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プロテスタント信仰の源流①札幌バンド

2017-12-31 | 入試問題+ゴロ合わせ

暗く内向き二ッとベー。

札幌バンド)(新渡戸稲造(にとべいなぞう)・クラーク)(内村鑑三(うちむらかんぞう))

[point]

1.札幌バンドは、クラークの感化により入信した新渡戸稲造内村鑑三らの信仰集団。

[解説]

1.札幌農学校の生徒だった内村鑑三新渡戸稲造らは、米人教師クラークの感化でキリスト教に入信した。1877年3月、信仰契約に署名し札幌バンドと呼ばれる信仰集団を形成。バンドは団の意。

2017早大・人間

 その後、禁教が条約改正交渉に悪影響を与えていることを認識した明治敗府は、1873年にキリスト教禁教の高札を廃止した。e.さらに、外国人教師らの影響もあって、キリスト教の信仰は、青年知識人層を中心に次第に広がりを見せるようになった。1889年に発布された大日本帝国憲法では、条件つきながら、信教の自由が明文化された。

問8 下線部eに関連して、明治期におけるキリスト教信仰に関する記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。


 ア アメリカ人のジェーンズは、熊本洋学校で聖書を講じた。

 イ 井上哲次郎は、内村鑑三不敬事件を受けてキリスト教を厳しく批判した。
 ウ 救世軍や矯風会などのキリスト教団体は、廃娼運動に尽力した。
 エ 熊本バンドに参加した植村正久は、後に吉野作造や鈴木文治を育成した。
 オ 新渡戸稲造は、札幌農学校でキリスト教に入信した。」

(答:エ× ※植村正久は熊本バンドではなく横浜バンドのメンバー「木」「ま」)


2016慶大・文

 軍人であった( M )は旧熊本藩立学校の熊本洋学校に招かれており、彼の教え子たちの集まりが熊本バンドである。これに対して、札幌農学校でウィリアム・スミス・クラークの教えを受けて改宗した者たちは札幌バンドと呼ばれる。その一人の( N )は、のちに無教会主義を提唱している。彼がキリスト教徒としてとった行動が大きな問題となり、帝国大学教授( O )は論文「教育と宗教の衝突」でキリスト教を激しく糾弾している。

M:1W.E.グリフィス
  2H.ケプロン
  3L.ジェーンズ
  4B.プティジャン
  5D.マレー(モルレー)

N:1植村正久 2内村鑑三
  3海老名弾正
  4徳富蘇峰 5新島襄 

O:1姉崎正治 2井上哲次郎
  3久米邦武 4田口卯吉
  5元田永孚」

(答:M3、N2、O2)井上哲次郎「教育と宗教の衝突」〉〈〉〈

M4.ベルナール・プティジャンフランス語Bernard-Thadée Petitjean1829年6月14日 - 1884年10月7日)は、フランス出身のカトリック宣教師である。パリ外国宣教会会員として幕末の日本を訪れ、後半生を日本の布教にささげた。1865年大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見」(信徒発見)の歴史的瞬間に立ち会ったことで有名。

O1.姉崎 正治(あねさき まさはる、1873年7月25日 - 1949年7月21日)は、日本の文筆家評論家宗教学者インド宗教神道仏教キリスト教新宗教)。


1648年 〈フロンドの乱(~53年)〉★

2017-12-31 | Weblog

 

●フランス(ブルボン朝)

The Fronde begins: The word fronde means sling, which Parisian mobs used to smash the windows of supporters of Cardinal Mazarin.

ヒロシはブロンド マザコンさ。

1648年 フロンドの乱 マザラン 高等法院 (1653

1643年、ルイ13世の死去にともない幼少のルイ14が即位すると、宰相のマザランは、三十年戦争への干渉で生じた財政危機に対処しようとパリに新税を課すなど、さらなる中央集権化を進めた。

これに対して、高等法院や貴族などが1648年にフロンドの乱を起こしたものの、鎮圧され(1653年)、フランスの絶対王政は確立した。

同年 〈国際;ウェストファリア条約〉★★★

1648年、三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約が締結され、ドイツにおける領邦国家分立が決定付けられた。

 

 

 


札幌農学校の創設

2017-12-30 | 生物暗記法

暗く毛プラン札幌の。

札幌農学校)(ケプロン)(クラーク


[point]

1.札幌農学校ケプロンの提言で創設、クラークが教育にあたった。

[解説]

1.ケプロン(H.Capron)(1804~85)は、開拓使お雇い外国人。当時アメリカ政府の農務局長であったが、新政府に請われ、数人の技術者を率いて来日。4年の任期中に3度道内を調査し、農林漁業・鉱工業の振興などについての意見書「ケプロン報文」を提出して帰国。これがその後の北海道近代化の重要な指針となった。そのなかで技術者養成のための農学校の創設も提言している。江戸中期のオランダ商館医ケンペルと間違えないこと。

2.クラーク(W.S.Cl
ark)(1826~86)は、アメリカの科学者・教育家・軍人。1876年、同じアメリカ人でケプロンの路線を継ぐ教育者として開拓使が招く。札幌農学校教頭として農学・植物学・英語を教授。またキリスト教に基づく道徳教育に力を入れる。1877年4月帰国。‘Boys Be Ambitious’(少年よ、大志をいだけ) でよく知られているが、わずか8ヶ月の滞在だった。


2015早大・文

 芝公園は、増上寺そのほかの社寺地を利用して作られた。付近には、大教院、d.開拓使仮学校・海軍施設・勧工場など政府の富国強兵政策に関係する施設が多く存在していたが、のちには高級料亭紅葉館や、総理大臣を務めたし原敬の邸宅が近辺につくられるなど、しだいに周辺の雰囲気は変化していった。

問5 下線dの学校は、その後移転し学校名を改める。この移転後の学校について述べた記述として、誤っているものを1つ選べ。


 ア 大農場制度の移桂を図った。

 イ 東京大学農学部の前身である。
 ウ 内村鑑三はこの学校の卒業生である。
 エ 新渡戸稲造はこの学校の卒業生である。
 オ アメリカ人クラークを招いた。」

(答:イ×)〉

2014立大・現心社会コミュ福:「また1876年には、北海道の開発のため、アメリカの科学者・教育家である( ハ )を初代教頭として招いて札幌農学校を開校した。」

(答:クラーク)〉


2013愛知教育大・前期

問4 次の文章は、重要文化財「札幌農学校第2農場」のパンフレットの一部である。これを読み問いに答えよ。

 当施設は、明治9(1876)年9月13日、W.Sクラーク先生の大農経営構想によって、一戸の酪農家をイメージした北海道開拓の模範農場として発足しました。模範家畜房と穀物庫は、明治10(1877)年秋に落成して日本最古の洋式農業建築として建築学的にも貴重なものです。


問1 文中の「W.Sクラーク」のような人物を総称して何と呼んでいるか答えよ。また、そのような人たちが果たした役割を述べよ。


問2 文中にある「北海道開拓」についで、当時この目的のために設置されていた官庁名を答えよ。」


(答:1お雇い外国人、2開拓使)〉


2010明大・政経

 明治期に入ると、政府は積極的にお届い外国人を雇用し、西欧の科学技術、法制度、教育、医学などの早期導入を図った。1869年、北海道の開拓を目的として北海道開拓使が設けられると、元アメリカ合衆国農務局長[ 2 ]が開拓使顧問として招かれ、大農経営を取り入れたほか、札幌農学校の設立指導等も行った。

設問2 空欄[ 2 ]にあてはまる人物は誰か。A~Eからひとつ選べ。


 Aクラーク  Bマレー
 Cグリフィス

 Dケプロン  Eモース」

(答:D)

B.ダビッド・モルレー(David Murray [ˈdeɪvɪd ˈmʌri]1830年10月15日 - 1905年3月6日)はアメリカ合衆国教育者教育行政官。オルバニー・アカデミー校長、ラトガース・カレッジ教授、日本国学監、ニューヨーク州大学校理事会事務局長を歴任した。明治初期に日本政府が招聘したお雇い外国人の一人であり、1873年(明治6年)から1878年(明治11年)まで文部省顧問として教育制度の整備に貢献。東京大学東京女子師範学校お茶の水女子大学の前身)および同校附属幼稚園、教育博物館(国立科学博物館の前身)、東京学士会院日本学士院の前身)の設立を助けたほか、中央集権的な「学制」改正案をまとめた。ダビット・モルレーデイビッド・マレーなどとも表記される。

C.

