴族を抑え、主権国家体制を整備する。身分制議会としてc コルテス を設置。
カトリック両王
スペインのカトリック両王
レコンキスタの完了 
  •  1492 年 カスティリャ軍が、b グラナダ  を占領。
     = イベリア半島におけるイスラーム最後の拠点が陥落。
  • この年、c コロンブス  の西インド到達。海外発展を開始。
     → ユダヤ教徒、イスラーム教徒も追放される。
ポルトガル  の発展 1415年 ジョアン1世の時、セウタを占領。
  • 1431年 a エンリケ航海王子  の時、アフリカ西岸を探検開始。
     → b インド航路  の開拓、海外発展の基礎を築く。(後述)
  • 15世紀後半 c ジョアン2世  貴族の反乱を抑え、王権を強化。
・16世紀 ポルトガル・スペイン全盛期、大航海時代を迎える。
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用語リストへコ.ドイツ・スイス・イタリアと北欧
 
(1)ドイツ(神聖ローマ帝国)
イタリア政策  a 神聖ローマ皇帝がイタリア経営に熱中したため、ドイツ諸侯は自立傾向が強かった。  
  • 12~13世紀 b シュタウフェン朝   イタリア遠征を繰り返し、ドイツでは不在が多かった。
     ▲c フリードリヒ1世 (在1152~90)ロンバルディア同盟軍と戦う。第3回十字軍に参加。
     ▲d フリードリヒ2世 (1220~1250)両シチリア王・ドイツ王となる。ローマ教皇と対立。(後出)
大空位時代  神聖ローマ皇帝の不在時代が続く。
  • 1256年 a シュタウフェン朝  断絶後、1273年まで皇帝不在続く。
      → 外国の干渉、大諸侯の対立、自治都市の成長が進む。
  • ▲1273年 b ハプスブルク家  ルドルフが帝位につくが、混乱続く。
金印勅書  の制定
    • 1356年 神聖ローマ皇帝a カール4世  が発布。=b 皇帝の選出権を7人の聖俗の諸侯に認める。  
       → c 選帝侯  :マインツ、トリール、ケルン、ベーメン、ブランデンブルク、ザクセン、ファルツの諸侯。

解説

金印勅書の七選帝侯金印勅書によって定められた、七選帝侯。彼らは、金印勅書の付帯的な条項によって、選帝侯領は分割されず長子によって相続されること、貨幣鋳造権・関税徴収権・鉱山採掘権などが認められたこと、裁判権が強化されたことなど、大幅な特権が認められた。これによって彼らの領邦は神聖ローマ帝国内にありながら独立した国家の形態をとるようになった。 
  • 意義:d 諸侯の皇帝に対する優位が確定し、ドイツの領邦による分権体制が固定化された。 
ハプスブルク家  の支配  a スイス  から興り、次第に領地を拡大。
  •  オーストリア  全域を支配。c ウィーン を拠点とする。
     → 15世紀後半以降 神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ皇帝)の位を独占するようになる。
領邦の分立  聖俗諸侯、帝国都市の代表で身分制議会のa 帝国議会  を開催したが、統一進まず。
  • 大小の諸侯と自由都市などの約300のb 領邦 (地方主権)に分立。
(2)神聖ローマ帝国の周辺(スイスとイタリア)
東方植民  の進展  十字軍時代とその後の12~15世紀 ドイツ人は盛んに東方に進出。
  • エルベ川以東のa スラブ人  とマジャール人の居住地区を圧迫しながら、諸侯国を建設。
  •  ブランデンブルク辺境伯  領:12世紀に成立。後にホーエンツォレルン家領となる。
  •  ドイツ騎士団領  :もと宗教騎士団。13世紀にバルト海沿岸に進出。d プロイセン の基盤となった。
  • 15世紀以降のエルベ川以東 e 西ヨーロッパ向けの穀物生産が行われ、領主権と農奴制が強化される。  
スイス  の独立 13世紀以来、オーストリア(a ハプスブルク  家)から独立運動を展開した。
    • 1316年 b 3州の自治権  が認められ共和政実施。州(カントン)の連合体としての結束が強まる。

 

  • 1499年 a ハプスブルク  軍を破る。事実上の独立を達成。
     → 1648年 三十年戦争後のウェストファリア条約で独立承認される。(後述)
イタリア  の分裂  神聖ローマ帝国の皇帝の干渉(a イタリア政策  )をうける。
  • 南部はb 両シチリア王国  シチリアとナポリに分裂。ノルマン人、ドイツ、フランス、スペインが進出。
  • 中部にはc ローマ教皇領  が広がる。教皇自身が統治する国家となる。
  • 北部はd ヴェネツィア ・e フィレンツェ ・f ジェノヴァ ・g ミラノ などの都市国家が自立。
  • さらにh 教皇党(ゲルフ) とi 皇帝党(ギベリン) が対立。
     → 都市ごとに両派に分かれて争っただけでなく、各都市内部でも両派に分かれて対立した。
     = j 都市の新興商人層は教皇党を支持、封建諸侯・都市の大商人層は皇帝党を支持する傾向があった。  

 

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第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展

2017-06-27 | 生物暗記法

 

4節 西ヨーロッパの中世文化

ア.教会と修道院

■ポイント 西ヨーロッパ中世でのカトリック教会と修道院の果たした役割について知る。

(1)教会と修道院 西ヨーロッパ中世では、a ローマ=カトリック教会  が絶大な権威を持っていた。

    • 出生・結婚・臨終などの人生の節目に教会の儀式が関わり、教会のみが魂の救済ができると考えられた。
       → 教会からのb 破門 は最も思い罰であった。

 モンテカシーノ修道院 

  •  修道院  は、本来は世俗から離れた修行の場であった。
     → 中世ヨーロッパでは教会と修道院が大きな文化的役割を果たした。

(2)修道院の改革運動

ベネティクト修道会  の設立 6世紀
  •  ベネディクトゥス  がイタリアのb モンテ=カシノ  に開設。
    =c 「清貧・純潔・服従」  を戒律としd 「祈り、働け」  
      モットーとする。 → 労働観の変化 
  •  古典古代の生産労働を奴隷に任せるという考えを転換させた。    
     → 次第に修道院も領主化し、腐敗・堕落が起こってくる。
開墾にはげむ修道士

