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大御所政治

2016-11-29 | 『新世界史頻出年代暗記』

大御所関東 担うよく、去ろうかグッナイ、三河かも。

保の飢大塩平八郎の乱)(1805年・関東役(かんとうとりしまりしゅつやく)1827年・寄場組合(よせばくみあい))36年甲斐郡内騒動・三河加茂一揆・

[ポイント]
1.大御所時代は、関東取締出役の設置・天保の飢饉大塩平八郎の乱寄場組合の設置・生田万の乱があった。

[解説]
1.将軍徳川家斉(1773~1841)は、一橋家出身。一橋治済(はるさだ)の長男で、15歳で11代将軍となる。将軍職を家慶(1793~1853)に譲った後も大御所として実権を握る(1793~1841)。奢侈におぼれた放漫政治であったために幕府財政は逼迫したが、市中の商品貨幣経済はますます発展し、化政文化が花開いた。

2.1805(文化2)年創設された関東取締出役(かんとうとりしまりで(しゅつ)やく)は、俗に「八州(はっしゅう)廻(まわ)り」とも呼ばれ、2人1組計8人でなんと関東8カ国の犯罪者の取締りにあたった。


3.関東取締出役が少人数で手が回らなかったため、1827(文政10)年に、関東の農村で近隣の村々を組みあわせた寄場組合を、協力組織として置く。


4.天保の大飢饉が1832~33(天保3~4)年に発生、全国的に収穫が例年より半分以下の凶作となり、きびしい飢饉にみまわれた。


5.農村や都市には困窮した人びとが満ちあふれ、甲斐郡内(ぐんない)一揆三河加茂(かも)一揆など百姓一揆・打ちこわしが続発した。


6.大坂町奉行所の元与力で陽明学者大塩平八郎(1793~1837)は、1837(天保8)に、貧民救済のために門弟や民衆を動員して武装蜂起した(大塩の乱)。


7.国学者生田万(1801~37)が、1837年、大塩門弟と称して越後柏崎で陣屋を襲撃したり(生田万の乱)、各地に大塩に共鳴する百姓一揆がおきた。

〈2016立教大・現心社コミュ福

 天保の飢饉の際には、1836年に( ヌ )と呼ばれる甲斐国の一部から( ヌ )騒動が発生し、また、( ル )国で発生した加茂一揆では約1万人の農民が酒屋・米屋を襲った。大坂では1837年に元奉行所の役人で、11陽明学を講じていた大塩平八郎が米を買い占める富商を襲撃する事件が発生した。その後、越後柏崎では大塩門弟と称する国学者( ヲ )が陣屋を襲撃したほか、各地で大塩に共嗚する百姓一揆が続発した。

問11.これ陽明学に関する記述として正しいのはどれか。


 a.岡山藩主に仕えた熊沢蕃山は『大学或問』を著した

 b.寛政異学の禁において、昌平坂学問所で講義することが認められた
 c.唐の王陽明が創始した儒学の一派である
 d.日本におけるこの学の祖とされるのは太宰春台である」

(答:ヌ郡内、ル三河、問11a、※b×禁止された、c×陽明学は南宋の陸象山を基礎に明代の王陽明が展開した学、dは徂徠の弟子で古学派のうちの古文辞学派で『経済録』)をあらわ著した。 徂徠の子分太宰経済。

『経済録』)〉

〈2014早大・教育

問7 下線部c江戸時代後期に各地で起こるさまざまな問題に関連して、18世紀後期から19世紀前期の出来事に該当しないものはどれか。

 ア 人足寄場の設置 イ 生田万の乱 
 ウ 関東取締出役の設置

 エ 浅間山の噴火  オ 服忌令の発令」

(答:オ※服忌令(父母などが亡くなった時の忌引きなどの日数を定めた法令)の発令は、17世紀後半の5代将軍徳川綱吉の時代)〉


〈2013上智大・法総合人間科神外国語

 江戸幕府の12代将軍B(在職1837~53年)に関する次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

 Bは、将軍職を継いだが、当初(1837~41年)は( ウ  )が大御所 として政治の実権を握っていた。( ウ )の死後、信任する老中( エ  )に倹約令と風紀取締を基調とした改革を実施させた。ただ1843年には( オ  )の問題が紛糾したため、( エ )を罷免した。


問6 空欄(ウ)に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1徳川家治 2徳川家重 3徳川家斉

 4徳川綱吉 5徳川斉昭 6徳川吉宗

問7 空欄(エ)に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1田沼意次 2水野忠邦 3松平定信

 4阿部正弘 5松平慶永 6安藤信正

問8 空欄(オ)に当てはまる政策は何か。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1上知令 2人返し令 3異国船打払令

 4足高の制 5倹約令 6棄捐令

問9 Bの在職期間中に起きた事件はどれか。適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1天明の飢饉 2ゴローニン事件

 3浅間山大噴火 4フェートン号事件
 5シーボルト事件 6蛮社の獄

問10 Bの在職期間中に書かれた著作はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1『戊戌夢物語』 2『西洋紀聞』

 3『都鄙問答』 4『政談』
 5『農業全書』 6『発微算法』

問11 前問10で答えた著作の作者は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。

 1新井白石 2荻生狙練 3関孝和

 4高野長英 5石田梅岩 6宮崎安貞

問12 Bの在職期間中に、長州藩で財政改革を断行した人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1吉田東洋 2調所広郷 3白石正一郎

 4久坂玄瑞 5平野国臣 6村田清風」

(答:問6→3徳川家斉、問7→2水野忠邦、問8→1上知令、問9→6蛮社の獄、問10→1『戊戌夢物語』、問11→4高野長英、問12→6村田清風、 ※Bは家慶)〉

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1787(天明7)年 〈寛政の改革〉★★

2016-11-28 | 『新日本史頻出年代暗記』

▲松平定信

●江戸時代(光格天皇 徳川家斉)

Tokugawa Yoshimune embarks on a strenuous program of bureaucratic and financial reforms. knoen as Kyoho Reforms.
否(いな)やな定め 未完成。
1787年 徳川家斉 松平定信 寛政の改革 囲米 石川島人足寄場

1787年、徳川家斉が11代将に就任。

白川藩主松平定信が老中首座として幕政の改革(寛政の改革)に着手した。

定信は8代将軍吉宗の改革を理想とし、農村の復興と都市政策を改革の柱とした。

しかし、その緊縮財政は将軍側近の反感をかい、尊号一件を機に将軍家斉とも対立したため、在職7年で引退した。

〈寛政の改革〉

 松平定信は旧里帰農令を出して農民の出稼ぎを禁じ、社倉・義倉を設け、囲米を命じた。

江戸では町費節約の七分金積立を実施。また債務に苦しむ旗本・御家人の救済のため、棄捐令を出した。さらに寛政異学の禁で朱子学の振興をはかった。寛政の改革の内容は多いが、そのほとんどに〈キ〉の音があることに注目すれば、他の改革の内容との識別が容易。
おまけに山東京伝を処罰し、黄表紙を取り締まったが、これらにも〈キ〉がある。


棄捐令・七分積金(しちぶつみきん))(1787年・石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば))(米(かこいまい)・旧里帰農令)



[ポイント]

1.寛政の改革は、1787年旧里帰農令棄捐令を出し、石川島人足寄場をつくり、囲米七分積金の制度を作った。

[解説]

1.松平定信(1758~1829)は、田安家出身かつ吉宗の孫で次期将軍の第一候補だったが、田沼意次の策略により、白河藩に養子に出された。1787年、新将軍11代家斉田沼意次を排し、定信を老中首座とした。ここに松平定信による寛政の改革(1787~93)が行われることに。
 この改革政治は、享保の改革に同じく家康時代の自然経済へ無理矢理戻すことを理想とした。発達する商品貨幣経済の抑制、すなわち経済の改悪に努力する。しかし経済の実態は享保時代よりますます貨幣経済が繁栄しており、したがってその以前に戻す幅が大きい分無理も大きく、享保より改革期間は短命にて失敗した。


2.旧里帰農令で、江戸にあふれる正業を持たないものに資金をあたえて、人口が減少した東北などの農村に帰ることを奨励した。しかし申し出る者が少なく失敗した。


3.困窮する旗本御家人を救済するための棄捐令を出して札差に貸金を放棄させた。


4.飢饉に備えて、諸藩に1万石につき50石の割合で囲米を命じ、各地に社倉義倉をつくらせて米穀をたくわえさせた。


5.治安対策として石川島人足寄場を設け、無宿人を強制的に収容し、技術を身につけ職業を持たせようとこころみた。


6.また町々に町費節約を命じ、節約分の7割を積み立てさせ(七分積金)、新たに設けた江戸町会所(まちかいしょ)によってこれを運用させた。


7.両替商など豪商10名勘定所御用達(かんじょうしょごようたし)として登用、その力を利用して改革をすすめた。

〈2016早大・法:「

 江戸時代にも一種の徳政令が、それぞれの不況期において困窮した武士等の保護対策として出された。寛政の[ C ]は、松平定信が寛政の改革の一環として、1789年に出した。これは、貨幣経済に巻き込まれて困窮する御家人・旗本・庶民を救済するために、b札差に6年以前の貸し金の放棄をさせ、以後のものを低金利化させる法令であった。

問8 空欄Cに入る語を漢字で記述解答用紙に記入しなさい。


問9 下線部bと関連する、寛政の改革中の経済政策についての次の記述のうち、明らかに誤っているものを1つ選びなさい。


 あ 旧里帰農令は、江戸に流入した没落農民の帰村・帰農を奨励する法である。

 い 赤子養育法は、出生した子を産所で殺すことを禁じた、農民確保のための法である。
 う.凶年に備える備蓄のうち、社倉は富裕者の義損・課税により、義倉は住民の拠出による。
 え 江戸町会所は、節減した町人用を積み立てて低利融資や救援をする機関にされた。
 お 両替商を中心とする大商人が勘定御用達に任命され、物価統制などを担当した。」

(答:問8C棄捐令、問9う×社倉・義倉の説明が逆)〉


〈2016立教大・法済異文

 江戸は幕政の中心であるとともに、幕府による諸改革の対象となった。8代将軍徳川吉宗による江戸の都市政策は、享保の改革における主要な政策の1つとなった。その後、天明の飢饉によって、江戸では打ちこわしが発生するとともに下層の町人が増加していった。そのため、寛政の改革においては、江戸に流人した農民に対し農村へ帰ることを奨励した( ハ )令が出された。」

(答:旧里帰農)〉


〈2014明大・商(商)

 以上の農村部から、つぎに都市部に目を向けてみれば、都市における騒擾、打ちこわしも大規模化の一途をたどった。時代はさかのぼるが、いまそれをまとめてみると、江戸では享保、天明の飢饉時や幕末世直し期においてそれぞれ大規模な打ちこわしが発生している。規模拡大の大きな理由の一つに都市に大量に流入した貧民層、無宿の滞留があった。それゆえ幕府は寛政の改革において農村での小農の自立支援を展開する一方で、江戸に流入した無宿などへの帰村奨励など、都市政策を積極化させていったのである。

この際の一翼を担ったのは両替商を中心とする豪商、D【1)5 2)7 3)8 4)10 5)12】人からなる勘定所御用達であり、幕府は彼らの力を借りて物価や米価の安定を図りながら、旧里帰農を促進していった。さらに人足寄場を設け、そこに無宿人を強制収監し、職業教育を施すなどの社会事業を展開した。また七分積金法によって備蓄された米(囲籾)や資金を運用する貧民救済策をとったが、これはE【1)本所 2)鉄砲洲 3)神田 4)小石川 5)石川島】にあらたに設けられた江戸町会所により運用された。

 江戸町会所は維新後東京府に移管され営繕会議所とされ、道路、橋梁、共同墓地等首都のインフラ事業への投資を行なったといわれているが、そのうちの一つが1872年に設立された貧民救済のための養育院である。同院の資金源はその後七分積金から地方税へと変遷し、名称も東京府養育院となったが、本施設の設立から関わった初代院長は埼玉県の豪農出身の実業家で第一国立銀行や商法講習所などの設立に尽力し、「道徳経済合一説」を信条とした[ お ](1840~1931)であった。」

(答:D4、E3※「か」、お渋沢栄一)

ラックスマン来航)(林子平(しへい))(尊号一件)(洒落本・黄表紙弾圧)(寛政異)

[ポイント]

1.寛政の改革で、異学を禁止、洒落本黄表紙を弾圧、さらに林子平を処罰したがラックスマンが来航、また尊号一件で朝廷を抑圧統制した。

[解説]

1.儒教のうち朱子学を正学とし、1790(寛政2)年には湯島聖堂の学問所(昌平坂学問所)で朱子学以外の講義や研究を禁じた(寛政異学の禁)。

2.民間に対してはきびしい出版統制令を出して、政治への風刺や批判をおさえた。林子平が『三国通覧図説』や『海国兵談』で海岸防備を説いたことを幕政への批判とみて弾圧(1792年、批判内容ではなく幕閣以外が幕政を批判した廉(かど)で蟄居、翌年死去)し、黄表紙(山東京伝など)や洒落本(恋川春町など)が風俗を乱すとして出版を禁じ処罰した。

3.朝廷は、1789(寛政元)年、光格天皇の実父である閑院宮典仁(すけひと)親王に、太上天皇の尊号を宣下したいと幕府に同意を求めた。光格天皇は閑院宮家出身。このままだと実家の父の身分が臣下である摂関家より下になるので、親孝行から望んだもの。しかし、定信はこれを拒否し、武家伝奏ら公家を処分した。この一連の事件を「尊号一件」とよぶ。この事件を契機にして、幕府と朝廷の協調関係はくずれ、天皇の権威は尊王論の高まりとともに幕末に向かって浮上し始めた。


