● 大正時代(大正天皇 第二次西園寺公望内閣)
First Movement to Protect Constitutional Government is founded.
行(い)く人二人 護憲負い。
1912年 第一次護憲運動 尾崎行雄 犬養毅
1912年、内大臣桂太郎が組閣し、藩閥勢力が新天皇を擁して政権を独占すると、国民党の犬養毅・立憲政友会の尾崎行雄らは憲政擁護・閥族打破を掲げる護憲運動を展開。
1913年、第3次桂内閣は組閣後53日で退陣、大正政変とよばれた。
[point]
1.大正政変は、2個師団増設問題で上原勇作陸相が辞め、第2次西園寺内閣を倒閣に追い込み成立した第3次桂太郎内閣が、1913年、民衆運動で倒閣した政変。
[解説]
1.国家財政が悪化する中で、1911(明治44)年、第2次西園寺公望内閣が成立した。しかし与党の政友会は積極的な財政政策を、商工業者は減税を、海軍は建艦計画の実現を、陸軍は師団増設をそれぞれ求めたため、内閣は困難な立場に立たされた。
2.山県有朋(藩閥の中心)と陸軍は、中国情勢の悪化(辛亥革命・清朝滅亡)に対し、2個師団増設を強くせまった。西園寺首相が拒絶すると、上原勇作(1856~1933))陸相が単独辞職し、陸軍が軍部大臣現役武官制を使いその後任を推薦しなかったため、1912(大正元)年末、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。
3.そこで元老会議(藩閥の牙城)は内大臣兼侍従長であった桂を後継にすえた(第3次桂内閣)。この首相へのスライドは宮中と府中(政府)の別(境界)を乱すものであり、藩閥勢力が新天皇を擁して政権独占をくわだてているのだという非難が急速に盛り上がった。
4.この藩閥批判が、立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅(1855~1832)を中心とする野党勢力・ジャーナリストに、商工業者・都市民衆が加わり、「閥族打破・憲政擁護」をかかげる一大運動として全国に広がった(第一次護憲運動)。政友会と国民党が内閣不信任案を議会に提出した。そしてそれを支持する民衆が議会を包囲する前代未聞の事態に発展したため、この動きにおののいた藩閥勢力は、1913(大正2)年2月、内閣を在職50日余りで退陣させた(大正政変)。後継には陸軍を避け、海軍出身の山本権兵衛(1852~1933)を指名した。
〈2017関西学院大・全学部
問6.下線部g旧立憲政友会系の議員を中心に日本自由党が、また旧立憲民政党系を中心に日本進歩党が結成されたについて、立憲政友会及び立憲民政党に関連する記述として誤っているものを下記より選びなさい。
ア.第3次桂太郎内閣は、立憲政友会の犬養毅・尾崎行雄ら野党勢力や商工業者などによって展開された第一次護憲運動により、2ヶ月足らずで退陣した。
イ.退役した陸軍の長老で長州閥につながる田中義一は立憲政友会に総裁として迎えられ、若槻礼次郎内閣の退陣を受けて後継内閣を組織した。
ウ.立憲民政党は、立憲政友会から分離して結成された政友本党と憲政会が合同して結党された。
エ.立憲民政党の浜口雄幸内閣は、井上準之助を蔵相に起用し、産業合理化・緊縮財政につとめて物価引き下げを図り、金解禁を断行した。」
(答:ア×、犬養毅は立憲国民党)〉
〈2017早大・法
2月11日
昨日の停会後再び日比谷附近に焼打始まりたる由。今朝に至りて始めて之を聞く。a.桂内閣の不信任終に帝都を騒擾に陥らしむ。不臣の罪大なりと云ふべし。総辞職の報を今朝の新紙に見るは既に遅れたるの甚しきものと云ふべし。
問1 下線aに関連する記述として正しいものはどれか。1つ選べ。
あ.立憲政友会の犬養毅、立憲国民党の尾崎行雄らが倒閣運動を展開した。
