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第16章 冷戦と第三世界の自立 2 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興

2017-10-29 | 生物暗記法

 

Text p.345

ア.朝鮮戦争と冷戦体制の成立
 朝鮮戦争  の勃発 
・a 1950 年6月 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍、b 北緯38度線 を越えて侵攻。
  → 一挙に釜山に迫る。北朝鮮のc 金日成 がソ連と中国の了解の下で侵攻を開始。
・国連、緊急d 安全保障理事会 を開催、北朝鮮軍の行為を「平和の破壊」と断定。
  → c ソ連 は、中国代表権問題で安保理を欠席していたため、f 拒否権 を行使できず。
  → g 国連軍 を編成(最高司令官:アメリカの▲h マッカーサー 元帥)、実態はアメリカ軍。
  → 11月、アメリカは国連総会に▲「平和のための結集」決議※を提案、可決される。
補足:
 国連軍の出動  
・1950年9月 ▲a マッカーサー 元帥の率いる国連軍、仁川上陸に成功。第7艦隊を派遣。
      10月 国連軍、北朝鮮に侵攻。中国国境に迫る。
      11月 中国がb 中国人民義勇軍 を派遣し、参戦。 12月 北朝鮮軍、平壌を奪還。
 1951年以降、両軍c 北緯38度線 付近で一進一退をくり返す。
  同  年4月 a マッカーサー 、原爆使用を主張して、トルーマン大統領に解任される。
 朝鮮休戦協定  
・1951年6月 ソ連が停戦を提案。7月a 板門店 で交渉開始。
 1953年7月 休戦協定成立。 現在にいたるまで、b 「休戦中」で戦争状態は終了していない。 
 日本の再軍備  
・アメリカ占領政策:「民主化と軍備全廃」方針から、再軍備と日米軍事同盟結成へ転換。
  背景:a 中華人民共和国の成立・朝鮮戦争の勃発などの共産勢力のアジアでの進出に対する警戒。 
 1950年 吉田茂内閣、GHQの指示でb 警察予備隊 を発足させる。
・1951年9月 d サンフランシスコ講和会議  中国代表は招聘されず、インドなどは不参加。
  ソ連などは、中国の不参加、アメリカ軍の駐留などを理由に講和に反対。西側との片面講和となる。
  → 48カ国とe サンフランシスコ平和(講和)条約 締結。日本の独立(国家主権)の回復。
  問題点:f ソ連、中華人民共和国、インドなどとは講和できず、全面講和にならなかった。 
  ・領土問題 g 朝鮮 、h 台湾 、i 南樺太 、j 千島 ※を放棄。
    ※歯舞、色丹、国後、択促はソ連軍の占領続く。日本は日露和親条約に基づき返還を要求。
  ・同時にk 日米安全保障条約 を締結。日本はアメリカ軍の駐留、軍事基地と施設の存続を認める。
  → 日本、アメリカ合衆国の対共産圏包囲網の一員として軍事同盟に組み込まれる。
・1954年 c 自衛隊 発足させる。憲法第9条は国連憲章の「自衛権」と矛盾しないと解釈。
補足:▲アジア諸国との国交回復
 対共産圏包囲網の形成   アメリカを中心に対ソ・対中国包囲網(反共軍事同盟)の形成。

Text p.346

・1951年  アメリカ・フィリピン相互防衛条約 を締結。アメリカ、 相互安全保障法(MSA) 制定。
  同  年 a 太平洋安全保障条約(ANZUS)  アメリカ・オーストラリア・ニュージーランド
 1953年 ▲米韓相互防衛条約、1954年 ▲米華相互防衛条約(台湾)をそれぞれ締結。
・1954年 b 東南アジア条約機構(SEATO) 
  = ANZUS三国に、イギリス・フランス・フィリピン・タイ・パキスタンが加盟。
  ねらい:インドシナ休戦協定後のベトナム民主共和国(北)に対抗して、ベトナム共和国(南)を支援する。
      → アジア共産化を阻止する。 
・1955年 c バグダード(中東)条約機構(METO) 発足。
  = トルコ・イラク・イギリス・パキスタン・イラン
  → 59年、イラクでイラク革命起こり、脱退。e 中央条約機構(CENTO) に改称。
 ワルシャワ条約機構  
・1955年 東欧8ヶ国が、西ドイツのa NATO 加盟と、b 再軍備 に対抗し、
  c 東ヨーロッパ8カ国友好相互援助条約 を締結。= E ワルシャワ条約機構 の成立
 加盟国:
 d ソ連、東ドイツ、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア 
 ねらい:西側諸国のNATOに対抗する、東側の軍事同盟。

北極をはさんで対立する東西両陣営

北極をはさんで対立する東西両陣営


 西側 
 北大西洋条約機構(NATO) 加盟国(1955年)

 東側 
E ワルシャワ条約機構(WTO) 加盟国(1955年)

両陣営は北極海をはさんでそれぞれミサイル網を配備してにらみ合った。
 核兵器開発競争  
・1949年 a ソ連、核実験 成功を公表。→ アメリカの核兵器独占体制崩れる。
 ▲1951年 アメリカ、 ネバダ核実験場 を開設。
 1952年  イギリス核実験 成功し核保有国となる。アメリカ、世界最初のb 水素爆弾 実験に成功。
 1953年 ソ連もb 水素爆弾 を製造。
 1954年 アメリカ c ビキニ環礁 水爆実験 →  第5福竜丸事件 (日本人漁民が被爆)
 ▲1957年 ソ連で ウラル核爆発事故 (公表されず)。

Text p.347

核戦争の恐れが高まり、d 冷たい戦争(冷戦) の深刻化。 → 核廃絶運動が強まり、米ソ核実験停止。
先頭へ
イ.ソ連の「雪どけ」と平和共存政策
 米ソの接近    
・1953年 ソ連のa スターリン 死去 → マレンコフらの▲b 集団指導体制 となる。
  → 1955年 ソ連 c ユーゴスラヴィア と和解、d 西ドイツ と国交。
 1953年 アメリカ e アイゼンハウアー 大統領(共和党) 米ソの話し合い路線に転換。
  → 同年7月 朝鮮戦争の停戦  54年 インドシナ戦争解決のための ジュネーヴ会議 開催。
・1955年7月 米・英・仏・ソの▲f ジュネーヴ4巨頭会談 開催。
    米(アイゼンハウアー)・英(イーデン)・仏(フォール)・ソ(ブルガーニン)
  背景:同年開催のg アジア・アフリカ会議 に対抗。 → 国際紛争の話し合い解決への機運高まる。
 スターリン批判 
・a 1956 年2月 b ソ連共産党第20回大会 開催。
  c フルシチョフ 第一書記が演説。
 →戦争の回避、資本主義諸国とのd 平和共存 、議会制を通じての革命の可能性を掲げる。
 ・秘密報告でe スターリン批判 を展開、世界を驚かす。
  スターリンの独裁と個人崇拝、反対派に対する処刑、抑圧などのf 粛清 などを批判。
 → 同 年 g コミンフォルム を解散。
・スターリン批判の影響
  d 平和共存 の機運高まり、h 「雪どけ」 といわれる。
  東欧諸国の自立の動き、自由化運動が始まる。(次に説明)
  中国のi 毛沢東 は強く反発し、j 中ソ対立 始まる。(後出)
フルシチョフ

 フルシチョフ 

 東欧諸国の自由化運動   ソ連でのスターリン批判に触発されて始まる。
・1956年6月 a ポーランド反ソ暴動   b ポズナニ で民衆暴動おこる。
   生活改善と民主化を要求し民衆蜂起。 統一労働者党第一書記c ゴムウカ 政権の成立。
  → ワルシャワ条約機構に留まることを条件に、内政の自由を獲得する。
・1956年10月 d ハンガリー反ソ暴動  全土で反ソ・デモ起こる →ソ連が介入。
    首相e ナジ=イムレ  ワルシャワ条約機構脱退を宣言して、処刑される。
  → 一定の自治をえたところもあるが、自由化運動はソ連軍に鎮圧される。
・1956年の危機 ハンガリー反ソ暴動、 スエズ戦争 (3節)が平和共存の危機となった。
 平和共存路線   スターリン批判後のソ連の外交方針の転換。ソ連の軍事的な優位が強まる。
・1957年 ソ連 a 人工衛星(スプートニク) の打ち上げに成功。
  同  年 ソ連、b 大陸間弾道ミサイル(ICBM) を完成。
 1958年 ソ連 c フルシチョフ  第一書記と首相を兼任 → 経済改革の実行。 
 1959年 d フルシチョフ渡米 、アメリカ大統領e アイゼンハウアー とはじめて首脳会談。
       = f キャンプ=デーヴィッド 会談。
 1960年に▲g U2型機事件 が起き第2次首脳会議(パリ)の開催が中止される。
  → 平和共存路線が崩れる。
 東西ドイツの対立    
・1950年代、a 東ドイツ の農業集団化が進む。東ベルリンから西側への脱出が増加。
 ベルリン問題 の再燃。
 1958年 ▲ソ連は、西ベルリンからの米・英・仏3国軍の撤退を要求。
 1961年6月 ▲ソ連のフルシチョフとアメリカ大統領b ケネディ のウィーン会談、決裂。
・c ベルリンの壁 の構築。
 1961年8月 東ドイツ政府、西ベルリンを包囲する壁を築く。東西対立の象徴となる。
  → 1989年まで存続、その間、200人以上が壁を越えようとして殺される。
・ 同  年 米ソとも核実験を再開。緊張高まる。

Text p.348

 キューバ危機  
・1959年 キューバにa カストロ 政権成立。b 社会主義宣言 を行う。
 1961年 アメリカ、キューバと断交。
・c 1962 年 ソ連(d フルシチョフ 首相)がキューバにミサイル基地を建設。
  → アメリカ(e ケネディ 大統領)、ミサイル撤去を要求してf 海上封鎖 を宣言。
  → キューバ経済の困難 → 核戦争の危機 → ソ連、ミサイルを撤去して危機回避。
・1963年 米ソ首脳間のg ホットライン(直通回線) 協定を結ぶ。
先頭へ
ウ.アメリカの繁栄と西欧・日本の復興
・大戦後~50年代の アメリカ
 トルーマン大統領  民主党。1945年4月 F=ローズヴェルトの副大統領から昇格。 
・外交:1947年より、a 「封じ込め政策」  → 反共政策の推進、ソ連への対抗意識強まる。
・内政:▲b フェアディール 政策 社会保障の拡充などを掲げたが議会の反対などで成果無し。
    社会には経済繁栄が進む中、社会主義への警戒が強まる。
 1947年 議会(共和党が多数を占める) c タフト・ハートレー法 を議決。
   = ニューディール期の ワグナー法 を改訂し、ストライキなどの労働組合活動を制限。
・1950~54年 d マッカーシズム の展開。
  共和党議員e マッカーシー による共産主義思想摘発の運動。
  → f 「赤狩り」 と言われ、多くの知識人、芸術家、公務員が追放される。
  → ローゼンバーグ夫妻事件など。
 アイゼンハウアー大統領  第2次世界大戦の英雄。 共和党 1953~61年 
・外交:当初、a 「まき返し政策」 をとる。国務長官ダレス。
  1953年 b 朝鮮休戦協定 を締結。 
  1956年 ソ連の変化に対応し、c 平和共存 路線に転換。
   → 1957年 スエズ戦争では英仏およびイスラエルの軍事行動を非難。
  1958年  アイゼンハウアー=ドクトリン 発表 中東への軍事介入を強化。
  1959年 フルシチョフソ連首相とのd キャンプ=デーヴィッド 会談。
・内政:大資本擁護の穏健な保守主義をとる。 →  50年代アメリカの繁栄 
    市民生活の向上の反面、黒人などの貧困層も拡大。黒人のe 公民権要求 も強まる。
・1961年 離任演説で▲f 軍産複合体 への監視を提唱。
1961年 民主党g ケネディ 大統領(後出)
  内政:ニューフロンティア政策(後出) 外交:キューバ危機を乗り切る。(既述)
・西ヨーロッパの経済復興と統合の進展
 マーシャル=プラン  1947年6月 アメリカ資本による援助。(既述)
・a 西ヨーロッパ経済の復興 が進み、1950年代~70年代 高い経済成長率が続く。
  → 米ソに対抗するため、エネルギー資源、工業資源の共同管理の理念が生まれる。
  = b ヨーロッパ統合 の構想が出てくる。(すでにOEEC、西欧連合が存在)
 ECSC  =a ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体 
・1952年発足 フランスのb シューマン 外相の提案(c シューマン=プラン 
  加盟国:d フランス・西ドイツ・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・イタリア の6ヵ国。
  ねらい: ルール地方  ザール地方 の石炭・鉄鉱石を共同管理し、仏独の軍事対立を防止する。 
 EEC  
・1957年 ▲a ローマ条約  上記6ヵ国で締結。
 1958年 b ヨーロッパ経済共同体  成立。
  目的:西ヨーロッパの市場統合を実現し、将来の国家統合への準備をする。 
  内容:関税引き下げ、共同の商業・農業政策や資本・労働力移動の自由化を実施。
 1958年 c ヨーロッパ原子力共同体  発足。
・d イギリス はEECに参加せず。後に、加盟申請したが条件あわず失敗。
  理由:イギリス連邦の市場を優先し、アメリカとの関係も重視。
     フランスのe ド=ゴール がイギリスの加盟に反対。
 → 1960年、EECに対抗し、f ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA) を結成。
  加盟国:イギリス、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、スイス、オートリア、ポルトガル。
 EC 
・1967年7月 ECSC・EEC・EURATOMの三者が合併しa ヨーロッパ共同体 となる。
・1973年 拡大EC(後出)
 → アメリカ・日本・ECの世界経済のb 三極構造 が形成される。
・西欧諸国

Text p.349

 フランス  1954年からa アルジェリア独立 問題が深刻化。(後出)
・1958年b 第四共和政 倒れる。→ 右翼、軍部の支持で c ド=ゴール 内閣成立。
  → d 第五共和政憲法 制定 =大統領の権限強化。内閣、議会の権限を制限し、国民投票を重視。
・ 同 年10月 e 第五共和政 発足 → c ド=ゴール 大統領当選:
      特色:「フランスの栄光」を再現する、米英にたいする独自外交を行う。
 ド=ゴール外交 の展開
 1960年  核実験を強行 し、核保有国となる(第4番目)。
 1962年 a アルジェリア独立 承認(後出)  1963年  独仏友好条約 締結。
 1964年 f 中華人民共和国承認  → 世界の多極化、始まる。
 1966年 g 北大西洋条約機構(NATO) 軍事機構から脱退。
・ド=ゴール体制の終焉
 1968年 h 「五月危機」  学生・労働者による反政府デモ激化(五月革命)
 1969年 c ド=ゴール 大統領辞任。 → ポンピドゥー、ジスカールデスタンへ。
ド=ゴール

