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ラテンアメリカの動向

2017-08-30 | 生物暗記法
 
・60~70年代前半の軍事政権が、1975年ごろから民政移管し、民主化が進む。
 → ラテンアメリカの独裁政権に対してカトリック信仰に基づく▲a 解放の神学 が力になる。 
 チリ  
・1970年 a アジェンデ 大統領に当選、▲b チリ人民連合政権 が成立。
  = 社会党、共産党などの連合政権。銅資源の国産化、土地改革など社会主義政策を進める。
・1973年9月 c チリ軍部クーデタ 、アメリカの支援するd ピノチェト 独裁政権成立。
  → ▲e 新自由主義 経済政策を推進、市場原理を優先し経済再建するが格差拡大。
 1988年 d ピノチェト 政権 国民投票で信任されず退陣。
  → 90年  民政移管 され、エイルウィン大統領の中道左派連合政権が成立。
    98年 d ピノチェト 逮捕される。 → 現在裁判継続中。
 アルゼンチン  
・1973年 ▲a ペロン 大統領に復帰。74年死去し、妻イザベルが継承。
・1976年 軍部クーデタ、イザベル=ペロンを追放、反左翼・親米派軍事政権成立。
   82年 軍事政権、イギリス領のb フォークランド諸島 (マルビナス紛争)を占領。
       → b フォークランド戦争 となり、イギリス軍と戦い敗れる。
・1983年 軍政反対のゼネストが起き、民政に復帰。
 ニカラグア   1947年以来、一族支配をつづけるa ソモサ 大統領の独裁政権に対し、
・1961年 左翼ゲリラ組織 ▲b サンディニスタ民族解放戦線 が武装闘争を開始。
・1979年 c ニカラグア革命  ソモサ大統領を追放し政権獲得。
   → アメリカ(レーガン政権)、反革命勢力(コントラ)を支援、内戦が激化する。
   90年 親米派チャモロ女史大統領当選。左翼政権倒れ、中道政権が成立。
▲D.その他のラテン=アメリカ諸国
 エクアドル  1972年からの軍政、78年に国民投票で民政移管。中南米民主化の先駆となる。
 パナマ  1977年 米 カーター大統領 a 新パナマ運河条約 →23年後返還を約束。
     1989年 反米的なノリエガ政権に対し、ブッシュ(父)大統領の米軍b パナマ侵攻 
   → 1999年 運河返還される。
・グレナダ 1979年 左翼政権成立 83年 レーガン大統領の米軍c グレナダ侵攻 
・d エルサルバドル  1979年 軍事政権崩壊し、内戦となり、国連が仲介、92年に停戦合意。
・e ペルー  1990年 フジモリ大統領(日系) 左翼勢力を弾圧。腐敗批判され日本に亡命。
・f メキシコ  1946年以来、 制度的革命党 (PRI)の長期政権 → 累積債務で経済危機に陥る。
    1994年 NAFTA結成に抗議した農民組織  サパティスタ民族解放戦線 が挙兵。
  → 1994年 g メキシコ経済危機  → 2000年 総選挙で政権交代、民主化進む。 
▲E.中南米和平と経済協力の進展
・1967年 a トラテロルコ条約 =中南米非核地帯条約 中南米32ヶ国が非核地帯を宣言。
・1983年 メキシコ・コロンビア・パナマ・ベネズエラの4国(b コンタドーラ=グループ )、
       対米関係を重視し、中米の紛争解決にあたる。
  →86年 ペルー・ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイが加わり、カラバジェダ宣言発表。
       = ラテン=アメリカ諸国の民族自決、紛争自主解決などを声明。
・1987年 中南米8ヶ国首脳会議 カラバジェダ宣言加盟国首脳、アカプルコ合意を発表。
       = 中南米の和平、対外債務の上限設定、IMFの貸出条件緩和などを提唱。
・1991年 グアダラハラ宣言 中南米20ヶ国会議。中南米紛争の平和的解決、経済発展での協力。
・ 同  年 c 南米南部共同市場(MERCOSUR) :アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、
       ウルグアイの4ヶ国、域内経済統合で合意し発足。06年、ベネズエラ加盟。
・1993年  中米自由貿易圏 :中米5ヶ国(グァテマラ、ホンジェラスなど)の域内経済統合を目指す。
  → 92年にアメリカ中心で結成されたd 北米自由貿易協定(NAFTA) に対抗。
3.アフリカ
 ジンバブエ   旧名a ローデシア 
・1965年 a ローデシア の白人政府(スミス政権)が一方的にイギリス連邦から独立を宣言。
       白人支配を続け、黒人差別政策を強める。→ 黒人による解放運動、武装抵抗が続く。
 1980年 黒人主体の国家となり、国号を変更。初代首相 ムガベ 、長期政権を続ける。
 南アフリカ共和国   イギリス連邦内の自治領 南アフリカ連邦(1910年から) 白人支配続く。
・1961年 イギリス連邦から独立。白人政府がa アパルトヘイト  政策を導入。
      =少数白人の優位を守るため、非白人の公民権の制限、居住区の制限などの差別的分離政策。
  → b アフリカ民族会議 (ANC)の抗議運動展開される。
 1976年 ソエェト地区で黒人暴動。→ 国連による南アフリカ制裁が強まり、国際的に孤立。
  → 白人政府、モザンビークに介入。さらに信託統治領 ナミビア を領土化し、アンゴラ内戦に介入。
・1980年代 a アパルトヘイト 政策の見直し始まる。白人のc デクラーク 大統領が推進。
   91年 d アパルトヘイト諸法撤廃  人口登録法、集団地域法、先住民土地法のなどを撤廃。
   94年 平等選挙権を認め、大統領選挙実施、ANCの黒人d マンデラ が大統領が当選。
C.その他
・1967年 a ナイジェリア の部族対立から、b ビアフラ戦争 起こる。
・1969年 c リビア でd カダフィー大佐 の指導する革命が成功。
  → 石油資源を背景とした民族主義と「大衆による民主主義」を掲げるが独裁政権が続く。
  → 99年 リビア強硬路線を転換 03年核兵器を廃棄、06年 アメリカ、テロ指定国家解除。
・e アルジェリア  民族解放戦線(FLN)の一党独裁に対しイスラーム救国戦線(FIS)が反発。
  → 1991年 総選挙でFISが勝つが、FLN軍によって押さえれれ、非合法化され内戦状態に。
・f ナミビア  1990年独立 60年代、西南アフリカ人民機構(SWAPO)の独立運動が続く。
・g エチオピア  1991年 エリトリア解放戦線の反政府勢力により、社会主義政権が倒される。
  → 1993年  エリトリア が独立。 → エチオピアとの国境紛争が続く。
・h アンゴラ  1975年独立、社会主義政権ができるが、すぐに内戦に突入。 
  → 1991年 和平合意。97年 統一政権樹立、共和国となる。
D.現代のアフリカの諸問題
・1980年代 経済危機深まり、IMFと世界銀行の介入によりa 構造調整政策 が取り入れられる。
  = 低開発の克服を目ざし、国際収支の改善、財政赤字の解消、インフレの鎮静化に取り組む。
  → 部族対立、貧困などの問題がかえって深刻化。
・2002年 b アフリカ連合(AU) の結成。従来のc OAU に代わり、結成される。
   → 53ヵ国、約8億人を擁する、世界最大の地域統合機構となる。(EUの影響。)
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Text p.372

エ.地域紛争の多発と国際連合の活動
A 紛争の激化
 ・1980年代から、領土、民族、宗教などの対立を原因とするa 地域紛争 が多発するようになった。
  背景:b 米ソ冷戦体制が崩れ規制力が無くなったこと。ソ連解体に伴い民族国家が生まれたこと。 
 ・民族とは言語、宗教、文化などの共通性を意識する集団( エスニック=グループ )であり、
  近接したり混在しているところでc 民族紛争 が多発するようになった。
・現在も継続する地域紛争、民族紛争の主なもの(a~zは下の地図で位置を確認)
▲a ケベック 問題  カナダ・ケベック州のフランス系住民による独立運動。
▲b 北アイルランド 問題  イギリス・カトリック系住民のIRAのテロ 98年に和平協定。
▲c バスク人 問題  スペイン・ピレネー山地のバスク地方分離独立運動。
 d コソヴォ 問題  アルバニア系住民の独立運動をセルビア人政府が弾圧。
  1999年 セルビア人側が残虐行為を行ったとしてNATOが空爆。
▲e チェチェン 紛争  ロシア連邦からの分離を求める武装闘争。現在もテロが続いている。
▲f グルジア 問題  グルジア共和国内のアブハジア、南オセチアの分離独立運動。
  2008年 グルジアの南オセチア侵攻。ロシアが反撃し軍事衝突。
▲g スーダン 内戦 1983~2004年 北部のイスラーム政権と南部の非イスラーム勢力の対立。
  2003年 ダルフール地方でアラブ系兵士が黒人住民を虐殺。 ダルフール紛争 はじまる。
  2011年7月  南スーダン共和国 が独立。なおも石油資源をめぐる対立続く。
 h コンゴ 内戦  1997年、大統領を巡る権力闘争が内戦に発展。
 i アンゴラ 内戦  1975年独立、社会主義政権ができるが、すぐに内戦に突入。
 j ルワンダ 内戦  1990~94年。フツ族とツチ族の部族対立から起こった内戦。
           1994年 ツチ族の約100万人が犠牲となる虐殺が行われた。
 k ソマリア 内戦  1980年代から内戦状態。国連のPKO活動失敗し撤退。
   シエラレオネ内戦   1991年以来内戦が続く。2000年、国連の調停で内戦停止。
 l エチオピア・エリトリア国境紛争  1993年 エリトリアがエチオピアから分離独立。
 m リベリア 内戦  1980年代から政情不安続く。2006年、アフリカ初の民選女性大統領当選。
 n ジンバブエ 問題 1980年からのムガベ大統領の長期政権に対する民主化運動が起きている。
 o クルド人 問題  イラン・イラク・トルコにまたがて独立運動を展開している。
 p インド・パキスタン 紛争  カシミール地方の領有を巡る対立。最近、和平の動きあり。
 q タミル人 問題  スリランカ・多数派民族のシンハラ人に対する少数派の独立運動。
▲r アチェ 紛争 インドネシア・スマトラ島北部で武装独立運動を展開。
 s 東ティモール 問題  インドネシアに対する武装闘争。国連多国籍軍が介入し、02年に独立。
 t パレスチナ 問題 4度にわたる中東戦争。現在もアラブとイスラエルの対立続く。(既述)
 u イラク 問題 フセイン政権崩壊後もスンナ派とシーア派の対立などで政情不安続く。
 v アフガニスタン 問題 タリバン政権崩壊後も、その残存勢力のテロ活動が続いている。
    → タリバン勢力はパキスタン領内でも活動しているため、パキスタンでも政情が不安続いている。
 w チベット 問題 中国の支配に対する独立運動、2008年の北京オリンピックにあわせ活発になる。
 x 新疆ウイグル 問題 チベットと並んで、中国からの独立をめざす運動が続いている。
 y ネパール 問題 王政に対する共産主義勢力(毛派)の反抗続き、2008年に王政廃止。
 z ミャンマー 問題  軍事政権によるアウンサンスーチーなど民主勢力への弾圧が続いている。
・その他
▲1 キプロス 問題 1960年イギリスから独立。ギリシア系とトルコ系住民の対立が続いている。
 2 イエメン共和国 の内戦 1990年、南北を統合したイエメンで1994年に内戦が発生。
 参考  ・その他の対立が生じている地域
 エーゲ海領海問題 エーゲ海を巡るギリシアとトルコの国境紛争。最近は海底資源が問題となっている。
 南沙諸島問題 南シナ海の小さな島々を巡り、中国・ベトナム・マレーシア・フィリピンが争っている。
・日本の周辺諸国との問題
 領土問題:ロシアとの北方領土問題  韓国との竹島問題  中国との尖閣諸島問題  
 日本の戦争責任、靖国、教科書などを巡る、中国・韓国との問題
 北朝鮮との日本人拉致問題
  など 
 現在の主な地域紛争、民族紛争地図 地図 現代の民族紛争  
 国連の変質 
1.紛争解決への軍事介入
 ・a 平和維持活動(PKO)  役割は地域紛争の調停、内戦終了後の治安維持。
  → ▲その実施部隊がb 国連平和維持軍(PKF) :カンボジア、ユーゴスラヴィアなどで活動。
  → 1992年 日本 b PKO協力法 制定。カンボジアに自衛隊派遣。(戦後初の海外派兵)
 ・国連決議によるPKO以外の軍事行動
  1999年 コソヴォ紛争 2001年 アフガニスタン それぞれd NATO 軍が参加。
  2003年 アメリカ・イギリス・日本などによるc イラク派兵 
2.戦争被害の救済
 ・▲a 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)  1951年創設。難民条約による難民の保護。
 ・民間のb 非政府組織(NGO) による難民救済、医療、地雷除去、環境保護などの活動。
3.軍縮と戦争防止の取り組み (米ソ間の核軍縮については17章1節参照)
 ・1978年 国連軍縮特別総会 第5回非同盟諸国首脳会議の要請を受けて開催。
 ・1996年 a 包括的核実験禁止条約(CTBT)  国連総会で議決。アメリカなどが未批准。
 ・無差別兵器の禁止(p.358)
  1997年発効 b 化学兵器禁止条約  使用、生産、貯蓄、移動などの禁止。
 ・1999年発効。▲c 対人地雷全面禁止条約  アメリカ、ロシア、中国が未加盟。
 ・戦争犯罪の取り締まり ▲d 国際刑事裁判所(ICC)  2003年ハーグに設置。
   大量殺戮や戦争犯罪を裁く常設の国際裁判所。アメリカ、ロシア、中国、日本などは批准していない。
C.地域紛争の抑止し、経済協力を進める多国間機構
 国際連合を補い、地域紛争を抑止するための、多国間安全保障・経済協力機構の重要性が増している。
 ・a 東南アジア諸国連合(ASEAN)の拡大   結成時の5ヶ国に加え、84年にブルネイ、
  1995年にベトナム、97年にラオス、ミャンマー、99年にカンボジアが加盟、
   → 「ASEAN10」へ。
  1992年 ▲b ASEAN自由貿易地域(AFTA) を創設することで合意。
        最近では、日本・韓国・中国を加えた「ASEAN+3」の経済協力が進んでいる。
 ・b アジア太平洋経済協力機構(APEC) の結成
  1989年 オーストリアのホーク首相の提唱で第1回をキャンベラで開催。アジア・太平洋地域の
        経済協力を目的に、ASEANの他、アメリカ・ロシア・中国・韓国・日本が参加。
 ・c アフリカ連合(AU)  2002年、OAUから発展(前出)
 ・e 南米南部共同市場(MERCOSUR)  アメリカ主導の南米市場統合に対抗(前出)。 
 ・f NATOの変質  冷戦終結、ワルシャワ条約機構の解消で社会主義圏の武力侵攻の恐れなくなる。
   1999年 ポーランド、チェコ、ハンガリーの旧東欧社会主義国が参加。
   2004年 ルーマニア、ブルガリア、スロヴァキア、スロベニア、エストニア、ラトヴィア、
         リトアニアを加えて26ヵ国
  →全欧州の地域安全保障機構に変質し、平和に対する脅威や人権抑圧に対する軍事制裁を行うようになった。
D.環境問題への取り組み
1960年代~70年代 世界各地で、 環境問題 (公害)が起こる。
・1972年 a 国連人間環境会議  ストックホルムで開催 114カ国「かけがえのない地球」
  → b 「人間環境宣言」 を採択。国連総会、「国連環境計画」(UNEP)設立。
  → 1973年のc 第1次石油ショック による世界的不況のため、環境対策は停滞。
・1992年 d 国連環境開発会議 (地球サミット) リオデジャネイロで開催 「リオ宣言」発表。
  =「持続可能な発展」の理念のもと、e アジェンダ21計画 、「気候変動枠組条約」締結。
・1997年 f 地球温暖化 対策のg 京都議定書 採択。温室効果ガスの削減目標を国別を定める。
  → 中国、インドおよび途上国は除外される。2001年 アメリカなどが離脱。2005年 発効。
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3 第3世界の多元化と地域紛争

2017-08-30 | 生物暗記法

 

Text p.367

ア.第三世界の分化
 南北問題  意味=a 1960年代の発展途上国と先進工業国の格差の拡大 
・南半球のb 発展途上国 、北半球の先進工業国への工業原材料・農産物供給国にとどまる。
  → 1960年代、経済格差が広がる。
・c 関税と貿易に関する一般協定(GATT) 体制に対する発展途上国側の反発強まる。
 1961年 d 経済協力開発機構(OECD) 発足。
  → 経済の安定成長・途上国への援助・貿易拡大をはかる。
 1964年 発展途上国、e 国連貿易開発会議(UNCTAD) を設立(71ヶ国)して対抗。
  → 南北間の経済問題を協議しているが成果上がらず。
 南南問題  意味=a 1970年代の発展途上国内での高所得国の出現に伴う格差の拡大 

Text p.368

・1973年 第4次中東戦争(後出)→ b オイル=ショック → 原油の高騰 →
  c 産油国 の中に高所得国が生まれる。サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦など。
  →  資源ナショナリズム の高まり。
  → 途上国グループ、1974年  新国際経済秩序(NIEO) を提唱。
・1970年代 d 新興工業経済地域(NIEs) の形成
      加工業、中継貿易の育成に成功し、中所得国に成長。
  =特にe 韓国 ・f 台湾 ・g 香港 ・h シンガポール が「四小竜」と言われる。
  → 80年代を通し、低賃金労働と通貨安・原油安・金利安の「3低現象」で発展つづける。
    他にブラジルやi ASEAN(東南アジア諸国連合)  加盟国も経済成長開始
    (マレーシア、タイ、インドネシア、など)
  → 90年代、一部の工業国は対外債務の膨張で低迷。産油国は原油価格低迷で勢い失う。
・低所得国:中米諸国、アフリカ諸国などに、内戦や食糧危機による難民が発生している。
  背景=j 人口爆発・人口の都市集中・宗教、民族対立による内戦・自然災害・農業不振など。 
第三世界の多様化。冷戦終結後の地域紛争の多発。→ 国連での解決、調停への期待とその限界。
先頭へ
イ.アラブ世界の分裂とその影響
1.アラブ諸国とイスラエルの対立
 ・1960年代  アラブとイスラエルの対立激化
 第3次中東戦争  (1967年)
・1964年 パレスチナ難民、a パレスチナ解放機構(PLO) を設立。
  同  年 エジプトb ナセル 大統領、スエズ運河地帯の国連軍の撤退を要求。アカバ湾を封鎖。
・1967年6月 c イスラエル 軍がエジプト・シリアを奇襲。▲d 六日戦争 ともいう。
  → e シナイ半島 ・f ゴラン高原 ・▲g ヨルダン川西岸 ・▲h ガザ地区 占領。
   影響:エジプトの指導力失墜。パレスチナ難民の発生。PLO、拠点をヨルダンに移す。
 1968年 PLO、c イスラエル に対するゲリラ活動を展開。
  → 1969年、i アラファト PLO議長となる。
 1970年9月 ▲j ヨルダン内戦   ヨルダン がPLOを弾圧。→ PLO、レバノンに移る。
    同  年9月 エジプトのb ナセル 大統領死去。k サダト 大統領となる。
▲1970年代初頭のアラブ世界の動き
 1971年 エジプト、憲法を改正し国号を エジプト=アラブ共和国 に変更。
 1972年  ミュンヘン=オリンピック襲撃事件 など、PLOによるテロ事件相次ぐ。
 その他、1970年  南イエメン (67年、イギリスから独立)で社会主義政権成立。
     1971年 アブダビ、ドバイなどイギリス保護領が アラブ首長国連邦 として独立。
 第4次中東戦争  (アラブ側はラマダン戦争、イスラエル側はヨム=キップール戦争という。)
・1973年10月 a エジプト=アラブ共和国 (b サダト 大統領)シナイ半島に進撃、
   同時にc シリア (▲d アサド 大統領)はゴラン高原に進撃。イスラエル守勢に回る。
  → イスラエル軍の最初の敗北とされる。その後イスラエル軍が反撃し約10日間で停戦。
・アラブ側の石油戦略
  → イスラエル支援の諸国に対しe アラブ石油輸出国機構(OAPEC) 
    (サウジアラビアなど)が原油輸出停止または制限。
    ついでf 石油輸出国機構(OPEC) も原油価格の大幅引き上げを決定。
  → これにより、先進国・原油輸入国は大きな影響を受けg 第1次オイル・ショック 起きる。
・1974年 国連、PLOを唯一のパレスチナ人の代表と認め、パレスチナ人の民族自決権を確認。
・1975年~ ▲h レバノン内戦   レバノン でキリスト教 マロン派 とPLOが衝突。
  → 宗教各派の抗争に▲i シリア  アサド 大統領)が介入。内戦状態、15年続き90年に停戦。
 エジプト=イスラエルの和平 
・1977年 エジプトのa サダト 大統領、イスラエルを訪問。議会で和平提案演説。
・1978年 a サダト 大統領とイスラエルのb ベギン 首相( リクード 党首)、
      ▲アメリカのc カーター 大統領の仲介でd キャンプ=デーヴィット合意 
   ※合意内容:エジプトがイスラエルを承認。イスラエルは、e シナイ半島 の返還、
         ガザ地区とヨルダン川西岸の行政自治権を認める。
 1979年 f エジプト=イスラエル平和条約 締結。
   → パレスチナ人は反発。アラブ世界でエジプトが孤立、アラブ連盟から除名される。
・1981年 g サダト大統領暗殺 される。h ムバラク 大統領、和平政策を継続。
 1982年 イスラエル、e シナイ半島 をエジプトに返還。
 パレスチナ問題 の深刻化 エジプト=イスラエル和平をよそにパレスチナの戦い続く。。
・1979年 中東情勢の激変:a イラン革命 (後出)・ソ連のb アフガニスタン 侵攻(前出)など。
 1982年 イスラエル軍の▲c レバノン侵攻 。ベイルートを猛爆。PLO、チュニジアに脱出。
  → PLO、武装闘争路線を後退させ、穏健化。 →パレスチナ内部の対立始まる。
 パレスチナ問題の転換  イスラエル、占領地の併合に動く →パレスチナ側の抵抗強まる。
・1987年 イスラエル占領地域のパレスチナ人が▲a インティファーダ (民衆蜂起)起こす。
 1988年 PLO、▲b パレスチナ国家樹立宣言 。アラファト議長、国連でイスラエル承認演説。
・1991年 c 湾岸戦争 起こる。PLOはイラクを支持。フセインは「リンケージ」を図るも失敗。
  → 戦後、アメリカ主導で▲d 中東和平会議 (マドリード)始まる。PLO代表参加拒否される。
 パレスチナ暫定自治協定  ノルウェーの仲介でa オスロ合意 が成立。それをうけて、
・1993年 b クリントン 米大統領を介し、イスラエルのc ラビン 首相と
   PLOd アラファト 議長が会談し調印。
  → 相互承認とe パレスチナ暫定自治行政府 の樹立を認める。
 1995年 イスラエルのc ラビン 首相暗殺される。 中東和平構想崩れる。
 参考  最近のパレスチナ情勢の混迷
・2000年 イスラエルの右派、イェルサレムの「神殿の丘」に入る。
  → パレスチナ民衆、a 第2次インティファーダ 展開。イスラーム原理主義ハマスが台頭。
 2001年 イスラエルのb シャロン 首相(右派リクード党首)、対パレスチナ強攻策に転じる。
・ 同  年9月 9.11同時多発テロ起こる。 → アメリカ軍、アフガニスタン侵攻。
 2003年 アメリカのブッシュ大統領(子)、中東和平の ロードマップ 提唱。
   2004年11月 PLO c アラファト 議長死去。アッバス議長に代わる。
 2005年8月 イスラエル、d ガザ地区 の入植地から撤退。
 2006年 パレスチナ自治政府に強硬派のe ハマス 政権誕生。パレスチナが分裂、対立。
 2007年 ハマスがガザ地区を武力制圧。イスラエルに対するロケット弾攻撃をしかける。
 2008年12月 イスラエルがガザ地区ハマス政権を攻撃。 
現在もパレスチナ側の自爆テロ、イスラエルの軍事報復など、武力衝突が相次いでいる。

Text p.369

2.イラン・イラクと現在の中東情勢
 1979年、エジプトがイスラエルと和平 →エジプト、アラブ世界で孤立し、イランとイラクが台頭
 イラン革命  国王a パフレヴィー2世 の近代化路線に対する民衆の反発強まる。
・1979年1月 暴動激化し国王亡命。軍・労働者農民・b シーア派 の三派が主導権を争う。
  2月 b シーア派 の宗教指導者、c ホメイニ が帰国。混乱を収束させる。
  3月 d イラン=イスラム共和国 が成立。
   → e イスラーム原理主義 に立つ改革を断行。反米路線を明確化。
  11月  アメリカ大使館人質事件  米の内政干渉の停止、前国王資産の引渡など要求。
   → 翌年8月、救出作戦に失敗。釈放、81年1月までずれ込む。
 影響:イラン産原油の輸出減少 → f 第2次石油危機  
    アラブ世界でのe イスラーム原理主義 の運動強まり、テロ事件各地で起こり始める。
  この年、ソ連のg アフガニスタン侵攻 (前出)
ホメイニ