開墾にはげむ修道士

修道院運動  修道院の堕落を批判、改革を目指す運動が起こる。
  • 910年 南フランスにa クリュニー修道院  が設立される。(前出)
  • 1073年 ローマ教皇b グレゴリウス7世  の改革。(前出)
     → 神聖ローマ皇帝とのc 叙任権闘争  を展開(前出)
大開墾時代  11世紀末 a シトー修道会  (フランスの中部)
  • 12~13世紀 修道院による耕地の開墾がすすむ。
     背景 農業生産力の増大 → キリスト教世界の人口増加 →
     大開墾は、十字軍運動、ドイツ人の東方植民、イベリア半島でのレコンキスタと連動していた。    
D 13世紀の修道院運動

解説

 キリスト教の教会と修道院については、第5章1節ですでに触れられている。また、修道院運動も、一時期だけでなく、次のような波があるので注意しよう。
  • 第一の波 6世紀 ベネディクト派による修道院運動
  • 第二の波 11世紀 クリュニー修道院を中心とした改革運動
  • この間に、シトー派修道会による大開墾時代が入る
  • 第三の波 13世紀の托鉢修道会による改革運動
  •  フランチェスコ修道会   (イタリア)アッシジのフランチェスコ が創始。
  •  ドミニコ修道会  (スペイン) → 異端審問を推進する。
     → 托鉢をしながら、民衆を教化し、c 托鉢修道会  と言われる。

(3)キリスト教神学 学問もキリスト教の支配下にはいる。

  • 神学が最高の学問となり、哲学や自然科学もその下に置かれa 「哲学は神学の婢」  といわれた。
  • 聖職者・修道士は知識人として国際的共通語b ラテン語  を用いる。
     参考 382年頃  ヒエロニムスが▲c 聖書のラテン語訳  (ウルガータ)を行う。
     → キリスト教神学を柱としたキリスト教文化が、ヨーロッパ文化の重要な要素として現在も続く。
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用語リストへ

Text p.151

イ.学問と大学
カロリング小文字体
カロリング小文字体

■ポイント 「12世紀ルネサンス」の内容を把握する。

カロリング=ルネサンス   8~9世紀 
  • フランク王国 a カール大帝  の宮廷でb ラテン語  の学芸を
     保護する。→ 文芸復興の先駆けとなる。
  •  アルクィン  :イギリス出身。カール大帝のアーヘンに招かれる。
     → 古典研究を始め、7自由学科 などラテン文化の復興に努める。
  •  アルファベット小文字   カロリング小文字体から普及した。
スコラ哲学  11~12世紀に隆盛。
  •  スコラ  = 教会や修道院の付属学校のこと。キリスト教神学の論理的体系化をすすめる。
     → ローマ=カトリック教会の権威の確立をめざし、西ヨーロッパ特有の学問として発展した。
  •  普遍論争  が中心的議論となる。
      c 実在論  :d アンセルムス  ら、普遍は実態として現実に存在するとする。
      e 唯名論  :f アベラール  ら、普遍は思考の中(観念)に存在するにすぎないとする。
12世紀ルネサンス 

解説

中世ヨーロッパの文化がけしてキリスト教の理念だけで成り立っていたのではなく、豊かで多面的な文化であったことを示す動きとして、12世紀ルネサンスが注目されている。特に、ヨーロッパの人びとが十字軍運動を契機にイスラーム圏と接触することとなり、イスラーム文化に触れることによって、その中に伝えられていたギリシアの古典文化を知ったことが、後の14世紀に始まる本格的ルネサンスへの橋渡しとなったと考えられている。
  • 十字軍運動などを契機として東方との交流盛んになったことによって生じたヨーロッパ文化の変化。
  •  ビザンツ帝国とイスラーム圏からもたらされたギリシア語文献・アラビア語文献がラテン語に翻訳された。  
    ※古代ギリシアの文献は、b バクダードの知恵の館  でアラビア語に翻訳され、さらにイベリア半島の
     c トレドの翻訳学校  などで、ラテン語に翻訳されてヨーロッパに知られるようになった。(前出)
  • 特にギリシアのd アリストテレス  哲学によるスコラ学の体系化がすすむ。
  • その他の12世紀の西欧文化の新た強い動き。
      e 大学の成立  、f ゴシック式建築  、g 騎士道物語  の発生など(いずれも下掲)
トマス=アクィナス
 トマス=アクィナス  
D キリスト教神学の大成と新しい思想の登場
  • 13世紀 a トマス=アクィナス  、b 『神学大全』  を著す。
     = 実在論にたってスコラ学を大成し、ローマ教皇権の理論的支柱となる。
  •  ロジャー=ベーコン  :13世紀 イギリス。オックスフォード大学
     → イスラーム科学の影響を受け観察と実験を重視した近代的自然科学を準備。
  •  ウィリアム=オブ=オッカム  :14世紀 イギリス。唯名論を復興し、
    神学と哲学の分離を説く。
     → 近代的合理思想の基礎を築く。

Text p.152

中世の大学   12世紀 に始まり13,14世紀に発展した。
    • 中世の学問の中心は教会・修道院にあったが、商業の発展にともない都市に移った。
    • 起源 = a 教会付属学校を母体に、教授と学生の組合として大学が生まれた。   
       → 教皇や皇帝から与えられたb 特許状によって自治を認められたギルド  として運営された。
    • 構成 神学・法学・医学の3学部と人文学部(一般教育)がそろった大学を▲c ユニベルシタス  といった。
    • 科目:▲d 7自由学科  :教養科目として文法・修辞・弁証法・算術・幾何・天文・音楽があった。
中世の大学
中世大学の講義風景
  • 中世ヨーロッパの主な大学
    イタリア:e ボローニャ大学  :最古の大学とされる。法学で有名。
         ▲f サレルノ大学  :アラビア医学を導入した医学。
    フランス:g パリ大学  :神学部=ソルボンヌが有名。 
    イギリス:h オクスフォード大学  :パリ大学を模範に創設。神学の研究。
         i ケンブリッジ大学  :オクスフォードから分離。法学の研究。
        → この両校はいずれもj コレッジ制  =学寮が中心。
    ドイツ領:▲k プラハ大学  :ドイツ語圏最古の大学。
         神聖ローマ皇帝カール4世が創建。

<参考>大学の自治 大学の自治権は保障され、政治権力の支配は及ばなかった。

自治を担う教授と学生は身分は対等であったが、学生が管理運営の中心となって運用するボローニャ大学型と、各教科の教授団が運営するパリ大学型の違いがあった。

14世紀 封建社会の行き詰まりに伴い、カトリック教会の学問・芸術支配に対する疑問が起こってくる。
 → 商業的先進地域であったイタリアで、人間中心の新しい世界観=ルネサンスの動きが始まる。