4.しかし奇(く)しくも将軍家にも同じ問題が生じる。すなわち一橋家から将軍になった徳川家斉が、同じく親孝行から実父一橋治済(はるさだ)に大御所の尊号を贈ろうとした。しかし定信がこれも拒否したため、家斉との不和が生じることに。

5.田沼時代の蝦夷地の直轄・開発方針とは異なり、1792年のラクスマンの根室来航に対し、鎖国体制の強化を図った。林子平を蟄居させた年に皮肉にも彼の警告通りラクスマンが来航したことになる。長崎回航を命じられたラクスマンが根室を出航、その寄港の恐れがある江戸湾海防のための出張中に、辞職を命じられ失脚。

6.経済発展の実態との乖離(かいり)が大きい、すなわち無理な抑制策を行わねばならない分、庶民をはじめとした不満は大きく、川柳「白河の清きに魚(うお)のすみかねて もとの濁(にご)りの田沼こひしき」 にその批判がよく表れている。

〈2016立教大・済コミュ福観光

 こうして儒学は、政治と生活の道徳となり、やがて寛政の改革期になると、幕府は緩んだ武士の風俗を教化しようと、儒学のなかでも朱子学を正学と定めた。またこれにあわせて、朱子学を振興し人材を発掘するために、幕府は( リ )という試験制度を導人した。この試験では朱子学の理解の程度が試され、旗本・御家人とその子弟のうち15歳以上のものに受験資格があった。

 また寛政の改革期に、幕府は林家の家塾を幕府直轄の学問所とし、地誌類や歴史書の編纂を担当させた。幕府が塙保己一を援助して江戸麹町に建てさせた( ヌ )では、古代からの文献を集めた『群書類従』が編纂されたが、これは学問所において編纂されたさまざまな書物とともに、現在の日本史研究の基礎文献となっている。」

(答:リ学問吟味、ヌ和学講談所、※学問吟味とは幕府が旗本・御家人を対象に聖堂学問所(昌平坂学問所)で実施した漢学の筆記試験。1792年(寛政4年)から幕末まで、計19回実施された)〉


〈2014明大・法(法律)

 天明の飢饉が始まり、百姓一揆や打ちこわしが全国で頻発するなか、1784(天明4)年に田沼意次の子で若年寄の意知が暗殺されたことをきっかけに意次の権勢は急速に衰え、1786(天明6)年、将軍徳川家治が死亡するとすぐに失脚した。翌1789(天明7)年には、c江戸・大坂などの主要都市で打ちこわしが相次いで起こった(天明の打ちこわし)。こうしたなか、白河藩主松平定信が老中首座となり、11代将軍家斉を補佐しながら祖父徳川吉宗の政治を理想として寛政の改革を進めた。定信はd退廃した士風を引き締めるとともに倹約を求めた。また1789(寛改元)年には、困窮する旗本・御家人の窮乏を救うために[ カ ]を出して札差に貸金を放棄させた。

問6 下線部cに関連して、山東京伝の弟岩瀬京山著『蜘蛛の糸巻』には「翌年天明七丁未年五月…茲にいたりて米穀動かず。米屋ども江戸中に閉す。同月廿日の朝、雑人共赤坂御門外なる米屋を打ち毀す。…同日同刻京橋南伝馬町三丁目万屋佐兵衛、万佐とてきこえたる、米穀問屋を打ち毀す。…」と述べられている。文中の「米穀動かず」とは、ある原因により誰も米を売るものがいないことをいうが、その原因とは何か。8字以内で記しなさい。

問7 下線部dに関連して、田沼時代に緩んだ士風を引き締めるため、1790(寛政2)年、寛改異学の禁が林家に命じられたが、「異学」とは朱子学以外の[ オ ]の学派をいう。空欄[ オ ]に該当する語句を記しなさい。


問8 空欄[ カ ]に該当する法令名を記しなさい。」


(答:問6米価が騰貴した、問7儒学(陽明学・折衷学・古学など)、問8棄捐令)〉


〈2013同志社大学・法グロコミュ

 御三卿田安宗武の7男として出生した松平定信は、1774年陸奥白河藩主松平定邦の養子に入り、のち藩主となり、天明の飢饉を乗り切り明君と称された。1787年老中首座に任じられ、享保政治を範として田沼政治の刷新を方針とした施政を行なった。その政治は寛政の改革と称される。農政においては勘定所役人を改め腐敗代官を摘発して、ケ備荒貯蓄の奨励、農村人口の回復をめざした人返し令などの勧農政策を、社会政策においては財政に窮したコ旗本・御家人の救済、町民の七分積金、出版統制などを行なった。田沼時代の蝦夷地の直轄・開発方針とは異なり、ラクスマンの根室来航もあって鎖国体制の強化を図り、また、朝廷に対して禁裏造営を行なう一方、サ朝権への統制も忘れることはなかった。田沼政治が時代の趨勢に応じるものであったのに対して、定信のそれは幕府政治の原則に立つものであったといえよう。

問ケ.従来より備荒政策はとられてきたが、天明の飢饉の経験は改めて貯穀の必要を痛感させた。以下にあげる史料は1790年に農民に対して備荒貯蓄を奨励したものである。空欄.ケの中に入る貯穀を意昧する言葉を漢字2字で記せ。


 近年凶作打続き候処、二三年以来作方多分宜しく候に付き、凶年之備等も自然と等閑に相成るべきやに候。殊に当年は米直段引下り、一統難儀之事に候。当年弥豊熟に候はば、成る丈け手繰り(都合がつき…注)次第に置籾( ケ )等中し付くべく候。


問コ.以下にあげる史料は1789年に札差に債権の全部または一部を放棄させる目的で幕府が発布した法令である。空欄コの中に入る言葉を漢字2字で記せ。


 旧来之借金は勿論、六ヶ年以前辰年までに借り請け候金子は、古借・新借之差別無く、( コ )之積り相心得べき事。


問サ.定信の行なった朝権統制の事件を次の1~4の中から1つ選べ。


 1紫衣事件 2宝暦事件 3尊号事件 4明和事件」


(答:問ケ囲米、問コ棄捐、問サ3)


定信)(宇下人言(うげのひとごと))(花月草紙(かげつそうし))。


[ポイント]

1.定信は引退後、随筆『花月草紙』や自伝『宇下人言』などを著した。

[解説]

1.『宇下人言』は成立年未詳。定信の自叙伝で、誕生から老中辞職直前までが記され、寛政の改革時の定信の政策意図やその思想がうかがえる。書名は「定信」の2字を分解したもの。「人」で「一」ではないので注意してください。

2.『花月草紙』は1818年成立。社会の諸相・人生・自然現象などに対する感想を記した随筆


〈2016立教大・現心社コミュ福:「

問10.この人物松平定信に関する記述として正しくないのはどれか。

 a.自伝『宇下人言』を著した

 b.徳川吉宗の孫である
 c.老中在任期間は6年余りだった
 d.老中在任中に紫衣事件が発生した

(答:d×紫衣事件は3代家光の時)〉


〈2013関西学院大学・済総合国際

C.寛政四五のころよりg.紅毛の書を集む。……兵器あるは内外科の治療、ことに益も少なからず。されどもあるは好奇の媒となり、またはあしき事などいひ出す。さらば禁ずべしとすれど、禁ずれば猶やむべからず。況やまた益もあり。さらばその書籍など、心なきものヽ手には多く渡り侍らぬやうにはすべきなり。上庫にをき侍るもしかるべし。されどよむものもなければ只虫のすとなるべし。

問8.史料Cを書いた人物として、正しいものを下記より選びなさい.


 ア.松平定信 イ.林子平

 ウ.岡田寒泉 エ.渡辺崋山

問9.下線部gに該当するもので正しいものを下記より選びなさい.


 ア.スペイン イ.ポルトガル

 ウ.オランダ エ.アメリカ

問10.Cの史料の内容として、誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しければ「エ」をマークしなさい。


 ア.集めた本には、兵器や医学において役に立つ知識が書かれている。

 イ.集めた本には、犯罪や刑法の内容が書かれている。
 ウ.集めた本は、幕府当局者以外の者に渡らないようにすべきである。」

(答:問8ア、問9ウ、問10イ※史料Cは『宇下人言』)〉

愛嬌 効かんて。


(相対(すま)し令・保の改革)(捐令・保の改革)


[ポイント]

1.相対済し令享保棄捐令寛政天保の施策。

 

[解説]
1.相対済し令は、享保の改革の一環として、物価高騰に伴い借金に関わる訴訟が増大したため訴訟裁判の軽減を図るということで、1719年に、悪質なものを除き訴訟を受理せず当事者間で解決させるという法令で、同時に旗本・御家人の救済もねらったもの。しかし金融上の混乱が続いたため1729年に廃止した。

2.棄捐令は、江戸幕府が旗本・御家人救済のために出した法令で徳政令の一種。札差に対する借金の帳消しや低利による年賦償還などを命じたもの。1789(寛政元)年と1843(天保14)年に、寛政の改革天保の改革で出された。

 

〈2016早大・法

  江戸時代にも一種の徳政令が、それぞれの不況期において困窮した武士等の保護対策として出された。寛政の[ C ]は、松平定信が寛政の改革の一環として、1789年に出した。これは、貨幣経済に巻き込まれて困窮する御家人・旗本・庶民を救済するために、札差に6年以前の貸し金の放棄をさせ、以後のものを低金利化させる法令であった。

問8 空欄Cに入る語を漢字で記述解答用紙に記入しなさい。」


(答:棄捐令)〉


〈2016立教大・法済異文

問2.これ札差に対して旗本・御家人への貸金を放棄させた、寛政の改革における法令の名をしるせ。」

(答:棄捐令)〉


〈2012明大・文学部

 以下の各文は江戸幕府の享保の改革に関する文章である。正しいものを次の1~5のうちから一つ選べ。

 1.1716年(享保元)、紀州藩主徳川吉宗が8代将軍になると、吉宗は家康時代への復古をかかげて幕政の改革に取り組んだ。

 2.1722年(享保7)には上米の制が定められたが、幕府財政の立直しの本筋は年貢増徴策であり、そのため広くとり入れられたのが検見法である。

 3.有能な人材を登用のため足高の制が定められた。町奉行大岡忠相や『農業全書』の著者田中丘隅も吉宗によって抜擢された人材である。

 4.棄捐令を出し、激増してきた金銭貸借をめぐる訴訟をその当事者どうしで解決させる一方、公事方御定書を編纂し法制の整備にもつとめた。

 5.江戸・大坂周辺の地を幕府直轄地とし、対外防備の強化をねらった上知令を発令した。」

(答:1 ※2×検見法→定免法、3×田中丘隅→宮崎安貞、4×棄捐令は寛政の改革と天保の改革、5×上知令は天保の改革)〉


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徳川御三家

2016-11-24 | 『新日本史頻出年代暗記』


およしきよりのみとよりふ。

尾張=義直 紀伊=頼信 水戸=頼房


1.徳川御三家紀伊水戸尾張の三家

1.将軍と主従関係を結んだ1万石以上の武士を大名といい、大名は将軍との親疎関係で親藩譜代外様に分けられる。親藩三家(尾張・紀伊・水戸の3藩)など徳川氏一門の大名、譜代ははじめから徳川氏の家臣であった大名、外様関ヶ原の戦い前後に徳川氏に従った大名をいう。これらの大名の配置にあたっては、親藩・譜代を要所に、有力な外様はなるべく遠隔地に配置した。

2.御三家(三家)とは、家康の第9子義直・10子頼信・11子頼房がそれぞぞれたてた尾張紀伊(紀州)・水戸の3家をいう。水戸家以外は将軍に継嗣がないときは将軍家を継ぐ。水戸家が将軍継嗣ができないことについては諸説あるが不明。水戸家は35万石で2家(尾張62万石、紀伊56万石)に比べ領地がかなりせまいが、江戸に近く、また江戸常府とされていたのが特長。

〈2013青山学院・文教育済法営

 大名は親藩・譜代・外様にわけられ、親藩のうち尾張、[ チ ]、水戸の三藩は御三家とよばれ、将軍を補佐し、将軍後嗣を出す家柄として、別格扱いを受けた。譜代は関ケ原以前からの家臣、外様は関ケ原以後従った者として区別された。

問17.空欄[ チ ]に当てはまる語句を、次の1~4の中から一つ選べ。


 1田安 2一橋 3清水 4紀伊


(答:4)〉

御三卿(創設順) 

休むだけ一つ棟ただシミしげよ。

田安宗武一橋宗尹 清水重好

[ポイント]
1.御三卿田安一橋清水の三家。

[解説]
1.御三卿御三家につぐ家格で、三家に次いで将軍を継嗣する。田安一橋は8代将軍吉宗の第2子(宗武)・4子(宗尹)が、清水は9代将軍家重の第2子(重好)が建てた家。これ以降、将軍家に後嗣がないときは御三家に加えて御三卿から選定することになった。第11代将軍家斉と第15代将軍慶喜が一橋徳川家から、田安徳川家から家達(いえさと)(16代だがもはや幕府は消滅)が、それぞれ徳川宗家を相続している。

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1772(安永元)年 〈田沼意次、老中就任〉★

2016-11-22 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(後桃園天皇 徳川家治)
1772(安永元)年 〈田沼意次、老中就任〉★
Tanuma Okitsugu becomes roju (senior councilor) and attempts to increase shogunal income through the expansion of commerce.

