不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

1868(明治元)年 〈五箇条の誓文〉★★

2017-07-30 | 『新日本史頻出年代暗記』

◆幟仁親王が揮毫した御誓文の原本

● 明治時代(明治天皇)

1868(明治元)年 〈五箇条の誓文〉★★

Charter Oath is promulgated by Emperor Meiji; Gobono Keiji is also issued.

   人(ひと)はむやみに 五箇条五榜
     1868年             五箇条の誓文   五榜の掲示

 戊辰戦争の最中の1868年3月、新政府は明治天皇が天地神明に誓うという形式で新政府の方針となる五箇条の誓文を公布し、さらに政体書を出して政治組織の基本を定めた。

政府は開国和親の方針を示し、革新的な政治を進める反面、一般の庶民に対しては徒党・強訴・逃散などの民衆運動やキリスト教を禁じた旧時代的な内容の五榜の掲示を掲げた。

参考

一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
             
           
〈五箇条の誓文の起草・修正〉

 五箇条の誓文は由利公正が起草、福岡孝弟が加筆・再修正し、木戸孝允が最終的に判断した。由利公正には起草の〈〉があり、福岡孝弟は加筆の〈〉がある。そして木戸孝允が最終チェックをし、よし〉と判断したのである(これはちょっと苦しい)。また、木戸の判断
で、「列侯会議」の語句が「広ク会議」に改められたことも頻出。由利が自分の名字の〈利〉にある〈〉を入れたのが癪で、それを削って自分の名前にある〈〉の字を入れたかったのだろうか。

 

 

 

[ポイント]
1.五箇条の誓文は、由利公正が起草し福岡孝弟が修正、さらに木戸孝允が「列侯会議」を「広ク会議ヲ興シ」と加筆訂正したもの。

[解説]

1.五箇条の誓文の内容の骨子(こつし)は「公議世論の尊重」「開国和親」「人心の一新」である。

2.五箇条は国民にではなく天の神々と地の神天地神明、天神地祇)に、すなわち誓文を守らずとも誰も非難できない非難してこない空虚な対象に誓っている。


3.公議政体論とは、雄藩の諸侯が雄藩の下級武士出身の志士たちの上に立ち政府の主導権を握る政治体制を言う。初めにあった「列侯会議」には公議政体論の考えがあり、木戸はこれを「広ク会議ヲ興シ」と曖昧(あいまい)にして同論を葬(ほうむ)る布石をうった。


2016明大・法:「

一 大(おおい)ニ斯国是(このこくぜ)ヲ定メ制度規律ヲ建ルハ、御誓文ヲ以テ目的トス。
一 天下ノ権力総(すべ)テ之(これ)ヲ太政官ニ帰ス、則(すなわち)政令二途(にと)ニ出ル六患(うれい)ナカラシム、a.太政官ノ権カヲ分ツテ、立法行政司法ノ三権トス。則偏重ノ患無カラシムルナリ。
一 立法官ハ行政官ヲ兼ヌルヲ得ズ、行政官ハ立法官ヲ兼ヌルヲ得ズ。
一 各府各藩各県、皆貢士(こうし)ヲ出シ議員トス、議事ノ制ヲ立ツルハ輿論(よろん)公議ヲ執(よ)ル所以(ゆえん)ナリ。
一 諸官四年ヲ以テ交代ス。b.公撰入札ノ法ヲ用フベシ、但(ただし)今後初度(しよたび)交代ノ時其一部ノ半(なかば) ヲ残シ、二年ヲ延(のば)シテ交代ス、断続宜(よろし)キヲ得セシムルナリ、若シ其人衆望(しゆうぼう)ノ所属アツテ去リ難キ者ハ猶数年ヲ延サザルヲ得ズ。

 

問1 上の文章は、1868(慶応4)年閏4月、「御誓文」を具体化するために明治政府によって頒布されたものである。何と呼ばれているか。

問2 下線部(a)について、何の原則と呼ばれているか。漢字4字で答えなさい。


問3 下線部(b)について、現在では何と呼ばれているか。漢字2字で答えなさい。


問4 この文章を起草した人物の一人で、佐賀藩出身、1871(明治4)年に「外務卿」に就任したが、のち征韓論を主張して下野した人物はだれか。その氏名を記しなさい。」


(答:問1政体書、問2三権分立、問3選挙、問4.副島種臣※副島にも〈リ〉。


2013明大・法:「

一 大(おおい)ニ斯(この)国是ヲ定メ制度規律ヲ建(たつ)ルハ、a御誓文ヲ以テ目的トス。
一 天下ノ権力総(すべ)テ之(これ)ヲ[ ア ]ニ帰(き)ス、則(すなわち)政令二途ニ出ルノ患(うれい)ナカラシム、a[ ア ]ノ権カヲ分ツテ、立法行政司法ノ三権トス。則偏重(へんちょう)ノ患無カラシムルナリ。
一 立法官ハ行政官ヲ兼ヌルヲ得ズ、行政官ハ立法官ヲ兼ヌルヲ得ズ。
一 各府各藩各県皆(みな)貢士(こうし)ヲ出シ議員トス、議事ノ制ヲ立ツルハ輿論(よろん)公議ヲ執ル所以ナリ。
一 諸官四年ヲ以テ交代ス。b.公撰入札ノ法ヲ用フベシ、但(ただし)今後初度(しよたび)交代ノ時其(その)一部ノ半ヲ残シ、二年ヲ延(のば)シテ交代ス、断続宜(よろし)キヲ得セシムルナリ。

 

問1 1868(慶応4)年閏4月に発表された本文書は何と呼ばれているか。

問2 下線部(a)の「御誓文」は何と呼ばれるものであるか。7字で答えなさい。


問3 空欄アに該当する語句を記しなさい。


問4 下線部(b)の「公撰入札ノ法」とは何のことか。漢字2字で答えなさい。」


(答:問1政体書、問2五箇条の御誓文、問3太政官、問4選挙)〉


2013立大・法済異文化:「

 総じて江戸幕府の政治は合議制をとって運営されていた。幕末、徳川慶喜は大政を奉還するが、その後の大政は公議政体を構想していた。また、1868年の[ か ]でも「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」とある。」

(答:五箇条の誓文)〉


2013同志社大・全学部:「

問a 新政府が公布した五箇条の誓文には、「一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ( a )ニ基クベシ」という文言がある。この空欄( a )に入る語として適切なものはどれか。次のうちから1つ選べ。

 1皇基 2公論 3経綸 4公道」


(答:4)〉

 

□近現473.五榜の掲示◇B

[ゴロ]牢屋とは/恨みの/五榜の掲示


(1868年)(浦上(うらかみ)教徒弾圧事件・1873年)(五榜の掲示)


[句意]牢屋に入れるとはキリシタンにとって恨みの涙の五榜の掲示だ、という句。


[point]

1.五榜の掲示1868年)で浦上教徒事件が起きたが、1873年、キリスト教は黙認された。

 

[解説]
1.政府は、1868年、五箇条の誓文交布の翌日、全国の民衆に向けて五榜の掲示を掲げた。それは君臣・父子・夫婦間の儒教的道徳を説き、徒党・強訴やキリスト教を改めて厳禁するなど、旧幕府の対民衆政策をそのまま引き継いでいた。

2.キリスト教に対しては、新政府は旧幕府同様の禁教政策を継続し、長崎の浦上五島列島の隠れキリシタンが迫害を受けた。しかし、列国の強い抗議を受け、1873(明治6)、ようやくキリスト教禁止の高札(こうさつ)が撤廃され、キリスト教は黙認された。


3.この浦上信徒は隠れキリシタンだったが、1865(慶応元)年、大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)の落成を機にここを訪ねたフランス人宣教師に信仰を告白して明るみに出た。しかし、明治政府は神道国教化の政策をとり、長崎・浦上の信徒3300人強を捕縛し、各藩に分けて配流した。配所では改宗を強要する拷問が行われ、600人強が死亡した(浦上教徒弾圧事件)。


2015関西学院大・神社済教

問8  a・bの正誤を判定せよ。

 a.明治新政府は、五箇条の誓文公布に続き、五榜の掲示を出した。五榜の掲示には、キリスト教の信仰を容認するという新たな政策が示されていた。

 b.明治政府は、版籍奉還を命じ旧大名を旧領地の知藩事に任命した。しかし、その後、廃藩置県で知藩事は罷免され、東京に住むように命じられた。」

(答:a×、b〇)


2013慶大・法

 政府はまた、徳川幕府の政策を引き継ぎ、キリスト教の弾圧を続けた。大浦天主堂の[   ]人宣教師に信仰を告白したことをきっかけとして、隠れキリシタンとして生活してきた長崎浦上のキリスト教徒たちが公然と信仰を表明するにいたるが、これに対して政府は、数千人の信徒をとらえ各藩に流罪とした。結局、このようなキリスト教禁止の政策も、諸外国からの抗議をうけ、後に事実上撤廃されることになる。」

(答:フランス)〉


2012同志社大学・文経済:「

 そしてキリスト教に対しては、明治政府は( ア )を出し、キリシタン禁制の方針を継承することを宣言した。それゆえ日本最初のカトリック教会堂である( イ )が1865年に創建されたとき、フランス人宣教師に信仰告白した長崎の隠れキリシタンは明治政府によって捕らえられ流罪にされる事件が起ったが、この弾圧事件に対する外国から抗議を受け、政府は( ウ )年にキリシタン禁制の高札を撤去した。」

(答:ア五榜の掲示、イ大浦天主堂、ウ1873年※いや涙拭き請う撤去。)〉


2012立大・文学部:「

 明治維新政府がそれ(キリスト教を取り巻く政治的な環境は大きく変わっていた)にもとづいて出した禁令がふくまれているものを、次のa~dから1つ選べ。

 a.王政復古の詔 b.五箇条の誓文

 c.五榜の掲示  d.政体書」

(答:c)〉



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

sin

2017-07-26 | 生物暗記法

 

用語リストへ

Text p.187

ア.清朝の政治

■ポイント 非漢民族である女真の建てた清は、どのように中国を統治したか。

清  の中国統治  1644年 a 李自成の乱  で明滅亡。明朝の一部、華南に逃れる。
  • 山海関の守備にあたっていた明の将軍b 呉三桂  が清軍に投降。清軍を先導し、長城内に入る。
  • 3代皇帝c 順治帝  、d 北京  に入城しa 李自成の乱  を平定して、盛京から遷都する。

    解説

     順治帝が北京に入ったときはわずか6歳で、実権は叔父の摂政ドルゴンがにぎっていた。ドルゴンは呉三桂など漢人部将を利用して統治すると同時に、明の制度をそのまま温存するなど同化をはかったが、一方で弁髪など満州人の習俗を漢人に強制するなど、統制を強めた。しかしこの段階では、鄭氏の支配する台湾など明の遺臣の活動もまだ活発だった。
     → 女真(満州)が建国した清朝が、中国本土の漢民族を支配することとなる。
  • 南方には雲南のb 呉三桂  の他、広東、福建に漢人武将を配置しe 藩王  とする。=f 三藩   
台湾   明代に福建省からの漢人の移住が増加。1624年にオランダ人が進出(先述)。
    •  鄭成功   福建の海賊鄭芝竜と日本人女性の間に平戸に生まれる。武装海上集団を率い清に抵抗。
         → 明朝の復興を図り、明の遺王を助けたため朱姓を賜り、国姓爺(こくせんや)と言われる。
康煕帝

C 康煕帝   

    • 1661年 a 鄭成功  がオランダ人を駆逐しB 台湾  を占領。
       → ▲清はb 遷界令  を出す。沿岸住民を内陸移住させ、海上貿易を禁止。

解説

 鄭成功の「国姓爺」とは明(朱元璋が建てた王朝)から朱という帝室の性=国姓を与えられた「旦那」という意味。日本人を母とする彼の活躍は鎖国後の日本でもよく知られており、1715年に近松門左衛門が浄瑠璃『国性爺合戦』を発表して大当たりした。しかし、実際には鄭成功の江戸幕府に対する支援要請は拒否され、鄭氏台湾はその死後、清に降伏する。
康煕帝   の統治 第4代皇帝 聖祖 1667年から親政。
  • 1673年 a 三藩の乱   藩王取り潰しに反発したb 呉三桂  らが反乱。
     → 広東の尚可喜・福建の耿継茂らが同調し、大規模な内乱となる。
     → 1681年 清朝が鎮圧に成功し、中国本土を統一。
  • 1683年 海禁政策を強化してB 台湾  の鄭氏を倒し、直轄領とする。
  • ロシアの進出を抑え国境を策定。モンゴルを親征、チベットに勢力を伸ばす。(下掲)
清朝の全盛期   18世紀
  •  雍正帝  (在位1722~35) ・b 乾隆帝  (在位1735~95)の時代
  • 皇帝:中国伝統の皇帝であるとともに北方遊牧社会の君主(ハン)として君臨し独裁的な権力を有した。
  • 平常は北京のc 紫禁城  で政務を執り、夏は北方の離宮で過ごした(清朝前半まで)。
  • 清朝の中国統治:科挙、官制、儒学の振興など明の制度を受け継いだ。
  • 軍事制度:満州人のd 八旗  にモンゴル人、漢人を加えて三軍編制とし、要地に駐屯させる。

    Text p.188

           他に、漢人で組織するe 緑営  を設置。
  • 中央官制の要職の定員はf 満・漢同数  とした。
  •  雍正帝  の時、皇帝直属の諮問機関としてg 軍機処  を置く。
      → 当初は軍事面の諮問機関であったが、後に内閣に代わる軍事行政上の最高機関となる。
  • ▲地方制度:省・道・州(府)・県にわけ、省の統治に巡撫を、数省にまたがる統治には総督を派遣した。
E 清の思想統制
  • 朝廷の編纂事業:字書=a 『康煕字典』  (b 康煕帝  の命令)
            百科事典=c 『古今図書集成』  (d 雍正帝  の時に完成。)
            叢書=e 『四庫全書』  (f 乾隆帝  の事業。)
      → 大規模な編纂事業を起こし、学者を優遇。その反面、反清的な言論は厳しく取り締まる。
  •  文字の獄  :反満・反清的な文字を使う書物を摘発しその作者を厳しく罰した。 
       同時にさかんにh 禁書  を行う。
  •  辮髪令  の発布:満州人の習俗を漢人に強要した。それ以外は長髪といわれ禁止。
  •  白蓮教  の弾圧:民間信仰は反権力になる恐れが多いとされ、弾圧された。 
  • 異民族統治であるが、漢民族の文化的伝統と融合させ、巧みに中国を統治、19世紀初頭まで存続した。
先頭へ
用語リストへイ.清朝支配の拡大

■ポイント 清朝の支配はどの範囲まで広がったか。またどのような統治を行ったか。

康煕帝  (在位1661~1722)
    • 1689年 ロシア(a ピョートル大帝  )と戦い、講和してb ネルチンスク条約  を締結。 
        → 黒竜江(アムール川)上流アルグン川と外興安嶺(スタノヴォイ)山脈を国境とする。
       c イエズス会士  が通訳として交渉に当たる。意義:d 中国が始めて締結した国際条約となる。   
    • モンゴル人オイラト系e ジュンガル   17世紀に強大化、外モンゴル、タリム盆地、チベットに進出。

解説

 ジュンガルはもともと天山山脈の北側、イリを中心としたジュンガル盆地にいたモンゴル人のオイラト(土木の変のエセン=ハンが有名)の系統を引く遊牧民であったが、17世紀の前半にバートゥルに率いられて有力となり、その子ガルダンが天山山脈の南側のタリム盆地などに進出し、一大勢力となった。しかし、清の康煕帝が親征し、1697年にガルダンは敗れて自殺した。清に服属してからはジュンガル部(凖部)とも言われる。
  • A 康煕帝  、外モンゴルに親征し、e ジュンガル  を破る。支配を外モンゴルに及ぼす。
     → モンゴル人に信者の多いチベット仏教の本拠のチベットにも勢力を伸ばす。
雍正帝  (在位1722~35)
    • 1727年 a キャフタ条約   モンゴル方面のロシアとの国境を確定し通商規定を設ける。
        → ネルチンスク条約に次ぐ清とロシアの国境協定。(13章3節)
    • ▲辺境の少数民族に対し、現地の有力者による統治を改め、中央から役人を派遣する「改土帰流」を進める。

解説

 「改土帰流」とは、辺境の少数民族(特に西南地方のミャオ族など)を統治する際、現地の有力者に統治を任せていたのを改め(改土)、中央から役人を派遣(流官)して直接統治する方式に改めることをいう。少数民族対策として明・清を通じて行われたが、特に雍正帝の時に進められた。
乾隆帝  (在位1735~95)
乾隆帝

C 乾隆帝   

    • 1758年 タリム盆地に親征し、a ジュンガル  を滅ぼす。
    • 翌年、東トルキスタン(回部)のb ウイグル人  を制圧。

Text p.189

  • 征服地をc 新疆  と命名し、藩部に組み入れる。
    = 天山山脈の北のジュンガル盆地と南のタリム盆地を含む東トルキスタン。
    意義:d 清朝の領土が最大となり、現在の中国の領域の原型となる。  
D 清の領土統治
  • 皇帝の直轄領=中国内地およびa 東北地方(満州)  とb 台湾  
  • 新たな征服地はc 藩部  としてd 理藩院  が統括。
     =e モンゴル  = 外と内に分かれる。モンゴル王侯を通じて支配。
      f 新疆    = ウイグル人有力者(ベク)が現地を支配。中心地イリ。
      g 青海    = チベット高原の東北。モンゴル人を通じて支配。
      h チベット  = 黄帽派チベット仏教の指導者i ダライ=ラマ  が現地を支配。中心地ラサ。
     → 清朝は監督官を派遣するが現地の習慣や宗教には干渉せず。

・18世紀 清朝の最大領域

清の支配領域

  藩部
  a 外モンゴル 
  b 内モンゴル 
  c 新疆 
  d 青海 
  e<em "=""> チベット 
  重要地名
  1 ネルチンスク 
  2 キャフタ 
  3  アイグン 
  4 イリ 
  5 ラサ 
   (3,4は後出)

※チベットの中国領土化
    •  チベット仏教  :インドから伝来した仏教が、チベット土着のボン教と融合して成立。
        → 8世紀、吐蕃の国教となる。元の保護を受け、モンゴルにも拡大 → 明代に次第に堕落。

解説

 チベット仏教は、かつては「ラマ教」と言われたが現在は使われなくなっている。ラマとはチベット語で「師」とか「僧」の意味であるためである。
  •  ツォンカパ  の改革 14世紀末~15世紀始め 厳しい戒律を設ける。
    旧来の諸教派を一括してc 紅帽派  というのに対し、改革派をd 黄帽派  という。
     → d 黄帽派  が次第に有力となり、この派の教主がチベットを実質的に支配するようになる。
  • モンゴルのe アルタン  による支配 16世紀後半 d 黄帽派  に帰依。
     → 教主にf ダライ=ラマ  の称号を贈る(ダライは大海、ラマは師の意味)。
     = g 活仏  とされ、その地位は転生(生まれ変わり)によって受け継がれる。