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用語リストへウ.美術と文学

Text p.148

■ポイント ロマネスク様式とゴシック様式の違いを理解する。中世の文学の特質を理解する。

(1)美術 教会建築とそれに付属した壁画が発達。
 ・中世初期のa ビザンツ様式  の模倣から脱し独自の様式を持つようになる。

ピサ大聖堂

 ピサ大聖堂   右端が斜塔

ロマネスク様式  11世紀ごろ いいロマピヴォク重子はん。
  • 特徴:a 半円状アーチ  と厚い壁、小さな窓。
     = 重厚、荘重な安定感。
  • 分布:旧ローマ帝国領の都市に建設され、次第に北ヨーロッパの
       山間部に広がった。
  • フランス:クリュニー修道院(前出)
    イタリア:b ピサ大聖堂   (斜塔で有名)
    ドイツ:ヴォルムス大聖堂(神聖ローマ帝国の帝国議会開催地)

ゴシック様式   12~13世紀

ケルン大聖堂

 ケルン大聖堂  

    • 特徴:a 尖塔アーチ  と穹窿天井、高い塔、薄い壁、広い窓と
         b ステンドグラス  
    • 背景:カトリック全盛期の強い信仰心を象徴し、都市の商人の経済力
         を背景に、大都市に建設された。
    • フランス サン=ドニ修道院(最古の例)
           c ノートルダム大聖堂   (パリの中心部シテ島にある)
           d ランス大聖堂   (クローヴィスの洗礼教会)
           e シャルトル大聖堂   (ステンドグラスで有名)
           f アミアン大聖堂  (最大規模のゴシック建築)
    • ドイツ  g ケルン大聖堂   (ドイツ最大の建造物 完成は19世紀)
シャルトル大聖堂

 シャルトル大聖堂 
のステンドグラス

  • イギリス h カンタベリー大聖堂  (イングランドの大司教座教会)
         ウェストミンスター大聖堂 (イギリス国王の戴冠式場) など

・14世紀 あらたにルネサンス様式が起こる。

(2)文学

  •  ラテン語  の文学にかわり口語(俗語)文学が生まれる。
  •  騎士道物語   西欧中世の人間の理想像となる。
     武勇と主君への忠誠、神への信仰、女性・弱者への保護を重視したc 騎士道  
     道徳が重んじられる。
     ドイツ:d 『ニーベルンゲンの歌』  (ゲルマンの古伝説の英雄詩)
     フランス:e 『ローランの歌』  (カール大帝の時代の騎士の武勇を歌う)
     イギリス:f 『アーサー王物語』  (ケルト人の古伝説から発展)
  •  吟遊詩人  の活動 12世紀 
     南フランスではトゥルバドゥール 、ドイツではミンネジンガーと言われる。
     各地を遍歴し、市場や宮廷で騎士たちの恋愛を主題にした詩を吟じた。

<参考>

北欧(ノルウェーやアイスランド)では、9~13世紀に、神話や英雄伝説が、『エッダ』や『サガ』としてまとめられ、現在に伝えられている。

 
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第6章 内陸アジア世界・東アジア世界の展開

2017-06-27 | 生物暗記法


1節 トルコ化とイスラーム化の進展

ア.トルコ系民族の進出とソグド人

■ポイント 中央アジアにおけるトルコ系民族の突厥・ウイグル、イラン系民族のソグド人の活動を知る。

  • 中央アジアのオアシス都市を結ぶa オアシスの道  には、b インド=イラン系  が多かった。
  •  トルコ系民族   前1世紀頃、匈奴の衰退に替わり、モンゴル高原で自立したd 遊牧騎馬民族  

解説

 トルコ民族はアルタイ語に属する民族で、もともとは内陸アジアの広大な草原で騎馬遊牧民として多くの部族を構成していた。世界史上、彼らは活発な民族移動を繰り返し、様々なトルコ系民族が興亡した。現在の小アジアにあるトルコ共和国は、民族的にはその後継者であるが、かつてトルコ民族が活動していた地域から遠く離れて建国している注意すること。突厥以前には、中国の史料に現れる丁零、高車、鉄勒などもトルコ系と考えられている。
突厥   の進出  はじめ、モンゴル高原で、モンゴル系の柔然の支配を受けていた。(3章3節 p.90)
    • 553年 柔然を倒してモンゴル高原を制圧。中央アジアに進出し広大なa 遊牧国家  を建設。
    • 557年頃 b ササン朝  のホスロー1世に協力し、c エフタル  を滅ぼす。(1章1節 p.25)

解説

 突厥はトルコの原音である「テュルク」を漢字に当てたもの。つまりトルコ人である。突厥は教科書のササン朝(第1章)、隋・唐(第3章)でも出てくるが、ほとんど説明がないのでイメージを作るのが難しいが、6~7世紀にユーラシア内陸部に広大な遊牧帝国を建設した、世界史上の重要な民族である。彼らが突厥文字という文字を持ったことも重要。その建国の年の552年は、現在のトルコ共和国の建国年ともされている。
  • 583年 中国のd 隋  に圧迫され、東西に分裂。
      西突厥 → 中央アジアのアム川上流地域を支配。
      東突厥 → モンゴル高原東部を支配。8世紀にトルコ系民族の最初のe 突厥文字  を使用。(p.91)
ウイグル  の進出。

解説

 ウイグル人もトルコ系の重要な民族。中国史料では「回紇」として出てきて、唐と関係が深く、特に安史の乱においては唐軍を助け、安禄山の反乱軍と戦ったことがよく知られている。文化的にはマニ教の信仰とウイグル文字が重要で、いずれもソグド人から学んだことである。また9世紀にキルギスに圧迫されて分裂、四散したことが、遊牧生活を送っていたトルコ民族が中央アジアに定住し、先住のイラン系民族もトルコ化し、その地がトルキスタンと云われるようになる契機となった。なお、彼らは後にイスラーム化し、子孫は現在も中国の新疆ウイグル自治区に多数住んでおり、漢民族とまったく違った伝統を維持している。中国からの独立の要求も強く、時として暴動やテロ事件が起きているので目を離せない。
  • 8世紀 モンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯に進出。
    → イラン系民族で、交易に従事していたa ソグド人  の協力を得て、広大な遊牧国家を建設。
  • 755~763年 b 安史の乱  では唐を助ける。(3章3節 p.93)

