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ベック式!難単語暗記法ブログ

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豪族の私有民

2016-12-31 | ベック式!日本史用語集


[ポイント]

1.豪族の私有地を田荘といい、これを耕す豪族の私有する農民を部曲という。

[解説]

1.(べ)は大王家や豪族に隷属(れいぞく)して生産に従事した労働集団。部に編成された農民・技術者が部民(べのたみ)である。部民には他に田部(たべ)、品部(しなべ(ともべ))、子代(こしろ)・名代(なしろ)をあわせおもに5種類ある。

2.部曲は、豪族の私有地田荘を耕作する農民で自然村落を単位として編成された。所有者である豪族の名を冠して蘇我部(そがべ)・大伴部(おおともべ)などと呼ばれた。

3.皇室の直轄領を屯倉といい、ここを耕作する農民を田部という。朝廷の管理下にあり、渡来人や国造(くにのみやつこ)支配下の民を割(さ)きとり集団移住させて編成された。


4.朝廷・大王の私有民に品部子代名代がある。后(きさき)・皇子らの名を冠(かん)し長谷部(はせべ)、あるいは職名を冠し錦織部(にしごりべ)などのように呼ばれた。そのうち品部伴造(とものみやつこ)に指揮される朝廷に所属する渡来系技術系部民である。子代名代は皇室のためにおかれた部民だが、その区別などなお不明なことが多い。

5.なおまた豪族などの氏集団は部民に加え、奴隷として使われる()を私有した。

 〈2016早大・人間科学

 さらに庸や調の徴収にあたっては、g畿内は畿外に比べて優遇を受けていた。これは、畿内の勢力が畿外を支配する形態をとったヤマト政権の構造がそのまま律令国家にも引き継がれたことを意昧している。このように、古代国家は中国な支配体制をそのまま導入したわけではなく、h氏族制など律令制以前からの制度を温存しつつ律令制を受け入れたとということができる。
問7 下線部g畿内にあてはまらない国はどれか、1つ選べ。もし該当するものがなければ、カをマークせよ。
 ア大和 イ近江 ウ和泉
 エ摂津 オ河内」
問8 下線部h氏族制など律令制以前からの制度に関して述べた文として、誤っているものはどれか、1つ選べ。
  ア 筑紫国造磐井の反乱を契機に、屯倉が設置された。
  イ 豪族に属する部民を部曲、私有地を田荘といった。
  ウ 地方豪族には君や直などの姓が与えられた。
  エ 四等官制に基づく郡司の地位が、地方豪族に与えられた。
  オ 伴造が職掌に応じて王権に奉仕した。
(答:問7イ、問8エ)〉

〈2015センター試験・日本史B

 問3 下線部c古墳時代には列島各地を政治的に統合したヤマト政権が誕生するにいたるに関して述べた次の文a~dについて、正しいものの組合せを、下の1~4のうちから一つ選べ。

 a.ヤマト政権を構成する豪族らは、氏として組織化された。
 b.ヤマト政権は、列島各地に田荘とよばれる直轄地を設けた。

 c.『魏志』倭人伝によれば、倭の五王は中国の北朝に朝貢した。
 d.大王や王族に奉仕する部民として、名代・子代が設定された

 1a・b  2a・d
 3b・c  4b・d

(答:2 ※b田荘は豪族の所有地、c『魏志』倭人伝→『宋書』倭国伝)〉


〈2015早大・文

 古代の人々が、「田」と呼ばれる土地とどのように向かい合ってきたのかは、歴史を学ぶ場合、重要な課題となる。
 まず、『日本書紀』が記す「改新の詔」には、a「田荘」の廃止や、「田の調」の徴収などがうたわれている。この「改新の詔」をそのまま信用することはできないが、律令制以前における「田」の実態の一面を間接的に伝えたものであろう。」

問1 下線aの語句は何と読むか。平仮名で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。

(答:たどころ)〉

〈2013青山学院・文:「
問6.下線部e種々の技術に関連して、このような技術を大陸からもたらした人々には伴造に従い、大王家・朝廷に所属して、それぞれの職能に応じて奉仕したものもいたが、この人々は何と呼ばれたか。下から選べ。


 1.部曲 2.品部
 3. 4.舎人」

(答:2)〉

〈2012早大・文化構想:「
 下線d次第にその領域を拡大していったについて。畿内の王権が地方に進出し、その直轄領としたところはなんと呼ばれるか。記述解答用紙の解答欄に漢字で記入しなさい。」

(答:屯倉)〉

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閑谷学校(郷校)

2016-12-31 | 『新世界史頻出年代暗記』

こうで郷学。

閑谷学校(しずたにがっこう))(岡山田光政)


[ポイント]

1.閑谷学校岡山藩池田光政が設立した。

[解説]

1.郷校は、郷学、郷学校、郷学所ともいう。藩士教育のためのものと庶民教育のためのものとの2種類がある。後者として閑谷学校(1688)が代表例。領民教化のため藩が経営するもの、有志による民営、あるいは藩民合同ものとがあった。読み・書き・算盤(そろばん)がおもな学習内容であった。

〈2016早大・文化構想〉

問12 下線f多くの藩校(藩学)、郷校(郷学)、私塾、そして寺子屋などが誕生したに関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 明倫館は長州藩の藩校(藩学)であり、日新館は会津藩の藩校(藩学)である。

 イ 弘道館は水戸藩の藩校(藩学)であり、修猷館は福岡藩の藩校(藩学)である。
 ウ 閑谷学校は岡山藩の郷校(郷学)であり、大坂の懐徳堂も郷校(郷学)と言える。
 エ 豊後日田の咸宜園は広瀬淡窓の私塾であり、江戸の古義堂は大槻玄沢の私塾である。
 オ 寺子屋は手習塾・手習所などと呼ばれ、女性の師匠もいた。」

(答:エ ※古義堂は京都堀河にあった伊藤仁斎の私塾。なおエの「懐徳堂も郷校(郷学)と言える」には議論があると思う)〉


〈2012立命館大・文系A方式:「

問b 下線部1熊沢蕃山に関連して、熊沢蕃山を登用した岡山藩の藩主が創設した、農村の子弟も入学を許可された郷学を何というか。」

(答:閑谷学校)〉

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蘇我氏4代

2016-12-30 | 『新世界史頻出年代暗記』

いうえい
(蘇我目(いなめ)・子(うまこ))(蝦夷(えみし)・入鹿(いるか))

[句意]嘶(いなな)く馬を見て笑ってるイルカ君だ、という句。

[ポイント]

1.蘇我氏は稲目・馬子・蝦夷・入鹿と4代つづいた。

[解説]

1.稲目は、娘を欽明用明天皇の妃として皇室との姻戚関係を固めた。

2.馬子は、587年に崇仏に反対する大連の物部守屋を滅ぼし、592年には崇峻天皇を暗殺して政治権力をにぎった。


3.馬子は、飛鳥寺(法興寺)を596年に完成した。


4.馬子は、厩戸王らと協力して、603年には冠位十二階、翌604年には憲法十七条を定め、607年には遣隋使を派遣した。


5.蝦夷入鹿父子は、643年に厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼした。


6.入鹿645年に、中臣鎌足中大兄皇子らに暗殺され(乙巳の変)、蝦夷も自殺し滅亡した。



〈2014立大・経済(経済・会計ファイ)・コミュ福祉(スポ一つウェルネス)・観光(観光)

4.蘇我氏に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.蘇我入鹿は物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇を暗殺して政治権力を掌握した(×物部守屋を滅ぼしたのは馬子(入鹿の祖父)。崇峻天皇も馬子の配下東漢直駒に暗殺されている)
 b.蘇我倉山田石川麻呂は中大兄皇子に協力して蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(〇)
 c.蘇我馬子は娘の堅塩媛を欽明天皇の后とし、推古天皇らの外祖父となった(×堅塩媛(きたしひめ)は蘇我稲目(馬子の父)の娘。稲目が欽明天皇の妃とした)
 d.蘇我馬子は山背大兄王を滅ぼした(×山背大兄王を滅ぼしたのは入鹿)」〉

〈2014大学入試センター試験:日本史B

問3 下線部c磐井の乱に関連して、6~7世紀の政治的事件に関して述べた次の文1~3について、古いものから年代順に正しく配列したものを以下のア~カのうちから一つ選べ。
1.蘇我入鹿らが、厩戸皇子(厩戸王)の子の山背大兄王を自殺に追い込んだ。(643年)
2.大連の大伴金村が、対朝鮮諸国外交の失敗を糾弾されて失脚した。(540年)
3.大臣の蘇我馬子を中心とする勢力が物部守屋らを攻め滅ぼした。(587年)
ア.123 イ.132 ウ.213 エ.231 オ.312 カ.321」(答:エ)〉

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折衷学派

2016-12-30 | 『新世界史頻出年代暗記』


雪中deで缶拾ったぞ

折衷学(せっちゅうがく)派)(咸宜園(かんぎえん)・淡窓(ひろせたんそう))



[ポイント]

1.折衷学派広瀬淡窓は私塾咸宜園を開く。

[解説]

1.折衷学とは、江戸中期(18世紀後半)に興った朱子学・古学・陽明学など特定の学派にとらわれずそれらの長所を取り入れようとする儒学の一派。江戸中期に輩出したこれらの傾向の学者たちを総称していうもので、一人一学説が特色。朱子学派の場合のように一定の学説があるわけではない。その一人に広瀬淡窓がいる。