 ホメイニ  

 イラク共和国  の変化 1958年 イラク革命で王政倒れ共和国成立。
・1968年 a バース党 政権が成立。アラブの統一と民族社会主義を主張。
 1979年 党を掌握したb サダム=フセイン 大統領となり、独裁権力を握る。
 イラン=イラク戦争   1980~1988年
・1980年 イラク(a サダム=フセイン 大統領)がイランに侵攻。
  → b イラン革命 に乗じて、領土拡張(産油地獲得)をねらう。
  →  ▲c ソ連 ・d アメリカ などがイラクに武器を援助。戦争泥沼化。
 1988年 国連安保理の停戦決議で停戦。
 湾岸戦争 
サダム=フセイン

 サダム=フセイン  

・1990年8月 イラク(a サダム=フセイン 大統領)、突如b クウェートに侵攻 。領有を宣言。
  → アメリカ大統領c ブッシュ(父) 、イラクを非難。
・1991年1月 国際連合の決議によりアメリカ軍を中心としたd 多国籍軍 がイラク攻撃。
  → イラク、クウェートより撤退。国連監視下に置かれる。フセイン政権は存続。
 イスラーム原理主義  の台頭  その理念をもとにした イスラーム復興運動 が強まる。
・1989年 ソ連軍のアフガニスタン撤退 →a アフガニスタン内戦  激化。
  → 1996年 b ターリバーン 政権成立。極端なイスラーム原理主義化を進める。
・イスラーム過激派の系譜
 エジプト  ムスリム同胞団 (81年 c サダト大統領 暗殺) 97年 ルクソール事件など
 1996年頃 テロ組織b アルカーイダ 結成。湾岸戦争での米軍のサウジアラビア進駐に反発。
・その他 パレスチナのハマス、レバノンのヒズボラなど過激派がイスラーム圏で勢力を伸ばす。
 同時多発テロ  
・a 2001年9月11日  ニューヨークの貿易センタービルなどへのテロ攻撃。
  → アメリカはイスラーム過激派b アルカイーダ の犯行と断定。

Text p.370

・2001年10月 アメリカの報復 c アフガニスタン攻撃  国連決議を受け空爆。上軍も投入。
  → d ターリバーン 政権倒れる。 → e アフガニスタン は民族対立続き、混乱も続く。
 2002年1月 アメリカ大統領ブッシュ、イラン・イラク・北朝鮮を「悪の枢軸」と非難。
 イラク戦争  (第2次湾岸戦争) アメリカ、イラクの大量破壊兵器保有を疑う。
・2003年3月19日 アメリカのa ブッシュ(子) 大統領 侵攻開始。先制攻撃論による。
      4月 アメリカ・イギリス軍 バグダード制圧。12月 b サダム=フセイン 大統領を拘束。
      7月 日本、イラク復興支援特別措置法成立。12月 サマワにc 自衛隊派遣 
 2005年2月 イラクで選挙実施、自治政府発足。 → 政情不安続いている。
現在
 2005年6月 イラン反米強硬派アフマディネジャド大統領就任。核開発疑惑強まる。
 2005年7月  ロンドン地下鉄テロ 起きる。イラク派兵に反対するテロ活動が各地で起こっている。
・イラクでは、スンナ派・シーア派の宗教対立、クルド人との民族対立などから混乱続く。
先頭へ
ウ.第三世界における強権支配の後退
・第三世界の80年代以降:開発独裁や軍事独裁政権、あるいは長期政権が姿を消し、民主化が進む。
1.アジアの動向
 韓国   輸出工業の育成につとめNIEsの一つとなるも、独裁政治への批判強まる。
・民主化闘争の激化
 1979年 a 朴正煕 大統領 暗殺される。(政権内部の権力闘争)
 1980年 b 光州事件  民主化を要求する学生・市民が市政を掌握。
     →政府は戒厳令を発布。軍部によって弾圧される。軍のc 全斗煥 大統領就任。
・民主化の進展
 1988年 d 盧泰愚 大統領選挙で当選。軍部出身。韓国で初めて平和的政権交代。
  → 90年 ソ連と国交回復、91年 北朝鮮と同時にe 国際連合加盟 を実現、
    92年 中国と国交回復。
 1992年 非軍人大統領f 金泳三  光州事件の責任者として前大統領を処罰。
・北朝鮮との対話始まる。
 1997年 g 金大中 大統領となり、民主化推進。▲h 太陽政策 をかかげる。
 2000年6月 g 金大中 大統領、北朝鮮を訪問、i 金正日 総書記と会談(前出)。
 2003年  盧武鉉 大統領就任。北朝鮮との対話路線を継続。日本の靖国問題などに反発。
・2008年 経済不振を受け、新大統領に李明博が就任。北朝鮮関係の見直し。
 台湾  (中華民国)a 国民党 の一党支配の下、経済発展しNIEsの一員となる。
 1979年 米中国交正常化に伴い、台湾はアメリカと断交。(国連脱退は71年)
・民主化の開始
 1987年 戒厳令を解除。 88年 国民党b 李登輝 総統に選出され、民主化を推進。
 2000年 民主進歩党のc 陳水扁 が総統に当選。
  → 台湾独立路線、台湾の国連加盟を主張。中国政府との緊張。
 2008年 国民党、政権奪回。馬九英総統。
 フィリピン  1965年以来 a マルコス 大統領の開発独裁による腐敗進む。
 1983年  ベニグノ=アキノ暗殺事件  → 独裁政治に対する批判強まる。
・1986年  ピープルパワー革命 起こる。b コラソン=アキノ 大統領に当選、
        マルコスが戒厳令を敷いたことに民衆が反発し、マルコス夫妻アメリカに亡命。
  → アキノ政権(~92年)、フィリピンの民主化を進める。アメリカ軍の基地、撤退。
  → その後、 ラモス 政権、 エストラダ 政権が続き、現在は アロヨ 大統領。

Text p.371

 インドネシア   1968年からa スハルト 大統領一族の利権独占が続く。
・1997年 b アジア通貨危機 が起こる。
・1998年 不正に批判強まり、a スハルト 大統領退陣。
 2001年 メガワティ(スカルノの娘)大統領就任。
  ・一方で、東ティモールとアチェの独立運動起こる。
 2002年 東ティモール独立承認。現在も問題続く。2004年大統領選でユドヨノが当選。
 インド 
・インドの変化 1964年 インド、ネルー死去。その後も国民会議派政権続く。
 1965年 a カシミール の領有を巡り、第2次b インド・パキスタン戦争 起こる。
   71年 東パキスタンの難民をめぐり、第3次b インド・パキスタン戦争 起こる。
    → 東パキスタン、c バングラデシュ人民共和国 (ベンガル共和国)として独立。
 1974年 インド、NPTに反発して、d 核実験 を実施(平和利用目的を理由とする)。
・政情不安と経済発展
 1980年 e インディラ=ガンディー 首相(国民会議派)
  → 次第に反対派弾圧に転じ、 シク教徒 らを弾圧。→ 84年 シク教徒に暗殺される。
 1991年 後継者f ラジブ=ガンディー もタミル人に暗殺される。
  → ヒンドゥー至上主義を掲げるb インド人民党 が台頭。パキスタンとの対立関係強まる。
  → IT産業を中心とした経済発展路線に転換。→ 2000年代、急速に経済成長。
 1998年 総選挙で国民会議派敗れ、b インド人民党 が政権を握る。首相ヴァージペーイー。
 インド・パキスタンの両国 d 核実験 を強行。パキスタンが核保有国となる。
  → 中国=インド関係の修復進む。 2003年 インド、チベットを中国領と見なす。
 パキスタン 
・1990年、96年の2度にわたり、a ベナジル=ブット 首相、汚職の嫌疑で解任される。
  → 近代化政策に反発するイスラーム原理主義の台頭。
・1999年 軍部クーデターによってb ムシャラフ 政権成立。民政移行後も軍の政治関与続く。
 2001年 アメリカのアフガニスタン攻撃に協力。国内の原理主義勢力を弾圧。反発も強まる。
・2007年 a ベナジル=ブット 元首相、暗殺される。反政府活動激しくなり不安定続く。
 ネパール 
・1990年 民主化運動起こり、ヒンドゥー教を奉じる国王親政から、立憲政治に転換。
  → 1996年ごろから、マオイスト(毛沢東主義者)の反政府軍事行動が活発化。
 2005年 国王、親政体制への復帰を表明、政党活動を抑圧。再び民主化運動強まる。
 2006年 政府軍(国王派)と政党・マオイストの内戦となる。国連の監視で停戦実現。
 2008年5月 王政廃止され共和国となる。毛派を含む連立政権成立。
▲F.その他
・a スリランカ  1972年 イギリスの自治領から共和国となり、国名変更。
   タミル人問題  多数派の シンハラ人 (仏教徒)と、少数派の タミル人 (イスラーム教徒)の対立。
・b ビルマ  1988年 民主化運動が起こりネ=ウィン政権倒れるが9月に軍事政権が復活
  → 89年 国名をc ミャンマー に変更。d アウンサンスーチー ら民主化運動を弾圧。
  2007年 僧侶らによる反政府暴動起きる。軍政に対する国際的非難強まる。
・e シンガポール  f リー=クアンユー  1965年から首相 経済成長続き、NIEsに発展。
・g マレーシア  h マハティール  1981年から首相 日本にならうルックイースト政策。
・i タイ  1963~73年 軍事政権(タノム首相)のもとで、72年に日貨排斥運動が起こる。
  1976年 学生の民主化要求デモ 軍隊に鎮圧され、その後も 軍事クーデター が続き混乱。
    → 80~90年代 工業化進む → 1997年j アジア通貨危機 の発端となる。
  2001年  タクシン 首相就任。 →2006年  軍事クーデター で首相辞任。フミポン国王が承認。
・j ブルネイ の独立 1984年 ブルネイ=ダルサラーム国としてイギリスから独立。産油国。
 
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現代の文化

2017-08-23 | 生物暗記法
ア.現代科学と生活・環境の変化
1. 20世紀の科学  
 前半の理論面での進歩、後半では実用化 → 1901年  ノーベル賞 の創設
 ・物理学 a アインシュタイン の相対性理論(1905年、1916年)
  → 原子物理学の発達 → b 原子爆弾 など核兵器の開発・原子力発電への利用
 ・生物学 c DNA の発見(1953) → d バイオテクノロジー に進む。 
  → 遺伝子操作技術 → クローン技術の開発とその問題の発生
 ・医学 ペニシリン・e 抗生物質 の導入 → 平均寿命の飛躍的伸び 
  → 一方で、AIDS、SARS、BSEなどのあらたな難病の出現
2.科学技術の実用化
 ・ライト兄弟によるa 航空機 の発明(1903) → プロペラ機からジェット機へ 
    → 戦争形態の決定的変化・交通機関の変化
 ・第2次大戦中のb ロケット の開発 → 戦後、核ミサイルとともに利用
    → 宇宙開発競争 → 気象・通信・観測衛星としての利用
    1957年 ソ連のc スプートニク1号  世界最初の人工衛星
    1969年 アメリカのd アポロ11号  月面往復に成功

Text p.374

 ・電子工学(e エレクトロニクス ) レーダー・トランジスタ・集積回路(IC) 
    →f コンピュータ の発達 1946に発明 → 1980年代に爆発的普及
    →▲g IT革命 
 ・自動車 g フォード のコンベヤ方式によるオートメーションでの大量生産(1913) 
    → 道路、ガソリン、タイヤなど関連産業の発展 → 生活スタイルの変化
 ・化学工業 人工繊維(h ナイロン )・i プラスティック の開発、PETの発明
3.先進工業国での諸問題
 a 産業構造の変化 = 重厚長大型工業からハイテク産業と金融・流通・サービス産業へ 
 b 雇用形態の変化  = 終身雇用制から、実力主義への転換→ 労働組合運動の停滞 
 c 高齢化社会  = 医療、社会保障、住宅、などさまざまな問題の発生
先頭へ

Text p.375

イ.現代文明による危機
1.人口問題 停滞と減少( 少子化 )に直面する先進地域と、a 人口爆発 に悩む発展途上国の格差。
   →b 途上地域から先進地域への人々の移動が先進地域の社会構成に影響している。 
2. 環境問題 
 1980年代 先進地域での各種資源の大量消費 → 大量の排泄物・廃棄物の排出 →
  a 地球温暖化 、b 砂漠化 、c オゾン層破壊 など環境汚染と生態系破壊が地球規模の拡大。
  原発事故の発生 1979年 ▲d スリーマイル島 (アメリカ)
          1986年 e チェルノブイリ (ソ連) →現在も深刻な影響
 1992年 地球サミット リオデジャネイロで開催され、▲f アジェンダ21計画 を採択。
 1997年 地球温暖化防止会議(京都)▲g 京都議定書 採択。途上国の反発、米の反対。
3.a グローバリゼーション の問題 あらゆる経済活動が世界的規模となった結果、
  特にアメリカの大企業(強者)によって低開発地域や先進国の弱者が支配されるという問題意識。 
先頭へ
ウ.現代文明
1. 現代の思想  
 19世紀末~20世紀前半 ニーチェの近代合理主義批判の影響が強い。
 ・▲a 実存哲学 ・ ドイツのヤスパース(『哲学』)・ハイデッガー(『存在と時間』)
    ・フランスのb サルトル (『存在と無』)など不条理の哲学。
 ・c 精神分析学 の創始 d フロイト  無意識(深層心理)の解明。
 ・社会科学 e マックス=ウェーバー   『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 
     社会学・宗教学など、近代社会の成立・官僚制などの分析。
 ・f プラグマティズム  ジェームズ、デューイ→ アメリカ合理主義の基盤
 ・マルクス主義 g レーニン 『帝国主義論』、h 毛沢東 『実践論・矛盾論』  
    → ソ連の崩壊に伴う、社会主義思想の後退。価値観の多様化が進む。
 ・▲i 近代経済学 の創始 j ケインズ  『雇用・利子および貨幣の一般理論』1936年
    → 自由放任主義の終焉、経済の安定的発展のための国家の役割の重視(修正資本主義)。
    → ニューディール政策、戦後のイギリス労働党政権、アメリカ民主党政権に影響。
 ・歴史 ▲k シュペングラー  『西洋の没落』 第1次大戦後の西洋文明の衰退を予測。
 20世紀後半の思想
 ・▲a 構造主義   実存主義を主観的な判断に偏りすぎていると批判
   ソシュール(言語学)、モース(社会学)、b レヴィ=ストロース (文化人類学)、
   フーコー(哲学)、ラカン(精神分析)、アルチュセール(哲学)など
    →その克服を目指す脱構築の哲学が起こる。ドゥールーズ、ガタリ、デリダなど
 ・▲c フランクフルト学派  アドルノ、ホルクハイマー、ハーバーマスなど戦後ドイツ思想。
 ・d フェミニズム運動 の台頭 → 性差別批判、ジェンダー=フリーの思想
 ・▲e 新自由主義 (シカゴ学派経済学) 1970年代、ケインズ経済学を批判し台頭。
 ・歴史学 社会史が盛んになる。 → フランスのアナール学派(ブロック、ブローデルなど)
        ウォーラーステイン 『近代世界システム』論

Text p.376

2.現代の文化
 ・a ヨーロッパ市民文化への批判  → 非ヨーロッパ文明圏の文化の価値認識へ
 ・b アメリカの大衆消費社会  → 大衆文化の隆盛 ジャズ、ミュージカル、映画など
 ・第2次大戦後 大衆文化のアメリカ以外の先進国への拡大
  →c マスコミュニケーションの発達 → ラジオ(1920年)・テレビ(1936年)の普及
 ・通信手段の変革 電話 → d インターネット の普及 → 情報革命(IT革命)
 ・e カウンター・カルチャー  1960年代後半のアメリカの若者に広がった、
  ベトナム反戦運動を背景とした、既成文化に対する「対抗する文化」のこと。
  1969年  ウッドストック の野外コンサート 40万の若者が集まる。
 ・多文化共存への模索が続いている。
 
▲20世紀の主な芸術
1.文学
 ・フランス a ロマン=ロラン  『魅せられたる魂』 『ジャン・クリストフ』 
     b アンドレ=ジッド   『狭き門』  c プルースト  『失われた時を求めて』
   実存主義の影響 d カミユ  『異邦人』 e アンドレ=マルロー  『人間の条件』 『王道』
 ・ドイツ f ヘルマン=ヘッセ  『車輪の下』 g トーマス=マン  『魔の山』
     (演劇)h ブレヒト  『三文オペラ』 『ガリレオの生涯』
 ・イギリス(アイルランド) i ジョイス  『ユリシーズ』
     j バーナード=ショー  『人と超人』
 ・アメリカ k ヘミングウェー  『武器よさらば』  l スタインベック  『怒りの葡萄』
 ・ロシア m ゴーリキー  『どん底』  ショーロホフ 『静かなるドン』
   n ソルジェニーツィン  『イワン・デニーソヴィッチの一日』 『収容所列島』
 ・その他 (チェコ)o カフカ  『変身』  (インド)p タゴール (詩人)
      (中国)q 魯迅  『阿Q正伝』
2.美術  19世紀の印象主義の影響を脱する試み。
 ・a 表現主義   パウル=クレーなど主としてドイツで流行
 ・b フォーヴィズム(野獣派)   フランスのマティス、ルオーら
 ・c キュービズム(立体派)   ブラック、d ピカソ  『ゲルニカ』スペイン内戦に取材
 ・ダダイズム → e 超現実主義   ダリ  フロイトの精神分析の影響
 ・メキシコの 壁画運動  1920年代 メキシコ革命の中で シケイロス らが展開した。
3.音楽
 ・フランス 印象派の音楽 a ドビュッシー  『海』、b ラベル  『ボレロ』
 ・ドイツ  c R=シュトラウス  『バラの騎士』  シェーンベルク(12音音楽) 
 ・アメリカ d ガーシュイン  『パリのアメリカ人』  e ストラヴィンスキー  『火の鳥』
 ・ロシア  f ショスタコーヴィッチ  『第5交響曲』
 ・現代音楽 シェーンベルク(12音音階)、ウェーベルン、メシアンなど
 ・大衆音楽
  g ジャズ  黒人音楽から発展 ディキシーランドスタイル → スウィング → 
     モダンジャズ  ビバップ → ファンキー →  クロスオーバー ……
  h ロック   i エルビス=プレスリー  『監獄ロック』などのスター出現
     1960年代からj ビートルズ の出現
4.新しい芸術分野
 ・a 映画 の発達
  1891年 b エディソン の発明 → 1895年 c リュミエール兄弟 が実用化
   → ヨーロッパ諸国とアメリカで映画制作が始まり、興業化される。
  1910年代 d ハリウッド の全盛期
   サイレント(無声映画)→→ トーキー → カラー化  → シネマスコープ
   → 大衆娯楽、芸術の先端となる。
   e チャーリー=チャップリン 『街の灯』『独裁者』など。マッカーシズムに抗議し離米。
 ・1950年代 f テレビジョン の普及で映画館は衰退。
  1990年代 媒体の多様化が進む。
 
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第10章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立 2節 アメリカ独立革命

2017-08-22 | 生物暗記法

 

用語リストへ

Text p.245

ア.北アメリカ植民地の形成

■ポイント どのような過程でアメリカ植民地に独立の気運が生まれたかを理解する。

メイフラワー号

 メイフラワー号  

 13植民地   の建設。
  • 1607年 a ヴァージニア  植民地の建設。タバコ栽培で発展。
     → 1619年 b ヴァージニア議会  を開設、植民地の自治始まる。
  • 1620年 信仰の自由を求めたc ピューリタン  の新大陸移住始まる。
     d ピルグリム・ファーザーズ  、e メイフラワー号  
      大西洋を渡り、プリマスに上陸。
     → ▲「メイフラワー契約」に基づきタウン制度という自治を開始した。
B 北部・南部の地域差と自治の拡大
  • 1630年 a マサチューセッツ  植民地建設 その中心がボストン。
     → プリマスを合わせてb ニューイングランド  地方といわれる。
  •  北部  = 自営農民による農業と商工業が発達。→ 本国に対する批判意識が強まる。
  •  南部  =e 黒人奴隷  を使用するf タバコ・米などのプランテーション  が発達。
  • 北部、南部とも先住民g インディアン  の土地を奪いながら入植。 → フランスも北米に進出。
  • 植民地の自治:国王の特許状により土地所有権・自治権・イギリス臣民としての諸権利が認められ、
     h 植民地議会  が開設された。 → 植民地人の自主独立の意識、強まる。

解説

北米大陸に築かれたイギリスの植民地には、次の三つの形態があった。
  • 王領植民地:国王が総督・植民地議会議員を直接任命する。総督は課税、管理の任免、土地の下付などの権限を持つ。=ヴァージニア・ ニューヨーク ・ ジョージア・マサチューセッツ
  • 領主植民地: 国王から特許状を与えられた貴族が植民地を開拓し、現地の総督と植民地議会議会の議員を任命する。= ペンシルヴェニア ・デラウェア・メリーランド
  • 自治植民地:入植者が総督と植民地議会議員を選出する権利を持つ。=ロードアイランド・コネティカット。マサチューセッツは王領植民地で会ったが1774年に総督と議員の現地での選出が認められた。
 七年戦争   1756~63年 北米大陸ではa フレンチ・インディアン戦争  が併発。
  • 1763年 b パリ条約   イギリスがカナダ、ミシシッピ等のルイジアナ、フロリダを獲得。
     → 同時に戦費が財政を圧迫。 → 財政赤字の増大。
  • 同年 イギリスのc ジョージ3世  、「 国王の宣言 」で植民地人の居住をアパラチア以東に限定。

    解説

    「国王の宣言」とは1763年、ジョージ3世の名で出されたイギリスの北米植民地に対する規制法。フレンチ=インディアン戦争の際にインディアンがフランスに協力したため、戦後その反乱を恐れ、懐柔する必要があった。そこでイギリスが獲得したミシシッピ川以東のルイジアナ(厳密には東はアレガニー山脈、西はミシシッピ川、北は五大湖、南はフロリダの北端に挟まれた地域)を国王直轄地として植民地人の移住を禁止しインディアンの保護するとした。しかしそれは口実で、植民地人の経済活動を抑制しようとしたものであったので、植民地側は強く反発した。
     = インディアン保護を口実に、植民地人の活動を制限。
D イギリスの 重商主義政策  
    • イギリスが本国の商工業を保護するため、植民地の自由な貿易、工業の発展を抑えようとする。さらに、
       植民地戦争による財政赤字を補填するため、植民地に対する課税を強化    

Text p.246

  • 1764年 ▲b 砂糖法(条令) :ラム酒の原料である糖蜜への課税。
  • 1765年 c 印紙法(条令) :証書、証券類、パンフレット、新聞等に課税。
     → アメリカ植民地側はd 「代表なくして課税なし」  (パトリック=ヘンリの提案)と決議。
  • 1767年 ▲タウンゼント諸法制定 → 植民地のガラス・鉛・ペンキ・紙・茶の輸入への課税など。
 ボストン茶会事件
ボストン茶会事件

 ボストン茶会事件  

  • 1773年  イギリス政府、a 茶法(条令) を制定。
     = 植民地へのb 茶  の販売権をc 東インド会社  に独占させる。
     → 植民地側商人の反発が強まる。
  • 同年 E ボストン茶会事件  起きる。(右図)
     = インディアンに変装した現地人がc 東インド会社  の船の積み荷の
     b 茶  を投棄する。
  • イギリスが報復としてd ボストン港封鎖  
     マサチューセッツ植民地の自治権を剥奪。
     → 植民地全域にイギリス製品不買運動広がる。
先頭へ
用語リストへイ.アメリカ合衆国の独立

■ポイント アメリカ合衆国の独立が「独立革命」といわれる意味を考え、その意義を理解する。

 独立戦争   の開始。
  • 1774年 植民地代表らフィラデルフィアでa 第1回大陸会議  開催。自治の尊重を要求。
     ▲ パトリック=ヘンリ の「自由か死か」演説。
     → イギリス国王b ジョージ3世  に対する忠誠を拒否。
  • 1775年 c レキシントンの戦い  ・コンコードで衝突し、独立戦争始まる。
    独立宣言への署名

    B 独立宣言  への署名

     →  第2回大陸会議  総司令官にd ワシントン  任命。
 独立宣言    ・a 1776  年7月4日
  •  フィラデルフィア  で13植民地代表が署名。
     イギリスのc ロック  の圧政への抵抗権の主張をもとに、
     トマス=ジェファーソン  らが起草。
  • 内容:e 平等、自由、幸福の追求と圧政に対する革命権      
    を認める 
  • 意義:f フランス人権宣言  と共に、近代民主政治の基本原理
    とされる。
 独立戦争   の展開。
    • 植民地内部でも独立支持派= 愛国派(パトリオット)と独立反対派= 国王派が対立。中立派も存在した。
    •  トマス=ペイン  のb 『コモン-センス』  (1776発表)が独立の必要を訴える。
       = イギリスへの服従を拒否、独立によってのみ自由を獲得できると説く。
    • 1777年  ▲アメリカ連合規約 制定、国号をc 「アメリカ合衆国」 とする。