    解説

     ダライ=ラマは活仏(化身者、つまり仏の化身として生きている者)と信じられ、妻帯が許されないので、その地位は世襲ではなく、ダライ=ラマが生前に預言した方角でその死後1年間に生まれた幼児を転生者(生まれ代わり)として選んだ転生ラマに継承される。現在のダライ=ラマ14世は、中国によるチベット支配に抵抗してインドに亡命している。ダライ=ラマに対抗する存在であるパンチェン=ラマも同様に転生ラマが継承するが、こちらは現在はチベットに留まり、中国政府からその地位を保障されている。
      ▲これに次ぐ高僧をパンチェン=ラマ(大学僧)という。
  • 清朝の支配  18世紀 清朝はモンゴル人・チベット人の支持を得るためf ダライ=ラマ  を利用。
    → a チベット仏教  を手厚く保護した。
      チベットの中心地h ラサ  には歴代ダライ=ラマの宮殿i ポタラ宮  が建設される。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治初期内政の重要事項(1868~73年11事項発生順)

2017-07-26 | 生物暗記法

□近現470.◇S

午後成績深化拝見学生国立超近い。


か条の誓文・榜の掲示)(体書・版奉還)(新貨条例・藩置・岩倉使)(学制)(国立銀行条例)(兵令・正)


[point]

1.明治初期186873年までの内政重要事項発生順は、五か条の誓文五榜の掲示政体書版籍奉還新貨条例廃藩置県岩倉遣外使節学制国立銀行条例徴兵令地租改正の11事項。

[解説]
1.五箇条の誓文(1868.3)は、公議世論の尊重開国和親など新政府の国策の基本を示したもの。天皇が百官をひきいて神々に誓約する形式をとって天皇親政を強調した。

2.五榜の掲示(1868.3)は誓文公布の翌日、全国の民衆に向けてかかげられた民衆政策の基本方針。儒教的道徳を説き、徒党強訴キリスト教を改めて厳禁するなど、旧幕府の対民衆政策をそのまま引き継いでいた。


3.政体書(1868.閏(うるう)4)は、政府の組織を整えた法令。国家権力を太政官に集め、これにアメリカ合衆国憲法を模倣した三権分立制をとり入れ、高級官吏を4年ごとに互選で交代させるなど、欧米的な近代政治の体裁をとったもの。


4.版籍奉還(1869.1) は、藩主が領地(版図)・領民(戸籍)を天皇に返還し、新政府が全国の支配権を形式上その手におさめたことをいう。木戸孝允大久保利通らが画策して、薩摩長州土佐肥前の4藩主に朝廷への出願させると、多くの藩がこれにならった。


5.新貨条例(1871.5)は、十進法を採用し、を単位に新硬貨制度をつくったもの。金本位をたてまえとしたが、実際には開港場では銀貨が、国内では紙幣が主として用いられた。


6.廃藩置県(1871.7)は、新政府が藩制度の全廃をおこなったもの。まず薩摩長州土佐の3藩から御親兵をつのって軍事力を固めたうえで、いっきょに断行した。旧大名である知藩事は罷免されて東京居住を命じられ、かわって中央政府から府知事県令が派遣され地方行政にあたることとなった。


7.岩倉使節団(遣外使節団)(1871.10)は、条約改正に関する予備交渉と、欧米の制度・文物の視察とを目的に派遣した。


8.学制(1872.8)は、フランスの学校制度にならい、男女平等で統一的な小学校教育を建設することを目的とした教育法令。


9.国立銀行条例(1872.11)は、アメリカナショナルバンク制を導入したもの。「国立銀行」(名前は国立だが民営である)が紙幣の発行を担うことになった。


10.徴兵令(1873.1)は、国民皆兵制にもとづく近代的軍隊の創設。しかし国民皆兵は名ばかりで、実際に兵役についたのはほとんどが農村の二男以下であった。


11.地租改正(1873.7) は、財政安定化のため断行した徴税法の大改革。すなわち(1)課税の基準を、不安定な収穫高から一定した地価に変更し、(2)物納を金納に改めて税率を地価の3%とし、(3)地券所有者を納税者とした。


2017関西学院大・全学部

問8 つぎのa、b各文の正誤を判断せよ。

 a.西郷隆盛を中心とする留守政府は、廃藩置県や学制・徴兵制の実施、地租改正などの大きな内政改革を推進した。

 b.地租改正条例では税率を地価の5%としたが、反対の一揆が起こったので、政府は税率を3%に引き下げた。

(答:a×、b× ※a×廃藩置県は留守政府以前の政策、b×3%を2.5%にした)〉


2016明大・情報:「

問1 下線部(ア)1868年に江戸が東京と改称と同じ年の事柄として、もっとも正しいものを、1~4から1つ選べ。

 1.五箇条の誓文 2.薩長連合

 3.小御所会議  4.大政奉還」

(答:1 ※2→1866年、3・4→1867年)〉


2016早大・文化構想:「

問9 下線g明治政府は強力な中央集権国家の確立をめざしたに関連して述べた文のうち正しいものはどれか。1つ選べ。

 ア 府藩県三治制によって、諸藩に知藩事が置かれた。

 イ 版籍奉還の「版」は領民、「籍」は領地を指した。
 ウ 版籍奉還は、薩摩・長州・土佐・肥後の4藩主が、まず出願した。
 エ 廃藩置県は、薩摩・長州・土佐の3藩から募った軍事力を背景に断行された。
 オ 廃藩置県により、知藩事の多くが知事・県令となった。

(答:エ ※ア×版籍奉還による、イ×逆、ウ×肥後→肥前、オ知事・県令は中央派遣の官吏)〉


2016立教大・済コミュ福観光:「

 1871年の「円・銭・厘」の十進法を採用した( ロ )の制定、翌年の4国立銀行条例の公布など、貨幣・金融制度の整備が進められるなか、政府の認可を得て、三井は日本最初の私立銀行である三井銀行を創立した。

問4.これ(国立銀行条例)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.この条例に基づき日本勧業銀行、日本興業銀行、台湾銀行が設立された

 b.1876年に改正されるまで、国立銀行の設立は数行にとどまった
 c.高橋是清を中心に制定された
 d.フランスの制度を模範として制定された」

(答:ロ.新貨条例、問4b ※a×特殊銀行は明治30年代以降に設立、c×高橋是清→渋沢栄一、d×フランス→アメリカ)〉


2013上智大・法総合神外:「
 新政府は、中央集権化を図るべく、(e)3つの藩の兵を親兵として反抗に備えたうえで、( サ )年に廃藩置県を断行した。また、新政府は、殖産興業政策を推し進めて、( シ )に官営の製糸場を建設するなどした。さらに、新政府は、文明開化政策を推し進めて、( ス )年には外交や貿易などにおいて不都合であることを理由に、太陰暦を太陽暦に替えたりした。

問1.空欄サに当てはまる年代はどれか。もっとも適切なものを、次かち1つ選びなさい。

 (1)1869 (2)1870 (3)1871
 (4)1872 (5)1873)

問2.空欄シに当てはまる場所はどこか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。

 (1)富岡 (2)桐生 (3)高崎
 (4)太田 (5)新町

問3.空欄スに当てはまる年代はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。

 (1)1870 (2)1871 (3)1872
 (4)1873 (5)1874

問4.下線部eの3藩に含まれる藩はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。」

 (1)肥後 (2)安芸 (3)伊予
 (4)土佐 (5)肥前」

(答:問1→3、問2→1、問3→3、問4→4)〉

2013慶大・法:「
 政府はまた、徳川幕府の政策を引き継ぎ、キリスト教の弾圧を続けた。大浦天主堂の[   ]人宣教師に信仰を告白したことをきっかけとして、隠れキリシタンとして生活してきた長崎浦上のキリスト教徒たちが公然と信仰を表明するにいたるが、これに対して政府は、数千人の信徒をとらえ各藩に流罪とした。結局、このようなキリスト教禁止の政策も、諸外国からの抗議をうけ、後に事実上撤廃されることになる。」

(答:フランス)〉

2012立大・文学部:「

 明治維新政府がそれ(キリスト教を取り巻く政治的な環境は大きく変わっていた)にもとづいて出した禁令がふくまれているものを、次のa~dから1つ選べ。

 a.王政復古の詔 b.五箇条の誓文

 c.五榜の掲示  d.政体書)」

(答:c.五榜の掲示)〉

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明後期の社会と文化 

2017-07-25 | 生物暗記法
先頭へ
用語リストへオ.明後期の社会と文化 
■ポイント 明代の経済発展はどのような変化をもたらしたか。また文化にはどのような影響を与えたか。
1.明の社会
生産力の向上  長江下流域のa 綿織物(木綿)  ・b 生糸(絹織物)  など家内制手工業が発達。
  •  綿花  の栽培と養蚕に必要なd 桑  の栽培が普及。

    Text p.183

    ▲特に南京は綿織物(南京木綿)、蘇州と杭州は絹織物の中心的産地となる。
  • 穀倉地帯が長江下流域のe 江浙  (江蘇・浙江省)から中流域のf 湖広  (湖北・湖南省)に移る。
     → 宋代の「江浙熟すれば天下足る」から明末には「g 湖広熟すれば天下足る  」といわれるようになる。

解説

 宋代には長江下流域の開発が進み、江蘇・浙江地方が穀物生産の中心地域となったので、「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」と言われた(6章2節)。産業の先進地帯であったこの地域は、明代の15世紀中頃から、綿織物業・絹織物業が起こり、そのため綿織物の原料の綿花と、養蚕のための桑の生産のため田地を綿花畑や桑畑に転換させたため、穀物生産は減少した。それに代わって、長江中流の湖北・湖南地方が穀物の中心地域となったため、「湖広熟すれば天下足る」といわれるように変化した。
  • 江南では宋代以来の大土地所有制とh 佃戸制  が継続。地主が小作人(佃戸)を使役して経営。
  • 江西省のi 景徳鎮  のj 陶磁器  生産が増大。▲k 染付  とl 赤絵  の技法が盛んになる。
  • 中国産のb 生糸  ・j 陶磁器   日本、アメリカ大陸、ヨーロッパに輸出される。
  • スペインのm ガレオン貿易   マニラを経由しメキシコのアカプルコに運ばれる。(第8章1節)
特権商人の活動  商業・手工業の発展にともない、明朝政府から特権を与えられた商人が巨富を築く。
  •  山西商人  (山西省出身・金融業中心)とb 徽州(新安)商人  (安徽省徽州出身・塩商資本)。
  •  会館  ・d 公所  の成立 都市における同郷者または同業者の互助組織の拠点となった。
税制の変化  16世紀 a 銀  の流通の増大に伴い、税の納入もa 銀  でおこなわれるようになる。
  •  一条鞭法  の実施  それまでのc 両税法  にかわる納税法として江南から始まる。
     = 内容:d 地税と徭役(力役)をまとめて銀納に一本化した    

解説

 唐中期以来の両税法の基本は、現物納と労役の二本立てであり、明でも継承され、里甲制の下で土地台帳である「魚鱗図冊」と租税台帳である「賦役黄冊」によって維持されてきた。しかし、16世紀頃から綿織物や絹織物、陶磁器、茶などの作業が発展し、農村にも銀が流通して貨幣経済が浸透すると、貧富の差が拡大し、税収が困難になった。そのような状況に対応したのが一条鞭法である。なお、このとき賦税(土地税)と徭役(人頭税)の区別がなくなったわけではなく、いずれもが銀納となったということで、徭役が土地税に組み込まれて消滅するのは、次の清の18世紀の新税制「地丁銀」によってである。
貧富差の拡大  商人で地主になるもの、地主で都市に住むものが増加(特に江南)。
  •  郷紳   科挙合格者や官僚経験者で郷里の名士とされた家。清代まで続き、文化の担い手となる。
  • ▲佃租(小作料)軽減を求める佃戸と地主の抗争=b 抗租運動  が激しくなる。
  • ▲1448~49年 c 鄧茂七の乱   福建省で起こった抗租運動。数十万の農民が参加したが鎮圧された。
     → 明末・清初には家内奴隷の解放運動である奴変、都市下層民の反権力闘争である民変もおこる。
・明の皇帝専制体制の動揺が深まる。一方、書画や文学、儒学などの新しい文化が生まれる。
2.明代の文化
A 美術 郷紳など富裕階級が文化生活を楽しむなかで、書画が発達。
  • 仇英らは院体画系の北宗画(北画)を継承。
  • 明末のa 董其昌  は、高級官僚を辞し、画家・書家として文人画(南宗画)を大成した。
B 文学 木版印刷の発達 → 書物の出版が急増 → 文人の活動が盛んになる。
  • 口語で書かれた通俗的な長編読み物=a 小説  が発達。
     四大奇書 :b 『三国志演義』  ・c 『水滸伝』  ・d 『西遊記』  ・e 『金瓶梅』  
  • 戯曲 『牡丹亭還魂記』など。 → 都市や農村の劇場で、盛んに演じられた。
C 儒学の新展開 a 朱子学  が体制化に対する反発から新しい思想が起こった。
  • 16世紀始めb 王陽明(王守仁)  がc 陽明学  を完成させた。宋の陸九淵の思想を発展させる。
     = d 心即理  (心の中に真理がある)、e 致良知  (ありのままの善良な心をめざす)、
       f 知行合一  (認識と実践を一致させる)などを説いて朱子学を批判。庶民にも支持広がる。
  • ▲明末、g 李贄(李卓吾)  は朱子学の礼教を偽善として非難、男女平等を説き投獄される。
D 科学技術 農業など諸産業の技術研究書が作られ、経世致用の実学がおこる。
  •  キリスト教宣教師  によって伝えられた西洋の科学技術の影響を受けた。
  • 李時珍『b 本草綱目  』薬草に関する研究書。
  • 徐光啓『c 農政全書  』古来の農法を集大成した。
  • 宋応星『d 天工開物  』古来の産業技術を分類し、図解付きで解説した。
     → これらの西洋技術は、日本などの東アジア諸国にも影響を与えた。

Text p.184

E キリスト教の布教 16世紀末からカトリックの布教が盛んになる。
  • 背景 1512年 ドイツのa 宗教改革   → カトリックの反宗教改革の動き(第8章3節参照)
  • イエズス会のb フランシスコ=ザビエル  、日本布教の後、中国布教を目指すも、1552年に広州港外で死す。
リッチと徐光啓
 マテオ=リッチ  とe 徐光啓   
  •  マテオ=リッチ   17世紀始め北京で布教開始。中国名d 利瑪竇  
     → 士大夫層を通じ、天文・暦法・地理・数学・砲術など紹介。
     徐光啓  の協力で『f 坤輿万国全図  』を作成(1602年)。
     → 中国で最初に製作された世界地図。日本にも伝えられる。
  •  アダム=シャール  、e 徐光啓  の協力で、西洋暦法によって、
     『h 崇禎暦書  』を作成。 → 清の時憲暦、日本の貞享暦につながる。
    また、ユークリッドの幾何学を翻訳し 『i 幾何原本  』 を刊行。
※明代の文化の要点
  •  儒学では 朱子学の体制化に反発して陽明学がおこった。  
  •  文学では 口語体の通俗小説が流行し、元代に続いて庶民文化が栄えた。  
  •  美術では 郷紳などの富裕階級の文人画が隆盛した。  
  •  イエズス会宣教師によって西洋科学技術が伝えられた。  

解説

 キリスト教・カトリックの中国布教は16世紀のイエズス会宣教師の活動から本格化した。彼らは、仏教や道教は偶像崇拝であるとして否定したが、儒教についてはその「天帝」の概念をキリスト教の神の理念に近いところから全面的な批判をさけ、むしろ儒教的な儀礼や先祖崇拝を認めた。その結果、明の宮廷の徐光啓のような高官の中に信者も獲得した。しかし、同じ時期の日本での布教では数万単位の農民の入信があったが、中国では一般庶民にはなかなか浸透しなかった。中国のカトリック布教は、科学技術の紹介などと共に知識人の中に留まったのが特徴とうことができる。なお、イエズス会の儒教の伝統儀礼を認める布教姿勢は、後に中国布教を開始するフランチェスコ派などから批判されるようになり、清朝のもとで「典礼問題」が発生する。
先頭へ
用語リストへカ.16~17世紀の東アジアの状況 
■ポイント 明から清への交替は東アジア世界にどのような変化を及ぼしたか。
1.日本を中心として見た東アジアの状況
戦国時代  の終わり。
  • 1543年 a ポルトガル人  の種子島渡来。b 鉄砲  の伝来。
  • 1549年 c フランシスコ=ザビエル  の来日 キリスト教の伝来 。
  • 1557年 d マカオ  を拠点としたポルトガル人が、平戸、長崎に進出。e 南蛮貿易  が始まる。
  • 1571年 スペイン人 f マニラ  を拠点に、メキシコとの貿易を開始。
  •  鉄砲  の普及 →  織田信長 の統一事業進む。イエズス会などの宣教師によるキリスト教の布教が進む。
     ▲キリシタン大名によるローマ教皇への遣使( 天正遣欧使節 ) 1582年出発 1590年帰国。
豊臣秀吉  の統一。
  • 1587年 バテレン追放令 宣教師は追放されたが、貿易は活発に続けられる。
  •  豊臣秀吉の朝鮮侵略   1592~1598 朝鮮ではb 壬辰・丁酉倭乱  という。
     → 明の援軍とc 李舜臣  の水軍(d 亀甲船   )、義兵の活躍により撃退される。
     → 朝鮮は国土が荒廃し、明は国力衰える。豊臣政権も崩壊早まる。

解説

 豊臣秀吉は明を征服する意図を持ち、朝鮮にその先導を要求したが、拒否されたので出兵した。背景には、戦争によって家臣に領地を与え続けなければならない軍事的封建体制があった。しかし無謀な出兵は豊臣秀吉の死によって中止され、むしろ政権の崩壊を早めた。また朝鮮の国土、産業は荒廃し、この後の長い停滞が始まった。多大な援軍を出兵した明も国力を消耗し、滅亡を早めた。その一方で、豊臣軍として出兵した大名は多くの朝鮮人捕虜を連行して帰国し、彼らによって陶磁器や印刷技術、朱子学の学問など最新情報がが伝えられ、日本の文化に大きな刺激を与えた。