 ド=ゴール 大統領

 西ドイツ 
・1954年 a パリ協定  国家主権を回復。
  → 55年、b NATO に加盟しc 再軍備 が認められる。
・「奇跡の経済復興」をとげる。 → 55年 ソ連と国交を回復。
  → 東ベルリンから西ベルリンへの脱出者が多くなる。 58年にはベルリン問題が再燃。
・1961年 東ベルリン当局により、d ベルリンの壁 構築される。(既述)
 1963年 キリスト教民主同盟e アデナウアー  独仏友好条約 を成立させ、花道にして辞任。
・戦後体制の転換
 1966年 キリスト教民主同盟・社会民主党など全政党の▲f キージンガー 大連立内閣成立。
  → 67~68年、学生を中心とした議会外反対派の運動が起こり、大連立内閣倒れる。
 1969年 戦後初のg 社会民主党 政権 h ブラント 内閣が成立。(後出)
 イギリス  
・50年代~ 保守党政権(チャーチル→イーデン→マクミラン)、a EEC不参加 など独自路線。
・1956年  スエズ戦争 (第2次中東戦争)に敗北、国際的な権威を失墜。(後出)
 1960年 b ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA) を結成し対抗する。→ 貿易赤字続き、衰退。
・1964年 c 労働党 、選挙に勝利し、d ウィルソン 内閣成立(13年ぶり)
  → e スエズ以東 から撤兵。→ 経済の低迷続く(f イギリス病 と言われるようになる。)
  → 1967年 g ポンド切り下げ に追い込まれる。
 1970年 保守党に政権交代 ヒース内閣 (70年代も経済後退続く)
・日本の復興
 日本の経済復興  a 日本国憲法 のもと、平和を維持し、経済復興を遂げる。
・1950年~ b 「朝鮮特需」  → 朝鮮戦争での米軍の物資調達で経済潤い、工業生産力の復興。
 1951年 サンフランシスコ講和会議。 → サンフランシスコ平和条約で独立回復(既述)
B.戦後政治の転換と国際社会への復帰
・1955年 自民党政権に対し社会党が野党として対抗する▲a 55年体制 成立。
 1956年 b 日ソ共同宣言 発表。ソ連と国交回復。鳩山一郎、ブルガーニン間で締結。
  →  北方領土問題 は残る。
・ 同  年 c 国際連合 に加盟。
 1960年 d 日米安保条約改定 (岸信介内閣) 激しい反対運動( 安保闘争 )起きる。
  → 新安保条約が成立しアメリカの日本防衛義務が明記され片務的軍事同盟となる。
 高度経済成長  1960年代 
・1964年 ▲a 東京オリンピック の開催、新幹線の開業。
 1965年 ▲b 日韓基本条約  国交回復、韓国の賠償金放棄と日本による経済援助。
 1969年 アメリカ、▲c 沖縄返還 に合意(佐藤内閣) → 72年 正式に返還される。
 1970年代 高度な工業化社会、大量消費社会となる → ▲d 公害問題 の表面化。
・戦後世界の転換
・1968~69年 先進資本主義国で戦後の経済発展による人間疎外感が強まる。
  → a 学生運動 、労働運動が、▲b ベトナム戦争 反対運動とともに盛り上がる。
・フランス c 「五月危機」   →ド=ゴール退陣
・西ドイツ d ブラント 社会民主党政権の成立
・日本 a 学生運動 が激化 東大、日大などの大学紛争おこる。 70年、よど号ハイジャック事件など
・▲この年、ソ連東欧圏ではe チェコ事件 が起こり、社会主義体制の動揺が広がった。
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治安立法(成立順)

2017-10-29 | 入試問題+ゴロ合わせ

斬新補習に殺意あり。

(讒律・新聞条例)(安条例・会条例)(治安警法・治安持法)



[point]

1.治安立法は、讒謗律新聞紙条例保安条例集会条例治安警察法治安維持法の順に制定された。

[解説]

1.民権運動家たちが新聞や雑誌で活発に政府を攻撃するのに対し、政府は1875(明治8)年6月、讒謗律新聞紙条例などを制定して、これをきびしく取り締まった。

2.1880(明治13)年国会期成同盟が結成され、同盟参加の各地の政社の代表が署名した天皇宛の国会開設請願書を太政官(だじょうかん)や元老院に提出しようとした。政府はこれを受理せず、4月に集会条例を定めて、政社の活動を制限した。


3.1882(明治15)年に集会条例を改正して政党の支部設置を禁止。


4.1887(明治20)年末に政府が保安条例を公布して多くの在京の民権派を東京から追放した。当局が危険と見なした活動家を皇居から半径3里以内の地域に3年間出入りを禁止するというもの。


5.1900(明治33)年に治安警察法を制定し、労働者の団結権・ストライキ権を制限して労働運動を取り締まった。なお新婦人協会(これを母体に1924年婦人参政権獲得期成同盟会に発展)などによる運動の結果、1922(大正11)年、婦人の政治運動参加を禁じた治安警察法第5条が改正されて、女性も政治演説会に参加できるようになった。


6.1925(大正14)年に「国体」の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社の組織者と参加者を処罰することを定めた治安維持法が成立した。この国体とは天皇制をさす。なお制定当初の目的は、日ソ国交樹立(1925年)による共産主義思想の波及を防ぎ、普通選挙法の成立(同年)による労働者階級の政治的影響力の増大に備えることにあった。


7.1928(昭和3)年に治安維持法を改正して最高刑を死刑・無期刑とし、道府県の警察にも特別高等課(特高)を設置して共産党を一斉弾圧した(三・一五事件)。翌年にも大規模な検挙をおこなった(四・一六事件)。このため、日本共産党は大きな打撃を受けた。

2017早大・社会:「
 明治以降、ドイツ、フランスを中心とする西欧近代法の継受も始まった。8).中央・地方の統治機構整備が進められ、9).治安維持を目的とした諸法令、経済活動に関連する諸法令が制定された。

問8 下線部8)に関連する記述として、不適切なものはどれか。1つ選べ。


 イ 憲法公布と同時に、議院法、衆議院議員選挙法、貴族院令が公布された。
 ロ 宮内省は内閣の外に置かれ、行政府と宮中は制度的には区別された。
 ハ 府県予算案の部分的審議権が府県会に与えられた。
 ニ 市長は公選によって決定され、市参事会が行政を担当した。
 ホ 町村長は、無給の名誉職だった。


問9 下線部9)に関連する記述として、不適切なものはどれか。1つ選べ。


 イ 保安条例により、民権派の一部は皇居周辺から退去させられた。
 ロ 保安条例公布後、新聞紙条例改正によって取締りが強化された。
 ハ 新聞紙条例は、1883年改正の後、新聞紙法に継承された。
 ニ 集会条例は、政社の自由を制限した。
 ホ 讒謗律は、人を非難する言動をすべて罪とした。

(答:問8ニ×市長は市会の推薦する候補者から内務大臣が任命、問9ロ×保安条例は1887年、新聞紙条例は1883年に改正)


2017早大・教育

Ⅳ 次の文章を読み、問1~6に答えよ。問1は解答を記入せよ。問2~6については、それぞれの解答を選べ。

 明治時代につくられた治安体制の中心は、[ 1 ]大臣による出版の取締りと、集会・結社の取締りの2つである。

 大日本帝国憲法の第29条において、「日本臣民ハ[ 2 ]ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」とされたが、この段階で「言論著作印行集会及結社」に関する[ 2 ]は、出版条例、a新聞紙条例、b集会条例およびc保安条例であった。また、第8条に規定された[ 3 ]によって、既存の法規による以外の統制を加えることができた。


 その後、出版条例は出版法に、新聞紙条例は新聞紙法に、それぞれ代わり、両法は第二次世界大戦後の初期まで存続した。d.その間、出版法および新聞紙法にもとづいて、「安寧秩序」を乱し、「風俗」を害すると認定される文章が掲載された出版物は、発禁(発売頒布禁止)や削除などの処分に付されたのである


 ―方、従来の集会・結社の取締り法規は、1890年の集会及政社法に受けつがれ、さらにその集大成として、1900年にe治安警察法が制定された。同法によって、警察官は談論中止、集会解散を命じることができ、国民はそれに対して異議申し立てをする術がなかった。また、結社については、[ 1 ]大臣が、これを禁止することができた。


 このような、集会・結社の取締り方式は、大正デモクラシー期には改正論議の対象となり、1920年代に一部が改正された。その一方、大衆運動が高まるなかで、従来のような警察的取締りだけで対処することは難しく、また、結社の届出をしない秘密結社が全国各地に簇生した。さらに、ロシア革命の影響をうけて第一次世界大戦後に高まった無政府主義・共産主義運動取締りのための法の整備がめざされ、1925年に治安維持法が制定された。


 治安維持法はその後、f1928年に[ 3 ]によって改定、強化され、1941年には再改定されて、反体制的とみなされるあらゆる運動が取締りの対象となった。併せて、1938年の国家総動員法と同法にもとづく命令、1941年の言論出版集会結社等臨時取締法などによって、戦時期には言論・出版・集会・結社に対するきびしい取締り体制が確立したのである。


問1 空欄[ 1 ]・[ 2 ]・[ 3 ]に該当する語を漢字で記入せよ。


問2 下線部a新聞紙条例・b集会条例・c保安条例・e治安警察法に関する説明として、誤っているものはどれか。


 ア aは、自由民権の論調が高まり政府の専制を攻撃したのに対して、これを取り締まるため、1875年に制定された。

 イ bは、国会開設運動の高揚に対して、これを取り締まるために演説会・結社を届出制にし、警察官に解散権を与えた。
 ウ cは、三大事件建白運動の高揚に対して、秘密結社・集会の禁止、内乱陰謀や治安妨害のおそれのある者の皇居外3里への追放などを規定した。
 エ eでは、女子および未成年者が政談集会に参加することが禁止されたが、その後の改正で女子の参加は認められた。
 オ eは、治安維持法の制定にともなって廃止された。

問3 下線部dの出版法または新聞紙法によって、1930年代に発禁にされたものを2つ選べ。

 ア 滝川幸辰『刑法読本』
 イ 火野葦平『麦と兵隊』
 ウ 和辻哲郎『風土』
 エ 河上肇『貧乏物語』
 オ 河合栄治郎『ファシズム批判』
 カ 戸坂潤『日本イデオロギー論』


問4 下線部e治安警察法によって、結成の2日後に結社禁止にされた組織は、次のうちどれか。

 ア社会主義研究会 イ日本社会主義同盟
 ウ日本共産党   エ社会民主党
 オ日本社会党」


問5 問4のア~オを結成された時代順に並べると、正しいものはどれか。

 ア ア→イ→ウ→オ→エ  イ ア→エ→オ→イ→ウ
 ウ オ→ウ→エ→ア→イ  エ エ→ア→オ→ウ→イ
 オ エ→オ→イ→ア→ウ

問6 下線部fの時期のできごとの説明として、誤っているものをすべて選べ。


 ア 1928年の治安維持法の改定により、国体変革ならびに私有財産制度の否認を目的として結社を組織した者などに対し、最高刑として死刑が科せられることになった。
 イ 1928年の三・一五事件の後、全国一律に特別高等警察が設置された。
 ウ 1930年代には、多くの宗教団体関係者が治安維持法違反や不敬罪などの容疑で検挙され、拷問をうけた。
 エ 1937年12月と1938年2月の二次におよぶ人民戦線事件において、多数の無産政党・労働組合関係者や大学教授らが、治安維持法違反の容疑で検挙された。
 オ 1941年の治安維持法の改定によって、治安維持法違反の罪を犯した者に対し、再犯防止のために保護観察をおこない得ることが規定された。
 カ 太平洋戦争下に起こった横浜事件では、治安維持法違反の容疑で学者や多数の編集者などが検挙され、激しい拷問が加えられ、4人が獄死した。」


(答:問1→1内務・2法律・3緊急勅令、問2オ、※治安警察法は敗戦直後の1945年11月に廃止された。 問3ア・オ、※さらさら滝が巫女転機皆やないばらさっぱりか。問4エ ※行こうおいらと社民党。、問5イ、問6ア・オ ※アは国体変革目的で結社した者の最高刑は死刑だが、私有財産制度否認で結社した者の最高刑は十年以下)〉


2013早大・社会科学:「

5 次の【史料】(第二次世界大戦後のGHQによる「指令」の抜粋)を読み、問に答えよ(いずれも設問の都合上、文章の一部を改めている)。

【史料】

〔1〕参政権の賦与により、日本の婦人を解放すること……婦人もも国家の一員として各家庭の福祉に役立つべき新しき政治の概念をもたらすべし。(婦人の解放)

問2〔1〕(婦人の解放)に関連する記述として不適切なものはどれか。2つ選ベ。

 イ 戦後初の衆議院議員選挙法改正により、有権者総数は約2倍に増加した。
 ロ 女性の政談集会参加は、治安維持法が廃止されるまで禁止されていた。
 ハ 戦後初の総選挙の結果、女性議員39人が当選した。
 ニ GHQは、公職追放指令により、翼賛選挙の推薦議員をすべて失格とした。
 ホ 戦後初の総選挙で当選した女性議員は、超党派の婦人議員クラブを結成した。


(答:イ×有権者数はこれまでの3倍近くに拡大した、ロ×新婦人協会(これを母体に1924年婦人参政権獲得期成同盟会に発展)などによる運動の結果、1922(大正11)年、婦人の政治運動参加を禁じた治安警察法第5条が改正されて、女性も政治演説会に参加できるようになっていた。)〉

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市町村長

2017-10-28 | 入試問題+ゴロ合わせ

市内に町名。

(内務大臣の任命市長)(無給の名誉職・町村長


[point]

1.市長内務大臣の任命、町村長は無給の名誉職だった。

[解説]

1.人口2万5000人以上の都市をとしてと対等の行政区域とした。

2.市長は市会の推薦する候補者から内務大臣任命し、市参事会が行政を担当した。


3.町村長無給の名誉職で、町村会で公選された。


4.市町村会は公民の等級選挙制に基づく公選名誉職議員で構成。


5.郡制は郡長および郡参事会を行政機関とし、町村会議員の投票と大地主の互選とによって選ばれる郡会を議決機関とした。府県会も郡会議員の投票による間接選挙であった。

2017早大・社会

 明治以降、ドイツ、フランスを中心とする西欧近代法の継受も始まった。8.中央・地方の統治機構整備が進められ、9.治安維持を目的とした諸法令、経済活動に関連する諸法令が制定された。

問8 下線部(8)に関連する記述として、不適切なものはどれか。1つ選べ。


 イ 憲法公布と同時に、議院法、衆議院議員選挙法、貴族院令が公布された。
 ロ 宮内省は内閣の外に置かれ、行政府と宮中は制度的には区別された。
 ハ 府県予算案の部分的審議権が府県会に与えられた。
 ニ 市長は公選によって決定され、市参事会が行政を担当した。
 ホ 町村長は、無給の名誉職だった。

問9 下線部(9)に関連する記述として、不適切なものはどれか。1つ選べ。

 イ 保安条例により、民権派の一部は皇居周辺から退去させられた。
 ロ 保安条例公布後、新聞紙条例改正によって取締りが強化された。
 ハ 新聞紙条例は、1883年改正の後、新聞紙法に継承された。
 ニ 集会条例は、政社の自由を制限した。
 ホ 讒謗律は、人を非難する言動をすべて罪とした。

(答:問8ニ×市長は市会の推薦する候補者から内務大臣が任命、問9ロ×保安条例は1887年、新聞紙条例は1875年に公布1883年全改定で逆)

2016立教大・現心社コミュ福

 政府は、憲法草案の作成と並行して宮中改革を行い、1885年には、従来の太政官制を廃止して( ニ )制度を創設し、その後には3.地方自治制度の整備など、様々な国内問題への対応も行った

問3.下線部3に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.市町村会の議員は、内務大臣によって任命された
 b.市長・町村長を住民が公選する制度が導入された
 c.中央集権的ではあるが一定の地方自治を認めた市制・町村制、府県制・郡制が公布された
 d.府県知事は、帝国議会の議員のなかから指名された」

(答:ニ内閣、問3c〇 ※a×内務大臣の任命ではない、b×市長は内務大臣の任命、d×知事は内務省から派遣された政府官僚)〉

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ヒンドゥー教三大主神の覚え方

2017-10-26 | ベック式!世界史用語集


シヴァヴイシュヌブラフマーを3大主神とする多神教だった。  


▼シヴァ・宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神. 