解説

最初の星条旗アメリカ合衆国 United States of America は、13の州 state の連合体であるのでアメリカ合衆国とするのが正しいが、日本では明治以来、合衆国の表記が定着した。アメリカ連合規約は81年に施行され合衆国が正式に発足し、大陸会議も連合会議と改められて中央政府の役割を果たした。大統領と連邦政府が発足するのは1789年(この時首都はニューヨークとされた)。国旗は1777年6月14日に制定された「星条旗 Stars and Stripes 」(左)。星は加盟州、紅白のストライプは独立時の13州 Original States を著す。加盟州は順次増え、現在は51州。
  • 同年 国旗(星条旗)を制定。
  • 1778年 d フランス ・スペイン  、独立軍を支援。駐仏大使e フランクリン  の働きかけ。
  • 1780年 ロシアのエカチェリーナ2世の提唱により、f 武装中立同盟  結成。
     → フランスのg ラ=ファイエット  、ポーランドのh コシューシコ  ら義勇兵が参加。
  • 1781年 i ヨークタウンの戦い  = 独立軍の勝利。
     同  年 連合規約が発効。大陸会議を▲j 連合会議  に改め、中央政府とする。

Text p.247

 パリ条約   の締結。
  • 1783年 イギリスがアメリカ合衆国(13州)の独立を認める。
     a ミシシッピ以東のルイジアナ  もアメリカ領となる。
     他に西インド諸島の一部とセネガルをフランスに割譲。フロリダとミノルカ島をスペインに割譲。
・「b イギリス第一帝国  」の崩壊。
先頭へ
用語リストへウ.合衆国憲法の制定

■ポイント 合衆国憲法の内容と意義を理解し、連邦派と反連邦派のそれぞれの主張を知る。

 独立戦争   の開始。
  • 13州の緩い連合体として独立を達成したが、中央政府としての連合会議は弱体だった。
     → 元兵士や農民の反乱が起きる。 統一の強化が課題となる。
  • 1787年 フィラデルフィアでa 憲法制定会議  開催。議長ワシントン。
  • 連邦政府のあり方をめぐり対立が明確になる。
  •  連邦派(フェデラリスト)  :中央政府としての連邦政府の必要と憲法の制定を主張。
  •  反連邦派(アンチ=フェデラリスト)  :州の独立維持を主張し、連邦政府を不必要と主張。
     → 両派の妥協が成立。翌年、9州の批准によってd アメリカ合衆国憲法  が発効。
 アメリカ合衆国憲法  
    • 憲法のしくみ
┌a 人民主権   共和政の民主主義を土台とする国家。

├b 連邦主義   各州の自治権を認めながら、中央政府の権限を強化。

│          ┌ 行政=d 大統領  (任期4年 間接選挙 議会から独立。)
│          │
│          │             ┌ 上院:各州2名の代表。条約の批准権などを持つ。
│          │             │
└c 三権分立    ┼ 立法=e 連邦議会   ┤
           │             │
           │             └ 下院:議員は人口比例による国民の直接選挙。
           │
           └ 司法=f 最高裁判所  (違憲立法審査権を持つ) 
 
  • 憲法のその他の特色
    •  州権の制限  :条約・同盟の締結、貨幣鋳造、軍備などはできない。
    •  政治と宗教の分離   
    •  軍隊に対する文民統制   
    •  人民の権利を保護する条項   
  • 意義:k 世界最初の近代的成文憲法であり、憲法に基づく民主的な共和政国家を初めて成立させた   
 大統領制 の発足
  • 1789年 a ワシントン  初代大統領に当選。連邦政府発足。この年、b フランス革命  勃発。
     → アメリカ合衆国は中立政策を採る = アメリカの外交政策のc 孤立主義  の源流となる。(後出)
  • 1797年 3期目、出馬せず退任。以後、F=ローズヴェルトまでの先例となる。
 連邦派、反連邦派の対立  
  •  連邦派(フェデラリスト)  :財務長官b ハミルトン  ら。商工業者の支持。
     = c 連邦政府の権限を強め、統一国家のもとでの商工業の発展をめざす    
  •  反連邦派(アンチ=フェデラリスト)  :国務長官e ジェファーソン  ら。中小自営農民が支持。
     = f 集の独立性を保ち、連合政府の権限をできるだけ制限することを目指す  

    解説

    代大統領ワシントンのもとで財務長官となったハミルトンは連邦派、国務長官(外務大臣)となったジェファソンは反連邦派であったので、政府内部で対立した。特にハミルトンが進めた国立銀行設立案にジェファソンは強く反対した。中立の大統領ワシントンがうまくバランスをとったので分裂は回避されたが、その後も両派の対立は続いた。第2代大統領アダムスも連邦派であったが、1800年の選挙で反連邦派のジェファソン政権が誕生した。
     → 後にアメリカの政党のもとになる。

Text p.248

E 大国への道
  • 1800年 首都a ワシントン特別区  を建設し移転。
  • 社会改革進む:土地相続制の改革、信仰の自由、アパラチア山脈以西への移住の解禁など。
     → 開拓農民=自由農民層の増加 = b アメリカン=デモクラシー  の基盤となる。
     → 合衆国市民の西部移住の増加 → 先住民c インディアン  との戦争の激化。
・まとめ
★a アメリカ独立革命  の意味:
  •  近代世界で初めての近代的共和国として独立し、ブルジョアジーが権力を握り市民的自由を実現した  
     = 典型的なc 市民(ブルジョワ)革命  として、次のd フランス革命  に大きな影響を与えた。
  • 残された問題点:
     e 黒人奴隷と先住民インディアンの権利は無視され、抑圧はその後も続いた   
★アメリカ独立革命の国際関係
  • アメリカ独立戦争はa フランスなどの支援、ロシアなどの中立  という有利な外的条件のもとで勝利し、
     b イギリス第一帝国  の世界支配を崩壊させた。
  • アメリカ合衆国はアメリカ大陸最初の独立国家であり、c ラテンアメリカ諸国  の独立の契機となった。
  •  大西洋革命  と捉える見方
     e アメリカ独立革命 → フランス革命 → ラテンアメリカの独立という変革の連鎖反応が起こった  
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灰吹法(神谷寿禎)

2017-08-21 | ベック式!日本史用語集

神や!ジュテーム 銀の灰。

神谷寿禎(かみやじゅてい) 銀精錬(灰吹法(はいふきほう)

[ポイント]

1.神谷寿禎が朝鮮から銀製錬技術「灰吹法」を伝えた。

[解説]

1.16世紀中頃、朝鮮(中国説も有り)から博多商人神谷寿禎(生没年不詳)が「灰吹法」という精錬技術を技術者を伴って伝えた。この技術は初め石見銀山に導入され、やがて各地に伝わり、銀の生産が飛躍的に高まった。

2.灰吹法酸化鉛に吸収させる精錬技法。まず細かく砕いた銀鉱石に鉛とマンガンなどを加えて溶かし、浮き上がる鉄などの不純物を取り除く。すると銀・鉛のまざった合金様のものができる。これを加熱すると鉛が空気中の酸素と反応して酸化鉛になる。この酸化鉛が溶けはじめ灰に吸収されていく。すると、あら不思議!プルンと灰の上に銀だけが残る。これを数回繰り返すごとに銀の純度が高まっていく、というもの。これまで明やヨーロッパが日本から大量に銅(粗銅)を買っていたのには理由があった。これらの国々は古くから灰吹法の技術を持っており、実はこの日本の銅にまだ含まれていた大量の金・銀を取り出していたのだ。つまり灰吹法の導入は日本の国富を守るうえでも大きな役割を果たしたことになる。

〈2016関西学院大学・全学部2/1:「
問7.下線部g石見銀山遣跡の説明として、誤っているものを下記より選びなさい。

 ア.朝鮮から導入した灰吹法により銀の生産量は増大した。

 イ.石見産の銀は日本に来航したヨーロッパ人に知られていた。
 ウ.豊臣秀吉は石見大森・但馬生野などの鉱山からの収入を確保した。
 エ.石見産の銀は江戸時代を通じて日本の主力輸出品であった。」

(答:エ×※中期以降枯渇し、銅に変わった)〉

〈2012立大・全学部2/6実施:「
 16世紀、朝鮮から、博多商人神谷寿禎によって純度の高い銀を精錬できる技法が伝えられたことが、日本における銀の生産を飛躍的に高めるきっかけになったと考えられる。この技法の名をしるせ」

(答:灰吹法)〉

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第10章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立 1節 産業革命

2017-08-20 | 生物暗記法

第10章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立

1節 産業革命

用語リストへ

Text p.241

ア.世界最初の産業革命

■ポイント 産業革命はどのような意味で世界史の画期とされるか、その意味と時期、地域の広がりを理解する。

1.a 産業革命  とは:
  •  18世紀後半のイギリスに始まった、工業生産技術の革新に伴って起こった経済的・社会的な変化   
     = 生産の様式が手工業からc 機械制工業  に変わり、d 資本主義社会  を確立させた。
  • 並行して、アメリカ独立革命とフランス革命という市民革命がおこったe 二重革命  の時代であった。
2.イギリス産業革命の条件
  • 16世紀以降の商工業(特にa 毛織物工業  )の発達によってb 資本  の蓄積が進んでいた。
  • 17世紀以降の国家のc 重商主義政策  の展開。
     → 17世紀後半のd オランダ  との抗争、18世紀以降のe フランス  との抗争に勝利をしめる。
     → 北アメリカ大陸・インドなど、広大な植民地=f 海外市場  の確保。
     → 18世紀からg 三角貿易  でのh 黒人奴隷貿易  での利益を蓄積が進む。
  • 18世紀に大地主によるi 第2次囲い込み(エンクロージャー)  が進行。
     → 大地主は中小農民や村の共同地をあわせて大規模な農場経営を始める。
     = j 都市人口の増加に対応した穀物の増産を目的とし、議会の承認のもと進展した。   
  • 土地を失った農民はk 賃金労働者  として大農場か、都市に流入。 → l 労働力の蓄積  が進む。
  • 産業革命と並行してm 農業革命  が起こる。= n 資本主義的な農場経営   が始まった。
    ▲背景となった18世紀のイギリスの農業技術の革新
     = 従来のo 三圃制  にかわりp ノーフォーク農法  (四輪作法)が普及した。

Text p.242

3.イギリス産業革命の背景
  •  石炭  とb 鉄鉱石  などの資源が豊富であったこと。
  • 17世紀以降のc 科学革命  による自然科学と技術の進歩があったこと。
  •  イギリス革命  によって議会政治が成立していたこと。
     ▲イギリス資本主義の発達をになったe ジェントルマン  が、議会で一定の発言権を有していた。
4.産業革命に対する最近の見方
  • 産業革命は、「革命」といわれるような急激な変化をもたらしたものではなかったという見方が出されている。
     = イギリスの国民生産の年成長率は、1780~1801年でも1.3%程度であったという指摘がある。
  • 産業革命は1760年代にイギリスで自生的に起こりただちに変化をもたらした、という見方は修正された。

 1780年代に本格化し、19世紀初頭まで長期的に続き、農業社会から産業社会へと転換させ、工業地域と植民地の従属という世界の構造と、現代の環境問題につながる世界史の転換となった「革命」であった。

解説

イギリス産業革命の技術革新が突如として始まったのではなく、綿織物や石炭の需要の高まりがあって、それに応えようとして始まったことを理解すること。また、産業革命の時期については、最近では蒸気機関の利用というエネルギー革命を重視し、1780~1800年ごろを分水嶺として農業社会から産業社会に転換し、人口急増がもたらされたとするとする見解が有力になっている。
先頭へ
用語リストへイ.機械の発明と交通機関の改良

■ポイント 技術革新はどのような需要の高まりに応じて達成されたか、需要と供給の関係を知る。

1.綿工業での技術革新
 綿織物   の需要増大。
  • 17世紀末、東インド会社を通じa インド産綿布  (キャラコ)の輸入が増加。

    解説

    キャラコとはインド産の綿布のことで、カリカットのなまったことば。1690年頃から東インド会社によって安価で吸湿性の良いキャラコの輸入が増大し、打撃を受けたイギリスの毛織物業者がその輸入の禁止を求め「キャラコ論争」がおきた。1700年にはキャラコ輸入禁止法、さらに1720年にはキャラコ使用禁止法まで制定されたが、消費者はインド産綿布を好んだため効果がなく、かえって国内に綿織物業が勃興し、産業革命と共に毛織物産業は急速に衰退した。
     → 従来のb 毛織物  の需要が減る。毛織物業者が反発するも、需要さらに高まる。
  • イングランド中西部のc マンチェスター  中心に手工業によるd 綿織物(綿布)  生産が始まる。
     → 原料のe 綿花  は当初、西インド諸島から、f 三角貿易  によって運ばれた。
  •  綿織物  の需要がさらに高まり、技術改良が必要となる。
 織機   (織物機械)の発明。

解説

杼(ひ)は綿織機で横糸の先につける道具。それまでは棒でいちいち左右に渡していたが、ケイの飛び杼はバネの力で飛ばすことによって作業を効率化した。織機の機械化の発端となったが、しかし動力はまだ人力である。
  • 1733年 a ジョン=ケイ   :b 飛び杼  を発明。
     → c 綿織物  の生産量増え、材料の綿糸が不足する。
ジェニー紡績機

C-b 多軸(ジェニー)紡績機  

 紡績機械   の発明。
  • 1764年頃 a ハーグリーヴズ  :b 多軸(ジェニー)紡績機  
     → 多量の綿糸を同時に紡ぐ。まだ強さの不足があった。
  • 1769年 c アークライト   :d 水力紡績機  を発明。
     → 河川の側に立地し、水量に左右され、操業が安定しなかった。
  • 1779年 e クロンプトン   :f ミュール紡績機  を発明。
    ミュール紡績機

    C-f ミュール紡績機  

    解説

    ミュールとは雄ロバと雌馬との雑種(ラバ)のことで、これがジェニー紡績機と水力紡績機の領邦の機能を採り入れて作られたことから名付けられた。それまでの紡績機が、太さがまちまちで切れやすかった欠点を克服した。当初は水力で動かされたが、1789年に蒸気機関が導入され、ミュール紡績機を備えた大工場で綿糸が大量にが作られるようになり、それがショックの改良を促した。
     → 均一な強さの綿糸の大量生産が可能になった。
     → 1789年に蒸気機関で動かされるようになる。
 織機   の改良。
    • 1785年 a カートライト   :b 力織機  を発明。
    • 1787年 初めてD 蒸気力  を利用。
      → 綿布の大量生産が可能に。

解説

力織機は手で動かす織機という意味で、蒸気機関を利用したのではない。紡績技術の発達で強く長い綿糸が作られるようになったことを受けて改良された織機であったが、まもなく蒸気機関を動力とするようになり、大量の綿布を安定的に生産できるようになった。
 綿花   の不足解消。
  • 1796年 アメリカのa ホイットニー   :b 綿繰り機  を考案。綿花の種子除去を容易にする。
     → イギリスへの輸出増加しアメリカ南部のc 黒人奴隷制プランテーション  による生産が急増。
  • イギリスはさらにインドからE 綿花  を輸入するようになる。(新たな三角貿易の形成 後出)
・不足する原料の供給と、飽和状態となった国内市場にかわる市場をd 植民地  に求めようになる。
2.蒸気機関の発明
 蒸気機関の発明   はじめは炭鉱の排水用ポンプとして利用された。
  • 16世紀イギリス 燃料としてa 石炭  が普及  → 炭坑の開発進む → 地下水に悩まされる。
  • 18世紀初め b ニューコメン   :炭坑の排水用に、蒸気力を利用したc 蒸気機関  を発明。
     → 十分な能力がなく、小規模な炭坑以外には普及しなかった。
ワットの蒸気機関

 ワット   B 蒸気機関   

解説

ワットは、1769年に炭坑の地下水を汲み上げるために考案されたニューコメンの蒸気機関を改良し、効率をよくした。しかしまだ巨大であり、他産業では仕えなかったので、さらに改良を加え、84年にピストンの上下運動を円運動に変える装置を付加して紡績や織機工場でも使えるようにした。1800年ごろまでに広く使用されるようになり、石炭を燃料とするエネルギー革命をもたらした。
 蒸気機関の改良   利用効率を高める必要があった。
  • 1769年  a ワット   :B 蒸気機関  を改良し特許を取る。
  • 1784年 ピストンの上下運動を円運動に変える工夫を実現。
     → 水力・畜力に代わり、b 石炭  を熱源とした動力が生まれた。
  • 1780年代後半から、紡績機、織機にB 蒸気機関  の利用始まる。
  • 1800年 オーウェン、ニューラナーク工場を創設。(後出)
C▲ エネルギー革命   (第1次)が起こる。
= a 燃料としてそれまでの木炭に代わり、石炭が使用されるようになった。  → 環境破壊も始まる。
3.重工業部門の発達
 機械制大工場   の成立。
  • 紡績、織布、動力の諸部門が結びつき、a 綿工業  がさらに盛んになる。
      → 資本家が多数の労働者を雇用し、A 機械制大工場  を建設、大量生産を行う。
     =b 資本主義  の生産形態が一般化。
 重工業   への転換。
  • 18世紀前半 a ダービー父子   :コークスを燃料とするb 製鉄法  を発明。

    解説

    コールブルックデールの鉄橋鉄鉱石を溶解するにはそれまで木炭と一緒に燃やしていたが、そのため木炭の需要が高まり、イギリスの森林資源が枯渇しそうになった。その代わりの燃料が求められていたが、ダービー父がはじめて石炭を蒸して作ったコークスと一緒に鉄鉱石を溶解して純度の高い先哲をえる子に成功した。その子がそれを事業化し、製鉄事業を本格化させた。その製鉄所のあったコールブルックデールには、1779年に作られた世界最初の鉄橋が現存し、世界遺産となっている。
     → c 機械工業  ・d 鉄工業  ・e 石炭業  なども飛躍的に発展。
  • 1784年 ▲ヘンリ=コートがパドル法(反射炉法)による錬鉄製造法を発明。
・19世紀には、交通機関の発達を促す。
4.交通・運輸機関の発達
・機械制工場の発達 → 原料、燃料(石炭)を工場に運び、製品を早く大量に市場に送る必要が出てくる。
 運河   網の形成。
  • 18世紀後半 国内輸送路としてa 運河  の建設が進む。(船は馬が引いていた。)
     → 鉄道普及までは、石炭などの主要な輸送手段とされる。「運河狂時代」と言われる。
 鉄道   の建設。
  • 1804年 ▲a トレヴィシック   :蒸気機関を利用しレール上を自走する(実用化されず)。
  • 1814年 b スティーブンソン  :実用的な蒸気機関車を試作。ロケット号を走らせる。
     → 1825年 c ストックトン・ダーリントン間  で初めて実用化。=d 石炭  輸送のため。
  • 1830年 e リヴァプール・マンチェスター鉄道   最初の旅客輸送営業開始。
イギリスの初期の鉄道
 蒸気船   の発達。
  • 1807年 a フルトン   :アメリカ人。初めて蒸気機関を船舶に利用することを考案。
     → 1819年 サバンナ号 大西洋横断成功。
 交通革命   の時代
  • 19世紀初頭のa 鉄道  とb 蒸気船  の出現。
     → イギリスなど欧米諸国の植民地拡大と共に世界に広がっていく。
 19世紀中頃までに世界的な規模での資本主義社会が形成され、世界経済の一体化が進んだ。  
5.産業革命の波及
A 18世紀末~19世紀初頭 = 二重革命の時代
  • イギリスの産業革命 圧倒的な工業力を誇り、a 「世界の工場」  と言われるようになる。
  •  ナポレオン  戦争後、イギリスは機械技術の輸出を解禁 → ヨーロッパ諸国に産業技術が波及。
B 19世紀前半  = ナポレオン戦争後のウィーン体制時代
  •  ベルギー   1830年独立 鉄・石炭資源が豊富。イギリス市場が近い。
  •  フランス   はじめ高関税政策とり、イギリスに対抗する。
     → c フランス革命  により自立した小農民が増え、工業労働力が不足、資本の蓄積も進まず。

解説

以下の部分は現在の教科書では編集上の都合か、カットされている。しかし、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本といった後発国の産業革命のあり方と、産業革命が先進工業国によるアジアなどの地域の経済的従属をももたらしたことなどは重要なので、旧版の教科書の記述をもとにまとめておいた。
C 19世紀後半  = ウィーン体制崩壊後、自由主義・国民主義の時代
  •  ドイツ   国家的保護のもと重工業・化学工業が発展。
  •  アメリカ    c 南北戦争  後に、北部主導で工業化が進む。20世紀初頭、イギリスを追い越す。
D 19世紀末 = 先行する資本主義国では帝国主義に移行し始める時期
  •  ロシア   ツァーリの支配のもと、b 農奴制  が残存。
  •  日本   明治政府の国家的な保護のもと、1894年のd 日清戦争  を期して工業化を推進。
     → 両国とも農村の後進性が残り、矛盾が強まる。 → 1904年のe 日露戦争  で衝突。
     → ロシアはf ロシア革命  の勃発へ、日本はg 軍国主義  へ傾斜。
E a 世界市場  の形成
  • 19世紀前半、産業革命を達成したイギリスは産業資本家のb 自由貿易主義  の要求強まる。
     → 1846年 c 穀物法  廃止、 49年 d 航海法  廃止などで転換を図る。(後出)
      1854年 e 日本  の開国。= a 世界市場  が完成(地球を一周)したことを意味する。
  • イギリスはf インド  に対しては直接的植民地支配、g 中国  に対しては自由貿易を強要し、
     アジアと本国を結ぶ新たなh 三角貿易  を展開するようになる。(後出)
  • フランス、ドイツ、アメリカはi 保護貿易主義  をとりイギリスに対抗しながら資本主義化を進める。
・イギリスのb 自由貿易主義  によるa 世界市場  の形成は何をもたらしたか。
 → j アジア・アフリカ・ラテンアメリカは従属的地位に置かれることになった。   
先頭へ
用語リストへウ.資本主義体制の確立と社会問題の発生

■ポイント 産業革命はどのように社会を変化させ、問題を引き起こし現代につながっているか考察する。

1.資本主義経済の確立
  •  機械制工場  の生産 → 大量生産と大量消費の進行 → 家内工業、ギルド制手工業の衰退。
  •  産業資本家  の支配力が決定的となる。 = c 資本主義体制の確立  
  • 株式会社と金融機関  ロンドン王立(株式)取引所、d イングランド銀行   (1694設立)の活発化。
     → ロンドンの▲e シティ  で国債や証券市場が形成され、世界金融の中心地となる。

解説

the City というのはロンドンの中心部の特定地域を言う。そこには、イングランド銀行、株式取引所などが集中しており、現在も世界金融の中心地の一つとして存在している。イギリスは、20世紀後半、国力ではかつての大英帝国の力はなくなったが、世界金融に占めるシティの位置は依然として確固たるものがあると言われている。
2.人口の都市集中
  •  マンチェスター  = イングランド中西部 ランカシャー地方の最大の綿工業都市。
  •  バーミンガム  = イングランド中部の鉄・石炭の産地、最大の製鉄・機械工業都市。
  •  リヴァプール  = 奴隷貿易で栄え、産業革命期にはマンチェスター製の綿製品の輸出港となる。
3.労働者階級の形成
  • 工場への賃金労働者の集中 → 資本による労働者搾取 → 労働者の団結、自覚が高まる。
     
     資本家 =a 利潤追求のため低賃金、長時間労働を強制   ─┐
                                   ├→ 階級的対立
     労働者 =b 高い賃金と労働時間の短縮を要求       ─┘
     
     → 労働者の階級意識がうまれる → 労働者の団結によるc 労働運動  が始まる。
     
     → d 労働組合  の結成。(11章1節参照)
     
  • ▲イギリス政府の対応 c 労働運動  の取り締まりを強める。
     1799年、1800年にe 団結禁止法  を制定 → 資本家と労働者の対立激化。
     → 1824年 廃止。さらに1871年のf 労働組合法  で合法化される。(11章1節参照)
4.労働問題・社会問題の発生
炭鉱の女性労働

18世紀イギリスの炭鉱で働く女性

    • 分業の発達 → a 女性・子供の労働   
      さらにb 長時間労働、低賃金労働  
      不衛生な環境 → 労働者の貧困の進行。
      1802年 最初のc 工場法  制定
       → 労働者保護のための立法始まる。
    • 一方で機械の普及によって手工業者が職を失う。

      解説

      産業革命での技術革新は、それまでの手工業の熟練工の仕事を奪った。彼らの怒りは機械打ち壊しとなって激化し、1810年ごろ最高潮に達した。ラダイトというのはその伝説上の指導者ラッドの名前に由来する。その怒りは次第に組織的な労働運動へと吸収されていった。
       1810年代 d 機械打ちこわし運動  (e ラダイト運動  )起こる。(後出) 
    • 労働者の組織的な権利要求運動が始まる。

      解説

      中世末期から職人たちは日曜日に遅くまで飲み、月曜日を Blue Monday と称して集団で休みをとる習慣があった。Blue には「聖なる」という意味もあったが、それは職人の親方に対する抵抗の手段でもあった。産業革命期になると、無権利であった職人や労働者は、この習慣を口実に月曜日に休んだり遅刻したりして資本家に対抗した。
       ▲労働者は、f 聖月曜日  の習慣を口実に抵抗を続ける。
    •  1819年 ▲g
 ピータールー事件 
       マンチェスターで労働者の集会を官憲が襲撃した事件。