非難名に負う 意次は。 

1772年 南鐐二朱銀 田沼意次 家治

18世紀に入ると貨幣経済が広まり、貨幣収入のない百姓の生活は困窮。さらには飢饉の発生などから百姓一揆は増加した。このような中で幕政を指導した田沼意次は貨幣制度の一本化を試み、老中となった1772年に南鐐二朱銀の発行を命じた。また、商工業者の株仲間を公認して特権を与え、かわりに運上・冥加を納めさせて幕府財政の不足を補った。


[ポイント]

1.田沼意次は、1767年から、手賀沼印旛沼の干拓、長崎貿易の奨励、専売制度を拡大、南鐐二朱銀の発行、株仲間を公認し、運上金冥加金を課す、蝦夷地開発計画をたて最上徳内に探検させた。

[解説]
1.意次は、年貢増徴だけにたよらず民間の経済活動を活発にし、そこで得られた富の一部を財源にとり込もうとした。そのために、都市や農村の商人・職人の仲間を株仲間として広く公認し、運上冥加など営業税の増収をめざした。


2.幕府の専売のもとに、銅座真鍮座朝鮮人参座などが設けた。


3.意次は、はじめて定量の計数銀貨南鐐二朱銀を鋳造させ、を中心とする貨幣制度への一本化をこころみた。


4.意次は、江戸や大坂の商人の力を借りて印旛沼手賀沼の大規模な干拓工事をはじめるなど、新田開発を積極的にこころみた。しかし干拓は、利根川の氾濫で挫折した。


5.意次は仙台藩江戸詰医師工藤平助赤蝦夷風説考』の意見を取り入れ蝦夷地開発計画をたて、最上徳内らを蝦夷地に派遣して、その開発やロシア人との交易の可能性を調査させた。


6.旗本佐野政言(まさこと)は、意次の子で若年寄田沼意知(おきとも)を暗殺し、「世直し大明神」とはやされた。


7.賄賂(わいろ)が横行し、天明の飢饉の対応に失敗し、松平定信により失脚した。


8.1767年の明和事件で、山県大弐(やまがただいに)を死刑に処し、竹内式部を遠島処分とした。


9.蘭学を奨励し、平賀源内を登用した。

 

 〈2016明大・農:「
 徳川吉宗のあと、9代[ 2 ]、10代[ 3 ]が将軍職についたが、[ 3 ]の側用人から老中にすすんだオ田沼意次が権勢をふるった。意次は、収入源をもっぱら土地からの年貢に求める従来のやり方を改め、年貢に加えて経済・流通政策による収入も重視した。都市や農村の商工業者に[ 4 ]の設立をすすめ、営業独占を認めるかわりに運上・冥加を上納させた。特定の御用商人に銅・鉄・真鍮・朝鮮人参などの座をつくらせ、流通の統制と運上徴収をはかった。

 カ.田沼政治は町人の経済力を利用して幕府収入を増やしたが、[ 4 ]による独占の弊害や賄賂の横行による士風の退廃をもたらし、人々の批判をあびた。また、天明年間に浅間山噴火や冷害によって大飢饉(天明の飢饉)がおこり、奥羽地方を中心に多くの餓死者・病死者を出した。百姓一揆や打ちこわしが頻発するなか、意次の子で若年寄であった田沼意知が暗殺されたことをきっかけに意次の権勢は衰え、1786(天明6)年、将軍[ 3 ]の死の直後に意次は失脚した。翌年には江戸・大坂などで大規模な打ちこわしがおこった。


問6 空欄(2~3)に適切な人物名の組み合わせとしてもっとも適切なものを下記から一つ選べ。


 A 2徳川家継 3徳川家重

 B 2徳川家継 3徳川家治
 C 2徳川家重 3徳川家継
 D 2徳川家重 3徳川家治
 E 2徳川家治 3徳川家継
 F 2徳川家治 3徳川家重

問7 空欄4に入る用語を漢字で記入せよ。


問8 下線部オに関連して、田沼意次が行った政策について記述した文章として適切でないものを一つ選べ。


 A はじめて南鐐二朱銀などの計数銀貨を鋳造させ、金銀通貨の一本化をねらった。

 B 銅座に貿易用の銅の独占確保をおこなわせた。
 C 俵物役所を設けて俵物の輸出を奨励した。
 D 蝦夷地の開発やロシアとの交易を計画して、間宮林蔵らに北方調査をおこなわせた。
 E 新田開発に力を入れ、利根川水系の印旛沼・手賀沼の干拓に着手した。

問9 下線部(カ)に関連して、田沼政治への風刺としてもっとも適切なものを一つ選べ。


 A 世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜もねられず

 B 世わたりに春の野に出て若菜つむ わが衣手の雪も恥かし
 C 侍が来ては買ってく高楊枝
 D 歌よみは下手こそよけれ天地の 動き出してたまるものかは
 E 年号は安く永しと変れども 諸色高直いまに明和九

(答:問6D、問7株仲間、問8D、問9E※明和9(1772)年を明和元年とした。田沼はこの年老中になったので、これを田沼政治への批判の句とするのはどうかなと思うのだが、他にないので)


〈2016同志社大・全学部

 幕府財政は8代将軍吉宗の改革によって一時的に立ち直りをみせたが、しかしその後18世紀後半には再び行き詰まることとなった、このとき政務を担ったのが田沼意次である。彼は1O代将軍( オ )のもとで従来の緊縮政策を捨て、i商業資本の積極的利用による財政再建をはかろうとした。しかし賄賂政治への批判や、カ天災などの世情不安もあり、急速に支持を失っていった。

【設問オ】空欄( オ )に入る人物名を次のうちから選べ。

 1.家重 2.家治 3.家慶 4.家斉

【設問i】田沼意次は町人の経済力を利用して、利根川水系の手賀沼・[   ]の干拓を行なおうとした。

[   ]にあてはまる湖沼の名称を、漢字で記せ。


【設問カ】江戸時代には冷害・噴火など天災を主因とする飢饉が発生したが、以下の4つの飢饉について、その番号を起こった時期の古い順に並べて、記入せよ。


 1.享保の飢饒 2.天保の飢饉

 3.天明の飢饉 4.寛永の飢饉」

(答:オ2、i.印旛沼、カ4→1→3→2)〉


〈2015関西学院大・文法商人間

問10 下線部jの人物田沼意次の政策に関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。

 ア 経済の活性化のため、株仲間を禁止した。

 イ.民間の経済活勤の活性化と冥加・運上の増収によって財政の立て直しを図った。
 ウ.積極的な新田開発が功を奏し、彼の老中在任中に百姓―揆や打ちこわしは生じなかった。
 エ.金銀の海外への流出を警戒し、対外貿易には消極的であった。」

(答:イ)〉


〈2014早大・文化構想

 近世には、江戸・大坂・京都などの大都市が発展したが、特に大坂は「天下の台所」といわれ、日本における経済の中心となった。大坂では幕府や各藩の年貢米や特産物が[ D ]に集まって保管され、商品として販売された。販売を請け負ったのは蔵元や掛屋とよばれる商人だった。一方、経済の発展とそれに伴う問題は、江戸幕府の政治をしばしば動揺させた。d.幕府のいわゆる三大改革やその間の田沼政権は、経済問題への取り組み抜きには語れない。

問8 下線dに関連して述べた文のうち誤っているものはどれか。2つ選べ。


 ア 享保の改革では、大名に対して参勤交代を半年にするかわりに上米を命じた。

 イ 享保の改革では、米価安定のために大坂堂島の米市場を公認した。
 ウ 田沼政権では、株仲間の範囲を積極的に広げ、江戸の二十四組問屋などを公認した。
 エ 寛政の改革では、札差の保護を図るために棄損令を発布した。
 オ 天保の改革では、株仲間を物価高騰の原因とみなして、株仲間解散令を発布した。」

(答:D蔵屋敷、問8ウ・エ ※ウ×二十四組問屋は大坂、エ×旗本・御家人の保護)〉


〈2014立教大・現心コミュ福祉観光営

問6.この時期(田沼時代)に行われた政策に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a 株仲間を広く公認する代わりに、運上金・冥加金などを上納させた。

 b 治安対策として石川島に人足寄場を設け、無宿人に職業技術を授けた。

 c 南鐐二朱銀などの計数銀貨を鋳造し、銀を中心とする貨幣制度の確立を試みた。

 d 最上徳内が中心となって、蝦夷地の開発やロシアとの交易から実利をあげた。

(答:a ※b×寛政の改革、c×金中心に、dまだ探検段階)〉


〈2013青山学院・文

 冷害による大凶作に端を発した天明の飢饉は、陸奥国を中心に江戸時代最大の餓死者を出した。同じ頃[ ア ]が噴火して大きな被害が出、数年後には関東地方などが洪水の被害で大凶作となった。こうした天明年間の一連の災害による大凶作・飢饉によって、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発した。この時期政治を主導していたのは、a田沼意次であったが、[ 1 ]のb.田沼意知が殺されたのち勢力を失い、将軍[ い ]の死去とともに、失脚した。その後政治の主導権をめぐって激しい権力闘争が行われたが、江戸をはじめとして全国で大規模な打ちこわしが発生したことを契機として、田沼派が一掃され、政権交代が実現した。

問1 空欄アに該当する語句を記せ。


問2.空欄[ 1 ]に該当する当時の役職名を一つ選べ。


 1老中 2若年寄 3大老 4江戸町奉行


問3 空欄い)に該当する将軍名を答えよ。


問5.下線部a田沼意次について、この人物のとった政策として誤っているものを一つ選べ。


 1 幕府財政を再建するため、民間の経済活動を活発にし、株仲間を広く公認して運上・冥加などの増収をめざした。

 2 江戸や大坂の商人の資金を活用し、印旛沼・手賀沼の干拓工事を行った。
 3 最上徳内らを蝦夷地に関連して、蝦夷地の開発やロシア人との交易の可能性を調査した。
 4 はじめて定量の計数銀貨を鋳造し、銀を中心とする貨幣制度への一本化をはかった。

問6.下線部b田沼意知について、(1)(2)の問に答えなさい。


(1)この人物を殺した旗本は誰か。次の中から一つ選んでマークしなさい。


 1大岡忠相  2佐野政言
 3佐倉惣五郎 4大塩平八郎


(2)(1)で解答した人物は民衆からどのようにもてはやされたか。次の中から一つ選んでマークしなさい。


 1義民     2八幡大菩薩
 3世直し大明神 4東照大権現」


(答:問1ア浅間山、問2→2、問3家治、問5→4×はじめて金貨の単位を表した銀貨を作ったのだから、金を中心とする貨幣制度への一本化、問6(1)→2、(2)→3)〉


田沼時代・座・座)(真鍮(しんちゅう)座)(朝鮮人参)


[ポイント]

1.田沼意次真鍮朝鮮人参などを幕府専売とした。

[解説]

1.意次はゆきづまった幕府財政を再建するために、年貢増徴だけにたよらず民間の経済活動を活発にし、そこで得られた富の一部を財源にとり込もうとした。そのために、都市や農村の商人・職人の仲間を株仲間として広く公認し、運上冥加など営業税の増収をめざした。この一環として幕府の専売のもとに、銅座鉄座真鍮座朝鮮人参座などが設けられた。

〈2014立教大・現心コミュ福祉観光営

問12.12.幕府の老中は、さまざまな政策を実行しに関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.松平定信は、印旛沼と手賀沼の干拓事業に着手した

 b.松平信明は、人参座を設け、朝鮮人参の専売を始めた
 c.水野忠成は、金・銀の含有率を下げた貨幣を発行した
 d.水野忠邦は、上知令を出して、江戸と長崎周辺の私領を幕領に編入した」

(答:c〇家斉代の老中首座で、文政の貨幣改鋳による財政立て直しを行うが賄賂を横行させた ※a・b×田沼意次の政策、d×江戸と大坂)〉


〈2013学習院大学・経済

 続く18世紀後半に実権を握った田沼意次は年貢増徴だけに頼らず、都市や農村の商人・職人の仲間を株仲間として広く公認し、運上や冥加など営業税の増収をめざした。この一環として、幕府の専売のもとに設けられた直営の座として15〔イ真鍮座 ロ油座 ハ金座 ニ綿座 ホ銀座〕がある。」

(答:イ)〉

〈2012明大・文学部

 以下の江戸幕府の政策についての文章のうち、田沼時代の政策には1)を、寛政の改革における政策は2)をマークし、どちらでもない政策には3)を選べ。

 1 『三国通覧図説』や『海国兵談』を著して蝦夷地開拓と海岸防備の必要性を説いた林子平を人心を惑わせるものとして処罰した。

 2 困窮した旗本・御家人への対策としては、札差に旗本・御家人への貸金を放棄させ、江戸に流入してきている貧農層への対策としては、旧里帰農令を出して農村に帰ることを奨励した。
 3 都市や農村の商人・職人を株仲間として広く公認し、その一環として幕府の専売のもとに銅座・真鍮座・朝鮮人参座等を設け、営業税の増収をめざした。
 4 ロシアは使節ラックスマンを根室に派遣し、漂流民大黒星光太夫等の送還とともに日本に通商を求めたが、幕府は通商を拒絶した。
 5 将軍と皇女との婚約をまとめたり、宮家(親王家)が三家しかなかったので、閑院宮家を創設して、天皇家との結びつきを強めた。
 6 『赤蝦夷風説考』で蝦夷地開発とロシアとの交易の必要性を説いた工藤平助の献策をいれ、蝦夷地開発計画を立て調査隊を派遣した。
 7 金との交換価値を表示した定量銀貨の南鐐二朱銀を鋳造し、貨幣の流通量を増やそうとした。」

[ポイント]
1.明和五匁銀の失敗の後、8枚で1両に交換できる南鐐二朱銀を発行した。

[解説]

1.江戸中心の金貨(計数貨幣)と大坂中心の銀貨(秤量(しょうりょう)貨幣)の交換(東西の金融決済など)は、必然的に両替というコスト(両替商が手数料を上乗せ、かつ毎日変動)を必要としていた。