2.広瀬淡窓(1782~1856)は、豊後国日田の商家の生まれ。身体が弱く、生涯を多病で苦しんだ。ほぼ独学で学ぶ。日田の塾咸宜園は明治30年まで続くが、淡窓一代の入門者は全国から2900余名もあったという。同塾は近世最大の漢学私塾で、高野長英大村益次郎ら幕末の思想家や志士を多く育てた。


〈2016関西大・全学部2/8

B 都市・農村を問わず、庶民が生活していくうえで必要な「読み・書き・そろばん」の能力を習得する場として、寺子屋がつくられた。また、より高度な教育を行う機関として、著名な学者による私塾も各地に設けられた。なかでも儒 学者の広瀬淡窓による豊後日田の3[ア適々斎塾 イ蘐園塾 ウ咸宜園]は、多くの塾生を集め、高野長英や大村益次郎らの逸材を輩出した。」

(答:ウ)〉


〈2016法大・文(哲史)営(営)人間

問9 下線部i広瀬淡窓の私塾として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。

 ア咸宜園 イ懐徳堂 ウ洗心洞 エ鳴滝塾」

(答:ア)〉

〈2012立命館大・文系A方式

h.下線部3に関連して、「異学」について説明した文章として、もっとも適当なものを下から一つ選べ。

 あ 「異学」とされたキリスト教に対する取り締まりが強化された。
 い 「異学」とされた「和学」が厳しく取り締まられ、多くの人びとが処刑された。
 う 当時流行していた古学派・折衷学派などの説が「異学」とされ、道徳を軽視する風潮を生み出すものとして批判された。
 え 当時百姓一揆の背景にあったと見なされた一向宗が、「異学」にあたるものとして弾圧された。」

(答:う ※異学とは朱子学以外の儒学各派を指す。したがってキリスト教、和学、一向宗は異学に当たらない)

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陽明学 

2016-12-29 | ベック式!日本史用語集




[ポイント]

1.陽明学中江藤樹に始まり、熊沢蕃山へとつづく。

[解説]

1.中江藤樹(1608~48)は、近江国の農家に生まれるが、伊予大洲藩に仕官した祖父の養子として武士となる。17歳のとき儒学に志し、独学で朱子学を学んだ。やがて行為よりも知識を重んじる朱子学に疑問をもち、明の王陽明(1472~1528)が知識と行為の一致(知行合一)を説いた陽明学に傾倒した。かれは脱藩して近江に帰り私塾藤樹書院を開き、近江聖人と呼ばれた。「藤樹」は、実家が大きな藤の木の下にあったことからついた名。

2.熊沢蕃山(1619~91)は、中江藤樹の第一の門人。岡山藩主池田光政に重用され藩政改革に貢献。蕃山の生きた時代は2代将軍秀忠から5代将軍綱吉」の時期。『大学或問』で、幕政批判をしたとして、下総古河に幽閉されその地で客死した。死後1世紀を経て評価が高まり、新井白石と並ぶ大学者としてあがめられた。


3.なお後世に独学で陽明学を学んだ大塩平八郎(1793~1837)がいる。


〈2016立教大・現心社コミュ福

問11.これ陽明学に関する記述として正しいのはどれか。

 a.岡山藩主に仕えた熊沢蕃山は『大学或問』を著した

 b.寛政異学の禁において、昌平坂学問所で講義することが認められた
 c.唐の王陽明が創始した儒学の一派である
 d.日本におけるこの学の祖とされるのは太宰春台である」

(答:a ※b×禁止された、c×陽明学は南宋の陸象山を基礎に明代の王陽明が展開した学、dは徂徠の弟子で古学派のうちの古文辞学派)〉


〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)

次の短文は、江戸時代の文化を担った人について叙述したものである。よく読んで、あとの問いに答えなさい。

問1 次の文章の下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。誤っている語句をa~dの中から1つずつ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、それぞれの語群から1つずつ選びなさい。

 京都の人で陽明学者。a萩藩主池田光政に仕え、治績をあげた。b経済政策論としての『大学或問』を著し、社会批判を展開。c重農主義的立場から武士の帰農、d参勤交代の緩和を主張した。                        

〔語群〕

 1松江  2岡山 3外交 4教育
 5重商 6重工 7年貢 8国内旅行規制」

(答:a→2 ※人物は熊沢蕃山)〉

  
〈2016法大・文(英地心)法(国)営(戦略)

問9 下線部f天保の改革の直前に大塩平八郎の乱が起きている。大塩が大坂で教授していた学問は「知行合一」を説くものであったが、その学問として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。

 ア国学 イ朱子学 ウ陽明学 エ水戸学」

(答:ウ)〉

〈2014早大・文化構想

問5 下線eの人物柳沢吉保はある将軍の側用人を務めたが、その将軍の治世に関する文章として誤っているものはどれか。2つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。

 ア 大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺された。

 イ 上方を中心に元禄文化と呼ばれる町人文化が発達した。
 ウ 生類憐みの令が出され極端な動物愛護の方針が採られた。
 エ 中江藤樹が藤樹書院を開いた。
 オ 足高の制が施行された。」

(答:エ・オ ※5代将軍徳川綱吉(位1680~1709)、エ.藤樹書院の解説は1634年。オは吉宗)〉


〈2013同志社大・全学部:「

【設問q】鳥取藩主から岡山藩主となった池田光政が登用した儒学者で、『大学或問』を著した人物として適切なものはどれか。次のうちから1つ選べ。

 1.山鹿素行 2.中江藤樹

 3.熊沢蕃山 4.伊藤仁斎」

(答:3)〉


〈2015立命館大・全学部2/2:「

 次の文章を読み、下線部cの「かれ」の氏名を答えよ。かつ(m)の問いに答えよ。

〔3〕cかれは、「近江聖人」「日本陽明学の祖」として知られているが、その学問は必ずしも陽明学一辺倒ではなく、中国の明末の思想や儒教・仏教・老荘思想からも多くの影響を受けている。「孝」を中心とした思想は、3武士だけではなく、町人・農民にも伝えられ、儒教道徳の民間への普及に功績があった。


問m 下線部3に関連して、「かれ」の武士の弟子としてよく知られている人物は誰か。もっとも適当な人名を下から一つ選べ。


 あ貝原益軒 い室鳩巣

 う新井白石 え熊沢蕃山」

(答:かれ→中江藤樹、問mえ)〉

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古学

2016-12-26 | ベック式!日本史用語集



 偉人掘り出す講義どう。

伊藤仁斎 堀川 古義堂 東涯 童子問


[ポイント]
1.古義学派は、伊藤仁斎東涯青木昆陽とつづく。

[解説]
1.伊藤仁斎(1627~1705)は京都町衆の出。朱子学を批判し、『論語』『孟子』などを重視し原典を直接学ぶことを唱える古義学を創始した。私塾古義堂(堀川塾)を開き、門弟は3000人に達した。それを長男東涯(1670~1736)が発展させた。仁斎の主著は『論語古義』。

2.青木昆陽(1698~1769)は、江戸日本橋の魚屋の子。京に上り伊藤東涯に古義学を学び、江戸八丁堀に塾を開く。折からの享保の飢饉に書いた『蕃薯考(ばんしょこう)』が大岡忠相を通じて吉宗に認められ出仕。以後甘蔗の普及につとめる。吉宗の命を受け野呂玄丈とともにオランダ語学習につとめ、その成果は前野良沢によって継承され、のちの蘭学興隆の基となった。

〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)

 次の短文は、江戸時代の文化を担った人について叙述したものである。よく読んで、あとの問いに答えなさい。

 a大坂の町人の家に生まれる。『論語』『孟子』などの原典の研究を通じて直接聖人の道を正しく理解しようとし、b古義学をとなえ、京都c堀川に塾を創設した。政治と道徳を区別する学風を形成した。著書にはd.『童子問』などがある。

〔語群〕

 1江戸  2京都 3陽明 4心
 5下賀茂 6丸太町
 7『万葉考』 8『玉勝間』

問1 文中の下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。誤っている語句をa~dの中から1つずつ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、それぞれの語群から1つずつ選びなさい。」


(答:問1a2 ※文は伊藤仁斎)〉


〈2016早大・文化構想:「

問12 下線f多くの藩校(藩学)、郷校(郷学)、私塾、そして寺子屋などが誕生したに関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 明倫館は長州藩の藩校(藩学)であり、日新館は会津藩の藩校(藩学)である。

 イ 弘道館は水戸藩の藩校(藩学)であり、修猷館は福岡藩の藩校(藩学)である。
 ウ 閑谷学校は岡山藩の郷校(郷学)であり、大坂の懐徳堂も郷校(郷学)と言える。
 エ 豊後日田の咸宜園は広瀬淡窓の私塾であり、江戸の古義堂は大槻玄沢の私塾である。
 オ 寺子屋は手習塾・手習所などと呼ばれ、女性の師匠もいた。」

(答:エ ※古義堂は京都堀河にあった伊藤仁斎の私塾)〉


〈2015立命館大・全学部

Ⅲ 次の文章を読み、下線部dの「かれ」の氏名を答えよ。かつ(n)の問いに答えよ。

〔4〕d.かれは、裕福な4京都町衆出身で古義学の創始者として知られている。最初、朱子学の熱心な実践者であったが、しだいにその静態的傾向に疑問をもち、孔子・孟子に立ち返って儒教的道徳を日常生活に活かすことを主張するに至った。平易な教えは影響力も大きく、門人は3000人に達したといわれている。