Text p.154

ソグド人  の活動  中央アジアで以前から活動していたa イラン系民族  

解説

 ソグド人はイラン系であることに注意。トルコ人より早く、内陸アジアのオアシス地帯で交易に活躍した。突厥、ウイグルのもとでも商業活動を続け、中国まで進出、唐では「胡人」と云われ、マニ教やゾロアスター教を伝えた。唐の宮廷に仕えるものも多く、安史の乱を起こした節度使の安禄山はソグド人だったと云われている。
  •  ブハラ  やc サマルカンド  を拠点に、さかんにd 商業活動  を行う。
    → その拠点のアム川上流地方を▲e ソグディアナ  という。(地図参照)
  • 突厥、ウイグルの遊牧国家の領内に植民して集落を作り、さらに隋・唐にも進出しf 中継貿易  に従事。
    → g ソグド商人  によって、ユーラシア大陸の東西を結ぶh 交易ネットワーク  が構築された。
  • 中国の生糸や絹を西方にもたらす。 → オアシスの道はi 絹の道(シルクロード)  と呼ばれる。(3章1節)
  •  マニ教  、k 仏教  、l キリスト教  、m ゾロアスター教  が東方に伝わった。
  • ソグド人が使用したアラム系文字のソグド文字がウイグル人に伝わりn ウイグル文字  が作られる。
     → さらに東方に伝えられ、o モンゴル文字  、p 満州文字  などの原型となった。
D トルコ系民族の西方への移動
  • 840年 ウイグルはa キルギス人   (同じトルコ系民族)の攻撃を受け、東西に分裂。
     東ウイグル パミール高原の東、唐の西部辺境(西域)のタリム盆地に移動して定住。
     西ウイグル パミール高原の西、ソグディアナの地に移動し定住。
  • さらに圧迫された別のトルコ系民族が西方への移動を開始した。
トルキスタン要図
先頭へ
イ.トルキスタンの成立

■ポイント トルキスタンという地名の意味と、その地域の特性を理解する。

トルキスタン   の成立

Text p.156

  • 9世紀 a ウイグル  国家の崩壊 → トルコ系のウイグル人がパミール高原の東西に広がる。
    → オアシス地帯に定住し、先住のイラン系民族と同化が進む。 → b 中央アジアのトルコ化  が進む。
  • トルコ化 = c トルコ系民族の定住化にともないイラン系民族がトルコ語を使用するようになったこと。  
B 東西のトルキスタン
  • パミール高原の東西がA アトルキスタン  といわれるようになる。(ペルシア語で「トルコ人の地域」の意味)
  • a 西トルキスタン   かつてのソグディアナ。現在のウズベキスタン、タジキスタン。
      ソグド人が多く、イラン起源のb ゾロアスター教   が信仰されていた。
  •  東トルキスタン   タリム盆地のオアシス地帯。現在の中国の▲d 新疆ウイグル自治区  
      ウイグル人を中心にe マニ教  、f 仏教  の信仰が盛んになる。
  • ウイグル人はソグド商人に替わり、内陸アジアの国際交易に活躍した。(モンゴル帝国の成立する13世紀まで)
先頭へ
用語リストへウ.トルコ人のイスラーム化 
■ポイント トルコ系民族がイスラーム教を信仰するようになった経緯と意義を知る。
タラス河畔の戦い  751年
    • 8世紀初め以降、アラブのイスラーム教徒の勢力がトルキスタン南西部に進出。
      → アム川の向こう岸をマーワラーアンナフルと呼ぶ。ムスリム軍とトルコ系遊牧騎馬軍の衝突続く。

解説

 イラン高原から北上したアラブ人はアム川以北の肥沃な地を「マーワラーアンナフル(川の向日の地の意味)」と呼んであこがれていた。また唐は西域支配を拡張し、西トルキスタン進出を狙った。結果としてアッバース朝の勝利は、イスラーム教が中央アジアに広がること唐の衰退の始まりにつながった。この戦争で、唐からイスラーム世界に製紙法が伝えられたことはすでに学んだ。
    • 751年 タラス川の河畔でa アッバース朝  のムスリム軍がb 唐  の軍隊を破る。
       → c 西トルキスタン地方のイスラーム化が始まった。   
サーマーン廟

ブハラのサーマーン廟

  • 9世紀 ムスリム商人の活動活発になりアラル海方面に進出したトルコ人と接触。
    → d トルコ人のイスラーム化が進む。  

サーマーン朝  875年 イスマイール=サーマーンが建国。

    • 都はa ブハラ  。b イラン系  の最初のイスラーム国家。
      → アッバース朝から西トルキスタンの支配を認められる。
    • 都a ブハラ  にイラン=イスラーム文化が成立。(4章4節)
        イスラーム医学を大成させたc イブン=シーナー  が活躍。(p.118)
    • トルコ人のイスラーム教への改宗も進む。

解説

 サーマーン朝はイラン系の地主であったイスマイール=サーマーンがアム川以北のマーワラーアンナフルで初めてイスラームに改宗し、アッバース朝カリフからその地方の支配権を認められた地方政権。その都ブハラは古来イラン系のソグド人の商業活動で栄えたところで、シルクロードの重要な中継地でもあった。
 写真はイスマイール=サーマーンの廟。ブハラ近郊で近年に発掘されたもので、約9m四方の四角い建物の上にドームを持つこの建築は、日干し煉瓦だけで築かれ、中央アジアにおける最初のイスラーム建築として貴重である。
  • トルコ人を軍人奴隷とするd マムルーク  が始まる。(4章2節 p.106)

Text p.157

カラハン朝   10世紀半ば ~ 12世紀半ば

  • 999年 サーマーン朝を滅ぼし、a トルコ系  の最初のイスラーム国家として成立。
    → b 東西トルキスタン  を併せて支配。
  • トルキスタンのトルコ人のイスラーム化がさらに進む。
    → 中央アジアのイスラーム化が決定的となる。
  • 1077年 中央アジア出身のc カシュガーリー  、『トルコ語辞典』をバグダードで完成させる。

D トルコ人の西方移住が進む

  • イスラーム化した中央アジアのトルコ系民族は、その後も西方移住を続けた。
  • 11世紀 a セルジューク朝   西アジアに進出。1055年 バグダードに入城しブワイフ朝を倒す。(4章2節)
    → さらに小アジアに進出し、ビザンツ帝国を圧迫。 → キリスト教側のb 十字軍運動  を誘発。(5章3節)

・13世紀末 c オスマン帝国   小アジアに起こったトルコ系国家。15~19世紀に大国として繁栄。(後出)
 ※トルコ共和国は、現在は小アジアの一国名であるがトルコ系民族は中央アジアで広く活動していたことに注意