2.田沼意次は、銀貨を金貨にリンクさせ、金貨を中心とする貨幣制度への一本化をこころみた。
 幕府は1765(明和2)年(田沼が側用人になるのは1767年)、明和五匁銀(銀の純度約46%)を鋳造し、為替レートの 固定化(両替は必要ない)を狙った。すなわち、この明和五匁銀12枚(60匁)と小判1枚を交換可能とするものであった。しかしこれは当時の実勢レートに合わず、両替商の抵抗もあり、ほとんど流通せず失敗に終わった。
 そこで田沼意次は、新たに1772(安永元)年から、純度を上げ金2朱として通用する南鐐弐朱銀を大量鋳造することにした。「南鐐」とは上質な銀(銀の純度約97%)のこと。8枚(金2朱×8=16朱)で小判1枚(金16朱)と交換と定めた。両替商の抵抗はあったが、今度は徐々に浸透、丁銀、豆板銀といった秤量銀貨が少しずつ消えていくことになった。

〈2012明大・商学部:「
 田沼時代には、商工業者の組織化政策、あるいは専売制の実施など、各地で発展しつつあった商品生産・流通からもたらされる富を財政の補強のために使おうとする経済政策が展開した。貨幣政策でもそれまでの三貨を金に一本化して貨幣制度の安定をはかるために計数銀貨の発行を実施した。これは田沼意次が老中に就任する直前に発行された明和(d)【1)五分 2)五貫 3)五両 4)五匁 5)五朱】銀の政策意図を踏襲したもので、金銀の相場により変動する貨幣制度を強制的に安定させる目的をもっていた。ただ、この貨幣は鋳造数が少なかったうえ、取り扱いもかさばって使いにくかったため、1772年、97%の純度を持つ[ 4 ]銀を発行した。この銀貨(e)【1)2 2)3 3)4 4)8 5)12】枚で金1両に相当する計算になった。幕府は同貨幣の流通を公金貸付制度と一緒に実施することで成功に導き、天明期には流通の安定基盤が確保されたといわれている。」
(答:d4、[ 4 ]→南鐐二(弐)朱、e4 ※「明和五匁銀」が最初の定量銀貨。あまり流通せず再度の「南鐐二朱銀」で成功)〉

 

 



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1716(享保元)年 〈享保の改革〉★★

2016-11-18 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(中御門 徳川吉宗)
Tokugawa Yoshimune embarks on a strenuous program of bureaucratic and financial reforms. known as Kyoho Reforms.
非難異論も 今日はよし。
1716年    享保の改革 8代将軍 徳川吉宗 新田開発

1716年、7代将軍徳川家継が死去し、御三家《 徳川家康の子を藩祖とする紀伊・尾張・水戸の三藩。「君とは終わり」と覚えよう!》の紀伊藩主徳川吉宗が8代将軍に就任。

吉宗は家康時代への復古を掲げて封建支配を立て直すとともに、新田開発・増税などによる財政再建に努めた(享保の改革)。
                  
〈享保の改革〉 8代将軍となった徳川吉宗は足高の制を設けて有能な人材(町奉行を経て大名となった大岡忠相が有名)を登用。さらに裁判の基準となる公事方御定書を制定して法にもとづく合理的な政治を進めた。また、金銀貸借についての争いを当事者間で解決させるため、1719年に相対済し令を出した。また、年貢収入の増加を図るため、徴収の方法を従来の検見法から定免法へ改め、年貢率を4公6民から5公5民とした。さらに吉宗は評定所に目安箱という投書箱を設けて、庶民の意見を聞き入れた。この投書から貧民の救済施設である小石川養生所がつくられた(目安箱の〈コ〉と小石川の〈コ〉を尻取りにして押さえよう)。


[ポイント]

1.享保の改革期に、荻生徂徠室鳩巣(侍講)、田中丘隅(農政家)、野呂玄丈青木昆陽(蘭学者)、神尾春央(勘定奉行)、大岡忠相(町奉行)、などが登用された。

[解説]

1.吉宗は、1740年、青木昆陽野呂玄丈蘭語学習を命じた。これがのちの蘭学隆盛の基礎となる。吉宗は、青木昆陽には加えて甘藷栽培の奨励をさせ、漢訳洋書輸入を緩和した。

 

2.青木昆陽(1698~1769)は、江戸日本橋の魚屋の子。京に上り伊藤東涯に古義学を学び、江戸八丁堀に塾を開く。折からの享保の飢饉に書いた『蕃薯考(ばんしょこう)』が大岡忠相を通じて吉宗に認められ出仕。以後甘蔗の普及につとめる。吉宗の命を受け野呂玄丈とともにオランダ語学習につとめ、その成果は前野良沢によって継承され、のちの蘭学興隆の基となった。

 

3.野呂元丈(1694~1761)は、吉宗の御目見(おめみえ)医師。青木昆陽とともにオランダ語書籍解読および西洋本草(ほんぞう)(薬草)導入の先駆(さきが)けとなり、のちの蘭学興隆の道を開拓。

 

4.荻生徂徠(1666~1728)は、綱吉の侍医の子。父の不遇時代に上総(かずさ)の農村で暮らす。この経験が実証的な学者となる基礎となる。やがて儒学者として柳沢吉保につかえる。吉保の失脚後は官を持し江戸で私塾蘐園塾(けんえんじゅく)を開き、古文辞学を大成。さらに吉宗に登用され、幕政の改革を述べる『政談』を献じた。

 

5.室鳩巣(1672~)は、はじめ金沢藩に仕え、藩主・前田綱紀の命で京都の木下順庵の門下となる。新井白石の推挙によりで、江戸幕府の儒者となり、家宣、家継、吉宗の3代に仕え、享保の改革ではブレーンの役割を果たす。赤穂事件においては赤穂浪士を擁護した。

 

6.神尾春央(1687~1753)は、勘定奉行として徹底した検地や隠田の摘発で幕領耕地の拡大に努めた能吏。「胡麻(ごま)の油と百姓は、絞(しぼ)れば絞るほど出る」(本多利明西域(せいいき)物語』)と語ったとされる。

 

7.大岡忠相(1677~1752)は、24歳で養父の1920石の旗本家を継ぐ。41歳で町奉行に昇進。後世の脚色された「大岡政談」などで人情味あふれる名奉行の評判をのこす。素顔は、訴訟・裁判が山積する町奉行の業務を迅速にこなす有能な封建官僚だった。最後にはたびたびの加増で1万石の大名となった。

 

8.田中丘隅(1662~1729)は、農政家。東海道川崎宿の名主の家を継ぎ、衰微していた川崎宿の復興につとめる。1723年大岡忠相から農政や治水について諮問されたのをきっけに、幕命により荒川・酒匂川(さかわがわ)・多摩川などの治水に成功。晩年その功により、武蔵国の代官に任じられた。

 

〈2016関西大学・全学部
問12 この史料にあるように西洋の事物が紹介され、やがて蘭学が発達した。青木昆陽や野呂元丈にオランダ語を学ぶよう命じた将軍は誰か。

 ア徳川綱吉 イ徳川吉宗 ウ徳川家重」


(答:イ)〉


〈2016立教大・文

10.これ(享保の改革)に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.勘定奉行の神尾春央は「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほど出る」と述べたと伝えられる

 b.徳川吉宗に登用された寺西封元は、『民間省要』という農政建言書を書き上げた
 c.徳川吉宗はキリスト教関係以外の漢訳洋書の輸入制限をゆるめ、野呂元丈にオランダ語の習得を命じた
 d.徳川吉宗は諸大名や商人に買米令や廻送制限令を出し、米の公定価格を決め、米価の下落を抑えようとした」

(答:b×寺西封元→田中丘隅)〉


〈2015早大・人間科学

問6 下線部e8代吉宗の諮問に答えた『政談』の著者は誰か、1人選べ。もし該当するものがなければ、カを選べ。

 ア室鳩巣 イ太宰春台 ウ荻生徂徠
 エ野呂元丈 オ石田梅岩


(答:ウ)〉


〈2013同志社大学・法グロコミュ

オ.吉宗は、1717年にある人物を町奉行に任命し、江戸市中の改造に取り組ませた。彼は江戸を防災都市とする種々の政策を行なった。この人物名を漢字で記せ。

(答:大岡忠相)〉


〈2012立教・経済法異文化コミュ〉

 8代将軍徳川吉宗は,幕府財政の悪化に対処するため,享保の改革を実施した。吉宗は,山田奉行から江戸町奉行に抜擢された〈 あ 〉や,『民間省要』の著者で宿駅の名主でもあった( ロ )など,有能な人材を多く登用した。また,幕府財政の安定をめざして年貢の徴収方法を〈 い 〉に変えるなど,さまざまな施策を実施した。

(ロ)a大蔵永常 b大原幽学
   c田中丘隅 d二宮尊徳」


(答:あ大岡忠相、い定免法、ロc)〉

 

ミカン西洋棚救具。

民間省要(せいよう)川崎宿 田中丘隅(きゅうぐ)


[ポイント]
1.田中丘隅は『民間省要』を著した。

[解説]
1.田中丘隅(1662~1730)は、東海道川崎宿の名主で、農政家。農家に生まれたが農業のかたわら絹売買で各地を回り、かついつも書を離さないという向学心の持ち主だった。

2.その人物を見込まれ東海道川崎宿の本陣名主田中家の養子に迎えられる。家督を義父から継ぎ本陣名主問屋役の三役として、衰微していた川崎宿の復興につとめる。

3.丘隅は50歳のとき家督を子に譲り、念願の江戸遊学を果たし荻生徂徠に学ぶ(のちの伊能忠敬も養子に入り家業を栄えさせ50歳で江戸遊学を果たし高橋至時に学ぶ)。

4.丘隅は、土木治水の技術に長け、1723年(享保8年)大岡忠相から農政や治水について諮問されたのをきっけに、吉宗に登用されて荒川・酒匂川(さかわがわ)・多摩川などの治水に成功。晩年その功により、武蔵国の代官に任じられた。

〈2016早大・教育

 a17世紀は開発の時代であったが、やがてそれは頭打ちとなり、b18世紀にはさまざまなかたちで行き詰まりを見せるようになった。そうした状況を社会の側から克服しようとした知識人を、[ A ]に巧みな者という意味で[ A ]巧者という。村社会の事情に精通し、その経験にそって農政についての提言を行った彼らは、村の運営に関わる村方三役([ A ]三役ともいう)とは別に、この時期の村社会の変化に対応した支配を進めようとする領主に登用された。

 その一人に、川崎宿の名主であった田中丘隅がいる。丘隅は宿の名主であった経験をもとに『[ B ]』という農政書を1721年にまとめ、将軍[ C ]に献上した。丘隅は『[ B ]』のなかで、c.地主小作関係の進展の事情、[ D ]法の利点などを説いているほか、下記の引用部分では画期的な提言を行っている。彼の視点は必ずしも下層百姓の立場のものとはいえないが、百姓の意見を反映させようとする構想を具体的に提言しているという点で注目される。ただし、[ A ]巧者による農政は、村社会にとって評価される事業ばかりではなかった。百姓の負担増加に荷担して、百姓一揆の原因をつくった事例もある。


 江戸時代中期以降、領主は村社会の実情に通じている地域有力者を無視して支配を貫徹することができなくなっていく。地域有力者の地域統治の実力を利用する見返りに、彼らに対して[ E ]の権利が与えられることもあった。田中丘隅は支配勘定格に取り立てられた。それだけ民間の力量が成長してきたということである。


〈史料〉

万事にわたり且卑賤の事を知って、世上に望みなく、その志を遂げ、国土の為に身命をなげうち、誠をつくして世に望みなき人を四十人選出して用いるべし。その品、
  一 五人  仕官[ F ]の御内より
  一 五人  同[ G ]の内より
  一 五人  僧侶の中より
  一 拾五人 諸国農家より
  一 拾人  諸都商家より
    以上

(中略)これを代わる代わる半分は国土に出して四海の邪正を聞き、半分は都内におらしめ、(中略)奉行・評定衆の異見の上に一切の政事・公事沙汰に至る迄、悉くこれらに尋ね問い、その道々の深き味をよく察し、よく計って決断するにおいては、何事も的中して相違有る事あらじ。


問1 空欄[ A ]を漢字で答えなさい。


問2 空欄[ B ]を漢字で答えなさい。


問3 空欄[ D ]は、この時期に幕府領で採用された新しい年貢徴収方法である。適切な語を漢字二字で答えなさい。


問4 下線部aに関して、17世紀の過剰開発のために起こった水害で、消滅したといわれる町はどれか。


 ア美濃加茂 イ福原 ウ近江八幡
 エ草戸千軒 オ敦賀


問5 下線部bの結果、18世紀に起こった出来事として適切なものをすべて選べ。


 ア田畑永代売買の禁止発令

 イかぶき者の登場
 ウ江戸富裕層への打ちこわし
 エ異国船打ち払い令の発令
 オ株仲間の結成・公認
 カキリシタン一揆の発生

問6 空欄[ C ]の政策でないのはどれか。


 ア足高の制

 イ公事方御定書の制定
 ウ蝦夷地の調査
 エ漢訳洋書の輸入緩和
 オ室鳩巣の登用

問7 下線部cを背景に、1720年代に起こった事件を何というか。


 ア質地騒動 イ伝馬騒動

 ウ嘉助騒動 エ郡内騒動
 オ三方領知替え反対一揆

問8 空欄[ E ]には士分の地位を示す語が入る。それはどれか。


 ア地下検断 イ苗字帯刀 ウ鉄砲所持

 エ新恩給与 オ知行宛行

問9 空欄[ F ]には将軍家臣、空欄[ G ]には大名家臣、を意昧する語が入る。その組み合わせとして正しいものはどれか。


 アF一直参  G一奉公人

   イ.F一陪臣  G一奉公人 
 ウF一奉公人 G一中間
 エF一陪臣  G一中問   

問10〈史料〉の引用部分が意昧していることについて、適切なものを選べ。


 ア 身分別に改革案を募り、その方法を世に問うことを提言している。

 イ 身分別の議会を設置し、自治を認めることを提言している。
 ウ 身分別に代長者を選出して、それらの意見を反映させた政治の実現を提言している。
 エ 身分別に支配を行う方法を撤廃し、身分の解消を提言している。
 オ 身分別に選出された陪審員が、異なる身分の裁判にも参加することを提言している。」

(答:1地方、2民間省要、3定免、4エ、※「草の戸も消滅するぞ雛(17世紀)の家。」5ウ・オ、6ウ、7ア、8イ、9.ア、10ウ)〉

 

〈2013立大・経済法異文化コミ

 享保の改革……『民間省要』の著者で宿駅の名主でもあった( ロ )など

(答:田中丘隅)〉




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1709(宝永6)年 〈正徳の治始まる(~1716年)〉★

2016-11-14 | Weblog

●江戸時代(中御門 徳川家宣)
1709(宝永6)年 〈正徳の治始まる(~1716年)〉★
Arai Hakuseki becomes a key shogunal adviser; commencement of the series of reforms known as the Shotoku no Chi.