Text p.185

徳川家康  の統治 1603年、江戸幕府を開く。
  •  朱印船貿易  を促進 日本人の海外渡航の最盛期となり、東南アジア各地にb 日本町  が生まれる。
  • 1600年 オランダ船 リーフデ号が漂着 1609年 c オランダ  との交易始まる。
     イギリス  は1613年に平戸に商館を設ける。→ ポルトガル、スペインの排斥をはかる。
     ▲伊達政宗の 慶長遣欧使節  メキシコ、スペイン、ローマに派遣。1613年出発 1620年帰国、交易開始できず。
  • オランダ人 1624年 e 台湾  に進出 ▲f ゼーランディア城  を築く。
     → アジアの貿易をめぐり、中国人・日本人・ポルトガル人・オランダ人が争う。
  • 1623年 アンボイナ事件起こる。(9章2節) → d イギリス  の東アジアからの後退。
日本の鎖国  江戸幕府のキリスト教禁止と貿易統制を目的とした政策。
  •  キリスト教禁止令   1612 直轄領に発令、1613 全国へ発令。
  • 貿易の統制 1616年 中国船を除き、外国船の来航を平戸・長崎に限定。
     → 1623年 イギリス、平戸商館を閉鎖。1624年 スペイン船の来航禁止。
  • 鎖国の完成 1635年 日本人の海外渡航および帰国を全面禁止。 1637年 島原の乱、起こる。
     1639年 b ポルトガル  船の来航を禁止。
     1641年 c オランダ  の商館をd 長崎  の出島に移す。
・日本は19世紀前半までd 長崎  での中国(清)とオランダとの貿易のみとなる。

Text p.186

2.中国東北地方の変化
女真  ツングース系民族。女直ともいう。中国の東北地方で農牧・狩猟生活を営む。
  • 後に信仰する文殊菩薩から自らをa 満州  に改称、その地を満州(マンチュリア)というようになった。
  • 明の支配下にあり、薬用人参や毛皮の交易に従事。部族間の争いが激しくなる。
金  の建国  16世紀末 a ヌルハチ  が自立し、部族を統一。
  • 1616年 b アイシン  (c 後金  ともいう)を建国。 → 遼東平野に進出、明を圧迫。
  •  八旗  を編成。狩猟組織をもとにした女真の軍隊組織。
     → 所属する武人は旗人といわれて旗地を与えられ、支配階級を形成する。
  • モンゴル文字をもとにe 満州文字  を作る。清朝では漢字と併用される。

解説

 ヌルハチは、女真の中の建州女真に属し、姓はアイシンギョロ(愛新覚羅)。1583年に自立して次々と他の女真の部族を従え、1616年に自分の姓を国号としてアイシンを建国した。この国は、漢字ではかつての「金」に続く女真の建てた国なので「後金」と称した。ヌルハチは明軍を破って遼東半島に進出して瀋陽(奉天)を都とし盛京と名づけた。自身も山海関を越えて中国本土に侵入を試みたが、1626年、カトリック宣教師が製造した火砲によって武装した明軍との戦いで、砲弾に当たり負傷した。それがもとで同年死去した。
清  1636年 第二代a ホンタイジ   皇帝を称し、国号を改める(太宗)。
  • 内モンゴル( チャハル部 )、朝鮮を制圧し、長城以南に侵入、蒙古・漢人の八旗も組織。
     → 明軍を脅かす。明は軍事費増大のため重税を農民にかける。
3.明から清へ
明の衰退  16世紀後半 a 北虜南倭  に苦しむ。軍事費が増加、財政難に陥り、衰退を早めた。
  • 一方で、巨大な陵墓(明の十三陵)の造営を続け、財政難がさらに深刻化。
  • 1572年 b 張居正  の改革 皇帝c 万暦帝  の時の内閣大学士。一条鞭法の普及などをはかる。
     → 中央集権化と財政の再建を目指すが地方出身の官僚の反発を招き、失脚。
  •  東林派  と非東林派の党争が激しくなる。顧憲成らが無錫に再建した東林書院を中心とした官僚たち。
     → e 宦官  の横暴 → 社会不安高まり、各地に暴動起こる。
  • 1592~1598年 f 秀吉の朝鮮侵略   → 明は援軍を送り疲弊する。
明の滅亡 
  •  金  (後金)がたびたび長城を越えて侵入し、明を脅かす。
  • 明の重税と大飢饉を背景に、各地に農民反乱が起きる。
  • 1644年 b 李自成の乱  が起こる。反乱軍、北京を占領し、最後の皇帝崇禎帝が自殺し明が滅亡。
・清軍が長城内に入り、北京を占領し、遷都。清の中国全土支配が完成。(次節へ)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第7章 アジア諸地域の繁栄 1節 東アジア世界の動向

2017-07-25 | 生物暗記法

 

用語リストへ

Text p.178

ア.14世紀の東アジア

■ポイント 元から明への変化の意味を押さえ、当時の東アジアの状況を知る。

紅巾の乱  14世紀 世界的な災害、疫病の多発 → 東アジアでも飢饉続く
  • 1351年 仏教をもとにした宗教結社a 白蓮教徒  が反乱をおこす。▲韓山童、韓林児の親子が指導。
     = 弥勒仏がこの世に現れるという下生信仰と結びつき勢力を拡大。各地でも群雄が蜂起。
  •  朱元璋   貧農出身で反乱に加わり、次第に頭角を現す。 → 儒学の素養を持つ知識人=地主と結ぶ。
     → 長江下流を制圧し、1366年までに農民反乱を鎮圧。 → 北伐を行い、元軍を破る。

解説

 紅巾の乱はきわめて宗教色の強い白蓮教徒によって主導されたが、反乱には広い農民層の支持があった。朱元璋も貧農の出身でこの反乱に加わったが、白蓮教徒であったかどうかは判っていない。当初は韓山童に従っていたが、途中で韓山童の子の韓林児を殺害して反乱軍の主導権を握り、地主層や知識人と結んで反乱を鎮圧し、1368年に明を建国した。同じころの1370年、中央アジアではティムールが建国している。
明  の成立。

Text p.179

  • 1368年、a 南京  で即位、年号をb 洪武  と定める=c 一世一元の制  
    =d 洪武帝  (廟号はe 太祖  )の即位。→ 元はモンゴル高原に退き、f  北元  と称す。
  • 意義:g 漢民族の王朝を復活させ、江南から起こって中国を統一した最初の王朝となった。  
東アジアの情勢  14世紀後半。
  • 日本:1333年 鎌倉幕府が滅亡 → 後醍醐天皇の建武の新政 → 足利尊氏、室町幕府を開く。
    → a 南北朝の内乱  が続く。日本人のb 倭寇(前期倭寇)  の活動活発になる。
    1392年 c 南北朝の統一  がなる。  → 室町幕府の安定。
  • 高麗は親元派と反元派の対立し、 b 倭寇  の侵入にも苦しみ、衰退。
     1392年、d 李成桂  がb 倭寇  の鎮圧で名声を上げ、王位につく(太祖)。(後出)
     → 国号をe 朝鮮  、都をf 漢城  (現ソウル)とする。

解説

 李成桂の建てた国は「朝鮮」であり、王朝は「朝鮮王朝」である。「李朝」ということもある。にほんではかつて「李氏朝鮮」と言われたが、「朝鮮」と称する国はこの李成桂の建てた国だけなので、「李氏朝鮮」と言う必要は無い。現在の韓国でも「李氏朝鮮」という云い方はされない。
先頭へ
用語リストへイ.明初の政治

■ポイント 明王朝はどのようにして中国を支配したか。またその特質は何だったか。

洪武帝  の統治 (1368~1398)  漢民族の意識を高め、専制支配体制の強化をはかる。
    • 皇帝の独裁的権力確立 1380年 a 中書省  とその長官である丞相を廃止。
        → b 六部の皇帝直属   万事を皇帝が直接決定する態勢をつくる。
        中央官制、地方官制とも行政・軍事・監察の三権を互いに牽制させる。

Text p.180

    •  里甲制  :民戸(農民、商人など税を負担する戸)を里と甲に編成。
      110戸を1里とし富戸10戸をd 里長戸  、残りを10戸ずつ10甲に分け
      甲ごとにe 甲首戸  を置く。1年交替で徴税事務、治安維持などにある。
      長老をf 里老人  として裁判、民衆教化にあたらせる。
魚鱗図冊

 魚鱗図冊  

    • 税制:戸籍・租税台帳としてg 賦役黄冊  を10年ごとに作成。
         あわせて土地台帳としてh 魚鱗図冊  (右図)を作成。
    •  朱子学  を官学とし、j 『六諭』  を定め、里ごとにとなえさせる。

解説

 六諭(りくゆ)とは、洪武帝が里甲制の下での農村で、里老人を通じて農民に示した。「父母に孝順であれ」「長上を尊敬せよ」「郷里に和睦せよ」「子孫を教訓せよ」「おのおのの生業に安んぜよ」「非違をなすことなかれ」という、朱子学に基づく道徳観によって農民を権力に従順な存在に抑えつけようとしたもの。日本の江戸幕府でもさかんに農民に対して説諭された。
  •  科挙制  の整備。郷試→会試→殿試の三段階選抜。
  •  明律  ・m 明令  の制定。
  •  軍戸  を設け、o 衛所制  を編成。
     = 112人で百戸所、10百戸所で千戸所、5千戸所で1衛とする。
  •  海禁政策  をとり、貿易はq 朝貢貿易  のみを認める。
     → 周辺諸国の貿易船に勘合符を発行するr 勘合貿易  を始める。
  • ▲通貨:紙幣の他に銅銭の洪武通宝を発行。次の永楽通宝とともに日本にも輸出。
靖難の役  1399~1402年
  • 洪武帝、息子たちをモンゴルに備えて北方辺境に置く。 → 北平(現在の北京)の燕王朱棣が有力になる。
  • 第2代a 建文帝  、諸王の勢力削減をはかる。
  • 1399年、燕王が挙兵、南京を占領。「君側の奸を除き、帝室の難を靖んじる」と称した。

解説

 建文帝は洪武帝の孫、燕王朱棣(しゅてい)はその伯父という関係。朱棣は若いときから父に従って戦場で活躍し、優れた軍事的才能を持っていたが、兄の子の建文帝が帝位を継いだため、不満を抱いた。朱棣は建文帝が伯父たちの力をそごうとしたことに反発して挙兵したが、大義名分がないので、「君側の奸を除く」つまり皇帝の政治と誤らせている側近を排除することをその口実とした。そこでこの戦いを朱棣側から見て、「靖難の役」という。追い詰められた建文帝は南京で殺害され、朱棣が永楽帝として即位すると、建文帝の存在を否定し、自らを第二代皇帝とした。建文帝が皇帝であったことが認められるのは後のことであった。
永楽帝  の政治  1402年、明の第3代皇帝(a 成祖  )として即位。
  • 1421年 b 北京  に遷都。 c 紫禁城  を造営。
  • 親政を補佐する▲d 内閣大学士  を置く(内閣の始まり)。一方でe 宦官  を重用。
  • 科挙の基準として、『 f 四書大全   』『g  五経大全   』を編纂。 → 朱子学道徳の重視。
  • 『h 永楽大典  』の編纂 = 古今の図書を集め、分類整理した大百科事典として刊行。
  • 経済:江南と北京を結ぶ運河を整備。 永楽通宝を発行。
  • 対外:積極策を展開、i モンゴル  に親征、j ベトナム  に遠征軍を送り、支配。
       k 鄭和  を南海遠征に派遣。朝貢貿易の拡大を図る。(下掲)
 明の転換  C 永楽帝   ユーラシア西部のa ティムール帝国  の進出に対抗して出陣。
  • 1424年 モンゴル遠征の途中で死去。以後各皇帝、北京北西に陵墓建設( 明の十三陵 )
    その死後、明は対外消極策に変わる。 → 内モンゴルから後退、ヴェトナム(大越国)の独立。

明の支配領域とその周辺 15世紀はじめのアジア

明の支配領域とその周辺

  重要地
  1. 南京 
  2. 北京 
  3. カラコルム 
  4. 漢城 
  5.<em "=""> 土木の変 
  周辺諸地域
  a. 韃靼(タタール) 
  b. 瓦刺(オイラト) 
  c. ティムール朝 
  d. チベット 
  e. ベトナム(大越国) 
  f. アユタヤ朝(タイ) 
  g. 女真 
  h. 朝鮮(李朝) 
  i. 室町幕府 
  j. 琉球王国 

 鄭和の南海遠征   イスラーム教徒で宦官といわれる。1405年~1433年の間、7回の大航海を行う。
    • 第1回 南京 → チャンパー → ジャワ島 → スマトラ島 → セイロン島 → b カリカット  到達
    • 第4回 c ホルムズ  をへてアフリカ東岸に到達しd モガディシュ  、e マリンディ  などを訪問
    • 第7回 分遣隊をf メッカ  に派遣、各地の王に朝貢を促し、ムスリム商人と交易を行う。
        → 帰国後、明の外交政策はg 海禁政策  の強化に転じこの事業は忘れられる。

解説

 永楽帝が鄭和を南海に派遣し、大航海を7度にわたって行わせたのは、軍事的な目的ではなく、多くの国に朝貢をうながすことが目的であった。その背景には、宋代・元代と続いた広域経済圏の存在がある。鄭和が常に2万人を超える乗組員を従えた大艦隊を率いて南シナ海からインド洋にかけて大航海を行ったことは、それから約90年後の1498年にヨーロッパ人で初めてインド洋を航行してカリカットに到達したポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマ船団がわずか60人の乗組員しかいなかったことと比べ、当時の中国の文明がヨーロッパより優位に立っていたことを示している。
 しかし、鄭和の大航海は、ヨーロッパの大航海時代のようなインパクトを世界に与えることはなく、ほぼ永楽帝一代の事業として終わり、その後の明は再び海禁政策に戻ってしまう。
先頭へ
用語リストへウ.明朝の朝貢世界 
■ポイント 14~15世紀の明朝を中心に行われた朝貢貿易の広がりを知る。
マラッカからのキリン

マラッカから朝貢されたキリン

琉球王国  現在の沖縄
  • 1429年a 中山王(尚巴志)  によって統一される。
  • 明との朝貢貿易 → b 東シナ海と南シナ海を結ぶ交易の要となり栄える。  
マラッカ王国  14世紀末、マレー半島の南西部に成立。(現在のマレーシア)
  •  鄭和  の遠征を機に成長、インド洋と東南アジアを中継し栄える。
  • 15世紀半ばに東南アジアで最初に本格的にb イスラーム化  。(4章3節)
     → ジャワのマジャパヒト王国に代わり東南アジア最大の貿易拠点となる。
朝鮮王朝  一般にa 李朝  という。
    • 明に朝貢し、b 科挙  の整備、c 朱子学  の導入を図る。儒教が広く浸透する。
    • ▲科田法 を制定し大土地所有を制限。全国の土地調査を実施。荘園を没収。

Text p.181

  • 15世紀前半 d 世宗  の時代 に最も安定する。
     金属活字  による出版、f 訓民正音(ハングル)  の制定など。

解説

 独自の文字を持たず、漢字を使用していた朝鮮で、世宗は朝鮮語を書き表すことができ知識階級である両班だけではなく、一般庶民も用いることのできる簡便な文字を創案しようとした。世宗は学者を集め、自身も参画してその作成に当たり、1446年に「訓民正音」として公布した。この文字は母音11字、子音17字のあわせて28字(現在は24字)を組み合わせてあらわされる表音文字で、漢字を変形させたものではない、独自の工夫がなされている優れた文字であるが、当初は両班は依然として漢字・漢文を用い、訓民正音は女子が用いることが多かった。19世紀に民族意識が高まると共に、「偉大な文字」の意味のあるハングルと言われるようになり、広く普及した。 
日本  a 室町幕府  の将軍b 足利義満  、1401年に明に朝貢し、日本国王に封ぜられる。
  • 1404年 c 日明貿易  を開始。d 勘合貿易  の形態をとる。e 倭寇  は禁圧される。
  • 並行して朝鮮との貿易( 日朝貿易 )も行われる。
ベトナム(大越国)  1400年に胡朝が成立。1406年 a 永楽帝  の遠征軍に征服される。
  • 1418年 黎利が明軍を撃退し、大越国の独立を回復し、b 黎朝  を樹立。
     → その後は朝貢を続け、明朝の制度を学び、朱子学が盛んになる。
モンゴル  1388年 北元、滅亡。東部のa タタール  と西部のb オイラト  に分かれる。
  • 諸部族が朝貢制度に不満をもち、しばしば中国に侵入。
  • 15世紀中ごろb オイラト  がc エセン=ハン  のもとで強大となる。
  • 1449年 d 土木の変   河北省の土木堡で明の 正統帝 を捕らえ、さらに北京を包囲。
     → 明、e 万里の長城  を修復してモンゴルの侵入に備える。
先頭へ
用語リストへエ.朝貢体制の動揺 
■ポイント 16世紀、アジアの明を中心とした朝貢世界はどのように変質したか。その背景は何か。

Text p.182

大航海時代の影響  (第8章1節を参照)
  • 1492年 コロンブスの新大陸到達、1498年 ヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到達。
  •  ポルトガル  のアジア進出始まる。1511年 b マラッカ王国  (イスラーム教国)を占領。
     → 東南アジアのc 香辛料  の輸出が増大 → 西欧諸国間の抗争・アジアの交易国家間の抗争が激化。
  • スマトラのd アチェ王国  、ビルマのe タゥングー朝  などが明から離れて勢力拡大。
  • ▲ジャワのf マタラム王国  とバンテン王国 、タイ(g シャム  )のh アユタヤ朝  などが自立。
北虜南倭  16世紀の国際商業の繁栄 → 明の経済統制を打破しようとする動き強まる。
  • 意味:a 北方からのモンゴル人の侵攻と海岸での倭寇の被害が増大し明が苦慮したこと   
  • 北方:タタール部のダヤン=ハン 、モンゴルを再統一。
     → 次のb アルタン=ハン   1550年 長城を越え、北京を包囲する。さらにチベットを征服。
     → 中国人も長城の外に逃れ住み、中国風の城郭都市を造るようになる。例、フフホト。
  • 南方:東南海岸でのc 倭寇(後期倭寇)  の活発化。中国人中心の編成となり、密貿易と略奪を行う。
    背景 室町幕府の弱体化。応仁の乱(1467~77年)以降、d 戦国時代  に入る。→ 勘合貿易の衰退。
     → 五島列島を拠点としたe 王直  が活躍。その船でポルトガル人が日本にf 鉄砲  を伝える。
銀  の流入。
  • 明、貿易の統制がゆるむ。 → モンゴルと講和して交易場を設け、さらにa 海禁  を緩和。
     → 明代の生産力の増加(次項)→ 海外貿易の増大 → 通貨の不足 → C 銀  の需要増加。
  • 15世紀以降 石見銀山などのb 日本銀  が丁銀(ちょうぎん)の形で大量に輸入される。
  • 1557年 ポルトガルがc マカオ  を居留地とする。
  • 1571年 スペインがd マニラ  を拠点に中国貿易に進出。 → 太平洋をまたいだガレオン貿易を開始。
  • 16世紀後半 スペイン植民地、メキシコやポトシ銀山のC 銀  がe スペイン銀貨  として流入。
  •  中国商人  が、東南アジア各地に進出。
  • 意義:g 16世紀にヨーロッパ・アジア・アメリカ新大陸をむすぶ交易網が形成され世界の一体化が始まった。  
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第6章 内陸アジア世界・東アジア世界の展開 3節 モンゴルの大帝国

