ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

〈アメリカ独立への道〉★★

2021-08-30 | 『新世界史頻出年代暗記』

左上から時計周りに:バンカーヒルの戦い、 ケベックの戦いにおけるリチャード・モントゴメリー将軍の死、カウペンスの戦いサン・ビセンテ岬の月光の海戦 

●アメリカ(イギリス植民地時代)

Boston Tea Party in 1773. The First Continental Congress assembles in 1774. The Battles of Lexington and Concord in 1775.

無視さとむごい 奈美ちゃんを。

(17)64年 砂糖法  (17)65年 印紙法 (17)73年 茶法→ボストン茶会事件

イギリス本国はフレンチ・インディアン戦争の戦争費用やイギリス軍の駐留経費を植民地に負担させようと、1764年に砂糖法、65年に印紙法を制定、1773年の茶法に対してはボストン茶会事件がおこり、イギリス本国への抵抗運動がますます盛んになった。

1774年、13の植民地側は1回大陸会議を開く。

1775年、レキシントンコンコードで武力衝突がおこると、大陸会議はワシントンを総司令官に任命した。

 

 

 

 

 

 

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callous

2020-05-24 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

callouskˈæləs)「無感覚な、冷淡な」※collus「皮膚肥厚」要するに「タコ」が語源。「辛過ぎるのに 無感覚

形容詞

1

皮膚が〉硬くなった,たこになった.

2

a

無感覚な.

b

…に対して無感覚で平気で 〔to〕.

callously 副詞

callousness 名詞

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1887年 〈インドシナ連邦の成立〉★

2019-10-01 | 『新世界史頻出年代暗記』

◆1893年以降のインドシナ連邦

●フランス(第三共和政)

A federation of the three Vietnamese regions, Tonkin, Annam, and Cochinchina, as well as Cambodia, is formed.

華(はな)やか淫し 組みラオス。

  1887年 ハノイ カンボジア インドシナ連邦 93年 ラオス編入 

1880年代に入り、フランスはチュニジアを保護国化してアフリカ横断政策を進め、東南アジアでは1887年、ハノイに総督府を置いて、保護国としたヴェトナムカンボジアを支配。

フランスのアジアにおける最大の植民地であるフランス領インドシナ連邦が成立した。

1893年、フランスはラタナコーシン朝と条約を結び、メコン川以東をフランス領ラオスもとし、99年フランス領インドシナ連邦に編入し、イギリスについで広大な植民地を領有する国となった。

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1957年・1963年・1965年 〈マラヤ連邦独立~マレーシア連邦~シンガポール分離独立〉★

2019-09-03 | 『新世界史頻出年代暗記』

 ●東南アジア(マレーシア)

The Federation of Malaya gains independence in 1957. Malaysia is formed in 1963. And Lee Kuan Yew announces Singapore's independence in 1965.

ひどく困難 まだやん、

 1957年     マラヤ連邦独立 

老残(ろうざん)(まれ)じゃ 無効にし。

 63 マレーシア連邦      65 シンガポール独立

イギリスの支配下にあったマレー半島では、独立指導者を中心とした民族主義が高揚した上に、本土も戦火で荒廃したイギリスはもはや遠方の植民地を維持するだけの国力を持たなかったため、イギリスの地位は長くは持たなかった。

結果(タイ領土除く)マレー半島一帯は1957年にイギリスの植民地から脱してマラヤ連邦が独立した。

1963年、マラヤ連邦を主体にシンガポール英領ボルネオ(サバ・サラワク)が合併し、マレーシア連邦となった。

しかし、1965年にマレー人と華人の対立を背景に、華人の多いシンガポールが連邦から分離して独立国家となった。

▼ シンガポール初代首相リー=クアンユー

 

 

イギリスはマレー半島を植民地にした後、重要な港であったペナン、マラッカ、シンガポールを直轄の海峡植民地とし(※)、残る地域ではスルタンを通じた間接統治を行ってマレー連邦州(ペラ、セランゴール、ネグリ・スンビラン、パハン)と、マレー非連邦州(ジョホール、クランタン、ケダ、トレンガヌ)に分けていた。

※厳密にいえば、海峡植民地はこのほかブルネイ沖合のラブアン島と、ジャワ島南方 のク リスマス島、インド洋のココス 諸島で構成。

日本軍による占領を経て、戦後はシンガポールを除くマレー半島をすべてマラヤ連合として統合 しようとしたが、スルタンの権限の縮小や、各州に配置される英国人知事による行政、中国系やインド系を含むすべての人種に平等な市民権を与えるなどの方針 にマレー人が猛反発。結局スルタンの特権を認め、マレー人以外の市民権を制限する形で1957年にマラヤ連 邦として独立した。