問n 下線部4京都町衆に関連して、「かれ」の妻も「京都町衆」で、画家・工芸家を輩出した家の出身であった。その家の代表的人物の一人で、『紅白梅図屏風』『舟橋蒔絵硯箱』などの作者は誰か。その氏名を答えよ。」

(答:d伊藤仁斎、n尾形光琳

置(お)こうバイクや カキツバタ。

尾形光琳 『紅白梅図屏風』 「八橋蒔絵硯箱」 『燕子花図屏風』



〈2013愛知教育大・前期

 江戸時代には、さまざまな学問・教育活動が展開していた。その一翼を担ったのは、儒学者たちであった。林羅山のように、幕府に仕えた者もいたが、私塾を経営しながら学問・教育につとめた者もいた。たとえば、中江藤樹は伊予国大洲藩に仕える武士であったが、脱藩して、近江国の小川村で陽明学を教えた。京都の上層町人の伊藤仁斎は、私塾( a )で、『論語』や『孟子』にもとづきながら、町人の生活実態にふさわしい儒学を教えた。」

(答:古義堂)

 

ツナ踏むお 鼓舞せいよ。

1726年   荻生徂徠      古文辞学 『政談』  吉宗 

荻生徂徠)(太宰春台(だざいしゅんだい))(古文辞(こぶんじ)学派)

[句意]雄牛のようなダサい身体(からだ)つきの子分が痔になった、というナンセンスの句。「子分」は親分に従う配下。

 

[ポイント]
1.古文辞学派は、荻生徂徠太宰春台と続く。

[解説]

1.荻生徂徠(1666~1728)は、綱吉の侍医の子。父の不遇時代に上総(かずさ)の農村で暮らす。この経験が実証的な学者となる基礎となる。やがて儒学者として柳沢吉保につかえる。吉保の失脚後は官を持し江戸で私塾蘐園塾(けんえんじゅく)を開き、古語(古文辞)の本来の意味の研究を究めて解釈することを主張する古文辞学を大成。さらに吉宗に登用され、人口移動や都市問題を含む経世論を説いた『政談』を献じた。

2.太宰春台(1680~1747)は、徂徠の経世論を発展させ、武士の商業活動を奨励する『経済録』を著す。


〈2016法大・法(政法)国際キャリア

問9 江戸時代の有名な人物同士である[   ]は、対面したことがない。

 ア 松平定信と荻生徂徠
 イ 池田光政と熊沢蕃山

 ウ 賀茂真淵と本居宣長
 エ 蔦屋重三郎と本居宣長

 オ 徳川斉昭と藤田東湖
 カ 徳川家宣と新井白石」


(答:ア)〉


〈2015立命館大・全学部

 次の文章を読み、下線部eの「かれ」の氏名を答えよ。かつ(o)の問いに答えよ。

〔5〕eかれは、5柳沢吉保にも仕えた儒学者で、蘐園学派の祖でもあり、18世紀の学問界にもっとも影響を与えた学者の一人であった。中国の古典である六経に基づく「経世済民」が儒教の要であるとして、何よりも政治的実践を重視したが、むしろその古典研究法が文学・国学などに与えた影響の方が大きい。」

 

問o 下線部5に関連して、柳沢吉保は、幕府奥向にあって将軍に近侍し、表向との取次を担当する役職に就いて絶大な権力をふるった。この役職を何というか。」

(答:荻生徂徠、問o側用人)〉


〈2014立大・現心コミュ福観光営

 3荻生徂徠は、古文辞学派の儒学者でもあった。徂徠は『( イ )』を著し武士の土着論を展開し、また徂徠門下の〈 あ 〉は『経済録』や『経済録拾遺』を著し4武士の商業活動の必要性を説くなど、その積極的な政治経済への発言がその後の経世論発達の礎となった。」

問3.下線部3の荻生徂徠が江戸に開いた私塾はどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.蘐園塾 b.古義堂
 c.洗心洞 d.藤樹書院

問4.これを同じく説いた『稽古談』の著者は誰か。次のa~dから1つ選べ
 a.海保青陵  b.工藤平助
 e.佐久間象山 d.林子平」


(答:イ政談、あ太宰春台、問3a、問4a)〉


〈2014明大・全学部前期

問4 下線部(イ)荻生徂徠に関する説明として正しいものを、次のA・Dのうちから1つ選選べ。

 A 京都堀川に塾を開き、古義学を唱えた。

 B 岡山藩主池田光政に仕え、藩政改革を推進した。
 C 『政談』を著し、武士土着論を唱えた。
 D 大坂に懐徳堂を設立し、町人に儒学を教授した。

(答:C ※A×伊藤仁斎、B×熊沢蕃山、D×中井竹山)〉


〈2013早大・政経

『政談』の著者が唱えた原典解釈の方法を何というか。」

(答:古文辞学)〉


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曇徴と観勒 

2016-12-25 | ベック式!日本史用語集



還暦が来りゃ 鈍行か。

(絵の具紙)(高句麗僧・曇徴)(済僧・勒・暦法天文地理)


[句意]僕は高級な緞帳を百巻持ってる、という文字通りの句。「もってる」は「天文」を倒置させたゴロ。曇徴と観勒についての紛らわしい正誤問題が頻出しているので、「百巻もってる」を覚えるだけでもかなり役立つはず。「緞帳」は劇場や学校体育館の舞台などにある厚地の模様入り幕のこと。


[ポイント]

1.高句麗曇徴が、絵の具の製法を、百済観勒暦法天文地理の書を伝える。

[解説]

1.曇徴(生没年不詳)は、高句麗僧。推古朝の610年来日。絵の具の製法を伝えた。

2.観勒(生没年不詳)は、百済僧。推古(すいこ)朝の602年来日。暦法天文地理の書を伝えた(604年、初めて暦を使用)。

 

〈2016立命館大・全学部

〔2〕日本最古の本格的な伽藍寺院である飛鳥寺の造立には、朝鮮半島から遣わされた工人集団が重要な役割を果たしたが、この時期に渡来した僧も、8.仏教とともに新しい知識や技術を伝えた。また、日本から派遣された遣隋使に随行した9留学生や学問僧は、帰国後日本の新しい国家体制の構築に貢献することになった。

問i 下線部8に関連して、高句麗から渡来し、紙・墨や絵の具の製法を伝えたとされる僧は誰か。もっとも適当な僧の名を答えよ。

問j 下線部9に関する説明として、適当でないものを下から一つ選べ。


 あ 学問僧として遣隋使に随行した南淵請安は、中臣鎌足や中大兄皇子らに大陸の知識を伝えたとされる。

 い 留学生として遣隋使に随行した高向玄理は、大化の新政権に参画したが、のち遣唐使として再び大陸に渡り、客死した。
 う 学問僧として遣隋使に随行した観勒は、暦や天文の書をもたらし、また僧正に任じられて僧尼の教導にあたった。
 え 学問僧として遣隋使に隨行した旻は、孝徳天皇のもとで国博士の任につき、また十師の一員となった。」

(答:i曇徴、jう×観勒は百済から来日した僧 ※え〇の「十師」は僧尼の統制のため10人の高僧を任じたもの)〉

〈2014明大・農(食料環境政策)

問4 下線部(ア)高句麗に関連して、高句麗と周辺諸国との関係について記述した文章として最も適切なものを一つ選んで、その記号を解答欄にマークせよ。

 A 朝鮮半島北部におこり、次第に領土を広げ、313年には楽浪郡を滅ぼした

 B 5世紀後半に南下策を進めると、朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために、倭国と争うことになった。
 C 高句麗の僧観勒は日本に彩色・紙・墨の技法を伝えたとされている。
 D 高句麗との戦いにより、倭人はいやおうなしに騎馬技術を学び、5世紀になると、日本列島の古墳の副葬品にも馬具が現れるようになった。
 E 隋による高句麗への侵攻が始まったのは7世紀中葉のことである」

(答:D ※A発生は現中国東北部で朝鮮半島ではない、E.高句麗侵攻は598~614年)〉

〈2013青山学院・文

602年に百済僧[ ア ]によって暦本・天文地理書・遁甲方術の書などがもたらされ、暦法が教授されてからであった。

問3.空欄[ ア ]に入る人物は誰か。その名前を漢字で記しなさい。

(答:観勒)〉

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応神朝(4~5世紀)の渡来人3氏

2016-12-25 | 『新世界史頻出年代暗記』



わに革あちゃま柚子張った。

漢氏(やまとのあやうじ)・阿知使主(あちのおみ))(王仁(わに)・西文氏(かわちのふみうじ))(氏(はたし)・月君(ゆづきのきみ))

[句意]東のあっちの方で鰐氏がバタンキュウとくたばっている、というナンセンスの句。「鰐」は、は虫類のワニ。「鰐氏」は「王仁」と「西」を複合させたゴロです。出題されるとすれば全部漢字で示されるでしょうから、漢字を見分けるだけでよいので、「東」(やまと)・「西」(かわち)および「弓月」(ゆづき)の読みはあえて使っていません。「鰐氏がバタンキュウ」だけでも十分使えると思います。

[ポイント]
1.応神期(4~5世紀)の主な渡来人は阿知使主東漢氏の祖)・弓月君秦氏の祖)・王仁西文氏の祖)の3人である。

[解説]