       → 資本主義社会の矛盾と、労働問題の解決を目ざすh
 社会主義思想  
      が生まれる。
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第9章 ヨーロッパ主権国家体制の展開 3節 17~18世紀ヨーロッパの文化と社会

2017-08-18 | 生物暗記法

 

用語リストへ

Text p.236

ア.科学革命と近代的世界観

■ポイント ルネサンスに続く17世紀の「科学革命」の内容を知り、近代的世界観が形成される過程を考える。

1.自然科学の革新
A 17世紀のヨーロッパ  近代的合理主義・科学的自然観が展開された。=a 科学革命  の時代と呼ばれる。

Text p.237

    •  ガリレイ   伊 望遠鏡を自作し地動説を立証。1633年、宗教裁判で異端とされる。
    •  ケプラー   独 17世紀初め惑星の運行法則を発見。近代天文学の基礎を築く。
ニュートン

e ニュートン  『プリンキピア』表紙

  •  ハーヴェー   英 1628年 血液の循環の発見。
  •  ニュートン   英 1661年 万有引力の法則を発見。
     1687年 『プリンピキア』発表。ロンドン王立協会会長となる。
      → ニュートン力学は近代物理学の基礎となる。微積分法を創始。
  •  ボイル   英 1662年 ボイルの法則 気体力学の基礎を築く。
  • ▲g ホイヘンス   オランダ 17世紀中頃 光の波動説を唱える。
B 18世紀の主な科学者
  •  リンネ   スウェーデン 動植物の分類。
  •  ラヴォワジェ   仏 1774 燃焼理論を明らかにした化学者。
  •  ジェンナー   英 1796 種痘法を発見。
  •  ラプラース   仏 物理学、数学、宇宙生成論。
  •  フランクリン   米 避雷針の発明。アメリカ独立戦争中の政治家、外交官としても活躍。
・18世紀 後半 産業革命の時代へ
2.合理的思考の展開
 経験論   17世紀 イギリスに始まり、深められる。
  • 経験的(観察と実験)方法によって法則(真理)を導く(帰納法)。
  •  フランシス=ベーコン  :1620年『新オルガヌム』 経験論の基礎を築く。ジェームズ1世の側近。
     → ホッブス、ロックに継承される。
 合理論   17世紀 オランダ・フランス・ドイツなど大陸で発達。
  • 理性にてらし真理として認識できることから具体的な事例を導く(演繹法)。
  •  デカルト  (オランダ):三十年戦争に従軍。1637年 b 『方法叙説』  などで、すべての
    存在を疑ったうえで、”c われ思う、ゆえにわれあり  ”から認識が始まるとした。
  •  パスカル  (フランス):『瞑想録(パンセ)』(1670年刊 ”人間は考える葦である”で知られる。)
  •  スピノザ  (オランダ) :1675年、『エチカ』などで、汎神論を展開。教会からは異端視される。
  •  ライプニッツ  (ドイツ) :1720年、単子論を説き、数学では微分・積分学を創始する。
 自然法思想   17世紀、自然科学の発達の影響を受け、国家や法のあり方の探求が始まる。
    • 人為的な法律を超えた効力を持つ永久的、普遍的な法の存在が提唱される。
    •  グロティウス  :17世紀初め オランダ。三十年戦争に際しb 『戦争と平和の法』  を著し、
      国際法の必要を提唱。他に、『海洋自由論』を著し「自然法・国際法の父」と言われる。
    •  ホッブズ  :17世紀前半 イギリス=ピューリタン革命期。d 『リヴァイアサン』  を著し
      ”万人の万人に対する戦い”の状態から社会契約による国家権力の優越を説く。
    •  ロック  :17世紀後半 イギリス=名誉革命期。f 『統治二論』  などで、人間が自然法上の
      諸権利を政府に信託する契約を結んでいると説明し、人民の政府に対する抵抗権を認めた。
       → g 社会契約説  の思想 → アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に影響を及ぼす。

解説

社会契約説は、絶対王政の政治理念であった王権神授説に対して、17~18世紀の市民革命期に成立した、新たな政治理念。社会の基礎を個々の人間におき、それぞれの主体が互いに契約を結ぶことによって社会が成立すると考えるのは、ホッブズ、ロック、ルソーらに共通であるが、国家のあり方、政治権力と人民の関係ではこの三者でも違いがある。17世紀前半のホッブズは、人民は政府に自然権を委譲していると考え、抵抗や革命は許されないと考えたが、ロックは人民は自然権の一部を政府に委託しているのであり、主権者である人民に抵抗権・革命権があることを認めた。18世紀中期のルソーは各個人は自由・平等であり、その集合体である人民の意志(一般意志)は最高絶対の権力(人民主権)であって、人々の契約の目的は国家ではなく人民の共同体にあるとした。18世紀前半のフランスのモンテスキューは、基本的人権の保障の観点から、国家権力を立法、司法、行政の三権分立という、より具体的な人民と国家のあり方を提唱した。特にロックとルソーの思想は、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に採り入れられ、さらに現代の民主主義国家の理念としてとして生きている。
 ドイツ観念論   18世紀末、ドイツで成立する。
  •  カント   経験論と合理論の双方を批判的に統合し観念論を大成する。『純粋理性批判』などの三批判書。 
    1795年 『永遠平和のために』では常備軍の廃止、国際平和機関の創設を提唱。
・19世紀 ヘーゲルによって完成され、マルクスらによって克服が試みられる。
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用語リストへイ.啓蒙思想

■ポイント 18世紀フランスの主要三名の啓蒙思想の内容を理解し、その及ぼした影響を考える。

A 18世紀フランス
    • 封建社会の人間の不自由さを批判し、無知からの解放、知識の獲得をめざすa 啓蒙思想  おこる。
      18世紀の絶対主義時代のフランスで特に高まり、王権神授説を批判する。

Text p.238

  •  モンテスキュー  :18世紀前半 『法の精神』、『ペルシア人の手紙』 などで
    イギリスの議会政治を賛美し、絶対主義の国王への権力集中を批判、三権分立を説く。
  •  ヴォルテール  :18世紀前半 『哲学書簡』など言論・信仰の自由を主張、カトリック教会を批判。
     → フリードリッヒ2世に招かれ、エカチェリーナ2世とは文通を通じ啓蒙思想を教えた。
  •  ルソー  :18世紀中ごろ 『社会契約論』、『人間不平等起源論』、『エミール』など。
     → e 人民主権  の実現をめざす思想を展開し、絶対王政を批判。f フランス革命  の理念となる。
  • その他のフランス啓蒙思想
    1751~72年、g ディドロ 、h ダランベール  らi 『百科全書』  刊行。啓蒙思想を集大成。
     → 各国のj 啓蒙専制主義  をとる君主に影響を与える。
B 経済思想の転換
  •  重農主義  :18世紀中ごろフランス。b ケネー   『経済表』を刊行。冨の源泉を土地に求め、
    重商主義政策を批判し、経済活動のc 自由放任(レッセ=フェール)   を主張。
  •  アダム=スミス  :18世紀後半のイギリス産業革命期 1776年 e 『諸国民の富』  を刊行し
    国民の生産活動の全体を冨の源泉とみなし、経済を市場原理=f ”見えざる手”  にゆだねる事を主張。
    = g 重商主義を批判し、自由主義経済の理論を確立する。  
     → h 古典派経済学  の成立
・18世紀後半のイギリス産業革命期にその理論となる。 → 資本主義経済の形成。
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用語リストへウ.宮廷文化

■ポイント 宮廷文化と言われる建築、絵画、文学、音楽にはどのようなものがあるか、その内容を知る。

・17・18世紀の芸術:a 絶対王政  のもとで国王の権威の誇示に利用される。 
  一方で、b 市民階級  の成長に伴い、その生活感情を反映するようになる。
 バロック美術  ルネサンス様式に続き、17世紀のスペイン・フランス・フランドルで開花。
ヴェルサイユ宮殿

 ヴェルサイユ宮殿  

  • 特徴:a 君主の権威を誇示する豪壮華麗な文化  
  • 建築:b ヴェルサイユ宮殿   1661年
     ルイ14世  がパリ郊外に離宮として建設開始。
     1682年に政府機構も移る。
  • 絵画:
    •  フランドル派  (南ネーデルラント=ベルギー)

      Text p.239

      ハプスブルク家の宮廷を中心に発達。
       ルーベンス   イタリアで学び、アントワープで活躍。
      『マリ=ド=メディシスの生涯』など。
       ファン=ダイク   イギリスで宮廷画家として活躍。
      『チャールズ1世の肖像』など。
    • スペインの絵画 17世紀はスペイン絵画の黄金時代といわれる。
       エル=グレコ   ギリシア人でヴェネツィアで修行し、スペインのトレドで活躍。宗教画。
       ベラスケス   宮廷画家。『宮廷の侍女たち』 など。
       他にムリリョ(『乞食の少年』など貧しい民衆の生活を描いた)など
  • 文学:フランス i 古典主義   宮廷劇に3大劇作家が出現。
    (悲劇)j コルネイユ  『ル=シッド』など。  ・k ラシーヌ  『アンドロマク』など。
    (喜劇)l モリエール   『タルチェフ』、『人間嫌い』など。
  •  フランス学士院(アカデミー)   リシュリューが創設、フランス語の統一と洗練をめざす。
 ロココ美術   18世紀(1720~60年代) フランスとその周辺諸国の宮廷で流行。
  • 特徴:a 王侯貴族や富裕市民の愛好する繊細優美な文化    
  • 建築:b サンスーシ宮殿   プロイセンのc フリードリヒ2世  がポツダムに建設。無憂宮。
     シェーンブルン宮殿 ハプスブルク家がウィーンに建造。外観はバロック式。
  • 絵画:d ワトー  、ブーシエ、フラゴナールなど(いずれもフランス)
  • 音楽:17~18世紀 音楽史ではバロック音楽から古典派へ移行したとされる。
     バロック音楽 e バッハ   ブランデンブルク協奏曲など多数の作品がある。
            f ヘンデル   ドイツに生まれイタリアで学びイギリスで活躍。
     古典派 g ハイドン  (交響曲の父)、h モーツァルト  (歌劇・交響曲多数)。古典派音楽の完成。
・17世紀後半~19世紀  i シノワズリ  (中国趣味)の流行。
  ヨーロッパ各国の宮廷で、中国及び周辺のアジアの文物やデザインが愛好される。
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用語リストへエ.成長する市民と文化
レンブラント 解剖教室

 レンブラント    『テュルプ博士の解剖学講義』

■ポイント 市民文化の成立を実感、具体的イメージを感じ取る。

1.市民文化の形成
  • 17~18世紀 商工業の発展を背景に成長した豊かな市民層が
    文化の新たな担い手となった。
  • オランダ(北ネーデルラント)の美術 都市の繁栄を背景に
    市民生活を題材とした作品が生まれる。17世紀中ごろ。
     レンブラント   明暗を駆使した油絵技法の完成。
    『夜警』、『テュルプ博士の解剖学講義』など。
     フェルメール  (『手紙を読む女』)など
  • 17世紀イギリスのc ピューリタン文学  
     ミルトン  の『失楽園』 旧約聖書を題材に神の摂理を説く。
     バンヤン  の『天路歴程』  信仰上の苦悶を描いた寓意物語。
2.西欧諸国での17~18世紀の 生活革命   
    •  タバコ  ・c 茶  ・d 砂糖  ・e コーヒー  などがf 三角貿易  によってもたらされる。

      Text p.240

       → はじめは貴族の嗜好品であったが、次第に市民層の消費生活に採り入れられていった。

解説

コーヒーはアラビア原産で、16世紀ごろからヨーロッパにも知られるようになった。ロンドンにコーヒーハウスが登場したのは1652年、レヴァント商人のダニエル・エドワーズが開いた店であるという。その後数を増やし、1714年には約8000に達した。コーヒーハウスではロンドンの市民たちが世界中の植民地から集まる情報を交換し、そして情報の発信地となった。さらにコーヒーハウスは株式取引、保険などの役割も果たした。さらにピューリタン革命から王政復古期にかけて、政治議論が戦わされ、「世論」が形成される場となった。しかし、18世紀後半になると人々の嗜好も紅茶に移り、イギリスのコーヒーハウスは急速に衰退した。
    • 17世紀 ロンドンにg コーヒーハウス  が出現。様々なクラブも生まれる。
    • パリではカフェが成立。市民の自由な交流の場となる。貴族はh サロン  を形成。
コーヒーハウス

ロンドンのg コーヒーハウス   

  • それらのはたした役割
     文芸活動やジャーナリズムの発展を支え、啓蒙思想を普及させた。  
3.18世紀前半のイギリス文学
    • 貿易・植民活動を背景に市民的な文学が生まれた。
 デフォー  
      の『ロビンソン=クルーソー』

 スウィフト  
      の『ガリヴァー旅行記』

     二人はジャーナリストとしても活躍。政治、社会を風刺。
  • ▲1702年 イギリス最初のc 新聞  が刊行される。
     → d 世論  の形成。
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第9章 近世ヨーロッパ世界の展開 2節 ヨーロッパ諸国の海外進出

2017-08-14 | 生物暗記法

第9章 近世ヨーロッパ世界の展開

2節 ヨーロッパ諸国の海外進出

用語リストへ

Text p.232

ア.アジア市場の攻防

■ポイント ヨーロッパ諸国のアジアへの進出の状況を知り、アジアに与えた影響を考える。(7章4節を参照)

・16~17世紀のa 大航海時代   → ヨーロッパ人のアジア進出始まる。(前出 8章1節)
 = ヨーロッパ人の活動はb 既存のアジアの域内貿易に参加し、特産品を獲得すること  が主であった。
   アジアに進出したヨーロッパ諸国= c ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス・フランス  など。
 → 産業革命後のd 18世紀以降は領土的野心が重視される  ようになっていく。 
ポルトガル  東廻りでアジア市場に進出。
  • 1498年 バスコ=ダ=ガマ インド航路開拓。a カリカット  に到達。インド総督となる。(前出)
     1509年 インド総督アルブケルケ が▲b ディウ沖の海戦  でマムルーク朝エジプト海軍を破る。
  • 1510年 インドのc ゴア  を占領。アジア貿易の拠点とする。

    解説

    ポルトガルがゴアを占領した時期、南インドはヴィジャヤナガル王国があった。ムガル帝国が北インドに登場するのは1526年、その勢力が南インドに及ぶのは17世紀のアウラングゼーブ帝の時代であることに注意する。ゴアはその後もポルトガルの領有地としてインド洋交易で栄え「黄金のゴア」と言われた。インドが接収するのは1961年のことである。
     → d 香辛料貿易  を独占していたe ムスリム商人  と競合しつつ、東南アジアへも進出。
  • 同年、f スリランカ(セイロン島) を征服。東南アジアの香料諸島への中継地として支配。
  • 1511年 イスラーム教国のg マラッカ王国  を滅ぼす。海峡地帯を制圧。
  • 1512年 h モルッカ諸島(香料諸島)  に進出。丁子・肉ずくの産地として重要。

    解説

    香辛料とは胡椒・肉桂(シナモン)・丁字(クローブ)・肉ずく(ナツメグ)などの口に入れて刺激を楽しむもの(スパイス)をいい、香料は厳密には乳香や白檀など香りを楽しむものといった違いがあるが、一般にそれらを総称して香料とも言っている。南インドのカリカットのあるマラバール海岸は胡椒の産地であり、スリランカは肉桂の産地であった。モルッカ諸島は現在のインドネシアに属し、スラウェシ島とニューギニア島に挟まれた諸島で、丁字・肉ずくの産地であったが、香料諸島と呼ばれた。後のアンボイナ事件の起こったアンボイナ島もその一つ。
     → 1521年にスペインのマゼラン艦隊が到来。香辛料貿易をめぐり激しい対立始まる。
  • 1517年 中国のi 広州  に至り、j 明  と通商開始。1557年 k マカオ  に居住権を得る。
  • 1543年 ポルトガル人、l 種子島  に漂着、鉄砲の伝来。
     → 1550年からm 平戸  で日本との通商始まる。 → 17世紀初めまで、盛んに交易。(南蛮貿易)

    解説

    17世紀 アジアにおけるポルトガルの後退:16世紀後半、インド洋香料貿易は最盛期を過ぎ、ポルトガルも本国が1580年にスペインに併合されたためアジアから後退した。1622年にはホルムズ島(1515年に占領)をサファヴィー朝イランのアッバース1世に奪われ、アラビア半島東端のオマーンも1650年に現地勢力に奪回された。代わってインド洋から東南アジアにかけてオランダとイギリスが進出、セイロン・マラッカ・モルッカ諸島をいずれもオランダに奪われた。そのような中で日本でも鎖国により平戸から撤退した。ポルトガルのアジアにおける拠点はインドのゴア、中国のマカオ、東南アジアの東ティモールなどだけとなり、植民地支配の重心は南米のブラジルとアフリカのアンゴラ、モザンビークなどに移る。
     その問題点 n 貿易は王室の独占事業とされ、国内産業の発展につながらなかった。    
スペイン  西廻りで新大陸から太平洋に進出。
ガレオン船
  • 1521年 マゼラン、a フィリピン  到着。(前出)
     → 死後、艦隊がb モルッカ諸島  に到達。ポルトガルと香料貿易で競合。
     → 1529年 ▲c サラゴサ条約  で領有権をポルトガルに譲渡。
  • 1571年 フェリペ2世の時 a フィリピン  を領有。
     → d マニラ  を建設。中国の絹織物などがもたらされる。
    メキシコのe アカプルコ  との間のf ガレオン船  が往復。
  •  マニラ  を拠点としたg ガレオン貿易  の展開(前出 7章4節)
    アメリカ大陸へh 中国産の絹・陶磁器・インド産の綿布  が運ばれ、
     アメリカ大陸からi メキシコ銀  などがマカオなどを経て中国のにもたらされた。
オランダ  1581年 スペインから独立宣言、海外に進出開始。
  • 1602年 a 東インド会社  設立(前出)。東南アジア進出を開始。
     → ジャワ島に拠点b バタヴィア  を建設。→ポルトガル勢力を駆逐。c 香辛料貿易  の実権握る。
  • 1609年 d 日本  とも交易を開始。 → 1639年 鎖国後も長崎出島で交易を継続。
  • 1623年 e アンボイナ事件  起きる。f モルッカ諸島  でg イギリス  と衝突。

    Text p.233

     → イギリス商館員(日本人含む)を殺害。インドネシアからg イギリス  の勢力を閉め出す。
     → h オランダ領東インド  の形成。 → g イギリス  はインド経営に向かう。
  • 1624年 明末の混乱に乗じi 台湾  を占領。→ 61年 j 鄭成功  に奪還される。(7章1節参照)
  • 1652年 南アフリカにk ケープ植民地  建設。l オランダ領東インド  の支配への中継基地とする。
     → この地に入植したオランダ系の人びとをm ブール人  という(後出)。
イギリス  テューダー朝・ステュワート朝からイギリス革命期にかけて海外進出を開始。
  • 1600年 a 東インド会社  設立(前出 8章4節)。 → 東南アジアの香辛料貿易に進出。
     → スペイン・ポルトガル(1580年に同君連合となる)に対抗するため、一時、b オランダ  と協力。
  • 1623年 c アンボイナ事件  でb オランダ  に敗れ、d インド経営  に転換。
  • 1639年 e マドラス  に上陸し、翌年、要塞を築く(現在のチェンナイ)。
  • 1661年 f ボンベイ  をポルトガルから譲渡される(現在のムンバイ)。
  • 1690年 g カルカッタ  に商館を建設。ベンガル地方の拠点とする(現在のコルカタ)。
  • 一方で17世紀後半、3度のh 英蘭戦争  に勝ち、世界貿易の覇権を握る。(9章1節参照)
フランス  ブルボン朝の絶対王政のもとで盛んに海外進出。1604年 a 東インド会社  設立。
    •  ルイ14世   海外植民地獲得に乗り出す。
    • 1664年 財務長官c コルベール  、a 東インド会社  を再建 → d インド  に進出をはかる。
    • 1673年 e シャンデルナゴル  建設。 → イギリスのカルカッタに対抗。

Text p.234

  •  〃  4年 f ポンディシェリ  建設。→ イギリスのマドラスに対抗。
インドでの英仏植民地抗争 
16~18世紀 インドへのヨーロッパ諸国の進出
インドでの英仏抗争
  • イギリス・フランスの両国がa ムガル帝国  の内紛に乗じ、
     それぞれが地方豪族と結ぶ。
  • 18世紀 ▲b 第2次英仏百年戦争  ともいわれる。
  • 1744年~61年 ▲c カーナティック戦争  
     フランス総督d デュプレクス  が一時イギリス勢力を圧倒。
  • 1757年 e プラッシーの戦い  が起こる。同時に
     ヨーロッパにおけるf 七年戦争  
     北米大陸でのg フレンチ=インディアン戦争  起こる。
     → h クライヴ  指揮のイギリス東インド会社傭兵軍が
     フランスとベンガルの土豪連合軍に勝利する。
・イギリスのインド支配の確立。 → i イギリス第一帝国  の形成。
(右図)a ゴア   b カリカット   c スリランカ  
 d ボンベイ(ムンバイ)   e マドラス(チェンナイ)  
 f ポンディシェリ   g カルカッタ(コルカタ)   h シャンデルナゴル   i プラッシーの戦い  
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用語リストへイ.アメリカにおける植民地争奪

■ポイント ヨーロッパ各国のアメリカ大陸への進出状況、特にイギリスとフランスの抗争の経過と影響を理解する。

スペイン  コロンブスの西インド諸島到達(1492年)以来、南北アメリカ大陸に進出。
  •  ブラジル  (ポルトガル領)を除き南北アメリカ大陸ほぼ全体を支配し、多くのスペイン人が入植。
  • 16世紀 b エンコミエンダ制  による農園経営 →c インディオ人口の減少   
     → 西アフリカからd 黒人奴隷  を労働力とするようになる。
  • 1545年 e ポトシ銀山  発見。銀が大量にヨーロッパにもたらされる。
  • 17世紀 メキシコでのf アシエンダ制  による大農場経営を進める。
     = スペイン人大土地所有者がインディオを債務奴隷として経営する大農園。(以上、前出 8章1節)
オランダ  
  • 1621年a 西インド会社  設立。アフリカ西岸とアメリカの通商権を独占。
     → 北アメリカにニューネーデルラント植民地を領有、b ニューアムステルダム  建設。
  • 1664年 c 英蘭戦争  の間に、イギリスが占領し、d ニューヨーク  と改称。(前出)
     → アメリカ大陸からは撤退し、東南アジア経営を主力とするようになる。
フランス  
  • ▲1534~42年  カルティエ 、フランソワ1世の命令で北米を探検。
     → セントローレンス川流域を占有して、1535年 a カナダ  と命名。
  • 1608年  シャンプラン 、b ケベック  建設。インディアンとの 毛皮 の取引を開始。
  • 1682年 ラ=サール、ミシシッピ川流域を探検。
     → c ルイ14世  に献げ、d ルイジアナ  と命名。アメリカ大陸中部に広大な領地を得る。
  • ▲1697年 中米カリブ海のe ハイチ  をスペインから獲得。(後出)
イギリス  
  • 1607年 ローリーが北アメリカ東岸のa ヴァージニア  に植民地建設。
  • 1620年 b ピューリタン  (ピリグリム=ファーザーズ) メイフラワー号で移住。
     → プリマスに定住して、c ニューイングランド植民地  を形成。以後、新教徒の移住が多くなる。
  • 18世紀前半まで北米大陸東岸にd 13植民地  を建設。(後出)
     → イギリス人は先住民e インディアン  と融合せず、その居住地を圧迫していった。
  • 1609~11年  ハドソン がf カナダ  の北西部を探検。
     → 1670年にはハドソン湾会社を設立し、e インディアン  との毛皮交易を行う。
  • 1655年 クロムウェルの時、スペイン領の▲g ジャマイカ  を占領する。
     → カリブ海域の砂糖の生産と三角貿易の拠点として重要になる。

Text p.235

アメリカ大陸での英仏の植民地争奪  
  • 18世紀 ヨーロッパ本土での対立と同時にアメリカ植民地でも争う(a 第2次英仏百年戦争  
  • 1688~97年  ファルツ戦争 = 植民地でウィリアム王戦争 → ライスワイク条約で講和。
  • 1701~13年  b スペイン継承戦争  = 植民地でc アン女王戦争  → d ユトレヒト条約 
     講和の内容 イギリスは、スペインから ジブラルタル ・ミノルカ島を獲得、さらにフランスから
            ニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方 を獲得し北米大陸に領土拡張。