そして1961年、マラヤ連邦のラーマン首相は大マレーシア構想を発表す る。これはイギリス植民地として残ったシンガポールや、ボルネオ島の英領サ バ、サラワク、ブ ルネイを統合して、マレーシア連邦を結成するというもの。シンガポールはマレー半島の重要な商業・貿易拠点であるとともに、当時は中国系住民を中 心とした左派勢力が強く、もし単独で独立すれば共産政権が誕生し、マレー半島でゲリラ戦をしていたマレー共産党の出撃拠点となることが懸念されていた。こ のためイギリスの後押し(※)もあって、マレーシアとして統一しておきたかった。

※1950年代から60年代にかけて各地の植民地で独立要求が高まると、イギリス はそれまで分割して統治していた複数の植民地に連邦を組ませて自治権を与え、段階的に独立を認める方針を採った。異なる地域の雑多な政治勢力を組ませるこ とで、「調整役」としてのイギリスの影響力を残す狙いもあったようだ。しかしこうして生まれた「連邦」のうち、西 インド連邦はわずか4年半で解体、中 央アフリカ連邦も白人主導の連邦政府から黒人国家が離脱して分解、南 アラビア連邦(南アラブ首長国連邦)は封建的な首長制の維持に反対するゲリラによって倒された。マレーシア連邦とア ラブ首長国連邦は現在でも続いているが、いずれも連邦結成直後に分離独立した地域があって、イギリスの思惑通りにはいかなかったようだ。

またボルネオ島は未開発のジャングルが大部分を占めていたが、石油などの資源が豊富。そして何よりも、中国系住民が多いシンガポールだけを合併してしまう と、マレーシアの人口の半分以上が中国系になってしまうので、マラヤ連邦にとってボルネオ島 のイギリス領3地区はゼヒとも一緒に合併しておきたかった(※)。

※その結果、サラワクやサバは有利な立場で合併交渉をすることができた。財政や出 入国管理などで高度な自治権を持ち(マレー半島のマレーシア人がサラワク、サバへ行くのにもパスポートが必要)、イスラム教の国教化やマレー語の国語化に は緩和措置が採られ(サラワク、サバの住民には英語で教育を受けたキリスト教徒が多かった)、その一方でサラワクやサバの先住民も「マレー系住民としての 優遇措置」を受けられることになった。

蜜月時代のリー・クアンユー(左)とラーマン(右) 
大マ レーシア構想には、強力な味方と強力な敵が現れた。強力な味方とはシンガポール自治領首相のリー・クアン ユーだ。リーはもともと労働組合の顧問弁護士で、人民行動党(PAP)を結成し左派勢力の支持で首相になったが、その路線は反共的な国家社 会主義で、共産主義志向の党内左派との抗争にあけくれていた。また彼は中国系だがもともと中国語を話せず英語とマレー語で育った人間であり(※)、人口の 大部分を占める中国系住民と中国政府の絆を断ち切るためにも、シンガポールの「マレー化」を推進し ようとしていた。こうしてリー・クアンユーは「シンガポールの生き残りのためにはマレー半島との一体化が不可欠」だと訴える一方、合併に反対する党内左派 を除名して住民投票を行い、マレーシアへの合流を決めた。リー・クワンユー

※後に政治活動を始めた時、選挙演説をするために必死に中国語を習得してベラベラ になった。またハリー・リーという英語名だったが、これじゃ「中国系の支持が得られない」と中国人風のリー・クアンユーに改めた。

一方で、強力な敵とはインドネシアのスカルノ大統領だ。インドネシアはインドネシアで、「宗 主国が違うというだけで、もともと歴史的に同じ民族、同じ言語、同じ宗教のインドネシア人とマレー人は統一されるべき」という大インドネシア構想を持っており、特にボルネオ島の分割は許しがたかった。スカルノはインドのネルー、 中国の周恩来、エ ジプトのナセルとともに非同盟諸国の盟主であり、アジア・アフリカ諸国を集めてバンドン会議(1955年)を成功させた自負があった。

またインドネシアは強力なオランダ軍を相手に武力闘争を戦い抜いて独立を勝ち取り、大マレーシア構想が発表された当時は、残された植民 地の西 イリアン獲得のためにオランダ軍相手に再び「植民地解放戦争」をしているまっ最中。それに比べてマラヤ連邦は血も流さずにイギリスとの政治会談だ けで独立を実現し、今また政治交渉だけで領土拡大を果たそうとするのは許せない。特に連邦制には自 国の経験で「傀儡国家づくりを狙う帝国主義の陰謀」と拒否感が強かった。 
 