1.東漢氏の祖の阿知使主は、応神朝帯方郡(たいほうぐん)を経て渡来したという説話がある。後漢の霊帝の曾孫(そうそん)だという。文筆に秀でており、史部(ふひとべ)を管理した。

2.秦氏の祖の弓月君応神朝百済から渡来したという説話がある。秦の始皇帝の曾孫という。養蚕(ようさん)・機織(はたおり)を伝えた。


3.西文氏の祖の王仁は、応神朝百済から渡来したという説話がある。漢の高祖の末裔(まつえい)という。論語10巻・千字文(せんじもん)(書道の手本となった漢字の初級教科書)1巻を伝えた。


〈2016立命館大・全学部

問a 下線部1の人物王仁を祖とする渡来系氏族として、もっとも適当なものを下から一つ選べ。

 あ東漢氏 い西文氏 う秦氏 え百済王氏」

(答:い)〉

〈2015関西大・全学部

(B)漢字や儒教の経典は5世紀頃に渡来人によって伝えられた。埼玉県の稲荷山古墳からは、倭人の名と倭国の地名を漢宇で記した鉄剣が出土している。阿知使主を祖とする( 2 )氏は、ヤマト政権の記録や出納をつかさどり、漢宇の使用を定着させていった。」

(答:2東漢)〉

〈2013東京家政大

 次の渡来人系の氏についての説明のうち、内容が正しいものはどれか。

 1.秦氏の祖先は、応神朝に百済から渡来した弓月君だといわれている。
 2.東漢氏の祖先は、応神朝に百済から渡来した王仁だといわれている。
 3.西文氏の祖先は、応神朝に百済から渡来した阿知使主だといわれている。
 4.坂上氏の祖先は、応神朝に百済から渡来した曇徴だといわれている。」

(答:1)〉

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□近世361.古学1(3派の名称)◇C

2016-12-23 | 『新世界史頻出年代暗記』



声楽講義古文辞


古文辞学(こぶんじがく)派)(聖学(せいがく)・古義学(こぎがく)派)(古学



[ポイント]

1.古学聖学古文辞学派古義学派の3系統に分かれる。

[解説]

1.17世紀後半になると、朱子学を批判し、朱子以前の孔子孟子の古典に直接立ち返ろうとする古学派がはじまった。

2.山鹿素行(1622~85)は朱子学を批判し、直接古典を学ぶ新しい学問としての聖学(聖教)を唱えた。これが朱子学に対する古学のはじまり。


3.伊藤仁斎(じんさい)(1627~1705)・東涯(とうがい)(1670~1736)父子は、『孟子』・『論語』を重視する古義学を唱えた。


4.荻生徂徠(1666~1728)は古義学に対抗し、古語(古文辞)の本来の意味をあきらかにする古文辞学を唱えた。


〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)

Ⅲ 次の短文J・Kは、江戸時代の文化を担った人びとについて叙述したものである。よく読んで、あとの問いに答えなさい。

 J.古学派の儒学者。会津の人。朱子学・神道・兵学に通じ、実用の学を提唱して朱子学を批判し、自らb実学と呼んだ。幕府により赤穂へ配流された。著書c『聖教要録』は、「聖人とは何か」から説き起こし、武士日用の道徳を主張して儒学古典の朱子学的解釈を批判している。もう一つの著書d『中朝事実』は、中国崇拝を廃して日本主義を主張し、「中華」にたいする日本の呼称も示した。


〔語群〕

 1南 2陽明 3聖 4理
 5『自然真営道』 6『国意考』
 7『古事記伝』 8『玉くしげ』

K a大坂の町人の家に生まれる。『論語』『孟子』などの原典の研究を通じて直接聖人の道を正しく理解しようとし、b古義学をとなえ、京都c堀川に塾を創設した。政治と道徳を区別する学風を形成した。著書にはd『童子問』などがある。

〔語群〕

 1江戸  2京都 3陽明 4心
 5下賀茂 6丸太町
 7『万葉考』 8『玉勝間』


問1 K・Jの各文章の下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。K・Jそれぞれについて、誤っている語句をa~dの中から1つずつ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、それぞれの語群から1つずつ選びなさい。」


(答:Jb3、Ka2 ※Jは山鹿素行、Kは伊藤仁斎)〉


〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン

 古代の聖賢にたち帰ることを主張した[ 7 ]は、伊藤仁斎らとともに古学派と呼ばれる」

(答:山鹿素行)〉

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土師器と須恵器

2016-12-22 | 『新世界史頻出年代暗記』


恥かく弥生 須恵挑戦。

古墳時代)(土師器(はじき)・弥生系)(須恵器(すえき)・朝鮮系・色)


[ポイント]

1.古墳時代は前代弥生文化の系譜の土師器朝鮮半島から伝えられた須恵器が用いられた。

[解説]

1.古墳時代前期から中期の初めまでの土器は、弥生土器の系譜を引く赤焼き土師器が用いられた。

2.5世紀になると朝鮮半島から登り窯で焼かれる、硬質灰色須恵器の製作技術が伝えられ、土師器とともに用いられるようになった。


〈2013青山学院・文教育経済法経営など

正文を問う4択の1誤文として(3)朝鮮半島から硬質の土師器の技術が伝えられ、それまでの須恵器とともに用いられるようになった。」(朝鮮半島から伝わったのは須恵器)〉

〈2012立教大・全学部

正文を問う4択の1誤文として b.5世紀には登り窯で焼かれた土師器が作られるようになる(×登り窯で焼かれたのは須恵器)〉

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朱子学

2016-12-21 | ベック式!日本史用語集



聖火らガボン暴行縛り。


(藤原惺窩(ふじわらせいか))・(林羅山(らざん)・林鵞峰(がほう)・林鳳岡(ほうこう))(山(しばのりつざん))


[ポイント]

1.朱子学京学派は、藤原惺窩→林羅山→林鵞峰→林鳳岡→柴野栗山とつづく。

[解説]

1.江戸時代初期の文化は、桃山文化を受け継いだが、幕藩体制が安定するにつれて、寛永期(1624~1643年)前後に新しい傾向を示し始めた。学問では、室町時代に五山の禅僧が学んでいた朱子学を中心に、儒学がさかんになった。朱子学は君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる学問であったため、幕府や藩に受け入れられた。

2.藤原惺窩(1561~1619)は、京都相国寺(しょうこくじ)の禅僧であったが、慶長の役の際に連行された朝鮮の学者姜沆(きようこう)に学び、還俗して近世朱子学の祖となる。この系統は京都に興ったので京学と呼ばれ、家康に招かれて進講した。


3.その門人の林羅山(道春(どうしゅん))(1583~1657)は京都の生まれで浪人の子。家康に用いられ、羅山の子孫(林家)は代々儒者として幕府に仕えて、学問と教育を担った。家康~家綱4代の侍講で、上野忍ヶ岡に家塾をを開く。


4.その子林鵞峰(1618~80)は、林家を継ぎ、幕政に参与した。日本史に通じ、父羅山と『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』を共著。


5.林信篤(鳳岡)(1644~1732)は、家綱~吉宗5代の侍講で、綱吉の時、聖堂学問所の初代大学頭(だいがくのかみ)となる。


6.柴野栗山(1736~18079は、讃岐国の農家に生まれ、18歳で江戸に出て林家4代目林榴岡(りゆうこう)(信充(のぶみつ))に入門、松平定信に招かれ、寛政異学の禁を建議し、実行した。

 

〈2016慶大・法

 17世紀への転換期、冷泉家の出身で、京都相国寺の禅僧となり朱子学を学んだ儒学者は、慶長の役の際に連行された朝鮮王朝の文臣である[ 30 ]と交流を結び、その学問を体系化して京学派を形成した。その門人には、徳川家康に仕えた林羅山や、私塾・春秋館などを建てた[ 31 ]がいる。さらに、[ 31 ]に学び、加賀の前田氏に仕えた後、[ 32 ]の侍講をつとめ、『武徳大成記』の編纂にも携わった儒学者のもとからは、多くの優れた門人が輩出された。」

(答:30姜沆、31松永尺五、32徳川綱吉 ※原問には83項の選択肢あり。なおこの儒学者は藤原惺窩)〉


〈2016早大・文化構想

 江戸時代になると、将車綱吉の時、上野忍ヶ岡にあった林家の孔子廟と私塾が神田湯島に移され、いわゆる湯島聖堂と学問所が発足した。そして、[ F ]が大学[ B ]に任命され、以後、この職は林家の世襲となる。

問2 空欄Bに該当する語句はどれか。1つ選べ。


 ア卿 イ頭 ウ正 エ帥 オ督


問11 空欄Fに該当する人物は誰か。1つ選べ。


 ア林羅山 イ林鳶峰 ウ林鳳岡
 エ林子平 オ林述斎」


(答:問2イ、問11ウ)〉


〈2016明大・政経〉

 11代将軍家斉のときに老中首座となった松平定信は、エ儒学のうち朱子学を正学とし、それ以外の学派を異学として聖堂学問所で教授することを禁止した。

問4 下線部エについて、この施策を建言した儒学者は誰か。A~Eから一つ選べ。


 A荻生徂徠 B青木昆陽 C太宰春台

 D林信篤  E柴野栗山」

(答:E)〉


〈2012首都大学・前期

 17世紀前半期の朱子学は幕府や藩に受け入れられた。この時期の朱子学者の一人に,京学派の祖であり、近世朱子学の祖とも呼ばれる[ ウ ]が挙がる。その門人である林羅山(道春)は徳川家康に用いられ,この子孫は代々儒者として幕府に仕えている。