 
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俵物

2017-06-26 | 生物暗記法

深入り星は俵物。

ふかひれ・いりこ)(干し鮑


[句意]強く煎ったほしあわびだ、という句。


[ポイント]

1.俵物3品とはふかひれ(ふかのひれ)・いりこ干し鮑(ほしあわび)。

[解説]
1.17世紀末以降、にかわる中国(清)向けの主要な輸出品として俵物3品干し鮑いりこふかひれなど)や昆布がさかんに用いられるようになると、その獲得をめざして、蝦夷地や陸奥で漁業がさかんになった。

2.ふかひれは、のヒレ、中華料理の高級食材。鮫の背びれ、尾びれ、胸びれを乾燥させたもので、ゼラチン質独特の食感がある。


3.いりこは、なまこの干したもの。なまこの腸を取り去り、乾燥する。


4.干し鮑は、乾燥させることにより素材のうま味が増し、生のものよりも、よりふっくらと香り高く仕上がることから珍重される。

2016明大・農:「
問8 下線部(オ)田沼意次に関連して、田沼意次が行った政策について記述した文章として適切でないものを一つ選べ。

 A はじめて南鐐二朱銀などの計数銀貨を鋳造させ、金銀通貨の一本化をねらった。

 B 銅座に貿易用の銅の独占確保をおこなわせた。
 C 俵物役所を設けて俵物の輸出を奨励した。
 D 蝦夷地の開発やロシアとの交易を計画して、間宮林蔵らに北方調査をおこなわせた。
 E 新田開発に力を入れ、利根川水系の印旛沼・手賀沼の干拓に着手した。」

(答:D× ※田沼が北方探検に送ったのは最上徳内)

2013慶大・文:「
 長崎貿易では17世紀末以降、( F )に代わり( G )が清への主な輸出品となり、蝦夷地以外でもその生産が進められた。

 1京都 2南海路 3銅

 4北前船 5俵物 6鉄
 7駿府 8東海道 9菱垣廻船」

(答:F3、G5)〉

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藍・紅花

2017-06-25 | 生物暗記法

藍のア。

阿波(あわ)・(あい))(花(べにばな)・出羽(でわ))


[ポイント]

1.江戸時代の代表的特産物といえば、阿波出羽紅花

[解説]

1.は、タデ科の1年草。葉や茎を原料に染料を採る。欧米ではジャパン・ブルーとかヒロシゲ・ブルーとよんだ。Gパンの染料がこれである。葉藍を発酵させたものを搗(つ)き固めたものを藍玉(あいだま)といい、この特産地として阿波地方が有名。

2.紅花は、アザミに似た花。花から紅が採れ京染めなどの染料や化粧品に使われる。種からは油をとる。最上地方出羽)が特産地として著名。


2014立大・現心コミュ福祉観光営:「

問10.これ(各地の特産物)に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.阿波の藍玉と出羽村山の紅花が染料として利用された

 b.紀州みかんや甲州ぶどうといった果物が生産された
 c.薩摩藩の専売品となった伊万里焼が、長崎から輸出された
 d.名産品の生産現場を紹介した『日本山海名産図会』が刊行された」

(答:c×伊万里焼は唐津藩)〉

2014早大・教育:「
 次の史料とその解説文を読み、下記の問に答えよ。

〈史料〉
[ A ]の儀、連年違作(注1)凶年打ち続き侯うち、たまたま去丑年豊熟の様申し触れ候ところ、もっての外、見込み違いの作毛にて驚き入り候えども、郡内一統の見込み違い詮方なく、当春中ご廻米高存外あい嵩み、それらにつき夫食(ふじき)(注2)払底(ふってい)にあいなり、米穀直段は春中より至ってあい進み、日々増し高貴にあいなり、a買い食いの者夫食に差し支え侯……、ケ様に候うえは、来卯年に至り何様の変事出来申すべく哉計り難し、と郡内一統悲歎に沈み捨て置かず、今般[ A ]御料御私領むきむき重立ち候名主庄屋ども、一統参会仕り、左の通り取りきめ申し候、
  [ A ]一統申し合わす議定(ぎじょう)
一 米穀他郡出に御差し留め願い上ぐべき事、
   但、樽酒紅花種同断の事、
   これは紅花の義、当郡第一の産物ゆえ、先年より紅花種他郡出に留め願い上げ奉りおき候えども、猶又今般申し合わせ厳しく他郡出御差し留め願い上げ奉るべき事、
一 酒寒造りの儀は三分の一造り、……
一 b神事仏事婚礼などに至るまで手軽にいたし、その外年賀すべて祝い事決して致すまじく候事、
一 夫食の儀は一食は粥、その外雑穀糧たくさんに取り用い申すべき事、
(以下略)
(注1)違作:凶作のこと。 (注2)夫食:百姓の食糧のこと。

 

問1 この史料を代表例とする議定は、空欄のような単位で作成されることが多かった。その地域単位は何か。この史科中にその語があるので、そこから見つけ出し、漢字一字で答えよ。

問3 この史料の文脈上、下線部a買い食いの者に該当しないものはどれか。


 ア小作人 イ日用 ウ職人
 エ水呑 オ在方商人


問4 この史料が作成されたのはどこか。


 ア肥後 イ出羽 ウ飛騨

 エ土佐 オ越中

問5 この史料が取り決めたことに該当しないものをすべて選べ。


 ア 樽酒の[ A ]の外への移出を推進する。

 イ 神事・仏事・婚礼などを簡素化する。
 ウ  紅花の種の[ A ]の外への移出を禁止する。
 エ  年賀などの祝い事については通常通りとする。
 オ  粥・雑穀の食用を推進する。
 カ  米穀の[ A ]の外への移出を禁止する。
 キ  酒造を制限する。

問6 江戸時代の下線部b神事仏事の説明で正しいものはどれか。

 ア 檀那寺の行事ではない宗教行事に参加する者はいなかった。
 イ 幕末に登場した民衆宗教は、おもに仏教系の宗教活動であった。
 ウ 天皇や将軍の宗教活動は、もっぱら神社信仰であった。
 エ 修験者・陰陽師の祈躊や占いは人びとの頼りにされた。
 オ 神職は寺請けの宗門改を免除された。」

(答:問1郡※史料文の「郡内一統の見込み違い詮方なく」から、郡とわかる、問3オ※「買い食いの者」とは米価が上昇して苦しむ、日用(日雇い)や水呑のような貧民層、問4イ※「紅花の儀、当郡第一の産物」とあるので紅花の特産地である出羽とわかる、問6エ)〉