人なお苦し あら承知。
1709年    新井白石   正徳の治

1709年、6代将軍家宣の侍講となった朱子学者の新井白石は、続く7代家継にも仕え、側用人の間部詮房と協力して正徳の治とよばれる文治政治を展開。閑院宮家創設や、朝鮮通信使の待遇を簡素化するなど、将軍の権威を高めると同時に経費の軽減もはかった。しかし、幕府が直面しつつあった財政危機には根本的な対策を欠き、8代将軍吉宗の登場で、詮房とともに退任した。


《新井白石の著書》

木下順庵に学んだ朱子学者の新井白石には多くの著書があり、その内容と主に覚えておく必要がある。
大名の系譜と伝記を集録した『藩翰譜』、西洋事情について記した『西洋記聞』、自伝の『折たく柴の記』、古代史についての『古代史通』、シドッチを尋問して著した『采蘭異言』、徳川幕府の正当性を主張した『読史余論』(「とく」➡「徳川」)などである。


白石おりこう、才で説く。
新井白石 『藩翰譜』 『西洋記聞』 『折たく柴の記』 『古代史通』 『采蘭異言』 『読史余論』

 

[ポイント]
1.正徳の治は、家宣家継代の1709年に、新井白石間部詮房が開始した。

[解説]
1.正徳の治(1709~16)とは、6代家宣(綱吉の養子)・7代家継(家宣の子)時代に侍講(将軍に講義する職。白石のように政治顧問とされる場合も多い)で朱子学者の新井白石と側用人の間部詮房が実施した幕政改革。

 

2.綱吉の死後、6代将軍徳川家宣(1662~1712)は生類憐みの令をただちに廃止し、柳沢吉保を退けて儒学の師で朱子学者の新井白石(1657~1725)と側用人間部詮房(1666~1720)を信任して、政治の一新(正徳の治)をはかったが、わずか3年後に死去した。

 

3.その後を継いだ家宣の子家継(1709~16)はわずか3歳の将軍になったため、引き続き新井白石が中心となって正徳の治をすすめた。

 

〈2016関西学院大学・全学部

 次の文章について、a・bともに正しい場合はアを、aが正しくbが誤りの場合はイを、aが誤りでbが正しい場合はウを、a・bともに誤りの場合はエをマークしなさい。

8a.朱子学者の木下順庵は、加賀の前田綱紀に招かれた。新井白石や室鳩巣らは順庵の門人である。

 b.前野良沢や杉田玄白は、オランダ語訳の解剖書を訳述して『解体新書』を刊行した。その苦心談は杉田玄白の『蘭学事始』に記されている。」

(答:ア)〉


 

〈2015関西学院大・文法商人間

B.江戸時代には、老中に将軍の命令を伝達する役割を担う側用人が、幕府政治において大きな役割を担うことがあった。たとえば、徳川綱吉将軍期にはf大老堀田正俊暗殺ののち、g柳沢吉保が側用人に任ぜられ重用された。また、徳川家宣・家継将軍期には、[ h ]が側用人として実権を握った。i徳川吉宗は側用人政治を嫌ったが、徳川家重将軍期には大岡忠光、徳川家治将軍期にはj田沼意次(のちに老中となる)が、徳川家斉将軍期には水野忠成が、それぞれ側用人として幕府政治に強い影響力を持った。

 

 6.下線部fの大老堀田正俊暗殺事件以前に起きた出来事を下記より選びなさい。

 ア 公事方御定書の制定
 イ.閑院宮家の創設

 ウ.目安箱の設置
 エ.シャクシャインの乱


7.下線部gの人物柳沢吉保が幕府の実権を握っていた時期に起きた出来事として、誤っているものを下記より選びなさい。


 ア.赤徳藩主浅野長矩が、江戸城内で高家吉良義央に新りつけた。

 イ.朝鮮通信使の待遇を簡素化した。
 ウ、湯島聖堂が建てられた。
 エ、富士山が噴火を起こし、武蔵・相模・駿河などに大きな被害をもたらした。

8 空欄hに入る人名として、正しいものを下記より選びなさい.


 ア.間部詮房 イ.田中丘隅
 ウ.村田清風 エ.新井白石


9.下線部iの人物徳川吉宗の政策に関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。


 ア.倹約を奨励し、困窮する武士の救済を目的に棄損令を発した。

 イ.朱子学以外の学問を幕府の学問所で講じることを禁じた。
 ウ.新田開発を奨励して米の増産を図り、上昇傾向にあった米価を抑えようとした。
 エ.大岡忠相など、有能な人物であると認めた者を積極的に登用した。

10 下線部jの人物田沼意次の政策に関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。


 ア 経済の活性化のため、株仲間を禁止した。

 イ.民間の経済活勤の活性化と冥加・運上の増収によって財政の立て直しを図った。
 ウ.積極的な新田開発が功を奏し、彼の老中在任中に百姓―揆や打ちこわしは生じなかった。
 エ.金銀の海外への流出を警戒し、対外貿易には消極的であった。」

(答:6エ、7イ、8ア、9エ、10イ)〉

 

〈2013慶大・文

 第6代将軍の( B )により廃止され、新井白石らが政治の刷新を図った。」

(答:徳川家宣)〉

〈2012学習院大・経済

 6代将軍は、綱吉の実子ではなく甥の甲府藩主綱豊が継いだ。6代将軍は生類憐みの令を停止し、綱吉の側近で権勢をふるってきた[ 10 ]を退け、儒者の新井白石や側用人の[ 11 ]を信任して政治刷新をはかろうとしたが、在位3年余りで死去した。後を継いだのがその子[ 12 ]で、この7代将軍は当時3歳2ヵ月の幼児で、これまた新井白石らに依存せざるを得なかった。]

 

(答:10柳沢吉保、11間部詮房、12家継)

〈2011近畿大・法済営など

 彼は1657年に生まれた。祖父は関ケ原の戦いで牢人となった武士で、父は諸国を遍歴の末、譜代大名の土屋利直に仕えた。彼も父とともに土屋利直に仕えるが、利直の没後、藩内の政争のために、1677年、父とともに土屋家を追われ、牢人となった。この間に、京都の角倉家や、江戸の河村瑞賢から養子縁組を申し込まれたが、断っている。 1682年には、将軍徳川[ ア ]が大老に任じた堀田正俊に仕えるようになるが、堀田正俊が殺されたのち、1691年に再び牢人となった。
 青年時代に中江藤樹の書を読んで以来、儒学を志し、1686年から木下順庵に入門し、高弟となった。1693年には、順庵の推薦で、徳川綱豊、のちの徳川[ イ ]の儒学の師となり、[ イ ]が将軍となると、側用人の間部詮房とともに幕政に携わった。純粋な性格で不正を憎み、政治上でも自分の信念を貫こうとした。

 徳川[ イ ]没後も、幼い将軍[ ウ ]を補佐して政治をおこなったが、1716年、徳川[ エ ]が将軍となると、政治上の地位を失い、晩年は学問的な書物を著すことに力を注いだ。

 師の順庵と同じく、[ 1 ]の儒学者であるが、師の学風を継承するのみならず、現実的・政治的な関心に基づいて、歴史や地理など実証的な学問の分野に多くの業績を残した。 1725年没。

 

 問1 空欄[ 1 ]に入れる語句として最も適当なものはどれか。次のうち一つをえらべ。

 1古文辞学派 2古学派

 3朱子学派  4陽明学派

問2 空欄[ア・イ]に入れる人名の組み合わせとして最も適当なものはどれか。次のうち一つをえらべ。


 1ア綱吉、イ家網 2ア家綱、イ綱吉

 3ア綱吉、イ家宣 4ア家宣、イ綱吉

問3 空欄[ウ・エ]に入れる人名の組み合わせとして最も適当なものはどれか。次のうち一つを選べ。


  1ウ家重、エ家継  2ウ家継、エ吉宗

  3ウ吉宗、エ家継  4ウ家重、エ吉宗」

(答:問1→3、問2→3、問3→2)〉

 

介護姦淫超簡素。

市新例・正徳小判)(院宮家(かんいんのみやけ)・通信使待遇素化)


[ポイント]

1.正徳の治の主な政策は、国書表記を日本国王に変更させ、閑院宮家の創設、朝鮮通信使の待遇簡素化海舶互市新例制定、正徳小判の発行の5件。

[解説]

1.綱吉時代の生類憐れみの令を廃止し、やがて勘定奉行荻原重秀を罷免した。

2.短命・幼児の将軍が続くなか、白石は将軍個人の人格よりも将軍職の地位とその権威を高めるために、将軍家継と2歳の皇女との婚約をまとめ、閑院宮家を創設し、天皇家との結びつきを強めた。これは、万一の皇統断絶を防ぐため3親王家(伏見有栖川)に加え4親王家としたもの。また一目で序列が明瞭になるよう衣服の制度を整えて、家格や身分の秩序を重視した。


3.朝鮮の通信使家宣の将軍就任の慶賀を目的に派遣された際、これまでの使節待遇が丁重にすぎたとして簡素にし、さらに朝鮮から日本宛の国書にそれまで「日本国大君殿下」と記されていたのを、「大君」が「国王」より低い意味をもつことをきらって将軍呼称を「日本国王」と改めさせ、一国を代表する権力者としての将軍の地位を明確にした。ただし、祖法遵守から8代吉宗以降は再び、「大君」に戻している。


4.白石は、金の含有率を下げた元禄小判を改め、以前の慶長小判と同率(84%)の正徳小判を鋳造させて、物価の騰貴をおさえようとした。しかし、再度の貨幣交換はかえって社会に混乱を引きおこした。


5.長崎貿易で、これまで多くの金銀が流出したので、これを防ぐために1715(正徳5)海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)を発して貿易額を制限した。


〈2016同志社大・全学部

【設問エ】新井白石の行なった政策として正しいものを次のうちから1つ選べ。

 1.湯島聖堂を建立し、林鳳岡を大学頭に任じて重用した。

 2.将軍職の権威を高めるために、将軍家継と皇女との婚約をまとめた。
 3.間部詮房とともに「天和の治」を主導した。
 4.長崎貿易を拡大し、銀による支払額を増大させた。」

(答:エ2 ※1×綱吉の政策、3×「天和の治」は綱吉初期の善政をさす、4×銀支払いを制限)〉


〈2016早大・文化構想

4 下線c新井白石にかかわる記述として、誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 将軍徳川綱吉・家宣のもとで幕府の政治にたずさわった。

 イ 将軍個人の人格よりも、儀式・典礼を重視する政治をすすめた。
 ウ 朝鮮通信使の待遇の簡素化をはかった。
 エ イタリア人宣教師に対する訊問をもとに『西洋紀聞』を著した。
 オ 『読史余論』で貴族政治の衰退と武家政権の推移を記述した。」

(答:ア×綱吉・家宣→家宣・家継)


〈2013早大・政経

【史料】(3)「政談」
 さようになりたる世のありさまをばその儘に仕置きて)7.当時金銀ばかりを半減になしたる故に、世界半身代になりて、金銀引はりたらず、依て世界の困究したる事明か也。

問 下線部7の改策について正しいものはどれか。


 a 新井白石の建言に基づいて第5代将軍の治世に実施された。

 b 第8代将軍もこの政策を継承し、没年まで変更しなかった。
 c 金貨、銀貨の金銀含有率は著しく低下した。
 d 幕末まで、同様の政策がしばしば繰り返された。
 e 激しい物価下落をもたらした。」

(答:e.〇貨幣量を減らすデフレーション政策だったから ※a×第5代→第6代、b・c・d×白石以後には、含有率を高める政策は行われなかった)〉

 

〈2012学習院大・経済

 6代将軍は、綱吉の実子ではなく甥の甲府藩主綱豊が継いだ。6代将軍は生類憐みの令を停止し、綱吉の側近で権勢をふるってきた[ 10 ]を退け、儒者の新井白石や側用人の[ 11 ]を信任して政治刷新をはかろうとしたが、在位3年余りで死去した。後を継いだのがその子[ 12 ]で、この7代将軍は当時3歳2ヵ月の幼児で、これまた新井白石らに依存せざるを得なかった。

 新井白石は、短命と幼児の6・7代将軍の下で、いかにして将軍権威を高めるかに腐心した。霊元天皇の第13番目の皇女と7代将軍との婚約は、天皇の権威を用いて将軍権威を高めようとした事例である。そのほかに、当時3家しかなかった宮家では、将軍家同様に天皇家の跡継ぎに困ることになろうと、新たに[ 13 ]家を特別に設立した。その後、14.この新宮家から天皇を継いだ例があり、効果を発揮した。


 新井白石は学者としても著名で、自伝『折たく柴の記』を著したほかに、ヨハン・シドッチからの聞きとりによって『采覧異言』や『[ 15 ]』を著述した。


(10)[ 10 ]にあてはまる人名を記しなさい.