ウィリアム・エリオット・グリフィスWilliam Elliot Griffis1843年9月17日 - 1928年2月5日)は、アメリカ合衆国出身のお雇い外国人、理科教師、牧師、著述家、日本学者、東洋学者である。

 

明治時代初期に来日し、福井と東京で教鞭をとった。帰国後は日本の紹介につとめたほか、朝鮮についても紹介した。

 


初期キリスト教布教の開始

2017-12-30 | 入試問題+ゴロ合わせ

振るベッキーを切り捨てて。

フルベッキオランダキリスト


[point]

1.明治初期キリスト教布教活動は、英和辞典ヘボンフルベッキが開始。

[解説]

1.ヘボン(Hepburn)(1815~1911)は、アメリカ人の医師・宣教師。幕末に来日して医療や伝道に従事。ヘボン式ローマ字を考案して日本最初の和英辞典を完成させたことでも知られる。現地発音ではヘプバーンが近い。夫人と始めたヘボン塾がフェリス女学院や明治学院の始まりとなる。

2.フルベッキ(Verbeck)(1830~98)は、オランダ出身のアメリカ移民で法学者・神学者、宣教師。宣教師として1859年来日。英語など数カ国語を教授。そのかたわら禁教がまだ解けない中でひそかに伝道を開始。のち政府顧問として法整備に携わる。その門下から、大隈重信伊藤博文横井小楠(しょうなん)などを輩出。現地発音ではフェルベックが近い。

2017早大・人間

問4 下線部c明治初期に、外国人教師の多くを占めていたのはcイギリス人であったに関連して、工部省で技師として勤務したイギリス人をl人選べ。もし該当するものがなければ、カをマークせよ。

 ア グリフィス イ ケーベル

 ウ コンドル  エ フルベッキ 
 オ ラグーザ」

(答:ウ ※「」ア.グリフィスはアメリカ人。

ラトガース大学で福井藩からの留学生であった日下部太郎と出会い、親交を結ぶ。その縁により明治4年(1871年)に日本に渡り、福井藩の藩校明新館で同年3月7日から翌年1月20日まで理科(化学と物理)を教えた。天窓のついた理科室と大窓のある化学実験室を設計したが、これは日本最初の米国式理科実験室であったらしい。

明治4年(1871年)7月、廃藩置県により契約者の福井藩が無くなった。明治5年(1872年)、フルベッキ由利公正らの要請により10ヶ月滞在した福井を離れて大学南校(東京大学の前身)に移り、明治7年(1874年)7月まで物理と化学、精神科学など教えた。

 

イ.ラファエル・フォン・ケーベルドイツ語Raphael von Koeber1848年1月15日 - 1923年6月14日)は、ロシア出身(ドイツ系ロシア人)の哲学者音楽家。明治政府のお雇い外国人として東京帝国大学哲学西洋古典学を講じた。

エ×フルベッキはオランダ人

ラグーザ 1876年明治9年)に明治政府に招かれて来日し、1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導にあたった。教え子に大熊氏廣(1856年-1934年)や藤田文蔵(1861年-1934年)がいる。

2017早大・人間

問5 下線部d開国と幕末の動乱に関連して、この時期に起こったできごとに関する記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。

 ア アメリカ人宣教師のヘボンが、日本初の和英辞書を出版した。

 イ 伊勢神宮への御蔭参りが流行した。
 ウ 黒住宗忠が神人合一の境地を悟り、宗教活動を始めた。
 エ 「ええじゃないか」とよばれる民衆の集団乱舞が、東海・近畿地方を中心に広まった。
 オ 後に教派神道とよばれる民衆宗教が普及した。」

(答:ウ× ※黒住教は、幕末ではなく江戸時代後期の文化11年(1814年)に布教を開始した)


2016慶大・文:「

(ハ)近代には、プロテスタントの宣教師たちが来日している。日本で最初の和英辞書を出版した( K )は医師でもあり、横浜で医療と宣教に携わっていた。( L )出身のグイド・フルベッキは長崎で英学を教授し、大学南校でも教授したが、プロテスタントの宣教にも努めた。」

(答:Kヘボン、Lオランダ )〉


2010明大・政経

 日本には。幕末になると、再び外国人宣教師が渡来して活動を開始した。1859年にはアメリカ人の[ 1 ]が訪れ、1867年に和英辞典『和英語林集成』を刊行した。また、ロシア人のニコライは、1861年に来日している。

設問1 空欄[ 1 ]にあてはまる人物は誰か。A~Eからひとつ選べ。


 Aフェノロサ  Bヘボン

 Cフルベッキ
 Dジェーンズ Eケーベル」

(答:B)


2004センター試験・日本史B

 下線部近代的学校制度の確立をめざしたものであった、に関連して、19世紀後半の教育・思想について述べた文として誤っているものを、次の①~④のうちから一つ選べ。

 ①中江兆民は、『民約訳解』でヘボンの思想を紹介した。

 ②福沢諭吉は、慶応義塾を創立した。
 ③人間の自由・平等を説いた天賦人権思想が導入された。
 ④新島襄は、同志社同志社英学校を創立した。」

(答:1×、※中江兆民は『民約訳解』でルソーの思想(『社会契約論』)を紹介。)〉


啓蒙思想・中村正直

2017-12-26 | 生物暗記法

スマイル最高ジュリー見る。

(中村正直(なかむらまさなお))(スマイルズ・『西国立志編』)(『自由』・ミル



[point]

1.中村正直は、スマイルズ西国立志編』とミル自由之理』を翻訳。

[解説]

1.中村正直(1832~91)は、江戸生まれ。幕府の儒官出身。号は敬宇(けいう)。1866年イギリス留学。帰国後東京女子師範学校、ついで東京帝大教授。明六社に参加。個人主義道徳を説き、啓蒙思想の普及に努めた。イギリス人スマイルズの『Se1f Help』を翻訳し、1871年『西国立志編』として出版。これは西洋史上の有名人物伝を挙げ、自立自助の個人主義道徳を説いたもの。ついでJ.S.ミルの『On Liberty』を、1872年『自由之理』として翻訳出版。この書の翻訳で功利主義と自由の重要性を伝えた。

2016早大・人間科学

問5 下線部d自由主義・功利主義に関連して、以下に挙げた人物とその著作(翻訳書を含む)の組み合わせのうち、誤っているものはどれか、1つ選べ。もし該当するものがなければ、カをマークせよ。

 ア 田口卯吉『日本開化小史』

 イ 中江兆民「民約訳解」
 ウ 中村正直『西国立志編』
 エ 西周『自由之理』
 オ 福沢諭吉『西洋事情』」

(答:エ×、※『自由之理』はJ.S.ミル『On Liberty』の中村正直による訳書名)


2012京都府立大・前期

問28 下線部(j)啓蒙思想家について,そのひとりであった中村正直が翻訳したスマイルズの書物の名前を記せ。」

(答:西国立志編)〉


啓蒙思想・明六社の6人

2017-12-25 | 入試問題+ゴロ合わせ

森の中にし 腹痛だ。

有礼(もりありのり)・村正直(なかむらまさなお)加藤弘之(かとうひろゆき)・西村茂樹)(西(あまね)・沢諭吉・津田真道(つだまみち))

なおこの明六社は1875年の讒謗律解散サボ解散明六社)。

[point]

1.明六社森有礼の発議に西周加藤弘之中村正直西村茂樹福沢諭吉津田真道が参加して発足。

[解説]

1.明六社の名は、明治六年(1873)発足にちなむ。機関誌は『明六雑誌』。旧幕府の開成所(洋学教育機関)出身者が多い。同誌は新聞紙条例讒謗律発布に動揺して廃刊にいたる。

2.西周(1829~97)は、津和野藩出身。初期の軍制整備に活躍し、軍人勅諭の初稿を起草。啓蒙思想家だが西洋哲学を最初に紹介し、「哲学」だけでなく日常何気なく使っている「主観」「記号」「命題・定義・演繹・帰納」「肯定・否定」をはじめ用語多数を和訳創案して、我が国には未知の概念を定着させた功績で知られる。


3.津田真道(1829~1903)は、津山藩出身。官僚・法学者・啓蒙思想家。江戸で佐久間象山などに洋学を学ぶ。蕃書調所教官となり、幕命でオランダに留学し、法学・経済学を学び、帰国後わが国初の西洋法律書『泰西国法論』を著す。維新後、司法省・元老院にも勤務し、新律綱領などを編纂。