2017-07-25 | 生物暗記法

 

用語リストへ

Text p.165

ア.モンゴル帝国の形成

■ポイント モンゴルの大帝国はどのように形成されたか。どのような世界史的意義をもっていたか。

モンゴル高原  の情勢。
    • トルコ系やモンゴル系のa 遊牧騎馬民族  が多くの部族に分かれて活動。
チンギス=ハン

B チンギス=ハン  

  • 9世紀中頃 b ウイグル  の滅亡 → c 遼(契丹)  の支配を受ける。
  • 12世紀初め c 遼  の滅亡 → モンゴル高原の遊牧諸部族の統合進む。
チンギス=ハン  初名a テムジン  、モンゴル部族の中で勢力を伸ばす。
  • ▲1203年 東部のケレイト 、1204年 西南部のナイマン部族を征服。
  • 1206年 b クリルタイ  を開催し、c ハン  の位につく。d 成吉思汗   。
    b=各部族の有力者が集まる集会。c ハン  の選出、遠征の可否などを決める。
    c=遊牧民世界の君主の称号。e 可汗  。柔然、突厥、ウイグルなども使用。
  • モンゴル系・トルコ系の諸部族を統一し、f 大モンゴル国  を形成。
  • 全遊牧民をg 千戸制  に編成。= 1000戸単位の軍事・行政組織。
     ▲この国家を、モンゴル語ではc ウルス  といった。また彼が定めた法令は「 ヤサ 」といわれた。

解説

 ウルスとはモンゴル語で「国家」を意味する語。モンゴル帝国はモンゴル時代には「大モンゴル=ウルス」、元は「大元ウルス」といわれ、いわゆるハン国も当時はそれぞれ「ウルス」とされていた。領土と国民が明確な現在の国家と床なり、「人間集団」としての要素が大きく、移動性も強い。モンゴル帝国はそのようなウルスの連合体という性格を基本としていた。最近では高校の世界史でもモンゴル国家を「ウルス」として説明することが多い。

Text p.166

チンギス=ハンの征服活動  騎馬軍を率い、草原・オアシス地帯を征服。
  • 1211年 東トルキスタンのa ナイマン  (西遼に代わって東トルキスタンを支配)の残存勢力を滅ぼす。
  • 1221年 西トルキスタンのb ホラズム=シャー  (トルコ系のイスラム国家)を滅ぼす。
    → 西北インド、インダス河流城(奴隷王朝の支配下にあった)に進出。
  • 1227年 黄河上流のc 西夏  を滅ぼす。 → さらに中央アジアから北西インドに支配を広げる。
オゴダイ  の征服活動 1229年 第2代目 a オゴタイ  が即位(太宗)。
  • 1234年 b 金  を滅ぼし、中国の北半分(華北)を支配。都をc カラコルム  に定める。
  • 1236~42年 d バトゥ  のヨーロッパ遠征。ロシア・ハンガリーに侵入、1240年 キエフ公国を滅ぼす。
  • 1241年 e ワールシュタットの戦い  、ポーランド・ドイツの連合軍と戦い勝利する。
     → ヨーロッパのキリスト教世界に大きな脅威を与える。(第5章2節)
  • 1242年 オゴタイ=ハンの死去により、モンゴル軍引き上げる。バトゥはキプチャク=ハン国を樹立。
南・西アジアの征服  1251年 第4代ハン ▲a モンケ=ハン  即位。
  •  フビライ  を中国南に派遣。1254年 チベット・雲南(▲c 大理国  )を征服。
  •  フラグ  を西アジアに派遣。1258年 e バグダード  を攻撃、f アッバース朝  を滅ぼす。
     → エジプト征服をめざすも、1260年にg マムルーク朝  に敗れ、阻止される(第4章2節)。
ハン国の分離  広大な大領土をチンギス=ハンの子孫たちで分割支配するようになる。
  • 13世紀中頃から、モンゴル高原の本家を宗主国として3つのハン国がそれぞれ地方政権を樹立。
     イル=ハン国  :フラグが1258年に建国。イラン・イラク方面を支配。都タブリーズ。(フラグ=ウルス)
     キプチャク=ハン国  :バトゥが1243年に建国。南ロシアを支配。都サライ。(ジュチ=ウルス)
     チャガタイ=ハン国  :1227年頃、中央アジアに自立。都アルマリク。(チャガタイ=ウルス)

解説

 3つのハン国は分離独立したのではなく、あくまで本家(大元ウルス)を宗主とするモンゴル帝国の一部である。かつてはこのほかにオゴタイ=ハン国があったとされていたが、現在はその実態は早く消滅したので、4ハン国とは言わない。なお、正確にはイル=ハン国はフラグ=ウルス、キプチャク=ハン国はジュチ=ウルス、チャガタイ=ハン国はチャガタイ=ウルスというべきである。

Text p.167

フビライ  1260年 宗家のa 大ハン  となる。 → 相続争い起こる。
  • ▲同年、弟アリクブケがカラコルムで即位。 → 1264年、A フビライ  が勝利する。
  • 1266年 b ハイドゥの乱   。オゴタイ=ハンの孫が反乱。 → 1301年、鎮圧される。
  • それぞれのハン国は独立した地方政権となったが、商人などは自由に往来し、東西交易が活発に行われた。
・意義 d ユーラシアの大半をおおう大帝国の成立によって東西の交易と交流が盛んになった。  
先頭へ

モンゴル帝国の最大領域

モンゴル帝国
 元  B チャガタイ=ハン国   C キプチャク=ハン国   D イル=ハン国 
 ケレイト  2 ナイマン  3 西夏  4 金  5 南宋  6 大理  7 パガン朝  8 西ウイグル 
 西遼  10 ホラズム  11 アッバース朝  12 ルーム=セルジューク朝  13 キエフ公国 
 カラコルム  b 上都  c 大都  d アルマリク  e サライ  f<em "=""> タブリーズ 
 ワールシュタットの戦い  h アインジャールートの戦い  i 厓山の戦い  j 元寇(文永・弘安の役) 
先頭へ
用語リストへイ.元の東アジア支配

■ポイント モンゴル人がどのように中国全土を支配したか。周辺にはどのような影響を及ぼしたか。

フビライ  の統治 支配の重心を東方に移す。
    • 1264年 都をカラコルムから上都(開平府)と中都(燕京)に移す。(両京制)
      1267年 中都を廃してa 大都  を建設し遷都する。(現在の北京)
    • 1271年 国号を中国風に、b 元  とする。(年号は1260年に中統、64年に至元を用いる。)
    • 1276年 臨安を占領し、c 南宋  を滅ぼす。▲イラン人の製造した回回砲を使い、襄陽を攻略した。
    • 1279年 南宋の残存勢力を▲ 厓山の戦い で破る。

  •  モンゴル高原と中国全土を併せた大帝国を支配。  → ▲この国家をe 大元ウルス  と称した。
     = 西方のハン国は、元を宗主国として従属した。ハン国の版図も含めば、世界史上の最大領域となる。
周辺への遠征軍の派遣  アジア諸地域に大きな変動をもたらす。(4章3節で既述)
  •  チベット  (吐蕃)を征服。 → チベット仏教を保護。(後出)
  •  高麗   1259年に属国とする。▲1270~73年 c 三別抄の乱  で抵抗を続ける。
  •  日本遠征  :1274年・1281年 ▲e 元寇(文永・弘安の役)  高麗、旧南宋の兵士を動員。
  •  ベトナム  :g 陳朝  が3度にわたって元軍を撃退。
  •  ビルマ  :1287年、i パガン朝  が滅亡。
     → 雲南地方からj タイ  人がインドシナ半島に南下、k スコータイ朝  を建国。
  •  ジャワ  :モンゴルの侵攻を撃退後、m マジャパヒト王国  が興隆。本格的イスラーム化も始まる。
元の全盛期  13世紀後半~14世紀初頭
    •  モンゴル人至上主義  :モンゴル人を最上位に置く社会・政治上の階層制度。
      1.  モンゴル人  :官僚として中央政府の首脳部を独占した。
      2.  色目人  :d 中央アジア・西アジア出身の人々。  (トルコ・イラン・アラビア人など)
        → 貿易・商業に従事し、財務官僚として重用された。
      3.  漢人  :f 金の支配下にあた華北の漢人および、契丹人、女真人なども含まれた。  
      4.  南人  :h 南宋の支配下にあった江南の漢人。   官吏になれない。
牌符

モンゴル帝国の牌符
左はウイグル文字、右は漢字

  •  科挙  はいったん廃止され、1313年に復活。
  • ▲中央:中書省 (行政)、枢密院(軍事)、御史台(監察)をおいた。
  • ▲地方:行省( 行中書省 )が路を管理。
    征服地には▲j ダルガチ  を置き戸口調査、徴税、駅伝業務などを管轄。

Text p.168

交通・交易の発達  モンゴル帝国の広域的交易網が発達。
    •  駅伝制  の施行:大都を中心に道路網を建設、幹線道路に駅を設ける。
      通行証として牌符(パイザ)を発行。駅には周辺住民から馬・食料を提供させる。
    • モンゴル語ではb ジャムチ  という。
       → c ムスリム商人  の隊商貿易がアジアとヨーロッパを結ぶ。
交鈔
 交鈔  .
  • 海上貿易 d 杭州  ・e 泉州  ・f 広州  などの港市が繁栄。
  •  大運河  の改修と新設 → 生産の豊かな江南地方と消費地の大都を結ぶ。
  • 長江下流から山東半島を廻って大都に到る、海運も発達。
経済の発展 
    • 貨幣 銅銭は発行せず、宋銭をそのまま流通させ、金・銀も用いた。
    • 紙幣としてa 交鈔  が発行される。輸送に便利で主要通貨とされる。
    •  → b
 不用となった銅銭(宋銭)は日本に輸出され、主要通貨となった。  
  • 宋と同じくc 大土地所有  が続き、地主が佃戸を使って経営した。
元代の文化  都市の庶民文化が発達。戯曲(a 元曲  )が流行。
  • その例 b 『西廂記』  、c 『琵琶記』  、『漢宮秋』など。 ▲書ではd 趙孟頫  などが活躍。
  • ▲e 陶磁器   宋磁の技法に加え、f 染付  が生まれる。景徳鎮を中心に明代に発展。

解説

染付 宋の青磁・白磁は模様を描くことができなかったが、元の後半になって、西方のイル=ハン国からコバルト顔料による彩色の技術が伝えられ、白磁の上に鮮やかな青色(藍色)で模様を描くことが可能になった。それを日本では「染付」(または呉須)と言っている。中国では文字通り青花という。染め付けは宋代に始まっているとも言われるが、本格化したのは元代であり、さらに次の明代には景徳鎮を中心に発達し、中国の代表的な輸出品となる。オスマン帝国の都イスタンブルのトプカピ宮殿には染付の一大コレクションがある。 
先頭へ
用語リストへウ.モンゴル時代の東西交流 
■ポイント モンゴル帝国時代に活発となった東西交流の実態を理解する。
ヨーロッパ人の来訪  モンゴル帝国の成立 → 交通路の整備
  • 西ヨーロッパのモンゴルに対する関心の背景
     十字軍運動  を展開中であり、イスラーム勢力の背後の勢力と結ぼうとした。
  • ローマ教皇、b プラノ=カルピニ  を派遣(1245~47年)。カラコルムに到達。
  • フランス王c ルイ9世  、d  ルブルック  を派遣(1253~55年)。カラコルムに到達。
  •  マルコ=ポーロ  の活躍(1271~95年)。ヴェネツィア商人。大都でf フビライ  に仕える。
     帰国後、g 『世界の記述』(『東方見聞録』)  を著す。→ 日本を初めて西欧に紹介。

東西文化の交流 

  •  イスラーム教  の広がり キプチャク=ハン国、イル=ハン国が保護。色目人にも信者が多い。
  • 1280年 元 b 郭守敬  、イスラーム暦をもとにc 授時暦  をつくる。
     → 江戸時代の貞享暦となる。
  •  ミニアチュール(細密画)  、中国の絵画がイル=ハン国に伝えられて発達。(4章4節)
  • イル=ハン国 ラシッド=ウッディーン、モンゴル帝国から見た世界史e 『集史』  を著す。(4章2節)

Text p.169

キリスト教の布教  イル=ハン国がa ネストリウス派  のキリスト教を保護。

  • 1294年、ローマ教皇がb モンテ=コルヴィノ  を大都に派遣。
     = 大司教としてカトリックの布教を始める。 → 十字教と言われる。

D モンゴルの言語と文字

  • 漢語・チベット語・トルコ語・ペルシア語・ロシア語・ラテン語など多様な言語が使用された。
  • 公用語にはモンゴル語、公文書にはa パスパ文字  を用いる。

    解説

    パスパ文字 パスパはチベット仏教のサキャ派第5代座主で、フビライ=ハンに仕えその国師となった。フビライ=ハンはパスパに命じて、元朝内の様々な言語を表記するための文字を作らせた。パスパはチベット文字をもとに41のもとになる文字を定めた。しかしパスパ文字は民衆には普及せず、宮廷の公用文書に使われ、元の滅亡後は、ウイグル文字が使われるようになった。 
    = フビライの師であった、b チベット仏教  の教主c パスパ  が作った文字。
    → 宮廷の一部での使用に留まり、次第にモンゴル語はd ウイグル文字  で表記されるようになった。
先頭へ
用語リストへエ.モンゴル帝国の解体 
■ポイント モンゴル帝国は、どのように解体したか。その要因は何であったか。
モンゴル帝国の衰退  14世紀 モンゴル帝国の各ハン国で内紛が生じる。
  • チャガタイ=ハン国の分裂 → a ティムール  が台頭、イル=ハン国まであわせて支配。(7章3節)
  • キプチャク=ハン国の弱体化 → b モスクワ大公国  が次第に自立する。(5章2節)

元の衰退 

  • 放漫な財政 ▲a チベット仏教  の保護 → 寺院の建設 → 財政難が強まる。
  •  交鈔(紙幣)  の濫発による物価騰貴、さらに専売制の強化が民衆生活を圧迫し、社会不安広まる。
  • 1351~66年 c 紅巾の乱   起こる。宗教結社である白蓮教徒の起こした反乱。(7章1節)
    → 1368年 江南から北上したd 明  の軍隊により、大都を奪われ、元は滅亡した。
    → モンゴル人はモンゴル高原に退き、e 北元  として存続。
先頭へ

Text p.170

 

用語リストへ第Ⅱ部のまとめ
■ポイント 9世紀以降のヨーロッパ、西アジア、東アジアとその周辺を結ぶ交流の実態を知る。

A ヨーロッパ・地中海・イスラーム世界の交流

  •  イスラーム教  の地中海進出 → 地中海世界の統一は失われる。
     → 11世紀 都市の勃興と十字軍運動
  • ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどイタリア諸都市にもたらされた新たな商品。
     エジプトのb 小麦・砂糖  、インド・東南アジアのc 香辛料・香料  
     中国のd 絹織物・陶磁器  など。
  • アラビア語の著作がラテン語に翻訳され、ヨーロッパ近代科学の成立に影響。
ダウ船

 ダウ船 の生活

Text p.171

B イスラーム・アフリカ・インド洋世界の交流

    • ムスリム商人の内陸アフリカ進出。a 岩塩  とb 金・奴隷  との交易。
    • 10世紀以降、東アフリカ海岸にムスリム商人が住み着きインド洋貿易に活動。
    • 12~15世紀 c カーリミー商人  の活動。
      香辛料・絹織物・陶磁器などをイタリア商人がヨーロッパにもたらす。

Text p.172

  • ムスリム商人 d ダウ船  を用い、インド洋交易圏で活躍。
     → 東南アジア・中国にも向かう。 東南アジアにイスラーム化進む。

C 東アジア・東南アジアの海域世界の交流

ジャンク船

 ジャンク船 

    • 10世紀以降の中国の経済発展 → 宋・元にa 海の道  による交易が発展。
    • 中国商人 b ジャンク船  によって東南アジア海域からインド洋に進出。
    •  駅伝制(ジャムチ)  の整備、d 交鈔  の発行による経済の発展。

Text p.173

  • 東西の交流の活発化
     e マルコ=ポーロ  の著作f 『世界の記述』  
     g イブン=バットゥータ  のh 『三大陸周遊記』  など
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1867(慶応3)年 〈大政奉還〉★★★

2017-07-24 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(孝明天皇 徳川慶喜)

Tokugawa Yoshinobu returns political rule to the emperor.

