次の文章を読み,問 1~問 6 について,各問の①~④のうちから適当なものをそれぞれ一つ選べ。
平氏の力が強大になると,貴族や大寺院,地方の武士団のなかには,平氏に対する反発がひろまった。
しかし,平清盛は,a いわゆる「鹿ヶ谷事件」を乗り切るとともに反対派に対する弾圧を強めていっそう独裁的な体制をつくりあげようとした。
このような情勢のなか,1180(治承 4)年 5 月,源頼政は,以仁王とともに平氏打倒の兵をあげたが失敗した。
しかし,以仁王の令旨をうけて、伊豆の源頼朝や木曽の源[ 1 ]などが挙兵すると、国司や荘園領主に対抗して所領の支配枢の強化・拡大をめざす地方武士も反平氏を名目にたちあがり、全国的内乱に発展した。
いっぽう平氏は、いったん都を[ 2 ]に移して反乱に対決しようとした。
こうしてb前後 5年間全国各地で源氏と平氏の争いが続いた。
しかし,結局平氏は敗北し,c 都落ちを余儀なくされた末に.1185(文治元)年 3 月に滅亡した。
ところで,源頼朝は,挙兵後まもなく鎌倉を根拠地と定めるとともに,東国の武士とのあいだに主従関係を結んで,彼らをd 御家人とし組織した。
そして,e 侍所のほか公文所(のち政所と改称),問注所を開設して,政構機構の整備をすすめた。
また,1185(文治元)年、頼朝は軍を京都に送り、親鎌倉派公卿の九条(藤原)兼実らを[ 3 ]にするとともに、守護や地頭をおくことなどを要求して,その補任権を得た。
さらに,1189(文治 5)年には義経をかくまったことを口実に奥州に兵を派遣し,藤原[ 4 ]滅ぼした。
そして、[ 5 ]には征夷大将軍に任ぜられ,ここに鎌倉幕府が名実ともに成立した。
問 1 空欄[1]一[5]に入れる語(用語、人物、西暦年等)として正しいものは次のどれか。
[1]①義経 ②範頼 ③義仲 ④実朝
[2]①粟津 ②宇治 ③山崎 ④福原
[3]①議奏 ②執事 ③所司 ④参議
[4]①基衡 ②秀衡 ③泰衡 ④清衡
[5]①1190 年 ②1192 年③1194 年④1196 年
問 2 下線部 a について述べた文として誤っているものは,次のどれか。
①「鹿ヶ谷事件」は,後白河法皇の近臣らが京都郊外の鹿ヶ谷で平氏打倒の計画をたてたが,失敗したというものである。
②藤原成親や僧俊寛らは,1177(治承元)年に俊寛の山荘で平氏打倒を密議したが未然に露見し失敗した。
③平清盛は,高倉天皇をはじめ藤原通憲などの反対派貴族を京都から追放するとともに、検非違使を
おいて院や貴族を監視させた。
④平清盛は,1179(治承 3)年,後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し,太政大臣以下多数の反対派貴族を解任した。
問3 下線部 b にある源氏と平氏の争いには,(ア)倶利伽羅峠の戦い,(イ)富士川の戦い(ウ)屋島の戦
い,(エ)一の谷の戦い.などがあるが,それらの合戦を年代順に並べたものとして正しいものは、次のど
れか。
①(ア)一(イ)一(ウ)一(エ) ②(ア)一(イ)一(エ)一(ウ) ③(イ)一(ア)一(ウ)一(エ) ④(イ)一(ア)一(エ)一(ウ)
問4 下線部 c について述べた文として誤っているものは,次のどれか。
①後白河法皇の要請をうけた源頼朝は,弟の範頼・義経に平氏追討を命じた。
②源義仲によって都を追われた平氏は,安徳天皇を奉じて瀬戸内海を西に逃れた。
③平氏が都落ちに際して奉じた安徳天皇は,平清盛の娘徳子(建礼門院)の子である。
④周防国壇の浦における平氏滅亡は,平清盛の太政大臣就任から約 40 年後のことであった。
問5 下線部 d の御家人について述べた文として誤っているものは,次のどれか。
①全国の御家人は,大犯三ヵ条といわれる権限をもつ侍所の長官によって指揮され,治安の維持と辺境地域の警備にあたった。
②御家人には,本領安堵として先祖伝来の所領の支配が保証されたり,新恩給与といって新たな所領が与えられるなどした。
③御家人は,戦時には命をかけて軍役をつとめるとともに,平時には京都大番役.鎌倉番役などをつとめた。
④東国の御家人の多くは地頭に任命された。国司や荘園領主には地頭の任免権がなかったので,地頭は現地での支配権を徐々に拡大していった。
問6下線部 e について述べた文として誤っているものは,次のどれか。
①侍所は,1182(寿永元)年に設置されたが,その長官となった和田義盛はのちに北条時政によって滅ぼされた。
⑦侍所は御家人の統制と軍事・警察を,公文所(のち政所と改称)は一般政務や財政事務を,問注所は裁判事務を,それぞれ担当した。
③別当とよばれる侍所の長官には和田義盛が任命された。また,問注所長官の執事には三善康信が任ぜられた。
④1184(元暦元)年に開設された公文所(のち政所と改称)の長官である別当には,公家出身の大江広元が任命された。
[解答]
問1.[1]‐③ [2]‐④ [3]‐① [4]‐③ [5]‐②
問2.③ 問3.④ 問4.④ 問5.① 問6.①
[解説]
問2.藤原通憲は1159年の平治の乱の際に殺されている。
問4.壇の浦における平氏滅亡は1185年,平清盛の太政大臣就任は1167年。
問5.①大犯三ヵ条といわれる権限をもつのは守護。
問6.①侍所の設置は1180年。