問1 文中の[ ウ ]に入る語句を答えなさい。」


(答:ウ.藤原惺窩)〉


南は行けん 谷の山。
(南村梅軒(みなみむらばいけん)・海南学派)(時中(たにじちゅう))(野中兼山(のなかけんざん)・山崎闇斎(やまざきあんさい))

[ポイント]
1.朱子学の海南学派(土佐南学)は、南村梅軒谷時中野中兼山山崎闇斎とつづく。

[解説]

1.戦国時代(室町末期)に土佐南村梅軒(生没年不詳)によってひらかれたとされる朱子学の一派南学(海南学派)は、谷時中(1598~1649)に受け継がれた。その系統から野中兼山(1615~63)・山崎闇斎(1618~82)らが出た。

2.南村梅軒は、大内氏の家臣。谷時中らを育て、南学の基礎をつくった。


3.谷時中は、土佐の生まれで浄土真宗の僧侶の子。仏門に入り、のち還俗して時中と改め儒者となる。土佐に興った南学を大成した実質的な祖。門からは野中兼山・山崎闇斎らを輩出。


4.野中兼山は、谷時中に朱子学を学ぶ。土佐藩の執政として藩政改革に尽力するも、保守派による中傷に敗れる。


5.山崎闇斎(1618~82)は、京都に儒者として塾を開き崎門(きもん)学派を形成、会津の保科正之に招かれ、のち闇斎は神道を儒教(朱子学)流に解釈して垂加神道を説いた。垂加は闇斎の別号。

6.なお室町時代の朱子学派の一つに同じ南学の名を持つ薩南学派がある。薩摩に招かれた五山(臨済宗)の禅僧、桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)(1427~1508)が朱子学を講じたのに始るもの。しかし、この派は江戸時代に入り衰退した。

〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)

G 南学派の儒学者で神道家。a京都の鍼医の息子。土佐の人で南学の実質上の祖といわれるb谷時中に学び。江戸で保科正之に献策する。神道と儒教を融合したc垂加神道を創始した。d『群書類従』と題された読書記録が残る。

問1 Gの下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。A~Lそれぞれについて、誤っている語句をa~dの中から1つ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、語群から1つ選びなさい。


〔語群〕

 1大阪 2江戸  3本居宣長
 4新井白石 5吉川 6度会
 7『文会筆録』 8『集義和書』」


(答:Gd→7)〉 


〈2016慶大・法〉        

 このように江戸時代になると、外交文書の作成の必要などもあり、徳川幕府に登用される儒学者が現れた。それとともに、儒学者の意見に耳を傾け、それを統治に活かそうとする大名も登場した。例えば会津藩主の保科正之は、神道とともに朱子学を高く評価し、自らの政治理念に取り入れた。また、谷時中に学んだ[ 33 ]は、土佐藩の家老として、新田開発や殖産興業に取り組んだ。

(答:33野中兼山 ※原問には83項の選択肢あり)〉

〈2014明大・全学部前期

 東アジアの17世紀から19世紀において、武家政権をトップにもち、世襲の身分制度に依拠した江戸時代の日本社会では、儒教はその本質から離れ幕藩体制の都合にあわせ、ゆがんだ形で解釈された。たとえば、歴史書『本朝通鑑』を編纂した[ 1 ]は、幕府内では僧侶として位置づけられていたし、会津藩主保科正之の信任を得た[ 2 ]は、吉川惟足から神道を学び、朱子学と融合させた垂加神道を説き、江戸時代を通じて影響力をもった。しかし、中国や朝鮮ではこのようなことはおよそ考えられないのである。

問1 空欄1に入る人名として正しいものを、次のA~Dのうちから1つ選べ。


 A藤原惺窩 B木下順庵
 C林羅山  D中江藤樹


問2 空欄2に入る人名として正しいものを、次のA~Dのうちから1つ選べ。

 
 A貝原益軒 B山崎闇斎
 C山鹿素行 D室鳩巣」


(答:問1C、問2B)〉


〈2013早大・文化構想学部

 室町時代には、有職故実・注釈研究がいよいよ盛んになり、一条兼良らが活躍した。応仁の乱で室町幕府が衰退し、京都が一時荒廃するなど、中央への求心力が減退すると、貴族や僧侶等のなかには、地方へ赴く者も現れた。彼らによって、c戦国時代には学問やさまざまな文化が地方にもたらされることとなった。

問5 下線cに関連して述べた文のうち正しいものはどれか。1つ選べ。

 ア 大内氏の城下町である萩には、雪舟など多くの文化人が集まった。
 イ 桂庵玄樹は、朱子の『大学章句』を土佐で刊行した。
 ウ 南村梅軒は吉良氏に招かれて儒学を講じ、薩南学派の祖となった。
 エ 下野国の足利学校は、宣教師によって「坂東の大学」としてヨーロッパに紹介された。
 オ 連歌を地方に広めた山崎宗鑑は、弟子とともに『水無瀬三吟百韻』を詠んだ。」

(答:エ ※ア×萩ではなく山口、イ×薩摩で刊行、ウ×土佐南学の祖、オ×宗祇)


〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン

 下線部B(南学)について、つぎのア~エのなかから、南学の系統ではない人物を一人選び、その記号を解答欄にマークせよ。

 ア山崎闇斎 イ野中兼山

 ウ谷時中  エ木下順庵」

(答:エ 木下順庵)〉

 



ボクも粗いよ 雨窮鼠。


木門派(もくもんは))(下順庵(じゆんあん)・新井白石)(室巣(むろきゅうそう))(雨森(あめのもり)芳洲(ほうしゅう))


[句意]僕も気の荒いハトで通称“雨の森”に棲んでいる、というハト君が友人に続いて自己紹介の句。


[ポイント]

1.木門派木下順庵にはじまり、おもな弟子に新井白石室鳩巣雨森芳洲の3人がいる。

[解説]

1.木下順庵(1621~98)は、初め京都で門人を教育。のち加賀の前田綱紀に招かれ、晩年幕府の儒官となる。5代将軍徳川綱吉の侍講。

2.新井白石(1657~1725)は、木下順庵門下で、6代将軍家宣・7代将軍家継に仕え、正徳の治を行った。


3.室鳩巣(1658~1734)は、医師の子として江戸に生まれる。木下順庵門下で親友の新井白石の推薦で幕府の儒者に取り立てられる。8代将軍吉宗の侍講。


4.雨森芳洲(1668~1755)は、医師の子、生国は近江あるいは京都とも。順庵の推挙で対馬藩に仕え朝鮮外交を担当した。中国語と朝鮮語に巧みで、通詞として日朝交流に尽力。通信使の待遇簡素化については貿易立国の対馬藩の立場から新井白石に反論した。朝鮮語通詞養成所を設置するなど、後進教育にもつとめた。

 

〈2016明大・商〉

 また、ともすると江戸幕府は徳川将軍を「日本国王」と称したり、朝鮮使節の待遇を簡素化するなどして、朝鮮を相対的に低位の国として位置づけようと画策したが、その一方でe【1雨森芳洲 2新井白石 3貝原益軒 4室鳩巣 5木下順庵】(1668~1755)のように善隣外交の立場からこうした動向に反発する人物も存在した。」

(答:e1雨森芳洲)〉


〈2016関西学院大学・全学部

問8 次の文章について、a・bともに正しい場合はアを、aが正しくbが誤りの場合はイを、aが誤りでbが正しい場合はウを、a・bともに誤りの場合はエをマークしなさい。

 a.朱子学者の木下順庵は、加賀の前田綱紀に招かれた。新井白石や室鳩巣らは順庵の門人である。

 b.前野良沢や杉田玄白は、オランダ語訳の解剖書を訳述して『解体新書』を刊行した。その苦心談は杉田玄白の『蘭学事始』に記されている。」

(答:アa〇、b〇)〉


〈2016早大・教育〉

問6 空欄[徳川吉宗]の政策でないのはどれか。

 ア足高の制

 イ公事方御定書の制定
 ウ蝦夷地の調査
 エ漢訳洋書の輸入緩和
 オ室鳩巣の登用」

(答:ウ ※田沼意次の政策)〉

 

〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン

 下線部B(南学)について、つぎのア~エのなかから、南学の系統ではない人物を一人選び、その記号を解答欄にマークせよ。

 ア山崎闇斎 イ野中兼山
 ウ谷時中  エ木下順庵」


(答:エ 木下順庵)〉


〈2012立大・文学部

6.雨森芳洲は木下順庵門下の儒者で、当時朝鮮貿易と銀の産出で豊かな財力を誇り、優秀な儒者を求めていた対馬藩に仕官した。しばらく長崎で中国語を学んだ後対馬に赴任し、朝鮮関係の実務を担当した。朝鮮釜山の日本人居留施設である( ト )にも滞在して、通交の実態についての理解を深めた。第6代将軍〈 そ 〉の就任を祝う朝鮮通信使を迎えるに当たって、〈 そ 〉の侍講で芳洲の同門の兄弟子でもある( チ )は、強引に改革を進めた。芳洲は、対馬藩側の立場を主張して( チ )と激しく対立したが、その後も2人の間には親しい交流があった。また、(9)将軍吉宗の就任祝いの通信使が来日した際に、その製述官(書記官)申維翰(しんゆかん)と芳洲は、日朝双方の体面がかかった局面では激しく対立したが、立場を共有する者同士の深い共感もかいま見せている。彼は主著『〈 た 〉』で、正しい相互理解にもとづく真の友好関係の実現を真摯に説いている。

