聖火らガボン暴行縛り。
(藤原惺窩(ふじわらせいか))・(林羅山(らざん)・林鵞峰(がほう)・林鳳岡(ほうこう))(柴野栗山(しばのりつざん))
[ポイント]
1.朱子学の京学派は、藤原惺窩→林羅山→林鵞峰→林鳳岡→柴野栗山とつづく。
[解説]
1.江戸時代初期の文化は、桃山文化を受け継いだが、幕藩体制が安定するにつれて、寛永期(1624~1643年)前後に新しい傾向を示し始めた。学問では、室町時代に五山の禅僧が学んでいた朱子学を中心に、儒学がさかんになった。朱子学は君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる学問であったため、幕府や藩に受け入れられた。
2.藤原惺窩(1561~1619)は、京都相国寺(しょうこくじ)の禅僧であったが、慶長の役の際に連行された朝鮮の学者姜沆(きようこう)に学び、還俗して近世朱子学の祖となる。この系統は京都に興ったので京学と呼ばれ、家康に招かれて進講した。
3.その門人の林羅山(道春(どうしゅん))(1583~1657)は京都の生まれで浪人の子。家康に用いられ、羅山の子孫(林家)は代々儒者として幕府に仕えて、学問と教育を担った。家康~家綱4代の侍講で、上野忍ヶ岡に家塾をを開く。
4.その子林鵞峰(1618~80)は、林家を継ぎ、幕政に参与した。日本史に通じ、父羅山と『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』を共著。
5.林信篤(鳳岡)(1644~1732)は、家綱~吉宗5代の侍講で、綱吉の時、聖堂学問所の初代大学頭(だいがくのかみ)となる。
6.柴野栗山(1736~18079は、讃岐国の農家に生まれ、18歳で江戸に出て林家4代目林榴岡(りゆうこう)(信充(のぶみつ))に入門、松平定信に招かれ、寛政異学の禁を建議し、実行した。
〈2016慶大・法
17世紀への転換期、冷泉家の出身で、京都相国寺の禅僧となり朱子学を学んだ儒学者は、慶長の役の際に連行された朝鮮王朝の文臣である[ 30 ]と交流を結び、その学問を体系化して京学派を形成した。その門人には、徳川家康に仕えた林羅山や、私塾・春秋館などを建てた[ 31 ]がいる。さらに、[ 31 ]に学び、加賀の前田氏に仕えた後、[ 32 ]の侍講をつとめ、『武徳大成記』の編纂にも携わった儒学者のもとからは、多くの優れた門人が輩出された。」
(答:30姜沆、31松永尺五、32徳川綱吉 ※原問には83項の選択肢あり。なおこの儒学者は藤原惺窩)〉
〈2016早大・文化構想
江戸時代になると、将車綱吉の時、上野忍ヶ岡にあった林家の孔子廟と私塾が神田湯島に移され、いわゆる湯島聖堂と学問所が発足した。そして、[ F ]が大学[ B ]に任命され、以後、この職は林家の世襲となる。
問2 空欄Bに該当する語句はどれか。1つ選べ。
ア卿 イ頭 ウ正 エ帥 オ督
問11 空欄Fに該当する人物は誰か。1つ選べ。
ア林羅山 イ林鳶峰 ウ林鳳岡
エ林子平 オ林述斎」
(答:問2イ、問11ウ)〉
〈2016明大・政経〉
11代将軍家斉のときに老中首座となった松平定信は、エ儒学のうち朱子学を正学とし、それ以外の学派を異学として聖堂学問所で教授することを禁止した。
問4 下線部エについて、この施策を建言した儒学者は誰か。A~Eから一つ選べ。
A荻生徂徠 B青木昆陽 C太宰春台
D林信篤 E柴野栗山」
(答:E)〉
〈2012首都大学・前期
17世紀前半期の朱子学は幕府や藩に受け入れられた。この時期の朱子学者の一人に,京学派の祖であり、近世朱子学の祖とも呼ばれる[ ウ ]が挙がる。その門人である林羅山(道春)は徳川家康に用いられ,この子孫は代々儒者として幕府に仕えている。
問1 文中の[ ウ ]に入る語句を答えなさい。」
(答:ウ.藤原惺窩)〉
南は行けん 谷の山。
(南村梅軒(みなみむらばいけん)・海南学派)(谷時中(たにじちゅう))(野中兼山(のなかけんざん)・山崎闇斎(やまざきあんさい))
[ポイント]
1.朱子学の海南学派(土佐南学)は、南村梅軒→谷時中→野中兼山・山崎闇斎とつづく。
[解説]