2012立大・全学部2/6:「
 また、染色技術が進んだことにより、阿波の〈 え 〉や出羽の紅花が特産物となっていった。」

(答:藍)〉

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『誹風柳多留』(柄井川柳)

2017-06-20 | 生物暗記法

配布やな義太夫唐千里。

誹風柳多留(はいふうやなぎだる))(柄井(からい)川柳


[句意]配布するのが難儀でかったるい川柳だ、という句。


[ポイント]

1.『誹風柳多留』は、柄井川柳撰の川柳句集。

[解説]

1.柄井川柳(1718~1790)は、浅草の名主の家の生まれ名主を継ぐ。前句付けの点者(評者)として名声を確立した。

2.「川柳」は18世紀半ば、前句に対し、五七五の長句(附句)をつけて、両句の間に醸し出されるウィットやユーモアに風刺(滑稽穿ち(うがち)、軽み(かるみ)の3要素)を競い合う短詩文芸。前句から切り離された長句を川柳と呼ぶようになった。江戸川柳のうちでも、柄井川柳が評に当たった1757年(宝暦7)から1789年(寛政元)にいたる33年間の選句を、とくに「古川柳」と呼ぶ。


3.柄井川柳が、例えば「切りたくもあり切りたくもなし」という前句を発表し、これに対して各町内に投稿場所を設けて投句を募る。「泥棒を捕えてみれば我が子なり」といった句が応募してくる。年10回くらいの募集機会があり、1回16文(500円ぐらい)で応募できる。優秀作が柄井川柳の撰で次号の『誹風柳多留』に掲載され若干の商品も出るという仕組み。


4.「川柳」は我が国で唯一、個人名が文芸の名称となった文芸。当時、数万の江戸市民が川柳を楽しんでいたと推定される。18世紀後半と言えば、アメリカやヨーロッパでは戦乱や虐殺が絶えなかった時代、この時代に優雅な遊びに我が国の市民が興じていたことは、誇るべきことである。

2016法大・法(政法)国際キャリア:「
問1「さまざまの事おもひ出す桜かな」。これは、江戸時代に作られた[   ]である。

 ア今様 イ発句(俳諧)
 ウ小歌 エ川柳 オ狂歌
 カ狂詩」

(答:イ)〉

2004大学入試センター試験追試:「

問4 下線部c政治や社会を風剌する川柳や黄表紙に関して、当時の世相を風刺した次の川柳の背景について述べた文として正しいものを、下の1~4のうちから一つ選べ。

 役人の子はにぎにぎをよく覚え(『誹風柳多留』)


 1 これは、意次の時代に銀座が設立されたことを詠んだものである。

 2 これは、意次の時代に賄賂が横行したことを詠んだものである。  
 3 これは、定信の時代に武道が奨励されたことを詠んだものである。
 4 これは、定信の時代に学問が奨励されたことを詠んだものである。」

(答:2)〉

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1096年 〈第1回十字軍の出発(~1099)〉★

2017-06-18 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

 ▲第1回十字軍のエルサレム攻撃

●教会(中世カトリック教会)

The first expedition of the Crusaders.

ベック式!ゴロ合わせ

従軍(じゅうぐん)向かう 家を去る。

 1096年  

  十字軍 

   セルジューク=トルコ  イェルサレム 

 

11世紀、聖地イェルサレムを支配したセルジューク朝が小アジアに侵入してビザンツ帝国を圧迫。

ビザンツ皇帝アレクシウス1はローマ教皇に援助を要請した。ローマ教皇ウルバヌス2は1095年、クレルモン公会議 《「レルモン会議」で「95」!》 を召集して聖地回復の十字軍を提唱。

1096年、決定に基づいて第1回十字軍が派遣された。聖地は奪回されイェルサレム王国が建てられた。

 

十字軍運動の展開  11世紀末~13世紀の約200年にわたって展開された(回数には諸説あり)。
    • 第一回  a 1096 年に出発し、1099年に聖地を回復、略奪。b イェルサレム王国  を建設。
        → イスラーム世界はまとまりを欠いていたが、まもなく勢力を回復し激しい抗争が続く。

解説

1099年に十字軍がイェルサレムを占領したとき、十字軍兵士によってイスラーム教徒やユダヤ教徒の7万人が虐殺され、「岩のドーム」などの財宝が略奪された。この時成立したイェルサレム王国の国王となったロレーヌ侯ゴドフロワは「聖墳墓の守護者」を名乗ったが、実態は世俗的国家で、十字軍の諸侯に土地を分け与えた。
  • 第二回  1147~49年 独王(コンラート3世)・仏王(ルイ7世)が参加 両者反目し失敗。
      1187年 c サラディン(サラーフ=アッディーン)  率いるアイユーブ朝軍がイェルサレムを占領。
  • 第三回  1189~92年 独王d フリードリヒ1世 ・仏王e フィリップ2世  英王f リチャード1世  
         が参加し最大の規模となる。しかし独王が途中で溺死、仏王が英王と対立し帰国。
       → 英王f リチャード1世  がc サラディン と単独講和に成功するも、聖地奪回出来ず。

解説

サラディンに占領されたイェルサレムを奪回するために起こされた第三回十字軍は、イギリス・フランス・ドイツ三国の国王が参加するという最大規模のものであったが、途中ドイツ王は小アジアで事故死しったためドイツ軍は引き返し、英仏両軍は本国で対立していたので共同作戦はうまくいかなかった。ようやくアッコンを奪回したところでフランス王は帰国、残ったイギリス王リチャード1世がサラディンとの間で休戦協定を結んで帰国した。聖地奪回はできなかったが巡礼の安全を確保することができた。
E十字軍運動の変質  ▲背景 13世紀初頭の世界情勢 a モンゴル帝国  の成立(1206年)。
    • 第四回  1202~04年 b ヴェネツィア  商人の要求でc コンスタンティノープル  を攻撃。
    • その地にd ラテン帝国  を立てる(前出)。ビザンツ帝国は一時消滅し、亡命政権をつくる。

