塗った岩では 他が愛し。
渟足柵(647年)・磐舟柵(648年)・出羽柵(712年)・多賀城(724年)・秋田城(733年)・胆沢城(802年)・志波城(803年)
2019慶大・法2/16
〔設問2〕
下線部(イ)蝦夷征討に関して、以下の地図にある(a)から(e)は、律令国家が東北地方に支配を拡大するときに設置した代表的な城柵で、秋田城・胆沢城・磐舟柵・多賀城・渟足柵のいずれかを示している。これらの設置年の古い順に並べたもの①から⑧より選べ。
①(c)-(b)-(e)-(d)-(a)
②(c)-(b)-(a)-(e)-(d)
③(c)-(e)-(d)-(b)-(a)
④(c)-(e)-(d)-(a)-(b)
⑤(e)-(d)-(c)-(a)-(b)
⑥(e)-(d)-(a)-(c)-(b)
⑦(e)-(c)-(b)-(d)-(a)
⑧(e)-(c)-(d)-(b)-(a)
(答:⑤)
〈2019早大・文2/17
中央政府は古代国家の形成とともに、北方への進出も積極化させ、蝦夷と呼ぶ人々に対する支配を強化していった。a7世紀半ばに対外的な緊張が高まるなか、日本海側に渟足柵や磐舟柵をもうけ、8世紀になると712年に[ A ]国をおき、ついで秋田城を築いた。太平洋側にもb多賀城を築いている。
しかし、こうした城柵を拠点とする支配は、帰順した蝦夷の豪族[ B ]が780年に乱をおこすなど、蝦夷との間に大きな衝突も生み出していった。c桓武天皇の時代になると、蝦夷の族長に政府軍が大敗する事態もおこる。中央政府は征夷大将軍の[ C ]を派遣し、802年に多賀城の北方に[ D ]城を築くと、鎮守府をここに移すなど、9世紀に入ってもしばらくは積極的な北方進出を続けた。
問1.下線a7世紀半ばに対外的な緊張が高まるに関する記述として正しいものはどれか。1つ選べ。
ア.東アジア諸国で独裁体制が崩壊し、地方分権化がすすんだ。
イ.中国で隋が滅亡した。
ウ.唐の高句麗攻撃によって、周辺諸国の緊張が高まった。
エ.百済と新羅が同盟関係をむすび、高句麗と対立した。
オ.渤海が建国され、唐や新羅と対立した。
問2.空欄Aに入る国名は何か。漢字2字で記入しなさい。
問3.下線b多賀城に関する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア.国府がおかれた。
イ.築地・材木塀に囲まれた外郭をそなえていた。
ウ.木簡や漆紙文書が出土している。
エ.中央に政務・儀式をおこなう政庁をそなえていた。
オ.東山道諸国を統括した。
問4.空欄Bに入る人名は何か。漢字5字で記入しなさい。
問5.下線c桓武天皇の時代の出来事として誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア.長岡京に遷都した。
イ.山背国を山城国とあらためた。
ウ.勘解由使をもうけた。
エ.検非違使をもうけた。
オ.健児の制を整えた。
問6.空欄Cに入る人名は何か。漢字6字で記入しなさい。
問7.空欄Dに入る城の名前は何か。漢字2字で記入しなさい。」
(答:問1ウ○、問2出羽,問3オ○ ※七道は西海道以外(大宰府が管轄)行政機関による道単位の管轄はなかった、問4伊治呰麻呂、問5エ、問6坂上田村麻呂、問7胆沢)
780(宝亀11)年 陸奥の蝦夷伊治呰麻呂、反して多賀城を焼く(宝亀の乱)。
納屋を焼いたが これは痣。
780年 多賀城消失 光仁天皇 伊治呰麻呂
780年(宝亀11年)には伊治呰麻呂が陸奥按察使紀広純を殺害し多賀城を焼き払うという事態に至り、これ以降蝦夷征討といわれる果てしない戦いへと突入する。
In 780, KOREHARI no Azamaro killed KI no Hirozumi, the Mutsu no Azechi (Inspector of Mutsu), and burnt down Taga-jo Castle, spurring endless war thereafter known as Ezo Seito ("The Ezo Conquest").