ベック式!ゴロ合わせ
 いや虚(むな)しいよ 返したい。
 1867年 山内豊信  徳川慶喜      大政奉還

1867年、15代将軍に就任した徳川慶喜は、フランスの協力で幕政改革を断行したが、崩れゆく幕政の立て直しは不可能であった。

薩長連合(1866年)の成立以後、倒幕の機運が高まる中、これを回避するため、土佐藩では先手を打って幕府に政権の返上をさせようとする意見が強まり、前藩主山内豊信(容堂)は藩士後藤象二郎を通じて政権の返還を行うよう慶喜に勧めた。

慶喜はこの提案を受け入れ、、薩長両藩への討幕の密勅降下と同じ10月14日政権返上を朝廷に上奏、翌日許された。

これは雄藩連合政権下での徳川氏の存続(首相慶喜の実現)や土佐藩の発言権増大を狙ったものであったが、その試みは武力討幕の方針を堅持する薩長派による王政復古・戊辰戦争で遮られた。

同年(1867年)の出来事

 アメリカ、ロシアからアラスカを買収。

無な評価ええ 討幕大勢 王小言。急死ローな急死が/ええ討幕達成王政会議

(1867兵庫開港ええじゃないか・討幕の密勅・大政奉還(たいせいほうかん))(王政復古の大号令・小御所(こごしょ)会議


[句意]ハロー!な天皇急死が良(え)え討幕を達成し、(これからの)王政(をどうするかの)会議だ、という句。


[point]

1.1867年は、孝明天皇急死ええじゃないか討幕の密勅大政奉還王政復古の大号令小御所会議と続いた。

[解説]

1.1867年1月30日(慶応2年12月25日)、討幕に消極的だった孝明天皇が急死(岩倉具視による毒殺説あり)。同年2月13日(慶応3年1月9日)、満14歳で明治天皇が即位。

2.7月、ええじゃないかの大衆乱舞発生。三河で空から伊勢神宮の札が降ってきたという噂がきっかけで、「ええじゃないか」とはやしながら踊り歩く集団乱舞が発生、全国に広がった。周期的に起こった伊勢神宮への大規模な集団参詣である御蔭参り(おかげまいり)の変形と見られる。物価高騰にあえいでいた民衆は世直しの新政を待望していた。


3.10月14日に、薩長討幕の密勅(岩倉具視らによる偽勅説あり)が出た日、幕府は大政奉還を申し出た。将軍慶喜による政権の返上のこと。坂本龍馬から後藤象二郎が受けた船中八策(公議政体論)を前土佐藩主山内豊信(やまのうちとよしげ)(容堂)が慶喜に建白したものとされる。慶喜は幕府に限界が来たと判断、10月14日にこれを受け入れて上表したもの。


4.12月9日、武力討幕派は事態打開(幕府は大政奉還と言ったがいつ返すとは言ってない)をねらい、王政復古の大号令を宣言。これは薩長の武力討幕派が計画し、発表された政体変革の命令書。摂関・幕府の廃絶、三職総裁議定参与)の設置、古代の神武創業への復帰など、天皇中心の新政府樹立を宣言した。


5.9日夜、小御所会議。京都御所内の小御所で、総裁・議定・参与などにより開催された会議。公議政体派(徳川氏議長の朝廷と徳川氏、雄藩藩主による合議政治をめざす)を退け、徳川慶喜の内大臣辞任と領地の一部返納(辞官納地)を決定した。慶喜の身分は臣下で最高位の内大臣かつ領地財力等最大だった。

 

2017関西大・全学部2/8:「
(B)「癸丑(きちゅう)以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟(しんきん)ヲ悩マセラレ候御次第、衆庶ノ知ル所ニ候」とは、王政復古の大号令の一節である。文中の「先帝」は、
【(ア)孝明(イ)仁孝(ウ)明治】天皇を指している。」

(答:ア)〉)


2016関西大学・全学部

 恰(あたか)モ此(この)時ニ当リ京師ニ一大怪事アリ。空中ヨリ(7)神符(しんぷ)翩々(へんぺん)ト飛ビ降リ処々ノ人家ニ落ツ。其神符ノ降リタル人家ハ壇ヲ設ケテ之ヲ祭リ、酒殽(さかな)ヲ壇前ニ陳(つ)ラヌ。知ルト知ラザルトヲ問ハズ其人家ニ至ル者ノ酔飽(すいほう)ニ任(ま)カス。之ヲ祝シテ吉祥ト為ス。都下ノ士女ハ老少ノ別ナク綺羅(きら)ヲ衣(き)テ男ハ女装シ、女ハ男装ス。群ヲ成シ隊ヲ作ス。悉(ことごと)ク俚歌(りか)ヲ唱ヒ太鼓ヲ撾(う)チ以テ節奏ヲナス。(中略)八月下旬ニ始マリ(8)十二月九日王政復古発令ノ時ニ至テ止ム。

 

問13 下線部7の「神符」は、江戸時代に御蔭参りと称して民衆が集団で参詣した神社のお札が中心であった。その神社は次のうちどれか。

 ア伊勢神宮 イ石清水八幡宮
 ウ金毘羅宮


問14 下線部8は、江戸幕府を倒し、政権を朝廷に移したクーデターのことであり、天皇中心の新政府樹立を宣言した。この日の夜、徳川慶喜の辞官と納地を決定した会議は次のうちどれか。


 ア大阪会議 イ.小御所会議
 ウ四侯会議


問15 この史料は、討幕派と結び王政復古のクーデターを企てた公家であり、幕末・明治期の政治家であった人物の伝記に収録されている。その政治家は次の誰か。


 ア岩倉具視 イ中山忠光 ウ三条実美」


(答:問13ア、問14イ、問15ア)


2016早大・文

 1867年、e将軍が天皇に大政奉還を行った。その後、明治政府は1869年の版籍奉還により、土地・人民の支配権を大名から天皇に返納させた。

問8 下線eについて、将軍に政権の奉還を建白した人物は誰か。1つ選べ。


 ア 島津久光 イ 山内豊信

 ウ 徳川斉昭 エ 井伊直弼 
 オ 阿部正弘」

(答:イ)〉


2016慶大・文

Ⅲ 次の文章の空欄(A~B)に該当する適当な語句を記入しなさい。
 幕末維新期には、社会不安や生活苦を背景に、( A )の実現を求める( A )一揆や打ちこわしが頻発した。例えば、1866年に武州一揆が発生している。また、1867年には( B )という乱舞が発生し、幕府支配を混乱におとしいれた。」

(答:A世直し、Bええじゃないか)〉


2016立教大・文

 さくがわずか21歳で死去した後の西谷家では、その母へいが「家」を支えたが、へいは宗教に救いを求めることがあった。この時期にはいくつもの民衆宗教が起こり、人々の心をとらえたが、その1つに( ハ )の創始した天理教がある。1867年には、御蔭参りで知られる( ニ )神宮のお札が降ったということで、翌年にかけて民衆の「ええじゃないか」の乱舞が起こった。へいの書き残したものによれば、この時西谷家にもお札が降ったとされている。」

(答:ハ.中山みき、ニ伊勢)〉


2016明大・情報:「

問1 下線部(ア)1868年に江戸が東京と改称と同じ年の事柄として、もっとも正しいものを、1~4から1つ選べ。

 1.五箇条の誓文 2.薩長連合

 3.小御所会議  4.大政奉還」

(答:1)〉


2015関西大・全学部

(A)1866年に同盟を結んだ薩長両藩は、翌年武力倒幕を決意した。これに対し、土佐藩はあくまで公武合体の立場をとった。前土佐藩主【(ア)後藤象二郎(イ)松平慶永(ウ)山内豊信】は大政奉還を徳川慶喜に建白した。慶喜は、1867年10月14日に大政奉還の上表を朝廷に提出した。」

(答:ウ)〉


2013立命館・文法済営などA方式

問l 史料に見られる「抜参り」の様態は、1867年秋から冬にかけて、南関東から中国・四国地方に広がった民衆の狂乱にも影響を与えたといわれている。この民衆の狂乱を何というか。平仮名7文字で答えよ。」

(答:ええじゃないか)〉


2013上智大・法総合神外:「

 結局、それまでは敵対していた薩摩藩と長州藩は、土佐藩出身の( キ )の斡旋もあって、同盟関係に入り・倒幕に傾いていった。また、朝廷においても、公武合体の立場から倒幕に関連していた( ク )が急死し、倒幕勢力が台頭するに至った。
 それでも、第( ケ )代将軍の徳川慶喜は、幕府の建直しを図ったものの、結局は政権を天皇に返して新政権において生き残るべく、大政奉還を行った。しかし、倒幕派は新政権を樹立したのち、幕府の返上や将軍職の辞退などを承認して、天皇のもとに(d)三職を設けて、そのなかに雄藩の藩士などを加えた。

問4 下線部(d)のなかに含まれる職はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選  びなさい。

 1参与 2議長 3参議
 4徴士 5総理」

(答:キ坂本龍馬、ク孝明天皇、ケ15、問4→1※三職は総裁・議定・参与)〉


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★改税約書 かいぜいやくしょ

2017-07-23 | ベック式!日本史用語集

  下関戦争の償金減免と引換えに、1866(慶応2)年6月、幕府と英・米・仏・蘭4国代表との間に結ばれた協約。江戸協約とも呼ばれる。

その内容は輸入品価格の35%ないし5%をかける従価税方式であった関税が、4年間の物価平均で定まる原価の一律5%を基準とする従量税(商品の一定量を基準として課税)に改められた。

しかし、本質的な解決にはほど遠く、これにより国内の物価上昇に即応しない安価な外国商品が大量に流入することとなり、1867年には輸入超過となった。

この改正は明治政府の懸案となり、1894(明治27)年、条約改正交渉により廃棄に成功した。


ムム解約二重課税50両


(1966)(改税約書)(20%・従価税)(%・従量税)


[ポイント]

1.改税約書1866)では、平均20%の従価税を諸外国に有利な一律5%の従量税に改めた。

[解説]
1.協定関税の改訂版のこと。兵庫開港延期の代償として、4国との間で結んだ関税協定。

2.安政の五カ国条約では平均20%の関税率で、従価税であった。この関税率の引き下げを英・仏などが要求。

3.その結果、輸出入品ともに日本に不利な5%で、しかも課税額が少なくなる従量税とされた。この結果、これ以降輸出超過から一転して輸入超過となった。


2017関西大・全学部2/8:「

(A)1865年、列国は兵庫沖まで艦隊を送り、条約の勅許を勝ち取った。翌年には幕府と交渉して、関税率を一律5%の従量税に改め、また自由貿易をさまたげる諸制限を撤廃する【ア日英通商航海条約 イ改税約書 ウ貿易章程】に調印させた。

(答:イ)〉


2014明大・商(商):「

 1865年、英国など4か国は、依然として通商条約の勅許を認めない朝廷に対して兵庫沖に艦隊を送り軍事的な威圧をかけ、朝廷から勅許を得ることに成功した。翌年の1866年には、欧米列強は、幕府に対して、通商条約締結の際に定めた平均約20%の輸入関税率を輸出入一律(e)【1)3% 2)5% 3)6% 4)8% 5)10%】に引き下げる改税約書を調印させた。こうした状況の中で、尊王攘夷派勢力は攘夷の無力さ、無意味さを悟らざるを得なくなった。むしろ逆に先端的な技術を取得し、武器を獲得しようと、薩摩も長州もイギリスに近づくようになり、攘夷から開国へと考え方を変化させるようになる。」

(答:2)〉


2014同志社大・文:「

【設問あ】下線部a売込商と呼ばれる日本側の貿易商人が国内各地より輸出品を仕入れ、外国商館と取り引きするようになったに関連する幕末期の経済・通商の実態として正しい記述を、以下の1~4より1つ選べ。

 1.幕府は江戸問屋の保護と流通経済の統削を目的とし、特定の品物の開港場直送を禁じ、江戸問屋を経由することを発令した。

 2.日本と外国との金銀比価の相違により、大量の銀貨が海外に流出し、国内経済が混乱した。
 3.1866年、幕府は改税約書に調印し、安政の五か国条約で定められた輸入税を一律に引き上げた。
 4.開港当初における主要輸入品は、毛織物や絹織物であった。」

(答:1〇 ※2×金貨が流出、3×引き下げた、4×毛織物や綿織物)〉

●改税約書

  ベック式暗記法! 

入(い)るは無論だ 改税後

1866年          改税約書 5% 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1865年の出来事

2017-07-22 | ベック式!日本史用語集

 


兵庫無効で勅許した。


孝明天皇)(1865年・兵庫開港無し・条約勅許


[句意]孝明天皇の勅許は無港で勅許した、という句。「無港」は19「65」年のゴロも兼ねている。


[point]

1.1865年孝明天皇兵庫開港を勅許しないまま条約は勅許した。

[解説]

1.1865(慶応元)年10月、日米修好通商条約を勅許兵庫開港不許可とした。

(1)の四カ国は条約勅許と兵庫開港等を求め、京都朝廷へ圧力をかけるため連合艦隊を大阪湾に進入させ、兵庫(現神戸)沖に停泊した。外圧を直接受けるにおよび、頑迷な攘夷主義者の孝明天皇はようやく条約の勅許を認めた。


(2)兵庫港の開港勅許は、孝明天皇急死の翌1867年5月に明治天皇によってなる。


(3)1865年は幕府の長州再征計画が遅々として進まず、大事件はなかった。


2012法政大学・文経営人間環境

問12 「孝明天皇」について、正しいものを以下のa~dのなかから一つ選べ。

 a 1860年に妹和宮と江戸幕府の将軍徳川家茂の結婚を勅許した。

 b 1865年に江戸幕府が要請した条約勅許を拒絶した。
 c 1866年に結ばれた薩摩藩と長州藩の軍事同盟の密約(薩長同盟)を勅許した。
 d 1868年に兵庫開港を勅許した。」

(答:a ※b×1858年、c×秘密同盟であり薩長は勅許を求めていない、d×勅許したのは明治天皇。孝明天皇は1866年7月に没し、兵庫開港は明治天皇の名で1867年に勅許。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宋代の社会と経済 

2017-07-21 | 生物暗記法
用語リストへエ.宋代の社会と経済 
■ポイント 宋代の社会と経済は、唐の時代からどのように変化したか。江南の開発は何をもたらしたか。
商業の発達 
  • 宋の首都a 開封  の繁栄 商業が発展。
    長安との違い:政治的な都城ではなく、b 城壁都市を基に市場・繁華街が広がってできた商業都市   。
    その位置:c 黄河と大運河の接点で、中国の東西南北の商業網の中心   に位置した。
     → 張択端の絵画d 『清明上河図』  に描かれている。

解説

開封市街地図

 開封の市街地図  唐の都長安との比較

  1. 長安と同じく大内を中心として城壁に囲まれた城壁都市であるが碁盤の目のような区画(坊市制)がない。
  2. 商業区画は長安では東西の市だけであったが、開封では市場や繁華街が広がっている。長安の市は昼しか営業できなかったが、開封では図のように夜市や暁市が開かれた。
  3. 開封では汴河を通じ」外の商業網に通じていた。
  4. 開封の市内にある瓦市(瓦肆)とは娯楽施設で、戯曲、雑伎、武術などが演じられていた。
  5. 東京(とうけい)と言われた開封は、人口が60~70万人で、世界でも有数な都市であった。

(『中国中学校歴史教科書』明石書店 p.452 をもとに作成した)

Text p.163

  • 新たな商業都市の発生:
     草市  ・f 鎮  など、城壁外や交通の要地に商業の盛んな場所が生まれた。
  • 同業組合の結成:商人の組合=g 行   、手工業者の組合=h 作  が生まれた。
  • 貨幣経済の発達:銅銭(宋銭)のほか、金銀も地金のまま用いられる。
    紙幣:手形として用いられた唐のi 飛銭  に替わり、北宋でj 交子  ・k 会子  が発行される。
     j 交子  :初め四川地方で使用された。 意義:l 世界最初の紙幣の発行とされる。  
     k 会子  :南宋で発行された。
     ▲華北を支配した金ではm 交鈔  が発行された(元に継承される)。(後出)

解説

 中国の唐末から宋の時代、商工業や貨幣経済が発達した10~12世紀は、ヨーロッパは中世封建社会が続き、商工業・貨幣経済はむしろ衰えていた。中世を通じヨーロッパでは国家による統一的な貨幣鋳造も、紙幣の発行もなかったことにくらべれば、アジア文明圏の経済と文化の優位性が認められる。宋代の商工業と貨幣経済は、元代にも受け継がれ、13世紀に中国に渡来したマルコ=ポーロなどヨーロッパ人をして感嘆させることになる。
  • 地主層の成長:貨幣経済の進展にともない、富裕になった地主(n 形勢戸  )は、荘園を拡大。
     → その土地を小作人=o 佃戸  に耕作させる。 → 明・清まで続く。

解説

 佃戸制は五代に発生し、宋代に一般化して、元・明・清まで続くものであり、その負担や権利は、時期・地域によってかなり違いがある。一般的に言えば、宋代の佃戸は、法律的には自由人であるが、経済的には重い負担(一般的には生産量の半分が小作料)を負わされ、地主に従属していた小農民層、といえるだろう。また次第に農奴的側面から自由民的側面に変化していったのであり、その過程で明清時代には佃戸の小作料軽減を求める抗租運動が起きている。

江南の開発   1127年 宋の南渡 → a 長江下流域   の開発進む。

  • 宋の中国経済の中心が、長安などの西北から、東南の江蘇・浙江・福建などに移る。
  • 耕地の拡大:湿地に堤防を築いて干拓したb 囲田  が広がる。▲他に圩田、湖田が作られた。
  •  占城稲(チャンパー米)  の普及:インドシナから伝えられた早稲種。二毛作・二期作が普及。
  • 江南の繁栄を示す言葉:d 蘇湖(江浙)熟すれば天下足る   と言われた。
     = e 蘇州  (江蘇省)とf 湖州  (浙江省)を中心とした長江下流の穀物生産が中国を支えたこと。

手工業の発達  

  •  陶磁器  では、▲b 景徳鎮  の官窯が始まる。 → 明代に発展。
  • 他に 絹織物、漆器などの生産が増加。
  • ▲c 茶  の生産増加。宋はd 茶の専売制  をとる。

解説

 宋代の社会は、中国独自の習慣が生まれた時期であった。その一つが女性の纏足である。また、北宋末の混乱期には、宮廷の奢侈、重税などに対する不満からしばしば農民反乱が起きている。その一つが、1120~21年の「方臘の乱」で、これは『水滸伝』の背景となった農民反乱である。
先頭へ
用語リストへオ.宋代の文化 
■ポイント 宋代の文化を担ったのはどのような人びとで、どのような文化を生み出したか、理解する。
商業の発達  

(1)東アジア世界各地の政権交代

士大夫

 士大夫  の生活

  •  唐の国際性は消え、中国文化の独自性が強まった。   
  •  担い手は従来の貴族ではなく士大夫たちであった。   
  •  受容範囲が広がり、庶民文化も興ってきた。   

Text p.164

(2)a 士大夫   とは、

  • 政治的にはb 科挙に合格した上級官僚  
  • 経済的にはc 新興地主(形勢戸)出身  
  • 文化的にはd 儒学・詩文の教養を身につけた知識人。  
    という三つの側面を持つ宋代の文化を支えた階層。

(3)儒学の新展開

  •  宋学(朱子学)  =北宋のb 周敦頤  に始まり、南宋のc 朱熹(朱子)   が大成した。
    宇宙観 太極(真理=理)と無極(材料=気)を一体としてとらえる。(禅宗の影響)
    実践倫理(道徳)として、d 大義名分論  =上下、君臣の関係の正しいあり方を説く。
    歴史観として、華夷の別=漢民族の文化を絶対化し、周辺民族を夷とするe 中華思想  を強めた。
    経典としては、f 四書  (『大学』・『中庸』・『論語』・『孟子』)を重視。
     → a 朱子学  は、儒学の正統とされ、朝鮮・ベトナム・日本の社会に強い影響を与える。
  • 歴史書 g 司馬光  のh 『資治通鑑』   大義名分を明らかにしようとした編年体の歴史書。
鳩桃図

①d 徽宗  の『鳩桃図』

  • ▲編纂物 『太平御覧』太宗の命で李昉らが編纂。『冊府元亀』真宗の命で編纂。
  • ▲新しい思想の始まり:陸九淵(陸象山)は、人間の心性を重視。
     → 明代の陽明学の源流となる。