マラヤ連邦の頃の標 識は、英語タミール語マレー語中国語の4ヵ国語表記 
現在ではアルファベット化したマレー語のみ

こ うしてスカルノ大統領はマレーシアに対して対決政策(コンフロンタシ)を宣言して、ブルネイでマレーシア参加反対のクーデターを起こそうとしていた北ボル ネオ国民軍を支援したほか、さらに「マレーシア粉砕」へとエスカレートさせて、ボル ネオ島の国境地帯や海軍が軍事行動に出た。また「マレーシアはイギリスによる新植民地主義の陰謀」だと国際社会へ訴えて、後にマレーシアが国連安 保理の非常任理事国に当選すると、インドネシアはこれに抗議して国連を脱退してしまう(65年1月)。

またサバの領有権を主張していたフィリピンも大マレーシア構想には反発し、マレー系民族であるフィリピン、マレーシア、インドネシアを 統合するマフィリンド構想を発表した。

結局、ブルネイは石油の利権とスルタンの権限をめぐってマレーシアへの統合を拒否し、 イギリス保護国のまま残留。1963年8月31日を予定していたマレーシア連邦の発足は、国連調査団によるサバ・サラワク住民の意向確認を受け入れて9月 16日まで延期となり、インドネシアやフィリピンには国交を断絶されるなど、マレーシアは前途多難なスタートを切った。その後、スカルノ大統領がアジア・ アフリカ諸国に振りまいた「マレーシアはイギリスによる新植民地主義の陰謀」という悪評に反論するため、ラーマンはシンガポール州のリー・クアンユー州首 相をアフリカ諸国へ派遣し、35日間で17ヵ国を歴訪させて「私達はホントに自ら心底望んでマレーシアに統合したのです。カイライじゃありません」といち いち説明にまわらせた。

 

しかしシンガポールはマレー系住民の優先政策を進める連邦政府と対立するようになり、リー・クアンユーが率いるPAPはマラヤでも中国 系住民を基盤に勢力を伸ばして、サバ、サラワクとともに野党連合を結成。マレーシア政府がインドネシアとの経済断交を打ち出すと、中継貿易で繁栄していたシンガポールは「もう付き合いきれない」と1965年に独立してしまう。マレーシアにとっては中国系の 人口がなんとか過半数にはならなかったもの、シンガポールが加わっているおかげで、中国系がマレー系よりも上回ってしまい、マレー人には「中国人に祖国を 乗っ取られる」という危機感があった(※)。 
 

マレーシアからの分 離独立の記者会見で涙を流すリー・クアンユー
※最も危機感を抱いたマレー人はラーマン首相だったらしい。リー・クアンユーがマレーシ ア国会で演説した際、「中国語訛り」がない生粋のマレー語で喋ったため、マレー人議員が聞きほれてしまい、「このままでは必ず首相の座を奪われる」と思っ たラーマンは、シンガポールの追い出しを決断した・・・と、自伝で書いているそうな。シンガポールの独立は事前に何の予告もなく、当日の朝になって政府が 「今日からシンガポールが独立しました」と発表したので、国民特にシンガポール市民はびっくり仰天。実際にはラーマン首相がリーにシンガポールの独立を 迫って追い出したというのが真相に近く、リー・クワンユーの自伝によれば「独立しなければ戒厳令を敷いて逮捕するぞ!」と脅されたとか。それまで国内はお ろか全世界にマレーシアとの合併の素晴らしさを宣伝していたリー・クアンユー首相は、独立発表のテレビ記者会見で途中から泣き出してしまった。

そういえば私も、15年くらい前にクアラルンプールの映画館でマレー人に話しかけられ、マレー語がわからないのでポカンとしてたら、そのマレー人は「而家 幾点鐘?(いま何時ですか?)」と広東語で聞き直してきました。クアラルンプールの人口は7割以上が華人(中国系)。自分の国の首都なのに外国語(の方 言)を使わなきゃならないなんて、マレー人の憤りが少しわかった気がしました。協議離婚できて良かったですね。

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1870年1月 大教宣布の詔

2019-08-21 | 『新世界史頻出年代暗記』

1870年1月 大教宣布の詔

いやなお触れだ 強制し

1870年 大教宣布の詔 神道国教化

神仏習合(混淆)の情況は廃仏毀釈の運動で一新され、政府は祭政一致の立場から神道国教化を目指し、1870年には()を発した。

大教宣布の詔

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1873年 〈アチェ戦争(~1912年)〉★

2019-02-28 | 『新世界史頻出年代暗記』

●オランダ 

The Dutch colonial government declared war on Aceh. 