1.戦国時代(室町末期)に土佐で南村梅軒(生没年不詳)によってひらかれたとされる朱子学の一派南学(海南学派)は、谷時中(1598~1649)に受け継がれた。その系統から野中兼山(1615~63)・山崎闇斎(1618~82)らが出た。
2.南村梅軒は、大内氏の家臣。谷時中らを育て、南学の基礎をつくった。
3.谷時中は、土佐の生まれで浄土真宗の僧侶の子。仏門に入り、のち還俗して時中と改め儒者となる。土佐に興った南学を大成した実質的な祖。門からは野中兼山・山崎闇斎らを輩出。
4.野中兼山は、谷時中に朱子学を学ぶ。土佐藩の執政として藩政改革に尽力するも、保守派による中傷に敗れる。
5.山崎闇斎(1618~82)は、京都に儒者として塾を開き崎門(きもん)学派を形成、会津の保科正之に招かれ、のち闇斎は神道を儒教(朱子学)流に解釈して垂加神道を説いた。垂加は闇斎の別号。
6.なお室町時代の朱子学派の一つに同じ南学の名を持つ薩南学派がある。薩摩に招かれた五山(臨済宗)の禅僧、桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)(1427~1508)が朱子学を講じたのに始るもの。しかし、この派は江戸時代に入り衰退した。
〈2016上智大・神外(英)総人(教・心)
G 南学派の儒学者で神道家。a京都の鍼医の息子。土佐の人で南学の実質上の祖といわれるb谷時中に学び。江戸で保科正之に献策する。神道と儒教を融合したc垂加神道を創始した。d『群書類従』と題された読書記録が残る。
問1 Gの下線部a~dのなかには、その人物の説明文に用いる語句としては不適切なものがある。A~Lそれぞれについて、誤っている語句をa~dの中から1つ選びなさい。また、それにかわる正しい語句を、語群から1つ選びなさい。
〔語群〕
1大阪 2江戸 3本居宣長
4新井白石 5吉川 6度会
7『文会筆録』 8『集義和書』」
(答:Gd→7)〉
〈2016慶大・法〉
このように江戸時代になると、外交文書の作成の必要などもあり、徳川幕府に登用される儒学者が現れた。それとともに、儒学者の意見に耳を傾け、それを統治に活かそうとする大名も登場した。例えば会津藩主の保科正之は、神道とともに朱子学を高く評価し、自らの政治理念に取り入れた。また、谷時中に学んだ[ 33 ]は、土佐藩の家老として、新田開発や殖産興業に取り組んだ。
(答:33野中兼山 ※原問には83項の選択肢あり)〉
〈2014明大・全学部前期
東アジアの17世紀から19世紀において、武家政権をトップにもち、世襲の身分制度に依拠した江戸時代の日本社会では、儒教はその本質から離れ幕藩体制の都合にあわせ、ゆがんだ形で解釈された。たとえば、歴史書『本朝通鑑』を編纂した[ 1 ]は、幕府内では僧侶として位置づけられていたし、会津藩主保科正之の信任を得た[ 2 ]は、吉川惟足から神道を学び、朱子学と融合させた垂加神道を説き、江戸時代を通じて影響力をもった。しかし、中国や朝鮮ではこのようなことはおよそ考えられないのである。
問1 空欄1に入る人名として正しいものを、次のA~Dのうちから1つ選べ。
A藤原惺窩 B木下順庵
C林羅山 D中江藤樹
問2 空欄2に入る人名として正しいものを、次のA~Dのうちから1つ選べ。
A貝原益軒 B山崎闇斎
C山鹿素行 D室鳩巣」
(答:問1C、問2B)〉
〈2013早大・文化構想学部
室町時代には、有職故実・注釈研究がいよいよ盛んになり、一条兼良らが活躍した。応仁の乱で室町幕府が衰退し、京都が一時荒廃するなど、中央への求心力が減退すると、貴族や僧侶等のなかには、地方へ赴く者も現れた。彼らによって、c戦国時代には学問やさまざまな文化が地方にもたらされることとなった。
問5 下線cに関連して述べた文のうち正しいものはどれか。1つ選べ。
ア 大内氏の城下町である萩には、雪舟など多くの文化人が集まった。
イ 桂庵玄樹は、朱子の『大学章句』を土佐で刊行した。
ウ 南村梅軒は吉良氏に招かれて儒学を講じ、薩南学派の祖となった。
エ 下野国の足利学校は、宣教師によって「坂東の大学」としてヨーロッパに紹介された。
オ 連歌を地方に広めた山崎宗鑑は、弟子とともに『水無瀬三吟百韻』を詠んだ。」
(答:エ ※ア×萩ではなく山口、イ×薩摩で刊行、ウ×土佐南学の祖、オ×宗祇)
〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン
下線部B(南学)について、つぎのア~エのなかから、南学の系統ではない人物を一人選び、その記号を解答欄にマークせよ。
ア山崎闇斎 イ野中兼山
ウ谷時中 エ木下順庵」
(答:エ 木下順庵)〉
ボクも粗いよ 雨窮鼠。
(木門派(もくもんは))(木下順庵(じゆんあん)・新井白石)(室鳩巣(むろきゅうそう))(雨森(あめのもり)芳洲(ほうしゅう))
[句意]僕も気の荒いハトで通称“雨の森”に棲んでいる、というハト君が友人に続いて自己紹介の句。
[ポイント]
1.木門派は木下順庵にはじまり、おもな弟子に新井白石・室鳩巣・雨森芳洲の3人がいる。
[解説]
1.木下順庵(1621~98)は、初め京都で門人を教育。のち加賀の前田綱紀に招かれ、晩年幕府の儒官となる。5代将軍徳川綱吉の侍講。
2.新井白石(1657~1725)は、木下順庵門下で、6代将軍家宣・7代将軍家継に仕え、正徳の治を行った。
3.室鳩巣(1658~1734)は、医師の子として江戸に生まれる。木下順庵門下で親友の新井白石の推薦で幕府の儒者に取り立てられる。8代将軍吉宗の侍講。
4.雨森芳洲(1668~1755)は、医師の子、生国は近江あるいは京都とも。順庵の推挙で対馬藩に仕え朝鮮外交を担当した。中国語と朝鮮語に巧みで、通詞として日朝交流に尽力。通信使の待遇簡素化については貿易立国の対馬藩の立場から新井白石に反論した。朝鮮語通詞養成所を設置するなど、後進教育にもつとめた。
〈2016明大・商〉
また、ともすると江戸幕府は徳川将軍を「日本国王」と称したり、朝鮮使節の待遇を簡素化するなどして、朝鮮を相対的に低位の国として位置づけようと画策したが、その一方でe【1雨森芳洲 2新井白石 3貝原益軒 4室鳩巣 5木下順庵】(1668~1755)のように善隣外交の立場からこうした動向に反発する人物も存在した。」
(答:e1雨森芳洲)〉
〈2016関西学院大学・全学部
問8 次の文章について、a・bともに正しい場合はアを、aが正しくbが誤りの場合はイを、aが誤りでbが正しい場合はウを、a・bともに誤りの場合はエをマークしなさい。
a.朱子学者の木下順庵は、加賀の前田綱紀に招かれた。新井白石や室鳩巣らは順庵の門人である。
b.前野良沢や杉田玄白は、オランダ語訳の解剖書を訳述して『解体新書』を刊行した。その苦心談は杉田玄白の『蘭学事始』に記されている。」
(答:アa〇、b〇)〉
〈2016早大・教育〉
問6 空欄[徳川吉宗]の政策でないのはどれか。
ア足高の制
イ公事方御定書の制定
ウ蝦夷地の調査
エ漢訳洋書の輸入緩和
オ室鳩巣の登用」
(答:ウ ※田沼意次の政策)〉
〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン
下線部B(南学)について、つぎのア~エのなかから、南学の系統ではない人物を一人選び、その記号を解答欄にマークせよ。
ア山崎闇斎 イ野中兼山
ウ谷時中 エ木下順庵」
(答:エ 木下順庵)〉
〈2012立大・文学部
6.雨森芳洲は木下順庵門下の儒者で、当時朝鮮貿易と銀の産出で豊かな財力を誇り、優秀な儒者を求めていた対馬藩に仕官した。しばらく長崎で中国語を学んだ後対馬に赴任し、朝鮮関係の実務を担当した。朝鮮釜山の日本人居留施設である( ト )にも滞在して、通交の実態についての理解を深めた。第6代将軍〈 そ 〉の就任を祝う朝鮮通信使を迎えるに当たって、〈 そ 〉の侍講で芳洲の同門の兄弟子でもある( チ )は、強引に改革を進めた。芳洲は、対馬藩側の立場を主張して( チ )と激しく対立したが、その後も2人の間には親しい交流があった。また、(9)将軍吉宗の就任祝いの通信使が来日した際に、その製述官(書記官)申維翰(しんゆかん)と芳洲は、日朝双方の体面がかかった局面では激しく対立したが、立場を共有する者同士の深い共感もかいま見せている。彼は主著『〈 た 〉』で、正しい相互理解にもとづく真の友好関係の実現を真摯に説いている。
A.文中の空所(ト~チ)それぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。