    解説

    アシエントとはスペイン領(アメリカ)への「奴隷供給契約」のことで、スペイン王室から奴隷商人に与えられていた。1517年、カルロス1世(カール5世)からフランドルの商人に与えられたのが始まりで、次にジェノヴァ商人がその権利を買い取った。スペイン継承戦争でフランスに与えられたが、戦後の講和条約ユトレヒト条約の付帯事項としてフランスからイギリスに譲渡された。これによってイギリスの商人が黒人奴隷貿易を行うことが認められた。イギリスはユトレヒト条約で海外領土を獲得しただけでなく、アフリカの黒人奴隷貿易の権利を獲得し、三角貿易に乗り出すこととなった。なお、「アシエンダ制」はスペインがメキシコで行った大農園制の土地経営のことで意味が違う事に留意すること。
           ▲同時に、イギリスはスペインからe アシエント  (奴隷供給契約)も獲得。(後出)
  • 1740~48年 f オーストリア継承戦争   = 植民地でのg ジョージ王戦争    → アーヘンの和約
  • 1756~63年 h 七年戦争   = 植民地でのi フレンチ=インディアン戦争   → j パリ条約  
      講和の内容 イギリス:フランスからk カナダ  ・ミシシッピ以東のl ルイジアナ  、スペインから
            m フロリダ  を獲得。他に西インド諸島の一部およびアフリカのセネガルを獲得。
           フランス:他にミシシッピ以西のl ルイジアナ  をスペインに譲渡し、北米での領土全て失う。
      ※並行して、インドではn プラッシーの戦い  が起こっている。(前出)
参考地図:北アメリカ大陸の植民地
地図 北米大陸の植民地

各年代での植民地獲得国 a フランス    b イギリス   c スペイン   センターテスト 1990年 第1問より

・イギリスとフランスの植民地戦争 結果と影響
  • イギリスは、a 第一帝国と言われる植民地帝国  の基礎をつる。一方、戦争の負担を植民地に押しつける。
     それに対して植民地側の不満が強まり、北米大陸でb アメリカ独立革命  起こる。(1776年)
  • フランスは、侵略戦争と植民地戦争の出費が国家財政を破綻させc フランス革命  が勃発。(1789年)
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用語リストへウ.奴隷貿易と近代分業システムの形成

■ポイント 黒人奴隷貿易の実態を知り、そのもたらしたものを理解する。

黒人奴隷貿易の開始  
  • アフリカ東海岸 a ムスリム商人  によるインド洋交易での黒人奴隷貿易が展開されていた。
      内陸の非イスラーム教徒が奴隷とされザンジバルなどから西アジア各地に運ばれた。
  • 大西洋ルートのb 黒人奴隷貿易  
     15世紀 c ポルトガル  の西アフリカ海岸の探検:黒人をヨーロッパに連れて行き労働力とする。
        → 西欧諸国による大西洋ルートによるb 黒人奴隷貿易  が始まる。
     16世紀 d 西インド諸島  やラテンアメリカのスペイン植民地でのe インディオ  人口の激減。
      理由:f スペイン人による酷使な労働と、ヨーロッパ人によってもたらされた伝染病のため。  
      → 大陸での労働力不足 → アフリカの黒人を奴隷として輸入し労働力とするようになる。
      → スペインは、黒人奴隷供給契約(▲g アシエント  )を、外国商人と結ぶ。
  • アフリカ西海岸での奴隷供給 h ギニア地方  (現ギニア~カメルーン)が奴隷供給地となる。
     ▲i ベニン王国  、ダホメー王国などの黒人首長が内陸で奴隷狩りを行った。
  • 西インド諸島 17世紀 スペイン入植者によるサトウキビ・タバコ・綿花などの
     j プランテーション  経営の拡大。
     → 19世紀までにおよそ1000万人の黒人奴隷が運ばれたと推定される。
奴隷貿易船

 中間航路 の奴隷船

Text p.236

三角貿易  
  • 17世紀~18世紀 大西洋上で次のような貿易が展開される。
三角貿易
a. 砂糖    b. 綿花   c. タバコ  
d. コーヒー     e. 武器・雑貨  
f. 黒人奴隷  
 ※このコースはg 中間航路  といわれ、劣悪で危険であった。

Text p.226

イギリスの繁栄   1670年代末 議会内に二つの派が生まれる。
  • 1713年 ユトレヒト条約で、スペインから▲a アシエント  (奴隷供給契約)を認められる。
     → イギリス、b 黒人奴隷貿易  で大きな利益を得る。
     → c リヴァプール  とブリストルが奴隷貿易で繁栄。
  • 18世紀中ごろ イギリスのd 第一帝国  (第一次植民地帝国)の成立
     = アメリカ新大陸・西インド諸島・アフリカ・インドに及ぶ植民地を支配する。
  • 奴隷貿易がイギリスにもたらした影響
     奴隷貿易による富を資本として蓄積し、18世紀中ごろからの産業革命を展開することができた。  
  • 奴隷貿易がアフリカに与えた影響
     特に西海岸地方での労働力の損失は大きく、次の時代のアフリカの後進性の要因となった。   
・世界経済システムの分業化が進む。
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ルイ14世の時代

2017-08-13 | 生物暗記法
用語リストへエ.ルイ14世の時代

■ポイント ルイ14世の政治の本質と、17世紀の国際政治の経緯を正確に捉える。

ルイ14世

A ルイ14世   

ルイ14世   1661年 宰相マザランが死去、親政を始める。
  •  太陽王  と呼ばれ、絶大な権力をふるう。b ボシュエ  の主張する、
     c 王権神授説  にもとづき、d 「朕は国家なり」  と述べる。(右図)
  • 財務総監 e コルベール  を登用しf 重商主義政策  を展開。(前出)
    • 1664年 g 東インド会社  再建。
       → インド植民地(シャンデルナゴルとポンディシェリを建設)。(後出)
    •  ヴェルサイユ宮殿  を建設。 → フランス絶対王政の全盛期を象徴。
    • 治安・交通・衛生などに積極的に取り組む。
    • 実態 i 貴族や都市自治体など特権団体  が大きな力を持ちっていた。
       → 王権による中央集権化の進み方はゆるやかだった。

解説

ルイ14世の統治は、絶対王政と言っても、国王から一定の特権を与えられたギルドのような職能団体や都市・村落などの地域共同体を媒介しての支配であり、中央集権的に直接国民を支配していたわけではなかった。そのような法人格を持った社会集団を中間団体または社団(corps)といっている。そのような観点から、この時代を「絶対王政」と規定せず、主権国家の形成期の一つの形態として「社団国家」と捉える見方も出されている。
  • ▲1682年 ラ=サール、北米大陸のミシシッピ流域を探検。j ルイジアナ  と命名。(後出)
侵略戦争   の展開。
  • 自然国境説を根拠としてライン川までの領有を主張。 → ハプスブルク家との対立深まる。
    •  南ネーデルラント継承戦争   1667~68 スペイン領ネーデルラントの継承権を主張して出兵。
    •  オランダ戦争   1672~78 南ネーデルラント継承戦争の際のオランダの妨害に対する報復。
    •  ファルツ戦争   1688~97 ファルツ選帝侯領(ライン川左岸)継承権を主張して出兵。
    • ▲同時にアメリカ植民地でd ウィリアム戦争  起こる。 → e 第2次英仏百年戦争  の開始。
       → いずれも大きな成果は無く、多額の戦費は税金でまかなわれたので、民衆の負担は増大した。

Text p.228

 絶対王政の強化   1672年 財務長官a コルベール  を遠ざける。
  • 1685年 カトリック国家の体制強化を図り、b ナントの勅令を廃止  する。
     → フランスにおける新教徒(c ユグノー  )の信仰が認められなくなる。
  • 影響:d ユグノーの商工業者が多数亡命したため、国内の産業発展が阻害された。   

解説

新教徒であるユグノーはフランスではすでに少数派となっていたが、ルイ14世は宗教的な国家統一を進める意味でナントの勅令廃止に踏み切ったと思われる。ユグノーは改宗を強要され、国外移住も許されなかったが、密かに多くのユグノーが外国に亡命、とくにオランダ、プロイセン、スイスなどに逃れた。ユグノーは商工業者に多く、優れた技術を持っていたものも多かったので、これによってフランスの産業は停滞し、亡命先の国々の産業が盛んになった(スイスの時計業など)と言われている。
スペイン継承戦争  
  • 1701年 スペイン=ハプスブルク家の断絶に乗じ、孫のa フェリペ5世  をスペイン王位につける。
    • 要因:b ルイ14世  がスペイン=ハプスブルク家の王位断絶に介入し領土拡大をはかったこと。
    • 対立:c フランス   対 d オーストリア・イギリス・オランダ・プロイセン   
    • 連動:新大陸での英仏植民地戦争=▲e アン女王戦争  が同時に起きる。
  • 1713年 f ユトレヒト条約  :ブルボン家のスペイン王位継承認められたが、イギリスは領土を拡大。
    • フランスとスペインの合併は永久に禁止される。
    • 新大陸のg ニューファンドランド  ・h アカディア  ・i ハドソン湾地方  をイギリスに割譲。
       (イギリスは他に、スペインからj ジブラルタル  ・k ミノルカ島  を獲得した。)
  • 1714年 l ラシュタット条約  でオーストリアに南ネーデルラントなどを割譲。
・フランスの劣勢、財政悪化が始まり、フランス革命の勃発につながる。 1715年 m ルイ15世  即位
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用語リストへオ.プロイセンとオーストリア

1.プロイセン

■ポイント 東方の小国から軍事大国化の歩みを理解し、それをめぐる西欧諸国の外交関係の変化に注目する。

プロイセン王国   三十年戦争後の17世紀後半 ドイツ諸侯の中で有力な領邦の一つとして台頭。
  • 1701年 a スペイン継承戦争  で神聖ローマ皇帝を助け、王国に昇格。
  • 18世紀前半 2代b フリードリッヒ=ヴィルヘルム1世   
  •  財政・行政の整備、軍備の増強を進める。→ c
  絶対王政  
    の基礎を築く。
フリードリヒ2世   の統治
  • 1740年 オーストリアのa マリア=テレジア  がハプスブルク家領を相続することに異議を唱える。
     → b シュレジエン   (地下資源が豊かで工業が盛んな地域。現在はポーランド領)を占領。

Text p.229

  •  オーストリア継承戦争   1740~48年
    • 要因:プロイセンのB フリードリヒ2世  の領土拡張政策。
    • 対立:d プロイセン・フランス・バイエルン公国   対 e オーストリア・イギリス   
    • 連動:アメリカ大陸ではf イギリス  はg フランス  とh ジョージ王戦争  を開始。
       インドでは同じくi  カーナティック戦争  が戦われる(七年戦争の時まで継続)。
    • 結果:プロイセン側の勝利、1748年 j アーヘンの和約  でb シュレジェン  を領有。
  • オーストリアのa マリア=テレジア  、フランスと同盟。 = k 外交革命  (次項)。
  • 18世紀後半のヨーロッパ五大国体制 :l イギリス・フランス・プロイセン・オーストリア・ロシア    
     → それぞれの主権国家が、領土拡張の利害を調整しながら、外交関係を展開した。
七年戦争   1756~1763年
  •  フリードリヒ2世  がオーストリアを攻撃し、開戦。しかし孤立し、苦戦。
    • 要因:外交革命で孤立したプロイセンのa フリードリヒ2世  が起死回生のため起こす。
    • 対立:b オーストリア・フランス・ロシア   対 c プロイセン・イギリス   
    • 連動:植民地でのフランスとイギリスの戦争が並行して起こる。(後出)
         北米大陸でd フレンチ=インディアン戦争   インドでe プラッシーの戦い  が起こる。
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 フリードリヒ2世  
 ヴォルテール   
  • 1763年  講和条約のフベルトゥスベルク条約締結。
     → プロイセンはf シュレジエン  を確保。列強としての地位を高める。
  • 植民地戦争ではg パリ条約  が締結される。
     → 植民地ではイギリスが勝利。植民地帝国(大英帝国)の出現。
啓蒙専制主義  
  •  フリードリヒ2世(大王)  はb 「君主は国家第一の僕」  と称す。
  • フランスの啓蒙思想家c ヴォルテール  を招く。(右図)
  •  啓蒙専制君主  として、上からの改革を進める。
     = 信教の自由の承認、産業の育成、司法改革など国民の福祉向上を掲げる。
    • 基盤:e グーツヘルシャフト  で農民を使役するf ユンカー  階層。
       → 彼らが軍隊・官僚機構の支配的地位を占める体制であった。

解説

啓蒙専制君主とは、君主の権力を王権神授説に置くのではなく、法に基づく普遍的なものと捉え、国家の繁栄に責任を持つと考えることで、絶対王政の一つの変形である。フリードリヒ2世は宗教的寛容を表明し、産業の育成などを図るとともに、先進的な文化を採り入れる一方、国家の威信を前面に押しだして対外戦争を強行した。特にオーストリア継承戦争、七年戦争を勝利に導いたことによって「大王」と称賛されたが、国民に権利を与えたり、政治参加の自由を与えるものではなく、その支持基盤は封建的な地主層であるユンカーたちであった。
  • ポツダムにg サンスーシ宮殿  を造営。自らも作曲し、フルートを演奏。
  • 特徴:h 市民層の成長が十分でないため、君主が「上からの改革」を主導した。   
・国内のユンカー階級を基盤とした、軍事大国として、19世紀に強大化する。

2.オーストリア

■ポイント オーストリア=ハプスブルク帝国の大国化の過程と、多民族国家としての実態を知る。

Text p.230

オーストリア   の大国化
  • 1699年 a カルロヴィッツ条約  でオスマン帝国からハンガリーなどの領土を獲得。(後出)
     → 領土拡大と共にハンガリー人、チェック人、クロアティア人などを含むb 複合民族国家  となる。
  • 神聖ローマ皇帝位は従来のc ハプスブルク家  の継承が続く。
    • 1713年 カール6世、プラグマティッシェ=ザンクティオンにより家督相続原則を定める。
    • 1714年 d スペイン継承戦争  に参戦し、南ネーデルラント(後のe ベルギー  )・
             ミラノ・南イタリアなどの領有が認められる。
       → ヨーロッパの東西に領土を有する大国となるが、同時に多民族国家として困難深まる。
マリア=テレジア   カール6世の娘。ハプスブルク家の家督を継承。
  • 1740年 バイエルン公が反対を表明。プロイセンのa フリードリヒ2世  が同調。
  •  オーストリア継承戦争  となる。 1740~48年
    • 1745年 A マリア=テレジア  の夫フランツ1世が神聖ローマ皇帝位につく。
    • 1748年 アーヘンの和約で講和。プロイセンのc シュレジエン  占領を認める。
外交革命  
  • 1756年 オーストリアa マリア=テレジア  がフランスのb ルイ15世  と同盟を結ぶ。
     → プロイセンを孤立させ、シュレジェンの奪回を図った。
  • 意義 c ヨーロッパ国際関係の基軸であった、ハプスブルク家とフランス王家の対立が解消された。   
     → オーストリアはロシアとも接近し、プロイセンの孤立をはかる。

解説

外交革命とは、18世紀ヨーロッパの国際関係におけるフランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家という基本的な対立軸が崩れ、この二国(二家)が提携したことを指している。これによって、植民地でフランスと対立を続けていたイギリスと、オーストリアとドイツの主導権を巡って争っていたプロイセンとが提携するに至り、ヨーロッパはフランス=オーストリア対イギリス=プロイセンというブロック対立へと移行した。
  • 新たな対立軸 海外植民地におけるd フランス 対 イギリス  
           ドイツ語圏におけるe  プロイセン 対 オーストリア   (ドイツ統一の課題が残る)
  • 1756年 f 七年戦争   フランス・ロシアと結び、プロイセン・イギリスと戦う。
     → 1763年  フベルトゥスベルク条約 で講和。g シュレジエン  を失うが、帝位継承は承認される。
  • ▲フランスとの友好関係を続け、娘のh マリ=アントワネット  を後のルイ16世の后とする。
ヨーゼフ2世   1765~90 マリア=テレジアの子。母の政策を継承しプロイセンに対抗。
  • 啓蒙専制君主としてa 啓蒙専制主義  政策を実施。
     = b 宗教寛容令  、c 農奴解放令  、教育・医療の充実など、上からの近代化をはかる。
     → 中央集権を図ろうとしたが、貴族層や地域社会の抵抗で失敗。
  •  複合民族国家  の状況が続く。
     領土内にe チェック人  (ベーメン王国)、f マジャール人  (ハンガリー王国)、北イタリア地方、
     さらにベルギーなどが存在した。
・皇帝の画一的改革に対する反発が起こり、各民族の自治要求が強まる。
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用語リストへカ.北方戦争とロシア

■ポイント ロシアはどのように近代化を進めたか。また、その大国化はどのように行われたか。

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貴族の髭を切るA ピョートル1世  

ピョートル1世(大帝)    在位1682~1725 ロマノフ朝 全盛期となる。
  • 自ら西欧諸国を視察し、a 西欧化政策  を押し進め、領土拡張をめざした。
  • 東方への領土拡張  シベリア経営を推進 → 清王朝との国境紛争起こる。
    • 1689年 b ネルチンスク条約   清(c 康煕帝  )と国境を定める。
    • デンマーク人▲d ベーリング  にカムチャツカ探検を命じる。
    • 1728年 アメリカ大陸との間の海峡に到達。1741年  アラスカを領有。
  • 南方:広義のe ロシア=トルコ戦争   オスマン帝国を圧迫しアゾフ海に進出。

Text p.231

北方戦争   1700~21年
  • 当時、a スェーデン  がb バルト海  を支配。c カール12世  が統治。
    • 要因:ロシアのd ピョートル大帝  がb バルト海  進出をめざした。
    • 対立:e ロシア・ポーランド・デンマーク    対 a スウェーデン  
  • 1703年 f ペテルブルク  (後にレニングラードに改称、現在旧称に戻る)建設。
     → 1712年より 首都とされる。ロシアの西欧化の窓口として繁栄する。
  • 1721年  ニスタットの和約で講和。
     → ロシアがg バルト海の覇者  となり、ヨーロッパの大国としての地歩を固める。

解説

ペテルブルクの正式名称は「サンクト=ペテルブルク」で、ピョートル1世の守護聖人ペテロに由来するドイツ語風の表記である。1712年からロシア帝国の首都となった。第一次世界大戦が起こるとドイツ語表記をきらい、ロシア語のペテログラードに改称した。ロシア革命で首都はモスクワに移り、さらに1924年にロシア革命の指導者レーニンの名を冠してレニングラードとなった。ソ連崩壊後の1991年に現在のサンクト=ペテルブルクに戻った。
エカチェリーナ2世   在位1762~96 ドイツ生まれで、ピョートル3世の妃となる。
  • 積極的な領土拡張を図る。
    • 西方:1772~95年 a ポーランド分割  に加わり、領土を拡大。(次項)
    • 南方:1783年 b クリミア半島  のクリム=ハン国 を征服。 オスマン帝国を圧迫。
    • 東方:シベリア進出を進め、オホーツク海に進出。1792年 c ラクスマン  を日本に派遣。幕府、交渉拒否。
  • 初期にはd 啓蒙専制君主  として上からの改革をはかる。ヴォルテール、ディドロとも交遊。
  • 1773~75年 e プガチョフの反乱  が起こる。コサックが南ロシアの貧農と結んで起こした反乱。
     → 反乱鎮圧後、国王は貴族と妥協し、f 農奴制を強化  するなど、改革は後退する。
・バルト海、黒海、カスピ海、北海、オホーツク海に及ぶ大国になるが、国内には農奴制など古い社会が残存。
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用語リストへキ.ポーランドの分割

■ポイント 啓蒙専制君主を戴くヨーロッパの三強国によって分割されたことの意味を考える。

ポーランド   の状況
  • 15世紀 リトアニア=ポーランド王国 a ヤゲウォ朝  のもとで全盛となるが、特権的貴族層が実権握る。
  • 16世紀後半 a ヤゲウォ朝  が断絶、b 選挙王制  となる。
     → 隣接するa プロイセン・オーストリア・ロシア  の介入を招く。

解説

分割前のポーランド王国は、現在のポーランドに加え、その東方のラトビア・リトアニア・ベラルーシ・ウクライナのそれぞれ一部を含む広大な国土を有していた。しかし、ヤゲウォ朝が断絶した後、特権的な貴族(シュラフタと言われる)による選挙王制となり、国王選挙に外国の干渉を招くこととなった。選挙王制と言っても国民が選ぶのではなく貴族が選挙権を持ち、しかも国外からも国王が選出されることがあったことに注意すること。
  • 18世紀後半 三国による、三次にわたるd ポーランド分割  
    よって、主権国家としてのポーランドは消滅した。その経過は次の通り。
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左からf エカチェリーナ2世   ポーランド王
 ヨーゼフ2世   b フリードリヒ2世  

第1回分割   1772年
  • プロイセン王が提案し、それぞれ領土を奪う。(右図)
    •  プロイセン王国   = b フリードリヒ2世   
    •  オーストリア帝国   = d ヨーゼフ2世   
    •  ロシア帝国     = f エカチェリーナ2世   
  • ポーランドでは、国家を維持するために、憲法制定など近代化を試みる。
     → 貴族間の対立などにより、改革は不十分に終わる。
第2回分割   1793年
  •  フランス革命  が起こり、西欧諸国の関心がポーランドから離れる。
     → その間に、ロシア・プロイセン両国が分割を強行。
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 コシューシコ  
  •  コシューシコ  ら義勇兵を率いて戦うも、ロシア軍に敗れる。
第3回分割   1795年
  • プロイセン・オーストリア・ロシア三国がポーランドの残りの国土の分割。
     → ポーランド国家消滅する。
・ポーランドは、以後1世紀以上にわたり、外国支配のもとにおかれる。
 完全な独立の回復は123年後の第一次世界大戦後となる。

・ポーランド分割の経過図
peter_1
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第9章 近世ヨーロッパ世界の展開 1節 重商主義と啓蒙専制主義

2017-08-13 | 生物暗記法

第9章 近世ヨーロッパ世界の展開

1節 重商主義と啓蒙専制主義

用語リストへ

Text p.223

ア.重商主義政策

■ポイント 西ヨーロッパに生まれた主権国家は、どのような経済政策をとったか理解しよう。

1. 重商主義政策   「17世紀の危機」をへて成立したb 主権国家  が採用した経済政策。
  • その意味:c 国家(王権)が経済に介入し、国を富ませるための経済政策。   
  • ▲国富の使途:d 官僚制  とe 常備軍  の維持、及び宮廷の運営、戦費に充てられた。
2.その諸形態 時期や国によって具体的な内容が異なっている。
    •  重金主義  :16世紀のb スペイン  にみられ、主に金銀の獲得をめざす政策。
    •  貿易差額主義  :輸入を抑制、輸出を促進して、国際収支をよくすることを目指す政策。
       → 16世紀後半から17世紀のd イギリス  、e オランダ  などに見られる。

Text p.224

  • ▲f 産業保護主義  :17世紀後半、国内産業を保護育成するため、輸出を促進し、輸入を制限する貿易政策。

解説

重商主義には、絶対王政のもとで宮廷(国王)が特権的な大商人を保護する宮廷的重商主義と、市民階級の進出に対応して自国の産業資本の保護育成を国家政策とする国民的重商主義の違いも見られる。前者は16世紀のスペインと17世紀のフランス、後者は18世紀のイギリスに典型的にみられる。
3.その典型的な例
    •  フランス   b ルイ14世  時代 :財務総監c コルベール  の経済政策に典型的に見られる。
       d 東インド会社  再建・e 特権マニュファクチュア  の創設などによる国内の商工業の育成。

解説

コルベールの重商主義政策は、具体的には従来の毛織物・絹織物・絨毯・ゴブラン織などの産業に加えて、兵器・ガラス・レース・陶器などの産業を起こし、国立工場を設立し、特権的なマニュファクチュアを育成したこと、北アメリカにはミシシッピ川流域に広大なルイジアナ植民地を開発した(ミシシッピ川は一時コルベール川といわれた)こと、インド経営のためにフランス東インド会社を再建したことなどがあげられる。しかし、それによって得られた国富は、ルイ14世の度重なる対外戦争や、ヴェルサイユ宮殿造営などで浪費されていった。
    •  イギリス   ピューリタン革命、名誉革命を経て商工業者の発言力強まる。(次項)
       → 国内産業の保護政策を国家に強く求める。

解説

イギリスの重商主義は長期にわたっており、また時期によってその性格が異なる。16世紀後半のエリザベス1世の時期は貿易差額主義が中心で宮廷によって展開された。17世紀には特権商人の利益独占に反発したジェントリ層がイギリス革命を行ったと言えるが、ピューリタン革命でのクロムウェルの航海法は、産業保護主義の性格が強い重商主義政策であり、それは基本的には18世紀のウォルポールの議会政治の時代に継承される。英蘭戦争はその現れであった。しかし、18世紀に並行して産業革命が始まると、成長したブルジョワジーは自由貿易主義を主張するようになり、穀物法や航海法が廃止されて重商主義の時代は終わる、と言う経過をたどる。
  • 重商主義政策をとるイギリス・フランスなど有力国は海外にg 植民地  の獲得をめざす。
     → そこからもたらされた富により、18世紀のヨーロッパは再び成長期となる。
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用語リストへイ.イギリス革命