いや涙アチェ おらん日に。

1873年    アチェー戦争 オランダ  ~(19)12年

 アチェはかつてイスラーム教国のアチェ王国が中継貿易で繁栄した、スマトラ島北端の地域。従来イギリスがアチェの独立を支援していたため、オランダはスマトラ島北西部のイスラーム王国であるアチェ王国を手にすることができずにいた。しかし1824年に英蘭協約を結び、イギリスがマレー半島側、オランダがスマトラ島側を領有するという形の植民地交換が決められた。

1870年代に入ってスマトラ島北西部の支配を確立しようとしたオランダの侵略に抵抗して73年アチェ戦争が起こり、74年にはオランダがアチェ王国の王都バンダ・アチェを占領したが、アチェのイスラーム指導者らはゲリラ戦を展開、戦争は長期化した。しかし、1903年にスルタンが降伏、12年までに主な抵抗は終焉し、事実上スマトラ島全域を支配した。そして1910年代には、ポルトガル領東ティモールを除くインドネシア群島全域が、オランダ領東インドに統合された。アチェはインドネシアの独立でその一部となったが、分離独立運動が1970年代から激化した。2002年には暫定和平が成立したが、現在も完全には解決していない。


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世界史ゴロ覚え『ナポレオンの時代』

2019-01-16 | 『新世界史頻出年代暗記』

 1804年 ナポレオン1世の即位 ★★
 威張れよ皇帝 ナポレオン。  
 1804年  皇帝   ナポレオン1世                                    
 1804年、ナポレオンはブルジョワや農民の支持を強固にするため『ナポレオン法典』を制定。ナポレオンは国民投票で圧倒的支持を獲得し、皇帝ナポレオン1世として即位した。

 1805年 トラファルガーの海戦  ★
 人は起こさん 寝る虎を。  
 1805年       第3回対仏大同盟 ネルソン トラファルガーの海戦
 1805年、ナポレオンに脅威を感じたイギリス首相小ピットは、第三回対仏大同盟を結成。ナポレオンはイギリス侵攻を試みたが、トラファルガーの海戦でネルソン率いるイギリス艦隊に敗北した。これによってナポレオンのイギリス上陸作戦は挫折し、大陸封鎖への転換を余儀なくされた。

 1805年 アウステルリッツの三帝会戦 
 いや怒ろうな 愛去って。  
 1805年           アウステルリッツの三帝会戦                オーストリア ロシア      ナポレオン     第3回対仏大同盟が解消
 トラファルガーの海戦に敗れたナポレオンは大陸制圧に転じ、12月アウステルリッツの三帝会戦でアレクサンドル1世のロシア、フランツ1世(神聖ローマ帝国フランツ2世)のオーストリア連合軍に大勝、第3回対仏大同盟は崩壊した。

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451年 〈カタラウヌムの戦い〉★

2018-08-15 | 『新世界史頻出年代暗記』

 ▲ カタラウヌムの戦い

●遊牧民族(フン族)

 

 Battle of Chalons: Attila and the Huns are defeated in the battle of the Catalaunian Fields by a combined force of Romans and Visigoths.

 (よこ)一列に あっちから。

         451

西ゴート 西ローマ アッティラ カタラウヌムの戦い

 

451年、大王アッティラに率いられたフン族はガリアに侵入し、全欧制覇の勢いを示したが、パリ東方のカタラウヌムの戦い西ローマ西ゴート連合軍に敗北。翌年、フン族は再び北イタリアに侵入したが、教皇レオ1の説得で断念し、アッティラの死によってその大帝国も崩壊した。この間ゲルマン諸族は先住のケルト人やローマ人などを支配し、王国を形成しつつあった。

 

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640年 〈孔穎達、『五経正義』完成〉★★

2018-06-08 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

●唐の文化

老人お経 供養出す。

640年 『五経正義』  訓詁学     孔穎達 

   

 

 唐の太宗に仕えた­孔穎達は儒教の経典の解釈を統一せよとの太宗の命で『五経正義』を編集、訓詁学を大成した。『五経正義』は、科挙のテキストとして解釈の統一に役だった。

 

 

〈訓詁学の発達〉 後漢の儒学者鄭玄(じょうげん)は党錮の禁ののち著

述に専念し、訓詁学の確立に努め、五経に注釈を加えた。

こちらも「上下運動 訓詁学。」と覚えよう。

     鄭玄 党錮の禁 訓詁学 後漢

 