▼ヴイシュヌ・宇宙の維持を司る神。


▼ブラフマー、宇宙の創造を司る神(中央)。

酷いブラッフ ビシバシと。

ヒンドゥー教 ブラフマー ヴィシュヌ シヴァ

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前1274年〈ラメス2世、カデシュでヒッタイトと戦う〉★

2017-10-24 | 『新世界史頻出年代暗記』

 ▲カデシュの戦いでのラメス2世

●エジプト(新王国時代)

The Battle of Kadesh took place between the forces of the Egyptian Empire under Ramesses II and the Hittite Empire under Muwatalli II at the city of Kadesh. The conflicts were finally concluded by an official peace treaty.

古代エジプト19王朝の王(在位前1304年頃~前1237年頃)ラメス2世はシリア方面に出兵してヒッタイトと戦い(カデシュの戦い)、文献に残る最古の和議を結んだ。

以後、デルタ地帯に諸都市を営み、カルナックに百柱殿を造り、また多くの神殿を建てた。

 

カデシュの戦い

畏怖(いふ)カデシュ ラメヒット。 

1274年   カデシュの戦い  ラメス2世 ヒッタイト

                    


アブ・シンベル神殿


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明治14年の政変

2017-10-19 | 生物暗記法

□近現485-2◇A

1881(明治14)年 明治14年の政変

批判排除し国会を。

1881年 明治14年の政変伊藤博文国会開設の勅諭  五代友厚大隈重信罷免



[point]

1.1881明治14五代友厚への開拓使官有物払下げ事件が発覚し世論が激高、伊藤政府は、世論側に立つ大隈重信罷免するとともに、国会開設の勅諭をだし世論の鎮静化をはかった。

[解説]
1 藩閥政府は、最高実力者であった大久保利通内務卿が暗殺されてから強力な指導者を欠いていた。自由民権運動の高まりを前にした、1881(明治14)年に内紛がおこった。大隈重信(1838~1922)はイギリス流の議院内閣制の早期導入を主張し、右大臣岩倉具視伊藤博文(1841~1909)と激しく対立したのである。

2 たまたま同年、開拓使官有物払下げ事件が発生。これは北海道の開拓使所属の官有物を払い下げるにあたり、旧薩摩藩出身の開拓長官黒田清隆は、同藩出身の政商五代友厚らが関係する関西貿易社に不当に安い価格で払い下げようとして問題化した。これが新聞記事となり、世論が激高し、政府はピンチに陥った。

3 政府主流派の伊藤博文は、世論の動きは、大隈が内部情報を新聞にリークした結果と見て、政府内の反主流派の大隈および大隈派官僚を罷免し、払下げを中止した。

4.さらに欽定憲法制定の基本方針を決定し、国会開設の勅諭を出して、10年後の1890年に国会を開設すると公約し、世論を鎮めようとした。

5.この一連の明治十四年の政変によって、伊藤博文らを中心とする薩長藩閥の政権が確立し、君主権の強い立憲君主制の樹立に向けて準備がはじめられた。

2017立命館大・全学部

 1881年、参議大隈重信を罷免した政変とともに[ A ]の勅諭が下ると、来るべき[ A ]に備え、相次いで政党が組織された。」

(答:A国会開設)〉


2017同志社大・全学部

(2)明治新政府は北方の開発のため、1869年に蝦夷地を北海道と改称し、h)開拓使をおいた。北海道の開拓民の保護や士族授産などの目的のために1875年に配置した( i )は、平時は農業に従事しながらも戦時には軍隊として活勤することが求められた。開拓使の廃止を目前にした1881年には、j)開拓使の官有物を官吏や政商に払い下げようとしたが、世論の激しい批判を受け中止に追い込まれた。

【設問h】下線部hに関して、開拓使の初代長官に就任した人物名を次のうちから1つ選び、その番号を解答欄Ⅲ-Bに記入せよ。この人物は藩主時代に日本で最初にオランダから学んで反射炉を築造したことで知られており、隠居して閑叟と名乗った。


 1.島津久光 2.伊達宗城 3.鍋島直正 4.松平慶永


【設問i】空欄( i )に入る適切な語句を漢字で記せ。


【設問j】下線部jに示された出来事は開拓使官有物払下げ事件と言われている。払下げを求めたのは開拓使の官吏たちであったが、その背後には関西貿易社を営む( ア )がいて、この時の開拓長官であった( イ )とは同じ薩摩藩出身であったために、この払い下げは政府の高官と政商の藩閥的な結託とみなされ、厳しい批判を受けた。空欄の( ア )( イ )に入る適切な人物を次のうちからそれぞれ1つ選べ。


 1.黒田清隆 2.西郷従道

 3.松方正義 4.山本権兵衛
 5.五代友厚 6.寺島宗則」

(答:問h3、問i屯田兵、問jア五代友厚・イ黒田清隆)


2016早大・教育

 明治維新の終期については諸説があるが、その第1は、廃藩置県が実施された1871年。第2は、学制・徴兵制・地租改正などの主要政策が実施され、[ 2 ]をめぐって政府が真っ二つに分裂した1873年。第3は、最後の士族反乱が鎮圧され内乱の時代が終わった1877年。第4は、軍隊と警察を動員して沖縄県設置が強行された1879年。第5は、明治14年の政変が起こった1881年である。明治14年の政変において[ 3 ]らは、大隈重信を政府から追放し、開拓使官有物払下げを中止するとともに、国会開設の勅諭を出して1890年の国会開設を公約した。こうした対処が明治憲法体制形成に向けての出発点となり、以後、国会開設に備えて憲法起草に取り組むことと並行して、支配体制を固めるための諸施策が実行されたのである。

問2 空欄[ 2 ]に該当する歴史用語を漢字三字で記せ。


問3 空欄[ 3 ]に該当する人物2人を選べ。         


 ア板垣退助 イ伊藤博文 ウ井上毅

 エ尾崎行雄 オ木戸孝允」

(答:問2征韓論、問3イ・ウ)

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アジア諸国

2017-10-19 | 生物暗記法

第7章 アジア諸地域の繁栄

4節 ムガル帝国の興隆と東南アジア交易の発展

用語リストへ

Text p.197

ア.ムガル帝国の成立とインド=イスラーム文化の開花

■ポイント イスラーム王朝であるムガル帝国によるインド統治の特徴と、その変遷の大筋を抑える。

ムガル帝国  の成立。ティムールの子孫a バーブル  (母方がモンゴル系)が自立。

解説

 バーブル(1483~1530)自身はティムール5代の後裔でトルコ系であるが、母方の先祖はチンギス=ハンと称した。ティムール朝の地方領主であったが、ウズベク人のシャイバニ朝が成立したため、アフガニスタンのカーブルに移った。ティムール帝国の再興をめざし、サマルカンドを占領したが、シャイバニに敗れ、北インドに方向転換し、1526年、パーニーパットの戦いでロディ朝を破った。その日記風の自伝『バーブル=ナーマ』はトルコ語で書かれたが、彼自身はペルシア語・アラビア語に通じるイスラーム教徒であった。
  • アフガニスタンのカーブルを拠点にサマルカンド奪還を図るも失敗し、反転して北インドに進出。
  • 1526年 b パーニーパットの戦い  でc ロディー朝  を破る。
    アクバル
    ガンジス川を渡るB アクバル   
     d ムガル帝国  (モンゴル人の国家の意味)を創始。都はデリー。
  • スンナ派イスラーム教を信奉。支配は北インドの一部にとどまる。
  • ▲第2代 フマーユーン アフガン人勢力にデリーを奪われる。
     → 一時、スール朝が成立。サファヴィー朝の支援でデリーを奪回する。
アクバル   第3代 1556年 即位。
 帝国の実質的な基礎を築く。
    • 官僚制の整備 a マンサブダール制  
      すべての官吏の位階ごとに維持すべき騎兵・騎馬数(禄位=マンサブ)を定め、それに応じた給与を与える制度。
    • 給与は土地からの徴税権(封土=ジャーギール)として与えられた。
      = b イスラーム諸王朝のイクター制を継承した制度。   

解説

 文武の官僚の功績に応じて禄位(マンサブ)が与えられる制度。マンサブは位階ごとに10騎から5000騎に及び、それをあたえらる官僚をマンサブダールと言った。また、給与は土地そのものではなく、徴税権(ジャーギール)として与えられた。その点で、セルジューク朝などイスラーム教国に共通するイクター制と類似している。
  • 中央集権の整備 全国を州-県-郡に分け、全国土を測量し、徴税する制度を導入。首都をc アグラ  に移す。
  • ▲さらに1569年に新都ファテープル=シークリーを造営。後、さらにラホールに移る。
  • インド西部のヒンドゥー教勢力d ラージプート  諸侯を1576年までに従え、北インドの大半を支配。
 地図 ムガル帝国とその拡大
地図 ムガル帝国とその拡大 1 バーブル の時の領土
 2 アクバル の時の領土
 3 アウラングゼーブ の時の領土
重要地名
 a カーブル     b デリー 
 c アグラ      d ボンベイ(ムンバイ) 
 e ゴア      f カリカット 
 g ポンディシェリ    h マドラス(チェンナイ)
 i カルカッタ(コルカタ)   j シャンデルナゴル
主な反ムガル勢力
 A シク教徒 
 B ラージプート諸侯 
 C マラーター同盟 
※ヨーロッパ各国の進出については9章2節で詳述。

 


イスラーム教とヒンドゥー教の融合   15~16世紀

Text p.198

    •  カビール   ヒンドゥー教のバクティ信仰とイスラーム教のスーフィズムの融合を説く。
         → 人類は平等であると主張して、不可触民への差別を否定した。
    •  ナーナク   aの影響を受け、愛と献身によりカーストの区別無く解脱できると説く。c シク教  の成立。
       = イスラームの影響を受けたヒンドゥー教の改革派。パンジャーブ地方にひろがる。
    •  アクバル  帝の基本政策 e ヒンドゥー教徒との融和をはかり、ムガル帝国の安定を図った。   
        自らもヒンドゥー教徒(f ラージプート  )の女性と結婚、官吏にヒンドゥー教徒を登用。

解説

 アクバルはヒンドゥー教徒との融和を図ることで支配を安定させた。その治世(1556年~1605年)はイギリスのエリザベス1世の治世(1558年~1606年)とほぼ重なっている。またポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマがインドに到達したのはムガル帝国の成立より前の1498年であったことに注意。アクバル帝の死後、イギリス、フランスのインド進出が始まることとなる。
  • 1564年 非イスラーム教徒に対するg 人頭税(ジズヤ)の廃止   
  • みずから▲新宗教 スーフィー信仰による一神教(ディーネ=イラーヒー)を創始。しかし宮廷外には普及せず。
  • ▲第4代  ジャハンギール (在位1605~27年) ヒンドゥー教徒との融和政策を継承。
    タージ=マハル

     タージ=マハル  

     → イラン(シーア派)のサファヴィー朝アッバース1世 と争う。 
インド=イスラーム文化   の成熟
  •  シャー=ジャハーン   第5代 在位1628~58年
     宮廷中心にイラン文化とインド文化の融和が進む。
  • 絵画:b ミニアチュール(細密画)  の発達。
     → ▲c ムガル絵画  とd ラージプート絵画  に発展。
  •  ウルドゥー語  :公用語のペルシア語とインドの地方語が融合。
     → 現在のパキスタンの国語。
       インド人の言葉はf ヒンディー語  という。
  • 文学:『バーブル=ナーマ』、『 アクバル=ナーマ 』などの編纂。
  • 建築:g タージ=マハル   :a シャー=ジャハーン  が王妃の廟としてアグラの郊外に建設。(右上)
     = インド様式とイスラーム様式の融合したムガル時代の代表的建築。
★ムガル帝国時代の南インド
  • 14世紀 デカン高原にa ヴィジャヤナガル  (ヒンドゥー教国)が成立。綿花・サトウキビなどの交易で栄える。
     b インド洋交易  を通じ、西アジアから馬を大量に購入、軍事力を高める。16世紀初め、全盛期となる。
  • 1498年 c ヴァスコ=ダ=ガマ  の来航。ポルトガル、1510年、d ゴア  を占領。拠点を築く。
  • 17世紀以降、ムガル帝国などイスラーム勢力との抗争で衰える。 → 南インド各地でも地方勢力が自立。
先頭へ
用語リストへイ.インド地方勢力の台頭

■ポイント ムガル帝国の全盛期のインド統治のあり方と、その衰退過程を知る。

Text p.199

 アウラングゼーブ帝   第6代 在位1658~1707年  ムガル帝国の全盛期
    • 外征を繰り返しa デカン高原  を征服し、ムガル帝国の領土最大となる。
    • ムガル支配層、地租の徴収の強化だけに努め、農村と都市の商品生産の展開にはかかわらず。
    • 宗教政策の転換 b イスラーム教(スンナ派)  に深く帰依し、ヒンドゥー教寺院を破壊。
    • 1677年 c 人頭税(ジズヤ)の復活   。→ d ヒンドゥー教徒  が強く反発。
    •  → e
 ヒンドゥー教徒との融和政策を放棄したため、各地の非イスラーム勢力に自立の動きが強まった。   
B 地方勢力の台頭
    •  マラーター王国  。デカンのヒンドゥー教徒を率いた▲シヴァージーが王国を建国。
       ムガル帝国に反抗。後にマラーター同盟となる(イギリスのインド支配に抵抗)。
    •  シク教徒  の反乱。西北インド(パンジャブ地方)で反乱を起こす。

解説

 シク教はナーナクが創始し、イスラームの影響を受け厳しく多神教信仰や偶像崇拝を禁止、さらにカーストを否定し平和を重んじたが、ムガル帝国の弾圧に抵抗するため武装するようになった。パンジャブ地方に大きな勢力を持ち、後にはイギリスとも戦った。
  • 1707年 c アウラングゼーブ帝  の死後、帝位継承をめぐる争いが続く。
  • ベンガル、デカンに独立政権ができ、ムガル帝国は、デリー周辺のみを支配する地方政権にすぎない存在となる。
17世紀 イギリス・フランスのインド進出。18~19世紀 イギリスのインド植民地化。(12章2節へ)
先頭へ
用語リストへウ.東南アジア交易の発展 
■ポイント ポルトガルのマラッカ占領後の東南アジア世界の状況を考える。
ポルトガル   の進出 ヨーロッパの大航海時代始まる → 16世紀 東南アジアに進出。(後出)
    • 1511年 a マラッカ王国  を占領。 → 国王(スルタン)は移動しb ジョホール王国  と称する。
    • ポルトガルのマラッカ海峡支配 → ムスリム商人はスマトラの西をまわり、スンダ海峡を通ってジャワ海、
      さらにセレベス海に向かう。 → 東南アジア島嶼部でのイスラーム諸国の成立。

