「三関」
越愛(あら)美不破 伊勢鈴鹿。
(北陸道)越前 愛発関 (東山道)美濃 不破関 (東海道)伊勢 鈴鹿関
〈2018関西学院大・済国際総合2月4日
古代で最も重要な港といえばa難波津であろう。西国の物資はここに集積され都に運ばれた。難波津は西国との交通の拠点でもあり、遣唐便などの出発地でもあった。那津とも呼ばれた博多津の近くにはb大宰府が置かれ、西海道諸国の統括と外交にあたった。大輪田泊(兵庫津)は平清盛の修築が有名であるが、ここは奈良時代に既に[ c ]が整備したとする記録がある。
問1.下線部aに関して、誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しい場合は「エ」をマークしなさい。
ア.律令制では摂津職がおかれ、議政官が長官を兼務した。
イ.孝徳天皇の時に宮がおかれた。
ウ.聖武天皇の時に一時都がおかれた。
問2.下線部bの官人で、反乱を起こした人物を下記より選びなさい。
ア.大伴家持 イ.藤原広嗣
ウ.橘奈良麻呂 エ.藤原仲麻呂
問3.空欄cには、用水や救済施設を作る社会事業を行ない、一時は政府から弾圧された僧侶の名前が入る。該当するものを下記より選びなさい。
ア.空海 イ.最澄
ウ.鑑真 エ.行基
(答:問1ア※議政官は合議体で官職名ではない、問2イ、問3エ)
740年 藤原広嗣の乱
詰れ広嗣元気よく。
740年 藤原広嗣の乱 玄昉・吉備真備の排斥を訴える 恭仁京
〈2017早大・文化構想
ここでは、交通の歴史についで考えてみよう。
まず、大化改新詔の第2条では、a関塞(せきそこ)、駅馬(かゆま)などを置くことが命じられているが、この時期に設置されたとは考えにくく、潤色だと思われる。実際に、国家による道や駅家が建設されるようになったのは7世紀後半であったと、現在では推測されている。
その後、中央から地方に及ぶb七道が整備きれ、一定の距離ごとにc駅家が置かれた一方、地方では、駅路から離れて郡家などを結ぶ[ A ]と呼ばれる道が敷かれた。近年、d日本各地で官道が発掘調査により検出されるようになり、実態が解明されつつある。
問1 下線a関塞(せきそこ)は関のことであるが、古代には3つの関(三関(さんげん))が官道に設置された。このうち、関ヶ原の戦いが起きた場所の近くに位置していた関の名は何か。漢字2字で記入しなさい。
問2 下線b七道に含まれないものはどれか。1つ選べ。
ア 北陸道 イ 南海道 ウ 山陰道
エ 西海道 オ 中山道
問3 下線c駅家について述べた丈章で誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 駅長が統轄した。
イ 経費は駅田でまかなわれた。
ウ 庶民は利用できなかった。
エ 官人は皆利用できた。
オ 駅務には駅子が当たった。
問4 空欄Aにあてはまる語句は何か。漢字2字で記入しなさい。
問5 下線dについて述べた文章で正しいものはどれか。1つ選べ。
ア 道幅は10mを超えるものもあり、地形に合わせて曲がっている場所が多かった。
イ 道幅は5m以下のものがほとんどで、直線的であった。
ウ 道幅は10mを超えるものもあり、直線的であった。
エ 道幅は5m以下のものがほとんどで、地形に合わせて曲がっている場所が多かった。
オ 道幅や形態に規格性はなかった。」
(答:問1不破、問2オ、問3エ※原則は公務、例外的に高官は私的にも可、問4伝路、問5ウ)
〈2016立命館大・全学部2月3日
問b 下線部2固関に関連して、古代の三関の一つである不破関は、七道のうちいずれに設置されたものであったか。もっとも適当なものを下から一つ選べ。
あ 東海道 い 東山道 う 北陸道 え 山陰道
(答:い)
〈2016学習院大・文
律令制下では、地方諸国が七道の交通路で都と結ばれた。正確には、②〔イ西海道 ロ山陰道 ハ山陽道 ニ南海道〕は大宰府が管轄していたので、残る六道が都から放射状に②以外の諸国をつないでいたのである。その中で、都から東や北に向かう三道には③〔イ愛発関と白河関と鈴鹿関 ロ愛発関と白河関と不破関 ハ愛発関と鈴鹿関と不破関 ニ白河関と鈴鹿関と不破関〕が置かれ三関と言われた。七道の交通路には緊急連絡のための馬が④〔イ郡家 ロ駅家 ハ国府 ニ関 ホ里〕ごとに用意されて管理されていた。また、緊急時でない場合の公的乗用のためには伝馬が置かれていた。東国の道は、東北地方で蝦夷との戦争が起きた際には、大規模な軍隊が通る道にもなった。
(答:②イ、③ハ、④ロ)
〈2014立教大・現代心理(映像身体)・社会・コミュ福祉(福祉)
問4.このうち東海道におかれたのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.愛発関 b.鈴鹿関 e.箱根関 d.不破関
(答:b)
〈2008東大・前期
第一問.次の1~6の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。
1.奈良時代の東国の郡司には、金刺舎人(かなさしのとねり)など6世紀の大王宮があった地名を含む姓が見える。これはかつて国造たちが、その子弟を舎人として、大王官に仕えさせていたことによると考えられる。
2.672年、近江朝廷と対立し、吉野で挙兵した大海人皇子は、伊賀・伊勢を経て、美濃に移って東国の兵を集結し、不破の地を押さえて、近江朝廷に勝利した。
3.大宰府に配属された防人は、全て東国の諸国から徴発されており、前の時代の国造に率いられた兵力のあり方が残っていたと考えられる。
4.律令制では、美濃国不破・伊勢国鈴鹿(すずか)・越前国愛発(あらち)にそれぞれ関が置かれ三関(さんげん)とよばれた。奈良時代には、長屋王の変や天皇の死去など国家の大事が発生すると、使者を三関のある国に派遣し、関を閉鎖する固関(こげん)が行われた。
5.聖武天皇の詔には、「額(ひたい)に矢が立つことはあっても、背中に失が立つことはあるものか」と身辺警護の「東人」が常に誇っていたことが見える。古代の天皇の親衛隊は、東国出身者が中心であったらしい。
6.764年、反乱を起こした藤原仲麻呂は、平城京から山背・近江を経て、越前に向かおうとしたが、愛発関で阻まれ 近江国高島(たかしま)郡において斬殺された。
A 東国は古代国家にとって、どのような役割を果たしていたのか。3行以内で述べなさい。
B 律令国家は、内乱にどのように対処しようとしたのか。古代の内乱の傾向を踏まえて、3行以内で述べなさい。」
(解答例:A東国は古代国家の軍事力の供給源であった。すわち東国の豪族の子弟は、平時には王宮警備・北九州をはじめ辺境防備の主力であり、戦時には反乱に対する勝利を決定づける軍事力の要であった。
B古代の内乱では、東国の武力の帰趨が勝敗を決する傾向が強かった。このため反乱勢力は軍事力の加勢を受けんとして東国に向かうことが多かった。これを未然に防ぐために三関が設置され、有事の際に閉鎖された。)