解説

第4回十字軍 ローマ教皇インノケンティウス3世が提唱し、フランス諸侯がそれに応じて参加したが、その輸送を請け負ったヴェネツィア商人がコンスタンティノープルを占領することを提案して途中で方向が転換された。ヴェネツィアは東地中海の貿易でコンスタンティノープル商人と激しく競争していたのだった。聖地回復をほったらかしたことに対してインノケンティウス3世は第4回十字軍を破門にしたが、後に東方教会を統合する機会であると考えてそれを許した。
ラテン帝国 フランドル伯ボードワンを皇帝としたが実権はヴェネツィア商人が握っていた。それ以外にもいくつかのキリスト教徒諸侯を君主とする国が造られている。コンスタンティノープルを中心に東方との交易権を拡大しようとしたが、北方のブルガリアや、小アジアのビザンツ帝国の亡命政権であるニケーア帝国に攻撃され、ふるわず、1261年にニケーア帝国によって倒された。ニケーア帝国のミカエル8世はビザンツ皇帝となり、新たなパレイロゴス朝を始めるが、それがビザンツ帝国最後の王朝となる。
  •  宗教騎士団  の活動 f ドイツ騎士団   、 テンプル騎士団 、 ヨハネ騎士団 など。
       = 巡礼路・聖地の治安維持を目的とした騎士修道団。次第に秘密結社化する。
十字軍運動の終結  1212年 a 少年十字軍  の失敗。
  • 第五回  1228~29年 ▲皇帝b フリードリヒ2世   話し合いで聖地一時回復。
  • 第六回  1248~54年 仏王c ルイ9世  が主導。エジプト攻撃に失敗。
  • 第七回  1270年 仏王c ルイ9世  が主導。海路チュニスへの遠征失敗。王も病没。
・1291年 十字軍最後の拠点d アッコン  が陥落しe イェルサレム王国  滅亡、十字軍時代終わる。

地図 主な十字軍の経路

十字軍
 イスラーム勢力圏
 a 第1回十字軍  
 b 第3回十字軍  
 c 第4回十字軍  
 d 第6回十字軍  
 e 第7回十字軍  
 f 東方植民    
 g レコンキスタ  
 h ラテン帝国   

 

まとめ:運動への参加意図 聖地回復という宗教的情熱と共に、参加者の意図には次のようなものがあった。
     
  • ローマ教皇:a 教皇権を確立すると共に、東西教会の統一を目指した。  
  •  
  • 諸侯・騎士:b 従軍することによって、新たな領地と戦利品を求めた。  
  •  
  • 都市の商人:c 東方との遠隔地取引による商業的利益の拡大を求めた。  
  •  
  • ▲農民:十字軍に参加することでd 負債の帳消し、農奴身分からの解放を求めた。  
十字軍運動の結果:a 聖地回復には失敗    、その後の西ヨーロッパ世界に大きな影響を与えた。
影響
     
  1. 結果的に聖地回復ができなかったことによって、b  教皇の権威の動揺がはじまった。  
  2.  
  3. 遠征軍を指揮したc 国王の権威は高まった。  
  4.  
  5. 長期の遠征によりd 諸侯・騎士の没落が始まった。  
  6.  
  7. 十字軍の出港地となったe イタリア諸都市の繁栄がはじまった。  
  8.  
  9. 地中海貿易によるf 東方との貿易が再び活発になりヨーロッパの商業が復興した。  
  10. 先進文化圏であるg ビザンツ帝国、イスラーム圏の文化が流入することとなった。  

Text p.139

 → 十字軍は、中世の西ヨーロッパの国家、社会、文化を大きく転換させる契機となった。  

 


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988(永延2)年 〈尾張国郡司百姓等解(文)〉★

2017-06-17 | 『新日本史頻出年代暗記』

●平安時代(一条天皇)
 
Fujiwara no Motonaga is accused of avarice and greed by Owari peasants.
苦や辱め もう終わり。
 988年 受領 藤原元命 「尾張国郡司百姓等解(文)」 

安和の変以降、藤原氏による摂関政治は全盛期に向かい、疎外された中下級貴族は地方行政が委任された国司職に群がった。

赴任した国司の最上級者は受領とよばれ、重税を課して郡司や有力農民から訴えられる者もあった。988年、尾張の国司藤原元命は、その悪政を31箇条にわたって同国の国司・百姓等に訴えられ(『尾張国郡司百姓等解(文)』)、国司を解任された。

 

4.受領および農民訴状など 

4人樹木代受領成功。

遙任(ようにん)・除目(じもく)・目代(もくだい))(受領(ずりょう)・成功(じょうごう))


[句意]4人の樹木代の受領に成功した、という句。「成功」はゴロのため一般的な(せいこう)の読みを使っているので注意してください。


[ポイント]

1.「遙任」で代理赴任した「目代」や、「除目」で「成功」をねらう「受領」の国司は現地での収奪に励んだ。

 

[解説]
1.国司に任命されても赴任(ふにん)せず、目代を派遣して国務を処理させる遙任遙任国司)の制度が公認されると、上級貴族にとっても国司が利権的な職となった。

2.その一方、任国に赴(おもむ)いた国司である受領(派遣国の目代も同じく受領)の多くはあらゆる手段を用いて私腹(しふく)を肥(こ)やそうとつとめ、在地の在庁官人(ざいちょうかんじん)・郡司や有力農民たちと対立し、たびたび紛争を起こした。強欲受領としては、尾張国郡司百姓等解文藤原元命(もとなが)と、『今昔物語集』の信濃守藤原陳忠(のぶただ)とが代表的。


3.受領たちはその富をもって任免権をにぎる摂関家に賄賂(わいろ)をおくり、つぎの除目(国司など諸官の任命儀式)の際も継続して任命されること(成功)をねらった。上記の尾張国守藤原元命は、988年、国内の郡司・百姓から、その暴政を31カ条にわたり列挙した訴状尾張国郡司百姓等解文で太政官へ訴えられ、翌年、解任された。


2015京都大・前期

(4)下線部(b)の「少納言兼家」が摂政であった988年に郡司や有力農民が受領の非法を書きあげ朝廷に提出した訴状の名称を記せ。」

(答:尾張国郡司百姓等解)

2014立教大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

2.988年に「尾張国郡司百姓等解」によってその暴政を訴えられたのは誰か。その名をしるせ。」

(答:藤原元命)

 2013立命館・文法済営などA方式

(o)下線部⑮に関連して、受領のなかには、多くの富を得ようと厳しく徴税を行うものも少なくなかった。その悪政を郡司や百姓から訴えられ、989年に解任された尾張国の国司は誰か。氏名を答えよ。」

(答:藤原元命)〉

 2013首都大・前期

 国政の運営は,行政全般をつかさどる機関である[ ウ ]での公卿による審議を中心におこなわれたが,摂政・関白は天皇と[ ウ ]の間にたってすべての政務を把握し,特に諸司・諸国の官人を任命する[ エ ]など,人事において大きな権限を握った。中・下級貴族は,人事権を握る摂関家や,推挙権をもつ皇族や公卿に仕え,(b)儀式や行事,造営事業などにおいて,さまざまな奉仕をおこない,経済的利権の大きい国司への任官を求めていった。

問1 文中の[ウ~エ]に入る語を答えなさい。

問3 下線部(b)に関して,官職を得るため貴族社会でおこなわれたことを50字以内で答えなさい。」

(問1 答:ウ太政官、エ除目、

問3〔解答例〕私財を投じて寺社造営等を請け負い、その代償として官職を得る成功や、官職に再任される重任が行われた。(49字))〉

 

However, folklore goes on to say, 'Motonaga Ason (second highest of the eight hereditary titles) was detested by the local people because he would not stop his wrongdoings until his death, thus (his retainer) Tameie felt horrendous about Motonaga's sins and constructed a hexagonal, two-story Buddhist temple...'