解説

 1511年にマラッカ王国がポルトガル勢力に滅ぼされたことによってイスラーム勢力が排除されたのではないことに注意。イスラーム商人はマラッカ海峡が通れなくなったため、インド洋からスンダ海峡を通り東南アジアに進出するルートを開発、その過程でこの地域のイスラーム化が進み、アチェ王国、マタラム王国、バンテン王国などイスラーム教国が成立し、イスラーム商人のネットワークが成立した。マラッカ王国の王(スルタン)もマレー半島先端に移動し、ジョホール王国を再建している。この時代、ポルトガルはむしろ孤立し、東アジアに活路を見いだしていった。
B 東南アジア諸国の活動
  • 島嶼部(スマトラ島、ジャワ島)のイスラーム教国。交易ネットワークを形成し、ポルトガルに対抗した。
     a アチェ王国   : スマトラ島の北端。マラッカのポルトガル勢力と対抗し胡椒貿易で栄える。
     b マタラム王国   : マジャパヒト王国に代わり、ジャワ島東部に成立。
     ▲c バンテン王国  : ジャワ島西部に成立。 → いずれも18~20世紀初頭にオランダに征服される。
  • 大陸部の非イスラーム国家
    タイ d アユタヤ朝   :アユタヤを都とし、17世紀にタイの最大領域を実現。タウングー朝の侵入により衰退。
     ビルマ e タウングー朝  :1531年 ペグーを占領し建国。アユタヤ朝との抗争が続く。
     ▲ベトナム f 大越国  が武人政権の抗争で衰退。フエを拠点とした阮氏がg 広南国  として自立。

Text p.200

スペイン   の進出  16世紀 ポルトガルの東廻りに対抗し西回りでアジアに進出。
    • 1521年 マゼランがa フィリピン  に到達。侵略を開始 。1571年、拠点としてb マニラ  を建設。
    • 1565年 c ガレオン船  で太平洋の横断に成功。
       → 中国のd 絹・陶磁器  ・インド産のe 綿布  などをb マニラ  に集め、太平洋を横断し、
      メキシコのf アカプルコ に運ぶ。そこからヨーロッパ各地にもたらされた。 = g ガレオン貿易  

解説

ガレオン船 ガレオン船は遠洋航海術が発達した大航海時代のスペインで開発された3または4本マストの大型帆船。1565年のレガスピが太平洋を東から西に横断してフィリピンに到着してから、1815年までの250年間、航海は困難で1年に1回の往復だけだったが、中国産の絹織物や陶磁器をヨーロッパにもたらし、メキシコ産の銀を中国に運び、双方の経済を支えた。 
D 東南アジア交易の展開
  •  銀  の中国への流入。中国の基本通貨となり、明の一条鞭法、清の地丁銀など税制が変化。(前出)
     → b メキシコ銀  ・c 日本銀  がポルトガルの拠点 d マカオ  を通じ中国にもたらされた。
  • 日本のe 朱印船貿易   → フィリピン、ベトナム、タイなどに進出。 → 各地にf 日本町  ができる。
オランダ・イギリス  の進出と抗争 ヨーロッパのa 香辛料  の需要の高まり。
  • 17世紀初頭 両国はb 東インド会社  を設立。(後出)
  • 1623年 アンボイナ事件 モルッカ諸島で両国が衝突。インド・東南アジアの勢力圏を分割。(後出)。

16~18世紀 東南アジア地図

 

東南アジア 16~18世紀

 A タウングー朝 
 B アユタヤ朝 
 C 大越国 
 D 広南国 
 E アチェ王国 
 F バンテン王国 
 G マタラム王国 
 a マカオ  b マニラ
 c ハノイ  d フエ 
 e タウングー  f アユタヤ 
 g プノンペン  h マラッカ 
 i ジョホール  j パレンバン 
 k バタヴィア  l マタラム 
 主な 日本町  

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キューバ危機

2017-10-16 | 生物暗記法

 

Text p.348

 キューバ危機  
・1959年 キューバにa カストロ 政権成立。b 社会主義宣言 を行う。
 1961年 アメリカ、キューバと断交。
・c 1962 年 ソ連(d フルシチョフ 首相)がキューバにミサイル基地を建設。
  → アメリカ(e ケネディ 大統領)、ミサイル撤去を要求してf 海上封鎖 を宣言。
  → キューバ経済の困難 → 核戦争の危機 → ソ連、ミサイルを撤去して危機回避。
・1963年 米ソ首脳間のg ホットライン(直通回線) 協定を結ぶ。
先頭へ
ウ.アメリカの繁栄と西欧・日本の復興
・大戦後~50年代の アメリカ
 トルーマン大統領  民主党。1945年4月 F=ローズヴェルトの副大統領から昇格。 
・外交:1947年より、a 「封じ込め政策」  → 反共政策の推進、ソ連への対抗意識強まる。
・内政:▲b フェアディール 政策 社会保障の拡充などを掲げたが議会の反対などで成果無し。
    社会には経済繁栄が進む中、社会主義への警戒が強まる。
 1947年 議会(共和党が多数を占める) c タフト・ハートレー法 を議決。
   = ニューディール期の ワグナー法 を改訂し、ストライキなどの労働組合活動を制限。
・1950~54年 d マッカーシズム の展開。
  共和党議員e マッカーシー による共産主義思想摘発の運動。
  → f 「赤狩り」 と言われ、多くの知識人、芸術家、公務員が追放される。
  → ローゼンバーグ夫妻事件など。
 アイゼンハウアー大統領  第2次世界大戦の英雄。 共和党 1953~61年 
・外交:当初、a 「まき返し政策」 をとる。国務長官ダレス。
  1953年 b 朝鮮休戦協定 を締結。 
  1956年 ソ連の変化に対応し、c 平和共存 路線に転換。
   → 1957年 スエズ戦争では英仏およびイスラエルの軍事行動を非難。
  1958年  アイゼンハウアー=ドクトリン 発表 中東への軍事介入を強化。
  1959年 フルシチョフソ連首相とのd キャンプ=デーヴィッド 会談。
・内政:大資本擁護の穏健な保守主義をとる。 →  50年代アメリカの繁栄 
    市民生活の向上の反面、黒人などの貧困層も拡大。黒人のe 公民権要求 も強まる。
・1961年 離任演説で▲f 軍産複合体 への監視を提唱。
1961年 民主党g ケネディ 大統領(後出)
  内政:ニューフロンティア政策(後出) 外交:キューバ危機を乗り切る。(既述)
・西ヨーロッパの経済復興と統合の進展
 マーシャル=プラン  1947年6月 アメリカ資本による援助。(既述)
・a 西ヨーロッパ経済の復興 が進み、1950年代~70年代 高い経済成長率が続く。
  → 米ソに対抗するため、エネルギー資源、工業資源の共同管理の理念が生まれる。
  = b ヨーロッパ統合 の構想が出てくる。(すでにOEEC、西欧連合が存在)
 ECSC  =a ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体 
・1952年発足 フランスのb シューマン 外相の提案(c シューマン=プラン 
  加盟国:d フランス・西ドイツ・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・イタリア の6ヵ国。
  ねらい: ルール地方  ザール地方 の石炭・鉄鉱石を共同管理し、仏独の軍事対立を防止する。 
 EEC  
・1957年 ▲a ローマ条約  上記6ヵ国で締結。
 1958年 b ヨーロッパ経済共同体  成立。
  目的:西ヨーロッパの市場統合を実現し、将来の国家統合への準備をする。 
  内容:関税引き下げ、共同の商業・農業政策や資本・労働力移動の自由化を実施。
 1958年 c ヨーロッパ原子力共同体  発足。
・d イギリス はEECに参加せず。後に、加盟申請したが条件あわず失敗。
  理由:イギリス連邦の市場を優先し、アメリカとの関係も重視。
     フランスのe ド=ゴール がイギリスの加盟に反対。
 → 1960年、EECに対抗し、f ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA) を結成。
  加盟国:イギリス、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、スイス、オートリア、ポルトガル。
 EC 
・1967年7月 ECSC・EEC・EURATOMの三者が合併しa ヨーロッパ共同体 となる。
・1973年 拡大EC(後出)
 → アメリカ・日本・ECの世界経済のb 三極構造 が形成される。
・西欧諸国

Text p.349

 フランス  1954年からa アルジェリア独立 問題が深刻化。(後出)
・1958年b 第四共和政 倒れる。→ 右翼、軍部の支持で c ド=ゴール 内閣成立。
  → d 第五共和政憲法 制定 =大統領の権限強化。内閣、議会の権限を制限し、国民投票を重視。
・ 同 年10月 e 第五共和政 発足 → c ド=ゴール 大統領当選:
      特色:「フランスの栄光」を再現する、米英にたいする独自外交を行う。
 ド=ゴール外交 の展開
 1960年  核実験を強行 し、核保有国となる(第4番目)。
 1962年 a アルジェリア独立 承認(後出)  1963年  独仏友好条約 締結。
 1964年 f 中華人民共和国承認  → 世界の多極化、始まる。
 1966年 g 北大西洋条約機構(NATO) 軍事機構から脱退。
・ド=ゴール体制の終焉
 1968年 h 「五月危機」  学生・労働者による反政府デモ激化(五月革命)
 1969年 c ド=ゴール 大統領辞任。 → ポンピドゥー、ジスカールデスタンへ。
ド=ゴール

 ド=ゴール 大統領

 西ドイツ 
・1954年 a パリ協定  国家主権を回復。
  → 55年、b NATO に加盟しc 再軍備 が認められる。
・「奇跡の経済復興」をとげる。 → 55年 ソ連と国交を回復。
  → 東ベルリンから西ベルリンへの脱出者が多くなる。 58年にはベルリン問題が再燃。
・1961年 東ベルリン当局により、d ベルリンの壁 構築される。(既述)
 1963年 キリスト教民主同盟e アデナウアー  独仏友好条約 を成立させ、花道にして辞任。
・戦後体制の転換
 1966年 キリスト教民主同盟・社会民主党など全政党の▲f キージンガー 大連立内閣成立。
  → 67~68年、学生を中心とした議会外反対派の運動が起こり、大連立内閣倒れる。
 1969年 戦後初のg 社会民主党 政権 h ブラント 内閣が成立。(後出)
 イギリス  
・50年代~ 保守党政権(チャーチル→イーデン→マクミラン)、a EEC不参加 など独自路線。
・1956年  スエズ戦争 (第2次中東戦争)に敗北、国際的な権威を失墜。(後出)
 1960年 b ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA) を結成し対抗する。→ 貿易赤字続き、衰退。
・1964年 c 労働党 、選挙に勝利し、d ウィルソン 内閣成立(13年ぶり)
  → e スエズ以東 から撤兵。→ 経済の低迷続く(f イギリス病 と言われるようになる。)
  → 1967年 g ポンド切り下げ に追い込まれる。
 1970年 保守党に政権交代 ヒース内閣 (70年代も経済後退続く)
・日本の復興
 日本の経済復興  a 日本国憲法 のもと、平和を維持し、経済復興を遂げる。
・1950年~ b 「朝鮮特需」  → 朝鮮戦争での米軍の物資調達で経済潤い、工業生産力の復興。
 1951年 サンフランシスコ講和会議。 → サンフランシスコ平和条約で独立回復(既述)
B.戦後政治の転換と国際社会への復帰
・1955年 自民党政権に対し社会党が野党として対抗する▲a 55年体制 成立。
 1956年 b 日ソ共同宣言 発表。ソ連と国交回復。鳩山一郎、ブルガーニン間で締結。
  →  北方領土問題 は残る。
・ 同  年 c 国際連合 に加盟。
 1960年 d 日米安保条約改定 (岸信介内閣) 激しい反対運動( 安保闘争 )起きる。
  → 新安保条約が成立しアメリカの日本防衛義務が明記され片務的軍事同盟となる。
 高度経済成長  1960年代 
・1964年 ▲a 東京オリンピック の開催、新幹線の開業。
 1965年 ▲b 日韓基本条約  国交回復、韓国の賠償金放棄と日本による経済援助。
 1969年 アメリカ、▲c 沖縄返還 に合意(佐藤内閣) → 72年 正式に返還される。
 1970年代 高度な工業化社会、大量消費社会となる → ▲d 公害問題 の表面化。
・戦後世界の転換
・1968~69年 先進資本主義国で戦後の経済発展による人間疎外感が強まる。
  → a 学生運動 、労働運動が、▲b ベトナム戦争 反対運動とともに盛り上がる。
・フランス c 「五月危機」   →ド=ゴール退陣
・西ドイツ d ブラント 社会民主党政権の成立
・日本 a 学生運動 が激化 東大、日大などの大学紛争おこる。 70年、よど号ハイジャック事件など
・▲この年、ソ連東欧圏
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第16章 冷戦と第三世界の自立 2 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興

2017-10-16 | 生物暗記法

 

Text p.345

ア.朝鮮戦争と冷戦体制の成立
 朝鮮戦争  の勃発 
・a 1950 年6月 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍、b 北緯38度線 を越えて侵攻。
  → 一挙に釜山に迫る。北朝鮮のc 金日成 がソ連と中国の了解の下で侵攻を開始。
・国連、緊急d 安全保障理事会 を開催、北朝鮮軍の行為を「平和の破壊」と断定。
  → c ソ連 は、中国代表権問題で安保理を欠席していたため、f 拒否権 を行使できず。
  → g 国連軍 を編成(最高司令官:アメリカの▲h マッカーサー 元帥)、実態はアメリカ軍。
  → 11月、アメリカは国連総会に▲「平和のための結集」決議※を提案、可決される。
補足:
 国連軍の出動  
・1950年9月 ▲a マッカーサー 元帥の率いる国連軍、仁川上陸に成功。第7艦隊を派遣。
      10月 国連軍、北朝鮮に侵攻。中国国境に迫る。
      11月 中国がb 中国人民義勇軍 を派遣し、参戦。 12月 北朝鮮軍、平壌を奪還。
 1951年以降、両軍c 北緯38度線 付近で一進一退をくり返す。
  同  年4月 a マッカーサー 、原爆使用を主張して、トルーマン大統領に解任される。
 朝鮮休戦協定  
・1951年6月 ソ連が停戦を提案。7月a 板門店 で交渉開始。
 1953年7月 休戦協定成立。 現在にいたるまで、b 「休戦中」で戦争状態は終了していない。 
 日本の再軍備  
・アメリカ占領政策:「民主化と軍備全廃」方針から、再軍備と日米軍事同盟結成へ転換。
  背景:a 中華人民共和国の成立・朝鮮戦争の勃発などの共産勢力のアジアでの進出に対する警戒。 
 1950年 吉田茂内閣、GHQの指示でb 警察予備隊 を発足させる。
・1951年9月 d サンフランシスコ講和会議  中国代表は招聘されず、インドなどは不参加。
  ソ連などは、中国の不参加、アメリカ軍の駐留などを理由に講和に反対。西側との片面講和となる。
  → 48カ国とe サンフランシスコ平和(講和)条約 締結。日本の独立(国家主権)の回復。
  問題点:f ソ連、中華人民共和国、インドなどとは講和できず、全面講和にならなかった。 
  ・領土問題 g 朝鮮 、h 台湾 、i 南樺太 、j 千島 ※を放棄。
    ※歯舞、色丹、国後、択促はソ連軍の占領続く。日本は日露和親条約に基づき返還を要求。
  ・同時にk 日米安全保障条約 を締結。日本はアメリカ軍の駐留、軍事基地と施設の存続を認める。
  → 日本、アメリカ合衆国の対共産圏包囲網の一員として軍事同盟に組み込まれる。
・1954年 c 自衛隊 発足させる。憲法第9条は国連憲章の「自衛権」と矛盾しないと解釈。
補足:▲アジア諸国との国交回復
 対共産圏包囲網の形成   アメリカを中心に対ソ・対中国包囲網(反共軍事同盟)の形成。