■ポイント イギリス革命は、なぜ、どのように起こったか。また何をもたらし、その限界は何であったか。

スチュアート朝  の成立。
  • 1603年 テューダー朝が断絶。a スコットランド  王を迎えb ジェームズ1世  とする。
     → イングランドとスコットランドの 同君連合 。(国王は同一だが議会はそれぞれ存在した。)
  • 17世紀のイギリス社会
    •  ジェントリ(郷紳)  :土着した貴族として名望のある大地主。地方行政や議会で発言権を強めていた。
    • 都市部では商工業の発達に伴い、市民層が成長し自由な経済活動を要求する。
    • 農村では旧来の領主層は力を失い、d 独立自営農民(ヨーマン)  が成長。
       → 富農の一部は毛織物e マニュファクチュア  を経営。資本を蓄積していく。
絶対王政   の展開
  •  ジェームズ1世  (1603~25):b 王権神授説  をとなえ、専制政治を展開。
     =c 王権は神から授かったものであり人民に拘束されないという思想。   
    •  議会  を無視して新税をとりたて、王権を支える少数の大商人に独占権を与える。
    •  国教会  による宗教統制の強化。 → カルヴァン派=f ピューリタン  の不満強まる。
       = 議会を支持するg ジェントリ・ヨーマン・商工業者  に信者が多かった。
    • 1620年 弾圧を避けたf ピューリタン  が北アメリカへの移住を始める。(後述)
  •  チャールズ1世  (1625~49):対外戦争の戦費を得るために課税を強行、議会を無視。
    • ▲i  フィルマー  (王に仕えた政治思想家)の説くb 王権神授説  を根拠にする。
    • 1628年 議会がj 権利の請願  を可決。中心人物 エドワード=コーク。その内容は、
       ・k 議会の承認なしに課税しないこと  ・l 国民を法律によらず逮捕しないこと   など。 
       = マグナカルタ以来の国民の歴史的な権利を掲げ、国王の専制政治を批判した。
    • 1629年、国王はそれを無視し、議会を解散。
       → 1640年まで議会開催されず、国王の専制政治が続く。
C 王権と議会の対立激化
    • 1639年 a スコットランド  の反乱 国王の国教会強制に対して新教徒が反発し反乱を起こす。
    • 1640年 国王が戦費調達のため議会を召集したが、課税に反対したのですぐ解散=b 短期議会  
       → 再度議会を召集。議会が国王を非難し対立深まる。1653年まで解散されずc 長期議会  となる。
    • ▲1641年 議会、国王の国教会強要に対し 大抗議文 を出し、その宗教政策を批判。
       背景  宗教各派の対立 d 国王は国教会を強制し、カトリック・ピューリタン・長老派を弾圧した。   

解説

エリザベス1世の時に国教会の体制は確立したがカトリックの勢力もまだ強かった。国教会はローマ教皇の権威を否定しているので広く言えばプロテスタントであるが、その教義や儀式にはカトリック的な要素を強く残しており、国王を頂点とする主教制度を採っていた。それに対して厳格な聖書中心の信仰に徹するべきであるとするピューリタンは国教会に反発し、主教制度を否定した。しかし、ピューリタンの中にも主教制度を完全に否定して教会の独立を主張する独立派と、長老という指導者による教会組織が必要と考える長老派の違いがあった。前者はイングランドに多く、狭い意味でピューリタンと言われることもある。後者はスコットランドに多くプレスビテリアンと言われる。国教会信徒以外のプロテスタントをまとめて「非国教徒」ともいう。
ピューリタン革命   1642年 a 王党派  とb 議会派  の内乱始まる。
    •  王党派  =聖職者・特権的大商人・貴族・大地主などの国教会信徒。北西部に多い。拠点はヨーク。
    •  議会派  =ピューリタンを中心とした勢力。東南部に多く、拠点はロンドン。次第に二派に分裂。
      •  独立派  :国王との戦いの徹底、教会の独立を主張。ジェントリ・独立自営農民・新興商人に多い。
      •  長老派  :王権に妥協的で立憲王政と長老による教会運営を主張。大商人・保守的ジェントリに多い。

Text p.225

    •  オリヴァ=クロムウェル   c 独立派  を指導。
クロムウェル

 クロムウェル   

    •  ジェントリ出身で熱心なピューリタン  。g 鉄騎隊  を組織。
       = ジェントリ・ヨーマンを中心とし、ピューリタン信仰によって結束した軍隊。
    • さらに、▲h 新型軍  (New Model Army)を編成。
  • 1645年 ▲i ネースビーの戦い   新型軍が活躍して、王党派軍を破る。
  • 議会からd 長老派  を追放。独裁的な権力をにぎりる。
  • 1647年 国王j チャールズ1世  を捕らえる。
共和政   の実現
  • 1649年 国王a チャールズ1世  を処刑。
     = b 共和政   =▲c コモンウェルス  といわれる。議会は一院制となる。
  • 1660年までの約10年、イギリスの歴史上、唯一の王のいない時期となった。
クロムウェル   の政治(1649~58年)
  • 中産階級を保護(王党派の土地を没収し地主に与える)、貧農や労働者の要求は抑圧。
     → 土地の均分、普通選挙を要求するa 水平派  を厳しく弾圧。
  • 1649年 b アイルランド  とc スコットランド  を王党派の拠点であるとして征服した。
     特にb アイルランド  では、大規模な土地の没収を強行し、植民地化を進めた。
     →b アイルランド  問題
イギリス=オランダ(英蘭)戦争   17世紀後半 3次にわたる海上貿易の利害をめぐる両国の戦争。
  • 1651年 a 航海法  制定(~1849年) = b 重商主義政策  の推進
     内容:c 本国および植民地の輸入品は、イギリスか産出国の船のみで輸送すること。   
     → 中継貿易に依存するd オランダ  に打撃を与える。
  • 1652年~54年(第1次) イギリス海軍がオランダ海軍を破り、制海権を獲得。
  • ▲1655年 カリブ海のスペイン領e ジャマイカ  を占領し、殖民地とする。
  • クロムウェル死後の王政復古期も戦争続く。
    • 1664年 イギリスがオランダ植民地ニューアムステルダムを占領し、f ニューヨーク  と改称。
    • 1665~67 年(第2次) 1672~74年(第3次) オランダ領のほとんどがイギリスに奪われる。
  • 結果:g イギリスの優勢のうちに終わり、その大西洋上の海上覇権が確立することとなった。  
イギリス革命   の意義
※1688年のa 名誉革命  まで含め、あわせてH イギリス革命  という。
  • 絶対王政を終わらせ、議会による立法を基にしたb 議会政治の確立  をもたらした。
  • 特権商人の独占権を廃止するなど、市民層の要求を実現しc 資本主義経済の成立 の素地ができた。
  • その限界 d 市民の平等(参政権)・経済活動の自由などは実現しておらず、完全な市民革命とは言えない。 
     → 市民社会は、18世紀後半のアメリカ独立革命、フランス革命をへて実現する。
先頭へ
用語リストへウ.イギリス議会政治の確立

■ポイント イギリスの議会政治と政党政治はどのようにしてうみだされたか。またその意義は何か。

クロムウェルの独裁  
  • 1653年 a 護国卿  に就任、長期議会を解散させる。軍事的独裁体制をしき、国民の不満強まる。
  • 1658年 死去、その子リチャードが嗣ぐが、8ヶ月で辞職。
王政復古  
  • 1660年 a チャールズ2世  が即位。(先王の子。スチュアート朝の復活。在位~85年。)
     ← 議会派の中の長老派が王党派と妥協し、議会の尊重を条件に王政復古を認める。
  • 国王、再びb カトリック  を擁護し、ピューリタン弾圧を強化したので、議会が反発する。
  • 議会による王権制限のための立法
    • 1673年 c 審査法  :官吏を国教会信者に限定し非国教徒が公職に就くことを禁止。
    • 1679年 d 人身保護法  :法によらぬ逮捕・裁判を禁止し市民的自由を保障。

Text p.226

政党の成立   1670年代末 議会内に二つの派が生まれる。
ウィリアム3世とメアリ2世

 ウィリアム3世  とf メアリ2世   

  •  トーリ党  :国王の権威を重んじ、王権と国教会を支持。
     =貴族・ジェントリーを中心にb 国教徒と地主階級  が多い。
  •  ホイッグ党  :議会の権利を重んじ、王権の制限を主張。
     =貴族・ジェントリーと共にd 非国教徒と商工業者  が多い。
名誉革命  
    • 1685年 a ジェームズ2世  即位。カトリックの復活を図る。
    • 1688年 議会のトーリ、ホイッグ両党が共同し、国王追放を議決。
       オランダ総督オラニエ公ウィレム3世  を迎える。
       = 新教徒である国王の長女c メアリ  の夫でやはり新教徒。
    • 1689年 議会、d 権利の宣言    Declaration of Rights を決議。両国王が承認し、
       ウィリアム3世  ・f メアリ2世  として共同統治にあたることとなる。
    • 戦闘も流血もなく、権力の交替が行われたので、D 名誉革命  と言われる。

解説

オランダのウィレムは、当時、フランスのルイ14世の侵攻に苦しんでいたため、イギリスと同君連合となることで形勢を逆転させる好機ととらえた。ウィレムは海陸の大軍を率いてイギリスに上陸した。イギリス国内にも反国王の軍事的動きが強まったため、ジェームズは反撃をあきらめ、カトリック国フランスに亡命した。ウィレムは妻メアリと共にイギリス国王ウィリアム3世となったが、同時にオランダ総督(実質的国王)ウィレム3世なのであり、イギリスとオランダが同君連合になったことに注意すること。なお、後にウイリアムの死により、同君連合は解消された。
  • 同年12月 議会、権利の宣言を成文化し、g 権利の章典  制定。
     ※意義:h 国民の生命・財産の保護などと共に、議会主権を明文化して立憲君主政を確立させた。   
     → 現在もマグナカルタなどとならんでi イギリスの憲法の一部  を構成している。
  • ただし、j 選挙権  は貴族やジェントリなど資産を持つものに限られていた。(制限選挙制)
ウィリアム3世   の統治
  • 1689年 a 寛容法  の制定  国教徒以外のプロテスタントの信仰の自由認められる。
  • ▲1689年からフランスとのb 植民地抗争  (第2次英仏百年戦争)始まる。(後出)
  • 1694年 c イングランド銀行  の創設・d 国債制度  の整備により対外戦争遂行能力を高める。
大ブリテン王国(グレートブリテン)   の成立
  • 1707年 a アン女王  の時、b スコットランド  と合同して成立。

    解説

    イングランド王国とスコットランド王国が、それまでの二つの王国が共通の一人の王をいただく同君連合の体制から、共通の議会を持ち一人の国王をいただく連合王国という、より緊密な関係を結んだ。これはイングランド王国による実質的なスコットランド併合であり、スコットランドは、長老派教会主義や独自の法律、裁判制度などを保ったが、政治的、経済的にはイングランドに従属することとなった。
     → 従来の同君連合からc 連合王国  の形態となり、一つの議会に統合される。
  • 1713年 d スペイン継承戦争  で勝利し、e ユトレヒト条約  で海外領土を拡大。(次項)
  • 1714年 ステュアート朝が断絶、議会の立法によりドイツから迎えたf ジョージ1世  が即位。
     = g ハノーヴァー朝  成立。新国王は英語をほとんど話せず、政務を大臣に任せる 。
  •  内閣  の成立:議会の多数をしめる政党によって組織されるようになる。

Text p.227

責任内閣制   の成立 17世紀末~18世紀初め
  • 1721年 ホイッグ党のa ウォルポール  が首相(初代首相)となる。~42年 
     =b 内閣は国王ではなく、議会に対して責任を負う という制度。   
  •  ”国王は君臨すれども統治せず”   というイギリス立憲王政の原則が確立。
・政治制度、財政制度の整備が進んだ18世紀後半、イギリスは産業革命の時代を迎える。
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自由民権運動の展開

2017-08-13 | ベック式!日本史用語集

権利おあいこ 前進座。
 民撰議院設立の建白書 立志社結成 大阪会議・愛国社 漸次(ぜんじ)立憲政体樹立の詔・新聞紙条例・讒謗律

[point]

1.士族民権期の事件・法令等は、愛国公党が民撰議院設立の建白書提出→立志社結成→大阪会議愛国社結成→漸次立憲政体樹立の詔新聞紙条例讒謗律、と続いた。

[解説]
1.征韓論に破れて下野した板垣退助後藤象二郎副島種臣江藤新平の下野参議4人は由利公正らとはかって、1874(明治7)年1月、東京で愛国公党(日本最初の政党)を結成。民撰議院設立の建白書左院に提出した。このことをきっかけに、自由民権論は急速に高まった。愛国公党は、日本最初の政党で天賦人権論を唱え社会に衝撃を与えた。建白書は、民衆によって選出された議院の即時開設を非征韓派の大久保政府に要求。ここに社会の上層、士族中心の民権運動(士族民権)がはじまった。

2.愛国公党は自然消滅し、1874年4月、板垣は郷里の土佐に帰って片岡健吉らの同志を集めて立志社をおこした。この動きに呼応して、全国各地に同種の政社が結成された。


3.板垣らの呼びかけで、全国の政社の中央組織、愛国社大阪に結成(1875年2月)された。


4.大久保政府は、農民一揆、自由民権運動の高まりに危機感を抱いた。そこで1875(明治8)年2月11日、当時実業界にあった井上馨(かおる)の斡旋により、大久保利通と、台湾出兵に反対して下野していた木戸孝允、それに板垣退助の三者が大阪で会談がもたれた(大阪会議)。大久保は木戸の主張を入れて漸進的な国会開設方針を決定した。この結果、木戸・板垣はいったん政府に参議として復帰すことになった。


5.政府側も、ようやく、大阪会議での妥協として1875(明治8)年4月に漸次立憲政体樹立の詔を出すとともに、立法諮問機関である元老院、最高裁判所にあたる大審院、府知事・県令からなる地方官会議を設置した。元老院では翌1876(明治9)年から憲法草案の起草がはじめられた。これは政府による反政府運動への懐柔策(アメの政策)だが、立憲政体への方向が打ち出されたことは画期的。


6.一方、民権運動家たちが新聞や雑誌で活発に政府を攻撃するのに対し、政府は1875年6月、讒謗律新聞紙条例などを制定して、これをきびしく弾圧した。(いやなご愛顧斬新じゃ。)(1875新聞紙条例・讒謗律)

7.木戸らの期待に反し大久保の独裁は止(や)まず、1875年10月板垣が、翌年3月木戸が参議を辞任。一方自由民権運動は士族反乱の高まりに押され、西南戦争(1877/(まさかの敗戦に)そんなバナナ/と西郷さん)の勝敗がどちらに傾くかを見守ることになり一時停滞していく。

2017慶大・経済:「
 征韓派旧参議らが民選議院設立の建白書を左院に提出したことを契機に、A.自由民権運動が展開された。新政府の下で安定的地位をえられない士族たちが運動を支えていたが、都市の商工業者に、さらには地方の豪農層等にも運動は広がっていった。

問2 下線部A自由民権運動が展開されたに関連して、次のa~cの時期を、下の年表の空欄1~6から選びなさい。.


a.讒謗律・新聞紙条例が制定される

b.内閣制度が発足する
c.立憲改進党が結成される
 
  [  1  ]

愛国社が大阪に設立される
   [  2  ]
国会期成同盟が結成される
   [  3  ]
自由党が結成される
   [  4  ]
秩父事件が起こる
   [  5  ]
三大事件建白運動が起こる
   [  6  ]

(答:a2、b5、c4)〉


2016同志社大・全学部

 以上のように近代化政策が強力に推し進められる一方で、士族を中心として政府の専制的な姿勢への批判も高まりつつあった。その動きはケ武力による反抗という形だけではなく、国会開設の要求としても現れた。1874年、板垣退助・コ後藤象二郎らが民撰議院設立の建白書を( 1 )に提出すると。それは世論に大きな影響を与え、自由民権運動が各地に広まる契機となった。こうした動きを受けて政府側からも1875年には漸次立憲政体樹立の詔が出され、立法上の諮問機関である元老院と地方官会議、最高の司法機関としての( サ )が設けられることとなった。しかし同年には自由民権運動をとりしまるための讒謗律と( シ )が公布され、言論活動には大きな制限が加えられたのである。

【設問ケ】新政府に不満を持った士族が起こした以下の反乱のうち、蜂起した年が最も早いものはどれか。1つ選べ。


 1.佐賀の乱 2.神風連の乱

 3.秋月の乱 4.萩の乱

【設問コ】後藤象二郎の出身藩の名を次のうちから1つ選べ。


 1.薩摩藩 2.長州藩

 3.土佐藩 4.肥前藩

[設問1]空欄1には、1871年に三院の1つとして設置された機関で、1875年に元老院が設けられるまで立法上の諮間機関として機能したものが入る。あてはまる語句を漢字で記せ。


【設問サ】空欄サに入る語句を次のうちから1つ選べ。


 1.集議院 2.枢密院

 3.貴族院 4.大審院

【設問シ】空欄シに入る語句を次のうちから1つ選べ。


 1.治安維持法 2.治罪法

 3.集会条例  4.新聞紙条例

(答:設問ケ.1 ※1874年、設問コ3、設問1左院、設問サ4、設問シ4)〉


2013中大・法

 1874年、[ 1 ]専制を批判した1民撰議院設立建白書が提出されると、大きな反響をよんだ。民権運動が活発化すると、大阪会議がひらかれ、[ 2 ]ならびに[ 3 ]の復職と立憲政体をめざすことが決まった。これを受けて、2漸次立憲政体樹立の詔が出された。他方で、政府は讒謗律・新聞紙条例等を制定して言論統制を強めた結果、民権運動は一時衰退した。

問1 文中の空欄[1~3]に入るもっとも適切な語・人名を漢字で答えなさい。


問2 下線部1民撰議院設立建白書に関連する説明文について正誤を判断しなさい。

 
a 民撰議院設立建白書の主張は、「上流の民権」論とよばれた。

 b 民撰議院設立建白書は、行政上の諮問機関である右院に提出された。
 c 民撰議院設立連白書の提出が、自由民権運動の始まりとされている。

問3 下線部2漸次立憲政体樹立の詔に関連する説明文について正誤を判断しなさい。


 a この詔に基づき1890年に国会を開設することになった。

 b この詔に基づき、大審院・元老院・地方官会議が設置された。
 c 大阪会議を主宰したのは、内閣総理大臣大久保利通だった。」

(答:問1→1有司、2&3板垣退助、木戸孝允、問2a〇、b×※右院→左院、c〇、問3a×※漠然と立憲政体への移行方針を示したもので、まして国会の開設などの時期は明示されてない、b〇、c×※内閣制度が始まるのは1885年、大久保は1878年に暗殺されている)

立件規制集住し。

立志白)(国会成同)(会条例)(明治十四年の政変)



[point]

1.豪農民権期の事件・法令等は、立志社建白国会期成同盟結成→集会条例明治十四年の政変、と続いた。

[解説]

1.士族反乱の失敗後、立志社建白がでて、再び運動が国民的な運動が社会の上層(士族)のみならず中層(豪農層)まで(豪農民権)に発展。これが国会期成同盟結成にいたる。

2.立志社建白(1877.6)は、片岡健吉らが天皇宛てた建白(却下される)。国会開設条約改正に加え、農民の願いである地租軽減を要求。政府の富国強兵策を鋭く批判し国民の切実な不満を明示。民権運動が国民的な運動(豪農民権)に発展する契機となる。


3.国会期成同盟結成(大阪)(1880.3)。愛国社第3回大会で国会開設をめざして全国各地の政社を結集するために、愛国社を新組織に改組した。


4.伊藤博文中心の藩閥政府は、集会条例(1880.4)を出し、集会・結社の自由を制限して民権運動を抑圧。(集会に/やはり臨席警官が)(集会条例/1880


5.国会期成同盟第2回大会(東京)(1880.11)は、各代表が全国累計約13万5千人の国会開設要求署名を持参し集まる。次回までに憲法見込案(私擬憲法)を各社が持参することを決める。


6.明治十四年の政変がおこる(1884.10)。発端は(1)開拓使長官黒田清隆が1490万円投下の官有物を同じ薩摩出身の政商五代友厚に38万円無利息30年賦で払い下げようとし(開拓使官有物払下事件)、世論の批判を浴びたこと。(2)政府のこの危機に、伊藤博文の政府主流派は以下を断行。(ⅰ)開拓使官有物払下を中止。(ⅱ)国会即時開設を画策する参議大蔵卿大隈重信一派を政府から排除。(ⅲ)国会開設の勅諭を出し、国会開設を公約。ただし開設の明治23年は10年後なので、この間これ以上騒ぐと公約は守らないという脅しでもあった。


7.立志社の国会開設建白が再び運動に火をつけ、国会期成同盟結成で民権運動が国民的な運動(豪農民権)に発展する。これに対し伊藤政府は、集会条例で弾圧をはかる一方、明治十四年の政変で政府権力の再構築をおこなった。

 

2017関西大・全学部

(D)1877年に、立志社社長【ア片岡健吉 イ板垣退助 ウ後藤象二郎】が中心となって、政府の失政8ヵ条をあげ、国会開設・地租軽減・条約改正を要求した意見書、すなわち立志社建白を天皇に提出しようとしたが、政府に却下された。」

(答:ア)〉


2017同志社大・全学部

【設問e】下線部eに関して、1880年に起こった出来事として適切なものはどれか、次のうちから1つ選び、その番号を解答欄Ⅲ-Bに記入せよ。

 1.第1回帝国議会が開かれた。

 2.愛国社が国会期成同盟に改称された。
 3.西南戦争が終結した。  
 4.讒謗律が公布された。」

(答:2)〉


2016早大・教育

 明治維新の終期については諸説があるが、その第1は、廃藩置県が実施された1871年。第2は、学制・徴兵制・地租改正などの主要政策が実施され、[ 2 ]をめぐって政府が真っ二つに分裂した1873年。第3は、最後の士族反乱が鎮圧され内乱の時代が終わった1877年。第4は、軍隊と警察を動員して沖縄県設置が強行された1879年。第5は、明治14年の政変が起こった1881年である。明治14年の政変において[ 3 ]らは、大隈重信を政府から追放し、開拓使官有物払下げを中止するとともに、国会開設の勅諭を出して1890年の国会開設を公約した。こうした対処が明治憲法体制形成に向けての出発点となり、以後、国会開設に備えて憲法起草に取り組むことと並行して、d支配体制を固めるための諸施策が実行されたのである。

問2 空欄[ 2 ]に該当する歴史用語を漢字三字で記せ。


問3 空欄[ 3 ]に該当する人物2人を選べ。         


 ア板垣退助 イ伊藤博文 ウ井上毅

 エ尾崎行雄 オ木戸孝允

問7 下線部dの諸施策のうち、明治14年政変後から大日本帝国憲法発布までの間に実施されたものをすべて選べ。

 
 ア 天皇直属の参謀本部が設けられ、政府から独立して軍令を管掌することになった。

 イ 広大な山林や有価証券などが皇室財産に編入され、天皇家は日本最大の財産所有者となった。
 ウ 中学校以上の男子校で軍事教練が開始された。
 エ 華族令が制定され、旧大名・公卿のほかに、士族の勲功者が新たに華族に加えられた。
 オ 小学校教科書は、文部省が著作権を有するものに限ることとした。」

(答:2征韓論、問3イ、ウ、問7イ、エ)〉


2016明大・政経:「

問1 史料Aは大日本帝国憲法の上諭であり、天皇が自らの約束を実行して憲法を制定したと説明している。その約束である下線部(ア)明治十四年十月十二日ノ詔命は何を指すか。適切な語句を解答欄に書きなさい。」

(答:国会開設の勅諭)


2013中大・中大・法(国際企業関係法):「

 下線部3立志社建白書を提出したのをきっかけに民権運動は再びもりあがりをみせ、1878年には愛国社も再興されたに関連する説明文について正誤を判断せよ。

 a 片岡健吉らは、立志社設立後、大阪で愛国社を設立した。

 b 愛国社は、国会期成同盟に改称された。
 c 立志社建白書は、自由民権運動の三大要求、すなわち国会開設、地租軽減、条約改正を含んでいた。

(答:a〇、b〇、c〇)

義父福タグか 次回父。

(岐阜事件(難(そうなん))(福事件・田事件)(群事件・加波山(かばさん)事件)(自党・父(ちちぶ)事件)



[point]

1.激化諸事件前半は、板垣遭難福島事件高田事件群馬事件加波山事件自由党解党秩父事件と推移。

[解説]

1.板垣退助遭難(1882(明治15).4)。党勢拡大で全国を遊説中、岐阜で遭難負傷した(岐阜事件)。

2.福島事件(1882.11)。県令三島通庸(みしまみちつね)は県民に強制労働による三方道路(さんぽうどうろ)の建設を課し、さらに反対する県会議長河野広中(こうのひろなか)ら同県自由党員を挑発して弾圧した。


3.高田事件(1883(明治12).3)。


4.群馬事件(1884(明治13).5)。


5.加波山事件(1884.9)。


6.自由党解党(1884.10)。松方デフレ下で激化事件が頻発、これに恐れをなした自由党中央は、加波山事件の翌月に解党。


7.秩父事件(1884.10)。埼玉県秩父地方で、松方デフレで没落した農民が武装蜂起した。困民党を称する約3000の農民が急増する負債の減免を求めて立ち上がり、多数の民衆を加えて高利貸・警察・郡役所などを襲撃したのに対し、政府はその鎮圧に軍隊まで派遣した。

 

 〈2016慶大・経済

問7 下線部Fに関して、下の年表は自由民権運動に関する事項を年代の古いものから順に並べたものである。次のa~cの出来事が起きた時期を、下の年表中の空欄1~8の中からそれぞれ選びなさい。(重複使用不可)

 a.国会開設の勅諭が出される

 b.漸次立憲政体樹立の詔が出される
 c.保安条例が公布される

 