4.中村正直(1832~91)は、江戸生まれ。幕府の儒官出身。個人主義道徳を説き、啓蒙思想の普及に努めた。


5.福沢諭吉(1834~1901)は、豊前中津藩(大分県)の出身。下級藩士の次男として生まれた啓蒙思想家。大坂に出て緒方洪庵に蘭学を学ぶ。また独学で英学をおさめた。1860年咸臨丸に同乗したのをはじめ3回、幕府の遣外使節に随行し、欧米を視察。維新後は政府の招きを断り、教育と言論による啓蒙活動に邁進(まいしん)。68年慶応義塾を創設して人材育成に努める。『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論の概略』などを著した。英功利主義の影響を受け、個人および国家の「独立自尊」を主張したが、自由民権運動には冷淡であった。82年『時事新報』を創刊。次第に国権論に傾き、日清戦争では主戦論を展開。


6.加藤弘之(1836~1916)は、但馬出石(いずし)藩(兵庫県)出身。維新後、天賦人権論を説く啓蒙思想家としてスタート。やがて国家主義思想へと転向。


7.森有礼(1847~89)は、薩摩藩(鹿児島県)出身。初代文部大臣として、ドイツ式の学校令を制定して国家主義的教育体制を確立。帝国憲法発布の日、急進的な欧化主義者であったことが一因で、国権主義者の反発をうけ暗殺された。

8.西村茂樹(1828~1902)は、佐倉藩出身。主著『日本道徳論』。皇室中心の国民道徳を説き、国粋主義の先駆となる。


2017中央大・経済

問2.次の説明のうち、下線部①の明六社の結成に加わった人物についてのものにはイ、そうでない人物についてのものにはロをマークしなさい。

 a.幕末に薩摩藩からイギリスに留学し、後に初代文部大臣として学校令を公布した。
 b.幕末に洋書調所の教官としてオランダに留学し、同地で学んだ国際法に関する『万国公法』を刊行した。
 c.『真政大意』を刊行して天賦人権思想を紹介したが、後に、社会進化論の立場から『人権新説』を刊行して天賦人権論を批判した。
 d.『古事記』・『日本書紀』に科学的分析を加えて古代史研究に新境地をひらいたが、著書『神代史の研究』について発禁処分を受けた。」

(答:aイ森有礼、bイ.津田真道、cイ.加藤弘之、dロ.津田左右吉)〉

2017早大・社会

問8 下線部(7)明治期の啓蒙思想に関連して、近代思想の普及を担った明六社に参加しなかった人物は誰か。1人選べ。

 イ大木喬任 ロ津田真道 
 ハ西村茂樹 ニ西周
 ホ中村正直

(答:イ)〉

2016早大・政経

 幕府の留学生として下線部11阿蘭陀で学び、明治維新後は兵部省に出仕し、徴兵令制定に関与した人物が、旧幕府系洋学者らと結成した思想団体を何というか。漢字で記せ。」

(答:明六社 ※西周は明治維新後は、兵部省に入り、徴兵令・軍人勅諭など関わる)〉


2015立命館大・全学部2/2:「

 hかれは、幕末から明治期に活躍した啓蒙思想家として著名な人物である。8明六社の創設にも関わり、主著『文明論之概略』のなかでは、それまでの日本の歴史や文明のあり方を厳しく批判し、西欧文明に学びつつ、日本の独立をはかれと主張している。

問h  下線部hの「かれ」の氏名を答えよ


問r 下線部8明六社に関連して、「明六社」の創設者の一人で、当初は天賦人権論の立場であったが、のちに社会進化論の立場から天賦人権論を否定するに至った『人権新説』の著者として知られる人物は誰か。もっとも適当な名を下から一つ選べ。


 あ森有礼  い西村茂樹

 う加藤弘之 え植木枝盛」

(答:h福沢諭吉、rう)〉


2015関西大・済文社会など

 維新後、新政府に仕え、明六社にも参加した(1)【ア加藤弘之 イ森有礼 ウ中村正直】は、『国体新論』などで天賦人権論を紹介したが、1882年刊の『人権新説』では、天賦人権論を否認し、自由民権運動に反対の立場をとった。」

(答:ア)


2014明大・情報コミュ

  明六社のメンバーで、( ウ )を起草した西周は、幕末から明治初年の段階では妻升子の表記を、旧姓で「石川升子」としていたが、民法施行後には、「西升子」と変更していた。婚姻した女性は、男性側の姓を名乗り、男性の家に入ることが制度として強制されたのである。」

(答:ウ.軍人勅諭)〉


2013立大・法済異文化:「

問7ⅰ.この人物(森有礼)と西周ら洋学者が創設した啓蒙思想団体はどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.硯友社 b.交詢社

 c.明六社 d.立志社」

(答:c)

a.硯友社は1885年に発足した、明治期の文学結社。

 b.交詢社
 c.明六社 d.立志社」
2012早大・文

 1873年、アメリカから帰国した[ A ]は、洋学者の西村茂樹らと相談の上、明六社を結成した。同社は翌年、機関誌『明六雑誌』を創刊、西洋の知識を日本に紹介し多大な影響を与えた。

問1 空欄Aの人物は、のち初代文部大臣に就任した。その人物は誰か。漢字で記述せよ。」


(答:森有礼)〉


2010明大・政経

設問2 下線部(ア)蕃書調所はその後、名称を洋書調所、開成所と変えていくが、津山藩士でオランダ留学後、開成所の教授となり、のちに明六社に参加した啓蒙思想家は誰か。A~Dからひとつ選べ。

 A福沢諭吉 B森有礼

 C津田真道 D加藤弘之」

(答:C)※津山藩士


歴史学・田口卯吉

2017-12-21 | 生物暗記法

いやな名卯吉改称し。

1877年田口卯吉『日本開化小史』


[point]

1.歴史学の田口卯吉の主著は、『日本開化小史』である。

[解説]

1.田口卯吉(1855~1905)は、幕臣の家に生まれる。英語を学び、さらに医学を目指すが転向、大蔵省翻訳局に入る。洋書翻訳がきっかけで経済学や歴史学に目覚める。1877年に『日本開化小史』を自費出版し、以後1882年までに全6巻を著す。以後、『群書類従』など史書を編纂、在野の歴史家として多大な業績を残した。両毛鉄道の経営、衆議院議員をつとめるなど多方面で活躍した。。 

2017関西大・全学部

問13 この史料は『日本開化小史』であるが、著者は誰か。
 ア久米邦武 イ津田左右吉 ウ田口卯吉」
(答:ウ)〉

2016早大・人間科学

問5 下線部d自由主義・功利主義に関連して、以下に挙げた人物とその著作(翻訳書を含む)の組み合わせのうち、誤っているものはどれか、1つ選べ。もし該当するものがなければ、カをマークせよ。
 ア 田口卯吉『日本開化小史』
 イ 中江兆民「民約訳解」
 ウ 中村正直『西国立志編』
 エ 西周『自由之理』
 オ 福沢諭吉『西洋事情』」

(答:エ×、※『自由之理』はJ.S.ミル『On Liberty』の中村正直による訳書名)〉

2012明大・文

  近代的な学問研究は、当初、お雇い外国人らに学ぶかたちで開始されたが、やがて日本人学者自身による各分野の専門研究・教育ができるようになった。日本史の分野では、在野の史学者・経済学者である[ e ]が『日本開化小史』を発表し、新しい歴史観が示された。

問5.空欄eにあてはまる人物の氏名を記せ。」


(答:田口卯吉)〉


2012立命館大・文系A方式

問e 下線部2『日本開化小史』の著者は誰か。」

(答:田口卯吉)〉


総合・地域史 ★★ ユーラシア(モンゴル後のロシアと清)

2017-12-21 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2010 京都大学(改)

【問】次の文章の(   )の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)~(7)について後の問に答えよ。

 16~17世紀、ユーラシアの東西にふたつの帝国が形成され始める。やがて、ともに巨大化したのち、いずれも政体は変化したが国としての大きなかたまりは現在まで続いている。すなわちロシア連邦と中華人民共和国である。
 それぞれの源流・発端はある意味でモンゴル帝国と無縁ではない。(1).ルーシと呼ばれた地域は、ゆっくりとモンゴルからの自立姿勢を強め、やがて16世紀半ば、王となった(  a  )はカザンとアストラハンのふたつのモンゴル国家を接収してヴオルガ流域を制圧し、 (2).そこから東方にむけて少数の兵を派遣した。かくて、 17世紀前半には太平洋岸にまで到達する。こののち、(3).ロシアはアジアとヨーロッパにまたがる広大な勢力圏を保持することになる。なお、黒海に臨む一帯には、1783年まで(  b  )というモンゴル国家が存在し続けた。

