●奈良時代(聖武天皇)
741(天平13)年 〈国分寺建立の詔を発布〉★
Emperor Shomu decrees construction of two state temples, provincial temple and provincial nunnery, in each province.
名(な)良いでしょう 国の寺。
741年 聖武天皇 国分寺建立の詔 恭仁京
悪疫の流行や藤原広嗣の乱が聖武天皇に与えた心理的影響は大きなものであった。恭仁京に遷都した天皇は仏教の鎮護国家の思想に基づいて社会の不安を鎮めようと、741年に国分寺建立の詔を発し、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせた。また743年には紫香楽で大仏造立の詔を発した。
●奈良時代(聖武天皇)
743(天平15)年 〈墾田永年私財法〉★★
PerKonden Einen Shizai Hō is promulgated; this law lays the regal basis for the emergence of the landed estates called shoen.
無(な)しさ制限 ええでしょう。
743年 墾田永年私財法 聖武天皇 初期荘園
聖武天皇の743年、三世一身の法が廃止され、一定の限度のもとに墾田の永久私有を認める墾田永年私財法が制定された。その結果、貴族や寺社は、地方豪族と結んで開墾を進め、農民の墾田を買い集めて私有地を広げ、初期荘園が成立した。
律令制下に広く行われた、春に稲を貸し付け秋に利息を付けて回収する貸与の制度、義倉とともに一種の税として機能した。「出」は貸与を、「挙」は回収を意味した。公私の別があり、公出挙はもとの貧民救済の目的が次第に強制的になり租税化し、出挙利稲は5割の利息とともに徴収する。織豊期になると、太閤検地などを通じて土地所有関係が大きく整理されたため、出挙は近世に入るまでに消滅したとされている。
〈パーツ活用暗記術〉 国家が春に稲を貸しつけ、秋に5割の利息とともに徴収する制度。「出挙」にある「い」の音を意識して「稲」を覚え、粟を供出した義倉と区別しよう。
●ローマ(東ローマ帝国)
Leo III issues a series of edicts against the worship of images.
馴染(なじ)む聖像 禁止され。
726年 聖像禁止令 レオン3世
キリスト教会はもともと聖像礼拝を厳禁する宗教であったが、教皇グレゴリウス1世は、布教のためにキリスト教の聖像などを用いた。726年、ビザンツ帝国皇帝レオン3世は富裕化した教会・修道院を抑える目的で聖像禁止令を発布。諸教会、とくに対ゲルマン伝道中のローマ教会が反発し、教皇はフランク王国に接近する。
▲アッバース朝の版図(深緑はまもなく離反し、緑が850年以降の領土として留まる)
●イスラム(アッバース朝)
Abbers dynasty is formed under East Caliph.
名(な)、これからは アッバース。
750年 アッバース朝
バグダード スンナ派
ウマイヤ朝下におけるアラブ人至上主義が『コーラン』の「アッラーの前の平等」に反すると考える非アラブ人ムスリムのマワーリーや、アリーの子孫のみをカリフと認めるシーア派の信徒《「シーア」の〈ア〉は「アリー」の〈ア〉》が、アブー=アルアッバースの革命運動に協力。
750年、ウマイヤ朝が打倒され、イスラム教スンナ派を奉じるアッバース朝が成立した。首都はバグダード。
▲8世紀の唐の領域。アッバース朝と大きく接している。
●イスラム(アッバース朝)・中国(唐)
Battle of the Tallus river. Method of making paper spreads westword..
なぁ来(こ)いったら 紙持って。
751年 アッバース朝 高仙芝 タラス河畔の戦い 製紙法
751年、唐将高仙芝は中央アジアのタラス河畔の戦いでアッバース朝イスラム軍に敗北。
捕虜となった唐の紙漉き工から製紙法が西アジアに伝えられ、サマルカンドには製紙所が創設された。
▲ピピン(3世)
●フランク王国(カロリング朝)
Rise of Carolingian dynasty of the Franks.
なぁ来(こ)いピピン 軽やかに。
751年 ピピン カロリング朝
ロンバルド王国遠征
ローマ教皇
カール=マルテルの子ピピン3世は、726年の聖像禁止令発布以来ビザンツ帝国皇帝に圧力をかけられているローマ教皇の支持を得、751年メロヴィング朝を廃してカロリング朝を創設。
教皇を圧迫するもう一つの勢力であるロンバルド王国に遠征してラヴェンナ地方を奪い、これを756年に教皇に寄進した。
これがローマ教皇領の起源である。
▼ピピンの寄進
●奈良時代(孝謙天皇)
754年 〈唐僧鑑真、中国より渡来〉★
Buddhist priest Jinzhen arrives in Japan from T’ang China.