(4)文学と美術・工芸

  • 文学:a 欧陽脩  、b 蘇軾(蘇東坡)  、王安石ら。
    古文復興の一方で、白話(口語)による小説・雑劇が発達した。
  • 絵画:宮廷画家によるc 院体画  :d 徽宗  の『鳩桃図』(①)など。

    Text p.165

    士大夫によるe 文人画  :b 蘇軾  (②)、米芾、牧谿など。
  • 工芸:宋磁=f 白磁  ・g 青磁  などの磁器が発達。
     景徳鎮  の窯業始まる。
  • 庶民文化:小説・雑劇、音曲に合わせてうたうi 詞  が盛んになる。
蘇軾の文人画

②b 蘇軾  の『墨竹図』

(5)宗教の展開

  • 仏教:a 禅宗  が発展。官僚層によって支持される。
    → 日宋貿易を通じ、日本に影響を与え、鎌倉仏教が成立。
  • 道教:金の支配下の華北でb 王重陽  がc 全真教  を創始。
     = 儒・仏・道を調和させ、修養を重んじる。
     → 南宋では、従来の道教がd 正一教  と言われる。

(6)新しい技術

  •  木版印刷  :隋唐に始まり唐末五代に発展し宋代に普及した。
  •  活字印刷  :11世紀半ばに膠泥活字発明。実用化はされず。

解説

 11世紀の半ば、北宋の慶暦年間に畢昇(ひっしょう)という工人が活字印刷を発明した。この活字は土を固めたもので、鉄板の上に蝋を流し、その上に活字を並べ、上から紙をあてて印刷した。やがて木活字がつくられ、13世紀はじめには朝鮮(高麗)で金属活字(銅)が使用されるようになった。
 印刷術は製紙法の伝播と違い、すぐには西方に伝わらなかった。それは中国に来ていたイスラーム教徒には、コーランを印刷することは神を冒涜することと思われていたためである。ようやく、モンゴルが中国を支配した13世紀になって、直接に中国にやってくるようになったヨーロッパの商人や宣教師によって、中国で紙幣を印刷していることが知られ、14世紀の末にイタリアで印刷業が起こった。中国では漢字の性格上、木版印刷が盛んであったが、文字数の少ないアルファベットを使用するヨーロッパでは金属活字印刷が急速に普及した。
  •  羅針盤  :磁石を利用。宋代に実用化される。
  •  火薬  :12世紀、金と戦った宋で実用された。
    → 宋代の科学技術はe イスラーム世界を通じヨーロッパに伝来。ルネサンスの三大発明に影響した。   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第6章 内陸アジア世界・東アジア世界の展開 2節 東アジア諸地域の自立化

2017-07-21 | 生物暗記法

 

用語リストへ

Text p.157

ア.東アジアの勢力交替

■ポイント 唐末~五代の中国の変化が、東アジアの国際関係、文化にどのような変化を与えたかを考える。

(1)東アジア世界各地の政権交代

  • 北方世界 9世紀半ば a ウイグル  がキルギスに滅ぼされる → トルコ系民族の西方移動(前出)。
     → モンゴル高原南西部を本拠としたモンゴル系のb 契丹  が台頭、北方世界の主役となる。
  • 中国 907年 唐の滅亡。 五代十国の分裂時代に入る。
  • 東北地方 926年 b 契丹  がc 渤海  を滅ぼす。
  • 朝鮮 918年 新羅にかわりd 王建  がe 開城  を都にf 高麗  を建国。936年、半島統一。
  • 雲南地方(中国南部) 937年 南詔にかわりからg 大理  が建国。タイ人の国家。
  • ベトナム 10世紀後半、ベトナム人が独立国家を作る。 → 1009年 h 大越国  (李朝)が成立。
  • 変化 i 唐を中心とした東アジア文化圏の統合がゆるみ、地域独自の特色ある文化が形成された。  
高麗版大蔵経

 高麗版大蔵経  (海印寺)

(2)独自の文化の形成

高麗  国家による保護によってa 仏教  が盛んになった。
  • 仏教経典が集成され、b 高麗版大蔵経  が刊行(木版)された。
  • ▲金属活字が発明される(13世紀)。(実用化は15世紀の朝鮮で)
  • 独自のc 高麗青磁  がつくられる。翡色青磁や象眼青磁がある。
  • 12世紀 高麗で武臣(軍人)の政権できる。(崔氏政権)
日本  8世紀末、平安京に遷都。
    • 894年 a 遣唐使の廃止  

Text p.158

  • 10世紀 律令政治の崩壊が進行。仮名文字、大和絵などb 国風文化  が成立。
     → 平将門・藤原純友の反乱(935~941 承平・天慶の乱)がおこる。 → 武士階級の成長始まる。
  • 11世紀 藤原氏による摂関政治。貴族文化の隆盛、『源氏物語』・『枕草子』などが創られる。
  • 12世紀後半 平氏政権のもとで、盛んにc 日宋貿易  が行われる。
  • 12世紀末 d 鎌倉幕府  の成立。 → 貿易とともに、僧侶の往来も盛んになる。

(3)中国独自の文化の発展と、アジアの民間貿易の展開

  • 960年 a 宋  の成立 → 唐の国際的文化に替わり、中国独自の文化が強まる。
  • 中国を中心としたb 朝貢貿易  が衰え、民間交易が活発化する。
     → 東南アジア・日本などとのc 銅銭  、d 陶磁器  などの貿易が行われる。
  • 中国の港の繁栄 e 広州  ・f 泉州  ・g 明州  (寧波)など。
     → 唐代に続き、h 市舶司  が置かれ、海上貿易を管轄。
先頭へ
用語リストへイ.中国北方の諸勢力

■ポイント 北方系の民族はどのような国家を作り、また中国の歴史とどのように関わったかを知る。

契丹  遼河上流で半農半牧生活を送るモンゴル系民族。a キタイ  の名は西洋に伝わる。
  • 916年 b 耶律阿保機  (太祖)が内モンゴルの熱河地方を本拠に即位し建国。
     → 926年 東のc 渤海  を滅ぼし、さらにモンゴル高原を制圧。
  • 936年 五代の後晋の建国に協力し、代償として、d 燕雲十六州  を併合。
     = 河北・山西の北部(万里の長城の南側)。燕京(現北京)を副都とする。
  • 947年 後晋を滅ぼし、開封に入城し、国号をe 遼  に改める。(後に契丹に戻る。)

解説

 契丹は民族名であると同時に国号であるが、後晋の都の開封を占領した翌年の947年、中国風の国号として遼(正確には大遼)と称した。その後中国本土の支配を放棄して北方に戻った983に再び契丹に戻し、さらに1066年にはまた遼(大遼)に復している。ただし、煩雑さを避けて、916年から1125年に存在した契丹の国家を遼として説明することも多い。なお、キタイという民族名は、現在の英語の中国を意味する Cathay の語源である。
遼(契丹)   中国本土で、960年 a 宋  が五代の混乱を統一。

Text p.159

    • 華北の混乱に乗じて、B 遼  が南下。a 宋  を圧迫。
    • 1004年 b 澶淵の盟  :宋(真宗)が遼(聖宗)に和議を申し出る。(後出)
        = 宋を兄、遼を弟とし、宋が毎年c 銀10万両・絹20万匹  を遼に送ることを約束。
    • 意義=北方民族として本拠地を保ちながら中国をも支配した最初のd 征服王朝  であった。

解説

 遊牧民族である北方民族が、広大な中国の本土の農耕地帯を征服し支配するさいに、北方の本拠地を抛棄するのではなく、それを保ちながら中国を支配し、北方民族には独自の方式を適用し、漢民族には従来の方式を残して双方の統治方式を並立、または両用した王朝を征服王朝という。契丹の遼、女真の金、モンゴルの元、女真の清の4王朝がそれにあたる。なお、南北朝時代の北魏は異民族鮮卑が建てた王朝であり、隋や唐もその系統であるが、これらはいずれも漢文化に同化したので、征服王朝とはされない。
  • 特色 e 二重統治体制  をとる。
     = 遊牧民族にはf 部族制  、漢人など農耕民にはg 州県制  を適用。
     官職は前者にもとづくh 北面官  と後者にもとづくi 南面官  を併置した。
  • 文化 :中国文化を吸収し仏教を保護。
    独自のj 契丹文字  を創作920年、太祖がウイグル文字と漢字をもとに作った。(未解読)

Text p.160

西夏   チベット系a タングート   、陝西・甘粛地方で遊牧生活を送る。
  • 1038年 吐蕃やウイグルを破り、b 李元昊  がc 大夏  を建国(一般にC 西夏  という)。
     都は興慶。(黄河上流左岸、現在の寧夏回族自治区銀川市)
     → 黄河上流城のd 内陸(東西)貿易路  を支配。しばしば宋に侵入し圧迫した。
  • ▲1044年 宋とのe 慶暦の和約  を結ぶ。→ 宋が毎年、歳賜として銀や絹を贈る。
  • 文化:仏教が盛ん。漢字を基にして独自のf 西夏文字  を創作、多くの仏典を翻訳。(ほぼ解読)
金  ツングース系a 女真(女直)  、中国東北地方で半猟半農生活を営み、はじめ契丹に服属。
  • 1115年 b 完顔阿骨打    (太祖)が建国。都は上京会寧府。
  • 1125年 宋と結んでc 遼  を滅ぼす。
     → 遼の皇族d 耶律大石  は中央アジアに逃れ、e 西遼(カラ=キタイ)  を建国。
  • 1126~27年 金が宋の都f 開封  を占領、皇帝らを拉致(靖康の変=後出)。華北を支配する。
     → 宋王朝の一部が江南の臨安に逃れ、南宋を建国。(後出)
  • 1142年 南宋と和議。g 淮河  を境に南北に並立し、盛んに交易も行われる。
  • 1153年、都を燕京(現在の北京)に遷す。郊外に、盧溝橋を建設。
  • 遼と同じくh 二重統治体制  をとる。
    女真族に対しては部族制にもとづくi 猛安・謀克制  によって統治
     = 300戸を1謀克、10謀克を1猛安とする軍事・行政組織。
    華北の漢民族に対しては宋の郡県制を継承。
  • 文化:j 女真文字  太祖が漢字と契丹文字をもとに作成。(ほぼ解読)
  • 宗教 道教の一派、全真教が起こる。(後出)
  • 北宋に続き、紙幣(交鈔)を発行。(後出)

13世紀 モンゴルが進出。1234年に滅ぼされる。

※北方民族が使用した文字

 

契丹文字 西夏文字 女真文字
   a 契丹文字        b 西夏文字        c 女真文字   

解説

 10世紀のアジアで漢民族の唐王朝が滅亡し、周辺諸民族が自立するなかで、それぞれ独自の文字を持ったことは重要。日本の仮名の発明もその一つの動きであった。
  • 契丹文字は、920年、太祖耶律阿保機が制定した大字(表意文字)と後に作られた小字(表音文字)からなり、両者が併用された。契丹文字は「漢字の字形または構成原理を模倣して創作した文字」であるが、現存する資料が少なく、解読はまだ完全には行われていない。
  • 西夏文字は1036年に李元昊が制定したもので、漢字の字形と構成原理を模倣して新たに創作した文字(疑似漢字)。解読は困難であったが仏典に使用された文字を西田龍雄氏(京都大学教授)がほぼ解読している。
  • 女真文字は金の太祖(完顔阿骨打)が1119年にまず大字(表意文字)を制定し、20年後の1138年、三代熙宗の時に小字(表音文字)がつくられ併用された。字形は漢字を模倣し、文字システムは契丹文字を参考にしている。金が滅亡したため忘れ去られ、解読は困難であったが、現在かなり進んでいる。
先頭へ
用語リストへウ.宋の統治 
趙匡胤

A 趙匡胤   

■ポイント 宋の特色である文治主義による統治とはどのようなものであったか。
趙匡胤(太祖)   による建国 960年 a 宋  を建国。
    • 都をb 開封  に定める。 = 後の南宋と区別しc 北宋  ともいう。
    • 武断政治からd 文治主義  への転換。軍人ではなく、文人官僚を用いる。
       節度使(藩鎮)  の欠員に文官を補充し、その勢力を除外した。
       ▲中央では、門下省を廃止し中書省と併合し、中書門下省とする。
       皇帝親衛軍(禁軍)を強化。統制機関として枢密院を設ける。

Text p.161

  •  科挙  の完成。皇帝政治を支える官僚の育成を図る。
     州試、省試に続き最終試験を皇帝が試問するg 殿試  とする。
  • 趙匡胤の統治の特徴
     h 皇帝権力の強化と中央集権化をはかり、文治主義に転換し、官僚機構を整備した。  

太宗   による統一 979年 a 太宗  (趙匡義)が後周を滅ぼし、中国を統一。

  •  文治主義  の完成にともなう変化。
     科挙  は男性であれば階層、血統を問わず受験できた。▲合格し官僚となった戸をd   と言った。
  • 儒学、詩文を学んで科挙に合格する経済力のある新興地主層=e 形勢戸  が登場した。
  • 対外消極策=契丹(遼)・西夏との講和を進める。(上述)
     1004年 契丹(遼)との講和 =f 澶淵の盟  :絹と銀を歳賜として贈る。(上述)
     1044年 西夏との講和 =g 慶暦の和約  :銀、絹、茶を贈る。(上述)
  •  官僚組織の膨張、防衛費の増大、北方民族に対する歳賜など  により、財政の窮乏が深刻になる。

王安石の改革   1070年 a 神宗  が宰相にb 王安石  を登用し、改革に当たらせる。

 財政難の解消と富国強兵  をめざし、d 新法  とよばれる改革を行う。

  •  青苗法  :貧農へ植え付け時に金銭や穀物を低利で貸し付け、収穫時に返済させる。
  •  均輸法  :各地の特産品を不足地で売却し物資流通の円滑化と物価安定をはかる。
  •  市易法  :中小商人への低利貸し付け。
  •  募役法  :徴税・治安などの役務の代わりに免役銭を徴収し、役務は希望者から募集。
  •  保甲法  :農閑期に農民に軍事訓練を行う。傭兵に変わる兵農一致策。
  •  保馬法  :馬を民間で飼育し、戦時に徴発する方法。
  • 税制 ▲方田均税法の実施。

 → 農民、中小商工業者の安定をめざしたが、k 地主・大商人、特権的な官僚が反発   した。

党争   の継続 王安石の退任後、その改革を支持するかしないかで対立が激しくなる。

    • 王安石の改革を支持する一派= a 新法党  

Text p.162

  • 反対派= b 旧法党  (保守派のc 司馬光  ら。地主層・塩商人などが支持)
     → 宋の国力を弱め、各地に農民の反乱起こる。(後出)

E靖康の変   ツングース系女真族のa 金  が遼を滅ぼし華北に進出(1125年)。

  • 1126~27年 a 金  が宋の都b 開封  を占領する。
     → 上皇のc 徽宗  ・皇帝のd 欽宗  は捕らえられ拉致される。
  • 1127年 皇帝の弟e 高宗  が江南に逃れf 臨安  (現杭州)を都とする。
     → それ以降をg 南宋  という。1127~1276(79)年
  •  金  との関係を巡り、和平派のh 秦檜  と主戦派のi 岳飛  が対立。和平派が権力握る。
  • 1142年 h 秦檜  の主導により、和議を結ぶ。
     → j 淮河  を国境とし、宋は金に臣下の礼をとり、多額の銀と絹を送る。

13世紀 モンゴルの台頭 → 1276年 開封がモンゴル軍に占領される。1279年に完全に滅亡。(後出)

12世紀頃のアジア

12世紀頃のアジア地図

 金    2 南宋    3 高麗    4 西夏    5 吐蕃(チベット)    6 大理  
 西遼(カラ=キタイ)   8 ホラズム   9 セルジューク朝   10 ゴール朝   11 チョーラ朝  
12 パガン朝   13 アンコール朝   14 大越国(李朝)   15 チャンパー   16 シュリーヴィジャヤ  

先頭へ
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藩校

2017-07-20 | ベック式!日本史用語集

 

会いにし米公 嵌めり籤 嘉蔵復讐 飽きめい巫女と
会津日新館(にっしんかん1664) 米沢興譲館1697明倫館(めいりんかん)1719)熊本・時習館(じしゅうかん)・1755)(造士館(ぞうしかん)・鹿児島1773)(岡・猷館(しゅうゆうかん)1784)(秋田明徳館1789)(水戸弘道館1841


[ポイント]

1.東日本の主な藩校は、会津日新館米沢興譲館秋田明徳館水戸弘道館

[解説]

1.秋田藩の藩校は明徳館佐竹義和(さたけよしまさ)が1789年に設立した。

2.会津藩の藩校は日新館保科正之が1664年に建てた学問所が始まり。


3.米沢藩の藩校は興譲館。1697年の設立だが衰微していたものを、中興の祖上杉治憲(はるのり)が再興。治憲が招いた折衷学者細井平洲(ほそいへいしゅう)が命名した。


4.水戸藩の藩校は弘道館(こうどうかん)。徳川斉昭(なりあき)が1841年に設立。

〈2016早大・文化構想:「
問12 下線f多くの藩校(藩学)、郷校(郷学)、私塾、そして寺子屋などが誕生したに関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 明倫館は長州藩の藩校(藩学)であり、日新館は会津藩の藩校(藩学)である。

 イ 弘道館は水戸藩の藩校(藩学)であり、修猷館は福岡藩の藩校(藩学)である。
 ウ 閑谷学校は岡山藩の郷校(郷学)であり、大坂の懐徳堂も郷校(郷学)と言える。
 エ 豊後日田の咸宜園は広瀬淡窓の私塾であり、江戸の古義堂は大槻玄沢の私塾である。
 オ 寺子屋は手習塾・手習所などと呼ばれ、女性の師匠もいた。」

(答:エ ※広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かんぎえん)は正しいが、古義堂は京都堀河にあった伊藤仁斎の私塾)〉

〈1995大学入試センター

史料C(問題文はある水戸藩史料)を提出した徳川斉昭は、水戸藩の藩政改革を実施し、水戸学と呼ばれる学問をさかんにした。この時期の水戸学に関する次のア~ウの記述について、その正(〇)誤(×)の組合せとして正しいものを、下の1~6のなかからから一つ選べ。

 ア.水戸学は、尊王論と攘夷論を結び合わせた尊王攘夷論を中心に発展した。

 イ.会沢安(正志斎)や藤田東湖は、水戸学の発展に大きな役割を果たした。
 ウ.徳川斉昭は藩校明倫館を設立し、水戸学の普及につとめた。
 
 1.ア-×、イ-〇、ウ-〇 
 2.ア-〇、イ-〇、ウ-×

 3.ア-×、イ-×、ウ-〇
 4.ア-〇、イ-×、ウ-×

 5.ア-×、イ-〇、ウ-×
 6.ア-〇、イ-×、ウ-〇」


(答:2 ※ウ×明倫館→弘道館の誤り)〉

 