 一方、アジア東方では、かつてモンゴル治下にあった大興安嶺以東の(  c  )族のなかからヌルハチが台頭し、 1616年にはハンを称した。ついで、(4)その子の(  d  )は1636年に、本来は“主人筋”であった内モンゴル諸王侯に推戴されて、大元国(ダイオン=ウルス)をひきつぐ帝王として即位し、国号を大清国(ダイチン=グルン)とした。これ以後、清朝は満蒙連合政権の性格を色濃くおびた。そして1644年に明朝が滅ぶと、(5).清は入関して北京に入り、否応なく中華本土も包み込む多元帝国となっていった。

 (6).康煕帝・(  e  )から乾隆帝にいたる三人の皇帝の治世は外モンゴルおよび(  f  )仏教文化圏をめぐって、やはりモンゴル帝国以来の由緒をもつ(  g  )と激しく争いあう時代でもあった。(7).清朝は1755年から59年にかけて、ついにパミール以東を制圧し、現在に続く巨大な版図を樹立したが、 1793年に乾隆帝のもとを訪れた(  h  )が率いる使節団の目には、“虚飾の老大国"に見えていたのも一方の事実であった。

(1)
ルーシを含むユーラシアの西北部を支配したこの モンゴル国家は何というか。
(2)
1582年にシビル=ハン国の首都を占領したのは誰か。
(3)
ロシアは、ある山脈を境に、そこから東方の大地をながらく属領視することになった。何という山脈か。
(4)
このときの首都はどこか。
(5)
このときの清朝の皇帝は誰か。
(6)
康煕帝時代に国境画定をめぐってロシアとの間で結ばれた条約を何というか。
(7)
このとき清軍の一部はパミールをこえて西南方にも進出し、アフマド=シャーによって建国されてからまもない国家に接近した。何という王国か。
 

解 答 

イヴァン4世 クリム=ハン国 女真(女直) ホンタイジ 雍正帝
設問1 設問2
チベット ジュンガル マカートニー キプチャク=ハン国 イェルマーク
設問3 設問4 設問5 設問6 設問7
ウラル山脈 瀋陽 順治帝 ネルチンスク条約 アフガニスタン王国

解 説: 

設問4:女真のヌルハチが建国した後金(アイシン)は、1625年に瀋陽を都とした。次いでホンタイジ(太宗)がこの都を盛京と命名した。順治帝の時、1644年に中国本土に侵攻して都を北京に移した。瀋陽は副都とされ、奉天府といわれた。
設問7:アフガニスタン王国は、1747年に成立した、ドゥッラーニー朝。アフマド=シャーは、それまでアフガニスタンを支配していたサファヴィー朝とムガル帝国の勢力から、民族の独立を勝ち取り、カーブルを都とした。乾隆帝の時の清軍が一時侵攻したが、このことはほとんど触れられないので難問。
 

★カーリミー商人

2017-12-20 | ベック式!世界史用語集

紅海を中心にインド洋と地中海を結ぶルートで、香辛料や絹・陶磁器などを扱う貿易で活躍したムスリム商人

11世紀から15世紀、アイユーブ朝からマムルーク朝時代の前半にカイロを基地として紅海、インド洋の香辛料貿易に排他的に従事。

アレクサンドリアでイタリア商人に売却し、巨利を得た。

各地に商館をおいて香辛料貿易を独占したが、マムルーク朝の独占貿易政策などで15世紀に衰退した。

●カーリミー商人

  ベック式暗記法!

 愛守るかい?(かおり)見ぃ。

アイユーブ朝

アレクサンドリア

   マムルーク朝

             カイロ インド洋 

              カーリミー商人

                香辛料貿易

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地震学・大森房吉

2017-12-19 | 生物暗記法

1898年 大森房吉、大森式地震計を発明。

飛躍は自信 大きいさ。

1898年  地震計  大森房吉


[point]

1.地震学の大森房吉は、大森式地震計の発明で知られる。

[解説]

1.大森房吉(1868~1923)は越前国の下級武士の家に生まれる。東京帝国大学物理学科を卒業。イギリスから招かれた地震学者ジョン・ミルンに師事。3年間のヨーロッパに留学を経て、1898年に世界初の本格的地震計である大森式地震計を発明した。

2017早大・人間

問6 下線部e日本人の学者による独創的な研究に関連して、正しいものはどれか、1つ選べ。

 ア 大森房吉は、原子摸型理論を発表した。

 イ 木村栄は、地球の緯度変化公式のZ項を発見した。
 ウ 志賀潔は、ペスト菌を発見した。
 エ 鈴木梅太郎は、アドレナリンを抽出した。
 オ 長岡半太郎は、地震計を考案した。」

(答:イ〇 ※ア×大森房吉は大森式地震計の発明、ウ×志賀潔は赤痢菌の発見、エ×鈴木梅太郎はオリザニン(ビタミンB1)の抽出、オ×長岡半太郎は原子構造の研究)

イ.

1902(明治35)年 木村栄(ひさし)、地球の緯度変化公式のZ項を発見した。

引く鬼ひさし 緯度Z。

1902年 木村栄 緯度変化公式 z項

ウ.

1897年 志賀潔、赤痢菌発見。

いや苦難志賀 赤痢菌。

1897年 志賀潔、赤痢菌


2016関西学院大学・全学部

 科学では、[ c ]が赤痢菌を発見し、また[ d ]はビタミンB1の抽出に成功するなど、世界水準の研究も発表された。文学や芸術の分野においても、言文一致体で『浮雲』を書いた二葉亭四迷やe西洋画の黒田清輝らが活躍した。さらにf演劇や音楽でも新しい動きがみられた。

問3.空欄c・dに該当する人物の組み合わせとして、正しいものを下記より選びなさい。

 ア.c北里柴三郎 d鈴木梅太郎
 イ.c志賀潔   d大森房吉
 ウ.c志賀潔   d鈴木梅太郎
 エ.c北里柴三郎 d大森房吉」


(答:ウ)〉


総合・地域史 ★★ ナイル川流域の歴史

2017-12-19 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2011 北海道大学

【問】次の文章を読み、問いに答えなさい。

 古代ギリシアの歴史家( A )は「エジプトはナイルの賜物」という言葉を彼の著作に残している。ナイル川は、モンスーンの影響で(1).エチオピア高原に降る雨のために毎年7月中旬に増水を始める。それによって夏の終わりから秋にかけて起こる洪水はナイル川流域に肥沃な土壌をもたらし古代より(2)エジプト文明を育んできた。ヴィクトリア湖周辺を水源とする白ナイルと、エチオピアのタナ湖を水源とする青ナイルは、(3).スーダンのハルトゥームで合流し、ナイル本流となってエジプトを北上する。この本流はカイロ近郊で2つの支流に分かれ、肥沃なデルタ地帯主形成して地中海に注ぎ込む。
 カイロは、969年にエジプトを支配下に置いた( B )が新都として建設した町であるが、それに続く(4).アイユーブ朝時代に発展をとげ 1250年に成立したマムルーク朝の時代になると、国際的商業都市、イスラーム世界の政治的・文化的中心都市として繁栄を極めた。この時代、カーリミー商人と呼ばれた貿易商が、東方の物資を(5)インド洋・紅海方面からエジプトにもたらし( C )などの港湾都市で、(6).イタリア商人と交易活動を行った。一方、エジプトの農村部では(7).イクター制が施行され、比較的安定した状態が続いたため、農業の発展が見られ、小麦や大麦に加えて(  D  )などの商品作物の栽培も盛んになった。

問1.
空欄A~Dに適当な語句を入れなさい。
問2.
下線部(1)について、(ア)紀元前から9世紀頃までこの地で栄えた王国の名称を答えなさい。また、(イ)1936年にエチオピアを併合した国家の名称と、(ウ)その国の指導者の名前を答えなさい。
問3.
下線部(2)について、(ア)新王国時代に唯一神アトン(アテン)への信仰を強制する宗教改革を行ったファラオの名前と、(イ)彼が定めた首都の名称を答えなさい。
問4.
下線部(3)について、1885年にこの都市を占領したマフデイー派の抵抗運動について説明しなさい。
問5.
下線部(4)について、(ア)この王朝を樹立した人物の名前と、この人物が公的に支持したイスラームの宗派を答えなさい。
問6.
下線部(5)について、(ア)15世紀末にインドのカリカットに到達したポルトガルの航海者の名前と、(イ)その後ポルトガルに占領されて東方進出の拠点、となったインドの都市名を答えなさい。
問7.
下線部(6)について、この時期の彼らの交易活動の内容と意義を説明しなさい。
問8.
下線部(7)について、この制度を簡潔に説明しなさい。
 