 

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2世紀 〈ナーガールジュナ、『中論』を著す〉★

2018-02-16 | 『新世界史頻出年代暗記』

大乗仏教の発達 クシャーナ朝では大乗仏教と呼ばれる新しい仏教が主流となった。

大乗とは「大きな乗り物」という意味であり、この新しい仏教は、修行による自己救済にとどまらず、菩薩信仰を中心として、すべての人間の救済を目ざすものであった。

サータヴァーハナ朝のバラモン出身の仏僧ナーガールジュナ(竜樹)が『中論』を著して、大乗仏教の理論の確立に寄与した。

 

 

※ナーガールジュナの教えは、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)によって中国に伝えられた。

200年頃 ナーガールジュナ(龍樹)が大乗仏教を確立。

荷を負いながらダイブ中。

200年 ナーガールジュナ 大乗仏教 『中論』

 

 



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前1274年〈ラメス2世、カデシュでヒッタイトと戦う〉★

2017-10-24 | 『新世界史頻出年代暗記』

 ▲カデシュの戦いでのラメス2世

●エジプト(新王国時代)

The Battle of Kadesh took place between the forces of the Egyptian Empire under Ramesses II and the Hittite Empire under Muwatalli II at the city of Kadesh. The conflicts were finally concluded by an official peace treaty.

古代エジプト19王朝の王(在位前1304年頃~前1237年頃)ラメス2世はシリア方面に出兵してヒッタイトと戦い(カデシュの戦い)、文献に残る最古の和議を結んだ。

以後、デルタ地帯に諸都市を営み、カルナックに百柱殿を造り、また多くの神殿を建てた。

 

カデシュの戦い

畏怖(いふ)カデシュ ラメヒット。 

1274年   カデシュの戦い  ラメス2世 ヒッタイト

                    


アブ・シンベル神殿


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1096年 〈第1回十字軍の出発(~1099)〉★

2017-06-18 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

 ▲第1回十字軍のエルサレム攻撃

●教会(中世カトリック教会)

The first expedition of the Crusaders.

ベック式!ゴロ合わせ

従軍(じゅうぐん)向かう 家を去る。

 1096年  

  十字軍 

   セルジューク=トルコ  イェルサレム 

 

11世紀、聖地イェルサレムを支配したセルジューク朝が小アジアに侵入してビザンツ帝国を圧迫。

ビザンツ皇帝アレクシウス1はローマ教皇に援助を要請した。ローマ教皇ウルバヌス2は1095年、クレルモン公会議 《「レルモン会議」で「95」!》 を召集して聖地回復の十字軍を提唱。

1096年、決定に基づいて第1回十字軍が派遣された。聖地は奪回されイェルサレム王国が建てられた。

 

十字軍運動の展開  11世紀末~13世紀の約200年にわたって展開された(回数には諸説あり)。
    • 第一回  a 1096 年に出発し、1099年に聖地を回復、略奪。b イェルサレム王国  を建設。
        → イスラーム世界はまとまりを欠いていたが、まもなく勢力を回復し激しい抗争が続く。

解説

1099年に十字軍がイェルサレムを占領したとき、十字軍兵士によってイスラーム教徒やユダヤ教徒の7万人が虐殺され、「岩のドーム」などの財宝が略奪された。この時成立したイェルサレム王国の国王となったロレーヌ侯ゴドフロワは「聖墳墓の守護者」を名乗ったが、実態は世俗的国家で、十字軍の諸侯に土地を分け与えた。
  • 第二回  1147~49年 独王(コンラート3世)・仏王(ルイ7世)が参加 両者反目し失敗。
      1187年 c サラディン(サラーフ=アッディーン)  率いるアイユーブ朝軍がイェルサレムを占領。
  • 第三回  1189~92年 独王d フリードリヒ1世 ・仏王e フィリップ2世  英王f リチャード1世  
         が参加し最大の規模となる。しかし独王が途中で溺死、仏王が英王と対立し帰国。
       → 英王f リチャード1世  がc サラディン と単独講和に成功するも、聖地奪回出来ず。