Text p.346

・1951年  アメリカ・フィリピン相互防衛条約 を締結。アメリカ、 相互安全保障法(MSA) 制定。
  同  年 a 太平洋安全保障条約(ANZUS)  アメリカ・オーストラリア・ニュージーランド
 1953年 ▲米韓相互防衛条約、1954年 ▲米華相互防衛条約(台湾)をそれぞれ締結。
・1954年 b 東南アジア条約機構(SEATO) 
  = ANZUS三国に、イギリス・フランス・フィリピン・タイ・パキスタンが加盟。
  ねらい:インドシナ休戦協定後のベトナム民主共和国(北)に対抗して、ベトナム共和国(南)を支援する。
      → アジア共産化を阻止する。 
・1955年 c バグダード(中東)条約機構(METO) 発足。
  = トルコ・イラク・イギリス・パキスタン・イラン
  → 59年、イラクでイラク革命起こり、脱退。e 中央条約機構(CENTO) に改称。
 ワルシャワ条約機構  
・1955年 東欧8ヶ国が、西ドイツのa NATO 加盟と、b 再軍備 に対抗し、
  c 東ヨーロッパ8カ国友好相互援助条約 を締結。= E ワルシャワ条約機構 の成立
 加盟国:
 d ソ連、東ドイツ、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア 
 ねらい:西側諸国のNATOに対抗する、東側の軍事同盟。

北極をはさんで対立する東西両陣営

北極をはさんで対立する東西両陣営


 西側 
 北大西洋条約機構(NATO) 加盟国(1955年)

 東側 
E ワルシャワ条約機構(WTO) 加盟国(1955年)

両陣営は北極海をはさんでそれぞれミサイル網を配備してにらみ合った。
 核兵器開発競争  
・1949年 a ソ連、核実験 成功を公表。→ アメリカの核兵器独占体制崩れる。
 ▲1951年 アメリカ、 ネバダ核実験場 を開設。
 1952年  イギリス核実験 成功し核保有国となる。アメリカ、世界最初のb 水素爆弾 実験に成功。
 1953年 ソ連もb 水素爆弾 を製造。
 1954年 アメリカ c ビキニ環礁 水爆実験 →  第5福竜丸事件 (日本人漁民が被爆)
 ▲1957年 ソ連で ウラル核爆発事故 (公表されず)。

Text p.347

核戦争の恐れが高まり、d 冷たい戦争(冷戦) の深刻化。 → 核廃絶運動が強まり、米ソ核実験停止。
先頭へ
イ.ソ連の「雪どけ」と平和共存政策
 米ソの接近    
・1953年 ソ連のa スターリン 死去 → マレンコフらの▲b 集団指導体制 となる。
  → 1955年 ソ連 c ユーゴスラヴィア と和解、d 西ドイツ と国交。
 1953年 アメリカ e アイゼンハウアー 大統領(共和党) 米ソの話し合い路線に転換。
  → 同年7月 朝鮮戦争の停戦  54年 インドシナ戦争解決のための ジュネーヴ会議 開催。
・1955年7月 米・英・仏・ソの▲f ジュネーヴ4巨頭会談 開催。
    米(アイゼンハウアー)・英(イーデン)・仏(フォール)・ソ(ブルガーニン)
  背景:同年開催のg アジア・アフリカ会議 に対抗。 → 国際紛争の話し合い解決への機運高まる。
 スターリン批判 
・a 1956 年2月 b ソ連共産党第20回大会 開催。
  c フルシチョフ 第一書記が演説。
 →戦争の回避、資本主義諸国とのd 平和共存 、議会制を通じての革命の可能性を掲げる。
 ・秘密報告でe スターリン批判 を展開、世界を驚かす。
  スターリンの独裁と個人崇拝、反対派に対する処刑、抑圧などのf 粛清 などを批判。
 → 同 年 g コミンフォルム を解散。
・スターリン批判の影響
  d 平和共存 の機運高まり、h 「雪どけ」 といわれる。
  東欧諸国の自立の動き、自由化運動が始まる。(次に説明)
  中国のi 毛沢東 は強く反発し、j 中ソ対立 始まる。(後出)
フルシチョフ

 フルシチョフ 

 東欧諸国の自由化運動   ソ連でのスターリン批判に触発されて始まる。
・1956年6月 a ポーランド反ソ暴動   b ポズナニ で民衆暴動おこる。
   生活改善と民主化を要求し民衆蜂起。 統一労働者党第一書記c ゴムウカ 政権の成立。
  → ワルシャワ条約機構に留まることを条件に、内政の自由を獲得する。
・1956年10月 d ハンガリー反ソ暴動  全土で反ソ・デモ起こる →ソ連が介入。
    首相e ナジ=イムレ  ワルシャワ条約機構脱退を宣言して、処刑される。
  → 一定の自治をえたところもあるが、自由化運動はソ連軍に鎮圧される。
・1956年の危機 ハンガリー反ソ暴動、 スエズ戦争 (3節)が平和共存の危機となった。
 平和共存路線   スターリン批判後のソ連の外交方針の転換。ソ連の軍事的な優位が強まる。
・1957年 ソ連 a 人工衛星(スプートニク) の打ち上げに成功。
  同  年 ソ連、b 大陸間弾道ミサイル(ICBM) を完成。
 1958年 ソ連 c フルシチョフ  第一書記と首相を兼任 → 経済改革の実行。 
 1959年 d フルシチョフ渡米 、アメリカ大統領e アイゼンハウアー とはじめて首脳会談。
       = f キャンプ=デーヴィッド 会談。
 1960年に▲g U2型機事件 が起き第2次首脳会議(パリ)の開催が中止される。
  → 平和共存路線が崩れる。
 東西ドイツの対立    
・1950年代、a 東ドイツ の農業集団化が進む。東ベルリンから西側への脱出が増加。
 ベルリン問題 の再燃。
 1958年 ▲ソ連は、西ベルリンからの米・英・仏3国軍の撤退を要求。
 1961年6月 ▲ソ連のフルシチョフとアメリカ大統領b ケネディ のウィーン会談、決裂。
・c ベルリンの壁 の構築。
 1961年8月 東ドイツ政府、西ベルリンを包囲する壁を築く。東西対立の象徴となる。
  → 1989年まで存続、その間、200人以上が壁を越えようとして殺される。
・ 同  年 米ソとも核実験を再開。緊張高まる。
ではe チェコ事件 が起こり、社会主義体制の動揺が広がった。
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選挙制度の変遷

2017-10-14 | 生物暗記法

い夫婦 午後降れ黒山博多以後入れ差なし。

1.1%・2.2%・5.5%・20%)(田内閣・県Ⅰ内閣・内閣・内閣)(15円以上・10円以上・円以上・制限なし

 

[point]
1.選挙資格は黒田山県Ⅱ各内閣のとき、各々15円(人口比1.1%)・10円(同2.2%)・3円(同5.5%)以上の直接国税納入者とされ、加藤高明内閣のとき制限なし(同20%)となった。

[解説]
1.黒田清隆内閣は、1989年、憲法と同時に衆議院議員選挙法を公布した。選挙人は満25歳以上男子直接国税15円以上の納入者に限られた。有権者は全人口の1.1%で、中農以上の農民か都市の上層民だけが参政権をあたえられた。被選挙資格30歳以上で納税資格は同じく15円以上。

2.直接国税とは基本的に地租所得税、のちに営業税も加わる。25歳以上には1年以上定住者という付帯条件がある。なおその他、15円以上という納税資格には、所得税に限り3年以上定住し納税(地主に有利にしてあった)、記名投票制、といった細かい規定がつづくが省く。


3.第2次山県有朋内閣は、1900年、直接国税納入を10円以上(全人口の2.2%)に緩和した。また小選挙区制から大選挙区制に、記名投票を秘密投票に改め、被選挙権者の納税資格をなくした


4.原敬内閣は、1919年、直接国税納入を3円以上(全人口の5.5%)に改正した。原内閣は同時に小選挙区制を布(し)いていることに注意。小選挙区制は1つの区に当選者1人のみ。この区割りの主導権は政権与党に。したがって巧みな区割り操作で1位当選をねらえる立憲政友会に優利な制度。また3円以上というのは、立憲政友会の地盤である保守的な農村の小地主に選挙権を与えるもの。この両改正には党勢拡大を狙う明確な意図があった。


5.加藤高明内閣のときの1925年、普通選挙法が実現したが、選挙資格は男子のみの25歳以上


6.女子の選挙資格は敗戦後の1945年幣原喜重郎内閣のときやっと実現。男女20歳以上となった。


2017関西学院大・全学部

問8  次のa・bの正誤を判断せよ。

 a 大日本帝国憲法と同時に公布された衆議院議員選挙法では、さまざまな制限のため、有権者は全人口の1割程度にとどまった。

 b 立憲政友会の原敬が組織した内閣は、選挙権にかかわる納税資格を直接国税1円以上納める者にまで広げる一方で、小選挙区制を導入した。」

(答:a×1割→1.1%、b×1円以上→3円以上)〉


2017早大・法

 次の史料は、ある人物の日記からの抜粋(―部表記を変更)である。これを読み、後の問に答えなさい。
1.2月10日
 
高商及早稲田に出講。此日議会三度停会となる。
  2月11日
 昨日の停会後再び日比谷附近に焼打始まりたる由。今朝に至りて始めて之を聞く。a.桂内閣の不信任終に帝都を騒擾に陥らしむ。不臣の罪大なりと云ふべし。総辞職の報を今朝の新紙に見るは既に遅れたるの甚しきものと云ふべし。
2.2月11日
 憲法発布三十年に相当するを以て東京其他に於て祝賀会開催するもの多く、b.普通選挙論の漸く盛なり
3.5月13日
 政友会過半数を得て二百七十名以上となり、憲政会の領袖中落選せるもの少なからず。[ A ]の見込は確実に実現せるも、今後の政界は雨?風?

問1 下線aに関連する記述として正しいものはどれか。1つ選べ。


 あ 立憲政友会の犬養毅、立憲国民党の尾崎行雄らが倒閣運動を展開した。

 い 桂が明治天皇の権威をかりて政権独占を企てているとの非難が強まった。
 う 桂は立憲政友会の離党者などによって立憲同志会を結成し、運動に対抗した。
 え 民衆の直接行動によって内閣が倒れた初めての事例となった。
 お 倒閣運動は吉野作造が提唱した民本主義に力を得て大きく高揚した。

問2 下線b普通選挙論の漸く盛なりに関連する記述として誤っているものはどれか。1つ選べ。


 あ 翌年、憲政会などの野党はいわゆる普通選挙法案を議会に提出した。

 い 立憲政友会は普通選挙を求める運動に対し抑圧的な姿勢をとった。
 う 立憲政友会は選挙権の納税資格を緩和して選挙権を拡張する政策をとった。
 え 普通選挙を要求する運動の主な担い手は労働者や学生であった。
 お 普通選挙を要求する運動は政府の規制により、この年、いったん終息した。

問3 空相Aに該当する首相の姓名を漢字で記入しなさい。」


(答:問1え〇 ※あ×犬養は立憲国民党、尾崎は立憲政友会、い×明治天皇→大正天皇、う×結成は桂太郎の急死直後、お×民本主義提唱は1916年(大正5年)、問2お、問3原敬)〉


 〈2016明大・農

問3 下線部ウ普通選挙法に関連して、普通選挙法の成立によって、全人口に占める有権者の割合はおおよそどの程度になったか。もっとも適切なものを下記から一つ選べ。

 A約1% B約2% C約6%

 D約21% E約50%」

(答:D)〉


2016早大・政経

【史料3】
 第2章 選挙人の資格
第6条 選挙人は左の資格を備ふることを要す
 第1 日本臣民の男子にして年齢満( け )歳以上の者
 第2(略)
 第3 選挙人名簿調製の期日より前満1年以上其の府県内に於て直接国税( こ )円以上を納め仍引続き納むる者たるへし
    但し所得税に付ては人名簿調製の期日より前満3年以上之を納め仍引き続き納むる者に限る
第8条 被選人たることを得る者は日本臣民の男子満( さ )歳以上にして選挙人名簿調製の期日より前満1年以上其の選挙府県に於て直接国税( こ )円以上を納め仍引き続き納むる者たるへし
    但し所得税に付ては人名簿調製の期日より前満3年以上之を納め仍引き続き納むる者に限る

問7【史料3】の( け )、( こ )、( さ )の順に入る数字で、正しい組み合わせはどれか。
 
a.25・15・25
 
b.25・15・30
 
c.25・20・25
 
d.25・20・30
 
e.30・15・30」

問8【史料3】は、制定された直後から改正の政治的動きが始まり、制定10年を経た1900年に大きく改正された。その時の改正の内容を示す記述はどれか。


 a.選挙権と被選挙権の納税要件は直接国税5円となった。

 b.選挙区は、大選挙区から小選挙区に変更された。
 c.被選挙権の納税要件はなくなり秘密投票となった。
 d.選挙権と被選挙権の納税要件はなくなった。
 e.選挙権と被選挙権が女性に認められた。」

(答:問7b〇、問8c〇 ※a×5円→10円、b×小→大、d×被選挙権のみ、e×女子は戦後まで不可)

〈2015立命館大・全学部2/2:「
問s.下線部91890年の第1回衆議院議貝選挙に関連して、第1回衆議院議員選挙は直接国税を一定額以上納めた満25歳以上の男子のみに選挙権が与えられる選挙法に基づいて実施された。その金額は何円か答えよ。」
(答:15円)〉
〈2012立大・文学部:「
問6.これ(第1回衆議院議員総選挙)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
 a.衆議院の議員定数は300名であった
 b.選挙権は満25歳以上の男性で、直接国税5円以上納入している者に与えられた
 c.選挙時に首相であった黒田清隆は超然主義の立場を表明した
 d.選挙の結果、政府支持派である吏党が過半数を占めた」
(答:a〇 ※b×15円以上、c×選挙時は山県有朋首相、d×過半数は民党)〉