A.文中の空所(ト~チ)それぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。


B.文中の空所〈そ・た〉にあてはまる適当な語句または数字を、それぞれ対応する次のa~dから1つ選べ。


(そ)a.徳川家継 b.徳川家綱

   c.徳川家宣 d.徳川綱吉

(た)a.交隣提醒 b.政談 

   c.大学或問 d.読史余論

C.文中の下線部(9)将軍吉宗に対応する次の問に答えよ。

問9.吉宗に仕えた儒者を、次のa~dから1つ選べ。

 a.野中兼山 b.室鳩巣 

 c.山鹿素行 d.山崎闇斎

(答:ト倭館、チ新井白石、そc.徳川家宣、たa交隣提醒(こうりんていせい)、問9b.室鳩巣)〉


芝伸びた丘閑散と。


(寛政三博士)(尾藤二洲(びとうじしゅう))(柴野山(しばのりつざん)・田寒泉(おかだかんせん))(寛政三博士)

[句意]三博士が微糖を使って栗のお菓子を完成した、という句。  

[ポイント]
1.岡田寒泉柴野栗山尾藤二洲寛政の三博士という。

[解説]
1.儒官に岡田寒泉(1740~1816)・柴野栗山(1736~1807)・尾藤二洲(1747~1813)を任じた(寛政の三博士)。その後、岡田寒泉は代官に転任し、その後に古賀精里(1750~1817)が任ぜられた。学問所は7年後に官立に改められ、昌平坂学問所(昌平黌(しようへいこう))と呼ばれた。

2.岡田寒泉は、1200石の旗本の次男。松平定信により小普請から幕府儒官に抜擢される。松平定信のもとで聖堂の改革に尽力、代官に転じた後も学問所の講師を兼ねるなど、朱子学振興につとめた。

3.柴野栗山は、松平定信に招かれ、寛政異学の禁を建議し、実行した。

4.尾藤二洲は伊予の人。回船業者の子として生まれたが、足を病み家業を継げず、学問を志す。寛政異学の禁時の改革に伴い、町儒者から抜擢され昌平坂学問所の教官となる。寛政朱子学者の中では理論派として知られる。

5.古賀精里は、佐賀藩士の子。京都で朱子学と国学を学び、大阪に塾を開いた後、帰郷し藩校弘道館の教授に就任。その後の1796年、昌平坂学問所の儒官となった。このため三博士は、岡田寒泉の代わりに古賀精里を加えることもある。

〈2016上智大・法(地球)済(営)総人(社福)

 1681年徳川綱吉が生母桂昌院の願いにより、僧亮賢を招き開山させた護国寺は、江戸時代には将軍家の祈願寺であった。しかし、明治以降は一般の人の墓もつくられ、多くの著名人がここに眠っている。(中略)なお近隣には大塚先儒墓所があり、赤穂浪士の義挙をたたえた室鳩巣、( テ )等寛政の三博士の墓がある。立ち寄ってみてもよいだろう。

問12 空欄( テ )に当てはまるもっとも適切な人物は誰か。次の中から1人選べ。


 1浅見絅斎 2松永尺五 3野中兼山

 4柴野栗山 5木下順庵 6佐藤一斎」

(答:4)〉


〈2014明大・国際日本(国際日本)

問4.史料Ⅰ(本居宣長の『玉くしげ』)が著された年に始まった一連の改革の中で、儒学の一学派が正学とされ、それ以外の学派は、異学として湯島聖堂の学問所での教授が禁じられることになった。この時、学問所の儒官となり、寛政の三博士と呼ばれた人物の名として誤っているものを、下記の1~4の中から選びなさい。

 1林述斎  2岡田寒泉

 3柴野栗山 4尾藤二洲」

(答:1)〉


〈2013早大・文化構想:「

問8 下線f湯島聖堂の学問所(のち昌平板学問所)で儒官となった、いわゆる「寛政の三博士」のうち2人はどれか。2つ選べ。

 ア柴野栗山 イ尾藤二洲 ウ広瀬淡窓

 エ室鳩巣  オ山県大弐」

(答:ア柴野栗山・イ尾藤二洲)〉


〈2013同志社大・全学部

【設問h】佐賀藩の藩校弘道館の教授をつとめていたが、寛政8年(1796)、幕府の学問所の教官に招かれた人物として適切なものはどれか。次のうちから1つ選べ。

 1.柴野栗山 2.尾藤二洲

 3.岡田寒泉 4.古賀精里」

(答:4)


〈2012立命館大・文系A方式

問j 下線部5柴野彦助・岡田清肋に関連して、これらの人物とともに「寛政の三博士」と称された人物として、もっとも適当な人名を下から一つ選べ。

 あ 尾藤二洲 い 服部南郭

 う 中井竹山 え 安藤昌益」

(答:あ)〉


〈2012中央大・経済


問4 下線部4柴野彦助・岡田清助は柴野栗山と岡田寒泉を指すが、「寛政の三博士」に合まれるもう一人は誰か。解答欄に漢字で書きなさい。」


(答:尾藤二洲)〉 

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漢字使用金石文

2016-12-20 | 『新世界史頻出年代暗記』



エースいないぞ 金石文。


田船山(えたふなやま)古墳(こふん)鉄剣(てっけん)銘(めい)・田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)人物画像(じんぶつがぞう)鏡銘(きょうめい)・荷山(いなりやま)古墳鉄剣銘・上神社七支刀銘(いそのかみじんじやしちしとうめい))(金石文(きんせきぶん))



[ポイント]

1.最古の漢字使用例は江田船山古墳鉄剣銘隅田八幡神社人物画像鏡銘稲荷山古墳鉄剣銘石上神社七支刀銘の4金石文銘。

[解説]
1.隅田八幡神社人物画像鏡銘癸未(きび)443年とすると、「意柴沙加(おしさか)」は漢字(中国の文字)による国語表記の初めとなる。


2.稲荷山古墳鉄剣銘江田船山古墳鉄剣銘にある「獲加多支鹵(わかたける)」大王(おおきみ)は雄略天皇と思われる。


3.稲荷山古墳鉄剣銘は『宋書倭国伝』の記述に対応し、5世紀末にヤマト政権の支配が関東(埼玉)にまでおよんでいたことを裏付ける。


4.江田船山古墳鉄剣銘も、同様にヤマト政権の支配が九州(熊本)におよんでいたことを裏付ける。

5.石上神宮七支刀これだけは百済から贈られたもの。一本の鋼から7つの枝部を鍛造(叩き出)した見事な工芸品。金象嵌(ぞうがん)の年号「泰和四年」は東晋の太和四(369)年とする説が有力。ほかに、南宋の泰始四(468)年、北魏の太和四(480)年などの説がある。

 〈2014慶大・文

次に文章の空欄(M~O)に適当な語句、それぞれ語群の中から選び、1~9の数字を、また語群の中に適当な語句がない場合は0を、解答欄に記入しなさい。

稲荷山古墳出土鉄剣や隅田八幡神社人物画像鏡の銘文には、多くの固有名詞が記されており、前者の( M )、後者の( N )は、倭王権に関係する宮の名称と考えられる。それぞれ年代の表記もあり、隅田八幡神社人物画像鏡に記された「癸未年」は、西暦( O )年とする説が有力である。
 1.難波高津宮 2.意柴沙加宮 3.長柄豊碕宮 4.斯鬼宮 5.小墾田宮
 6.438 7.462 8.471 9.478」
(答:M4,N2、O0→正しくは443年)〉

〈2014同志社大・全(文系)

奈良県天理市に鎮座する石上神宮は、神武天皇が東遷したときに使用した剣を祀ったのが創始と伝えている。仏教伝来まもなくの頃、仏教排斥を主張して、しばしば蘇我氏と衝突したというa【1.大伴氏 2.小野氏 3.物部氏】が祀ったことから同氏の氏神ともされた。神宝の( ア )は鉄製で、身の左右に3本づつ枝が出ており、百済王が倭王のために作ったなどという趣旨の61字の銘文があり、4世紀後半頃の大陸との交渉を示す重要な史料である。
 京都府八幡市に鎮座する石清水八幡宮は、c【7.8世紀 8.9世紀 9.12世紀】半ば頃に、九州の( カ )八幡宮の祭神を勧請したもので、応神天皇・神功皇后ほかを祀る。八幡神は、源氏の氏神となったほか、広く信仰が普及して全国に八幡宮が分布するようになった。後に鎌倉幕府の守護神ともなった鶴岡八幡宮もその一つである。和歌山県橋本市に鎮座する( キ )八幡神社所蔵の人物画像鏡は「癸未年八月」「意柴沙加」など計48文字の銘文があることで有名である。

(答:a3、c8、ア七支刀、カ宇佐、キ隅田)〉

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出現期の古墳

2016-12-18 | ベック式!日本史用語集

東方声援出現期。

 


[ポイント]
1.出現期の古墳は、西日本では前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多い。

[解説]
1.古墳が営まれた3世紀後半から7世紀古墳時代とよび、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、前期(3世紀後半~4世紀)・中期(4世紀末~5世紀)・後期(6~7世紀)に区分している。古墳時代後期のうち、前方後円墳がつくられなくなる7世紀を終末期とよぶこともある。古墳時代の終末期は、政治史のうえでは飛鳥時代にあたる。