(11)[ 11 ]にあてはまる人名を記しなさい.


(12)[ 12 ]にあてはまる人名を記しなさい.


(13)[ 13 ]にあてはまる宮家名を記しなさい.


(14)下線部14に関して、この例にあたる天皇名を記しなさい。このことが尊号事件の原因を作ることになった。


(15)にあてはまる書名を記しなさい。


(答:問10柳沢吉保、問11間部詮房、問12徳川家継、問13閑院宮、問14光格天皇、問1.西洋紀聞)〉


〈2012明大・法:「

 18世紀に入り、[ 4 ]は、朝鮮使節の待遇を簡素化したほか、朝鮮の国書における「日本国大君殿下」という将軍の呼称を「日本国王」にあらためさせ、将軍が一国を代表する権力者として位置づけられることを明確にした。しかしその後、[ 5 ]の治世以降は、もとの「大君」という呼称に戻った。

〔語群〕

 A.新井白石 B.田沼意次 C.徳川家重
 D.徳川家斉 E.徳川家治 F.徳川家茂
 G.徳川家慶 H.徳川綱吉 Ⅰ.徳川慶喜
 J.徳川吉宗 K.松平定信 L.水野忠邦」

 

(答:4A、5J)〉

〈2012立大・経済法異文化コミ:「

 これ(新井白石の建議)によって行われた政策でないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.株仲間を公認した。

 b.正徳小判を鋳造させた。
 c.朝鮮通信使の使節の待遇を簡素化した。
 d.長崎新令を発して貿易額を制限した」

(答:a)〉



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1687(貞享4)年 〈生類憐れみの令〉★★

2016-11-12 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(霊元天皇 徳川綱吉)
1687(貞享4)年 〈生類憐れみの令〉★★
Edicts on Compassion for Living Things are enforced.
一路(いちろ)放つな 生類を。
  1687年    徳川綱吉 生類憐れみの令

江戸幕府5代将軍徳川綱吉は、治世の初期においては堀田正俊を大老に登用し幕政を引き締めようとしたが、堀田が暗殺されると側用人の柳沢吉保を用いて独断で政治を行うようになった《「吉保」の〈吉〉は「綱吉」の〈吉〉!》。子に恵まれなかった綱吉は、御持院の僧隆光のすすめで生類の殺生禁止を指令。この生類憐れみの令は1687年以降極端化し、民衆の生活に影響を及ぼした。


頻出史料「生類憐れみの令」                                    
 生類あハれみの儀に付、最前書付を以て仰せ出され候処、今度武州寺尾村同国代場村の者、病馬之を捨て、不届の至に候。死罪にも仰せ付けらるべく候え共、此度ハ先命御たすけ、流罪仰せ付けられ候。向後、相背に於ては、急度曲事仰せ付けらるべく候条、御料は御代官、私領は地頭より前方仰せ出され候趣、弥堅相守り候様、念を入れ申し付くべき者也。
                     貞享四(1687)年卯四月日

[ポイント]
1.綱吉代は、堀田正俊柳沢吉保が政治を補佐、荻原重秀は財政面で活躍した。

 

[解説]
1.綱吉代の文治政治では、1860年、大老の堀田正俊(1634~84)が補佐して始まり、正俊の暗殺後、側用人の柳沢吉保(1659~1714)がこれにかわった。堀田正俊は江戸城内で、従兄弟で若年寄の稲葉正休(いなばまさやす)(1640~84)により刺殺された。正休もその場で斬られる。河川の淀川改修工事にからんだ私怨(しえん)と言う。

2.財政難打開のため勘定吟味役(のちに勘定奉行)の荻原重秀(1658~1713)は、金含有量(84%→57%)を落とす貨幣改鋳をおこなった。


〈2016同志社大・全学部:「

 3代将軍家光の死後は、松平信綱らが中心となって4代将軍家綱を支えた。1651年の由井正雪の乱や、1657年の( ウ )の大火を乗り越えて、幕政の安定がはかられた。5代将軍となった綱吉は、( g )、次いで柳沢吉保の補佐を得て、文治政治を積極的に推進した。平和なこの時代には元禄文化が花開いたが、しかし幕府財政は次第に窮乏の度合いを強めていった。

【設問ウ】空欄( ウ )には、振袖火事とも呼ばれるこの大火の起こった年号が入る。これにあてはまるものを次のうちから1つ選べ。


 1.明徳 2.明暦 3.明応 4.明和


【設問g】空欄( g )には、綱吉の擁立に功があり、大老としてその治世の初期を支えたが、江戸城中で若年寄稲葉正休に刺殺された人物が入る。あてはまる人物名を漢字で記せ。」


(答:ウ2、g堀田正俊)〉


〈2012明大・商学部:「
 1695年、当時勘定吟味役であった[ 2 ](1658~1713)の上申を受けて綱吉によって発行された元禄小判は、慶長小判が金含有率84%であったのに対して同比率がわずか57%でしかなく、銀貨についても同様に銀含有率が80%から64%に減少している。」


(答:荻原重秀)


[ポイント]

1.徳川綱吉は、貨幣の悪鋳を行い、生類憐れみの令服忌令の発布し、その治世末期に富士山の噴火赤穂事件が起こった。

 

[解説]
1.政治の安定と経済の発展とを背景に、17世紀後半には5代将軍徳川綱吉(位1680~1709)の政権が成立し、いわゆる元禄時代が出現した。

 

2.綱吉はまた仏教にも帰依し、1685(貞享2)年から20年余りにわたり生類憐みの令を出して、犬を大事にし、生類すべての殺生を禁じた。この法によって庶民は迷惑をこうむったが、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた。なお綱吉及び綱吉の生母桂昌院の寵を受けた僧隆光が生類憐れみの令の発令を勧めたとされる。
                                             
3.神道の影響から、1684(貞享元)年、近親者に死者があった時に、喪に服したり忌引をする日数を定めた服忌令とよばれる法令を出した。江戸時代を通してこれ以後、社会に死や血を忌みきらう風潮をつくり出す因(もと)となった。

 

4.綱吉の時代の幕府財政は、佐渡金山などの金銀の産出量が減少し、そのうえ明暦の大火後の江戸城と市街の再建費用、引き続く元禄期の寺社造営費用は大きな支出増となり、破綻を招いた。そこで勘定吟味役(のちに勘定奉行)の荻原重秀(おぎわらしげひで)の上申により貨幣の改鋳(悪鋳:金含有率84%→57%)をおこない多大な増収をあげたが、貨幣価値の下落は物価の騰貴を引きおこし、人びとの生活を圧迫した。

 

5.綱吉の治世の末期、1701(元禄14)年に、江戸城中で赤穂藩浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が朝廷関係の儀礼を管掌する旗本で高家吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)を傷つけ、翌年浅野家の遺臣たちが吉良を討った赤穂事件が起こった。

 

6 さらに1707(宝永4)年には富士山が大噴火し、駿河・相模などの国々に降砂による大被害をもたらした。幕府は噴火被災地を復興するため、全国に「諸国高役金(しょこくたかやくきん)」を高100石について2両の割合で徴収することを命じた。その結果、約49万両の国役金が幕府に上納された。

 

〈2014明大・全学部前期

問3 下線部ア徳川綱吉に関連する説明として正しいものを、次のA~Dのうちから1つ選べ。

 A 本百姓の没落を防ぐため、田畑永代売買の禁令を出した。

 B 林鳳岡らに命じて服忌令を整備し、発令した。
 C 海舶互市新例を発令し、貿易額を制限した。
 D 萩原重秀を登用し、金の含有量を高めた貨幣の改鋳を行った。

(答:B ※A家光代、C家継代、D含有量を低下)〉

 

〈2014早大・教育

問7 下線部c江戸時代後期に各地で起こるさまざまな問題に関連して、18世紀後期から19世紀前期の出来事に該当しないものはどれか。

 ア 人足寄場の設置 イ 生田万の乱
 ウ 関東取締出役の設置

 エ 浅間山の噴火 オ 服忌令の発令

(答:オ×服忌令(父母などが亡くなった時の忌引きなどの日数を定めた法令)の発令は、17世紀後半の5代将軍徳川綱吉の代)

 

 〈2013上智大・文(英独仏)

問2 江戸幕府の5代将軍A(在職1680~1709年)に関する次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

 Aは、( ア )の4男として生まれ、当初は大老( イ )の補佐で文治政治を推進した。儒学を好み、上野忍ヶ岡の弘文館を湯島に移して大成殿を設け、( ウ )を大学頭に任じた。( イ )の死後は、側用人( エ )を寵用し、生類憐みの令や貨幣改鋳などで、治政は乱れたとされる。


(1)空欄( ア )に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1徳川家宣 2徳川家光 3徳川家綱

 4徳川秀忠 5徳川頼方 6徳川家継

(2)空欄( イ )に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1本多正信 2保科正之 3酒井忠清 

 4松平信綱 5松平定信 6堀田正俊

(3)空欄( ウ )に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1林鳳岡 2広瀬淡窓 3林春斎

 4林述斎 5岡田寒泉 6松永尺五

(4)空欄( エ )に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から
1つ選びなさい。

 1田沼意次 2本多正信 3荻原重秀 

 4新井白石 5柳沢吉保 6間部詮房

(5)Aの在職期間中に起きた事件はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1振袖火事 2由井正雪の乱 3天狗党の乱

 4赤穂事件 5紫衣事件 6天保の飢饉

(6)Aが将軍職に就く前に藩主であったのは何藩であったか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1岡山藩 2尾張藩 3水戸藩

 4甲府藩 5和歌山藩 6館林藩

(7)Aの在職期間中に書かれた著作は何か。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1『経済録』 2『折たく柴の記』
 3『広益国産考』
 4『赤蝦夷風説考』
 5『海国兵談』 6『奥の細道』


(8)前問(7)で答えた著作の作者は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1大蔵永常 2林子平 3松尾芭蕉 

 4工藤平助 5新井白石 6太宰春台」

(答:1→2、2→6、3→1、4→5、5→4、6→6、7→6、8→3)〉

 

〈2013早大・国際教養

問10 下線部i生類憐みの令に関連する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 猪や鹿を威嚇する鉄砲の所持を禁止した。

 イ 捨て子や捨て牛馬を禁止した。
 ウ 犬の愛護を強要し江戸に犬小屋を設置した。
 エ 綱吉は戌年生まれであった。
 オ 隆光は綱吉の母の帰依を受けていた。」

(答:ア)

 

大学生徒午後うたて。

(徳川綱吉)(大学頭(だいがくのかみ)・湯島聖堂)(護国寺・学方・文方)

[ポイント]
1.綱吉は、湯島聖堂をつくり、大学頭歌学方(かがくかた)・天文方を任命し、護国寺を建立した。

[解説]

1 1683(天和3)年に綱吉の代がわりの武家諸法度が出され、第一条の「弓馬の道」が「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」に改められた。これは武士に、主君に対すると父祖に対する、それに礼儀による秩序をまず第一に要求したものであった。

2.文治主義の考えは、儒教に裏づけられたもので、綱吉は木下順庵に学び、湯島聖堂を建てるとともに林鳳岡(信篤)を大学頭に任じて、儒教を重視した。鳳岡の祖父林羅山が江戸上野忍ヶ岡に孔子廟と私塾を設けていた。綱吉は、それらを湯島に移し、湯島聖堂および聖堂学問所として林家(りんけ)に主宰させた。


3.北村季吟(1625~1705)は、俳諧、和歌、歌学を学び、土佐日記・伊勢物語・源氏物語などの注釈書(代表作が『源氏物語湖月抄』)を著した。綱吉は、1689年(元禄2年)、和歌の研究や詠歌を担当する歌学方を設け、季吟を500石の初代歌学方に任命した。これ以後、北村家が幕府歌学方を世襲。門人に松尾芭蕉がいる。


4.安井算哲(1639~1715、改姓して渋川春海(しゅんかい))は、幕府囲碁方の安井家に生まれたが、数学・天文暦学を学び、中国・元の授時暦を改良して貞享暦をつくった。この功により1685年、初代幕府天文方250石に任命された。以後、天文方は世襲となる。


5.徳川綱吉は、1681年(天和元年)、母桂昌院(けいしょういん)が帰依する僧亮賢(りょうけん)(1611~87)を開山として、護国寺を建立した。

 

〈2016慶大・経済B方式:「
問1 下線部A(江戸時代の社会は、A幕府によって強く統制された社会であった)に関連して、次の資料a~cは、幕府が大名に対して発した法令の一部である(必要に応じて表現を変更した)。それぞれの法令と、その法令が発令された時期の将軍の組み合わせとして最も適切なもの選べ。

 a 貴殿御分国中居城をば残し置かれ、其外の城は悉く破却あるべき旨、上意に候[資料出所]『大日本史料』

 b 文武忠孝を励し、礼儀を正すべきの事[資料出所]『御触書寛保集成』
 c 殉死は古より不義・無益の事なりといましめ置くといへとも、仰せ出だされこれなき故、近年追腹の者余多これ有り、向後左様の存念これある者には、その主人常々殉死仕らざる様に堅く申し含むべし[資料出所]「柳営日次記」