〈2018立命館大・全(文系)2/3
日本において律令法に基づく国家体制が整いつつあった7世紀後半以降、中央政府の辺境支配も段階的に進んだ。政府はこの地の住民を毛人・蝦夷などと呼び、統治の拠点として各地に①城柵を設け、他の地域の農民を移住させて開拓を進めた。
(a)下線部①城柵について、下記の表の空欄ア~オに入る語句の組み合わせとして、もっとも適切なものを下から一つ選び、答えよ。
あ ア渟足柵-イ712年-ウ737年-エ胆沢城-オ806年
い ア磐舟柵-イ708年-ウ724年-エ徳丹城-オ804年
う ア桃生城-イ713年-ウ737年-エ牡鹿柵-オ805年
え ア磐舟柵-イ724年-ウ733年-エ胆沢城-オ803年」
(答:え○)
〈2017慶大・文
Ⅲ 次の文章の空欄(A~H)に該当する適当な語句を記入しなさい。
律令国家には、8世紀前半に入り、古代の東北地方に居住する蝦夷に対する軍事的政策を行った。日本海側には708年ごろに( A )国を設置し、太平洋側には724年に( B )城を築いて鎮守府を置き、蝦夷対策の拠点とした。その後も律令国家は( B )城以北に防御施設と行政施設を兼ねた数多くの( C )を造営し、その周辺には人々を移住させて開拓を行い、さらに帰順した蝦夷を( D )として国内各地に移住させ、東北支配を進めた。
8世紀後半になり、律令国家の蝦夷政策が東北地方北部に及ぶようになると、780年に蝦夷の首長である( E )が大規模な反乱をおこし、三十数年に及ぶ蝦夷との全面戦争に入った。このような情勢下で即位した( F )天皇は蝦夷征討に力を入れ、802年には征夷大将軍の坂上田村麻呂を派遣して( G )城を築き、蝦夷の族長阿弖流為を帰順させ、鎮守府を( B )城から移した。803年には北上川上流に志波城を築き、律令国家の支配権は東北地方の北部まで及ぶこととなった。
しかし、蝦夷征討は平安京造営と並び、国家財政や人々に大きな負担となっていたため、( H )年に( F )は徳政論争と呼ばれる議論を裁定して征夷を停止した。これにより律令国家と蝦夷の関係は新たな段階に入った。
(答:A出羽、B多賀、C城柵、D俘囚、E伊治呰麻呂、F桓武、G胆沢、H805)
805(延暦24)年 桓武天皇、藤原緒嗣の議で征夷と造営を停止。
天皇は晩年(805年)、徳政相論により軍事(東北遠征)と造作(造都などの大土木工事)に中止の断を下した。
覇を好むとぞ 乙軍事。
805年 桓武天皇 徳政相論 造作 藤原緒嗣 軍事
延暦24年(805年)、藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。
In 805, the expedition was cancelled by Emperor Kanmu, who accepted FUJIWARA
no Otsugu's argument that military expeditions and the construction work for the
new capital were placing an intolerable burden on the people (Great Political Debate
).
〈2017青山学院大・全(理工を除く)2/7
問10.奈良時代には、中央政権は陸奥側では多賀城を基点として北上川沿いに北上して城柵を設け、出羽側では秋田城を拠点に日本海沿いに勢力を伸長させていった。しかし、780年に蝦夷の豪族伊治呰麻呂が反乱を起こし、一時は多賀城を占拠して焼くという事態に至った。この時に呰麻呂によって殺された陸奥按察使は誰か、最も適当な人物名を下から選べ。
①紀広純 ②紀古佐美 ③紀友則 ④紀夏井
(答:①〇(※きのひろずみ)
780(宝亀11)年 陸奥の蝦夷伊治呰麻呂、反して多賀城を焼く(宝亀の乱)。
納屋を焼いたが これは痣。
780年 多賀城消失 光仁天皇 伊治呰麻呂
780年(宝亀11年)には伊治呰麻呂が陸奥按察使紀広純を殺害し多賀城を焼き払うという事態に至り、これ以降蝦夷征討といわれる果てしない戦いへと突入する。
In 780, KOREHARI no Azamaro killed KI no Hirozumi, the Mutsu no Azechi (
Inspector of Mutsu), and burnt down Taga-jo Castle, spurring endless war
thereafter known as Ezo Seito ("The Ezo Conquest").
〈2017法政大・文営法
問5.下線部e城柵に関連して、城柵に関する記述として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。
ア.蝦夷に対する政策の拠点として、律令制定に先立つ7世紀半ばには日本海側に渟足柵・磐舟柵が設けられていた。
イ.8世紀には多賀城が築かれ、平安時代の終わりまで鎮守府として機能した。
ウ.蝦夷の抵抗が激しかったため、日本海側では最上川以北に城柵が設置されたの9世紀中頃になってからのことである。
エ.仙台平野には多賀城のほかに志波城や桃生城が築かれ、8世紀には東北経営の拠点がほぼ完成した。」
(答:問5ア〇 ※イ×鎮守府は11世紀の中頃に終焉、ウ×秋田城733年、エ×志波城は現在の岩手県盛岡市)