B.文中の空所〈そ・た〉にあてはまる適当な語句または数字を、それぞれ対応する次のa~dから1つ選べ。
(そ)a.徳川家継 b.徳川家綱
c.徳川家宣 d.徳川綱吉
(た)a.交隣提醒 b.政談
c.大学或問 d.読史余論
C.文中の下線部(9)将軍吉宗に対応する次の問に答えよ。
問9.吉宗に仕えた儒者を、次のa~dから1つ選べ。
a.野中兼山 b.室鳩巣
c.山鹿素行 d.山崎闇斎
(答:ト倭館、チ新井白石、そc.徳川家宣、たa交隣提醒(こうりんていせい)、問9b.室鳩巣)〉
芝伸びた丘閑散と。
(寛政三博士)(尾藤二洲(びとうじしゅう))(柴野栗山(しばのりつざん)・岡田寒泉(おかだかんせん))(寛政三博士)
[句意]三博士が微糖を使って栗のお菓子を完成した、という句。
[ポイント]
1.岡田寒泉・柴野栗山・尾藤二洲を寛政の三博士という。
[解説]
1.儒官に岡田寒泉(1740~1816)・柴野栗山(1736~1807)・尾藤二洲(1747~1813)を任じた(寛政の三博士)。その後、岡田寒泉は代官に転任し、その後に古賀精里(1750~1817)が任ぜられた。学問所は7年後に官立に改められ、昌平坂学問所(昌平黌(しようへいこう))と呼ばれた。
2.岡田寒泉は、1200石の旗本の次男。松平定信により小普請から幕府儒官に抜擢される。松平定信のもとで聖堂の改革に尽力、代官に転じた後も学問所の講師を兼ねるなど、朱子学振興につとめた。
3.柴野栗山は、松平定信に招かれ、寛政異学の禁を建議し、実行した。
4.尾藤二洲は伊予の人。回船業者の子として生まれたが、足を病み家業を継げず、学問を志す。寛政異学の禁時の改革に伴い、町儒者から抜擢され昌平坂学問所の教官となる。寛政朱子学者の中では理論派として知られる。
5.古賀精里は、佐賀藩士の子。京都で朱子学と国学を学び、大阪に塾を開いた後、帰郷し藩校弘道館の教授に就任。その後の1796年、昌平坂学問所の儒官となった。このため三博士は、岡田寒泉の代わりに古賀精里を加えることもある。
〈2016上智大・法(地球)済(営)総人(社福)
1681年徳川綱吉が生母桂昌院の願いにより、僧亮賢を招き開山させた護国寺は、江戸時代には将軍家の祈願寺であった。しかし、明治以降は一般の人の墓もつくられ、多くの著名人がここに眠っている。(中略)なお近隣には大塚先儒墓所があり、赤穂浪士の義挙をたたえた室鳩巣、( テ )等寛政の三博士の墓がある。立ち寄ってみてもよいだろう。
問12 空欄( テ )に当てはまるもっとも適切な人物は誰か。次の中から1人選べ。
1浅見絅斎 2松永尺五 3野中兼山
4柴野栗山 5木下順庵 6佐藤一斎」
(答:4)〉
〈2014明大・国際日本(国際日本)
問4.史料Ⅰ(本居宣長の『玉くしげ』)が著された年に始まった一連の改革の中で、儒学の一学派が正学とされ、それ以外の学派は、異学として湯島聖堂の学問所での教授が禁じられることになった。この時、学問所の儒官となり、寛政の三博士と呼ばれた人物の名として誤っているものを、下記の1~4の中から選びなさい。
1林述斎 2岡田寒泉
3柴野栗山 4尾藤二洲」
(答:1)〉
〈2013早大・文化構想:「
問8 下線f湯島聖堂の学問所(のち昌平板学問所)で儒官となった、いわゆる「寛政の三博士」のうち2人はどれか。2つ選べ。
ア柴野栗山 イ尾藤二洲 ウ広瀬淡窓
エ室鳩巣 オ山県大弐」
(答:ア柴野栗山・イ尾藤二洲)〉
〈2013同志社大・全学部
【設問h】佐賀藩の藩校弘道館の教授をつとめていたが、寛政8年(1796)、幕府の学問所の教官に招かれた人物として適切なものはどれか。次のうちから1つ選べ。
1.柴野栗山 2.尾藤二洲
3.岡田寒泉 4.古賀精里」
(答:4)
〈2012立命館大・文系A方式
問j 下線部5柴野彦助・岡田清肋に関連して、これらの人物とともに「寛政の三博士」と称された人物として、もっとも適当な人名を下から一つ選べ。
あ 尾藤二洲 い 服部南郭
う 中井竹山 え 安藤昌益」
(答:あ)〉
〈2012中央大・経済
問4 下線部4柴野彦助・岡田清助は柴野栗山と岡田寒泉を指すが、「寛政の三博士」に合まれるもう一人は誰か。解答欄に漢字で書きなさい。」
(答:尾藤二洲)〉