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動揺する中国

2017-10-11 | 生物暗記法
ウ.動揺する中国

Text p.353

 「大躍進」運動 
・1950年代前半 農工業生産水準、戦前を超える。
  → 一方で、強引な工業化、農業集団化政策、共産党の一党支配体制への批判が現れる。
・1958年 共産党のa 毛沢東 、「過渡期の総路線」を唱え「大躍進」運動を呼びかける。
  = ▲b 第2次5カ年計画 を立案。
  要点:自力による鉄鋼生産の増強※と農業集団化(c 人民公社 ※※の設立)の推進。
   ※鉄鋼を増産するために手製の溶鉱炉(土法高炉)を作ったが粗悪なくず鉄しか作れなかった。
  ※※d 政治・経済・文化と軍事を包含した集団的農業生産の基本単位。 
B 中国の動揺と転換
・急激な農村のa 人民公社 化が農民の労働意欲を低下させ、生産が減少。
  → 食糧不足から全国で餓死者(1500万~2700万といわれる)が出る。
・背景 b 中ソ対立 のためソ連の技術援助が途絶えた中で、強引に重工業化を図ったこと。
    1959~61年の▲c 自然災害 (華北の旱害と華中・華南の水害)
・1958年8月 共産党中央委員会▲d 廬山会議  大躍進を批判した彭徳懐国防部長を解任。
 1959年 e 毛沢東 国家主席を辞任(党主席は留任)
  同  年 国家主席f 劉少奇  計画経済を見直し、資本主義の導入を図る。 → 周辺の動揺。
・ 同  年 g チベットの反乱  h ダライ=ラマ14世 を中心とする反中国運動が起こる。
  → 中国人民解放軍が鎮圧。 h ダライ=ラマ14世 、インドに亡命。
・1962年10月 インドとの衝突に発展 =i 中印国境紛争  →現在も未解決。
 中ソ対立 
・1956年 ソ連のフルシチョフによるスターリン批判始まる。米ソの平和共存路線に転換。
  →a 毛沢東 、帝国主義との対決を重視し、ソ連の平和共存路線を批判。

       ┌ 中国(a 毛沢東    ):ソ連をb 修正主義・社会帝国主義など と非難
   中ソ論争┤
       └ ソ連(c フルシチョフ ):中国をd 教条主義、毛沢東を独裁者 と非難
 
・1960年 ソ連、e 中ソ技術者協定を破棄 、技術者を中国から引き揚げ、経済支援を停止。
  → 中国 ▲f 「自力更生」 を掲げる。
 1962年 g 中印国境紛争 ではソ連がインドを支持。
       h  キューバ危機 では中国がソ連の譲歩を非難。
・中ソ論争の公開
 1963年 ソ連・中国、公開論争を開始。i アルバニア を除き、ソ連を支持。中国の孤立。
 1964年 中国、j 原爆実験 に成功、核保有国となる。
 1969年 k 中ソ国境紛争 激化 l 珍宝島事件 など軍事衝突起こる。
 ソ連との対立、1980年代まで続く。
 プロレタリア文化大革命  「大躍進」運動の失敗 →a 毛沢東 実権をなくす。
・1965年 呉晗の史劇『海瑞免官』を彭徳懐を擁護する作品として批判するキャンペーン始まる。
・b 1966 年 a 毛沢東  右派に対し、資本主義につながるとして文化闘争を提唱。
  → c 劉少奇 ・d 鄧小平 らを修正主義者、e 実権派・走資派 として攻撃、失脚させる。
  → 全国でf 紅衛兵 を中心とした大衆運動が激化、「造反有理」を叫び、権威を否定。
    あわせて官僚・知識人に対して「自己批判」を迫り、各地で文化財の破壊などが起こる。
  → 人民解放軍は毛派の国防部長g 林彪 らが抑える。
  ▲毛夫人のh 江青 ら側近グループi 四人組 (他に張春橋、姚文元、王洪文)台頭。
 1969年 g 林彪  後継者に指名される。前国家主席c 劉少奇 は獄中で死亡。
 1976 年まで文化大革命が続き、中国の経済・文化活動が停滞する。(17章2節へ)
先頭へ

Text p.354

エ.ベトナム戦争とインドシナ半島
 南北ベトナムの対立  インドシナ戦争終結後、アメリカは東南アジアの共産化を恐れ介入を強める。
・1955年 ベトナム共和国(南)=a ゴ=ディン=ディエム 政権 アメリカが支援。
・1960年 べトナム民主共和国(北)=b ホー=チ=ミン 大統領の支援により、
   南べトナムにc 南べトナム解放民族戦線 結成される。 → 南北ベトナムの統一をめざす。
   → ゲリラ戦により、南べトナム政府(米軍が支援)に抵抗始める。
 1961年 アメリカのd ケネディ 大統領、南ベトナム支援を強化。グリーンベレーを創設。
 1963年 南べトナムのa ゴ=ディン=ジィエム 政権、クーデタで倒される。
   → アメリカのe ジョンソン 大統領、南べトナム新政権を支援 →解放戦線の攻勢激化。
 1964年8月 ▲f トンキン湾事件 を口実に北ベトナムに最初の空爆を加える。
 ベトナム戦争   
・a 1965 年 b ジョンソン 大統領c  北べトナム空爆(北爆) 命令。
   → さらに南ベトナムに地上軍を増強。→ ソ連・中国は北ベトナムを支援、本格的戦争開始。
 1967年 アメリカ空軍、▲d 枯葉剤 散布作戦を開始。 ~69年まで。
・北ベトナムの攻勢
 1968年 解放戦線によるテト(旧正月)攻勢 →形勢は逆転。長期化、アメリカ経済の悪化。
  同  年 ソンミ村虐殺事件。 → 世界的な、▲e べトナム反戦運動 が展開される。
  同  年 アメリカ大統領 北爆停止を発表、f パリ和平会談 に入る。
 1969年 アメリカ g ニクソン 大統領就任、段階的撤兵を打ち出す。
・戦線の拡大
 1970年 米軍、h カンボジア 侵攻。71年、i ラオス 侵攻。戦火、インドシナに拡大。
 1972年 米軍、北爆再開。アメリカは解放戦線への北ベトナムからの支援を断つことを策す。
C 和平協定とベトナム統一  1968~73年 解放戦線の攻勢強まる。
・1973年1月 a べトナム(パリ)和平協定 調印。アメリカ軍、b べトナム撤退  。
 1975 年4月 北べトナム軍と解放戦線によりc サイゴン陥落 
 1976年 統一選挙実施。7月、南北べトナム統一、d べトナム社会主義共和国 となる。
 カンボジア内戦   独立後、a シハヌーク 元首が王政社会主義を唱える。
・1970年 親米右派b ロン=ノル がa シハヌーク 元首を追放。アメリカ軍、支援のため侵攻。
  → 社会主義勢力であるc 赤色クメール(ポル=ポト派) と政府軍の内戦続く。 
・1975年 d ポル=ポト政権 、全土を制圧し、e 民主カンプチア を名乗る。
 ラオス   内戦が続き、a パテト=ラオ(ラオス愛国戦線) が優勢になる。→71年、米軍侵攻。
  1975年 a パテト=ラオ の勝利。1976年、 ラオス人民民主共和国 が成立。
先頭へ

Text p.355

オ.アジアの開発独裁
・a 開発独裁 :1960年代中頃から、アジア・ラテンアメリカの途上国に見られる独裁政治の形態。
  性格:b 独裁権力が反社会主義を掲げて軍隊を掌握し、外国資本と結んで開発を強行する体制。 
  → 経済開発を優先し、国民生活は犠牲にされ、批判的な政治運動、社会運動は抑えられる。
  → 1970年代以降、中産階級の成長に伴い、民主化運動が強まり、いずれも倒される。
 大韓民国   1953年 朝鮮戦争休戦後、緊張続き、南には反共を掲げる独裁政権が続く。
 李承晩 大統領(48年~)の独裁政治 反共と親米を掲げ、抑圧的な政治を展開。
・a 李承晩 ラインを設定。日本漁船の拿捕を行う。
・1960年 ▲b 四月革命  民主化を求める学生を先頭にした民衆蜂起
  → 大統領が失脚しハワイに亡命。張勉内閣成立。
 朴正煕 による軍部独裁政権。
・1961年 a 軍部クーデタ により、張勉内閣を倒して権力を握り、軍政を行う。
  → 1963年 民政に移行し、大統領就任。
・1965年 b 日韓基本条約  締結、国交を回復する。ベトナム派兵。
  → 外国資本を導入し、経済成長を実現、その反面、政権の腐敗、貧富の差が進行。
 1972年 大統領緊急措置令を制定。大統領が国民の自由や権利を制限する権利を持つ。
 1973年 c 金大中事件 :東京滞在中の野党指導者が韓国中央情報部に拉致される。
・1979年 大統領暗殺事件(政府内部の権力闘争) → 政情不安続く。
・北朝鮮では金日成が独自の社会主義体制を強化。60年代からチュチェ思想を提唱。(17章2節)
 インドネシア   1950年代、第3世界をリードするも国内政治不安定になる。 
 スカルノ 大統領 「指導される民主主義」を掲げ、独裁色を強める。
・a ナサコム(NASAKOM) を提唱。(1959年)民族主義、イスラーム教徒、共産主義の協力態勢。
 1965年 国際連合を脱退(マレーシアの安保理非常任理事国当選に反発)
・1965年 b 九・三〇事件  共産党系軍部クーデタ失敗。軍右派、共産党を弾圧。
  → ナサコム体制が倒れ、実権を失う。
 スハルト  軍部を背景に権力を握り、開発優先と、反共外交に転じる。
・1966年9月 国際連合に復帰。  1967年 a 東南アジア諸国連合 結成。
・1968年 大統領となる。以後独裁体制をとる。
・理念として 建国五原則(パンチャシラ) を強調。
  → 工業化、近代化を推進。 → 大統領一族の腐敗が進行。
  1998年 アジア通貨危機が起こり、辞任。(後出)
 フィリピン 
 マルコス 政権 1965年 大統領に就任。開発独裁政策を展開する。 
  背景:共産党系の 新人民軍 による反政府活動・ミンダナオ島の モロ民族解放戦線 の分離運動。
・1983年 政敵ベニグノ=アキノを暗殺し、民主化運動起こり、86年ハワイ亡命。(後出)
 タイ 
・1957年 クーデターでピブン政権倒れる。翌年a サリット 政権 成立。
  → 国王の権威と軍部の力を背景にした「開発」を進め議会と政党を抑える。
  → その後も、軍によるクーデターと民主化運動をくり返す。
・東南アジア諸国の地域連合
・1967年 a 東南アジア諸国連合(ASEAN) 結成。インドネシアのスハルトが提唱。
  発足時 加盟国:b インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイ の5カ国。
      目的:c 東南アジアでの共産勢力の拡大を阻止するための地域経済協力の推進。 (前出)
  → 70年代以降、反共的性格は薄れ、経済協力と安全保障の面が強まっている。現在10ヵ国参加。
 1984年にブルネイ、95年にベトナム、97年にラオス・ミャンマー、99年にカンボジアが加盟。
 イラン   1953年 石油国有化宣言を出したモサデグ政権がクーデタで倒れる。(前出)
・a パフレヴィー2世 の独裁政治 → 反対派を厳しく弾圧。
 1953年以降 親英米政策に転換、▲b 国際石油会社(メジャーズ) に依存した独裁政治。
 1963年 経済・社会の近代化政策をとる →c 「白色革命」 といわれる。

  急速な工業化 → 農村の疲弊 → 貧富の差の拡大 ┐
                           ├ 民衆の不満強まる
  b 国際石油資本 による石油資源の独占      ┘

→ 1979年 d イラン革命 で倒される。(17章3節へ)
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第16章 冷戦と第三世界の自立 3 第三世界の自立と危機

2017-10-11 | 生物暗記法

 

Text p.350

ア.第三世界の連帯とアフリカ諸国の独立
・第三世界の連帯
 朝鮮戦争、インドシナ戦争の米ソ主導による解決にたいする不満
  → アジア・アフリカ諸国のa 第三世界 の結束が強まる。
 コロンボ会議 
・1954年 南アジア5ヵ国の首脳会議、アジア=アフリカ会議開催などを提唱。
  参加国= インド・インドネシア・セイロン・パキスタン・ビルマ 
・a 平和五原則 の発表 中国のb 周恩来 首相、インドのc ネルー 首相が会談し、合意。
  内容=d 領土主権の尊重・不侵略・不干渉・平等互恵・平和共存 の5原則。
  → 米ソ主導の国際政治に対し、第三世界の独自外交の原則をアピール。
 アジア=アフリカ会議  
・a 1955 年 インドネシアのb バンドン で29ヶ国が参加。
  インドネシアのc スカルノ 大統領が議長を務める。
    周恩来、ネルー、ナセルなどが参加。日本はオブザーバー参加。
・d 平和十原則 を採択。平和五原則に次の項目をを加える。
   e 国連憲章尊重・自衛権尊重・集団防衛排除・紛争の平和的解決・正義と義務の尊重 
 意義:f 世界最初の有色人種のみの国際会議。第三世界の諸国が初めて国際的に連帯した。 
スカルノ

 スカルノ 大統領

 非同盟諸国首脳会議   
・1961年 第1回a ベオグラード で開催。25ヵ国が結集。
  ユーゴスラヴィア:b ティトー ・インド:c ネルー ・エジプト:d ナセル 
  ・インドネシア:e スカルノ らが結集。
 = f 非同盟主義 をかかげ平和共存・民族解放の援助・植民地主義の打破を宣言。
・エジプト革命とその影響
 エジプト革命   ムハンマド=アリー朝の腐敗と弱体化、a パレスチナ戦争 で露呈。
・1951年 反英運動強まり、エジプト=イギリス同盟条約破棄され英軍の駐留権消滅。
・1952年 b ナギブ 、c ナセル などd 自由将校団 を結成。
  → 53年 ファルーク国王を追放しe エジプト共和国 となる。
  = 西アジア最初の革命成功。王制打倒と共に民族の独立を勝ち取る。
・1956年 f ナセル 大統領となる。積極的中立政策を展開。
  → 中国を承認 → 英米が経済援助を停止。
    g アスワン=ハイダム の建設を開始。→ アメリカが建設資金を凍結。
ナセル