しかし「元命朝臣は猶悪事止まずして国人に憎まれ、終わりをよくせざりしとぞ、(その郎党の)為家は罪業恐ろしくおもいて、六角二階の伽藍を営み・・・」と。


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1225年 〈陳朝の成立(~1400年)〉★

2017-06-16 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

●ベトナム(陳朝)

 

Aybak founds the Moslem dynasty known as “the Slaves.”

人にニコチン注意しょう

1225年   陳朝  チュノム 昇竜

 

 

1225年、李朝の王女の婿陳煚(けい)が王位を譲り受けベトナム北部に陳朝を建国。大穀倉地帯であるソンコイ河デルタ地帯を一手に押さえる昇竜を都とした(現ハノイ)。13世紀末には3回に及ぶの遠征軍を退け、チャンパーと争った。行政制度・仏教文化が発達し、民族的意識の高揚は字喃(チュノム)と呼ばれる国字を生む。外戚の胡氏に国を奪われ、1400年に滅亡した。

 

 

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寄進地系荘園

2017-06-16 | ベック式!日本史用語集

肥え可日頃かの子にキッチン・キー貸せ。

後・鹿子木荘(かのこぎのしょう))(系荘園・紀伊桛田荘(かせだのしょう))

[ポイント]
1.寄進地系荘園の代表例は紀伊桛田荘肥後鹿子木荘である。

[解説]
1.寄進地系荘園初期荘園墾田地系荘園)に対する語。国司らの圧迫を免れるため、開発領主らが、その所有地を中央の権門(けんもん)勢家(せいか)に名目上の寄進をして、その荘官となり利権を確保した荘園。不輸(ふゆ)・不入(ふにゅう)の特権を得て、1OC頃より増加。一方公領(こうりょう)では、開発領主が、遙任国司が派遣する目代(もくだい)のもとで、在庁官人(ざいちょうかんじん)として利権を確保した。

2.鹿子木荘(肥後:熊本)は、11C初め、開発領主(かいほつりょうしゅ)沙弥寿妙(しゃみじゅみょう)の孫の代に、「権威を借らんがため」に400石の上納を条件に藤原実政に寄進し領家(りょうけ)と仰(あお)いだ。実政の曽孫願西の代に、半分の200石の上納を条件に、高陽院(かやのいん)(鳥羽天皇皇女)を本家(ほんけ)と仰ぎ、のち御室(おむろ)(仁和寺(にんなじ))に再寄進されたとある。ただし、長らく寄進地系荘園の代表例とされてきたが、原史料は鹿子木荘が成立して200年後に作成されたもので、荘園の支配権をめぐる訴訟のなかで、一方の側の主張を裏付けるために作成されたものという指摘があり、内容に疑義が唱えられている。


3.桛田荘(紀伊:和歌山)は9C初めに開発され、12C後半に後白河院に、ついで神護寺に寄進された。荘の領域を示す絵図面で知られる。

〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)〉
問6 東寺(教王護国寺)が所蔵する束寺百合文書には、束寺が領有した荘園に関する文書が多い。次のうち、東寺百合文書に含まれる文書からわかるのはどれか。1つ選びなさい。

 1 紀伊国阿氏河荘の百姓等が地頭湯浅氏を訴えたこと。
 2 伯香国東郷荘の下地中分。
 3 越後国奥山荘波月条に地頭屋敷や市場があったこと。
 4 紀伊国柿田荘の膀示の位置。
 5 肥後国鹿子木荘の伝領。」

(答:5)〉

〈2015大学入試センター試験:「

問6 下線部fに関して,次の史料に関して述べた文として誤っているものを下の1~4から一つ選べ。
 鹿子木(注1)の事
一、当寺(注2)の相承は、開発領主沙弥(注3)寿妙(じゆみよう)嫡々相伝の次第なり。
一、寿妙の末流高方(注4)の時、権威を借らむが為めに実政卿(注5)を以て領家と号し、年貢四百石を以て割き分ち、高方は庄家領掌進退の預所職となる。
一、実政の末流願西(がんさい)(注6)微力の間、国衙の乱妨を防がず。この故に願西領家の得分二百石を以て、高陽院(かやのいん)内親王(注7)に寄進す。……これ則ち本家の始めなり。『東寺百合文書』
(注1)鹿子木:肥後国(熊本)にあった鹿子木荘。
(注2)当寺:教王護国寺(東寺)のこと。
(注3)沙弥:在俗の僧。
(注4)高方:中原高方。寿妙の孫。
(注5)実政卿:藤原実政(1019~93年)。当時、大宰大弐であった。
(注6)願西:藤原隆通の法名。藤原実政の曾孫。
(注7)高陽院内親王:鳥羽天皇の皇女(?~1148年)

1 開発領主沙弥寿妙の寄進により、藤原実政が領家となった。
2 開発領主沙弥の孫中原高方は、現地を管理する預所となった。
3 実政の曾孫願西は、国衙の干渉を防ぐため、収益の一部を寄進した。
4 実政の曾孫願西の寄進により、高陽院内親王が本家となった。

(答:1)

〈2013大学入試センター試験に桛田荘の絵図を使用した問題が出題(第3問の問3)された〉

〈2012早大・文化構想:「
7 下線部水田開発と灌漑システムの管理は法的にも寺院や貴族や農民個人に委ねられるようになりについて。8世紀前半に三世一身法と墾田永年私財法が施行される。これらの法令によって東大寺などの大寺院が形成した荘園は何と呼ばれるか。2つ選び、マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。」

 ア初期荘園  イ領域型荘園  ウ寄進地系荘園
 エ公家領荘園 オ墾田地系荘園

(答:ア・オ)〉

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