□近世317.藩校(西の4校)の覚え方 ◇B

[ゴロ]次週くまモンと/(はぎ)メリは/御曹司(おんぞうし)のカゴで/福岡周遊


時習館(じしゅうかん)・熊本)(明倫館(めいりんかん))(造士館(ぞうしかん)・鹿児島)(岡・猷館(しゅうゆうかん))


[句意]次週、くまモンと萩の(羊の)メリーさんは土地の御曹司のカゴで福岡県を周遊観光する、というナンセンスの句。「萩の羊のメリーさん」は「くまモン」の4語に合わせて「萩メリ」と略しています。なお詳説日本史(山川出版)では、時習館は熊本のみ掲載されていますが、三河吉田藩など他5藩(ただし小藩)でも藩校名は時習館です。


[ポイント]

1.西日本の主な藩校は、熊本時習館明倫館鹿児島造士館福岡修猷館

[解説]

1.熊本藩細川重賢(しげかた)は、1755(宝暦5)年、熊本に時習館を設立した。他藩の模範となり、ほかに5藩に同名の藩校が生まれた。

2.長州藩の藩校は、1719(享保4)年、明倫館。ほかに7藩に同名の藩校がある。


3.薩摩藩島津重豪(しげひで)は、1773(安永2)年、鹿児島に造士館を設立した。ほかに2藩に同名の藩校がある。


4.福岡藩の藩校は、福岡の修猷館。1784(天明4)年設立の2学問所のうち、東学問稽古所をいう。

 

 

 

〈2016早大・文化構想〉
問12 下線f多くの藩校(藩学)、郷校(郷学)、私塾、そして寺子屋などが誕生したに関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。
 ア 明倫館は長州藩の藩校(藩学)であり、日新館は会津藩の藩校(藩学)である。
 イ 弘道館は水戸藩の藩校(藩学)であり、修猷館は福岡藩の藩校(藩学)である。
 ウ 閑谷学校は岡山藩の郷校(郷学)であり、大坂の懐徳堂も郷校(郷学)と言える。
 エ 豊後日田の咸宜園は広瀬淡窓の私塾であり、江戸の古義堂は大槻玄沢の私塾である。
 オ 寺子屋は手習塾・手習所などと呼ばれ、女性の師匠もいた。」

(答:エ ※古義堂は京都堀河にあった伊藤仁斎の私塾)〉


〈2016関西大・全学部2月8日:「

 江戸時代には、諸藩が藩士の子弟を教育するために藩校を設立した。米沢藩の興譲館や長州藩の(1){ア時習館 イ日新館 ウ明倫館}は有名である。また、庶民が出資して設立した自主的な教育機関には、摂津平野郷の(2){ア懐徳堂 イ含翠堂 ウ古義堂}などがある。」

(答:1ウ、2イ ※含翠堂(がんすいどう)は大坂南部の平野郷にあった郷学で、1717(享保2)年創設)〉


〈2012立教大・文学部:「
 山本覚馬は会津藩の砲術指南の家に生まれ、江戸で砲術・兵学・蘭学を学び、藩校〈 つ 〉に開設された蘭学所の教授となった。京都守護職に任じられた藩主( ヌ )に関連して上洛し、皇居が戦場となった1864年の〈 て 〉では砲兵隊を指揮して勲功を立てた。その後失明し、鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩邸に幽閉されたが、その学識と先見性の故に厚遇された。維新後は京都府庁に出仕し、府政の顧問として開明的な政策を推進した。その後新島と知り合い、その学校創設計画に共鳴して、ともに( リ )英学校の創業・運営にあたった。」


(答:つ日新館、ヌ松平容保、て禁門の変、リ同志社)〉

 

□近世318.熊本・細川重賢(江戸時代中期名君3) ◇C

[ゴロ]くまモン次週に/細か地毛カット


熊本時習館)(細川重賢(ほそかわしげかた))


[句意]くまモンは次週、細くて黒い地毛をカットする、というナンセンスの句。


[ポイント]

1.細川重賢は、藩校時習館を設立した。

[解説]

1.細川重賢(1721~85)は、5男だったが、兄の死で急遽藩主となる。しかし当時の藩財政は困窮の極みにあり、知行の召し上げなどによる藩士の疲弊や綱紀の乱れが著しかった。そこで重賢は、藩校時習館、医学校再春館の創設による人材の育成をはかり、公正な私法や年貢徴収を確立をめざした。また守旧派の反対をおさえて綱紀の粛正にも成功、、見事に藩政改革を成し遂げた。

 

〈2012立教大・全学部

問3 18世紀後半頃からおこった各地での藩政改革では、特産物の生産が奨励された。漆・桑・楮の生産の奨励、絹織物産業の普及をはかるなど、米沢藩の藩政改革を行った人物は誰か。次のa~dから1つ選べ。

 a.上杉治憲 b、佐竹義和

 c.細川重賢 d.山内豊信」

(答:a)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1864(元治元)年 〈禁門の変〉★★★

2017-07-20 | Weblog

● 江戸時代(孝明天皇 徳川家茂)

Kimmon Incident: Proimperial extremists belonging to Choshu domain attempt to force their way into Kyoto.

   いや無視できん 征伐(せいばつ)じゃ。
   1864年 池田屋事件 禁門の変 第一次長州征伐 下関戦争(四国連合艦隊下関砲撃事件)  

1864年、八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は勢力挽回のため池田屋事件を契機に京都に攻め上ったが薩摩・会津・桑名の藩兵に敗れた。幕府はこの禁門の変を理由に第1次長州征伐の軍を出し、長州藩は降伏した。

           
〈四国連合艦隊下関砲撃事件〉
 この1864年、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が前年に下関で砲撃された報復に下関の砲台を攻撃した(四国艦隊下関砲撃事件)。禁門の変に敗れた長州藩は列国の圧倒的軍事力に屈服、講和条約が成立した。
 「四国」の〈四〉で年代の最後の1桁を押さえよう。


[point]

1.1864(元治元)年は、池田屋事件禁門の変第一次征長戦争下関戦争と事件がつづいた。

[解説]

1.池田屋事件(6月)は、新撰組が京都三条河原町の池田屋に集合した尊攘派を急襲、20数人を殺傷した事件。桂小五郎(のちの木戸孝允)は危うく逃れた。

2.禁門の変(7月)は、前年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩の急進派が、池田屋事件の報復などで入京、薩摩会津桑名の藩兵と皇居内外で交戦、大敗した事件。蛤御門(はまぐりごもん)の変ともいう。


3.下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)(8月)は、

(1)前年の長州藩外国船砲撃事件の報復と関門海峡通行の安全の確保のため、四国連合艦隊下関を砲撃し、陸戦隊を上陸させて砲台などを占領。
(2)奇兵隊などは善戦するが、戦力の差は大きく大敗。高杉晋作が正使で和平交渉。海峡の自由通行を保障したが、領土割譲要求(彦島)は強硬に拒否し、賠償金も突っぱねる(結局幕府がその300万ドルを支払う)。この外交姿勢は称賛できる。
(3)この結果、攘夷の不可能を認識した長州藩では、開国を主張する勢力が台頭。イギリスは戦闘および外交折衝を通じて長州の実力を知り、かえって両者は接近。

4.第一次長州征伐(征長戦争)(7~12月)は、禁門の変に対する懲罰遠征。しかし財政難のため各藩の動きは鈍く、攻撃の実行までなかなか進まなかった。そこで幕府軍の参謀西郷隆盛は、戦わずして長州藩に大軍に圧力をかけ追い込む方針をとる。圧力に屈した長州藩は俗論派(上層保守派)が藩権力を握り、3家老4参謀を斬って恭順したため、12月末、戦わずして終了。


2016早大・教育:「

問4 下線部a支配層内部の分裂・抗争および諸外国との対立・戦争に関する事件A~Eを時代順に並べると、正しいものはどれか。

 A イギリスなど4国の連合艦隊が下関の砲台を攻撃した。

 B 高杉晋作らは奇兵隊などの諸隊を率いて挙兵し、長州藩の主導権を奪い返した。
 C 島津久光が江戸からの帰途、薩摩藩士が行列を横切ったイギリス人を殺傷した。
 D 会津藩と薩摩藩は、公武合体派の公家と結んで、長州藩と尊攘派公家を京都から追放した。
 E 長州藩は勢力を回復するため藩兵を上京させたが、禁門(蛤御門)付近の戦闘で薩摩・会津の藩兵に敗れた。

 ア D一C→A→B→E

 イ A→C→E→B→D
 ウ E→D→A-B→C
 エ C-D→E→A→B
 オ D→E-A-C→B

(答:エ ※C生麦事件1862年、D八月十八日の変1863年、E禁門の変1864年7月、A四国艦隊下関砲撃事件1864年8月、B高杉ら藩の実権を握る1865年 いや向こう見ず高すぎる。)〉


2016慶大・商AB方式:「

 井伊の死後、老中[ 42 ]は(ア)公武合体を進めようとした。他方、長州藩をはじめとして天皇を尊び外敵を退けることを唱える運動が起こるが、1863年の外国船砲撃事件に対してイギリスをはじめとする四国連合艦隊により[ 43 ]が砲撃され、また、1862年に起きたイギリス人殺傷事件に対する報復のため、1863年には薩英戦争が起きた。その後、薩摩藩はイギリスに接近するが、幕府に見切りをつけた駐日イギリス公使[ 44 ]の側も薩摩藩に期待を寄せるようになった。

問3 下線部(ア)公武合体について、25字以内で説明しなさい。」


(答:42安藤信正、43下関、44パークス、問3天皇の妹と将軍の結婚による朝幕融和政策)〉


2014文教大・全学部:「

問10 幕末の下線部(i)政情不安について述べたA~Cの文について、古いものから年代順に配列せよ。

 A 薩摩の島津久光が江戸城に入り、幕政を改革し、松平慶永が政事総裁職に就任した。

 B 大老井伊直弼が江戸城桜田門外で、尊王攘夷派の浪士たちに襲われ殺害された。
 C 江戸幕府が諸大名に征討を命じると、長州藩は尊王攘夷論を放棄し、幕府に服従した。」

(答:B(1860年)A(1862年)C(1864年)〉


2012立大・文学部:「

 山本覚馬は会津藩の砲術指南の家に生まれ、江戸で砲術・兵学・蘭学を学び、藩校〈 つ 〉に開設された蘭学所の教授となった。京都守護職に任じられた藩主( ヌ )に関連して上洛し、皇居が戦場となった1864年の〈 て 〉では砲兵隊を指揮して勲功を立てた。その後失明し、鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩邸に幽閉されたが、その学識と先見性の故に厚遇された。維新後は京都府庁に出仕し、府政の顧問として開明的な政策を推進した。その後新島と知り合い、その学校創設計画に共鳴して、ともに( リ )英学校の創業・運営にあたった。」

(答:つ日新館 ※「会いにし米公 嵌めり籤 嘉蔵復讐 飽きめい巫女と。、ヌ松平容保、て禁門の変、リ同志社)

         会津日新館(にっしんかん1664) 米沢興譲館1697明倫館(めいりんかん)1719)熊本・時習館(じしゅうかん)・1755)(造士館(ぞうしかん)・鹿児島1773)(岡・猷館(しゅうゆうかん)1784)(秋田明徳館1789)(水戸弘道館1841

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代オリエントの統一

2017-07-19 | 生物暗記法

Text p.23

 

用語リストへカ.古代オリエントの統一
 アッシリア王国  前2千年紀初め北メソポタミアに起こったセム系民族、
・小アジア・イラン高原(錫を独占)との交易に従事、前15世紀 a ミタンニ に服属。
・前8世紀 b 鉄製の武器と戦車 を用い有力となる。
  → *サルゴン2世がc イスラエル王国 を滅ぼしさらにアナトリア、バビロニアを平定。
 アッシリア帝国 の成立 前7世紀前半 エジプトを征服し、初めてオリエント全土を統一。
・前7世紀後半 a アッシュール=バニパル王  専制君主として支配。全盛期となる。
 帝国をいくつかの属州に分け、総督を派遣、駅伝制を設ける。
 首都b ニネヴェ に、王立のc* 図書館 建設。捕虜・被征服民を帝国内に強制移住させる。
・意義:d 最初の世界帝国 としてオリエント全土を支配し、多数の民族を支配した。  
  → 急激な中央集権化、苛酷な収奪、強大な専制権力に対し支配下の諸民族が反発し、まもなく衰退。

解説:ニネヴェの図書館

アッシリア帝国の都ニネヴェの遺跡から大量の楔形文字を記録した粘土板が出土した。これは「ニネヴェの図書館」と名付けられたが、もちろん現在の図書館のような市民が利用するものではなく、アッシュール=バニパル王が広大な帝国領を統治するために、各地の情報を収集して、租税徴収や戦時の動員に用いたものと考えられている。つまり、アッシリア帝国の情報センターだったわけだ。
 4国分立時代  前612年 アッシリア帝国、滅亡。
・エジブト:エジプト王国が復活 ナイル上流のクシュ王国(黒人王国)・メロエ王国と交易。
・小アジア:a リディア王国  小アジア西部 都はサルデス
  → 商工業の発展 前7世紀に世界最初のb 金属貨幣 を鋳造したと言われている。
・メソポタミア:c 新バビロニア王国(カルディア)  都バビロン カルデア人が建国。
 前6世紀前半 d* ネブカドネザル王 の時、全盛期となり、ユダ王国を滅ぼす。
  → 前586年 、ヘブライ人多数をバビロンに連行。
・イラン高原:e メディア王国  都はエクバタナ(現在のイランのハマダーン)
   → その支配下にあったペルシア人が次第に有力になる。
 アケメネス朝   ペルシア地方のイラン人=a インドーヨーロッバ語族 
・前6世紀中頃 メディア王国の支配を受けていたがアケメネス家の指導のもとで自立。
 b キュロス2世 、メディア・リディア・新バビロニアを次々と征服。
 → 前539年にバビロンを開城。翌年、ユダヤ人をc バビロン捕囚 からを解放。
・前525年 *カンビュセス2世 エジプトを征服し、オリエント全体を統一。
 ダレイオス1世  第3代 アケメネス朝の全盛期となる。
・前6世紀末から前5世紀はじめ 西はエーゲ海北岸から東はインダス川流域に及ぶ大帝国となる。
 祭儀のための首都はa ペルセポリス 、政治上の中心地はb スサ におかれた。

Text p.24

・c サトラップ の任命 全国を20の州に分け、王の代理として任命。行政・治安・裁判をつかさどる。
  → d 「王の目」「王の耳」 を中央から派遣して監督し、中央集権化をはかる。
・金貨・銀貨を鋳造。税制を整え、e フェニキア人 の交易を保護する。
・スサとサルデスを結ぶf 「王の道」 を建設。また帝国内にg 駅伝制 を整備した。
F ペルシア帝国の滅亡  前5世紀初め ギリシア征服に失敗。(a ペルシア戦争  → 後出)。
 前4世紀、反乱が続き衰退。 前330年 b アレクサドロス大王 に征服されて滅亡する。

地図:ペルシア帝国

アケメネス朝ペルシア帝国(大まかな領域を示しています)

ペルシア帝国

 ペルセポリス   2 スサ   3 ニネヴェ   4 サルディス   5 エクバタナ  
 ベヒストゥーン   7 バビロン   8 ダマスクス   9 イェルサレム   10 テーベ 

■テーマ ペルシアの文化

解説:楔形文字の解読

 楔形文字の解読は、ペルセポリス出土の碑文を研究したドイツのグローテフェントによって試みられ、20世紀になってイギリスの軍人のローリンソンが、べヒストゥーン碑文といわれる高い崖に彫られた碑文を解読し、それがダレイオス1世の業績をたたえた碑文であることを突き止めたことで達成された。
1. 楔形文字 の使用:表音化してペルシア文字を作る。
  → 公用語は、ペルシア語・エラム語・アッシリア語の三つが用いられた。
2. ソロアスター教 の信仰 :前7~6世紀ごろa ゾロアスター が創始。拝火教とも言う。
  光の神(善神)b アフラ=マズダ と闇の神(悪神)c アーリマン の闘争ととらえる。
  → d 最後の審判 を説く。ユダヤ教・キリスト教にも影響。中国にも伝わりe 祅教 といわれる。
3.ミトラ神信仰:インド・イラン起源の神秘教団。
  → 光明神ミトラを信仰する密儀宗教としてローマにも伝えられ、f ミトラ教 となる。

先頭へ

Text p.25

 

用語リストへキ.パルティアとササン朝の興亡
 ヘレニズム諸国   アレクサンドロスの帝国の解体後のギリシア系諸国家(次章で説明)
 セレウコス朝  シリアに成立。 → 前63年、ローマに滅ぼされる。
 バクトリア   前3世紀なかば、アム川上流(現アフガニスタン)に建国。 
  → ガンダーラ地方からガンジス川流域まで進出、ヘレニズム文化を東方に伝えた。

参考:ヘレニズム

 ヘレニズムは、前4世紀にギリシア北方のマケドニアのアレクサンドロス大王が、ギリシアからオリエント世界まで征服した結果として生まれた、ギリシア化された文化のこと。次節のギリシア世界で詳しく学習する。このページの「パルティアとササン朝」も、アレクサンドロス以降のことなので、後回しにして、ギリシア世界を先に学習した方がよい。ローマ帝国、ビザンツ帝国を学習してからでもよい。
 パルティア  前3世紀なかば、a 遊牧イラン人  の族長b アルサケス が建国。
・前2世紀半ば メソポタミアを併合する。都c クテシフォン に移す。
  → d 東西貿易 路をおさえて、領内を通る物資に関税をかけて財源を確保し、繁栄。
・前1世紀なかば、東方に進出したローマのe クラッスス と争う(後出)。
  → 東方の中国の漢王朝とも交渉(中国の文献にf 「安息国」 として現れる)。
・紀元後2世紀 ローマ帝国の軍に都を一時占領される。王位継承をめぐって対立がつづき、衰退する。
 ササン朝  イラン東部のファールス地方にa 農耕イラン人 が台頭。ササン朝ペルシア。
・226年 b アルデシール1世 が建国。都をc クテシフォン に定める。
  d ゾロアスター教 を国教とする。
シャープール1世