解説

サラディンに占領されたイェルサレムを奪回するために起こされた第三回十字軍は、イギリス・フランス・ドイツ三国の国王が参加するという最大規模のものであったが、途中ドイツ王は小アジアで事故死しったためドイツ軍は引き返し、英仏両軍は本国で対立していたので共同作戦はうまくいかなかった。ようやくアッコンを奪回したところでフランス王は帰国、残ったイギリス王リチャード1世がサラディンとの間で休戦協定を結んで帰国した。聖地奪回はできなかったが巡礼の安全を確保することができた。
E十字軍運動の変質  ▲背景 13世紀初頭の世界情勢 a モンゴル帝国  の成立(1206年)。
    • 第四回  1202~04年 b ヴェネツィア  商人の要求でc コンスタンティノープル  を攻撃。
    • その地にd ラテン帝国  を立てる(前出)。ビザンツ帝国は一時消滅し、亡命政権をつくる。

解説

第4回十字軍 ローマ教皇インノケンティウス3世が提唱し、フランス諸侯がそれに応じて参加したが、その輸送を請け負ったヴェネツィア商人がコンスタンティノープルを占領することを提案して途中で方向が転換された。ヴェネツィアは東地中海の貿易でコンスタンティノープル商人と激しく競争していたのだった。聖地回復をほったらかしたことに対してインノケンティウス3世は第4回十字軍を破門にしたが、後に東方教会を統合する機会であると考えてそれを許した。
ラテン帝国 フランドル伯ボードワンを皇帝としたが実権はヴェネツィア商人が握っていた。それ以外にもいくつかのキリスト教徒諸侯を君主とする国が造られている。コンスタンティノープルを中心に東方との交易権を拡大しようとしたが、北方のブルガリアや、小アジアのビザンツ帝国の亡命政権であるニケーア帝国に攻撃され、ふるわず、1261年にニケーア帝国によって倒された。ニケーア帝国のミカエル8世はビザンツ皇帝となり、新たなパレイロゴス朝を始めるが、それがビザンツ帝国最後の王朝となる。
  •  宗教騎士団  の活動 f ドイツ騎士団   、 テンプル騎士団 、 ヨハネ騎士団 など。
       = 巡礼路・聖地の治安維持を目的とした騎士修道団。次第に秘密結社化する。
十字軍運動の終結  1212年 a 少年十字軍  の失敗。
  • 第五回  1228~29年 ▲皇帝b フリードリヒ2世   話し合いで聖地一時回復。
  • 第六回  1248~54年 仏王c ルイ9世  が主導。エジプト攻撃に失敗。
  • 第七回  1270年 仏王c ルイ9世  が主導。海路チュニスへの遠征失敗。王も病没。
・1291年 十字軍最後の拠点d アッコン  が陥落しe イェルサレム王国  滅亡、十字軍時代終わる。

地図 主な十字軍の経路

十字軍
 イスラーム勢力圏
 a 第1回十字軍  
 b 第3回十字軍  
 c 第4回十字軍  
 d 第6回十字軍  
 e 第7回十字軍  
 f 東方植民    
 g レコンキスタ  
 h ラテン帝国   

 

まとめ:運動への参加意図 聖地回復という宗教的情熱と共に、参加者の意図には次のようなものがあった。
     
  • ローマ教皇:a 教皇権を確立すると共に、東西教会の統一を目指した。  
  •  
  • 諸侯・騎士:b 従軍することによって、新たな領地と戦利品を求めた。  
  •  
  • 都市の商人:c 東方との遠隔地取引による商業的利益の拡大を求めた。  
  •  
  • ▲農民:十字軍に参加することでd 負債の帳消し、農奴身分からの解放を求めた。  
十字軍運動の結果:a 聖地回復には失敗    、その後の西ヨーロッパ世界に大きな影響を与えた。
影響
     
  1. 結果的に聖地回復ができなかったことによって、b  教皇の権威の動揺がはじまった。  
  2.  
  3. 遠征軍を指揮したc 国王の権威は高まった。  
  4.  
  5. 長期の遠征によりd 諸侯・騎士の没落が始まった。  
  6.  
  7. 十字軍の出港地となったe イタリア諸都市の繁栄がはじまった。  
  8.  
  9. 地中海貿易によるf 東方との貿易が再び活発になりヨーロッパの商業が復興した。  
  10. 先進文化圏であるg ビザンツ帝国、イスラーム圏の文化が流入することとなった。  

Text p.139

 → 十字軍は、中世の西ヨーロッパの国家、社会、文化を大きく転換させる契機となった。  

 


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1225年 〈陳朝の成立(~1400年)〉★

2017-06-16 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

●ベトナム(陳朝)

 

Aybak founds the Moslem dynasty known as “the Slaves.”