い.桂が明治天皇の権威をかりて政権独占を企てているとの非難が強まった。
う.桂は立憲政友会の離党者などによって立憲同志会を結成し、運動に対抗した。
え.民衆の直接行動によって内閣が倒れた初めての事例となった。
お.倒閣運動は吉野作造が提唱した民本主義に力を得て大きく高揚した。
(答:え〇 ※あ×犬養は立憲国民党、尾崎は立憲政友会、い×明治天皇→大正天皇、う×結成は桂太郎の急死直後、お×民本主義提唱は1916年(大正5年))〉
〈2016立命館大・全学部
問n 下線部4宮中・府中の別を制度化に関連して、のち1912年に大正天皇の侍従長でありながら内閣を組織し、「宮中府中の別」を乱すものとして国民的な批判を浴び、第一次護憲運動のきっかけをつくった人物は誰か。もっとも適当な人名を下から一つ選べ。
あ 西園寺公望 い 犬養毅
う 清浦奎吾 え 桂太郎」
(答:え)〉
〈2016早大・社会
Ⅳ 次の【史料】(一部改変)を読み、問1・3に答えよ。
本年(1914)二月例の通り日比谷に於て民衆の示威運動があった。問題としては、減税問題などもあったけれども主なるものは海軍収賄問題であった。(1).同じやうな事は昨年(1913)の二月にもあった(大正政変)。昨年二月の方は今年よりは運動も激烈で、其結果到頭[ A ]公を内閣から追ひ出して了った。 (吉野作造「民衆的示威運動を論ず」)
問1【史料】の[ A ]に入る首相は誰か。1人選べ。
イ 桂太郎 ロ 大隈重信 ハ 寺内正毅
ニ 清浦奎吾 ホ 西園寺公望
問3 下線部(1)の運動とその経緯についての記述として、不適切なものはどれか。1つ選べ。
イ 首相の人選をめぐって、宮中と府中の別を乱すとの非難があった。
ロ 軍備拡張案却下に抗議した海軍大臣が辞任した。
ハ この運動の中心となった一人に犬養毅がいた。
ニ この運動の際には、群衆が議院を取り囲む騒ぎが起こった。
ホ この運動の後に山本権兵衛内閣が成立した。」
(答:問1イ、問3ロ×これはシーメンス事件で、斉藤実海軍大臣が辞任した)〉
〈2016早大・文
V 次の文を読んで、問に答えなさい。
「大正デモクラシー」の時代をみる上で、ひとつの大きな画期となったのが、第一次護憲運動である。1912年、要求していた2個師団増設が第二次西園寺内閣によって財政上の問題から拒絶されると、陸軍大臣の[ A ]が辞表を提出し、内閣は総辞職した。後継として組閣したのは内大臣兼侍従長だった桂太郎であるが、このことが宮中と政府との領分を乱すとの批判が起こり、立憲政友会の[ B ]、立憲国民党のa犬養毅をはじめとする野党、ジャーナリスト、商工業者や都市民衆を中心とする大規模な運動が、「憲政擁護・[ C ]をスローガンとして全国的に広がった。この事態を前に第三次桂内閣は1913年2月、短期間のうちに退陣を余儀なくされた。
問1 空欄Aにあてはまる人名を漢字で記述しなさい。
問2 空欄Bにあてはまる政治家で、「憲政の神様」と称された人物は誰か。1つ選べ。
ア 大隈重信 イ 原敬 ウ 尾崎行雄
エ 加藤友三郎 オ 斎藤隆夫
問3 下線aの人物(犬養毅)について、誤っている記述はどれか。1つ選べ。
ア 大隈重信らによって結成された立憲改進党に入党した。
イ 第一次大隈内閣の文部大臣在任中、共和演説事件によって辞職した。
ウ 田中義一の後継として、立憲政友会の総裁に就任した。
エ 組閣の際、大蔵大臣に高橋是清を起用して金輸出再禁止の実施に踏み切った。
オ 首相在任中に「五・一五事件」によって暗殺され、これによって戦前における政党内閣の時代は終焉をむかえた。
問4 空欄Cにあてはまる語句を漢字4字で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。」
(答:問1上原勇作、問2ウ、問3イ※共和演説事件は尾崎行雄、問4閥族打破)〉