解 答

問1 ヘロドトス ファーティマ朝 アレクサンドリア サトウキビ
問2 アクスム王国 イタリア ムッソリーニ    
問3 アメンホテプ4世 テル=エル=アマルナ      
問4 自ら救世主を意味するマフディーを称したムハンマド=アフマドが、イスラーム教徒のマフディー派を率いてイギリスの侵略に抵抗し、一時ハルツームを占領したが、最後は鎮圧された。
問5 サラディン スンナ派  
問6 ヴァスコ=ダ=ガマ ゴア  
問7 ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどの港市を拠点に、十字軍運動を契機として東方貿易に進出し、ムスリム商人から香辛料や絹織物、宝石などを買い付けてヨーロッパにもたらし、商業を復興させた。
問8 ブワイフ朝に始まりセルジューク朝でイスラーム世界に一般化した制度で、軍人・官僚に俸給に見合う金額を徴収できる土地の徴税権を与えるもの。

※別解:問3・ア:イクナートン  問5・ア:サラーフ=アッディーン

解 説: 

ナイル川流域のエジプト、スーダン、エチオピアに関して古代から現代までを概観したのがリード文である。記述解答が多くむずかしそうに感じるが、聞かれていることはいずれも基本的なものなので、焦らずじっくり考えること。

日本のアジア支配

2017-12-17 | 生物暗記法

 

 大東亜共栄圏 
・1940年7月  第2次近衛文麿内閣が発表。
 → 日本を盟主とした東アジアの経済・軍事ブロックを作り、白人支配を排除することを掲げる。
 a フィリピン 、b ビルマ (現ミャンマー)では親日政権をつくる。
 c インドネシア では親日組織を作る。
 d インドシナ 、e タイ では日本との協力を声明させる。

Text p.333

B.朝鮮・台湾に対する支配の強化
・a 皇民化政策 を進める
 1940年 b 創氏改名 、日本語、神社参拝を強制など。
 1940~45年 国内の労働力不足を補うため、c 朝鮮人の強制連行 を行う。
    d 徴兵制 も実施(朝鮮では44年、台湾では45年から。その前は志願制)。
    ▲e 従軍慰安婦 の徴用などを行う。
C.東南アジアでの軍政と抵抗
・日本、欧米諸国の植民地支配からの解放を掲げるが、占領目的は資源の収奪
 にあったので、a 軍政 を強化。住民への残虐行為、強制労働などが続く。
・シンガポール、マレー半島、フィリピンでは住民への残虐行為や捕虜を含む強制労働が多発。
  → 反日感情強くなる。
 ▲ 北ベトナムでの大量餓死  1944~45年にかけて日本軍政下の北ベトナムで約200万人が餓死した。 
 ▲b タイ とは同盟条約を締結、米英に宣戦布告。 泰緬鉄道 の建設。国内に反日組織が存在。
 ▲c 抗日武装闘争 が各地で起こる。:
   ホー=チ=ミン指導のd ベトナム独立同盟 
   フィリピンのe フクバラハップ 
   朝鮮の抗日パルチザンなど。
D.日中戦争下の中国
・1940年 ▲ 日華基本条約  日本と南京政府で締結。日本の華北への駐留権など承認。
 1943年1月 南京政府、米・英に宣戦布告 日本は 日華新協定 で租界還付・治外法権撤廃。
  同  年10月 米・英、中国との 不平等条約撤廃 を連合国宣言として表明。
・▲日本による中国人の強制連行 1943年から始まる。
  →1945年 花岡事件(秋田県の鉱山での反乱事件)起きる。
E 戦局の転換
・1942年6月 a ミッドウェー海戦  日本海軍、アメリカ海軍に敗北。 →戦局転換する。 
 1943年 日本が主催し、b 大東亜会議 を開催。劣勢挽回のため、支配権強化を図る。
  = 日本の東条英機首相の呼びかけで、満州国、南京国民政府、タイ、フィリピン、ビルマ、
    インド(自由インド仮政府。親日派のチャンドラ=ボースが結成)が参加し、東京で開催。
先頭へ
エ.ファシズム諸国の敗北
A 世界大戦の拡大  1941年12月 太平洋戦争の開始 → 二大陣営の対立の明確化
・    ┌────────┐             ┌────────┐
 ┌───┤ A 連合国  ├─────┐   ┌───┤ B 枢軸国  ├───┐
 │   └────────┘     │   │   └────────┘   │
 │                  │   │                │
 │┌─────資本主義国──────┐├→対←┤┌───f 三国同盟  ───┐│
 ││                ││   ││              ││
 ││a イギリス ・b フランス  ││   ││   g ドイツ      ││
 ││                ││   ││              ││
 ││c アメリカ ・d 中国    ││   ││   h イタリア     ││
 │└────────────────┘│   ││              ││
 │┌─────社会主義国──────┐│   ││   i 日本       ││
 ││                │├→立←┤└──────────────┘│
 ││     e ソ連       ││   │ 反自由主義、反共産主義を掲げ │
 │└────────────────┘│   │                │
 │   反ファシズムで一致※     │   │ ファシズム国家として結束※※ │
 └──────────────────┘   └────────────────┘
 
 ※42年1月1日 連合国共同宣言に加盟した国は合計26カ国。終戦時には51カ国に拡大。
 ※※その他の枢軸国 j フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、  
 なお、スウェーデン、スペイン、エール(アイルランド)、スイス、トルコなどは中立政策をとった。
B 連合国の総反撃
・1942年後半から、総反撃に転じる。 ドイツ本土空爆 を展開。
  同  年11月 連合軍がa 北アフリカ上陸 
  同  年   アメリカが原子爆弾製造計画を開始( マンハッタン計画 
・1943年2月 b スターリングラードの戦い でソ連軍が勝利。ドイツ軍の後退始まる。 
  同  年3月 日本軍、c ガダルカナル撤退  → アメリカ軍、太平洋島嶼を北上開始。 
  同  年   北アフリカ戦線でドイツ、イタリア軍が後退。
 イタリアの降伏  
・1943年7月 連合軍、a シチリア島 に上陸。ローマ空襲。→ファシスト党批判強まる。
      同月 国王、b ムッソリーニ を逮捕。ファシスト党解散。
         c バドリオ内閣 、休戦協定に調印。ドイツ軍が侵攻したため半島南端に遷都。
  同  年9月 連合軍イタリア本土上陸。ドイツ軍がローマを占領しb ムッソリーニ を救出、
    → イタリア社会共和国を建国。パルチザンによるドイツへの抵抗強まる。 
 1945年4月 b ムッソリーニ 、パルチザンに捕らえられ、絞首刑とされる。
  →46年 国民投票で▲d イタリア共和国 となり、国王は退位し亡命。
 連合国の戦後対策 
・1941年8月 米英首脳a F=ローズヴェルト ・b チャーチル が大西洋上で会見、
  = c 大西洋憲章 を発表(前出)。戦後の国際協調の基本構想を示す。→ソ連などが賛同。
      12月 チャーチル、訪米( アルカディア会議 ) → 日本参戦への対応 
 1942年1月 ソ連など26カ国が加わり、d 連合国共同宣言  戦後構想の原則を確認。
 1943年1月  カサブランカ会談 (モロッコ) チャーチル・F=ローズヴェルト
        → 北アフリカ戦線の視察、シチリア上陸作戦の決定 
・1943年11月 e カイロ会談 :(エジプト) 
         a F=ローズヴェルト ・b チャーチル ・f 蒋介石  
  → g カイロ宣言 : 対日処理方針、占領地の返還、朝鮮の独立など。
・ 同  年12月 h テヘラン会談 :(イラン)
         a F=ローズヴェルト ・b チャーチル ・i スターリン 
  → 第2戦線の形成、j ポーランド問題 ※とソ連の対日参戦を協議など。
補足:ポーランド情勢の深刻化
F.戦後構想の具体化進む
・1944年7月  ブレトン=ウッズ会議 (戦後経済体制の討議)
  同  年8月  ダンバートン=オークス会議 (国際連合憲章草案の討議) 
      10月 チャーチル・スターリンのモスクワ会談:バルカン・ギリシアの パーセンテージ協定