人にニコチン注意しょう

1225年   陳朝  チュノム 昇竜

 

 

1225年、李朝の王女の婿陳煚(けい)が王位を譲り受けベトナム北部に陳朝を建国。大穀倉地帯であるソンコイ河デルタ地帯を一手に押さえる昇竜を都とした(現ハノイ)。13世紀末には3回に及ぶの遠征軍を退け、チャンパーと争った。行政制度・仏教文化が発達し、民族的意識の高揚は字喃(チュノム)と呼ばれる国字を生む。外戚の胡氏に国を奪われ、1400年に滅亡した。

 

 

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1386年 〈ヤゲロー朝の成立〉★

2017-06-15 | 『新世界史頻出年代暗記』

▲ヴワディスワフ2世ヤゲロ―

●リトアニア・ポーランド(ヤゲロー朝) 

The Jagiellonian dynasty is established through the proposed marriage of Queen Jadwiga of Poland and Grand Duke Jagiello of Lithuania.

いざヤゲローが リードする。

1386年 ヤゲロー朝  リトアニア=ポーランド王国 

13世紀、リトアニア人(インド=ヨーロッパ語族系のバルト語族)ドイツ騎士団進出(東方植民)に抵抗しながらリトアニア大公国を建国。リトアニアのヤゲローは、1386年ポーランド女王と結婚する形で合同し、ウラディスラフ2世と称し、ヤゲロー(ヤゲヴォ)リトアニア=ポーランド王国)が成立した。

ヤゲロー朝は15世紀 最も強大となり、現在のウクライナなどをふくむ広大な領土を支配した。16世紀に正式に合体、全盛期を迎えた。

しかし、16世紀後半、断絶して選挙王政が敷かれたが、貴族間の争いのためポーランドの国力は衰えていった。

地図問題 1400年頃の東ヨーロッパ世界

①の王国、②の大公国、③の地名、④の王国名及び赤点線枠内に14世紀後半に成立した王国を答えよ。

 


 ① ポーランド王国 
 ② リトアニア大公国 
 ③ ベーメン  
 ④ ハンガリー王国 
・赤点線枠内が
  リトアニア=ポーランド王国


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1066年〈ノルマン朝の成立〉★★

2017-06-11 | 『新世界史頻出年代暗記』

ノルマンディー公ウィリアム

●イギリス(ノルマンディー公国)

Norman Conquest William of Normandy invades England and defeats the English forces of King Harold at the Battle of Hastings.

ベック式!ゴロ合わせ

入(い)れろ無理やり 塀に乗る。

1066年 イングランド   

          ウィリアム

           へースティングスの戦い ノルマン朝

イングランドではカヌート王のあと、アングロ=サクソン人の王が復位したが、1066年、ノルマンディー公ウィリアムが王位継承を主張してブリテン島に侵入、へースティングスの戦いでイングランド軍を破り、ウィリアム1として即位、ノルマン朝を創始した。

大陸の封建制を移入し、独特の中央集権的封建制が確立した。

 《イギリスの歴代王朝》  

 ノルマン朝に始まるイギリスの歴代王朝はこの後、プランタジネット朝ランカスター朝ヨーク朝テューダー朝ステュアート朝ハノーヴァー朝と続く。

ノーブラよくて 捨てちゃうハー。」と一挙に覚えよう!

ノルマン朝

   プランタジネット朝

       ヨーク朝

          テューダー朝

              ステュアート朝

                   ハノーヴァー朝

 

■ポイント ノルマン人の民族移動にともなう、イギリスとロシアの国家形成を理解する。
1.ノルマン人の移動  8~12世紀 第2次民族移動ともいわれる。

Text p.128

ノルマン人   の移動 インド=ヨーロッパ語系ゲルマン人の一派。
  • 原住地はa スカンディナヴィア 半島、b ユトランド 半島の周辺。
    8世紀後半からヨーロッパ各地に海上遠征し、交易や海賊行為を行う。c ヴァイキング  と言われる。
    → 細長く底の浅い船で川をさかのぼり内陸部にも侵入するようになる。
ノルマンディー公国  の成立。
  • 10世紀始め、a ロロ  に率いられ、北フランスに進出。
    911年 フランス王よりノルマンディー公に封じられB ノルマンディー公国  となる。
両シチリア王国  の成立。
  • 1130年 ノルマンディー公国のノルマン人、a ルッジェーロ に率いられ地中海に進出。
    → イスラーム教徒を破り、南イタリアとシチリア島を支配し、C 両シチリア王国  を建国。
    → 南イタリアには、b ビザンツ文化、イスラーム文化、ノルマン人の文化が共存する  こととなる。