2.出現期(古墳時代前期の前半をいう)の古墳のなかで最大の規模を持つものは奈良県の箸墓古墳である。

3.箸墓古墳は墳丘長280メートルの前方後円墳で、やはり出現期のものである岡山県浦間茶臼山古墳(前方後円墳、墳丘長140メートル)や福岡県石塚山古墳(前方後円墳、墳丘長約120メートル)をはるかにしのぐ規模を持つ。


2014明大・文

下線部(ア)古墳について述べた文として正しいものを、次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。
1 6世紀末から7世紀初めには、古墳の造営は終了する。(×6世紀後半が群集墳(円墳まれに方墳)の最盛期で7世紀にも造営されている)
2 6世紀末から7世紀初めには、前方後円墳の造営は終了する。(〇)
3 前方後円墳の造営は、奈良盆地では7世紀終わりまで続く。(×7世紀には前方後円墳がつくられなくなる)
4 前方後円墳の造営にかわって、前方後方墳が造営された。」(×同時に出現しており前後するということはない)

2013早大・文

下線部d初期の古墳群は奈良県南東部の一地域に関連しておりについて。適切な前方後円墳を1つ選び、マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。

(ア箸墓古墳 イ大仙陵古墳 ウ江田船山古墳 エ行田市稲荷山古墳 オ造山古墳)

(答:ア)

2012立教大・全学部

これ(古墳時代)に関する説明として正しくないのはどれか。
a.群馬県渋川市黒井峯遺跡は古墳時代の集落遺跡である(〇)
b.5世紀には登り窯で焼かれた土師器が作られるようになる(×登り窯で焼かれたのは須恵器)
c.前期の古墳においては宗教的な副装品が見られるが、中期になると武器類が多くなる(〇)
d.奈良県桜井市にある纏向遺跡は古噴出現期の大遺跡である(〇纏向遺跡の中にある最大古墳が箸墓古墳)〉

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一揆

2016-12-11 | ベック式!日本史用語集

異論排除だ抗議さえ。

 1681年      代表越訴型一揆 上野 義民 磔左衛門 



下総上野恐ろしい。


総(しもふさ)の佐倉惣五郎)(野(こうずけ)沼田の茂左衛門)(代表越訴型一揆)


[ポイント]

1.代表越訴型一揆の例としては、下総佐倉惣五郎上野磔茂左衛門の一揆がある。

[解説]

1.百姓は村請制のもとで年貢や諸役など重い負担のもとにおかれたが、幕府や藩の支配が原因で百姓の暮らしや生産が大きくそこなわれた時には、村を単位に領主に対し広い範囲で結集し、要求をかかげてしばしば直接行動をおこした。これを百姓一揆とよぶ。

2.17世紀後半からは村々の代表者が百姓全体の要求をまとめて領主に直訴する一揆(代表越訴型一揆)がふえた。下総佐倉の佐倉惣五郎上野沼田の磔茂左衛門のように、一揆の代表者が義民として伝説化することが多かった。

〈2016立教大・文

問11.下総国で、藩主による重税を将軍に訴え出たとされる人物は誰か。次のa~dから1つ選べ。

  a佐倉惣五郎 b佐野政言

 c長谷川平蔵 d磔茂左衛門」

(答:a)〉


〈2014明大・商(商)

17世紀の初期には土豪をまじえた武力蜂起や逃散などまだ中世の一揆のなごりがみられたが、17世紀後半からは村々の代表者が百姓全体の要求をとりまとめ領主に直訴する代表越訴型一揆が増え、しだいに藩領全域におよぶ惣百姓一揆も多発するようになっていった。このような一揆ではC【1伊豆 2下総 3上野 4常陸 5安房】の磔茂左衛門のように代表者が義民として伝説化することも多かった。」

(答:3)〉


〈2014明大・国際日本(国際日本)

問2.下線部(1)百姓町人大勢徒党して、強訴濫放に関して、近世の農民の反抗運動について述べた以下の文章A~Dについて、その正誤の組み合わせとして正しいものを、下記の1~4の中から選びなさい。

 A:地域の村役人・村人が連帯して、大名や幕府に強訴する惣百姓一揆は、18世紀末から起こるようになった。

 B:村役人らの富農層の不正を追及し、領主に訴えるなどした、村落内部での村政改革運動である村方騒動は、18世紀後半には沈静化した。
 C:村役人らが村人を代表して、領主の苛政を将軍に直訴する代表越訴型一揆は、佐倉惣五郎や磔茂左衛門などの義民伝説を生んだ。
 D:在郷商人の指導により、1000を超える村の百姓が連帯して、領主や特権商人の流通独占に反対する合法的な訴訟を起こす国訴は、1823年の摂津・河内のものが最初とされている。

 1 A〇、B×、C〇、D〇

 2 A×、B〇、C×、D〇
 3 A〇、B〇、C×、D×
 4 A×、B×、C〇、D〇

(答:4 ※A×17世紀末の誤り、B×18世紀後半から頻発する)〉

非難だ嫌そう 行くよ尚!

  17世紀 代表越訴型一揆

      18世紀 総百姓一揆

                            19世紀 世直し一揆 

〈2013学習院大学・経済:

 前橋より北に位置する沼田には、真田氏の沼田藩があった。藩主真田信利は村々に重い年貢を課し、農民はこれにあえいでいた。この窮状を見かねた沼田藩月夜野の農民杉本茂左衛門は、1681(天和元)年幕府に直訴(越訴)をし、これが受け入れられた。真田氏は改易となったが。茂左衛門は磔にされた。この茂左術門は、下総の佐倉惣五郎などと同様に、[ 6 ]としてまつられ地域に伝承されている。」

(答:6義民)

 

無限品数文 蒼白じゃ。 


陸奥元文(げんぶん)一揆)(信濃嘉助(かすけ)騒動)(惣百姓(そうびゃくしょう)一揆)化す


[ポイント]

1.惣百姓一揆の例としては、嘉助騒動元文一揆がある。

[解説]

1.17世紀末になると、総代表が越訴する形態から、平百姓が全面にでてきて、村全体が参加し、広域にわたる大規模な惣百姓一揆が各地でみられるようになった。ほとんど全藩的規模のものを全藩一揆ともいう。一揆に参加した百姓らは、年貢の増徴や新税の停止、専売制の撤廃などを要求し、藩の政策に協力する商人や村役人の家を打ちこわすなどの実力行動にも出た。

2.幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることもあったが、多くは武力で鎮圧し、一揆の指導者を厳罰に処した。しかし、きびしい弾圧にもかかわらず、百姓一揆は増加し続け、凶作や飢饉の時には、各地で同時に多発した。


3.その最も早い例が1686(貞享3)年の信濃松本藩嘉助騒動がある。その他大規模なものとしては、1738(元文3)年の陸奥磐城平藩元文一揆があげられる。


 〈2016明大・農〉

問10 下線部キ百姓一揆に関連して、百姓一揆について記述した文章として適切でないものを一つ選べ。

 A 一揆の連判は、首謀者を不明確にし、また団結の意味をこめてつくられた。

 B 代表越訴型一揆の例として、下総佐倉の佐倉惣五郎や上野沼田の磔茂左衛門の指導によるものが知られている。
 C 全藩一揆の例として、陸奥磐城平藩の元文一揆などがある。
 D 百姓一揆は江戸時代を通じて約3,200件あったことが判明しているが、元禄期以降にとくに頻発するようになった。
 E 百姓一揆の要求内容は、17世紀には検地や重税反対が多かったが、18世紀になると年貢増徴・新税賦課や専売制に反対するものが増えていった。」

(答:D×とくに頻発するのは「享保期」以降)〉

 



カモン世直し グン去ろう。


(三河加茂(かも)一揆・世直し)(1836甲州郡内(ぐんない)騒動・幕府領)


[ポイント]

1.天保期の大規模一揆では、ともに幕府領でおきた、三河加茂一揆世直しをうたう)と甲州郡内騒動が知られる。

[解説]

1.三河加茂一揆と甲州郡内騒動郡内一揆・甲州騒動)は、天保の飢饉中の1836(天保7)に、領主に米価引き下げを要求して発生。この年の飢饉はとくにきびしく、両地方では米不足が深刻化していた。郡内騒動は約80カ村1万人、加茂一揆は約 240カ村1万2000人におよぶ百姓の一揆であった。ともに幕領で生じ、とくに加茂一揆はその指導者は取り調べに対して世直しを口にした先駆的な一揆であるなど、幕府への影響は大きかった。

2.世直し一揆は、幕末・明治初年に頻発した、世直しを掲げる百姓一揆・農民一揆をいう。貧農・小作人が、土地(質地など)の返還、高利貸商人およびかれらと結託(けったく)する村役人=在郷商人を攻撃するもの。幕末の開国後にもっとも盛行した。

 

 

 

〈2016立教大・現心社コミュ福

 

 天保の飢饉の際には、1836年に( ヌ )と呼ばれる甲斐国の一部から( ヌ )騒動が発生し、また、( ル )国で発生した加茂一揆では約1万人の農民が酒屋・米屋を襲った。」

(答:ヌ郡内、ル三河)〉


〈2014早大・教育:

 