 ナセル 大統領

Text p.351

 スエズ戦争  =a 第2次中東戦争  
・1956年b ナセル 、c スエズ運河国有化 を宣言。
  → d イギリス・フランス・イスラエル 、共同で軍事行動を起こす。→米ソは軍事行動に反対。
 1957年、英仏軍が撤退して終わる。ナセル=エジプトの勝利 →e アラブ民族主義 の高まり。
  → アメリカ、 アイゼンハウアー=ドクトリン を発表 中東支援と共産勢力との対決を宣言。
C.エジプト革命の影響
・1958年2月 ▲エジプトとシリア(バース党政権)が統合されa アラブ連合共和国 が成立。
  同  年8月 ▲b イラク革命  軍人カセムが、ハーシム家の王政を倒し共和国となる。
   → c METO 脱退。 → d CENTO に改称。(16章2節参照)
  同  年5~7月 ▲ レバノン暴動  アメリカ軍、革命の波及を恐れ、レバノン出兵し、暴動を鎮圧。
・アフリカ諸国の独立
 アルジェリア戦争   a アルジェリア  1830年代からフランス植民地支配を受ける。 
・1954年 b 民族解放戦線(FLN) の独立闘争開始。
 1956年 ▲c スーダン 、d モロッコ ・e チュニジア 独立。
  → フランス人植民者・現地軍とb FLN  の戦闘が激化。激しいテロの応酬となる。
・1958年 f ド=ゴール 大統領 現地軍の反乱を鎮圧しa アルジェリア 独立を決定。
 1962年 和平協定の▲g エヴィアン協定 成立。→  アルジェリア民主人民共和国 成立。
 アフリカの年   前史 1951年 ▲ リビア 王国 国連で独立を承認される。
・1957年 a ガーナ 独立 b エンクルマ を指導者とした黒人共和国成立。
 1958年 c ギニア  国民投票でフランスから独立。セクー=トゥーレ大統領となる。
・d 1960 年 コンゴ、ナイジェリア、ソマリア、カメルーン、セネガルなどe 17ヵ国 独立。
   = この年をB アフリカの年 という。
・独立に伴う苦悩
 1960年 f コンゴ動乱  独立後の反白人暴動鎮圧のためベルギー軍が介入。
  → g ルムンバ 首相暗殺 →ベルギー・アメリカがカタンガ州の分離を策謀、65年まで続く。
補足:その他の独立
・1963年  アフリカ独立国首脳会議  エチオピアのアジスアベバで開催。30国参加。
  = h アフリカ統一機構(OAU) を結成、▲i 新植民地主義 ※への反発と独立をめざす。
  → 2002年 j アフリカ連合(AU)  に改組。
  ※意味:植民地の独立を認めながら経済支援などを通じて実質支配を続け利益を得ようとするもの
・植民地支配の継続
  k ポルトガル 植民地のアンゴラなどは残る。南ア連邦、 ローデシア の白人支配も続く。
・政治・経済の不安定・部族の対立、内戦やクーデタが続き、l 軍事独裁政権 が登場。

地図:アフリカ諸国の独立

アフリカ諸国の独立

・第2次世界大戦前の独立国

 1. エチオピア    2. エジプト 
 3. リベリア     4. 南アフリカ連邦 

・1946~59年の独立国

 5. リビア      6. チュニジア 
 7. モロッコ     8. スーダン 
 9. ガーナ      10. ギニア 

・1960年の独立国(主なもの)

 11. コンゴ     12. ナイジェリア 
 13. ソマリア    14. カメルーン 
 15. セネガル 

・1962年以降の独立国(主なもの)

 16. アルジェリア 
先頭へ

Text p.352

イ.ラテンアメリカ諸国とキューバ革命
 アメリカの支配  ラテンアメリカ諸国は大戦後もアメリカの支配下に置かれる。
・1947年 パン=アメリカ会議、a リオ協定 (米州共同防衛条約)締結。
・1948年 b 米州機構(OAS) を結成。21ヵ国参加。反共産主義、反革命で協同。
    → 域内に大土地所有制の廃止などの土地改革、議会政治の実現などの政治改革要求が強まる。
・アメリカ政府は CIA(中央情報局) をつくり、反米的な外国政府に干渉を開始。
B 反米民族主義運動
・a  アルゼンチン  1946年 b ペロン 大統領 反米的な民族主義を掲げ社会改革。
・c グアテマラ  1951年 左翼政権、土地改革に着手。→54年に軍部クーデターで倒される。
・d ボリビア  1952年 国民革命運動による革命。すず鉱山の国有化、農地改革を実施。
 キューバ   親米的なa バティスタ 政権の腐敗に対する反発が強まる。
・1959年 b カストロ らが蜂起し独裁政権を倒す。▲c ゲバラ らが協力。
  → 土地改革を実施、アメリカ系企業を接収。= d キューバ革命 を実行。
  → アメリカ、革命政権の転覆を謀り失敗。
  → キューバはe 社会主義宣言 を出す。
・1961年 アメリカ(ケネディ政権)、キューバと断交。
  → キューバ以外のラテンアメリカ諸国とf 「進歩のための同盟」 を結成。
・1962年 g キューバ危機 起こる。(後出)
 1964年 h OAS 加盟国、キューバと断交。
カストロとゲバラ

 カストロ とc ゲバラ  

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歴代内閣5

2017-10-10 | ベック式!日本史用語集

い行く山今井をやいカサカサカ 

藤博文(いとうひろぶみ)Ⅰ・田清隆(くろだきよたか)・県有朋(やまがたありとも)Ⅰ・方正義(まつかたまさよし)Ⅰ・藤博文Ⅱ)(方正義Ⅱ・藤博文Ⅲ・隈重信(おおくましげのぶ)Ⅰ・県有朋Ⅱ・藤博文Ⅳ)


[point]
1.歴代内閣初代~10代は、伊藤博文Ⅰ黒田清隆山県有朋Ⅰ松方正義Ⅰ伊藤博文Ⅱ松方正義Ⅱ伊藤博文Ⅲ大隈重信Ⅰ山県有朋Ⅱ伊藤博文Ⅳ

八尾テハ鷹焼き変わったハワイ。

太郎(かつらたろう)Ⅰ・西寺公望(さいおんじきんもち)Ⅰ)(太郎Ⅱ・西寺公望Ⅱ・太郎Ⅲ)(本権兵衛(やまもとごんべえ)Ⅰ・隈重信Ⅱ・内正毅(てらうちまさたけ))

[point]
1.歴代内11代~18代は、桂太郎Ⅰ西園寺公望Ⅰ桂太郎Ⅱ西園寺公望Ⅱ桂太郎Ⅲ山本権兵衛Ⅰ大隈重信Ⅱ寺内正毅

竿費はこひあよこっとこす

原敬(はらたかし)・橋是清(たかはしこれきよ)・三郎(かとうともさぶろう))(山本兵衛Ⅱ・浦奎吾(きようらけいご)・明(かとうたかあき))(槻礼次郎(わかつきれいじろう)Ⅰ・中義一(たなかぎいち)・口雄幸(はまぐちおさち)・槻礼次郎Ⅱ・養毅(いぬかいつよし))


菱余暇あよはい奇異沙汰ミフ男

斎藤実(さいとうまこと)・田啓介(おかだけいすけ))(田弘毅(ひろたこうき)・銑十郎(はやしせんじゅうろう)・衛文麿Ⅰ・沼騏一郎(ひらぬまきいちろう))(阿部信行(あべのぶゆき)・米内光政(よないみつまさ))






衛文麿Ⅱ・衛文麿Ⅲ・条英機(とうじょうひでき))(磯国昭(こいそくにあき)・木貫太郎(すずきかんたろう))


2017早大・文化構

 第2次近衛内閣時に新体制運動の推進を目指してつくられた[ D ]についても、その台湾版というべき皇民奉公会がつくられ、台湾全土を組織下においた。台湾人の動員はしだいに本格化し、日中戦争中には軍夫・通訳の募集が広く行われたほか、1942年に陸軍の、1943年には海軍の志願兵制度が導入され、終戦の直前には徴兵制が施行されるに至っている。

問8 空欄Dに当てはまる語句はなにか。漢字5字で記入しなさい。」


(答:D大政翼賛会)〉


2017早大・文

 1939年,日本が日中戦争を全面化させ、「[ C ]」の形成をすすめると、アメリカは[ A ]条約の廃棄を日本に通告し、1940年、石油・屑鉄の対日輸出を制限して、中国への援助を強化した。日本は武力南進態勢を固める一方、1941年、c外交交渉で日米両国の対立を調整しようとはかった。しかし、御前会議で日米交渉が成立しなければ開戦に踏み切るとの「[ D ]」を決定し、12月8日、アメリカ・イギリスに宣戦布告して、戦争に突入していった。1942年、アメリカは日本に対する反攻作戦を本格化し、1944年後半から日本本土に対する空襲が激しくなった。

問2 空欄Aにあてはまる語句を漢字6字で記入しなさい。


問5 空欄Cにあてはまる語句を漢字5字で記入しなさい。


問6 下線cに関連する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。


 ア 交渉は野村吉三郎と国務長官ハルとの間ですすめられた。

 イ 第2次近衛内閣は対米強硬論の東条英機陸相を除くためいったん総辞職した。
 ウ 交渉を継続しようとする近衛首相と打ち切りを主張する東条英機陸相が対立した。
 エ アメリカ側はハル=ノートで満州事変以前の状態に復帰することなどを要求した。
 オ 日本側はハル=ノートを最後通告とみなし、交渉は不成功と判断した。

問7 空欄Dにあてはまる語句を漢字8字で記入しなさい。」


(答:問2A日米通商航海、問5C東亜新秩序、問6イ×東条英機陸相→松岡洋右外相、問7帝国国策遂行要領)〉


 〈2017早大・国際教養

問1  下線部1Matsuoka Yosukeの人物に関する記述として、間違っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 日独伊三国同盟の締結に関与した。

 イ 日本の国際連盟からの脱退を宣言した。
 ウ 第二次近衛内閣の外相を務めた。
 エ 日ソ中立条約の締結に関与した。
 オ 第二次大戦後は、A級戦犯としては訴追されなかった。

(答:オ×訴追されたが裁判中に病死)〉


2017関西学院大・全学部

問2.下線部b太平洋戦争中に関して、正しいものを下記より選びなさい。なお、すべて誤っている場合は「エ」をマークしなさい。

 ア.日本はミッドウェー海戦で主力空母の多くを失うと、その責任をとって米内光政内閣は退陣した。

 イ.日本がマリアナ諸島を失い絶対国防圏の一角が崩壊すると、その責任をとって近衛文麿内閣は退陣した。
 ウ.レイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅状態となり、その責任をとって小磯国昭内閣は退陣した。」

(答:エ、ア×東条英機内閣でしかも退陣せず、イ×近衛文麿内閣→東条英機内閣、ウ×中国国民党政府との和平工作に失敗で退陣)〉


2017関西大・全学部2/8:「

(K)鈴木貫太郎内閣は、戦争終結を図るために成立した。同内閣の陸相阿南惟幾は、徹底抗戦を主張してポツダム宣言受諾に反対し、外相( 11 )【(ア)重光葵(イ)東郷茂徳(ウ)幣原喜重郎】は、国体護持を条件にポツダム宣言を受諾することを主張した。」

(答:11イ)


2016早大・社会科学

問7【史料1】【史料2】に関連する記述として、不適切なものはどれか。2つ選べ。

 イ 日中戦争が始まると、政府は巨額の軍事予算を編成した。

 ロ 第1次近衛内閣期に米の配給制が始まった。
 ハ 太平洋戦争が勃発した年に国民徴用令が出された。
 ニ 七・七禁令で、贅沢品の製造、販売が禁止された。
 ホ 終戦後、復員将兵と居留民からなる海外引揚者数は約630万人に上った。」

(答:ロ×近衛内閣→東条内閣、ハ×国民徴用令は1939年で太平洋戦争は1941年)

2016立教大・現心社コミュ福

 1944年7月、サイパン島の陥落を機に東条英機内閣は総辞職した。 1945年2月には、米英ソの首脳によって( リ )が開かれ、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦が決められた。同年7月には、米英中3か国の共同で( ヌ )を発表した。11.同年8月、日本政府は、ようやくその受諾を決め、日本軍は無条件降伏した

問11.このときの内閣はどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.近衛文麿内閣

 b.幣原喜重郎内閣
 c.鈴木貫太郎内閣
 d.米内光政内閣」

(答:リ→ヤルタ会談、ヌ→ポツダム宣言、問11c)〉

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歴代内閣4

2017-10-10 | ベック式!日本史用語集

行く山今井をやいカサカサカ 

藤博文(いとうひろぶみ)Ⅰ・田清隆(くろだきよたか)・県有朋(やまがたありとも)Ⅰ・方正義(まつかたまさよし)Ⅰ・藤博文Ⅱ)(方正義Ⅱ・藤博文Ⅲ・隈重信(おおくましげのぶ)Ⅰ・県有朋Ⅱ・藤博文Ⅳ)



[point]
1.歴代内閣初代~10代は、伊藤博文Ⅰ黒田清隆山県有朋Ⅰ松方正義Ⅰ伊藤博文Ⅱ松方正義Ⅱ伊藤博文Ⅲ大隈重信Ⅰ山県有朋Ⅱ伊藤博文Ⅳ


八尾テハ鷹焼き変わったハワイ。


太郎(かつらたろう)Ⅰ・西寺公望(さいおんじきんもち)Ⅰ)(太郎Ⅱ・西寺公望Ⅱ・太郎Ⅲ)(本権兵衛(やまもとごんべえ)Ⅰ・隈重信Ⅱ・内正毅(てらうちまさたけ))


[point]

1.歴代内11代~18代は、桂太郎Ⅰ西園寺公望Ⅰ桂太郎Ⅱ西園寺公望Ⅱ桂太郎Ⅲ山本権兵衛Ⅰ大隈重信Ⅱ寺内正毅

竿費はこひあよこっとこす

原敬(はらたかし)・橋是清(たかはしこれきよ)・三郎(かとうともさぶろう))(山本兵衛Ⅱ・浦奎吾(きようらけいご)・明(かとうたかあき))(槻礼次郎(わかつきれいじろう)Ⅰ・中義一(たなかぎいち)・口雄幸(はまぐちおさち)・槻礼次郎Ⅱ・養毅(いぬかいつよし))


菱余暇あよはい奇異沙汰ミフ男

斎藤実(さいとうまこと)・田啓介(おかだけいすけ))(田弘毅(ひろたこうき)・銑十郎(はやしせんじゅうろう)・衛文麿Ⅰ・沼騏一郎(ひらぬまきいちろう))(阿部信行(あべのぶゆき)・米内光政(よないみつまさ))





2017慶大・文:「

Ⅱ  次の文章を読んで、空欄(A~E)に該当する適当な語句をそれぞれの語群の中から選べ。語群の中に適当な語句がない場合は0を記入しなさい。
 ドイツの公法学者( A )の主唱した国家法人説に基づき、( B )が1912年に、『憲法講話』で天皇機関説を唱えると、同じ( A )のもとで学んだ( C )と論争となった。1920年代から30年代前半にかけて、天皇機関説は広く認められる学説であったが、1935年、( D )本会議おいて、菊池武夫に天皇機関説を非難する演説が行われ、軍部や右翼による攻撃も激化したため、( B )は( D )議員を辞職することとなった。また、( E )内閣は「国体明徴声明」を出し、天皇機関説は公的に否定された。

 1ロエスレル 2フェノロサ 3上杉慎吉

 4元田永孚  5岡田啓介  6広田弘毅
 7田中義一  8枢密院   9衆議院」

(答:A0※イェリネック、B0※美濃部達吉、C3上杉慎吉、D0※貴族院、E5)