 1a徳川家綱b徳川綱吉c徳川秀忠

 2a徳川家綱b徳川秀忠c徳川綱吉
 3a徳川綱吉b徳川家綱c徳川秀忠
 4a徳川綱吉b徳川秀忠c徳川家綱
 5a徳川秀忠b徳川家綱c徳川綱吉
 6a徳川秀忠b徳川綱吉c徳川家綱」

(答:6)〉

 

〈2016早大・文化構想

 江戸時代になると、将車綱吉の時、上野忍ヶ岡にあった林家の孔子廟と私塾が神田湯島に移され、いわゆる湯島聖堂と学問所が発足した。そして、[ F ]が大学[ B ]に任命され、以後、この職は林家の世襲となる。古代の大学[ B ]は、ここに、再び注目されるようになった。

問2 空欄Bに該当する語句はどれか。1つ選べ。


 ア卿 イ頭 ウ正 エ帥 オ督


問11 空欄Fに該当する人物は誰か。1つ選べ。


 ア林羅山 イ林鳶峰 ウ林鳳岡
 エ林子平 オ林述斎」


(答:2Bイ、Fウ※「岡」を意識。)


〈2016慶大・法

 17世紀への転換期、冷泉家の出身で、京都相国寺の禅僧となり朱子学を学んだ儒学者は、慶長の役の際に連行された朝鮮王朝の文臣である[ 30 ]と交流を結び、その学問を体系化して京学派を形成した。その門人には、徳川家康に仕えた林羅山や、私塾・春秋館などを建てた[ 31 ]がいる。さらに、[ 31 ]に学び、加賀の前田氏に仕えた後、[ 32 ]の侍講をつとめ、『武徳大成記』の編纂にも携わった儒学者のもとからは、多くの優れた門人が輩出された。」

(答:30姜沆(きようこう)、31.松永尺五、32徳川綱吉 ※尺五(しゃくご、せきご)。問題とされている儒学者は木下順庵)〉

 

〈2016上智大・法済総人

 1681年( ア )が生母桂昌院の願いにより、僧亮賢を招き開山させた護国寺は、江戸時代には将軍家の祈願寺であった。

問1 空欄( ア )に当てはまるもっとも適切な人物は誰か。次の中から1人選びなさい。


 1徳川家綱 2徳川家宣 3徳川家光

 4徳川家継 5徳川吉宗 6徳川綱吉」

(答:6)〉


〈2014立教大・現心コミュ福営

問1.この人物(徳川綱吉)は、林家が上野忍ヶ岡に設けた孔子廟と私塾を別の場所へ移した。その移転先はどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.浅草 b.蔵前
 c.深川 d.湯島」


(答:d)〉

〈2013慶大・文:「
 江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉は儒教を重んじ、湯島聖堂を建てて( A )を大学頭に任じた。綱吉は仏教にも帰依して生類憐みの令を出す」

(答:林信篤(鳳岡))〉

〈2012立大・経済法異文化コミ:「
 これ(徳川綱吉の社寺造営)に該当するのはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.寛永寺(江戸)b.神田明神(江戸)

 c.総持寺(相州)d.東照宮(日光))」

(答:a寛永寺)〉


〈2013早大・文:「
 1680年代には幕府に天文方が設置された。これは、渋川春海が平安以来の[ B ]の誤りを修正した貞享暦を作ったことに端を発していた。また和歌の研究や詠歌を担当する歌学方も設けられ、『源氏物語湖月抄』の著者、[ C ]が初代歌学方に任じられた。


問 空欄Bに該当する暦(漢字3字)を、Cに該当する人名(漢字4字)を記入しなさい。」


(答:B宣明暦、C北村季吟)〉


〈2013慶大・経済:「

問2 下線部A大名統制の基本法として武家諸法度を定めたに関連して、以下の(1)に答えなさい。

(1)次の武家諸法度(抜粋)が出されたのはどの将軍の時期か。下の1~4から選びなさい。


 一、文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事

 一、参勤交替の儀、毎歳所定の時節を守り、従者の員数繁多に及ぶべからざる事
 一、人馬兵具など、分限に応じあい嗜むべき事
              [資料出所〕『御触書寛保集成』


 1家綱 2家光 3綱吉 4秀忠」


(答:3)〉

 

大学生徒午後うたて 金利3万大丈夫?

(徳川綱吉)(大学頭(だいがくのかみ)・湯島聖堂)(護国寺・学方・文方)


3万石)(禁裏御料(きんりごりよう))(大嘗会(だいじようえ))



[ポイント]

1.綱吉は、大嘗会を復興させたり、禁裏御料3万石に増やした。

[解説]

1.徳川綱吉は、礼儀によって秩序を維持するうえからも、これまでの天皇・朝廷に対する政策を改めて、朝廷儀式のうちいくつかを復興させたり、天皇家の領地である禁裏御料もふやした。すなわち、初代家康が禁裏御料を1万石とし、2代目秀忠2万石に加増、そして5代目綱吉が1万石増やし計3万石とした。

2.1687(貞享4)年に大嘗会大嘗祭)が221年ぶりに、1694(元禄7)年に賀茂葵祭が192年ぶりに再興された。これ以後も朝廷儀式は徐々に再興されていった。大嘗祭は(おおにえのまつり)とも読み、天皇即位後最初の新嘗祭(にいなめさい)(稲の収穫を祝い、来年の豊作を祈願する祭儀。現在は勤労感謝の日)。天皇一世一代の大祭で、室町時代以後断絶していた。


3.この時期、勅使の幕府下向の儀式もいっそう重視された。その勅使接待役に指名された赤穂藩主浅野長矩(ながのり)が、1701(元禄14)年江戸城中で、朝廷関係の儀礼を管掌する旗本(高家(こうけ)という)の吉良義央(きらよしなか)を傷つけ、翌年浅野家の遺臣たちが吉良を討った赤穂(あこう)事件がおきた。

 

〈2013早大・文

 天皇や公家は長い戦国の世を経て経済的基盤を失い、朝廷の祭祀も十分に行うことができないほど疲弊していた。禁裏御料は家康のときに約1万石、その後、5代将軍徳川綱吉のときに約3万石となった。公家も幕府から知行を与えられ、寛文印知で九条家は2000石余り、近衛家は1800石弱の知行高を受け取っていた。しかし、多くの公家は数百石以下にとどまり、蹴鞠や和歌の伝授などそれぞれの家業に励まなければならなかった。即位儀礼のひとつである[ A ]祭は、将軍綱吉の治世下で221年ぶりに行われたが、幕府の援助があって実現したものである。

 綱吉政権期の幕府は禁裏御料を増献し、山陵を修理し、朝儀を復興させる一方、これまで朝廷が担ってきた暦の作成や和歌の研究にも関心をもちはじめたのである。勅使接待役の赤穂藩主浅野内匠頭が、江戸城松の廊下でe吉良上野介に斬りつけた刃傷事件は、家康とは異なる朝廷政策を実施していた将軍綱吉にとって、青天の霹靂とも言える出来事だった。

 

問5 空欄Aに該当する言葉を、漢字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。

問8 下線部e吉良上野介は幕府の儀礼をつかさどり、朝廷へ使節としておもむき、勅使を接待するなどの役目を負っていた。その職名を漢字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。」


(答:5大嘗、8高家※「こうのすけ」)〉

〈2013慶大・文:「
 綱吉期の朝幕関係は( C )などの朝儀の復興や約1万石の( D )の進献に見られるように融和的であった」

(答:C大嘗祭・D禁裏御料)〉



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◆使役型動詞

2016-11-08 | 英検1級レベル難単語暗記法

 (   )内の語句のうち正しいものを選べ。

 

 This book will (        ) us to understand the country better.         

 ①make  ②take  ③enable

                                   〈成蹊大〉

 

 

 

 

 

 

 

 使役型動詞-解答・解説

解答.③enable

訳.(この本を読めば、私たちはその国のことがもっと理解できるだろう。)

 解き方  lethavemakeなどの使役動詞が補語に原形不定詞をとるのに対し、enableをはじめ、「(主に言葉で)~させる」という意味をもつ多くの動詞は、5文型(SVOC)をとる際、Cto不定詞をとる。なお、helpはto不定詞のtoが省略される場合があり、注意が必要。

allow O to do 「Oに~することを許す」、

advice O to do「Oに~するよう忠告する」、

ask O to do「Oに~するよう頼む」、

motivate  O to do「Oに~する気にさせる」、

force O to do「Oに無理やり~させる」、

urge O to do「Oを~するよう促す」、

tell O to do「Oに~するように言う」、enable O to do「Oが~するのを可能にする」、impel O to do「Oに無理やり~させる」incite O to do 「Oを~するようにそそのかす」、compel O to do「Oに無理やり~させる」、cause O to do「原因となってOに~させる」、command O to do「Oに~するよう命じる」、induce O to do「Oを~する気にさせる」、want O to do「Oに~してほしいと思う」、warn O to do「Oに~するよう警告する」、order O to do「Oに~するように命じる」、tempt O to do「Oをふと~する気にさせる」、oblige O to do「Oに無理やり~させる」、lead O to do「Oに~するように仕向ける」、expect O to do「Oに~することを許すよう期待する」、encourage O to do「Oが~するように励ます」、persuade O to do「Oが~するよう説得する」、permit O to do「Oが~することを認める」(※同じ「認める」でもadmit はこの形をとれないので要注意!これはadmit が「確かに~は正しい」と「認める」ことであってpermit allow のように「許す」の意味の「認める」ではないため)get beg remind request instruct invite bring determine deire direct prompt obligate

ベック式!英文法暗記術 第5文型をとる際、補語にto不定詞をとる動詞

    不定をと取る5文型マップ。(papa futeiciwo tole gobumcei)

permit  allow persuade advice ask 

             force urge tell enable impel compel instruct want warn order

                                          tempt oblige lead expect

get obligate beg bring motivate command encourage induce 



 

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SVOCの文型

2016-11-08 | ベック式!高校受験英文法

次の(    )内から適するものを選びなさい。

She  (ア.ran  イ.became  ウ.learned  エ.named)  the dog Pochi.           

                                        〈宮崎県〉

 

 SVOCの文型-解答・解説

解答.エ.named

訳.(彼女はその犬をポチと名づけた。)  

単語・熟語  name 「名前、~を名づける」

 

 解き方  callnameなどの動詞は〈主語+動詞+目的語+補語〉の文型をつくる。

この文型では目的語=補語の関係で、「(目的語)を(補語)と呼ぶ」、「(目的語)を(補語)と名づける」などの意味を表す。

the dog, Pochiとあるから「その犬」の名が「ポチ」だとわかる。それで、選択肢の中からSVOCの文型をとるnameを選ぶ。

ちなみに、SVOCの文型をつくる動詞には「形づけることではっきりさせるさせない)」という意味合いの動詞が多い。

 

  • ベック式!英文法暗記術 SVOCの文型をとる主な動詞。

暗記フレーズ不意(ふい)氷(こおり)嘗(な)

     find,  call,  leave,  name,  make,

             キーを押(お)し。

                            keep   OC

 

 暗記フレーズ 不意(ふい)氷(こおり)嘗(な) キーを押(お)し。

 

             find, call, leave, name, make,  keep  OC

 

 

 

 

 

SVOCの文型をつくる動詞

 

 

 

find

OCとわかる

call

OCと呼ぶ

elect

OCに選ぶ

leave

OCにしておく

name

OCと名づける

make

OCにする

keep

OCにしておく

paint

OCに塗る

render

OCにする

 

EXERCISES

次の(    )内から適するものを選びなさい。

Please (ア.show  イ.leave  ウ.send  エ.look) the door open.

 

解答.イ.leave     

訳.ドアを開けたままにしておいて下さい。

解き方 the door openの部分は名詞+形容詞目的語+補語となる(形容詞は目的語にはならない)ので、選択肢の中でSVOCをとるleaveが正解となる。

 

EXERCISES 2

次の日本文を英語になおしなさい。

この花を英語では何と呼びますか。

解答. What do you call this flower in English?    