難(なん)後(ご)ようやく 鑑真来たり。
754年 鑑真 律宗
唐僧鑑真は日本への渡来を決意。渡航の失敗から失明しながらも754年に来日を果たし、東大寺に初めて戒壇を設け、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇等に受戒。唐招提寺を開き、律宗を盛んにした。
▲玄宗
●中国(唐)
An Lushan begins the Anshi Rebellion against the Tang Dynasty state of China.
なぁここ逃(に)げよ 不安だし。
755年 玄宗 楊貴妃 安史の乱
盛唐の皇帝玄宗は晩年、楊貴妃を寵愛し、かつては開元の治と称された政治も乱れ《〈ゲン〉の音で「玄宗」とつなげよう!》、節度使の安禄山と部将史思明による反乱安史の乱(755~763年)が起こった。
ウイグルの援軍などによりようやく鎮圧したものの、以後政府の力は弱体化し、節度使の自立、ウイグルや吐蕃の侵入に悩まされた。
安禄山
▲後ウマイヤ朝の領域
●イスラム(ウマイヤ朝)
Abd-ar-rahman I conquers Iberia and re-establishes the Umayyad dynasty at Cordoba in modern Spain.
難後(なんご)向こうや イベリアに。
756年 後ウマイヤ朝 コルドバ イベリア半島 西カリフ国
アッバース朝に倒されたウマイヤ朝の一族は、イベリア半島に逃れ、コルドバを都に後ウマイヤ朝を建国。
10世紀前半に即位したアブド=アッラフマーン3世はアッバース朝カリフに対抗してカリフを称したため(西カリフ国)、10世紀前半には同じくカリフを称したファーティマ朝とあわせて三カリフ鼎立時代となり、アッバース朝カリフの権威は低下した。
●奈良時代(孝謙天皇)
757年 〈橘奈良麻呂の乱〉★★
Tachibana no Naramaro revolts against Fujiwara no Nakamaro, but is defeated.
泣(な)こう奈良麻呂 仲間割れ。
757年 孝謙天皇 橘奈良麻呂の乱 藤原仲麻呂
聖武天皇が退位したのち、光明皇太后のもとで甥の藤原仲麻呂が台頭。757年、橘諸兄の子奈良麻呂は仲麻呂を排除しようと謀ったが、捕らわれて獄死した(橘奈良麻呂の乱)。仲麻呂は翌年即位した淳仁天皇から恵美押勝の名を賜って専制的な政治を行った。
〈養老律令の施行〉 757年、権勢を誇った橘諸兄が死去。藤原仲麻呂は藤原氏の勢力を誇示し、権力を握るため成立後39年にもなる養老律令を施行した。焦燥にかられた橘奈良麻呂が反乱を起こした。この知識によって頻出する養老律令施行の年代も確かなものになる筈。
「奈良人始め 困難よ。」のゴロで養老律令制定の年もしっかり覚えよう!
718年 藤原不比等
57年
仲麻呂 養老律令
▲和気清麻呂の肖像が描かれた紙幣
●奈良時代(称徳天皇)
A plot to have Dōkyō succeed Shōtoku as sovereign is foiled by Wake no Kiyomro and other court officials.
南無(なむ)急降下 どうしよう。
769年 下野国 道鏡 宇佐八幡宮神託事件
称徳天皇の寵愛を受け、太政大臣禅師、ついで法王となった道鏡は、政教両界の全権を掌握。
さらに769年、宇佐八幡宮の神託と称して皇位をも望んだが、和気清麻呂らに阻まれた(宇佐八幡宮神託事件)。
称徳天皇の死後に失脚した道鏡は下野国の薬師寺に左遷された。
●中国(唐)
Yang Yan establishes the Law of the Two Taxes.
名は炎(えん)、良税 説(と)く人は。
780年 楊炎 両税法 徳宗 唐
安史の乱によって唐の国土は荒廃し、均田制と租庸調制が崩壊。徳宗の780年、宰相楊炎の献策によって現実に所有している土地・資産に応じて夏・秋の2回徴税する両税法を採用した。
資産に対応して課税する両税法の原則は、土地の私有を公認したことを意味し、大土地所有制を一層進展させるものとなった。両税法は明代の一条鞭法まで使われた。
▲段祺瑞
ベック式!ゴロ合わせ
安打の直後 包丁さ 。
安徽派=段祺瑞 直隷派=呉佩孚 奉天派=張作霖
袁世凱の死後、段祺瑞率いる安徽派は日本の支援を受け、北京政府の実権を握ったが、1920年の安直戦争に敗れ、呉佩孚を中心とする直隷派が実権を掌握。
1922年、奉天派の張作霖は第1次奉直戦争で直隷派に敗れるが、24年、日本軍の支援を受け、第2次奉直戦争に勝利して北京政府の実権を掌握した。