 
2016明大・農:「


問6 下線部(カ)国際連盟からの脱退通告に関連して、日本が国際連盟から脱退した時期の前後に関する記述として適切でないものを下記から一つ選べ。


 A 岡田啓介内閣は日満議定書を取りかわして満州国を承認した。

 B 国際連盟は1933(昭和8)年の臨時総会で、リットン調査団の報告に基づき、日本が満州国の承認を撤回することを求める勧告案を採択した。
 C 井上日召が率いる右翼団体の団員によって井上準之助前蔵相らが暗殺される血盟団事件がおこった。
 D 日本は第2次ロンドン海軍軍縮会議を脱退して、ロンドン条約が失効し、それに続くワシントン海軍軍縮条約の失効によって、国際的に孤立するに至った。
 E 京都帝国大学教授滝川幸辰が文相鳩山一郎により、その刑法学説を批判されて休職処分を受けた。これに抗議して法学部全教官が辞表を提出した。」

(答:A× ※岡田啓介→斉藤実 ※「まこ」)


2016上智大・神外(英)総人(教・心)

 さらに5月には海軍の青年将校の一団が首相官邸に乱入し、( ウ )を暗殺するという「5 ・15事件」を起こした。

 これらのテロ事件は支配層に恐怖心をいだかせ、最後の元老、e西園寺公望は、後継内閣を政党内閣とすることをあきらめ、海軍の出身で海軍大臣を長く務めたことがありながらも穏健派と目された( セ )を後継首相に推挙した。ここに、( ソ )年以来続いていた「憲政の常道」は終わりを告げ、昭和戦前期に政党内閣が復活することはなかった。


問1

(3)空欄( ウ )に入る人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選べ。

  1 犬養毅  2 床次竹二郎

  3 尾崎行雄 4 田中義一

(14)空欄( セ )に入る人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選べ。


 1 加藤友三郎 2 斎藤実

 3 山本権兵衛 4 岡田啓介

(15)空欄( ソ )に入る数字はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選べ。


 1)1922 2)1923 3)1924 4)1925


問2

(5)下線部e西園寺公望の説明として正しいものはどれか。次から1つ選べ。
 
1 大名出身であった。

 2 いわゆる「山県閥」の一人であった。
 3 首相に2度、就任した。
 4 のちに暗殺された。」

(答:問1ウ1、セ2、ソ3、問2e3)〉


2016上智大・法(地球)済(営)総人(社福)

 しかし、1930年代に入ると、国家主義思想の高まりや軍部の台頭を背景に、自由主義や民主主義の思想や研究に対する弾圧がなされるようになり、1933年に滝川事件、1937年に矢内原事件が起きた。1940年には( き )の著作も国粋主義者らから皇室の尊厳を冒すとして批判され、『( こ )』など4著作が発禁処分とされた。また、( c )年には貴族院本会議で( さ )が( く )を非難する演説を行ったことをきっかけに、その憲法学説が大きな政治間題となった。これに対して、内務省は( く )の3著作を発禁処分とし、( し )内閣は( す )を出して事態の収拾にあたった。

問1 文中の空欄(き・く・こ・さ・す)に入る適切な語句を次の中から1つずつ選べ。

1足利尊氏  2井上毅  3上杉慎吉

4大木喬任  5岡田啓介 6桂太郎
7河合栄治郎 8菊池武夫 9久米邦武
10楠木正成 11津田左右吉 12穂積八束
13美濃部達吉 14森有礼  15吉野作造 
16学事奨励に関する太政官布告 17学制
18学校令  19義務教育 20教育費無價
21教育勅語  22神代史の研究
23憲政の常道 24国定教科書
25古代研究  26国家有機体説
27国体の本義 28国家総動員法   
29国体明徴声明  30国民精神作興詔書
31臣民の道  32天皇機関説
33天皇主体説 34北朝正統
35戊申詔書  36南朝正統
37南北朝合体 38日本文化史研究 
39民本主義  40立憲政体論     

問2 空欄( c )に当てはまる数字を次の中から1つずつ選べ。

 1.1872 2.1886 3.1888
 4.1890 5.1905 6.1908

 7.1910 8.1915 9.1933
 10.1935 11.1937 12.1941」

(答:問1き11、く13、こ22、さ8、す29、問2c10)

 ひどくしれっと津田死んだ。

 1940年 津田左右吉『神代史の研究』

 

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1級世界史

2017-10-10 | ベック式!世界史用語集

 

 15~17世紀は、かつて「地理上の発見」時代とされてきたが、近年、この呼び方があまりにヨーロッパ中心的でありすぎるとの批判から、「大航海時代」と呼ぶのが普通になった。しかし、この「大航海時代」という呼び方もヨーロッパ中心史観を脱しきっていない、という批判があり、そうした批判者の中には、この時期が、ヨーロッパ人に刺激をうけた形ではあるものの、インドから東南アジアをへて中国・日本にいたる海域でも海上交易が非常に活発化した時代にあたるので、世界的規模での「大交易時代」と呼ぶことを提唱する人々もいる。いずれにしても、この時代に「世界の一体化」が始まったと考えてよい。「大交易時代」と重なる形でヨーロッパ諸国の植民地抗争も起こる。「大交易時代」の世界や海上貿易・植民地抗争をめぐる歴史について、あとの問いに答えなさい。

問1 15世紀前半には、7度におよぶ鄭和の南海遠征が行われ、分遣隊はアフリカ大陸の東岸やアラビア半島西岸の紅海に達した。15世紀前半のアジア諸国について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. 日本では、京都で応仁の乱が起こった結果、室町幕府が衰えて戦国時代に入り、沖縄では、中山王が北山・南山を倒して統一が達成され、中山王は明から冊封をうけ、明に朝貢した。
  2. 朝鮮半島では、朝鮮王朝(李朝)の太宗が朱子学を基盤として儒教的な王道政治の確立をめざす一方、子音や母音を表す文字要素を組み合わせて音節文字とするハングルを訓民正音として公布した。
  3. ベトナム北部は、陳朝の復興をかかげる明の永楽帝によって占領・支配されたが、永楽帝の死後、黎利(レ=ロイ)が明からの独立を達成し、黎朝大越国を建設し、都をハノイにおいた。
  4. 南インドでは、チョーラ朝がラージャラージャ1世の子ラージェーンドラ1世のもとで最盛期を迎え、スリランカへ侵攻したのみならず、マレー半島やスマトラ島へも遠征軍を送った。
問1
正解 3
1.応仁の乱は、15世紀の前半でなく後半。2.太宗でなく世宗。4.ラージェーンドラ1世は15世紀でなく11世紀。

問2  15世紀には、ポルトガル人の海上への進出も始まる。15世紀のポルトガル人航海者について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. ポルトガル王ジョアン2世の子エンリケ航海王子は、モロッコのセウタ攻略後アフリカ大陸に興味を持ち、自ら船隊を率いてアフリカ大陸の西岸を探検し、ギニア湾のニジェール川河口に達した。
  2. バルトロメウ=ディアスは、ポルトガル王の命令でインド航路開拓のためアフリカ大陸西岸を南下し、アフリカ大陸の南端に達してそこを嵐の岬と命名したが、帰国後、ポルトガル王が喜望峰と改名した。
  3. カブラルが、ポルトガル王マヌエル1世の命令でアフリカ大陸西岸を航海中に海流に流されてブラジル漂着し、この地をポルトガル領と宣言したことは、トルデシリャス条約が結ばれる原因となった。
  4. ヴァスコ=ダ=ガマは、喜望峰を回ってアフリカ大陸東岸の都市マリンディに寄り、その地でイスラーム教徒の水先案内人イブン=ハズムを得て、インド洋を横断してインド東南海岸のカリカットに到達した。
問2
正解 2
1.ジョアン2世ではなくジョアン1世。またエンリケ航海王子は、自らは探検せず、航海者を育成し、探検を奨励したといわれる。さらに彼の時代には、アフリカ大陸西岸の南下はシエラレオネまでで、ギニア湾には入っていないとされる。3.カブラルのブラジル漂着は1500年で、1494年のトルデシリャス条約の後。4.イブン=ハズムではなくイブン=マージド。イブン=ハズムは、後ウマイヤ朝の詩人・神学者。またカリカットは、インドの東南海岸ではなく西南海岸。

問3 スペインは16世紀に、新大陸で産出される銀などを財政基盤として繁栄した。16世紀のスペインの内政と海外進出について述べた次の文章 I ・ II の正誤の組み合わせとして正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

I. スペイン王カルロス1世は、神聖ローマ皇帝をも兼任し、イタリア戦争ではフランス=ヴァロワ朝のフランソワ1世と戦い、1559年にカトー=カンブレジ条約を締結した。その後即位したフェリペ2世は、ポルトガルの王位を兼ね、「太陽の沈まぬ国」を実現した。しかし彼の時代には、ユトレヒト同盟を結ぶネーデルラント北部7州が、オラニエ公ウィレムを指導者として独立宣言を出す一方、スペインの誇る無敵艦隊(アルマダ)がイギリス艦隊に敗れた。

II. スペインは、アメリカ大陸でメキシコのテオティワカンを都とするアステカ帝国とペルーのクスコを都とするインカ帝国を滅ぼす一方、アジアにも進出した。カルロス1世の援助をうけて船隊を編成し、丁子(丁字、クローヴ)などの特産地モルッカ諸島を西回りでめざしたマゼラン(マガリャンイス)は、フィリピン諸島でラプラプと戦って戦死したが、その後レガスピによってルソン島にマニラが建設され、メキシコのアカプルコとガレオン船で結ぶ貿易で栄えた。

  1. I-正 II-正
  2. I-正 II-誤
  3. I-誤 II-正
  4. I-誤 II-誤
問3
正解 4
I-カトー=カンブレジ条約はフェリペ2世の即位後。II-テオティワカンではなくテノチティトラン。テノチティトランは現在のメキシコシティ。テオティワカンは、メキシコシティの北方で前2~後6世紀に栄えた文明の遺跡。

問4 16世紀には、ポルトガル・スペインのアジア・新大陸進出によって、ヨーロッパに大きな社会的・経済的変化が生じた。こうした社会的・経済的変化について述べた次の文章を読み、下線部1~4のうちから誤っているものを一つ選んで、その部分にあてはまる正しい語句を記せ。

現在の1.ボリビアのポトシ銀山などで産出されたラテンアメリカ産の銀が大量にヨーロッパへ流入すると、ヨーロッパの物価は2~3倍に上昇した。この価格革命により、固定地代に頼る封建領主層は没落をはやめた。一方、ヨーロッパにおける貿易の中心が地中海から大西洋岸へ移る商業革命の結果、16世紀半ばにはフランドル地方の海港都市2.アムステルダムが国際金融の中心として繁栄した。このように西ヨーロッパで商工業がさかんになると、3.エルベ川以東の東ヨーロッパでは、領主が農奴を用いて輸出用穀物を生産する4.グーツヘルシャフトが広まり、東ヨーロッパが西ヨーロッパに従属する形の分業体制が形成された。

問4
正解 「アントワープ(アントウェルペン、アンヴェルス)」
2.アムステルダムがアントワープ(アントウェルペン、アンヴェルス)の誤り。アントワープは英語。アントウェルペンはオランダ語、アンヴェルスはフランス語。アムステルダムはアントワープに代わって17世紀頃に国際金融の中心として栄えたオランダの都市。

問5  16・17世紀には、インドから中国にいたる地域へヨーロッパ諸国がさかんに進出した。これについて述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. ポルトガルは、スリランカに進出し、デイウ沖の海戦でマムルーク朝の艦隊を破り、インド西海岸のゴアを拠点として東南アジアへ進出し、マレー半島のイスラーム国家マラッカ王国を滅ぼした。
  2. オランダは、ジャワ島のバタヴィアを拠点とし、16世紀にジャワ島西部のバンテン王国や東部のマタラム王国をあいついで滅ぼす一方、17世紀の日本の鎖国後は長崎の出島を拠点として日本とヨーロッパの間の貿易を独占した。
  3. イギリスは、モルッカ諸島のアンボイナでオランダとの抗争に敗れた後、インド東南海岸のマドラスに進出し、さらにムガル帝国のアウラングゼーブ帝の時代にはボンベイやカルカッタをも拠点とした。
  4. フランスは、ルイ14世の時代にインドに進出し、インド東南海岸のポンディシェリ、ガンジス川の河口部のシャンデルナゴルを拠点としたが、いずれも近くにイギリスの拠点があり、その後の抗争の背景となった。
問5
正解 2
バンテン王国・マタラム王国は、16世紀にオランダに滅ぼされておらず、バンテン王国は19世紀まで、マタラム王国は18世紀まで、それぞれ存続した。

問6 「大交易時代」は、いわゆる倭寇が活躍した時期でもある。この倭寇について述べた次の文章を読み、下線部1~4のうちから誤っているものを一つ選んで、その部分にあてはまる正しい語句を記せ。

14世紀から15世紀にかけての倭寇は前期倭寇とされ、日本人主体の海賊が朝鮮半島から中国にかけての地域を襲ったものであり、1.李成桂はこの倭寇の撃退に功績を挙げ、これを背景に高麗を倒して新王朝を建てた。これに対して16世紀を中心とする後期倭寇は、2.海禁政策に不満な中国人を中心とするもので、日本に根拠地をもって中国沿岸を襲った3.王直はその典型とされる。この後期倭寇は、16世紀半ばに北京に迫った韃靼(タタール)の4.エセン=ハンらの北虜に対して南倭と呼ばれる。

問6
正解 「アルタン=ハン」
4.エセン=ハンがアルタン=ハンの誤り。エセン=ハンは、15世紀のモンゴル系オイラトの指導者で、1449年の土木の変で明の正統帝(英宗)を捕虜とした。なお、韃靼(タタール)もモンゴル系の部族。

問7 17世紀には、アメリカ大陸方面でもヨーロッパ諸国の植民地建設競争が激しくなった。イギリスとフランスの北アメリカにおける植民地建設について述べた次の文章 ・ IIの正誤の組み合わせとして正しいものを、あとの1~4のうちから一つ選べ。

I.ヴァージニアは、ローリーによって建設され、当時のエリザベス1世にちなんで命名されたが、このときの植民は失敗に終わった。したがって通常、ヴァージニアはジェームズタウンの建設に始まるとされる。それでも、ヴァージニアはイギリス最初の北アメリカ植民地である。ついでピルグリム=ファーザーズが建設したプリマス植民地は、やがてマサチュセッツ植民地に編入された。一方ニューヨーク植民地は、オランダから奪ったものである。いずれにしても、イギリスの13植民地はすべて17世紀に成立した。

II.フランスは、ケベックを建設してカナダ植民地を形成し、セント=ローレンス川を遡って五大湖に出、ミシシッピ川を下った。こうして、ミシシッピ川の広大な流域はフランス領となり、ルイ14世にちなんでルイジアナと名づけられた。また、ミシシッピ川の中流域には同じくルイ14世にちなんで命名されたセントルイスが、河口部にはオルレアン家にちなむニューオーリンズが建設された。

  1. I-正 II-正
  2. I-正 II-誤
  3. I-誤 II-正
  4. I-誤 II-誤
問7
正解 4
I-イギリスの13植民地のうち最南のジョージアのみは、17世紀ではなく18世紀前半に成立し、当時のハノーヴァー朝第2代ジョージ2世にちなんで名づけられた。II-セントルイスは「聖ルイ」を意味し、ルイ14世ではなくルイ9世にちなんで命名された。
 
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