Text p.335

 ヤルタ会談  1945年2月 クリミア半島での連合国三首脳会談
・a F=ローズヴェルト ・b チャーチル ・c スターリン の三首脳による
 d ヤルタ協定 の成立:
  戦後ドイツの4国管理、戦犯の裁判、非武装化。
  ポーランド、ユーゴの新政権樹立など。
  秘密条項でe 南樺太と千島列島の領有を条件にソ連の対日参戦 を決定。
 → ここで生まれたアメリカ・イギリスとソ連の二陣営による戦後国際政治を
   f ヤルタ体制 という。
・ 同  年4月 連合国、g サンフランシスコ会議 を開催。
  → 6月26日 h 国際連合憲章 を採択。(第16章1節参照)
ヤルタ会談

G ヤルタ会談 の三首脳 左から
 チャーチル 
 F=ローズヴェルト 
 スターリン   

 ドイツの降伏 
・1944年6月 連合軍のa ノルマンディー上陸作戦  アイゼンハウアー指揮 
  同  年8月 パリ解放、b ド=ゴール 臨時政府を組織。
 1945年2月 連合軍による ドレスデン大空襲  死者6万。
             = 「ドイツのヒロシマ」と言われる。
  同  年4月 米ソ両軍、エルベ川に達する。ソ連軍のベルリン総攻撃始まる。
  同  年4月  ヒトラー自殺 、5月8日 c ベルリン陥落 
  → 同日、ドイツ無条件降伏。
 日本の無条件降伏 
・1944年7月 米軍、a サイパン 島・b レイテ 島を占領
  → 日本本土への爆撃開始。
ベルリン陥落

 ベルリン陥落  

 1945年2月 米軍、c フィリピン 奪回。マニラで多数の市民が犠牲となる。
      3月10日 ▲d 東京大空襲  B29による大空襲で死者約10万人。
      4月 e 沖縄 上陸。日本本土で戦場となる。
・1945年7月 f ポツダム会談 :ドイツの管理問題と日本への降伏勧告を協議。
     g トルーマン ・h チャーチル (途中からi アトリー )・j スターリン 
  →k ポツダム宣言 :米・英・中国の三国の名で発表(ソ連は対日宣戦布告後に参加) 
 内容・軍国主義の除去 ・新秩序確立までの占領 ・主権を本州、北海道、四国、九州の4島などに局限
   ・日本軍の武装解除 ・戦争犯罪人の処罰 ・民主主義の復活、基本的人権の尊重、言論の自由など
  → 日本政府、「黙殺」の態度をとる。
 これとは別に、ドイツの非軍事化、非ナチ化、暫定国境などを定めたのが ポツダム協定 
・アメリカがl 原子爆弾 投下。g トルーマン が決定。
  → 8月6日にm 広島 、9日にn 長崎 、合計約30万人が死亡。
・o ソ連の対日参戦 。 p ヤルタ協定 に基づき、q 日ソ中立条約 を破棄。
  → 8月8日 満州、朝鮮、樺太に侵攻。日本人捕虜の抑留。
  → 8月14日 ソ連は重慶の国民政府と、 中ソ友好同盟条約 を結ぶ。 

Text p.336

・8月15日 日本、r ポツダム宣言受諾 。無条件降伏。
第二次世界大戦の終結
先頭へ
オ.大戦の結果
1.原因と結果
1)戦争の原因:a ドイツ・イタリア・日本のファシズム国家が起こした侵略戦争が拡大した。 
 ・ファシズム国家は、自国の経済の行き詰まりという国内危機を、他国への侵略によって
  解決しようとしたが、その背景には、第一次大戦の勝利国である英・仏の過酷な賠償請求
  に対するドイツの反発、ファシズムの台頭を許した資本主義の矛盾やb 宥和政策 があった。
 ・ファシズム国家はc ヴェルサイユ体制 ・d ワシントン体制 という国際秩序の破壊をめざし、
  それに対してe 国際連盟 の集団安全保障体制が機能せず、戦火の拡大を許した。
2)大戦の拡大:第一次世界大戦は欧州地域中心であったが、この大戦は全世界に及んだ。
・ ヨーロッパ:ドイツ・イタリアの侵略戦争 →対ソ戦に進展 ┐ 
                              ├→a 世界戦争 に拡大
  アジアで:日本の中国への侵略戦争 → 太平洋戦争に進展 ┘
3)大戦の結果:a 連合国側の完全な勝利。ファシズム国家の敗北。 
 ・連合国:資本主義国アメリカ・イギリス・フランスと社会主義国ソ連が、反ファシズムで協力。
   → 大西洋憲章・ヤルタ体制など、戦後の国際秩序形成で合意。実質はアメリカの力による復興。
 ・ファシズム諸国:ドイツ・イタリア・日本が反自由主義・反社会主義で結束。
   → 共通して民族的優位感をもち、他民族への蔑視を隠さず、暴力的な占領地支配を行う。
   → 各地で民衆の抵抗運動を呼び起こす。結果として、戦後に植民地の独立があいつぐ。
 ・ドイツ・イタリア・日本はいずれも軍国主義・全体主義の指導者が一掃され、民主化が実現。
   → しかし、戦争責任の追及においては違いが見られる。
2.莫大な被害(1939年9月1日~1945年8月15日)(1956年 アメリカ統計局)
 ・直接死者  2500万人      ・間接的死者 1500万人
 ・負傷者   3400万人      ・戦費    1兆1500億ドル
 ・物的損害  4500億ドル     ・参加国   59カ国
 ・動員兵力  1億人
3.大戦のもたらしたもの
1)a 米ソ両国の役割の強化 :アメリカの参戦が連合国側の勝利をもたらし、またソ連の
 参戦が決定的な意味を持った。→ 戦後世界の両陣営の対立は、大戦中から予測される。
2)b 中国、アジア諸民族の自立 :中国は日本敗北後、抗日戦争で成長した共産党政権
 が国共内戦に勝利する。大戦を期にインド、インドネシア、朝鮮などのアジア諸国が独立。
3)c 核兵器の登場 :アメリカ軍による原子爆弾の使用は、人類の大きな汚点となる。
 → 米ソの核兵器開発競争とその行き過ぎに対する反省
4)d 国際連合の発足 :国際連盟に代わる新たな機関として、機能を強化させる。
 

第15章 二つの世界大戦 5 第二次世界大戦

2017-12-17 | 生物暗記法

 

Text p.329

ア.ナチス=ドイツの侵略と開戦
A. ナチス=ドイツ の強硬姿勢
・a オーストリア併合   1938年3月 ドイツ民族の統合を名目に、軍隊を派遣し併合。
  ヴェルサイユ条約およびb サン=ジェルマン条約 で併合を禁止されていた。
・さらにc チェコスロヴァキア に対し、d ズデーテン地方 の割譲を要求。
  ドイツ人住が多い地域であった。 → ヨーロッパに緊張はしる。
B.イギリスの 宥和政策 
・イギリス首相a ネヴィル=チェンバレン はb 宥和政策 をとる。
  = 前内閣の方針を引継ぎドイツの強硬な姿勢に譲歩して解決をはかる。
・1938年9月 c ミュンヘン会談  ズデーテン問題での4カ国会議。
  イギリス首相a ネヴィル=チェンバレン  フランス首相ダラディエが、
  ドイツ総統d ヒトラー 、イタリア首相e ムッソリーニ と会談。
 ※当事者であるf チェコスロヴァキア の代表は参加できず。
  → イギリス・フランスがドイツのg ズデーテン併合 を承認。
ミュンヘン会議

 ミュンヘン会談 の4首脳

・イギリスの意図:h社会主義国ソ連の進出を恐れ、ナチス=ドイツとの対決をさける。
  → ドイツ国内ではヒトラーへの賞賛が高まり、ナチス=ドイツの進出を許す。
C.ドイツの侵略開始
・1939年3月ドイツによるa チェコスロヴァキア解体 
  西半分のベーメン(ボヘミア)・メーレン(モラヴィア)を保護領、スロヴァキアを保護国とする。 
・▲さらに、リトアニア西部の メーメル地方 を併合。 
・ポーランドに対し、b ダンツィヒ ※の返還とc ポーランド回廊 ※※の陸上通路を要求。
  ※第1次大戦前はドイツ帝国領であったが、ヴェルサイユ条約で国際連盟管理下の自由市とされていた。
 ※※ドイツ本国と東プロイセンを結ぶ地域。第1次大戦でポーランド領とされていた。