「下線部g個別領主の支配領域を越えた広域的な民衆運動についての説明で、誤っているものはどれか。

 

 ア.合法的な訴願の内容はおもに商品の自由売買を求めるものであった。
 イ.合法的な訴願運動は、村役人など上層の百姓の主導のもとで進められた。
 ウ.こうした運動の背景には、商品経済の活発化があった。
 エ.世直し一揆は、天保期にもっとも高揚した。
 オ.世直し一揆では、激しい打ちこわしをともなった。」

(答:エ×その先駆三河加茂一揆などは天保期だが、世直し一揆の高揚期は幕末(ピークは慶応期)である)〉


〈2014立大・文

問1.これ1)たび重なる凶作により引き起こされた飢饉に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.1732年の凶作は、天候不順のなか、稲の害虫が発生したために引き起こされた

 b.1782年の冷害から始まった凶作は、翌年の富士山の大噴火が重なって、東北地方を中心に多数の餓死者を出した
 c.1830年代には、米の収穫が例年の半分以下となる凶作が発生した
 d.飢饉をきっかけに、1836年には甲斐国郡内地方などで大規模な一揆が起こった」

(答b×富士山→浅間山)〉

 


 

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江戸時代の4大飢饉(年代順)

2016-12-09 | ベック式!日本史用語集



[ポイント]

1.江戸時代の4大飢饉は寛永の飢饉→享保の飢饉→天明の飢饉→天保の飢饉。

[解説]

1.寛永の大飢饉(1642~43年)。冬から春にかけて、全国で飢饉となる。飢饉は8年前から断続的に起きており、幕府は農業再建策を発表する。

2.亨保の大飢饉(1732年)。西日本一帯が天候不順の上、いなごうんかが大量に発生し、稲を食いつくして大凶作となり、全国におよぶ飢饉となった。このため民衆の暮らしは大きな打撃を受け、江戸では翌1733(享保18)年に、有力な米問屋(こめといや)が米価急騰の原因をつくったとして打ちこわしにあった。


3.天明の大飢饉(1782~87年)。1782(天明2)年の冷害からはじまった飢饉は、翌年の浅間山の大噴火をへて数年におよぶ大飢饉となり、東北地方を中心に多数の餓死者を出した。このため全国で数多くの百姓一揆がおこり、江戸や大坂をはじめ各地の都市では激しい打ちこわしが発生した。蘭医の杉田玄白は、その編著『後見草(のちみぐさ)』で1787年にこの飢饉を記録している。


4.天保の大飢饉(1832~39年)。天保年間の1832~33(天保3~4)年の冷害で、収穫が例年より半分以下の凶作となり、全国的に米不足を招いて、きびしい飢饉にみまわれた。農村や都市には困窮した人びとが満ちあふれ、百姓一揆・打ちこわしが続発したが、幕府・諸藩はなんら適切な対策を立てることができなかった。1836(天保7)年の飢饉はとくにきびしく、そのため、もともと米が不足していた甲斐国郡内地方や三河国加茂郡で一揆がおこった。郡内騒動は約80カ村1万人、加茂一揆は約 240カ村1万2000人におよぶ百姓の一揆であった。ともに幕領で生じた大規模な一揆であり、幕府への影響は大きかった。大坂でも飢饉の影響は大きく、餓死者があいついだ。しかし、富裕な商人らは米を買い占めて暴利を得る一方、大坂町奉行は窮民の救済策をとることもなく、米不足にもかかわらず大坂の米を大量に江戸へ回送していた。これを見た大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎(1797~1837)は、1837(天保8)年に、大塩の乱を起こした。


〈2016同志社大・全学部:「

【設問カ】江戸時代には冷害・噴火など天災を主因とする飢饉が発生したが、以下の4つの飢饉について、その番号を起こった時期の古い順に並べよ。

 1.享保の飢饒 2.天保の飢饉

 3.天明の飢饉 4.寛永の飢饉

(答:カ4→1→3→2)〉


〈2016立教大・現心社コミュ福:「

4.18世紀から19世紀は小氷期と呼ばれる寒冷な時代で、しばしば大規模な飢饉に見舞われた。なかでも1732年に長雨やうんかの害により発生した( へ )の飢饉、1782年の冷害やその翌年の( ト )の大噴火などによって引き起こされた天明の飢饉、1830年代前半の長期にわたる天候不順により引き起こされた天保の飢饉は三大飢饉と呼ばれている。

 飢饉とこれに起因する一揆や打ちこわしは幕府の体制や政策に大きな影響を与えた。天明の飢饉は幕政の改革を進めていた田沼意次の権勢に影響を与え、彼は将軍徳川( チ )が死去した1786年に失脚した。その後老中に就任した( リ )藩主松平定信は寛政の改革と呼ばれる改革政治を行った。

 天保の飢饉の際には、1836年に( ヌ )と呼ばれる甲斐国の一部から( ヌ )騒動が発生し、また、( ル )国で発生した加茂一揆では約1万人の農民が酒屋・米屋を襲った。大坂では1837年に元奉行所の役人で、陽明学を講じていた大塩平八郎が米を買い占める富商を襲撃する事件が発生した。その後、越後柏崎では大塩門弟と称する国学者( ヲ )が陣屋を襲撃したほか、各地で大塩に共嗚する百姓一揆が続発した。19世紀前半には、こうした国内問題に加えて対外問題もあいまって、幕府の弱体化が進んだ。この事態に対処するために老中( ワ )を中心に天保の改革と呼ばれる改革が実施されたが、充分な効果をあげることはできなかった。」

(答:ヘ享保、ト浅間山、チ家治、リ白河、ヌ郡内、ル三河、ヲ生田万、ワ水野忠邦)〉


〈2015早大・社会科学:「

問8 下線部7大塩平八郎が主導したに関する記述として、不適切なものはどれか。2つ選べ。

 イ 天明の飢饉により、大坂市中に死者が続出した。

 ロ 大坂町奉行所は、大坂の米を大量に江戸へ回送した。
 ハ 蜂起には家塾洗心洞の門弟が動員された。
 ニ 大塩は蔵害を売り払って貧民を救済し、彼らに挙兵に応じるように呼びかけた。
 ホ 1年後、国学者の生田万が大塩門弟と称して挙兵した。」

(答:イ×天明→天保、ホ×1年後→その年)〉


〈2015早大・人間科学:「

問7 空欄2は、浅間山の噴火や長雨などが重なり『凶荒図録』にその惨状が描かれた凶作のことである。該当する語句はどれか、1つ選べ。

 ア寛永の飢饉 イ天保の飢饉

 ウ寛正の飢饉 エ享保の飢饉
 オ天明の飢饉」

(答:オ)〉


〈2015関西大・済文社会など2月3日実施:「

問10 これは、『後見草』の一節で、東北地方を襲った飢饉の悲惨な様子が記されている。この書物の編著者は、若狭国小浜藩の藩医で、日本最初の翻訳解剖書の訳者として知られている。その人物は誰か。

 ア山脇東洋 イ桂川甫周 ウ杉田玄白


〈2014早大・文化構想:「

問7 下線g田沼意次が権力を握っていた時代に噴火し、天明の飢饉の一因となった山の名前は何か。漢字で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。」

(答:浅間山)〉


〈2013青山学院・文:「

 冷害による大凶作に端を発した天明の飢饉は、陸奥国を中心に江戸時代最大の餓死者を出した。同じ頃[ ア ]が噴火して大きな被害が出、数年後には関東地方などが洪水の被害で大凶作となった。」

(答:浅間山)〉


〈2012早大・文化構想:「

 1604年(慶長8)には俗に慶長地震といわれる東海・南海地震が発生し、三代将軍家光の治世には[ F ]の飢饉が起きた。西日本の干ばつと東日本の長雨・冷害による飢饉で、5~10万人の餓死者がでたという。18世紀に入ると、富士山の「宝永噴火」が起きる。当時江戸にいた[ G ]は、『折たく柴の記』でその様子を記している。幕府は、小田原藩領のうち被害が大きかった村々を幕領にして、その復興にあたった。また、被災者救済を名目とした国役金を全国に賦課した。

 宝永の富士山噴火と並び、江戸時代で最大級の噴火は、1783年(天明3)の浅間山噴火である。噴煙により日射が妨げられて、前年からの冷害が一層深刻になったうえ、関東では大雨による大洪水も起きた。江戸時代の飢饉の中で最大の餓死者を出したのが、このc天明の飢饉である。


問8 空欄Fには元号が入る。1つ選べ。マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。


 ア寛永 イ寛文 ウ寛保

 エ寛延 オ寛政

問9 空欄Gに該当する人物は誰か。1つ選べ。マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。


 ア山鹿素行 イ伊藤仁斎 ウ荻生徂徠

 エ室鳩巣  オ新井白石

問10 下線部c天明の飢饉に関して述べたものとして、誤っている記述はどれか。1つ選べ。

 ア 被害の惨状は『凶荒図録』などに描かれた。
 イ 米価の急騰により、全国各地の主要都市で打ちこわしが起きた。
 ウ 若年寄の田沼意知が江戸城内で刺殺されたのは、この頃である。
 エ 幕府は凶作や飢饉に備えて穀物をたくわえさせた。
 オ 東日本では、いなごやうんかが大量に関連して大凶作となった。」

(答:問8ア寛永、問9オ、問10オ×うんかの害は享保の飢饉のときでしかも被害の中心は西日本)〉

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