解き方 疑問詞は文頭に置く。主語は日本語では省略されているが、「あなたは」である。~~と呼ぶ」callを用いた典型的なSVOCの形。

目的語がthis flowerで補語は疑問文のために前に来たwhatである。

 

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秋田・佐竹義和(江戸時代中期)

2016-11-05 | 『新世界史頻出年代暗記』


沙汰よしメイト秋の田を。

佐竹義和(さたけよしまさ)(秋田明徳館)



[ポイント]

1.佐竹義和は、藩校明徳館を設立した。

[解説]

1.佐竹義和(1775~1815)は、18世紀末頃から秋田藩の寛政の改革を実施し、荒廃する農村と財政難を克服した。また藩校明徳館や郷校を設立するなどの教育の振興による人材の育成をおこなった

〈2016早大・人間科学

問5 下線部c(18世紀後半の農村)の村内の階層分化に関連する記述として、正しいものはどれか、1つ選べ。

 ア 困窮した百姓に金を貸し、質にとった土地を集めた町人は蔵元と呼ばれ、商品作物の生産流通の中心を担った。

 イ 自分の土地や家を失った百姓は、小作人になるか、年季奉公・日傭稼ぎのために村を離れていった。
 ウ 18世紀後半、幕府は質流れのかたちで田畑が売買されるのを禁じたため、各地で質地騒動が起こった。
 エ 天災や飢饉で疲弊した農村の立て直しを図るため、松江藩の佐竹義和は徹底した勧農抑商策をとった。
 オ 享保の改革では、江戸に流入していた没落農民の帰村・帰農を奨励する旧里帰農令が出された。」

(答:イ ※ア×蔵元→質地地主、ウ×「田畑の質入れは認めるが質流れは認めない」という趣旨の質流地禁止令を農民が質地取り返しができる徳政令と解釈したためおきた騒動、エ佐竹義和は秋田藩主、オ×旧里帰農令は寛政の改革)〉

〈2012中大・法

 諸藩では幕府にくらべ財政が不安定であったという・こともあり,藩政の見直しをせまられるという事態が早くからみられた。土佐藩では江戸時代前期に儒学を学んだ野中兼山が積極的に新田開発や殖産興業につとめた。なお,大名のなかには木下順庵などの儒学者を侍講・顧問などとして積極的に用いる例がみられた。
 藩政改革において成果をあげた大名は名君とよばれた。秋田藩[ 5 ]はそのひとりである。彼は職制を整備し,農業・林業・鉱業をさかんにした。また人材育成をめざして4藩校を設立した。

問6 下線部4藩校に関連する説明文として正しいものにはイ、誤っているものにはロをマークしなさい。


 a この藩校の名称は日新館である。

 b この藩校の設立は水戸藩の藩校である弘道館の設立より早かった。
 c 小田野直武はこの藩校開校にあたり招かれた儒者である。

(答:5佐竹義和、問6aロ×明徳館、bイ、cロ×小田野直武は秋田蘭画という一派を形成した画家。明徳館にはそれほど著名な儒者は招かれていない)〉

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上杉治憲

2016-11-04 | ベック式!日本史用語集

 

 江戸後期の米沢藩主に。鷹山と号す〈「よねざわはん」には「鷹山」の「」「」「」〉。

日向(ひゅうが)高鍋藩秋月家から上杉重定の養子となり、1767年襲封(しゅうほう)。

財政改革・殖産工業・倹約など藩政改革につとめ、藩校興譲館を再興し〈「よこうじょうかん」にも「鷹山」の「よう」「」〉、教育を振興。

国産会所をおこして漆・米沢織などの特産品の専売制を敷き、名君の一人に数えられた。

 参考 将軍家治に謁し、元服時に将軍の諱(いみな)一字を賜って、治憲と称した。

 アメリカ大統領のケネディーが最も尊敬する日本の政治家は鷹山であった。


[ポイント]

1.上杉治憲は、細井平洲を招き、藩校興譲館を再興した。

[解説]

1.米沢藩主上杉治憲(1751~1822)は、鷹山(ようざん)は隠居後の号。折衷学(せつちゅうがく)の儒者細井平洲を招き、藩校興譲館を再興。質素勤倹につとめ備荒対策に尽力する一方、米沢織を興すなど殖産興業にもつとめる。

 

〈2012立大・全学部2/6実施:「
問3.18世紀後半頃からおこった各地での藩政改革では、特産物の生産が奨励された。漆・桑・楮の生産の奨励、絹織物産業の普及をはかるなど、米沢藩の藩政改革を行った人物は誰か。次のa~dから1つ選べ。

 a.上杉治憲 b、佐竹義和

 c.細川重賢 d.山内豊信」

(答:a)〉


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徳川光圀

2016-11-03 | 『新世界史頻出年代暗記』



異論困難題に見つ。

1657年 南朝正統説をとる 徳川光圀

[ポイント]

1.水戸徳川光圀朱舜水に学び、江戸藩邸に彰考館を建て『大日本史』編纂を開始した。

[解説]

1.徳川光圀は、1657年、江戸小石川の水戸藩邸に彰考館を設け『大日本史』の編纂を開始し、1906(明治39)年に完成した。

2.神武天皇から後小松天皇までの歴史を、朱子学の大義名分論を中心とする史観に基づき、紀伝体で記述。


3.神功皇后の立后、大友皇子を歴代天皇に加えたこと、南朝を正統としたことの3つが特徴である。この編纂事業を通じて、皇室尊崇を核とする水戸学が成立し、後に尊王攘夷論を展開した。


4.朱舜水(1600~82)は明末の儒学者。1659年長崎に来港して亡命。1665年徳川光圀(1628~1700)に招かれ、水戸藩に独自の古学による正式の礼儀を伝え、実学を重んじる講義をおこない、水戸藩の学者に大きな影響を与えた。


5.水戸黄門は徳川光圀の別称。天下の副将軍として諸国を漫遊し、各地の悪を懲らしめる世直しをした(このような事実はない)という、講談『水戸黄門漫遊記』が幕末に創作された。

〈2016関西学院大学・全学部

問7.下線部h『大日本史』に関連して、誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しい場合は「エ」をマークしなさい。
 ア.水戸に彰考館が設けられ、そこで『大日本史』の編纂が開始された。
 イ.『大日本史』の編纂は徳川光圀によって開始された。
 ウ.『大日本史』は明治時代になって完成した。」

(答:ア×彰考館は水戸藩の江戸小石川藩邸内にあった)〉


〈2016早大・文化構想

問3 下線b水戸藩では歴史書の編簒事業から独自の学風がおこったにかかわる記述として、誤っているものはどれか。 1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。

 ア 前期水戸学は徳川光圀の『大日本史』編纂からおこった。

 イ 前期水戸学は朱子学の大義名分論にもとづく尊王論を展開した。
 ウ 後期水戸学は徳川斉昭のもとで展開された。
 エ 後期水戸学からは頼山陽・会沢安らの学者が輩出された。
 オ 後期水戸学は幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。

(答:エ×『日本外史』を書いた頼山陽は水戸学出身ではない)


〈2015京都大・前期

 一方、水戸藩では[ キ ]の指示により、1657年に(i)『大日本史』の編纂が始まった。最終的には1906年に完成した全402巻の大著であり、全国で大がかりな史料収集を展開したことに特色がある。長い編纂過程の中で生まれた水戸学では尊王論が唱えられ、幕末には攘夷思想と結びついて大きな影響を与えた。

問9.下線部(i)の『大日本史』編纂のため、当初江戸に、次いで氷戸にも設けられた役所を何というか。」


(答:キ水戸光圀、問9彰考館)〉


〈2012立命館大・法文済営など

問r 下線部11王室の系図を詮索するものに関連して、例えば徳川光圀が始めた『大日本史』はこれに該当するものと思われる。その「大日本史」について説明した文章として、もっとも適当なものを下から一つ選べ。

 あ.皇統について、北朝正統説をとっている。

 い.完成したのは、1906年であった。
 う.後陽成天皇までの事績が漢文体で記述されている。
 え.編纂は、史局である弘道館で行われた。」

(答:い あ×南朝正統説をとる、う×後小松天皇まで、え×彰考館で)〉


〈2010明大・政経

問5 徳川光圀の命で設立され、史料Aの筆者・安積澹泊も総裁を務めた、『大日本史』の編纂局の名称を、漢字で記しなさい。」

(答:彰考館)〉

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諸藩の文治政策  

2016-11-03 | ベック式!日本史用語集

 

 

 

江戸前期、諸藩でも儒学者を顧問に文治政治を実践。

藩主が儒学者を顧問にして藩政の刷新をはかり、水戸藩では徳川光圀が朱舜水を、岡山藩は池田光政が熊沢蕃山、加賀藩では前田綱紀が木下順庵、会津藩は保科正之が山崎闇斎を招いた。

  ベック式! 山は星 木の前(まえ)特殊 池に熊。

           山崎闇斎 保科正之 木下順庵 前田綱紀

                              徳川光圀 朱舜水 池田光政 熊沢蕃山

 

 暗記の裏技(岡山藩の藩学と郷学、識別のコツ)

 岡山藩主池田光政は藩学の花畠教場、郷学の閑谷学校を設立した。花畠教場は〈〉から始まるから「藩学」、閑谷学校は〈こう〉がつくから「郷学」と覚えれば、その識別も容易。

 



[ポイント]
1.保科正之は、山崎闇斎を招いた。

[解説]
1.保科正之(1611~72)は、将軍家光の異母弟で会津藩主。山崎闇斎(1619~82)に朱子学を学び、多くの書物を著した。家光の死後、遺命により幼い甥の4代将軍家綱を補佐した。末期養子の禁を緩和し、会津藩で既に実施していた殉死の禁止を幕府の制度とするなど文治政治を推進した。

2.会津藩主としては、殉死の禁止、(うるし)栽培の奨励、備荒対策として社倉の設置などの藩政改革に尽力し、名君と謳われた。

3.正之は、身分制度の固定化など朱子学に基づく政治を行った。熱烈な朱子学徒であったため、他の学問を弾圧した。朱子学を批判した儒学者の山鹿素行を、赤穂藩に配流している。

〈2015立命館大・全学部2/2:「
問 下線部2保科正之に関連して、保科正之は4代将軍徳川家綱を補佐して儒教的理想を政治に反映させようとしたことで有名である。とりわけ、寛文武家諸法度発布に際して、ある事柄が禁止されたことには保科の強い勧めがあったといわれている。禁止された事柄は何か。漢字2文字で答えよ。」

(答:殉死)〉


〈2014明大・全学部前期

「東アジアの17世紀から19世紀において、武家政権をトップにもち、世襲の身分制度に依拠した江戸時代の日本社会では、儒教はその本質から離れ幕藩体制の都合にあわせ、ゆがんだ形で解釈された。たとえば、歴史書『本朝通鑑』を編纂した[ 1 ]は、幕府内では僧侶として位置づけられていたし、会津藩主保科正之の信任を得た[ 2 ]は、吉川惟足から神道を学び、朱子学と融合させた垂加神道を説き、江戸時代を通じて影響力をもった。しかし、中国や朝鮮ではこのようなことはおよそ考えられないのである。」

(答:1林羅山、2山崎闇斎)〉


〈2013中大・法(法律)

 3代将軍徳川家光が1651年に死去し,その子の家綱が将軍となった。将軍就任当時幼少であった家綱は,成人後の1663年に武家諸法度をだし,大名にその遵守を求め,さらにその翌年には領知[ 1 ]状を発給した。これらはいずれも将軍家綱と大名の主従関係を再確認するものであった。

 家綱の治世のはじめのころは,家光の弟で会津藩主である[ 2 ]や,家光時代以来の老臣らが幼少の将軍をささえていたが,のちには3.下馬将軍とよばれた大老が実権を握り権勢をふるった。」


問3 次のうち下線部の大老にあたる人物を1人選べ。


 a前田利家 b松平信綱
 c堀田正俊 d洒井忠清


(答:1宛行、2保科正之、問3d)〉


〈2012法政大学・文経営人間環境:「

問10 下線部8の人物保科正之が藩主をつとめた藩名を以下のア~エのなかから一つ選べ。

 ア館林藩 イ会津藩 ウ川越藩 エ前橋藩」


(答:イ)〉


[ポイント]
1.池田光政は、熊沢蕃山を招き、閑谷学校を設けた。

[解説]
1.岡山藩主池田光政(1609~82)は、地方(じかた)知行制から米・貨幣を与える俸禄制へ転換、大規模な新田開発や治水事業、などの多岐にわたる藩政改革を実施。

2.光政は儒教を信奉し、藩士の子弟のための藩学校、庶民のための郷学閑谷学校を設けたほか、陽明学熊沢蕃山(1619~91)を招いて重く用いた、なお蕃山中心に私的学習結社花畠教場(はなばたけきょうじょう)が設立された。

3.このため光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されている。

〈2016早大・人間科学

問8 下線部e文書行政の時代が村にも到来したに関連し、庶民の教育や識字についての記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。

 ア 庶民の教育施設の代表は手習所ともよばれた寺子屋で、町人や農民の子が読み・書き・そろばんを学んだ。

 イ 藩営の庶民教育機関としては、岡山藩の藩主池田光政が創立した閑谷学校が有名である。
 ウ 民営の学塾としては、大坂町人出資の古義堂が有名で、町人に朱子学や陽明学を教授した。
 エ 庶民の収入に対し出版される草子などの価格が高かったため、都市部では多くの貸本屋が営業した。
 オ 手習いの教科書として、南北朝期に成立したとされる「庭訓往来」などが広く用いられた。」

(答:ウ×古義堂は伊藤仁斎が京都の堀川にひらいた私塾)


〈2013同志社大・全学部

【設問q】鳥取藩主から岡山藩主となった池田光政が登用した儒学者で、『大学或問』を著した人物として適切なものはどれか。次のうちから1つ選べ。

 1山鹿素行 2中江藤樹
 3熊沢蕃山 4伊藤仁斎」


(答:3)〉


[ポイント]

1.前田綱紀木下順庵に学び、藩政改革をおこなった。

[解説]

1.加賀藩主前田綱紀(1643~1724)は、3歳で家督を継ぎ、義父保科正之の補佐を受けながら成長、藩政改革につとめる。学問を好み、古文書の収集・保存・編纂もおこなう。

 

〈2016関西学院大学・全学部

 次の文章について、a・bともに正しい場合はアを、aが正しくbが誤りの場合はイを、aが誤りでbが正しい場合はウを、a・bともに誤りの場合はエをマークしなさい。

 a.朱子学者の木下順庵は、加賀の前田綱紀に招かれた。新井白石や室鳩巣らは順庵の門人である。

 b.前野良沢や杉田玄白は、オランダ語訳の解剖書を訳述して『解体新書』を刊行した。その苦心談は杉田玄白の『蘭学事始』に記されている。」

(答:ア)〉


〈2013早大・文

 土地制度のなかで荘園が大きな位置を占める時代にあっては、関係文書の存在が重視され、基本的な権利を示す文書は大切に保管された。この伝統は、荘園制が完全に廃された近世においても生き続け、加賀藩主前田綱紀は、京都の寺院に伝えられた荘園関係を中心とする古文書を、多数の上質な木箱を寄進して分類・保存させた。これらは[ C ]百合文書と呼ばれ、荘園や[ A ]を研究する上で重要な史料となっている。

問1 空欄Aに入る語句を漠字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。


問8 空欄Cに入る寺院の名称を漢字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。」

(答:A公領、C東寺)〉

 

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