Text p.330

・1938年4月 イタリアはd アルバニア を併合。
D.宥和政策の転換
・イギリス・フランスが、a 宥和政策 を捨て、軍備拡張を急ぐ。
  → ポーランドとギリシアに対し、安全保障を約束。
  → ポーランド、ドイツの要求を拒否。
・イギリス、フランスはソ連と軍事同盟の交渉にはいる。
 独ソ不可侵条約  の成立
・1939年8月23日 ソ連のa スターリン が、b ヒトラー と締結。
  = モロトフ=リッベントロップ条約ともいう。
 背景:cソ連のスターリンは、イギリス・フランスの宥和政策に不信感を持った。
  → ファシズムと共産主義が提携したことに世界中が驚く。日本の平沼内閣総辞職。
・両国のd 秘密議定書 が付帯。= 東ヨーロッパの分割と勢力圏の取り決め。
 内容 ドイツとソ連によるd ポーランド分割 
    ソ連のe バルト三国 併合をドイツが承認。
  → いずれも第二次世界大戦後にその存在が明らかになる。
ヒトラーとスターリン

E 独ソ不可侵条約 の戯画

 第二次世界大戦の勃発 
・a 1939年9月1日  ドイツ軍がb ポーランド侵攻 。「電撃戦」により圧倒。
  同  年9月3日 イギリス・フランスがドイツに宣戦。※
  同  年9月17日 c ソ連 もb ポーランド侵攻 
   → ソ連軍、ポーランド人約100万を拘束し、シベリアなどに流刑にする。
・e アメリカ合衆国 は参戦せず(▲f 中立法 は改正。武器輸出は可能にする。)
参考:奇妙な戦争
先頭へ
イ.ヨーロッパの戦争
 スターリン体制 下のソ連の東欧侵攻
・1939年9月 ポーランド敗北、独ソでa ポーランド分割 
  同  年11月 b ソ連=フィンランド戦争 → ソ連、国際連盟から除名される。
 1940年 ソ連、c バルト三国 を併合。さらに、ルーマニアからベッサラビアを奪う。
  同  年 ▲ソ連軍、約1万5千人のポーランド軍将校をソ連に連行し虐殺( カチンの森事件 )。
 西部戦線   陸上では両陣営のにらみ合い続く。(上述の「奇妙な戦争」)
・1940年4月 ドイツ軍、a デンマーク ・b ノルウェー に侵入占領。
  同  年5月10日 ドイツ軍、c オランダ ・d ベルギー に侵攻。
      同日、イギリスでチャーチル戦時内閣成立。→6月 英仏軍 ダンケルク から撤退。
  同  年6月 フランスに侵攻し、e パリ占領 
   → ドイツ軍のロンドン空襲開始。
・ドイツ側にf イタリア参戦 
C 英仏の抵抗
・a フランス の敗北。第三共和政崩壊し、b ペタン内閣 が降伏。
  → 北半はドイツに占領され、南半をc ヴィシー政府 (ペタン内閣)が統治。 
  → d ド=ゴール らロンドンに亡命、亡命政府(e 自由フランス政府 )を組織。 
  → 国内でf レジスタンス 始まる。 

Text p.331

・イギリス、1940年5月にe チャーチル 首相となる。(挙国連立の戦時内閣)
  →  ロンドン空襲 にたえ、ドイツ軍のイギリス上陸作戦を阻止する。
  →  北アフリカ戦線 で、イタリア・ドイツ連合軍と激戦。
・1941年3月 アメリカ合衆国 f F=ローズヴェルト 大統領三選。
  → g 武器貸与法 を成立させる。 
  → イギリス・ソ連・中国など連合国に対し、武器・軍需品の援助をはじめる。
 ドイツのバルカン侵出   イタリア軍を支援して軍を派遣。
・1941年4月 a ユーゴスラヴィア とギリシアを占領。
  → ドイツ軍、ヨーロッパの過半を支配。
  → ユーゴスラヴィアではb ティトー 指導のc パルチザン による抵抗が始まる。
・ソ連、ドイツのバルカン侵攻に反発。→ 対ドイツ戦にそなえて日本と結ぶ。
 1941年4月 d 日ソ中立条約 締結。
  = 日本は、アメリカとの対立が深まっており、対米交渉の有利な条件とするのがねらい。
先頭へ
ウ.独ソ戦と太平洋戦争
 独ソ戦の開始 
・1941年6月 ドイツa 独ソ不可侵条約 を破棄し、ソ連に宣戦。
  → イタリア・ルーマニア・フィンランドと共に侵入。→ 年末にモスクワに迫る。
 1941年7月 b 英ソ軍事同盟 成立。イギリス・フランス・ソ連の連携始まる。
・1941年8月 F=ローズヴェルトとチャーチル c 大西洋憲章 発表。(後出)
  → ファシズムに対抗する国際連帯を呼びけ、戦後の国際平和構想を提唱。
  → 1943年 ソ連、d コミンテルン 解散。英仏への協力姿勢を示す。

Text p.332

B 戦争の長期化
・ドイツ、占領地から資源・食料・労働力を奪い、ドイツに連行、強制労働につかせる。
  → 支配地域への人種主義政策の強制。占領地でのa ユダヤ人 迫害を強化( ホロコースト )。
・1942年1月 ドイツ首脳のヴァンゼー会議で、ユダヤ人対策を決定。
  → ポーランドのb アウシュヴィッツ などのc 強制収容所 での大量殺害。
・ドイツ支配に対するd レジスタンス と武装抵抗運動(e パルチザン )が展開される。
・アジア、太平洋の戦争
 日本のインドシナ進駐  日中戦争の長期化 →日本経済を圧迫→ 南方進出論強まる。
・フランスの敗北 → 援蒋ルートの遮断をねらう日本軍、インドシナ侵出を実行。
・1940年9月 日本軍、a フランス領インドシナ北部 (北部仏印)に進駐
  同  年9月 三国防共協定をb 日独伊三国同盟 に発展させる。 
 1941年4月 c 日ソ中立条約 締結。
   ← 日本は北方の安全を確保して、南進と対アメリカ戦に備える。
     ソ連は、バルカンに進出したドイツとの戦争に備え、東方の安全を確保する。
・1941年7月 日本軍、d 仏領インドシナ南部 (南部仏印)に進駐。
  → イギリス、アメリカとの対立が深刻となる。
・アメリカ、日本への経済的圧迫強める(39年、 日米通商航海条約の破棄 を通告)。
  → 41年3月 g 武器貸与法 により、イギリス・ソ連・中国など支援。
    41年8月 日本への石油輸出禁止。
 → 日本はアメリカ・イギリス・中国・オランダによる包囲網=e ABCDライン として反発。
 太平洋戦争  a 1941年12月8日  日本軍、ハワイのb 真珠湾 を奇襲。
・同時に、c マレー に上陸し、アメリカ・イギリスに宣戦布告。
 → ドイツ・イタリアが三国同盟に基づきd 対米宣戦 。e アメリカ参戦 
・開戦の意味
 fヨーロッパとアジアの戦争が結びつき、アメリカが参戦し実質的な世界戦争に転換した。
・日本軍、f 香港 攻略、イギリス軍を撃退。
 1942年1月 g フィリピン 侵攻、マニラを占領 → アメリカ軍を追撃。
  同  年2月 h シンガポール 占領 →  華僑虐殺事件 起こる。 
  同  年3月 i ジャワ・スマトラ 侵攻、j インドネシア を占領 
         k ビルマ 占領
         太平洋地域では、ソロモン諸島を占領。

総合・地域史 ★★ 西アジア(オリエント世界~イスラーム世界)

2017-12-17 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2010  京都大学(改)

【問】次の文章の(   )の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)~(5)について後の問に答えよ。