  [  1  ]
板垣退助らが左院に民撰議院設立建白書を提出する
  [  2  ]
愛国社の再興大会が大阪で開催ぎれる
  [  3  ]
国会期成同盟が結成される
  [  4  ]
立憲改進党が結成される
  [  5  ]
福島事件で河野広中が逮捕される
  [  6  ]
加波山事件が起きる
  [  7  ]
三大事件建白運動が起きる
  [  8  ]

(答:問7a4、b2、c8※1887年 一派離さんなお保安。)〉

 

 〈2014明大・情報コミュ:「
 下線部カ自由民権運動に関する説明として、もっとも正しいものを次の1~4のうちから1つ選べ。

 1 江藤新平らは有司専制を批判する建白書を政府正院に提出し、反政府運動を開始した。

 2 西南戦争が勃発すると、これに関連して、土佐では板垣退助を中心に立志社が設立された。
 3 松方デフレの中、激化事件を起こした自由党は秩父事件を契機に解党してしまった。
 4 国会開設時期が近づくと、民権派は運動の立て直しをはかり、後藤象二郎を中心に大同団結運動を起こした。」

(答:4 ※1×左院に提出、2×立志社は1874年結成で、1877年の立志社建白との混同をねらった問題、3×解党は秩父事件の前)〉


2013慶大・法:「

 松方財政が引きおこしたデフレは、生活が窮乏した農民らと手を結んだ自由党員らによる激化事件を頻発させたが、政府はこれに対して徹底的な弾圧を行う。自由党は[ 39 ]の翌月に解党し、また立憲改進党も大隈らの離党によって、事実上の解党状態に陥る。政府系の政党であった立憲帝政党も政府からの保護が得られなくなったため、1883年には解党する。」

(答:加波山事件 ※原問には選択肢80あり)


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イギリスの隆盛

2017-08-11 | 生物暗記法

2.イギリスの隆盛

elizabeth-1

 エリザベス1世  

■ポイント イギリスの海洋帝国としての発展の基礎はどこにあったか、考えよう。

エリザベス1世   =の時代。
  •  バラ戦争  の結果、封建貴族が没落し国王によるb 絶対王政  が成立する。
  • 大地主=c ジェントリ(郷紳)   が各地域の代表として議会に進出。
     → 地域においては彼らは▲ 治安判事 として国王に協力した。
  • 1530年代 d イギリスの宗教改革  で国王は教会組織の頂点に立つ。
  • 16世紀後半 e エリザベス1世  (1558~1603年)
      → 新教国としての国民意識が形成される。シェークスピアの活躍など。
  • 宗教改革が議会立法で達成されるたためf 議会  の重要性強まる。
囲い込み=エンクロージャー   (第1次)の進行。
  • 15世紀末以来、イギリスで、毛織物市場が拡大し、牧羊飼育の需要が高まる。
     → a 領主や地主が農民の土地を囲込み、牧羊のための牧場に変えていった。  
  • ▲土地を失った農民はb マニュファクチュアーのもとでの賃金労働者になり都市に流入していていった。   

解説

囲い込み運動は、資本主義の要素である賃金労働者層の出現という重要な社会的変革をもたらした動きとして重要である。第1次はモアが「羊が人間を食べている」と言ったように、地主が牧羊のために農民の公有地を囲い込んだことである。なお、第2次は17世紀後半から18世紀の産業革命期に展開され、商業的穀物生産のために農地が囲い込まれたこと。第1次は議会は禁令を出して抑制しようとしたが、第2次はむしろ議会が推奨し、国家的に行われた。
  • ▲c トマス=モア  が『ユートピア』でd” 羊が人間を食べている ”として批判した。
     → 議会はたびたび禁止令を出すが効果無く、羊毛生産はさらに増大しe 毛織物工業  が国民産業となる。
  • 毛織物尭の成長 → スペインとの対立強まる → f オランダ独立戦争  を支援。
  • 1560年 ▲貨幣政策  グレシャム の提議により、悪貨を良貨に改鋳して、経済の安定を図る。
イギリスの海外進出   の開始。
  • ▲a 私拿捕船  によって、スペインの植民地やスペイン船への海賊行為を展開。
     → ホーキンズ父子などが大西洋各地で活動。
  • 1577~80年 b フランシス=ドレーク  :イギリス人で最初の世界周航を達成。
  • 1588年 スペインのc 無敵艦隊  を破る=d アルマダ戦争  の勝利。 → 広範な制海権を獲得。
     → 積極的な海外進出の開始 → 西インド、インドに進出。
  • アメリカ新大陸に進出 ▲ローリー 、1584年に入植を試みるが失敗。
     → 女王の死後、1607年 ▲e ヴァージニア植民地  を建設。
  • 1600年 f 東インド会社  設立
     = 喜望峰から西、マゼラン海峡までのアジア全域での貿易独占権が認められる。
     → オランダに代わり世界貿易の覇権を獲得。 (9章1節、2節参照)
  • 毛織物産業の成長、海外市場の拡大 → ブルジョアジーの成長 → その一方で貧富の差の拡大。
  • 1601年 ▲g 救貧法  を制定。貧民の救済を図る。

Text p.219

・17世紀前半 絶対王政の矛盾が深まり、イギリス革命の時代へ向かう。
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用語リストへオ.フランスの宗教内乱と絶対王政
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 フランソワ1世  

■ポイント 宗教戦争の実体と、絶対王政の成立基盤、背景などを理解する。

・14453年 a 百年戦争  の終結 → 中央集権化が進む。
フランソワ1世   ヴァロワ朝 王権強化につとめる。。
  • フランス=ルネサンスの開花  ▲a コレージュ=ド=フランス  の開設など。
  • 1521年 神聖ローマ皇帝カール5世とb イタリア戦争  (狭義)を戦う。
  • 16世紀なかば c カルヴァン派  の新教徒=d ユグノー  の勢力増大。
     → 商工業者、新興貴族層にひろがる。
     → ヴァロワ王家、大貴族層はカトリックを信奉、対立深まる。
  • 次のアンリ2世(妃がカトリーヌ=ド=メディシス)、d ユグノー  を弾圧。
ユグノー戦争   フランスで起こったキリスト教新旧両派のa 宗教戦争  。16世紀後半、30年以上続く。
  • 幼帝シャルル9世の母后b カトリーヌ・ド・メディシス  が摂政として権勢をにぎる。
  • 1562年 摂政、新教勢力を利用しようとして信仰の自由を認めると、反発した旧教徒のギーズ公の軍隊が
    新教徒を殺害。B ユグノー戦争  始まる。王家の一族ブルボン家のアンリが新教勢力の中心となる。
     → スペインは旧教徒、ドイツ・オランダ・イギリスは新教徒を支援。
  • 1572年 c サンバルテルミの虐殺   旧教徒による新教徒の虐殺事件おこり、全国に広がる。
  • 国家の統一を主張する声も起こる。
     d ボーダン  、王権擁護と宗教的寛容を主張した。 その後も激しい内戦が続く

解説

ユグノー huguenot はフランスのカルヴァン派新教徒のこと。貴族から農民まで広がっていた。カトリーヌ=ド=メディシスはむしろユグノーを利用し、王権の安定を図ったが、危機感を持った旧教徒側が一斉に新教徒虐殺に走ったのがサンバルテルミの虐殺。このときパリだけで4千人が殺害された。この知らせを聞いてイギリスのエリザベス1世は喪に服し、スペインのフェリペ2世は初めて笑ったという。新教徒のブルボン家のアンリは難を避けて各地を転戦中、国王が暗殺されたため、王位を継承した。しかし、パリに入ることも出来なかったので、1593年、カトリックに改宗、ようやくパリに入ることが出来た。
ブルボン王朝   の成立。
  • 1589年 シャルル9世を継いだアンリ3世が暗殺され、ブルボン家のアンリが即位しa アンリ4世  となる。
     → 新教徒の国王を認めない旧教徒が反発し、内戦がさらに深刻になる。
  • 1593年 a アンリ4世  、b カトリック  に改宗。新旧両宗派の対立緩和に努める。
  • 1598年 c ナントの勅令  を発布。
     内容:d 新教徒ユグノーに信教の自由を与え、宗教戦争を終わらせ、フランス国家の統一を維持した。   
     → e ユグノー  の多い商工業者の活動が活発になり、商工業発展する。 = 絶対王政の基礎ができる。
  • 教皇権に対してはフランス教会の独自性を主張するようになる=▲f ガリカニスム  
  • カナダへの進出開始など、絶対王政の強化に努めるも、1610年、狂信的なカトリック信者に暗殺される。

Text p.220

ルイ13世   フランス絶対王政が形成される。
  • 1610年即位 宰相a リシュリュー   貴族とユグノーのいずれも抑えて王権の強化、財政の安定に務める。
  • 1614年 b 三部会  を招集。貴族やユグノー勢力を抑えるために国王が身分別代表を召集。
     = 第一身分=僧侶・第二身分=貴族・第三身分=都市代表 からなるc 身分制議会  
     → 諸身分の対立で翌年解散。 以後、d 1789年  まで開かれず。
  • 1618~48年 ドイツのe 三十年戦争  に介入。
     → ハプスブルク家の皇帝権力の衰退をねらい、新教徒勢力を支援。
ルイ14世   1643年 5歳で即位、
  • 宰相a マザラン  が実権を握り 王権強化を図る。貴族勢力の制限を謀る。
  • 1648年 b フロンドの乱   貴族の牙城である高等法院が反乱を起こす。a マザラン  が鎮圧。
・1661年 親政開始  17世紀後半 ブルボン朝絶対王政の全盛期となる。(後出) 
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用語リストへカ.17世紀の危機と三十年戦争

■ポイント 三十年戦争の実態を知り、戦争の原因・経過を抑え、もたらした結果と影響を理解する。

17世紀の危機   背景:16世紀の経済成長がとまり、凶作、不況、a 人口の停滞  などおこる。
  • ドイツの b 三十年戦争  (宗教戦争)
  • フランスのc フロンドの乱  (貴族の反乱)
  • イギリスのd ピューリタン革命  (王政を倒し一時共和政を実現)
  • ロシアの e ステンカ=ラージンの反乱  (農民反乱)、
  • 社会不安を反映して、このころヨーロッパでf 魔女狩り  が猛威をふるった。

解説

16世紀の宗教改革後のキリスト教新旧両派の争いは17世紀にも継続し、カトリック側で新教弾圧の手段のひとつとして異端審問が強化され、多くの批判者が反教会ということで魔女に仕立てられ焼き殺された。旧教徒による魔女狩りだけでなく、新教側でも、特にカルヴァン派など厳格な信仰を要求する教団では、反対者が魔女として処刑されることも多かった。
三十年戦争   の始まり。
  • 17世紀ドイツ 大小のa 領邦  が分立、新旧両宗派の対立もあり統一がとれない。
     → ▲カトリック諸侯連盟(リガ)、プロテスタント諸侯同盟(ウニオン)を結成。
  • 1618年 オーストリアの属領のb ベーメン(ボヘミア)  (現在のチェコ)で反乱が起こる。

    Text p.221

     c ハプスブルク家  (神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がカトリック信仰を強要。
     → 新教諸侯が反発して反乱を起こし、新旧両派の内戦へと発展した。
C ヨーロッパ各国の介入
  • 1625年 a デンマーク  王が新教徒を支援して介入、国際的な戦争となる。
     → 皇帝軍の傭兵隊長b ヴァレンシュタイン  が活躍し、29年、旧教側が勝利する。
     c スペイン  は旧教徒・皇帝側を支援して出兵。
  • 1630年 d スウェーデン  国王のe グスタフ=アドルフ王  が新教徒側に参戦。
     → 1632年 リュッツェンの戦い b ヴァレンシュタイン  と戦い勝利するも、戦死する。
  • 1635年 f フランス(ブルボン朝)  、新教徒を支援して参戦。
     旧教国フランスが新教徒を支援した理由=g ハプスブルク家と対抗するため   

解説

三十年戦争の大まかな経緯は次のようであった。
  • 1618~23年 ベーメンの新教徒の反乱。神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世によって鎮圧される。
  • 1625~29年 デンマーク王クリスチャン4世が新教徒支援のため侵攻。皇帝の旧教徒側はワレンシュタイン指揮の傭兵の活躍で新教徒軍を破る。
  • 1630~35年 スウェーデン王グスタフ=アドルフが新教徒側に参戦。1631年、ワレンシュタインとのリッツェンの戦いで勝ったが、彼自身は戦死。ワレンシュタインも暗殺される。
  • 1635~48年 フランス(国王ルイ13世、宰相リシュリュー)が新教徒側に参戦。スペインは旧教徒支援のため出兵。1643年、ラクロワの戦い、決着付かず。1644年から交渉に入り、48年に講和成立。
D 戦争の長期化
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画家カロが描いた三十年戦争の一こま。強盗たちが吊し首にされている。

  • 三十年戦争のまとめ
     ドイツ内部の宗教戦争がハプスブルク帝国とフランス王国の国際的な戦争に変質した。       
  • ▲1625年 オランダのb グロティウス  が『戦争と平和の法』を発表。
     → 自然法思想に基づき、主権国家間が戦時で守るべき国際法規の確立を主張した。国際法の理念の始まり。
ウェストファリア条約   締結。
  • 1644~48年までa ウェストファリア  で講和会議が開催される。
  • 1648年、E ウェストファリア条約   締結される。その主な内容は
    •  アウクスブルク和議  (1555年)が再確認され、ルター派と共にカルヴァン派も公認される。
    • フランスはc アルザス  とメッツ、ヴェルダンなどを獲得。 → 国土を東方に拡大。
    •  スウェーデン  は北ドイツ沿岸の西ポンメルン、ブレーメンなどを獲得。

Text p.222

    •  ブランデンブルク=プロイセン  は東ポンメルンに領土獲得。
    •  スイス  とg オランダ(ネーデルラント)  の独立が正式に認められる。
  • 意義  h 近代世界最初の国際条約として重要であり、主権国家体制を確立させた。  
F 戦争後の状況
  •  ドイツの分裂の固定化と停滞  
    • 約300にのぼるb 領邦  の独立性が強化される。(立法権、外交権を認められる。)
       → そのためこの条約は、c  神聖ローマ帝国の死亡診断書   と言われる。
    • 30年にわたりる戦闘でドイツ国内は荒廃、人口1600万が600万に減少し停滞する。
       → d ドイツの統一(主権国家の形成)は19世紀中頃まで遅れる。   
  • オーストリア=ハプスブルク家の衰退 e アルザス  をフランスに奪われ領土はオーストリアのみとなる。
  •  スウェーデン  の大国化
     北ドイツ沿岸に領土を獲得し、バルト海を内海とする「g バルト帝国  」を形成した。 → ロシアとの対立。
・17世紀後半 ヨーロッパ国際政治の焦点は、フランスのルイ14世の積極的な領土拡張戦争に移行する。
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用語リストへキ.東ヨーロッパの新しい動き

■ポイント プロイセンとロシアは、ヨーロッパの辺境にあって、どのように主権国家を形成させたか。

1.プロイセンの台頭

ドイツ人の東方植民   
  • 12世紀以来、エルベ川以東のスラブ人居住地区にドイツ人が入植。
  • 1134年 a ブランデンブルク選帝侯国   辺境伯領として成立。
     → 15世紀 b ホーエンツォレルン家  がブランデンブルク選帝侯となる。
  • 13世紀 c ドイツ騎士団領    十字軍失敗後、東方植民を行い、バルト海沿岸を占有
     → 1525年 ポーランド王国を宗主国としてd プロイセン公国  となる。
ユンカー   の成長。
  • 東方植民の過程で、入植促進のために農民に有利な地位が与えられた。
     → 15~16世紀 B ユンカー  と呼ばれる領主層に成長し、農民支配を強化。
  • 16世紀 西ヨーロッパの商業革命 → 東ヨーロッパではa グーツヘルシャフト  経営が成立。(8章1節)
     → 西ヨーロッパへの穀物輸出のため、領主による農奴支配が強化される(b 再版農奴制  )。
  •  ユンカー  とは、c 土地貴族とも言われ、農民を封建的に支配し、地方の行政も行い国王を支えていた。   

解説

ユンカー junker は土地貴族を言うが、ドイツに特有の存在で、東方植民以来エルベ以東で成立した、農奴を使役する直営農場(グーツヘル)を経営する層のこと。官僚や軍人と成りプロイセンの絶対王政を支えていた。ナポレオン戦争に敗れた後、上からの近代化が図られた際に、農奴は解放されたが、ユンカーは生き残り、資本主義的農場経営者に転換して⒚世紀のビスマルク時代の軍国主義を支え、さらにナチス=ドイツの支持基盤ともなった。
ブランデンブルク=プロイセン   の成立。
  • 1618年 a ブランデンブルク選帝侯国  とb プロイセン公国  が同君連合となる。
     → 三十年戦争後、ウェストファリア条約で東ポンメルンを獲得。= 現在のポーランド北部のバルト海沿岸。
  • 北ドイツで急速に成長し、強国となる。▲1660年 ポーランドの宗主権から独立する。
プロイセン王国   首都 ベルリン 。
  • 1701年 スペイン継承戦争で神聖ローマ帝国皇帝側について戦い、王国に昇格。(後出)
  • 18世紀 ホーエンツォレルン家のもとで君主権が強化され、ドイツ諸国の中で最有力となっていく。

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 イワン雷帝  

2.ロシアの再興

イヴァン4世(雷帝)   モスクワ大公
  • 16世紀 a ツァーリ  を称し、貴族を抑えて専制政治の基礎をかためる。
     → 貴族を次々と処刑したので、b 雷帝  と言われて恐れられた。
  • 領土拡張
    • 南ロシア ▲ヴォルガ川流域の  カザン=ハン国 ( タタール人 の国家)・
      さらにアストラハン=ハン国 を征服。
       → イスラーム教徒を支配下に入れる(現在の南ロシア)。
    •  コサック  の首長d イェルマーク  がe シベリア  に遠征。
      シビル=ハン国 を征服。 → ロシアが領土に組み込む。
       → 毛皮交易を進め、太平洋岸への進出始まる。
    •  コサック  とは、ロシア東南部の草原地帯で牧畜・狩猟・農業を営み、戦士団を形成していた。
  • 1584年の死後、内紛で混乱。▲ ボリス=ゴドゥノ フ の政権簒奪などがおこる。

解説

ツァーリはロシア皇帝の公式名称で、15世紀後半のモスクワ大公国のイヴァン3世の時に初めて使用されたが、定着したのはイヴァン4世(雷帝)の1547年からである。この称号はローマの「カエサル」がロシア語に転化したもので、ロシア帝国がローマ帝国・ビザンツ帝国を継承しているという意味をこめていた。ロシアで独特な強大化を遂げた皇帝専制体制のことをツァーリズムという。
ロマノフ朝   成立。
  • 1613年 a ミハエル=ロマノフ  が混乱を収束し、新たな王朝を開く。
     → ツァーリズム(専制支配)を継承し、b 農奴制  を強化
  • 1670年~71年 c ステンカ=ラージン   の農民戦争を鎮圧。(後出)
・17世紀末~18世紀 ピョートル大帝の時代に、強大になる。(後出)
 
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第8章 近代ヨーロッパの成立 4節 ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家体制の形成

2017-08-11 | 生物暗記法

 

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Text p.213

ア.主権国家と主権国家体制

■ポイント 主権国家および主権国家体制とは何か。その概念を正確につかもう。

主権国家   の形成
    • 16~17世紀 近世ヨーロッパ = a カトリック教会  とb 神聖ローマ帝国  の普遍的権威の動揺。
       → ヨーロッパ各国が自国の利害を求めて戦争と妥協をくりかえす → 恒常的な緊張状態が続く。
    •  イタリア戦争  の長期化・大規模化がもたらしたこと。
      •  軍事革命  :e 小銃・大砲が多用されるようになり騎士主体の戦闘から歩兵の集団戦形態に変化する。  
         → 騎士の役割の低下は封建領主層の没落につながるとともに軍事組織、軍事制度の変化をもたらした。
      •  常備軍  :封建的な家臣団、臨時の傭兵に依存する戦争から、平時でも維持される国民軍を主体とする戦争へ。
         → 徴兵と軍事費の調達が必要となる。

Text p.214

    • 各国はg 徴税機構を中心とした官僚制を整備し、国内の統一的支配を強める。   
  • 国境で区切られたh 国土  、納税と徴兵の対象になるi 国民  、国を統治するj 主権  の三要素
    をもつ段階の国家形態をA 主権国家  という。 → k 近代国家  の原型となった。
絶対王政  
  • 16~18世紀 主権国家の形成期には、主権が一人の国王に付与される国家形態が現れた。
     = 西ヨーロッパのa スペイン  ・b フランス  ・c イギリス  で発達。
  • 王権を支える二つの階級
    •  領主階級(貴族・聖職者)  :免税などの特権を持つ中間団体。
       → 国王の国民を直接支配することはできなかった。
    •  有産市民層(ブルジョワジー)  :商人・金融業者。
       → 国王は彼らに経済的独占権を与えるなど協力関係をつくる。
    • 前者は没落しつつあり、後者は勃興しつつあった。両者の力が均衡したところに王権が成り立つ。
  • 絶対王政のもとでの新しい生産様式
    •  問屋制  :西ヨーロッパで、中世の家内制生産に代わって登場。
       = g  商人が手工業者に道具や原料を前貸しして生産させる生産方式。   
    •  マニュファクチャー  :i  資本家が労働者を仕事場に集め、分業による手工業生産を行う生産方式。  
       → 次第に資本主義的生産方式に移行していく。
  • 商工業の発達によって成長した市民層は自由な経済活動と政治参加を求め、王政に批判的なる。
  • 絶対王制(絶対主義)国家は国内の商工業を保護・育成するj 重商主義  の経済政策をとった。(後出)
主権国家体制  
  • 主権国家のあり方:規模の大小、政体・宗教的バックボーンなどは多様であった。
  • 国際社会の形成:互いの国家利益(国益)を利害を調整するためのa 外交関係  を持つ。
     → b 外交官  を交換しあい、必要があればc 国際会議  を開催。
  • 主権国家を基本単位とした国際関係を、C 主権国家体制  という。
     → 16~17世紀のヨーロッパに成立したが、18~⒚世紀を通じて全世界に拡大し、現在まで続いている。
  • 1648年のd ウェストファリア条約  でヨーロッパのC 主権国家体制   が確立する。(後出)
・主権国家の権力のあり方は、18世紀後半の市民革命を経て、絶対王政から国民主権に移行していく。
先頭へ
用語リストへイ.イタリア戦争

■ポイント 広義のイタリア戦争と狭義のイタリア戦争を正確に捉え、主権国家の形成とのかかわりを理解する。

イタリア半島   の状況 北部の都市国家、中部の教皇領、南部のナポリ王国らに分裂していた。

Text p.215

  •  神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家)  とb フランス王(ヴァロワ朝)  が勢力を伸ばし対立した。
  • 1494年 フランス国王ヴァロワ朝の▲c シャルル8世  がナポリ王国王位継承を主張してイタリアに侵攻。
     → a 神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家)  ・スペイン王およびローマ教皇・ヴェネツィアなどが反発。
     = 広義のA イタリア戦争   始まる。95年、フランス軍撤退。その後も断続的に争い続く。
    (この間、フィレンツェではマキャヴェリが活躍。 ドイツでは宗教改革始まる。)
  • 1519年 ハプスブルク家のスペイン王 d カルロス15世  がa 神聖ローマ皇帝  に選出され
     カール5世  となる。 → フランス国王f フランソワ1世  が強く反発。
     → 翌年、イギリス王g ヘンリ8世  と会見。
イタリア戦争   の激化
    • 1521年 フランス王a フランソワ1世  がイタリア侵攻、神聖ローマ皇帝b カール5世  と戦う。
       = 狭義のB イタリア戦争  始まる。1544年まで4回にわたり両者が戦う。
    • ▲1525年のパヴィアの戦いではフランス王自身がカール5世軍の捕虜になる。
    • 1527年 b カール5世  のイタリア侵攻 = c 「ローマの劫略」  → イタリアルネサンスの終焉

解説

メディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世は、カール5世がミラノ、ナポリなどを抑えたことに反発し、フランス王と結んだ。それに対する懲罰としてカール5世がローマに軍隊を送り、破壊した。このことを「ローマの劫掠」という。カール5世自身はマドリードにいて、ローマには傭兵部隊を派遣、傭兵がローマを破壊した。これによって、イタリア=ルネサンスの繁栄は終わりを告げたと言われている。しかし、カール5世とローマ教皇は、当時、プロテスタントとの戦いと、オスマン帝国の侵攻という共通の敵があったので、1529年にはバルセロナで和約した。それに伴いカール5世がフィレンツェでのメディチ家の復活を認めたので、フィレンツェ共和国も崩壊し、その意味でもイタリア=ルネサンスの時代は終わったと言える。
  • 並行して、d オスマン帝国  軍の圧力が神聖ローマ帝国領を脅かす。
    • 1529年 e スレイマン1世  がf ウィーンを包囲  。1538年 プレヴェザの海戦。(前出)
    • フランスはオスマン帝国に接近。g カピチュレーション  を認められる。(後出)
  • ▲神聖ローマ皇帝はイギリス(チューダー朝h ヘンリ8世  )に接近。
カトー=カンブレジ条約    1559年 イタリア戦争の講和成立。
    • フランス=アンリ2世・スペイン=フェリペ2世・イギリス=エリザベス1世の三国間で締結した。
    • フランスはイタリアから撤退。ミラノ、ナポリなどをハプスブルク家が支配することが認められる。