解説

1130年にノルマン人のルッジェーロがイスラーム勢力を排除してシチリア島と南イタリア(ナポリ地方)の両地域にまたがる国を建設した。この国を「両シチリア王国」といっているが、当初は単に「シチリア王国」と称していた。1320年にはナポリ王国とシチリア王国と分離し、1442年に再統合された際に正式に「両シチリア王国」と称した。しかし煩雑なので、一般には最初から「両シチリア王国」して説明されることが多い。1860年にイタリア王国に併合されて消滅するが、この地方は古代のローマ文化とその後のイスラーム文化、ノルマン人の文化、神聖ローマ帝国の支配を受けていた時代のドイツ文化などが重層的に混在しており、世界史的に興味深い地域である。
2.イギリスの国家形成
イングランド王国  の成立。a 大ブリテン島  の中・南部を占める地域。
  • 829年 ウェセックス王のb エグバート が、c アングロ=サクソン七王国 を統一。
    → d ノルマン人 の一派、e デーン人  の侵入に悩まされる。(ヴァイキング)
  • 9世紀末 f アルフレッド大王  、ヴァイキングの侵入を撃退。

解説

イギリスという名称には注意を要する。現在の日本でイギリスと言っているのは、「大ブリテンおよび北アイルランド連合王国」のことであるが、ブリテン島は、南東部のイングランドと北部のスコットランド、西部のウェールズに大別される。イングランドはアングロ=サクソン七王国以来、ゲルマン系の国家が形成され、ノルマン朝以降に有力となって、スコットランド、ウェールズを統合していくが、本来はスコットランド・ウェールズはケルト系の別の国家だった。1707年にイングランドを中心に「大ブリテン国」が成立してからが厳密にはイギリス(イングリッシュが転訛した日本語)と言うべきであるが、便宜上、それ以前のイングランドの歴史を述べる際もイギリスが使われている。
デーン朝   の支配。
  • 1016年 デーン人のa クヌート王  、イングランドを征服。
    → デンマーク、ノルウェーも支配。北海周辺の海上帝国として繁栄。
  • 1042年 イングランドでアングロ=サクソン王朝が復活。
ノルマン=コンクェスト   。
  • 1066年 a ノルマンディー公ウィリアム  が王位継承を主張してイングランドを征服。
    =b ヘースティングズの戦い   イングランドのハロルド王の軍を破る。
  •  ウィリアム1世  として即位、d ノルマン朝  が成立。
ノルマン・コンクェスト

 ヘースティングズの戦い 。左側の騎馬軍がノルマン軍、右側の徒歩部隊がイングランド軍。

3.ロシアの国家形成
ノヴゴロド国   の建国。
  • 9世紀 ノルマン人の一派がa スラブ人 の居住地域への進出が始まる。
  • 862年 b リューリク の率いるノルマン人がドニェプル川流域に進出。彼らはc ルーシ と言われる。
    → d ノヴゴロド国  を建国。 = d ロシア国家の起源   とされる。
    → バルト海方面とドニェプル川を通じるルートで、 毛皮 ・蜜蝋・琥珀などの交易に従事。
キエフ公国    への発展。
  • 9世紀 リューリクの一族のオレーグがドニェプル川中流のa キエフ  を都として建国する。
    現在のウクライナ一帯を支配。9世紀末にはノヴゴロド国も併合。
  • 10世紀 ノルマン人とスラブ人の同化が進み、封建社会を形成させる。
  • ビザンツ帝国からb ギリシア正教  が伝わり、次第にビザンツ文化の影響が強まる。(後出)
4.その他のノルマン人の活動
北アメリカ大陸への到達  
  • ノルマン人の一部、a 大西洋  を横断、アイスランドからグリーンランドと北アメリカ大陸に到達した。
    =b 最初のヨーロッパ人の北アメリカへの上陸  。→ 定着することなく絶滅したと考えられている。
北欧諸国    9~10世紀。
  • ノルマン人、原住地に三国を建国。
  •  デンマーク : デーン人がユトランド半島に建国。北海沿岸でヴァイキング活動。
    11世紀 b クヌート王  がイングランド、スウェーデンなども支配。
  •  スウェーデン  : スカンディナヴィア半島東部に建国。
  •  ノルウェー  : スカンディナヴィア半島西部に建国。
  • 北欧諸国がe キリスト教化  すると共に、ノルマン人の移動も終わる。
地図 ノルマン人の移動と建国
ノルマン人の移動 
 ノルマンディー公国    B 両シチリア王国    C イングランド王国(ノルマン朝) 
 ノヴゴロド国    E キエフ公国    F クヌート 

 


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