 古代オリエントでは、大河の流域で、はやくから濯j既農業が行われ、定住が進み、都市を中心とした文明が生まれた。メソポタミアでは、前3000年頃からシュメール人が、(  a  )川下流域のウル・ウルクなど様々な都市国家を築いた。前24世紀頃これらの都市国家を征服してメソポタミアを統ーしたのがセム語族の(  b  )人である。その後、同じセム語族の(1).アムル人が強力な国家を建設し前18世紀前半ハンムラピ王のとき全メソポタミアを支配下に置いた。この王国は、小アジアに建国したヒッタイトに滅ぼされた。一方、エジプトでは前3000年頃までに最初の統一王国が生まれ、古王国はメンフイス、中王国はテーベを中心に栄えた。新王国では前14世紀半ば(2).アメンホテプ4世が改革に着手して遷都すると、新都を中心に写実的な(  c  )美術が生まれた

 エジプト王国とヒッタイト王国が弱体化すると、シリア・パレステイナでは、セム語族の3民族、(  d  )人・フェニキア人・ヘブライ人が活動を開始した。(3).(  d  )人は前1200年頃からダマスクスを中心に内陸交易で活躍し、フェニキア人は沿岸部にシドン・テイルスなどの都市国家をつくり、地中海交易を独占した。前7世紀前半に古代オリエントはアッシリア王国により統ーされ、その崩壊後はイラン人が大帝国(  e  )朝ペルシアを建設したが前4世紀後半アレクサンドロス大王がこれを滅ぼした。

 アレクサンドロス大王没後、そのアジアの領土はセレウコス朝に受け継がれたが、前3世紀半ばにはバクトリアが独立し、またイラン系のパルテイアが建国された。パルティアが(  f  )川河畔に築いたクテシフォンは、パルテイアおよびこれを倒した王朝の首都となった。ヘレニズム時代に最も繁栄したのがプトレマイオス朝で、首都(  g  )には研究所・図書館が建設され、学問の中心となった。プトレマイオス朝が滅びローマ帝国が拡大すると(4).アラビア半島やシリア砂漠のオアシス諸都市は隊商都市として繁栄した
 7世紀初めアラビア半島西部の交易路上の都市にイスラームが興った。預言者ムハンマドと第3代までの正統カリフは(  h  )を活動の拠点としたが、その後成立したウマイヤ朝はダマスクスを首都とした。(5).8世紀後半にアッバース朝が新都バグダードを築く、この都市は、 13世紀後半(  i  )にとって代わられるまで、イスラーム世界の政治・経済・文化の中心として繁栄した。東方では10世紀にサーマーン朝の首都(  j  )、11~12世紀にはセルジューク朝下の主要なイラン都市においてイラン=イスラーム文化が栄えた。

(1)(ア)
この王国(王朝)の首都の名を記せ。
  (イ)
この首都の位置を、地図上のA~Nの中から選べ。
(2)
この新都の位置を地図上のA~Nの中から選べ。
(3)
ダマスクスの位置を、地図上のA~Nの中から選べ。
(4)
シリア砂漠にあり、3世紀後半には女王ゼノビアの統治下に繁栄し、現在その遺跡がユネスコ世界遺産として有名な隊商都市の名を記せ。
(5)
バグダードの位置を地図上のA~Nの中から選べ。
 

解 答

ユーフラテス アッカド アマルナ アラム アケメネス
ティグリス アレクサンドリア メディナ カイロ ブハラ
設問
(1)ア (1)イ (2) (3) (4) (5)
バビロン パルミラ

解 説

b.

前2371年 アッカド人のサルゴン1世、常備軍を活用してメソポタミアを初めて統一。
罪ないメソッド 圧巻さ。

前2371年 メソポタミア統一 アッカド サルゴン1世

 

メソポタミアの地図上で、ティグリス川とユーフラテス川をしっかりと区別すること。北側を流れるのがティグリス川で、クテシフォン(パルティア、ササン朝の都)とバクダードはこの川に隣接。なお、上流にはアッシリアの都ニネヴェがある。

ユーフラテスは同じくアルメニア地方から大きく蛇行してティグリス川の南西側を流れる。シュメール人の都市国家ウル、ウルクはその下流にあった。またバビロンはその中流にあった。
 

ユーフラテス川(上流から下流に)

ユーフセレバビ ウルクウル。

ユーフラテス川 

セレウキア(セレウコス1世の定めたセレウコス朝シリアの都。ただし、彼はすぐに北シリアオロンテス川河畔の都市アンティオキアに首都を移したので、セレウキアが首都であった期間は長くはない。紀元前141ミトラダテス1率いるパルティアによって征服され、以後パルティア西部の中心都市となった。)

バビロン(ティグリス川との間隔が狭くなっているところ ハンムラビ王の時、バビロニアの首都となった) ウルク ウル(ウル第一王朝の首都)


なお、地図中の正解以外の地点は、A:アレクサンドリア、B:メンフィス、D:テーベ、E:シドン、G:イェルサレム、H:メディナ、I:メッカ、L:ウル、M:スサ、N:ペルセポリス。
設問(4)パルミラは用語解説を参照
c.

前1379~BC1362   〈アメンホテプ4世、アマルナに遷都〉

意味なきゃダメよ甘えるな。

前1379年 イクナートン  アメンホテプ4世 アマルナ

d アラームないよ笛注意。

アラム 内陸フェニキア地中海貿易

ティグリス川(上流から下流に)

ティグニネアッシュ バグだクテ。

ティグリス川 ニネヴェ アッシュール

バグダード(ユーフラテス川との間隔が最も狭くなっているところに位置する)

クテシフォン(シリア・イラク方面に進出したパルティアがヘカトンピュロスから遷した都。ササン朝の都

i.1169年にファーティマ朝にかわってカイロでアイユーブ朝の政権を確立したサラーフッディーン(サラディン)は、ファーティマ朝の政府施設を接収するとエジプトの政府機能の一切をカイロに集約させ、カイロ南東のモカッタムの丘の端に城砦(シタデル)を建設して守りを固めるとともに、城壁と市街を南に拡大してフスタートをカイロに取り込ませる形で都市の拡張を進めた。この事業はアイユーブ朝に続くマムルーク朝の時代に至って完成し、東西交易によって空前の繁栄を迎えた。1258年バグダードモンゴルに征服された後はアッバース家末裔のカリフもカイロへと迎えられてイスラム世界の政治的・精神的な中心地ともなり、スンナ派を奉じたサラーフッディーンによってシーア派からスンナ派のイスラム学院に改められたアズハルはスンナ派イスラム世界の最高学府として高い影響力をもつようになった。

(1)ア.

前1792年 ハンムラビ王即位。                   

非難苦にせず 反撃す

前1792年 セム系 ハンムラビ王 バビロン

〈アラム人とフェニキア人〉

アラームないぜ 笛(ふえ)注意。

アラム人  内陸貿易  セム系  フェニキア人 

                         地中海貿易

なお、地図中の正解以外の地点は、A.アレクサンドリア、B:メンフィス、D:テーベ、E:シドン、G:イェルサレム、H:メディナ、I:メッカ、L:ウル、M:スサ、N:ペルセポリス。

(4)

273年、アウレリアヌス、パルミラ王国を滅ぼす。

津波に遭うと パールゼロ。

273年 アウレリアヌス パルミラ ゼノビア


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ティグリス川とユーフラテス川

2017-12-16 | ベック式!世界史用語集

ベック式!ゴロ合わせ(上流から下流)。出来悪いけど、ないよりは絶対マシだから。

ニネ圧バグ苦 ティグは来た。

ニネヴェ アッシュール

       バグダード クテシフォン

                ティグリス川 北

ユーフラテス川(上流から下流に)

ユーフセレバビ ウルクウル。

ユーフラテス川 

バビロン(ティグリス川との間隔がセレウキアで狭くなったあと、広がっているところ。 ハンムラビ王の時、バビロニアの首都となった(ついでにバビロンの緯度(北緯33度)はシリアのダマスクスとほぼ等しいことも参考に!)) ウルク ウル(ウル第一王朝の首都)

メソポタミアの地図上で、ティグリス川とユーフラテス川をしっかりと区別すること。ティグリス川とユーフラテス川はアナトリア高原東部から流れ出ており,メソポタミアでは毎年4,5月に増水し,大洪水をもたらすこともあった。

北側を流れるのがティグリス川で、クテシフォン(パルティア、ササン朝の都)とバクダードはこの川に隣接。

なお、上流にはアッシリアの都ニネヴェがある。ユーフラテスは同じくアルメニア地方から大きく蛇行してティグリス川の南西側を流れる。シュメール人の都市国家ウル、ウルクはその下流にあった。

またバビロンはその中流にあった(ついでにバビロンの緯度(北緯33度)はシリアのダマスクスとほぼ等しいことも参考に!)。