解説

スペインのフェリペ2世はフランスとの戦いを有利に進めようとイギリスのメアリ女王(熱心なカトリックでフェリペ2世の妃でもあった)にイギリス軍のフランス上陸を要請した。しかしイギリス軍は破れ、百年戦争以来保持していたフランス国内のイギリス領カレーを失った。そのためメアリの人気は落ち、イギリスの次の女王エリザベスは国教会に復帰した。フェリペ2世自身も、植民地アメリカからのもたらされる銀という莫大な富がありながら、イタリア戦争の長期化で財政は破産状態であった。さらにオランダの独立運動など新教徒との戦いも続いていたので、イタリア戦争の終結の必要があった。
  • 戦争の背景 a ルネサンス、宗教改革、大航海時代、オスマン帝国の進出などと同時期に展開された。  
  • 戦争の意義 b ヨーロッパ各国はこの戦争での軍事革命を経て、それぞれ主権国家への歩みを開始した。  
・18世紀半ばまで、c ハプスブルク家  とd フランス王家  の対立が、ヨーロッパ国際関係の対立軸として続く。
先頭へ
用語リストへウ.スペインの全盛期

■ポイント ハプスブルク家の支配するスペインは、どのようにして大国となったか。また、なぜ急速に衰えたか。

ハプスブルク家   の隆盛
    • 15世紀後半 a オーストリア 王家  のb ハプスブルク家  、婚姻関係を通じ、c ネーデルラント  を獲得。
カール5世

 カール5世   

  • ハプスブルク家フィリップとスペイン王女ファナの間にd カルロス  が生まれる。

Text p.216

カルロス1世   1516年 スペイン王位を継承。
  • 1519年 a 神聖ローマ皇帝  に選出されb カール5世  となる。
          (▲南ドイツの大商人c フッガー家  の財政援助を受ける。)
  •  マゼラン  の世界周航を援助。(前述) → フィリピン領有。
  • キリスト教世界の統一維持のため、e ルター  の宗教改革を弾圧。(前述)
  •   ハプスブルク帝国   ともいわれる広大な領土を支配。
  •  フランス王国  との対立激化。→ 1521~44 h イタリア戦争  (狭義)。
  • 1529年 i オスマン帝国   スレイマン1世 j ウィーン包囲  
  • 南北アメリカ大陸から大量のk 銀  がもたらされる。→ 宮廷・戦費で浪費。
  • 1556年 退位 → ハプルブルク家が二系統に分かれる。

    解説

    カール5世の多面的な存在であることを理解する。かれは神聖ローマ皇帝カール5世であると同時にスペイン王カルロス1世であり、ドイツ王でもあり、その他ハプスブルク家の家領としてネーデルラントや南イタリアに領地を持ち、アメリカ大陸の広大な衣植民地の支配者でもあった。またマゼランが到達することによってフィリピンもその領土に入ることとなった。それはフランス王にとっては大きな脅威であったので、両者はイタリアの支配権をめぐって争うこととなった。しかしカールにとって敵はフランソワ1世だけではなく、ドイツで始まったルターの宗教改革でのプロテスタント、東方からのオスマン帝国の脅威とも戦わなければならなかった。(もっとも、ウィーンを守っていたのは弟のフェルディナントであった。)
    =l スペイン=ハプスブルク家  とm オーストリア=ハプスブルク家  に分裂。
 フェリペ2世   スペインの全盛期
    •  カトリック教会  を保護。ヨーロッパの新教徒弾圧を支援。イギリスのb メアリ1世  の夫となる。
       ネーデルラント  の新教徒を弾圧。 → 反発した新教徒がd オランダ独立戦争  開始。(次節)
    • 1571年 e レパントの海戦   ローマ教皇、ヴェネツィアなどと協力して、オスマン帝国の海軍を破る。
       → プレヴェザの海戦で失っていた地中海の制海権を取り戻した。ただし、オスマン帝国の脅威はなお続く。

Text p.217

  • 1580年 f ポルトガル  の王位を兼ねる。1640年まで、同君王国となる。
     → 広大な海外植民地をもち、g 「太陽の沈まぬ国」  と言われる。
     = 本国スペイン・ポルトガル 世襲領地ネーデルラント、ナポリなど 海外領土アメリカ大陸・フィリピン
       旧ポルトガル領 アフリカの各地、アジアのホルムズ、ゴア、スリランカ、マラッカなど。

解説

神聖ローマ皇帝位は叔父のフェルディナンドが継いだので、フェリペ2世はスペイン王にとどまったが、ネーデルラントや新大陸とフィリピンの植民地を相続した。また母がポルトガル王女であったことを口実にその王継承権を主張し、軍隊を派遣して承認させたことによってポルトガルのアジア植民地を手に入れた。こうしてスペインは「太陽の沈まぬ帝国」となり、フェリペ2世はカトリック世界の保護者として君臨したが、その実体は「借金大国」であった。新大陸からの大量の銀は、イタリア戦争の戦費と外国製品の購入に充てられたので、ネーデルラントを通じてヨーロッパ全体にばらまかれ、価格革命を起こしした。しかし国内産業を育成にまわされず、スペインは財政の不足をフッガー家などからの借金に依存していた。しかも、1557年以後、くりかえし破産宣告(国庫支払い停止)に陥っている。「世界帝国」としての自己を維持できないのがスペインの実態であった。それに拍車をかけたのが、ネーデルラントの独立戦争、イギリスとの戦争であった。
・スペインの衰退 直接的には、1581年のh オランダ  の独立、  1588年 i 無敵艦隊  の敗北。
・17世紀 衰退始まる:スペインの衰退の理由
 j  新大陸から得た銀は宮廷の奢侈に浪費され産業育成などに回されなかったこと。    
 k  本国以外の産業や植民地の資源に依存し、国内産業の基盤が作られなかったこと。   
先頭へ
用語リストへエ.オランダの独立とイギリスの会議進出

1.オランダの独立

■ポイント スペインからの独立の過程を理解し、急成長した背景を考える。

ネーデルラント   =現在のオランダとベルギー、北フランスを含む一帯でa スペイン  の領土だった。
  • 毛織物業など、手工業・商業が発達し、b カルヴァン派  の新教徒(ゴイセンといわれた)が多い。
  • スペインのc フェリペ2世  、カトリック化政策を進め、自治権を奪おうとした。
     → ネーデルラントの新教徒の中に、独立を求める声が強まる。

解説

ネーデルラント(低地地方の意味)とは本来は現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクに北フランスを含む広い範囲を指していた。スペイン領から独立する過程で北部11州だけが独立してネーデルラント共和国と言われるようになった。11州の中心となったのがホランド州だったのでその名で呼ばれることも多く、日本ではそこからオランダという呼称が定着した。現在の正式な英語表記は、Netheelands である。
オランダ独立戦争   1568年~1609年(最終的には1648年に独立承認される)
  • 1568年 ネーデルラント諸州のスペインに対する反乱始まる。
     → 南部10州(a  フランドル地方  )はスペイン支配下にとどまる。
  • 1579年 北部7州 b ユトレヒト同盟  を結成、c オラニエ公ウィレム  が指導し、抵抗を続ける。
ネーデルラント連邦共和国   の成立。
  • 1581年 独立宣言。 最高指導者a オランダ総督(統領)  の地位はオラニエ公の世襲とされる。
     = その中心がホラント州であったので、この連邦国家は日本ではb オランダ  と言われる。 

    Text p.218

     → スペインの国力衰える。新教国イギリスがオランダを支援。
  • 1588年 スペインのc フェリペ2世  、d 無敵艦隊(アルマダ)  を派遣しイギリスを攻撃。
     → e エリザベス1世  統治下のイギリス海軍に敗れる。 → スペイン、制海権を失う。
オランダの独立  
  • スペインとの戦争を続けながら、バルト海での北欧諸国との中継貿易で富を蓄積。
  • 1602年 a 東インド会社  を設立。 → 東南アジアへの進出。日本とも貿易開始。
     ▲b  株式会社  の最初の始まり。複数の株主が出資し、出資額に応じて有限責任を負う経営形態。
  • 1609年 スペインと休戦条約。独立戦争が実質的に終わり、独立を事実上認めさせる。
アムステルダム   の繁栄。 フランドルのa アントウェルペン  にかわり国際金融の中心となる。
  • 17世紀前半、オランダの全盛期となる。学芸も発展。
  • 1648年 三十年戦争後のb ウェストファリア条約  で国際的にも独立承認される。(後出)
  • アジア・アフリカ・新大陸に進出してスペイン・ポルトガルの交易拠点を次々と奪う。
・17世紀後半 c イギリス=オランダ戦争  に敗れ、次第に劣勢になって衰える。(10章で説明)
・衰退の理由:d 連邦制のもとで強い中央権力を持たなかったこと。      
       e 国内産業の成長が無く、もっぱら中継貿易に依存したこと。   

 

 
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第8章 近代ヨーロッパの成立 3節 宗教改革

2017-08-09 | 生物暗記法

 

用語リストへ

Text p.209

ア.宗教改革の始まり

■ポイント 宗教改革はどのようにおこされたか。ルネサンス・大航海時代の動きと併せてその意義と限界を考える。

ルター   の登場
ルター

A ルター   

    • ドイツ中部ザクセンのa ヴィッテンベルク  大学神学教授 A ルター   
    •  1517 年 c 『九十五ヶ条の論題』  を発表。
        → ローマ教会のd 贖宥状  の販売を批判。
      • ローマ教皇e レオ10世  がf サン=ピエトロ大聖堂  の修築資金の
          調達のためにドイツで発売した。ドイツは政治的に分裂していた。
      • ドイツはローマ教皇に搾取され、g 「ローマの牝牛」  といわれていた。
    • 主張 h 魂の救済は善行によるのではなく、福音信仰のみによって得られる。   
       = i 福音信仰  :信仰の拠り所は聖書のみである。
        → “人は信仰によってのみ義とされる” = j 信仰義認説   

Text p.210

  • ローマ教皇庁の搾取に反発する諸侯や、市民、領主に搾取されていた農民らが幅広くルターを支持。
教皇による破門  
  • ▲1519年 ライプツィヒ討論 神学者エックとの神学論争。
     → ルター、教皇の至上権を否定。さらにa フス  の説を擁護。ローマ教皇との対決が鮮明になる。
  • 1520年 b 『キリスト者の自由』  を刊行 → ローマ教皇、ルターを異端としてc 破門  
  • 1521年 神聖ローマ帝国皇帝d カール5世  、ルターをe ヴォルムスの帝国議会  に召喚。
      → その説の撤回を迫るが拒否。皇帝、彼の権利奪う。
  •  ザクセン選帝侯   フリードリヒ、ルターをかくまう。その保護のもと、ヴァルトヴルク城で
     『新約聖書』のドイツ語訳  を完成させる。
  • ▲1522年 騎士戦争 ジッキンゲンやフッテンら、ルター派の没落騎士の反乱。 → 鎮圧される。
ドイツ農民戦争  起こる。
  • ▲1522年春頃から、民衆の中に聖霊の働きを重視し、聖書を軽んじる急進派生まれる。
  • 1524~25年 a トマス=ミュンツァー  を指導者とする農民反乱起きる。
     = ルターの影響を受け、福音主義をかかげ、b 農奴制  などの12カ条の要求をかかげる。
  • ルターの態度 c 初めは農民反乱を支持したが、運動が過激化するに従い、批判的となった。   
     → 封建諸侯によって弾圧され、指導者も処刑される。
プロテスタント   の成立。
  • ザクセン選帝侯などが領内の教会の首長となるa 領邦教会制  を成立させる。
      その他、ルター派諸侯の改革:b 修道院の廃止  、典礼の改革などを進める。
     → ルター派諸侯と皇帝およびカトリック諸侯との対立深まる。
  • 1526年 皇帝c カール5世  、シュパイエル帝国議会でルター派の信仰の自由認める。
     背景:フランス(フランソワ1世)とのd イタリア戦争  の危機が続く。
        オスマン帝国(スレイマン1世)のバルカン進出 ▲e モハーチの戦い  でキリスト教軍が敗れる。
  • 1529年 皇帝、信仰の自由を取り消す → ルター派「抗議文」を出す。
     → ルター派はf プロテスタント  と言われるようになる。旧教徒との対立激化。
       同年、オスマン帝国軍のスレイマン1世、g ウィーン包囲  (第1次)をうける。
宗教戦争   が始まる。
  • 1530年 ▲皇帝、アウクスブルク帝国議会を召集。メランヒトンが「アウクスブルク信仰告白」を提起し
      和解を図る。ルター、カトリック教会共に妥協を拒否。
  • 1530年末、ルター派の諸侯と都市が結束してa シュマルカルデン同盟  を結成。
     = 反皇帝をかかげるプロテスタント側の同盟。カトリックを支持する皇帝・諸侯と対立深刻化。
  • 1546~47年 b シュマルカルデン戦争  起こる。
     = 旧教徒(カトリック)皇帝支持の諸侯と新教徒(プロテスタント)支持の諸侯の戦争。
     → プロテスタントの同盟軍、敗れる。 1546年 ルター死去。
アウクスブルクの和議   成立。
  • 神聖ローマ皇帝a カール5世  、長引く戦争に疲れ引退。実権を弟フェルディナントに譲る。
  • 1555年 アウクスブルク帝国議会でF アウクスブルクの和議  成立。
    意義:b ルター派の信仰が認められた。   しかし、c 領主の宗教がその地に行われる   と言われた。
    意味:d 領民(農民)個人には信仰の自由はなく、諸侯(領主)の宗派に従わなければならなかった。    
     = e 領邦教会制  の確立。

解説

アウクスブルクの和議で認められた信仰の自由は、領主および自由都市が、カトリックかプロテスタントかいずれかを選択する自由であり、個人の信仰の自由ではなかった。またプロテスタントの中ではルター派だけであり、カルヴァン派とツヴィングリ派は含まれていない。さらに領主がカトリックからルター派に改宗するときはその地位を失い、領地はカトリック教会に留保されるというきわめてカトリック教会側に有利なものであった。新旧両派の宗教対立の最終的解決は三十年戦争を経た、1648年のウェストファリア条約によってようやく達成される。

Text p.210

・f ルター派  はその後、北欧諸国に広がる。
先頭へ
用語リストへイ.カルヴァンと宗教改革の広がり

(1)スイスの宗教改革

■ポイント カルヴァンの思想、特にその「予定説」の意味と、影響を理解する。カルヴァン派の広がった地域を知る。

ツヴィングリ    の改革
  • 1523年 ルターの影響を受けスイスのa チューリヒ  で開始。 
     → 市政府と協力し改革を進める。 → 中世以来の幼児洗礼は認める。
  • 1529年 穏健な改革を望むルターと対立。 1531年 旧教勢力と戦い戦死。
カルヴァン   の改革。
カルヴァン

A カルヴァン   

  • 1541年 a ジュネーヴ  で改革を始める。
      フランス人の人文学者。ルターの影響を受けb 『キリスト教綱要』  を著す。
  • ジュネーブの市政権をにぎり、c 神権政治  を行う。
     → 神の絶対主権を強調し、厳格な禁欲主義による政治をおこなう。
  • その思想:d 予定説   
     e 魂が救われるか否かはあらかじめ神によって定められている。 神から   
      与えられた現世の職業労働に務めるのが神の栄光をあらわす道である。   

     → f 商工業者(中産市民)  の思想と合致する。
  • ルター派はg 司教制度  を維持したのに対し、カルヴァン派は廃止。
     → 教会員の中から長老を選び牧師を補佐させるh 長老主義  をとる。

解説

勤勉な経済活動を神の「召命」(勤労は神の意志に添うことであり、それによって得られた富は正当な得分であると正当化される)として認められるというプロテスタントの倫理観が、合理的に利潤を追求する資本主義の精神の形成をもたらしたと考えられている。このような考えは、ドイツの社会科学者 マックス=ウェーバー が 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 (1905年)で明らかにした。
 プロテスタント   の成立と広がり。
  • 16世紀後半 a カルヴァン派  の信仰が西ヨーロッパに広がり、各地で次のように呼ばれる。
      フランス = b ユグノー   (同盟者の意味) 
      ネーデルラント = c ゴイセン  (乞食の意味。現地の発音はヘーゼン)
      スコットランド = d プレスビテリアン   (長老派)
      イングランド = e ピューリタン  (清教徒)
  •  ルター派  はドイツ(各領邦、自由都市)および北欧諸国にひろがる。
  • これらのローマ教皇の権威と聖職者の特権を否定しg 万人祭司主義  をとる新教徒を総称して

    Text p.211

    C プロテスタント  、その思想をh プロテスタンティズム  という。

解説

宗教改革
左は16世紀初めにスイスのチューリヒでツヴィングリが発行した『神の水車』というパンフレットに描かれた木版画で、宗教改革の流れを水車小屋での製粉に喩えて寓意的に描いている。まず水車は左上に描かれた神の恩寵で動かされている。aはイエス=キリストで袋から小麦を大きな漏斗に入れてている。その小麦はよく見ると人の顔をしたマタイ、ライオンの顔のマルコ、雄牛の顔のルカ、鷲の顔のヨハネ、さらに剣を持つパウロとして描かれており、これらは新約聖書を意味している。ひかれて出てきた粉は、bのエラスムスによってより分けられており、「信仰、希望、慈愛、教会」の四つの言葉が記されている。その小麦を桶でこねてパンに仕上げているのがcのルターである。出来上がったパン、つまり聖書を手にとって、右の聖職者たちに手渡そうとしているdはツヴィングリと推定される。聖職者たちはそれを手に取ろうとせず、聖書は地に落ちていく。エラスムスの聖書研究は宗教改革にも大きな影響を与え、「エラスムスが産んだ卵をルターが孵した」ともいわれた。ツヴィングリのうえで竿を振るっている農民は、バン、バン(破門の意味)と鳴いてツヴィングリやルターを脅かしている不気味な鳥を追い払おうとしている。<森田安一『ルターの首引き猫』1993 山川出版社 p.38-51 による>

(2)イギリスの宗教改革

■ポイント イギリス宗教改革の経緯と特徴、イギリス国教会の性格、他宗派との関係を理解する。

ヘンリ8世

 ヘンリ8世   

ヘンリ8世   テューダー朝のもとで、カトリック教会と国王が対立。
  • 王妃(スペイン王家出身)とのa 離婚問題  でローマ教皇と対立。
  • 1534年 b 首長法 (国王至上法)  を制定。→ 教皇と絶縁する。
     = c イギリスの教会は国王を首長とすること   と宣言した。
     さらにd 修道院の解散  を強行し、その土地財産を没収し貴族などに与える。
  •  エドワード6世   教義面での改革進む。
    1549年 ▲e 一般祈祷書  制定。プロテスタントの教義を採用。
B カトリックへの復帰
  •  メアリ1世   ▲スペイン王b フィリペ2世  と結婚。
    カトリック復帰をくわだて、新教徒を厳しく弾圧、「血のメアリー」と言われる。
エリザベス1世   の治世。
  • 1559年 a 統一法  制定:国教会の制度を確立。 → b イギリス国教会  の確立。
  • 1563年  信仰箇条  39ヶ条を制定
  •  イギリス国教会   の特徴
    • 教義ではc カルヴァン主義を採用  している。
    • 教会制度ではd 司教(主教)制度を維持  している。
    • 儀式面ではe カトリックと共通  している。
    •  イギリス国王が教会の首長を兼ねる。   
  • イギリスの宗教対立  16世紀後半 イギリスg 絶対王政  の全盛期、イギリスの宗教対立が続く。
     国教会信者=国教徒と、非国教徒=カルヴァン派に近い、h ピューリタン  などの対立。(後出)
・その後もカトリック復興の動きが続く。i イギリス革命  の過程でカトリックは排除され、国教会の優位が確立。

解説

 新教(プロテスタント)はさらに多くの分派が生まれていく。例えば、再洗礼派は幼児洗礼を認めない急進派で、成人洗礼のみを有効と主張した。ドイツのミュンツァーなどに源流があり、ネーデルラントなどで盛んになったが、厳しく弾圧され、その一部がアメリカ新大陸に渡り、 アーミッシュ などとなった。
先頭へ
用語リストへウ.対抗宗教改革

■ポイント 宗教改革の展開に対し、カトリック教会はどのように対抗したか。

対抗宗教改革   a 宗教改革の進展に危機感を持ったカトリック側の改革運動  
  • プロテスタントに対抗して、教義の明確化と内部改革によって勢力の回復に努める。
  • 1545年 a トリエント公会議  :教皇パウルス3世が召集。3回開会し、1563年に閉会。
     教皇の至上権、救済は信仰と行動によることなどの教義を確認。聖職者の生活の粛正などを決議。
  • 禁書目録の作成、b 宗教裁判所  の設置など、カトリック教会の体制強化を図る。
イエズス会   の活動   1534年結成  ”屍の如く”がモットー。
ロヨラとザビエル

 ロヨラ とb ザビエル 

  • スペイン人a ロヨラ  とb フランシスコ=ザビエル  らが結成した
     修道士会。(c ジェスイット教団  ともいう。)
     = 厳格な軍隊的規律により積極的な布教と教育活動を展開。
     → 特に、南ヨーロッパで新教の波及をはばみ、南ドイツでは地域を挽回。
  • 積極的に宣教師を派遣、アジア・アフリカ・ラテンアメリカへの布教を展開。
  • 1549年 b フランシスコ=ザビエル   日本ではじめて布教。
     → さらに中国に向かう。
  • ポルトガル、スペインの植民活動と結び付く。 「胡椒と霊魂」と言われた。
C 宗教対立の深刻化
  • 旧教徒と新教徒が、互いに相手をa 異端  として排除しあう。
  •  魔女狩り   カトリック信仰に反する行いをするものは悪魔の手先であり、魔術を使うとして迫害した。
     → 16~17世紀に最も盛んで、犠牲となったのは約10万とも言われる。女性だけでなかった。
・16~17世紀 ユグノー戦争・オランダ独立戦争・三十年戦争などd 宗教戦争  が続く。 → 後出
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1878(明治11)年 〈三新法の公布〉★

2017-08-09 | Weblog

●明治時代(明治天皇 )

Three New Laws are promulgated as a departure from the completely autocratic centralization that had previously existed.

  いやな話さ 愚痴不満。
 1878年   三新法 郡区町村編制法 地方税規則 府県会規則

 1878年、郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則が公布された。

これら三新法は自由民権運動の高揚、農民の騒擾といった地方社会の混乱を踏まえ、大久保利通の上申書をもとに第2回地方官会議を経て成立した明治政府による最初の地方行政に関する統一的立法である。

三新法は‘88年の市制・町村制、’90年の府県制・郡制の実施による地方自治の確立に伴い廃止された。

[ポイント]
1.三新法(1878年)とは、地方税規則府県会規則郡区町村編制法の3法である。

[解説]
1.三新法1878年制定の上記3法の総称で、明治政府最初の統一的地方制度をめざすものである。

2.府県会(民会)は、一部府県にすでにあった(府知事・県令の判断で設置できた)が、自由民権運動の高まりのなかで、政府は地方の不満は地方である程度解決させようとして、全国に認めた。中央政府批判をかわし、不満のガス抜きを期待したものだが、逆に民権運動の牙城と化す。


3.府県会規則によると民会は、議員の選挙権に制限(地租5円以上)があり、議決事項も府知事・県令の認可を必要とした。


4.地方税規則は、複雑な各種税を地方税に統合し、徴税の強化をねらった法令で、府県財政の確立を目指したもの。


5.郡区町村編制法は、旧来の郡制を復活し、東京・京都・大阪には区を設置した。郡・区には官選の郡長・区長、郡の下の町村には戸長が置かれた。


2017同志社大・全学部

 1873年以降に朝鮮政策や台湾出兵をめぐって新政府内で内部対立が生じ、そのために下野した板垣退助と木戸孝允を再び政府内に引き戻すため、1875年に当時の政権を実質的に主導していた薩摩藩出身の( b )は三者の会合を大阪で開いた。その結果、大審院や元老院の設置のほかに、府知事・県令を議員とする( c )会議が開かれ、公選制の民会の設置などが議論された。第2回会議は1878年に郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則のいわゆる( d )を主な議題として議論するために開かれた。e.1880年に第3回会議が開かれ、区町村会法の制定などが議論された。この会議は3回しか開かれなかったが、明治前期の地方制度改革に大きな役割を果たした。

【設問b】空欄bに入る適切な人物名を漢字で記せ。


【設問c】空欄cに入る適切な語句を漢字3字で記せ。


【設問d】空欄dに入る適切な語句を漢字で記せ。


【設問e】下線部eに関して、1880年に起こった出来事として適切なものはどれか、次のうちから1つ選べ。


 1.第1回帝国議会が開かれた。

 2.愛国社が国会期成同盟に改称された。
 3.西南戦争が終結した。
 4.讒謗律が公布された。

(答:b大久保利通、c地方官、d三新法、e2)〉


2013中大・中大・法(国際企業関係法)

 下線部4地方三新法に関して、三新法の名称を漢字で答えなさい。」

(答:郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則)〉


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