馬上のシャープール1世。左で跪いているのがヴァレリアヌス。イランのナクシュ=ルスタムに残るレリーフ。

 シャープール1世  「イランと非イランの諸王の王」と称す。
・260年 a ローマ帝国皇帝b ヴァレリアヌス を捕虜とする。(右図)
 東方ではインダス西岸に進出。c クシャーナ朝 の領土の大半を奪う。
・4世紀末~5世紀 a ビザンツ帝国 との抗争続く。
・5世紀後半、中央アジアの遊牧民b エフタル の侵入を受ける。
 ホスロー1世  在位531年~579年
・557年ごろ トルコ系遊牧国家のa 突厥 と結びエフタルを滅ぼす。
・561年 b ビザンツ帝国 のc スティニアヌス帝 と和平する。
 → ササン朝とビザンツ帝国の激しい抗争のためメソポタミアの東西交通路が衰退し
   代わってアラビア半島で交易に当たっていたd アラブ人 の活動が活発になる。
F ササン朝の滅亡 7世紀なかば、アラブ人の中にa イスラーム教 が成立し急速に勢力拡大。
・642年 b ニハーヴァンドの戦い  に敗れ、ヤズデギルド3世、メルブに逃れ事実上滅亡。
・651年 ヤズデギルド3世、メルブで臣下に殺害されササン朝が完全に滅亡。
  → 意義:c 古代オリエント世界が消滅し、西アジアはイスラーム化した。  (第4章1節)

先頭へ

Text p.26

 

用語リストへク.イラン文明の特徴
・パルティアの時代はa ヘレニズム =ギリシア文化の影響が強かった。
  → 王は「ギリシア人を愛するもの」という称号をおび、公用語はギリシア語とされる。
  → 1世紀頃から、b イランの伝統文化 が復興する。
■テーマ ペルシアの文化
1. ゾロアスター教 :ササン朝で国教とされ、教典「a アヴェスター 」が編纂される。
2.c マニ教 :3世紀ごろマニが創始。ゾロアスター教に仏教、キリスト教を融和させる。
   → 偶像を否定。ササン朝では異端として禁止されたが、北アフリカや中央アジアに広がる。
  → キリスト教世界 a アウグスティヌス や、南フランスのb アルビジョワ派 などにも影響する。
    東方では、中央アジアから唐代の中国にも伝わりd 摩尼教 となる。(後出)
・美術工芸:a<em "=""> 銀器・ガラス器・毛繊物・彩釉陶器   など、工芸技術が発達。
 → b イスラーム文化 に受け継がれる。西方ではビザンツ帝国を経由して、地中海世界へ伝播。
 → 東方では、c 「絹の道」 を通り、南北朝・隋唐時代の中国を経て、日本にも影響を与える。
  例 飛鳥・奈良時代の文化:d 法隆寺 獅子狩文錦、e 正倉院 の収蔵物(漆胡瓶白瑠璃碗など)

先頭へ

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第1章 オリエントと地中海世界 第1節 古代オリエント世界

2017-07-19 | 生物暗記法

 

用語リストへア.オリエント世界の風土と人々
・a オリエント :ヨーロッパから見てb 「日ののぼるところ」 、つまり東方を意味する。

解説:オリエントの意味

「オリエント」 Orient とは、西欧から見て「東方」、「東洋」を意味する。今日では「中東」とよばれることが多い。なお、「西洋」は、Occident 。世界史の用語としては、「イスラーム以前の西アジア世界」をオリエント世界と言う場合が多い。オリエント世界はメソポタミアとエジプトに分けられ、両地域を結ぶシリア・パレスチナ地方、および周辺の小アジア(現在のトルコ共和国の範囲)とイラン高原が含まれる。
 西アジアの風土 高温で砂漠、草原、岩山が広がる。
  → 羊・ラクダを飼育する遊牧生活と、オアシスでの小麦、大麦、豆類などの栽培。
・大河流域 c 定期的な増水を利用した潅漑農業が発達し、都市文明が発生した。 
  → オリエント社会の特色 宗教的な権威によるd 神権政治  が行われた。
◎学習のポイント 古代オリエント世界の地理的概念をつかもう。

Text p.17

オリエント地域図 
 1 メソポタミア    2 バビロニア     3 アッシリア     4 シリア 
 5 パレスティナ    6 アナトリア     7 小アジア      8 エジプト 
 9 イラン高原     a ティグリス川    b ユーフラテス川   c ナイル川 
 濃い色の部分  肥沃な三日月地帯 

先頭へ

Text p.18

 

用語リストへイ.シュメール人の都市国家
ウルのスタンダード

 シュメール人の都市国家の一つ、ウルから出土し「ウルのスタンダード(軍旗)」と言われている遺物。シュメール人の風貌とその社会を伝える貴重な資料である。この部分では戦士と戦車が描かれている。当時のメソポタミアでは馬はいなかったので戦車を引いているのはロバと考えられている。

 メソポタミア文明 
・a メソポタミア   = 「川のあいだの地方」の意味。
 前3500年頃から、人口が増加し、神殿を中心に大村落が成立。
  → b 文字 とc 金属器 (銅と青銅器)の普及。
・前3000年頃 神官・戦士・職人・商人などの階層の形成。
  → d 都市 が成立。
 シユメール人  民族系統は不明。
・前2700年頃 a 都市国家 を建設。
 例 a ウル 、b ウルク ラガシュなど。
シュメール文化 d ジッグラト (聖塔)を建設。
 e 楔形文字 の使用(後出)。ウルの軍旗の製作(右図)

先頭へ

用語リストへウ.メソポタミアの統一と小アジア
ウルのスタンダード

ハンムラビ法典が彫られた石柱。上部の左に立つのがハンムラビ王。右が法を授けた太陽神である。

 アッカド人  前24世紀にシュメール人を征服した、セム系民族。
・a* サルゴン王  メソポタミアの都市国家を征服し、「四界の王」と称す。
 = 広大な地域を支配する、最初のb 領域国家 の成立。
・*前2150年頃、滅亡し、シュメール人が独立を回復 = ウル第3王朝

解説:シュメール法典

世界最古の法典は従来は次の古バビロニアのハンムラビ法典とされてきたが、最近の研究では、シュメール人のウル第3王朝時代に作られたシュメール法典が最古とされるようになった。最古のものは前25世紀にさかのぼるという説もある。現在ではハンムラビ法典はシュメール法典をもとに、さらに体系化したものと考えられる。
 アムル人  前1900年頃、西北から侵入したセム系民族。
・a バビロン第1王朝(古バビロニア王国) を建設。都バビロン
 前18世紀 b ハンムラビ王  全メソポタミアを支配。
  → 運河・道路網の建設、治水・潅漑工事を進めた。
・c ハンムラビ法典 の発布 その特徴は次の通り。
  王は神の代理者として統治すると定める。
  d 「目には目を、歯には歯を」 というe 復讐法 の規定をもつ。
  身分別の刑罰の適用など。
  → オリエント世界の他の民族にも広がり、旧約聖書にも影響を及ぼす。

Text p.19

C 周辺諸民族の動向  前15~前14世紀の西アジア
・a ヒッタイト  インド=ヨーロッパ語族に属する。前17世紀半ば頃、
  アナトリア(小アジア)に強力な王国を建設。西アジアで初めてb 鉄器 を使用した。
 前1595年 c バビロン第1王朝 を滅ぼす。シリアに進出しエジプト新王国とも争う。
・d カッシート  民族系統不明。イラン高原西部から南メソポタミアに侵入。
    ヒッタイトに代わり、バビロニアを支配。
・e ミタンニ  北メソポタミアからシリアにかけて王国を建設。
  → ヒッタイトに服属する。

解説

前1500年頃までのインド=ヨーロッパ語族の大移動には、他にギリシア人の南下、アーリア人のインド侵入がある。この一連の民族移動は、大筋では、世界史を青銅器文化と都市国家の段階から、鉄器文化と統一国家の段階に推し進めたものであるといえる。
■テーマ メソポタミア文化の特徴
 多神教 の宗教:民族ごとに最高神をまつる。 例:バビロンの主神マルドゥク神など。
  都市国家では主神をまつるa ジッグラト (聖塔)を建設。例:ウル → 教科書p.18写真
 楔形文字 :シュメール人が創造。粘土板に刻み、保存された。
  → オリエントの各民族は言語が異なっても公用文字として前1世紀まで使用されていた。
  → ペルシア帝国で象形文字から表音文字に変化。やがてアルファベット文字が生まれる。
 解読 19世紀にイギリスのb ローリンソン が成功。 → ハンムラビ法典も全文解読された。
3* ギルガメシュ叙事詩  古代バビロニアの英雄を主人公にした世界最古の物語。
  → 「天地創造」や「ノアの洪水」などの『旧約聖書』の原型となった。
 六十進法 ・c 太陰暦  シュメール人がgを発明。時間、角度の記数法として始める。
  → 暦法ではd 太陰太陽暦 が工夫される。閏年を入れて実際の季節とのずれを修正。

解説

これらの他、メソポタミアでは占星術が基本となり天文・暦法・数学などに発達し、後世に大きな影響を残している。また、1週7日制が行われたのもメソポタミアにおいてであった。

先頭へ

Text p.20

 

用語リストへエ.エジブトの統一国家
 エジプト文明 
・a ナイル川 の定期的増水によって肥沃な土地を形成。
  → "b エジプトはナイルのたまもの "(ギリシアの歴史家c ヘロドトス の言葉)と言われる。
・d ノモス の形成 潅漑農業の開始に伴って形成された、政治的単位。県に相当。
  → *ナイル川下流の下エジプト、上流の上エジプトがまず統合され、次いで全土が統一される。
・前3000年頃、メソポタミアより早く統一国家が成立。王はe ファラオ と称する。
  = 生ける神として専制的な神権政治を行い、そのもとで神官、役人などの国家機構が整備された。
  → 以後、一時的な周辺民族の侵入はあったが、約30の王朝が交替し、紀元前4世紀まで続く。
ネフェルティティ像

アメンホテプ4世の后
ネフェルティティの像

 古王国 
・前27~前22世紀 第3~第6王朝 都a メンフィス (下エジプト) 
 b クフ王 らが、巨大なc ピラミッド を建造。
  = 神である王の絶大な権力とともに、高度な文明の存在を示している。
 中王国 
・前22~18世紀 第11~12王朝 都a テーベ (上エジプト)  
 王朝末期にシリアから遊牧民のb ヒクソス の侵入を受け、支配される。
 新王国 
・前16世紀 ヒクソスを撃退、a トトメス3世 はシリアに進出。
・前14世紀 b アメンホテプ4世 の改革 都をc テル=エル=アマルナ に遷す。
  従来の神々の崇拝を禁じ、唯一神d アトン のみを信仰。自ら イクナートン と改名。
  → 一種の宗教改革により、ああらしく自由で写実的なf アマルナ美術 も生まれる。右上図参照。
  → 王の死で改革は後退。次のg* ツタンカーメン 王の時、旧来の信仰を戻る。

解説:アマルナ革命

このアメンホテプ4世の改革は、アマルナ革命と言われている。オリエントで初めて一神教信仰を創出したことで注目されるが、その意図はテーベのアモン=ラー神を中心とした神々をまつる神官の兼六を奪うことになった。そのため彼は自ら名を「イクナートン(アトン神に愛されたもの、の意味)」と改名し、国民にアトン神の信仰を強制した。しかしその死後、テーベの神官は反撃し、新王ツタンカーメン(アモン神の姿に似たもの、の意味)はアトン神信仰を捨てた。そのためテル=エル=アマルナで花咲いたアマルナ美術も破壊されてしまった。なおツタンカーメンは「王家の谷」が発掘されて黄金のマスクをつけたその遺体が発見されたことで有名。

・前13世紀 h* ラメセス2世  新王国を復興させ、再びシリアに進出、ヒッタイトと戦う。

Text p.21

■テーマ エジプト文明の特徴
 太陽神ラー を最高神とする多神教。
 → 新王国時代には首都テーべの守護神アメン神の信仰と結びつきアメン=ラー信仰となる。
2.霊魂不滅と死後の世界(a オシリス神 が支配する世界)を信じ、b ミイラ を造り、
  e 「死者の書」 を墓に副葬する。1922年発掘のツタンカーメン王の王墓が有名。
3.文字の使用:絵文字から象形文字に発展、さらに簡素化される。
 d 神聖文字(ヒエログリフ) = 碑文、墓室・石棺に刻まれた象形文字。
 e 民用文字(デモティック) = 簡略化し、民衆が用い、f パピルス に記録された文字。
 解読 1799年 ナポレオンのエジプト遠征の時、g ロゼッタ=ストーン が発見される。
    1822年 フランスのh シャンポリオン が解読。現在は大英博物館に収蔵されている。
    上段に神聖文字、中段に民用文字、下段にギリシア文字で書かれている。
4.実用的学問の発達:灌漑農業に必要な測地術から天文学・i 幾何学 が発達。
  暦法ではj 太陽暦 が用いられる。ローマ時代のユ リウス暦のもとになる。

先頭へ

地図:オリエント世界の変化

オリエント世界の変化 前16世紀~前12世紀(各国の大まかな領域を示しています)

オリエント 前16~12世紀

 ヒッタイト   B カッシート   C ミタンニ   D エジプト新王国   E エラム   F アッシリア 
 ボアズキョイ   2 バビロン   3 テーベ   4 テル=エル=アマルナ   5 スサ 
 アッシュール   7 カデシュの戦い 

 

用語リストへオ・東地中海世界の諸民族
・地中海東岸のa シリア 、b パレスチナ 地方 = 海陸交通の要衝として重要。
 エジプトとメソポタミア間の交易路、および地中海への出入口であった。
A 東地中海世界の新しい動き
・前1500年頃 セム語系のa カナーン人 の活動。パレスチナではじめてb 表音文字 を使用。
・前13世紀 c 海の民 の活動。エーゲ海方面から西アジアに侵入した海洋民族(系統不明)。
  → d エジプト新王国 は衰退し、e ヒッタイト は滅亡する。

Text p.22

  → オリエントの情勢が変動し、セム系の3民族=アラム人、フェニキア人、ヘブライ人の活動開始。
 アラム人 
・前1200年頃から、シリアのa ダマスクス を中心に、内陸中継貿易に従事。
・b アラム語 は西アジアの国際商用語となる。c アラム文字 は東方に伝播。
 → 文字と共に西アジアに広がり、アッシリア帝国・アケメネス朝ペルシアでも公用語とされる。
 → へブライ・アラビア・シリア・ソグド・突厥・ウイグル・モンゴル・満洲などの文字の起源となる。
   = アラム人からイラン系のソグド人に、さらにトルコ系諸民族に伝えられた。
 フェニキア人  前15世紀に地中海東岸のウガリットが栄える。→ 海の民によって滅ぼされる。
・前1200年頃 地中海東岸(現レバノン)にa シドン 、b ティルス など都市国家をつくる。
 c 地中海貿易 に活躍。さらにカルタゴなど植民市を建設。ギリシア人と競合する。
・カナーン人の表音文字から線状のd フェニキア文字 を工夫した。 → 商業活動とともに西方に伝播
  →  ギリシア人に伝えられe アルファベット の起源となる。
 ヘブライ人  はじめ遊牧生活、前1500年頃、パレスチナに定住。
 ・民族宗教であるa ユダヤ教 という一神教信仰を発展させる。
  自らはb イスラエル人 と称し、後にc ユダヤ人 と言われるようになる。
■テーマ ユダヤ教の成立
 出エジプト 
・始祖アブラハムの指導の下、民族神a ヤハウェ の啓示を受けb パレスチナ  に移住。
  12の部族が形成される。一部はエジプトに移住し新王国の支配を受ける。
・前13世紀 c モーゼ を指導者としてエジプトを脱出。
 その途中、シナイ山で神からd* 「十戒」 を授けられる。  → ユダヤ教の律法の起源となる。
 へブライ王国   前11世紀末 パレスチナのa イェルサレム を都にし王国を建国。
・前1000年頃 b タヴィデ王  ペリシテ人を破り、王国を拡大。
 その子c ソロモン王 のとき最盛期となる。栄華を誇るも人民は重税に苦しむ。

解説:イェルサレム

イェルサレムはダヴィデ以来のユダヤ人の都。ソロモン王のとき、ヤハウェの神殿が建立され、ユダヤ教の聖地となり”ソロモンの栄華”と言われ、その繁栄は旧約聖書でも語られている。その後イェルサレムは、キリスト教・イスラム教にとっても聖地となった。はじめはこれらの宗教は共存していたが、現在はパレスチナ問題が深刻になり、三つの地域に分断され、抗争が続いている。なお、ダヴィデ王は、ルネサンスのミケランジェロの彫刻で有名。教科書のp.207に写真がある。
C 王国の分裂  前922年頃、ソロモン王の死後、南北に分裂。
・北のa イスラエル王国  (都はサマリア)
 バビロニアの影響で偶像崇拝が強まる → 預言者があらわれヤハウェ信仰を説くようになる。
 前722年 北方のb アッシリア (サルゴン2世)の侵攻を受け、滅ぼされる。
・南のc ユダ王国  (都はイェルサレム)
 前586年a 新バビロニア のb* ネブカドネザル王 に滅ぼされる。
 バビロン捕囚  多数のヘブライ人がバビロンに強制移住させられる。
・このような民族的苦難の中から、民族宗教としてのユダヤ教の信仰を強める。
 前538年 a アケメネス朝ペルシア がバビロンを占領し、ユダヤ人解放される。
 ユダヤ教 の成立 
・a イェルサレム に帰ることを許され、信仰の自由を認められて神殿を再建した。
  → ユダヤ人の神話的宇宙観、民族の苦難の歴史が『b 旧約聖書 』としてまとめられる。
F キリスト教の登場 (詳細は第3節へ)
 ・前1世紀末 パレスチナの地がローマに支配される。形式化したユダヤ教はその苦難を救えず。
  → a イエス 、ユダヤ教の形式化を批判 して、「神の愛」を説く。世界宗教としてキリスト教に発展。
■テーマ ユダヤ教の特徴
1.  一神教   唯一絶対の神、創造主であるヤハウェのみを神とする。
2. 選民思想  ヤハウェと契約を結んだユダヤ人だけが救われると言う思想。
3. メシア思想  メシア(救世主)による民族的苦難の救済を待望する思想。
4.* 律法主義  神に示された律法を厳格に守ることを義務づける。
  参考 十戒
  1.汝は私の他に、何者をも神としてはならない。  2.汝は自分のために刻んだ像を造ってはならない。
  3.汝は、汝の神・主の御名をみだりに唱えてはならない。  4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。
  5.汝の父母を敬え。   6.汝殺すなかれ。  7.姦淫をしてはならない。  8.汝盗むなかれ。
  9.隣人について偽証してはならない。   10.汝の隣人の家をむさぼってはならない。

解説:十戒

『旧約聖書』では、出エジプトの途中、シナイ山の山上で、神ヤハウェからモーセに示されたことになっている。有名なものなので参考のためにあげたが、世界史の学習では、1での一神教と、2で「偶像崇拝」が禁止されていることを確認しておくこと。この十戒はキリスト教でも継承されるが、「偶像崇拝」はそのなかで大きな問題になっていく。なお、一神教や偶像崇拝は、イスラーム教とも共通する教義である。

 

先頭へ

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする